偶然にbet!

こどもの時は「一緒にいよう」だった「あそぼう」は、いつからか具体的な内容提案が必要になってしまった。ぼくらは時間の貴重さや誰かと一緒にいることの窮屈さも知ってしまった。中央公園や仲良し広場に集まるだけ、あそぶ内容は偶然任せといったやり方はいつから廃れてしまったのか。誰しも団地の棟を舞台にした鬼ごっこエレベーターアクション」や「どろけい」が楽しくて仕方なかったというのに。偶然に期待することは、心のどこかに留めなくてはいけない。つまらない人生にならないために。

エレベーターアクションは鬼に見つかったときのどさくさでピンポンダッシュかましたり、突然ぬっと薄暗い階段から鬼が現れたり、不審者に出くわしたりと、なかなかふざけたハラハラゲームであった。懐かしい。ピンポンダッシュかますガキなんて見つけた日には捕まえて警察つきだしてえな。

そっちが勝手に始めておいて、冷やし中華終わりましたくらいの挨拶は欲しいところだ。

こんな夜中に真っ暗な部屋の外から雨つぶの音がさみしそうに聞こえてくる。たくさん降ったらにぎやかなのにな。

仕事ができる雰囲気の人と本当に仕事ができる人のもっとも大きな違いはきっと感情のコントロールだ、というのをいつからかうっすらと信じている。あまちゃん野郎だ。性格や人間性とは大雑把に言えば、感情の、とくに怒りや狂気の操縦力のことで、その先に他人に対する親切やケアがある。人間としての経験や幅というのはあくまでも付属的なものに過ぎない。おそらくそれらが器と呼ばれるものの正体で、そのスキルは磨きうるものだと思う。ぼくはぼくの器を育てなければならない。こういうのがめちゃくちゃ片寄った考えってことは十分理解しているけれど、おれなりに仕事や他人に誠実に向き合った結果の考えだ。

なにかをするのに理由や目的なんて「楽しいから、楽しむため」以外になんにもない。そこからがスタートラインだ。 

一言もの申したい。みんなきれいな月にあいらぶゆー託しすぎてるんじゃないか。「月がきれいですね=おしゃれなあいらぶゆー」の公式は、当たり前に成り立つ場面と当たり前にそうじゃないときがあるだろ。そういう人こそロマンチックを不自然に背負いすぎていると指摘したい。あいらぶゆーのナツメの呪縛。月がきれいなことくらい気軽に呟いていけないこんな世の中なんて藤井裕(ふじゆー)すぎる。ベース弾いてろ!まざーふぁっく!

ひさしぶりに新宿タワレコを徘徊してROCK JETという清志郎特集の雑誌が2017年の論評としてなかなか素晴らしく、立ち読み倒されたページのヨレを無視せずとも買ってしまいたくなったので購入。2017年の清志郎を語らなくちゃ!永遠の後追いリスナーとしては永遠の疑問、果たして、何年好きならにわかじゃないのか。

楽しかった会社の飲み会おわりに里芋の煮っ転がしをあっためなおすときに漂う香りがあって、こおばしくて甘くてしょっぱいあの香り、それがいまベッドの上まで漂っている。