06:42

秋谷佳宗(あきたに よしむね)の戦いぶりをさして「踊りのよう」と表現する連中は、当然彼のもう一つの顔を知っているからそういうのだろう。しかしそれを差し引いたとしても背筋が常に伸びて安定した下半身の動きは優雅な印象を見るものに与えた。しかしそれは今は見られない。普段ならば足さばきを多用して位置を変えながらの戦いが得意な秋谷であったが、今はただ両足を止めて怪物の群れを押しとどめていた。
鉄剣を一閃そして一閃する。その都度に目の前にいる青鬼の頚動脈、目、鎖骨といった一撃で戦闘不能になる個所に黒い穴がうがたれていく。効率を重視して軽く小さく当てている剣先はムチのようにそこにあるべき肉をえぐっていった。本当だったら一撃で行動不能にしなければならないのだが、こうも数が多いと――見上げた視界、激しい動きでかなり吹き散らされた白い霧の中に赤い光点が数え切れないほどに光っている。とにかく戦闘不能にし放置し、失血死を待つしかなかった。当然そいつらはじたばたと暴れるので邪魔になるがそれは仕方がない。
ぐん、と下半身が重くなった。機械的に目の前の一体の喉、利き手親指の筋を切り飛ばしてから視線を足元に送る。右足首に瀕死の青鬼が噛み付いていた。放置したツケがこれだ、と暗澹たる気分になる。経験があるが、最後の力を振り絞って噛み付いたこの化け物のあごを外すのは難儀だった。一歩下がって壊すか、そう思い威嚇のつもりで眼前の赤鬼を袈裟懸けに切り下ろした。防御が間に合わない一閃はその毛むくじゃらの身体を斜めに両断する。押し寄せる勢いがやみ、その死体のまわりに空間が生まれた。
さて、と視線を再び足首に送った瞬間にその頭部が壊れた。銀光を追うと怪物の群れに視線を置いたままの野村悠樹(のむら ゆうき)がいる。この戦士は隣りで戦っている自分の異変に気づいていたのだった。そしてあっさりと怪物の頭部を破壊してのけた。助かった! と声をかけると野村は口の端だけで笑った。その顔は返り血で真っ黒になっている。口の周りだけが肌色なのは、無意識にその血を舐めとっているからだ。怪物の血だと思わなければその適度な塩分は意外に美味なのだった。やれやれ、これじゃどっちが化け物かわからないな。
「焼くよ! 下がって!」
アマゾネス部隊の女魔法使いの声。ようし一息つけるか、と後退しようとした足がとまった。見下ろせば今度は二匹の化け物がしがみついている。ぞっとした。
カウントは進んでいる。ちょっと待て、と声をかけたが止まらない。もう神田絵美(かんだ えみ)は集中に入っているのだ。自分の責任で術の効果範囲から逃げ出さないとならなかった。しかし足が動かない。
「――ファイヤー! ちょっとヨシムネ! なにやってるのよ!」
最後のカウントで目を開いたのだろうか。神田の悲鳴が聞こえた。しかし発動した術はもう戻らない。真っ白い霧が顔に押し寄せてきた。かすかに熱を伴っているそれが高熱の水蒸気のように思えた。そしてオレンジ色の炎。間に合わない。自分は巻き込まれる。
下半身が炎に飲み込まれたが不思議と熱さも痛みもない。そんなものなのかな、と思う。そして中央の炎柱から伸びた炎のムチが人間の手になって自分の肩を掴んだ。これが死神の腕か、とどこか待ち望んでいたような気持ちで納得した。これは最後の、そして自分の人生で最大級の経験だ。よーく目を見開いてしっかりと見よう・・・。
「ヨシムネ! ヨシムネ! 朝だよ! 寝るなら部屋で!」
夢の中の動きと連動しているのか、開いた視界に見覚えのある顔が飛び込んできた。先ほど夢の中で自分を焼き殺してくれた女魔法使いだった。夢とはいえ死を体験したその衝撃でぼんやりしている頭で、迷宮出口の詰め所の一角を見回した。昨夜、予想もしなかった反攻をなんとか撃退してから彼ら最精鋭の戦士たちも地上で待機を命じられた。どうやら椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。
窓からは陽光がさしこんでいる。時計を見たら七時少し前になっていた。
「神田さんおはようございます」
おはよう、と魔女はコーヒーのカップを差し出した。ミルクと砂糖がたっぷり入っていて甘い。疲労が抜けていく気がした。次いで状況を質問する。あれから二度目の攻撃はなかったの? なかったという言葉にうなずいた。総数200匹以上の攻撃は、防衛に当たった二部隊の奮戦、そして瞬間移動の魔法で救援に駆けつけた自分たちの働きでその半分近くを殺してのけた。縦穴までの道はたいへん歩きにくいことになっている。視界の悪さに比べて大量の屍骸が散らばっているからだ。
「あれから誰か死んだ?」
ううん、と神田は首を振った。結局昨夜の死者は、化け物の集団に襲われた当時の防衛メンバーである佐藤良輔(さとう りょうすけ)、内藤海(ないとう うみ)、長田弓弦(おさだ ゆづる)だけということだ。あれだけの熱戦の割には被害は軽微といってよかった。とはいえ先日進藤の部隊に加わったばかりの長田はともかく、第二期では屈指の戦士と魔法使いである佐藤と内藤の死は今日からの作業にとって痛かった。
「湯浅、真城両部隊はとりあえず一五時に再集合だって。もうみんな部屋に戻ってる。普段モルグを使っている人は申し出れば個室のお金を払うって。まあ六階の部屋の金額じゃないんだけどね」
秋谷は立ち上がって伸びをした。解散の前にそういう説明があったのなら起こしてくれればよかったのにと言うと神田は微笑んだ。
「すごく安らかな寝顔だったから寝かせておこうと思ったの。なにか夢を見ていたの?」
回答は期待していないらしく部屋を出つつある背中に答えた。死んだ夢だよと。神田の動きが止まった。
「――安らげる夢だね。じゃあまた午後に」
 

