不壊の槍は折られましたが、何か?

ミステリ書評家のブログのはずだが……。

非常階段 日影丈吉

日影丈吉全集〈1〉

日影丈吉全集〈1〉

 ふとした拍子に、それまで意味不明だったものが突然理解できる。誰もが経験することだと思う。
 まあ厳密に言えば、俺はかなりのDQNなので、何事につけても「本当の理解」とは程遠いところにいる。だからそれは、はっきり言えば脳内妄想に過ぎぬ。それでも、霞が晴れたように周りが見通せる、そんな「錯覚」は、私はこれまで何度も覚えてきた。で、面白いことだが、その「晴れ間」は、世評とは何の関係もなくやって来る。

 日影丈吉は、長らく私にとって、どこがいいのかよくわからない作家の一人だった。確かに駄目作家ではないし、光るものは感じられた。だが、それだけだった。最高傑作といわれる『内部の真実』(つい最近読んだが)に接しても、感想は変わらなかった。だが、駄作と言われることの多い『非常階段』を読んだ時、私の歯車と日影の歯車が、かちりと音を立てて噛み合わさった。なぜかは不明。だが、この作品を面白く感じたのは事実である。そして今なら、『内部の真実』『応家の人々』を大いに楽しめるだろう。

 日影の本質は、その流線型のプロットと文章にある。洗練され過ぎていて、内在する精神を知覚しにくい、澄み切った物語。作者は物語のどんな側面もとりたてて強調しないが、同時に何も書き漏らさない。恐らくそれゆえに熱狂的ファンを持ち、同時に一般的な人気が低いのだろうと思う。もちろん「書き漏らしていない」というのはお前個人の妄想だ、と言われれば一言もない。

 『非常階段』は、新人の事務職採用を巡って起きる殺人事件を扱う物語である。起きる事件そのものは何の変哲もない。死体は消失しまた登場するが、とりたてて良い仕掛けが施されているわけでもない。だが、この流麗な筆致を見よ! 企業に「普通に」勤めて、「普通に」生きている人間の悲喜こもごもが、登場人物各人の性格ごとに違った形で、見事に描かれている。
 「淡々と生きる」と言っても人それぞれなわけで、それをこんなに鋭く描ける作家は他にいない。いるのかもしれないが少なくとも俺は知らん。

 でも、こういう作風なら、長編より短編が得意かも。『日影丈吉全集6』に手を付けるのが今から楽しみです。