 06:53

仲間の死には慣れている。地下は自分たちにとってあまりに過酷であり世の中には運不運というものが歴然としてあるからだ。しかし安置室に並んだ三つの屍を前にして津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はやるせない思いを抑えられなかった。理由はいろいろあったが、最大のものはそれが自分の不在中に起きた死であることだろう。精鋭四部隊の一角として本日の護衛に備える意味で津差は昨夜十分な睡眠を命じられて従っていた。彼らが死んだとき津差が何をしていようとその運命は変わらなかったにせよ、その死の瞬間自分は惰眠を貪っていたという意識は心の奥で罪悪感という名の毒を湧き立たせていた。しかしそれよりも根源的な問題があった。津差は安置される死体の前で両手を合わせると、顔を覆う白布をとりあげる。頭蓋を割られたというその顔は、しかし血をぬぐい裂けた部位をつなぎ合わせた今では造形に異変を感じることはできない。青白く血の気の引いた様子からさすがに生きているようには見えないが、なんだかよくできた人形のように思えた。
安置室の扉が開いた。津差さん、と声がする。昨夜の襲撃を生き延びた太田憲(おおた けん)だった。襲撃を撃退したあと部屋に戻りこれまでずっと眠っていたのだろう。少しやつれはしても疲労は感じられない表情に頷いた。そして頭を下げた。それまでずっと一緒にやってきた仲間のはずだった。それなのに、もっとも危険な瞬間に自分は眠っていたのだ。
一度下げてしまうともう頭があげられなくなった。そんな肩に太田がそっと手を置いた。
「立派だと思いますよ」
顔だけあげてその顔を盗み見る。三つの死体を眺めるその表情には少なくとも悔恨は見られない。
倉持さんが奴らの接近を感知してから、アマゾネスたちが飛んできて後ろから挟み撃ちにするまで1分30秒でした。相手は200匹以上いました。1分半も俺たちは持ちこたえたんです。これくらいの犠牲者は少ないってものじゃありませんか? そして、一番役に立ったのがあの二人です。津差さんは――
太田は男にしては小柄だった。だから頭を下げても自分の方が少しだけ視線が高い。どうしても相手を見下ろしてしまうこの体格を、今はものすごく疎ましいものに感じる。
津差さんはずっと海を信用していませんでしたよね。あいつは確かにふらふらしているところがあった。詩のためにこの街にいるって言いながらもじゃあどうやって詩で稼ぐのかってのが俺たちにはまったく見えなかった。多分本人もわかっていなかったんじゃないかな。何のためにこんな危ない場所に来ているのか、是が非でも生き延びて達成したい目的はあるのか、津差さんはそういうことで不安に感じていたでしょう。生きることへの執念がない仲間はいつか落とし穴になるものだと思っていませんでした?
言い当てられ津差は愕然とした。自分では隠せているつもりだった。しかし態度の端々にもしかしたら現れていたのかもしれない。少なくともこの男が正確に読み取ったくらいには現れていたのだろう。それではもしかして本人にも悟られていたのだろうか。
いなかった、と考える理由はなかった。屈託なくジョッキをぶつけてきた数日前の顔を思い出した。自分に信頼されていないと実感していながらあの笑顔を向けていたのだとしたら、内藤の心にあったものはなんだったのだろう?
昨夜の三人の死の原因に、海の不覚悟というものはありませんでしたよ。うん、少なくとも――と太田は続ける。
「少なくとも、夕べのあいつは認めてやってほしいな。あいつが頭を割られたのって接近戦が始まってすぐ、横穴を伝った奴に殴られたんです。それからずっと気にもしていないように術を使いつづけ、治療術師が誰も気づかないくらいだったんだから。そして神田さんの術が炸裂して援軍が来たとわかってようやく倒れた。勝手な想像ですけど、殴られた時に助からないってわかったんじゃないのかな。だから治療のために術を使わなくなる瞬間を惜しんだ。あいつと佐藤がいなかったら真城さんたちは俺たちの死体とご対面でした」
津差はしばらくの間、二人の遺体を眺めていた。そういうことじゃないんだ、と言い返したかった。自分が危惧していたのはまさにこれだったのだと。自分こそが生き延びようという気持ちの希薄さが、他の人間を生かすための無茶につながるのではないかという恐れだったのだと。そしていまその通りになった。すぐに治療すればもしかしたら治ったかもしれないのに、そして誰でも即座の治療を要求する権利があるのにそれを行使せずに死を受け入れる。確かにその行為によって他の八人が助かったのだろう。戦局全体を掴んでいた太田がいうのだからそこに間違いはないはずだ。だけど自分が死んでしまってそれでいいのか? と問いたい。特に内藤には問い詰めたかった。津差は妹と会っているのだ。兄を心から心配する瞳を見ているのだ。
しかし言葉にならない。昨夜自分はそこにいなかったのだから。すべてがただ悲しかった。
静かに太田の名を呼んだ。
「遺族への連絡は俺がするから」
「お願いします」 ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。受取る指先、体格に似て太いそれがかすかに震えた。表面に現れた動揺はそれだけだった。
 

 07:08

葵ちゃん! と嬉しそうな声がして真壁啓一(まかべ けいいち)はそちらを見やった。そこにはそろそろ壮年を過ぎようかという男性が一人立っていた。笠置町葵(かさぎまち あおい)に向かって笑顔を向け久しぶりだなあ、大きくなってと肩を叩いている。葵もそれに嬉しそうに笑顔を返していた。どこから見ても和やかな再会の風景、だから真壁があとじさり葵の双子の姉にぶつかったのはシチュエーションの問題ではない。キャラクターの問題だった。
「どうしたの?」
こたえようとして言葉にならず、視線を二人の方に送った。ああ、と納得したようだった。
「お父さんのお友達の奥島さん。事業団の理事でもあるんじゃなかったかな? 今日明日は手伝ってくれるんだって」
そして少し眉をしかめた。そういえば、真壁さんの日記に登場してたじゃない。
嘘だろ、と苦笑した。いくらなんでもこれほどの存在感の男性とすれ違えば気づくはずだ。日記に書くほど近くにいて覚えていないなどありえなかった。
「書いてあったってば。うちのお父さんより強い生き物がこの世のどこかにいるんだろうなって。奥島さんがそうだよ」
呆然としてその男性を見つめた。彼は何かがぎっしりと詰まった布袋を常盤浩介(ときわ こうすけ)、児島貴(こじま たかし)に持たせているところだった。視線がこちらに向き手招きされる。背筋が自然にぴんと伸び駆け寄った。
「お兄ちゃんもこれ持っていってくれな」
渡されたそれはずっしりと重い。中を見ていいですか? と尋ねたらあっさりとうなずかれた。
おそるおそる袋の口を緩め覗き込む。中には使い古されたゴルフボールが大量に入っていた。
あー奥島さんだと聞きなれた声が近づいてきた。笠置町姉妹の従兄にして本人も優れた戦士である水上孝樹(みなかみ たかき)がこれまたツナギ姿で歩いてくる。お久しぶりです、と深く礼をしてから笑顔を見せる水上に怪訝な思いをした。もっとこの人にはプレッシャーを受けたはずだ。向かい合うだけで手のひらに汗をかくような。それがこの男性の横に並ぶと子どもも同然に思えた。
 

 09:24

昨日から全てが信じられないことばかりだった。場所に限定して発生する、自分の手のひらも見えなくなってしまうような白い霧、それが一つの地帯だけにわだかまって動かないこと。噂では聞いたけれど、本当に人間以外の二足歩行の化け物が剣を持って襲い掛かってくること。それを眉一つ動かさず切り捨てる人間がいること。自分たちでは何人がかりでも持ち込めない重量になっている機材箱をたった一人が担いでくること。北酒場という居酒屋でオススメの料理を教えてくれた青年が、その二時間後には死んでしまったということ。中年女性が「いきますよ」と言った瞬間に周囲の風景が豹変したこと(瞬間移動だという!)、自衛隊員が一般人の指示に従って作業用ライトの設置を行うこと。そして今、自分たちの耳に間断なく鉄と鉄がぶつかり合い苦痛と怒りと絶望を含んだ悲鳴が聞こえてくるこの状況。全てが信じられないことばかりだった。いや、ちがう。信じたくないのだ。もういい。早くこの場所から出て行きたい。でないと頭がおかしくなりそうだ。明後日は作業予備日? 勘弁してくれ。今日中にでも終わらせてやる。
誰も私語を交わさず妙に作業効率がいいのは全員そう思っているからかもしれない。
 

 09:42

間断なく化け物たちは押し寄せてくるが通路の広さには限界がある。三部隊九人の戦士が並ぶと二〇mあまりの通路を全てふさぐことができた。陣形としては前衛で防ぐもの、傷ついたら交代するもの、さらに予備として九部隊二七人の戦士たちが順番に戦闘し、タイミングを見計らっては術者たちが最前列の直後まで上がり術を放つようになっていた。本日の作業の眼目である第三層、工事が開始されてからすぐに開始された怪物たちの反攻は第一層のような人海戦術とは違い統率だっており、互いをカバーしつつまた治療術師もいる敵との戦いは否応なく膠着するものと思われた。それは問題ではない、と黒田聡(くろだ さとし)は思っている。一つには自分たちの目的は工事が終わるまで時間を稼ぐことだから長期化はむしろ望むところだということ、そして一つは今日から加わった助っ人である。奥島幸一(おくしま こういち)という事業団理事でもあるその男性は、この街の戦士ならば否応なく気づくその力を持ちながらも「今日は剣を使う気ないんで、お前ら頑張れよ」 と言ってのけた。冗談なのか? 同じ人間を助ける気がないと? その不満も相手が悪く誰も言葉の真意を確認できないまま最初の襲撃を迎え撃ったとき、ようやく奥島が何を言いたいのかわかった。
彼は都合七つもの布袋を足元に置き、珍しい鉄製品をリュックから取り出した。アルファベットの『Y』の字をかたどった金属製の棒、Yの字の二股の先端を太いゴムがつないでいる。子どもの頃はよくこれでカラスやスズメや幽霊屋敷と噂される家のガラスを狙い打った、いわゆるパチンコだった。しかし懐古の玩具に違和感を与えているのはそのサイズだった。黒光りする金属製の棒は野球のバットの握りほどの太さがあり、伸びる両肢の長さは大人の肘から手首ほどもある。重量はゆうに20キロを越すだろう。ゴムバンドは以前経験したパラグライダーの命綱ほどの幅があった。それを無造作に持ち上げ、布袋を二つ(これも、探索者の男たちが両手で担いだものだ!)肩がけにした。
ゴムバンドが空気を切り裂き叩く音は広い迷宮の両端の壁に反響した。そして迫り来る怪物たちの中、そびえる緑龍の頭が一つ消滅した。頭ではわかる。頭では、このちょっと大げさな玩具から弾き飛ばされたゴルフボールが緑龍の頭部を粉砕したのだとわかる。しかしどうしても信じられない。黒田はかつて、探索者の一人星野幸樹(ほしの こうき)が同じく緑龍の頭を拳銃で撃ったところを見たことがあった。そのときは、緑色のキチン質の皮膚に小さな黒点がうがたれただけだった。拳銃ですらこのように消滅どころか破裂すらしていなかったのに。
それ、拳銃並みですか? 呆然として訊く。馬鹿言っちゃいけないよと答えが返ってきた。銃弾ってのは空気抵抗を考えられた形状だから、遠距離になればなるほど鉄砲の方が有利に決まってるじゃないか。まあ初速は俺のパチンコのほうが速いけどな。
背筋が凍る。それを危険を知らせる感覚がかき消した。ゴルフボールの雨をかいくぐった敵がすぐそこに迫ってくる。緊張と恐怖を実感しながらもしかし気分は昂揚していた。先方がどんな戦術を選択しようとも治療術師が怪我を回復させようとも、こっちは無慈悲に数秒に一匹ずつ即死させる男がいる。あとは目の前の敵を防ぎ後背を守るだけだ。訓練された大型犬の頭を叩き割った。
 

 11:04

一体何匹いるのか。数度の突撃を受け止め跳ね返し、疲労で朦朧としている頭で思った。隣りでやはり肩で息をしている笠置町翠(かさぎまち みどり)が「ちょっとごめんなさい! 休ませて!」 と叫んだ。俺もそろそろ休むか。しかし理事の娘が抜けて弱体化するわけだから、自分と同等に頼れる第一期の戦士が必要だった。後ろで待機しているのは誰だ? と声をかけると「光岡です!」 と第一期の戦士が名乗りをあげた。悪くはないが、もうひとふんばりかな。せめて隣りの戦士に誰がくるか確認してから――
肌が総毛だった。しかし嫌な感じはしない、警戒でも恐怖でもない、単に肌が異常を伝えてきた。その違和感に耐え切れず、目の前のネズミ面に鉄剣を叩きつけてからちらりと横を見た。そして横の戦士と視線が合った。
そうか、と納得する。
お前にはエーテルを無意識に利用する才能があるという説明は受けていた。無意識にというくらいだから本人にその自覚はない。しかし訓練場では自分と同レベルの仲間たちが苦戦する化け物に自分はまったく苦戦してこなかったその事実は不思議に思っていたから、その説明を聞いて「ああ、そうだったのか」 と納得したのは確かだ。それでも『迷宮内では最強の』という言葉は失礼だと思う。とにかく今までその才能を理解はできなかったのだ。それが覆った。
隣りにいる男は真壁の部隊の戦士で青柳誠真(あおやぎ せいしん)という名前だった。よく話したことはなかったが、副業が僧侶という変り種の一人だ。彼も自分と同じ種類の才能があると聞いていた。その彼が隣りで臨戦体勢になった瞬間にわかったのだ。自分と隣りにいる男の才能が。
肌がピリピリとしている。空気中のエーテルが全て自分たち二人に集まってくる気がする。振り下ろす剣が妙に軽く感じられる。そのくせ迎え撃った鉄剣を叩き折った刀身は腰まで化け物を切り裂いた。その一撃に、続こうとしていた化け物が後じさり攻勢が一瞬やんだ。
「青柳さん! 大変なことが起きてますね!」
「まったくです! 次からはぜひ同じ部隊になりましょう!」
これまでの仲間への義理もしがらみもない。自分たちはまとまって行動すべきだと心から思った。しかしその昂揚感をかき消して警告がもたらされる。先ほど受けた左腕への切り傷の痛みがなくなっていた。まずい、とぞっとする。あまりの興奮状態でいまは痛みを忘れてしまっているらしい。いくら身体が調子よく感じられても、痛みすら判断できないようでは好ましい状況ではない。代わり時か、とちらりと傷口に視線を落とし、そして絶句した。
ツナギを切り裂かれ補修の布地をあてることもしないまま戦っているそこには浅いが広い切り傷があるはずだ。しかし今見下ろすと、それは完全に治癒していた。血で汚れた中、うすいピンク色の皮膚が復活している。誰かに治療されたか? いや、基本的に要請しなければ治療されないはずだった。その答えは身体を駆け巡る活力がおしえてくれた。この身体は、軽い治療術並みの回復力を持ちつつある。それもこれも隣りにいる戦士との相乗効果だった。他には考えられない。
突然その感覚が消えうせた。愕然として隣りを見る。
第一期の戦士の一人がもと僧侶の身体を引きずっていた。首筋からは大量の出血。怪我の具合を調べるまでもなく黒田は何が起きたのかわかった。あのぞっとするような、半身を引きちぎられたかのような喪失感。
鉄剣を振る腕が重い。疲労は相変わらずのはずで、いま彼を襲っているのはなまじ経験した絶好調の反動だった。俺も死にかねないな、と冷静に思い誰が待機しているかを後背に問うた。「津差」と返答は短く力強い。交代! と叫んで巨人とすれ違った。
同じ部隊にはなれなかったな、と一瞬だけ残念に思った。
 

 12:59

熱意に満ちた顔が再び意見を上げに来た。この男は、とその正義感は好ましく思いながらも苛立ちを抑えられない。星野幸樹(ほしの こうき)は部下にあたるその士官を睨んだ。
「俺たちにも防衛に加わる許可をください!」
かましい、と取り付く島なく無視する。この場ではあいつら探索者のほうがお前らより強いって事実を認めろ。
しかし彼らも国民でしょう!? というその声はもう悲鳴に近かった。彼らが命をかけているのに――壁際に積まれ、保護色のカバーがかけられた小山を見て言葉が詰まった。手を伸ばしてその襟首を掴み、顔のぎりぎりまで引き寄せる。うろたえる表情を睨み据えた。
銃剣道でなんとかなる相手じゃねえぞ? お前らが貢献するには銃を使う必要があるが、お前が懐に持ってる銃も弾も火薬もお前のものじゃねえんだよ。任務に使うために国から貸されたものなんだ。そして任務にはあいつらの命を守ることは入っていない。こんなことで弱音吐くな」
そして乱暴に突き飛ばす。
「その弾は探索者の壁が崩れた時に使うもんだ。そしてそのときはまだ俺たちの中でまだ生きてる奴らがいても気にせずなくなるまで撃ち尽くせ。今吼える力があったらその覚悟練っとけ」
「星野さん、今のは失言ですよ」
聞きなれた声に視線を向けると二人の男が歩いてきていた。ツナギは返り血に汚れているがまだまだ二人とも無事な様子である。片方は第二期の戦士の一人で真壁啓一(まかべ けいいち)、もう一人は理事の甥だとかいう水上孝樹(みなかみ たかき)という戦士だそうだ。水上とは初めて会話するが、身のこなしからわかるその実力に背筋が伸びた。士官を突き飛ばすと彼は来客に遠慮して立ち去っていった。
「『俺たち』の中でまだ生きている奴、って星野さんを探索者に数えないでください。星野さん撃ち殺していいわけないでしょ。今は迷彩服着ているんだから、あくまで自衛隊のボスとして設置工事を守るための判断してくれなきゃ」
おどけた言葉と裏腹に真壁の顔は真剣そのものだ。状況が悪いことを実感しているのだろう。
猛攻が始まってから二時間が経った。一向に勢いは弱まることもなく、理事はすでにゴルフボールを撃ち尽している。今はそのかわりに鎖につけられた分銅を振るっており、その分銅はゴルフボールのスリングショットよりも多くの化け物を殺していた。津差ですら大なり小なり怪我を負い何度か交代している中で理事だけが疲れる様子もなく淡々と戦闘を続けている。『人類の剣』という超常の存在の恐ろしさを実感する思いだった。で? と真壁に問う。茶飲み話をしに来たのなら水筒を取ってくるが? 水分と栄養補給はしっかりと義務付けられている。真壁は首を振ってから水上を見た。水上が一礼して口を開いた。
「五人貸してもらえませんか。地下の探索に慣れて腕の立つ人間を」
いぶかしい表情で先を促す。
「この状況は明らかにおかしい。もう私たちはかれこれ千匹以上は地獄に送っているはずです。敵の構成も変化してきて、明らかに子どもであったり非戦闘職であるひ弱な化け物も現れはじめている。相手の判断には足し算も引き算もないような気がします。この戦争に関しては」
それは星野もおかしいと思っていた。出がけに商社の技術者に話を聞いたところ、怪物たちの体のサイズ、移動手段、地下だから耕作などできない環境などを考えて一層につき全てのコミュニティあわせても三〜四万程度だろうと推測されていた。未開部族だからそのうちの戦闘階級が二五%だとしても七千五百〜一万匹。もちろん推測が外れている可能性はあるが、もし当たっているとしたら戦闘階級の一割以上を失っていることになる。そんな戦争を続ける指揮官がいるはずがない。絶対に退けない理由があるのではないか? しかしそれがわからない。水上は壁面の一つを指差した。
あの横穴は化け物が出入りできるサイズだけど、あそこからはまだ誰も出てきていません。そして私の勘が告げているんです。あの奥に何かあると。なにより防衛地点からゴンドラ設置場所までの壁面で怪しいところってあそこだけですから。とりあえずあそこの横穴を広げてもう少し調べてみたいと思います。でも私には探索の経験がほとんどない。戦うことならできますが。だから、その経験を持った人たちを五人貸していただけないでしょうか。
星野は考え込んだ。横穴の奥に何かこの事態を打破する可能性があるとは限らない。しかしないとも限らない。その為に第三層を探索できるような人間を一時的にせよ防衛線から裂くのは難しい判断だった。しかし悩んだのは一瞬だけ、隣りで紹介者たる自分の役目は済んだと、防衛線にちらちらと視線を送っている男を見た。突然自分の名前を呼ばれて真壁は驚いたようだった。
「お前が率いろ。最精鋭部隊のリーダーを動かすわけにはいかないが、パニックになるような奴にも任せられん。お前と水上さん、あと四人選べ」
冗談でしょ、という言葉を眼光で黙らせる。真壁は一瞬だけ呆気に取られたようだったがすぐに表情を改めた。
「葵、常盤くん、児島さん、――南沢さん」
「翠ちゃんは連れて行かないのか」
水上の声は責めるでもいぶかしむでもなく淡々としている。
「後衛には完全に安心してもらわなければいけません。あの横穴は入り口さえ広げれば中は広いようでした。であればサイズの大きな前衛が後衛に安心感を与えます。津差さんか南沢さんで考えれば明らかに頼れるのは――」
説明の言葉は流れるようだったが、それが突然途切れた。苦しげな表情は小刻みに震えていた。
「すみません。四人には本当に申し訳ないと思っています。――でも、俺たちのほうが危険だって気がするんです」
視線を斜め下に、言葉を搾り出すように。そんな場所に翠を連れて行きたくないんです。すみません。そして視線をあげた。
「俺にはリーダーはムリです。俺の代わりに、たとえば黒田さんとか」
星野は頭をかいた。
「その言葉だけでもお前を推すよ、俺は。お前は私情と効率を結びつける方法を知っているみたいだ。基本的にずるいんだろうな。そして、そういう奴じゃないと危なっかしくて任せられん」
そして水上に視線を移した。
「五分で準備を整えます。それで宜しいですか?」
水上は満足げに頷いた。じゃあ五分間支えてきます、と呟くと軽い足取りで防衛線へと向かっていった。真壁は緊張感が途切れたかのようにその場に片膝をつき、しかし懐からは地図を取り出した。
 

 13:00

完成! 嬉しそうな声に、油断なく濃霧地帯に置いていた視線を後ろにやった。事業団理事で優れた魔女である笠置町茜(かさぎまち あかね)が設置なったゴンドラの中で笑っている。すでに第一層の工事は終わっており、その場には進藤典範(しんどう のりひろ)が指揮する護衛一部隊と理事しかいなかった。そのせいか、昨夜のような組織的な攻撃どころか遭遇さえ起きなかった。
おいでおいで、と招き寄せる手に駆け寄った。
ゴンドラは天井に取り付けられた滑車にぶら下がっている。ぶら下げる部品はイメージ画では鎖だったが、実際には太いワイヤーとなっていた。それはいい。視線を下にずらしていく。ワイヤーは八本に別れゴンドラの上部八点をつなぎとめていた。その接合部分で怪しくきらめくのはこの迷宮特産の石。理事たちが馬車馬のように働き、精鋭四部隊が自分たちの装備を後回しにして供出して集めた石はふんだんに使用されてこの設備を護っている。それはいい。問題は、と改めてゴンドラを見やった。
ゴンドラの基本の色調は、緑。少し潰れた球状をしたそれは、ワイヤーと結びついている八点それぞれを頂点とするふくらみを備えていた。およそこの国で暮らすものならば見失いようのない、それは野菜の一つかぼちゃの形をなしている。乗降口には両開きの扉がついておりそれにはロココ調の細工が施されていた。ゴンドラ内部から外をうかがう窓ガラスの縁取りも金色のツタ模様。そして極めつけはゴンドラ下部に取り付けられた四つの車輪だった。
何度見ても納得ができない。自分は今後これに乗ることになるのか? 本当に?
自問自答している進藤をよそに、仲間の倉持ひばり(くらもち ひばり)が声をかけた。彼女は理事の親戚にあたるという。
「茜おばさん、これってやっぱり一二時過ぎるとカボチャに戻っちゃうの?」
理事は眉をしかめて首を振った。ほんとはそうしようと思ったんだけどね。もしも時計が狂って誰かが乗っているときに一二時だと判断したら、何人ぶんかのプレス死体が出来上がっちゃうからね。にっこりと最高級の笑顔にぞっとしてあいまいな微笑を返す。
じゃあ入って、と皆を手招きした。五人がぞろぞろと入っても内部は狭苦しくは感じなかった。さすがに外見はカボチャの馬車に似せたとしても、内部にはクッションなどはつけられないらしい。金属を剥き出しにしたベンチは地下の空気に冷やされて、ツナギ越しにもひんやりと冷気を伝えてきた。斜め向かいに座った進藤にこりゃ、座布団がいるねと話し掛けた。
「もっと光を!」
理事が呟くと天井のライトが蛍光灯の光をともした。おおおと五人から拍手が響いた。次いで理事は、夏は夜! と呟いた。モーターが起動する音が鳴り響き、機械の暖気が始まったことがわかった。
「各階に移動するには合言葉を使います。枕草子の序文、春夏秋冬のフレーズね。第一層から第四層にあわせて覚えておくように。各階からゴンドラを呼びたいときは上へまいります、下へまいりますのどっちでもいいわ。でも気分出して言ってほしいな」
暖気が終わったのか、本格的にモーターが回転する音が始まった。そして一度の衝撃の後ゆっくりとゴンドラが降下していった。再び五人の間から拍手がわき起こる。倉持は窓から下を眺めた。各層の高度差は数メートルしかなくすぐに第二層の上空に出た。驚いたことに第二層では本日の予定であるタラップはおろか、明日の予定だった防護のための柵まで完成していた。ゴンドラから見えるところにまで怪物たちの死体が転がっているところから一時は危なかったのだろうと推測できたが、今は全てがゴンドラを見て歓声を上げているようだ。懸命に数える。60人がそこに並んでいた。第二層の警備についていた探索者はほとんど第二期で13部隊78人。死者は12人だろうか。被害は決して少なくはない、しかし満足していい結果だと思う。
 

 13:06

ちょっと、ごめん。呼ばれてやってきた南沢浩太(みなみさわ こうた)はそう断ると床の上に大の字になった。たちまちのうちにいびきをかき始める。その姿に真壁啓一(まかべ けいいち)は自然と頭を下げた。自分が無茶を言っていることがわかったからだ。
大きく伸ばされた四肢、ツナギはすでに補修の布をさらに補修するようにボロボロになっていた。それだけ防衛線の最前線にいることが過酷なのだが、それよりも先に理由があった。
現在第三層に展開している部隊は第一期をほとんどとする12部隊72人。その中に、第四層まで到達している精鋭四部隊と呼ばれる部隊は二部隊しか加わっていなかった。真城雪(ましろ ゆき)、湯浅貴晴(ゆあさ たかはる)両名が率いる部隊は昨日未明の第一層での反攻に対して援軍として駆けつけ、その後大事を取ってその二部隊は詰め所で常駐していたのだった。各人のツナギは現在鍛治棟で修復され、15時に再び両部隊は集結する。それまでは休息をとることが彼らの任務だった。湯浅の部隊は秋谷佳宗(あきたに よしむね)、内田信二(うちだ しんじ)、小笠原幹夫(おがさわら みきお)栗村真澄(くりむら ますみ)、西谷陽子(にしたに ようこ)、そして湯浅の六名。アマゾネス軍団は真城、落合香奈(おちあい かな)、神田絵美(かんだ えみ)、野村悠樹(のむら ゆうき)、鯉沼今日子(こいぬま きょうこ)、そしてここにいる南沢浩太。この巨人は詰め所での仮眠を泥と返り血で汚れたツナギでとっただけで今日の八時半の集合に現れたのだった。さすがに心配した高田まり子(たかだ まりこ)、星野幸樹(ほしの こうき)両リーダーが同行を拒否したものの肯んぜず、黒田聡(くろだ さとし)の「ここで口論していたら、真城さんたちがここにくるまでこの人は帰りませんよ。そしてアマゾネスたちが来たら当然の顔をして降りてくるだけです。いま、休むってギアはないみたいです」 という言葉にしぶしぶながら同行を認めたのだった。正直なところ、星野の部隊は先日越谷健二(こしがや けんじ)という超一級の戦士を失い新たに仲間にした狩野謙(かのう けん)にはその代わりとしてはまだ不安なところがあったので助かるといえば助かる。それに津差龍一郎(つさ りゅういちろう)といいこの男といい巨大な肉体には周囲に安心感を与えるだけの力強さがあった。
甘えているのはわかっている。しかし、ただでさえ不安な自分の指揮で不慣れな闇の中を進むのだから、他人を思いやる余裕は自分にもなかった。本人が大丈夫だと言うのだから甘えるしかないと思っている。
「真壁さん」
いつのまにかそばにきていたらしく、固い表情をした笠置町葵(かさぎまち あおい)が自分を見上げていた。事情は訊いた? という言葉にうなずきが返ってきた。すまない、危険だと思うけど一緒に来て欲しい。その言葉に葵は私は平気だけど、と相変わらず表情が固い。
「どうして翠を外したの?」
用意した回答を読み上げようとして動きが止まった。ここで嘘を言うようでは信頼されない、と思ってしまう。それは即座であるべき自分の指示に逡巡を与えるかもしれない。なにを言われてもいい。自分についてきてくれる人間に嘘は言いたくない。両目をまっすぐに見た。作業員のガスバーナーの光が葵の顔半分を照らした。
「俺のわがままだ。危険なところに連れて行きたくなかった」
葵はじっと自分を見つめたまま動かない。数秒して大きく息を吐いた。翠、きっと怒るよ。真壁はうなずいた。
「やだからね私。お願いだから真壁さん帰る日までには仲直りしてよね」
まずは生きて帰ろう。そう答え、騒がしいブーツの音に顔を向けた。残りの三人が小走りにこちらに向かっていた。
いびきがやんだ。かと思うとそこには190センチちかい筋肉の塔が立ち上がっていた。少なくとも、と葵が呟いた。
「どういう理由があろうとも、今に限っていえば前衛で頼もしいのは翠よりは南沢さんだわ」
真壁は残りの五人を見回し、懐から第三層の地図を取り出した。
 

 13:25

お前のそれいいなあ、と呟いた声は低く小さかったために津差龍一郎(つさ りゅういちろう)はまず自分の正気を疑った。化け物たちはさすがに力押しの愚を悟ったか今では50メートルほど離れた個所で陣を敷き、しきりに威嚇の声をあげている。それは絶えることなく壁面に反響して決して近くない距離にも関わらず、探索者たちの陣にあっても大声でなければ会話が成立しない状況を生み出していた。だからその中でこんなかすかな、ささやきともいえる呟き声が耳に届くはずがないのだ。幻聴か、実は疲れているのかな、とこきこきと首をひねった。津差自身はまだまだ戦える。ツナギのポケットから探索者基本セットの一つ、Gショックの懐中時計(迷宮街限定!)を取り出した。13時25分。周囲を見渡すとほとんどが津差と同じように地面に座り込み、肩で息をしている。
これじゃいっそのこと接敵している方が楽かもしれないと少々の焦りとともに感じた。電気設備の未設置な場所であるために、既に作業が終わり八基の作業用ライトのうち六基を防衛線を照らすために使用しているとはいえ、迷宮内部はあくまでも普段慣れている状況よりも暗い。その中で間断なく響く威嚇の声は実際に姿が見えない分だけすさまじい恐怖心をもたらしていた。
そんなことを考えていたら頭をこづかれた。なんだ? と思い見上げると理事である奥島幸一(おくしま こういち)が自分を睨んでいる。慌てて直立したら奥島はうろたえたようにあとずさった。すみません、なんですか?
いや別にそれほどかしこまることじゃないんだが、お前の剣は頑丈でいいなと言っただけだ。そう言う奥島の手元は鎖の先端の分銅、ひしゃげてしまったそれを新しいものに付け替えている。津差の剣は調査のために鍛冶棟から貸与された特別製だから気づかなかったが、普通なら武器が壊れるほどの戦闘を経過してきたのだった。替えの鉄剣は大量に置いてあるが自分の使い慣れたサイズというわけにはいかない。今後これがネックにならなければいいけれど。とにかく理事には、自分のは特別製ですからと微笑んだ。
その微笑を地響きが曇らせた。これだ。先ほどから何度か聞こえてくるこの無気味な音は一体なんだろう? しかも今度の地響きは――近い。それはもしかして、怪物たちが後退した事とかかわりがあるのだろうか? 暗闇は自分の心も侵食しているらしく全てが不安に感じる。馬鹿を言うな、と自分を叱咤した。もしも敵さんに手っ取り早く俺たちを撃退する手段があるのなら、もっと早く使っているはずじゃないか・・・。
取り留めのない思案はさらに意外なもので中断された。さらに大きくなっている地響きを圧するほどのそれは背後から聞こえる喜びの歓声だった。こんな状況で、誰が? 奥島も気になったらしく、兄ちゃんちょっと振り向いてくれないかと小声が届いた。これほどの達人となると、この威嚇と地響きと歓声の中でも届かせるささやき声を使えるらしい。津差は振り向いた。
少なくとも地響きの正体はわかった。上下にうがたれた縦穴を異様なものが降りて来ていた。転移の術ですぐに第三層に来た津差はそれを見たことがなかったのだ。外見にこだわる性格でもなかったので迷宮街に広まっていたゴンドラのイメージスケッチも見ないでいた。だから、作業用の照明を浴びながらゆっくりと降りてくるカボチャの馬車は理解を受け付けなかった。説明しづらいものが降りてきていますとだけ答え、実際に見てもらおうと思って敵のいる方向に視線を戻した。代わりに振り返った理事は自分よりも事態を把握したらしく、もうゴンドラは動くのか! と喜びの声をあげた。これで作業員と自衛隊員を帰せるな!
そうか、やっぱりあれは趣味の悪い悪夢ではなくゴンドラなのか。自分は今後あれに乗るのか。自分がその窓からにこにこと外を覗いている姿を想像した。そのアンバランスは却って愉快に感じられ口元が緩む。
「ナミー! 無事!? ナミー!」
聞き覚えのある声はアマゾネス軍団のリーダーである真城雪(ましろ ゆき)のものだった。津差はもう一度時計を見下ろした。彼女たちの部隊は15時に集合して到着は早くても16時のはずだ。どうしてこの時間に来ている? ナミー、返事をしてよ! という悲鳴のような真城の声、おそらく仲間の危険にいても立ってもいられなくなったのか。しかしこれは、正直ありがたい。まだ続く歓声はゴンドラが出来上がったこともあるだろうが、彼女たちがやってきたことにも向けられているはずだ。
疲労を忘れさせてくれる浮き立つような気持ちを突き動かされ、津差は腹の底から咆哮した。隣りで理事がぎょっとしたように見上げてからにやりと笑い同じく野太い叫び声をあげた。疲れきった探索者たちも、自衛隊員も、作業員たちもみな和し洞窟内部を震わせる。怪物たちの威嚇の声は完全にかき消されていた。
 

 13:35

たぶんビンゴですよ水上さん。作業員たちがプロの面目躍如であっという間に広げて二人ずつなら通れるようになった空間に入り込んですぐ、常盤浩介(ときわ こうすけ)が言った言葉だった。壁を抜けたそこはかなり広くまっすぐに東に向かっている。ヘッドライトでかすかに照らされる程度に両側の壁は広かった。ビンゴの理由をおねがい、とリーダーである真壁啓一(まかべ けいいち)が促すと常盤は続ける。
「いくつかの点で変なんです」
まず一つは小動物の気配に至るまで感じられないこと。
そして一つは――床の一端をライトで照らす――あそこ、おそらくおおきな出っ張りがあったのに均されてます。歩くのに邪魔だからです。明らかにここを平らで集団が歩きやすい場所にしたい意志があるということ。
そして何よりも、前方からとんでもない質量のエーテルが吹き寄せてます。児島さん、葵ちゃん気をつけて。ここで術を使ったら通常の何割増しかになると思うよ。二人も緊張で青白い顔で頷いた。彼らにもわかるのだろう。
小動物の気配に至るまで? と訊きかえした言葉に頷きが返ってきた。ええ。怪物の気配もまったく――言葉がやむ。
「どうした?」 児島貴(こじま たかし)の言葉を受けて、問うような視線を真壁にあてた。言ってみろ、という思いを込めてうなずいた。
「この通路の突き当たり、距離50メートルくらいのところに生き物がいます。全部が俺たちより一回り大きなサイズの、今まで見かけなかった感じです。それ以外のエネルギーがあんまり濃密なんでこの距離まで気づきませんでした。数は30匹ほど。こっちを警戒しているようですが、攻めてくるつもりもないようです」
そして、勘ですけど何かを守っているんじゃないかなと付け加えた。
真壁は水上孝樹(みなかみ たかき)に視線を送った。自分とは天と地ほどに実力が違う戦士は肩をすくめた。俺は考えないよ。君が死ねといったら死ぬから遠慮なく言ってくれ。他の皆が一斉に頷く。
真壁は考え込んだ。これまで出会ったことのない種類の生き物、そして何かを守ってでもいるような布陣。何かに執着しているような怪物たちの攻勢。そういった全ての鍵は、目の前にいる化け物たちが握っているように思える。問題は奴らをどうするかだ。第三層が精一杯の自分たちの部隊、強力な戦士二人にドーピングされているとはいえ攻め込むのは荷が重いのではないのか。幸い、物音から察する限りでは化け物たちの攻勢はやんでいるようだ。一度戻り最強の布陣で望むべきではないのか。
肌を何かが通り過ぎていった。真壁さん! と術師三人となぜか水上が自分の腕を掴んだ。
「奥から俺たちの来た方に何か飛んでいきました」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、もときた方向からときの声が聞こえてきた。硬直している集団をよそに、再び戦闘の音が響き渡った。
「勘だけで指示して本当に申し訳ないと思います。でも、今の攻勢は奥にいる何かが命令を飛ばしたからのような気がします。奥にいるのがそんなに重要な存在なら、殺さないといけない。そして今はどうやら時間がありません――」
「ひとことで言え。俺たちをなめるな」
低い声は頭一つ高いところから降ってきた。大型の草食獣の穏やかさをイメージしていた巨人、今まで一度も目が合ったことのない彼の射抜くような視線とはっきりした言葉。真壁は気おされ、つばを飲み込んだ。
「奴らを殺します。死んでください。俺が死んだら常盤が指揮をとって逃げるように」
返事は待たず走り出した。
 

 13:35

ゴンドラはひっきりなしに上下動を行っていた。積めるだけの作業員を積み込んだカボチャの馬車は最上層に行き、そこでは五人を二部隊で守る体制ができている。作業員の数は残り10名。一人減るごとに星野幸樹(ほしの こうき)は肩の荷が下りていくのを感じていた。そしてそばにいる部下に隊員を集めろと命令した。
「星野さん、ナミーたちの方に援護隊で行きたいんだけど」
真城雪(ましろ ゆき)の表情は必死そのものだ。長い付き合いの星野はこの女性の情の深さをよくわかっていた。仲間の一人が自分が寝ていた間も地下で危険に立ち向かい、なおかつ集団を離れてさらに危険かもしれない探索行に赴いているという状況が耐えられないのだろう。星野はもちろん反対だった。しかし目の前の剥き出しの感情をなだめる言葉が見つからない。
「ダメですよ真城さん」
会話を聞いていたのかそこには笠置町翠(かさぎまち みどり)が立っていた。真城と同じように、仲間たちがいま危険かもしれない場所に赴いている娘。自分に知らされずメンバーから外された娘はしかし平静なようだった。
「孝樹兄ちゃんと南沢さんがいて戻ってこれないなら、私たちが何人で行っても二重遭難です」
ぐ、と真城は言葉につまる。
「真壁さんは絶対に戻るって伝言していきました。だから戻ってきたらひっぱたくでもなんでもしてくれって」
二十歳そこそこの娘の整った顔、頬は震えて目は涙がにじんでいる。
「だから待ちましょうよ。おとなしく待ってないとひっぱたけないから。もっとも私はたくさんパイを作って全員の顔に叩きつけてやる気ですけど」
張り詰めていた女帝の空気がゆるんだ。そうだね、と翠の肩に手を置く。ただのパイじゃアレだから、唐辛子の味のとか作ろうか。そうですよ。娘は笑い、涙がこぼれた。
そのとき、これまでひっきりなしに響いていた威嚇がやんだ。三人ともがそろって防衛線を見つめる。そして一瞬後、すさまじいときの声が響いた。殺到する足音。
「行くぞお前ら! あたしらだけでこれから一時間支えるよ!」
女帝が高らかに叫ぶ。気力の充実している最精鋭の一角部隊が同じく声をあげ、女帝に従って走り出した。その斜め後ろには理事の娘であるサラブレッドも走る。星野はそれを見送ってから、集合した自衛隊員二〇人を眺めた。
「もう俺たちの守る相手はいなくなった。あとは俺たちもとっとと帰るだけだ。でも俺たちを護衛する探索者の部隊がまだ準備できていないって連絡が入った」
隣りにいる士官がくすりと笑う。ゴンドラだけが開通しているこの状況で、上層のそんな最新情報をどうやって取得したというのだろう。しかし誰もその点はとがめない。彼らは上官の性格を知悉していた。彼らにとっても待ち望んだ時がやって来たと皆が気づいている。長かった、と心から思う。
「で、だ。上の準備ができるまであと二時間くらいはあるらしいからな。ここらで実弾訓練をやってもいいと思うんだが。もちろん何か言われたときには俺の名前を出していい。ちょっと向こうまで」
と、戦闘が始まった防衛線を指差す。
「ちょっとあっちまで行って、今日用意してきた国民の血税を全弾撃ち尽したい奴はいないか? 反対の奴は手を挙げてくれ。そいつらはここで待機だ」
ああ、もちろんと部下に当たる士官二人のうち一人が付け足した。何が起きても責任はここの三人で止めるから。
「どうだ?」
星野の確認にも一つとして手はあがらない。全ての視線が命令を待って、上官でありいま死線にいる者たちの仲間である男を見つめている。鉄と鉄のぶつかり合う音が響く。
 

 13:36

児島貴(こじま たかし)がたった一つ欠かさない訓練がある。それは山中で地面を見ないように走ることだった。山に慣れれば足の裏にも目ができる、とある登山を趣味とする探索者に教えられて以来無理を承知でやっている訓練だった。全職種共通で必要なことだったら他の人間にも勧めただろう。しかしそれだけの効果を確信できないままに空いた時間を見つけては比叡山のふもとまで出かけては斜面を転げ落ちている。
理由は治療術師の重要な役割にある。迷宮内部の化け物たちに対しては戦士たちよりも術師のほうがはるかに強力な攻撃力を持つように、敵方の術師たちの行動によって部隊の生死が決するのが地下での戦闘だった。そして治療術師には、敵方の術師のイメージ集中を阻害して無力化する術がある。これを敵よりも早くかけること、それが治療術師の重要な仕事の一つだった。訓練はそのためのものだ。敵に対して走って近づく際、視線を常に敵の術師に置けるかどうか、常に術師との距離を掴んで影響距離に入った瞬間にその術をかけられるかどうか、それをつきつめようと思ったら足元に視線を送っている余裕などないのだ。足の裏に目ができればそれが実現できるのではないか。
特に、と視線は怪物たちの一点、ただ一匹小柄な化け物に据えている。奴は効果範囲に入ると同時に何らかの術をかけてくるだろう。奴の技量がもしもこちらの魔法使いと同じだけあったら自分たちは近づくこともできずに死ぬ。慎重に距離を読みイメージ集中を開始した。小走りに運ぶ足は不規則なでこぼこに惑わされずその身体を運んでいく。
 

 13:36

葵! と先頭左翼を走る真壁啓一(まかべ けいいち)から声がかかった。俺を援護しろ! 二人はいい!
背中にべっとりと汗をかく緊張と恐怖の中で改めて、すごい人だと感嘆した。先陣をきって走りながらも自分が一番弱いことを簡単に認め、自分は全員が生きるためには死んではならないことを理解し、自分を守るために術を使えと要求する。この男には、いわゆる男の意地とかそういうものはないのだろうか? もとよりその指示は自分の思惑と同じ、これまで温存していた吹雪の術のイメージを開始した。
「吹雪起こすよ! 念のため普段より10メートル距離おいて! ごー!」
走りながら集中を開始する。ぞわ、と嫌な予感がした。あまりに濃密なエーテルが、目の前の集団たくさんの戦士たちに守られた生き物に集まっている。つややかな毛皮を身体にまきつけて比較的小柄なその化け物の精神集中が痛いほど感じられた。自分が利用すべきエーテルをかなり横取りされているのがわかった。
あれは、まずい。自分がやろうとしていることよりもっと大変なことが起きつつある。
祈るような気持ちで隣りを見ると既に児島貴(こじま たかし)が両目をつぶり集中していた。
嫌な感じが掻き消えた。そして児島が小さくガッツポーズをつくる。やった、と葵は思った。一番厄介な敵の術を封じられた。あとは、戦士たちが接近する前に自分がどれだけ減らせるかだ――。この濃密なエーテルならば、あの屈強な怪物たちでも殺せる気がする。意識を集中し外部の音が消えていく。探索を開始した当初は周囲に対して無防備になるこの瞬間が恐怖だった。最近はまったく感じたことはない。絶対に守ってくれる、ではなくこの人たちに守られなかったならそれはしょうがないというくらいに信頼できるようになったのだった。自分はいい仲間に恵まれたと術を起動するたび感じていた。
「にー!」
身体じゅうをぞっとするような冷気が満たす。
「いーち!」
手を差し伸べた。冷気が球状となってそこから放たれた。
「寝たら死ぬぞー!」
目をぱっちりと開いた。そして信じられないものを見た。
予想した個所に猛吹雪が起きていた。予想通りに普段よりも広い範囲にちいさなホワイトアウトを生み出している。しかし。
それが被害を与えるべき化け物たちは一匹として立ってはいなかった。
全ての化け物、自分が術をあてるつもりのなかった集団の右手側にいる化け物たちですらすべて突っ伏していた。
「ええと、何が起こったの?」
誰にともなく呟く。
「わからない」
恋人がこれも呆然としたように応えた。
 

 13:36

先陣を切って走り出した背中を追った。あくまで冷静に、いい奴らだな、と気分が昂揚した。こいつら――大きな男は違うらしいが――だったら可愛い従妹たち(意識の中では妹だったが)を任せて安心だ。激戦を数秒後に控えてなおその心は落ち着いている。眼前にいるどの生き物も、何十匹集まっても剣士としての自分には遠く及ばないことを知っているから。まあ、そこの大男だとちょっときつく、従妹の恋人が戦うのは無茶ってものだけど。その背筋がぞくりと逆立った。自然と前方中央に視線が吸い寄せられた。そこに何かいやな予感がわだかまっている。
あー、けっこうしゃれにならない術使うつもりだあいつ。とりあえず封じるか。
走りながらイメージの集中を開始しようとした矢先、その嫌な予感が掻き消えた。後ろで小さく喜びの波動。部隊の治療術師が自分より早く気づき、先手を打って封じたらしい。本当にいい奴らだな。うん。一人として死なせるのは惜しいな。
よし、俺もとっておきを使おう。
なるべくなら使うな、術に頼れば剣筋が乱れると師匠に厳命されていた治療術の一つ。誰しもが持っている回復する力を裏返し活力そのものから奪ってしまう殺戮のための術。あくまで剣士たることに誇りを持っていたから自らにも使うことを禁じていたが、こいつらを活かすことに比べればそんな自分ルールは馬鹿げたことに思えた。
一瞬だけイメージを集中させ、次の瞬間には解き放った。
目に見えるどんな光も生まず耳に聞こえるどんな音も震わさず、ただ死を象徴する力が前方広範囲に広がていく。化け物たちが全て倒れ伏したのを確認して術を切断した。
 

 13:37

もとの皮膚の色がどうだったのかわからない。しかし六人で見下ろすその化け物の肌は、明らかに不自然な紫色をしていた。禁術の産んだ死の不健康な何かに満たされたその身体はしかしまだ息があり、ずるずると奥へと這っていく。
「なんだかかわいそう」
笠置町葵(かさぎまち あおい)の呟きに真壁啓一(まかべ けいいち)は頷いた。ああ、かわいそうだ。でもこいつらは話が通じないし、俺たちの経済的な事情とは共存できない。そして俺たちより弱い。だからこいつらは死ぬんだ。葵はうなずいた。それだけのことだ。必死に這いずるその姿は、勝者のおごりどころかいつか自分も、そして人間自体がこのようになることを予感させた。かわいそう、という彼女の言葉は目の前で逃れようと這う生き物ではなく、ついに闘いから逃れられない生物全てに向けられたものかもしれない。
唯一の術者だったそれは壁面のくぼみに入り込んだ。そこから濃密なエーテルが流れてくることは戦士である真壁にもわかった。そしてもう一つ。何か、白い岩のかけらだろうか? それを抱え込んだ怪物の身体の不自然な紫が薄れていく。
「真壁さん! こいつ回復――」
言葉よりも早く真壁の剣先がその首筋を貫いていた。最後の化け物は絶命した。
「これが鍵でしょう。普段は争ってる化け物たちがコミュニティ同士で同盟を組んで、非戦闘員まで投入して奪還したかったもの」
乱暴に死体を蹴ってどかしたそこにあるのは二つの拳大の石だった。片方は熊で、片方は蛙だろうか? そのくぼみの前に並べられた獣の皮、金属片などを見てもわかるように、それは何か地下の化け物たちにとって宗教的な意味を持つのだろう。共通で管理すべき聖なる存在。
これを奴らのところに投げ込みましょう。うまくいったらコミュニティ同士で奪い合いをしてくれるでしょう。うまくいかなくても、どこかゴンドラから離れたところ、俺たちの手の届かないところで再び祀ってもらえれば、とりあえず上下動は邪魔されずに済みます。最悪のケースだとこの回復機能でさらにきつい闘いになるかもしれませんが――俺は返したい。損得じゃなくて、奴らがここまで必死になって守るほど大切なものだから。
反論はない。真壁はツナギのポケットにそれぞれその石を収めた。
じゃあ戻りましょう。走れますか? 全員が頼もしい頷きを返した。
 

 19:42

箪笥の上には二つの写真立て。両方ともに自分は映っているが、ともにいる人間が違っていた。一つには、一人の男性と男の子そして自分。一つには、一人の男性と自分。
片方はかなり前に伏せられ今ではうっすらとほこりが積もっている(それはちょっと掃除をサボりすぎたと自分でも思うけど)。一つは毎朝スカーフを選ぶ自分に笑顔を向けていた。
そっとその写真を指でなぞった。四角の中で笑う、髪を短く刈った男性は今はもうこの地上にいないらしい。そう、彼の仲間だという男の子から連絡があった。
写真立てを伏せ、畳の上にぺたんと座った。もう涙は出そうにない。あとはするべきことをするだけだ。カレンダーの日付を見た。月を越して来月まで延びるその矢印は探索者志願のテスト期間を示している。探索者でもあった恋人から聞いていたテストの方法、それに応じた体力を備えなければならない締め切りの日付を示してもいた。
結局、と先ほど注ぎ、すっかり冷めてしまったお茶の表面を眺めた。薄い緑色の湯面には思いつめた女の顔が映っている。結局、こころを満たすためには自分でその場に赴かなければならないのだろう。打つべき仇は少し重くなってしまったけれど。夫と、息子と、夫になってくれたかもしれない男性と――左手をそっと下腹部に当てる。明日、朝一番で産婦人科に行こう。探索者になっては子どもは育てられないのだから。
夫と、息子と、夫になってくれたかもしれない男性と、まだ性別もわからない、生まれて来るはずだった子の仇。彼女が失ったものを地下の化け物たちに返してもらわなければならない。お茶を口に含んだ。味など感じずにぬるい液体を飲み下した。
 

無事生還。無事生還。
無事生還。
薄情なようだけど、自分がいま生きてこれを書いているというのが何よりも嬉しい。
今日は朝九時から準備ならびに警備を開始し、一四時半で第二層と第三層の工事がすべて終わるまで地下で戦っていた。予定では今日の作業はタラップ、送電線、電話線の設置だけだったけど、作業員の方々が驚異的な作業効率を発揮してくださったお陰で防護柵の設置まですべて終了した。所詮これは個人の日記だけど、作業に携わった小室工務店、尾崎電機、黒澤設備工事、永井工務店各社の皆様ならびに第二層作業責任者の名栗透さん、第三層作業責任者の渡辺隼人さんには心からお礼を申し上げたいと思う。冗談でもなんでもなく生き残った探索者全てにとっての命の恩人なのだから。もし両階層の工事が明日に持ち越し作業道具を残置する必要があったとしたら、それを縦穴に落とされないために夜間警備を配置しなければならなかった。昨日の夜、第一層の夜間警備ですら三人死んだってのに第二層第三層同時となったらどれだけの被害者が出たかわからない。今回の工事の最高殊勲は誰がどう考えても作業にあたられた方々だ。
それでも探索者にも被害が多く出た。
第二層では78人中(プラス訓練場の四教官、鈴木秀美さんのお兄さんと奥島理事のお嬢さん)で一二人が亡くなった。
有川夕子(ありかわ ゆうこ)さん
大野ふみ(おおの ふみ)さん
君田信明(きみた のぶあき)さん
小早川了(こばやかわ りょう)さん
斉藤あきら(さいとう あきら)さん
齋藤亮介(さいとう りょうすけ)さん
鈴木智英(すずき ともひで)さん
中山義経(なかやま よしつね)さん
八戸順(はちべ じゅん)さん
林由起夫(はやし ゆきお)さん
的場由紀(まとば ゆき)さん
水野圭一(みずの けいいち)さん
第三層では72人中(プラス奥島理事、水上さん、自衛隊員としての星野さん、最後に駆けつけたアマゾネス軍団五人)七人が亡くなった。
青柳誠真(あおやぎ せいしん)さん
加藤田保(かとう たもつ)さん
久米篤(くめ あつし)さん
月原浩(つきはら ひろし)さん
富崎和歌子(とみさき わかこ)さん
藤野尚美(ふじの なおみ)さん
縁川さつき(よりかわ さつき)さん
亡くなった方についてはまだ多くは書かない。親しかった方もお話したことのない方もいるし、迷宮街で見かけたら思わず目を奪われてしまう方もいたし、部隊の仲間だったひともいる。まだ多くは書けない。ただ冥福を祈りたい。
明日の作業は、今日結局参戦せずに終わった湯浅さんの部隊、終盤だけで疲労がまだ浅いアマゾネス部隊、明日のために召集された『人類の剣』たちで現場警備を行い、星野さん、高田さん部隊が詰め所で待機することになっている。俺たちは足手まといということで休養を命じられた。正直ありがたい。おそらく俺は、明日はもう何もできないと思う。もちろん俺だけが大変だったわけではないけれど、俺にとっては今日の出来事は負担が大きすぎた。
それでも鍛治棟の片岡さんにお願いして明日の昼にはツナギを修復してもらう予定だ。だから、昼からはずっと俺も待機に加わろうと思っている。地下ではなにが起きるかわからないし、俺だって何かの役に立てるということを今日ちょっと自覚したから。それに、もう着ないと思うと綺麗な状態で記念撮影しておきたいし。ああそうだ。午前中に荷造りとかしておいたほうがいいな。翠の部屋に置いてある本も回収しないと、ってあの部屋の棚一段が全部俺の本なんだよな。他の洋服とかとまとめて実家に送ってしまったほうがいいだろう。
夜はゴンドラ設置パーティー。どうせだから俺の送別会も兼ねて俺の飲み代をタダにしてくれないかな。明後日は一人で一日かけて京都の思い出の場所とかを回って歩こうと思っているから、みんなとゆっくり話す機会はその場だけなんだよな。どうせ飲ませよう潰そうとするだろうから事前に牛乳とグレープフルーツをたっぷり摂っておかないと。ていうかホントみんなと話したいんだから、俺には飲ませないでくださいよ。
本当に、生きていられて嬉しい。寝よう。