Hatena::ブログ(Diary)

徘徊する魂  Traveling Alone! このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-05-04

来島にて その7

堤防に沿って島の東側へ歩くと、見慣れない三角形の標識?が2本立っている
f:id:YBR125K:20180504173530j:image

標識の柱にはNTTによる「陸標2」の表示が
f:id:YBR125K:20180504173637j:image

【注意看板より】

ねがい

水底電話ケーブルがこの付近に埋めてあります。損傷しますと電話が通じなくなりますから注意してください。

連絡先
NTTワールドエンジニアリング
マリン株式会社

フリーダイヤル
0120-304-942
f:id:YBR125K:20180504173728j:image

これが「水底ケーブル」らしい
f:id:YBR125K:20180504173838j:image

標識のすぐ近くには水面下に向かうインクラインが敷設されている
f:id:YBR125K:20180505104601j:image

メンテナンス用かケーブルの埋設工事に使われたものだろう
f:id:YBR125K:20180505104936j:image

来島本丸跡に建つ鉄塔を海岸付近から見上げる
f:id:YBR125K:20180505110744j:image

干潮なので海岸に降りてみる
f:id:YBR125K:20180505112630j:image

潮流の様子
D

柱穴跡

来島保存顕彰会による観光パンフより】

岩礁に在る無数の穴は桟橋の柱を建てた跡だと言われています。
(満潮時には見る事ができません)
f:id:YBR125K:20180505114041j:image

穴の周囲には茹でて食べると意外においしい「亀の手」が
f:id:YBR125K:20180505114929j:image

※地域により、漁業権が設定されています。
漁業権者の同意なく採取等をすると、漁業権侵害罪として罰金刑に処せられることがあります。

海岸に打ち上げられたおそらく船舶用の「元」機械類。
海岸付近を長い年月転がったことによりオブジェと化している
f:id:YBR125K:20180505115825j:image

f:id:YBR125K:20180505144710j:image

f:id:YBR125K:20180505115958j:image

どんな経過をたどればこのような造形が生まれるのか
f:id:YBR125K:20180505121018j:image

海岸づたいに島の北端まで行けなくもなさそうだが、船便の都合があるのでこの辺りで引き返す
f:id:YBR125K:20180505145039j:image

来島保存顕彰会による観光パンフより】

来島村上水軍の歴史

瀬戸内海は、日本の交通の大動脈でした。
古代から瀬戸内海の人達は穏やかな気候の中、漁業や農作業をしながら、舟の水先案内をしたり、行き交う舟と交易をしたりしていたと考えられています。

〈平安後期・室町時代

瀬戸内海水軍登場
瀬戸内海で航海や貿易がさかんになるにつれて、瀬戸内海の海で暮らしていた人達も集団化・組織化されるようになりました。

芸予諸島瀬戸内海を支配
海賊衆の中で最も力をもった村上水軍の村上師清(もろきよ)は、三人の子供達を因島・能島・来島に配置して、芸予諸島(しまなみ海道)を封鎖。瀬戸内海を支配するようになりました。

戦国時代

伊予守護大名河野氏の重臣になる
戦国時代来島村上氏は、伊予国(今の愛媛)の大名河野氏と親戚関係でした。来島の当主村上通康(みちやす)は河野家で最も有力な武将でした。

日本の歴史を変えた!?厳島合戦!!
西の桶狭間とも言われる厳島合戦陶晴賢(すえはるかた)と毛利元就の戦いです。勝利した毛利氏は中国地方覇者として歩み始めました。村上水軍は、「毛利氏の勝因は村上水軍を味方につけた事」と言われる程の大活躍をしました。

戦国時代末期・三家分裂
織田信長と毛利氏の戦いに参加した村上水軍は大きな変化を強いられます。村上三家は分裂し、因島・能島は毛利方へ、来島は織田・豊臣方へと分かれて戦います。この頃から村上通総(みちふさ)は来島通総と名のるようになりました。

安土桃山時代

朝鮮出兵
来島通総は、秀吉の命令で水軍大将として二度の朝鮮出兵へと参加し、二度目の慶長の役の時に鳴梁(ミョンリャン)海戦で戦士してしまいます。

江戸時代

九州豊後の森藩へ
因島・能島・来島の中で唯一大名として残った来島氏も、徳川家康の命令で九州の海の無い、森藩へ(現在の大分県玖珠町)移動となり、姓を久留島と改めます。その後、森藩は12代、明治維新まで存続しました。

海の無い九州森藩には、多くの家臣は付いて行きませんでした。
森藩に付いて行かなかった、来島水軍の多くの家臣達が、その後塩田開発を行い、海運の仕事や舟を造る仕事をしていました。
その人達が現在の今治市の海運・造船の礎を築いたと言われています。
f:id:YBR125K:20180505152646j:image

2018-02-13

来島にて その6

島の東側を見て回るため山道を引き返す。

山頂に至る崖に残る石垣遺構
f:id:YBR125K:20180213200122j:image

アンコールワット等の遺跡同様、石垣遺構と大樹の根がひしぎあっている
f:id:YBR125K:20180213200242j:image

案内の矢印がある登り口まで下りてきた。
画像手前の円筒は井戸で、覗き込むと3mほど下に水面が見える
f:id:YBR125K:20180213200339j:image

時刻は午後2時半を回った頃だが、相変わらず静まり返っている
f:id:YBR125K:20180213200430j:image

ここも空家のようだ
f:id:YBR125K:20180213200512j:image

ガラス戸の隙間から中を伺ってみる
f:id:YBR125K:20180213200546j:image

さらに先へ進むと、台風被害の爪痕とおぼしき凄まじい状態のままで放置された家
f:id:YBR125K:20180213200709j:image

崩れた屋根から吹き込んだ強風により壁が吹き飛ばされたらしい。
押し入れにはきちんと畳まれた状態の布団がそのまま残っている
f:id:YBR125K:20180213201120j:image

道路を隔てた斜向いの家は、小ぎれいな塀の内側に雑草が繁茂している
f:id:YBR125K:20180322113750j:image

さらに進むと来島漁港に出た。
右手に見える赤腹の船は生簀(いけす)だろう
f:id:YBR125K:20180322114223j:image

陸上で見ると何かの建造物のようだ
f:id:YBR125K:20180322114538j:image

来島漁港の突堤に向かって歩いて行く。
堤防に立つ注意看板
f:id:YBR125K:20180504162520j:image

かもめが留まる突堤先端の赤い鉄塔の向こうは今治造船のクレーン群が
f:id:YBR125K:20180504163831j:image

先端に到着
f:id:YBR125K:20180504163401j:image

そこかしこの海面に渦が巻いている
f:id:YBR125K:20180504164447j:image

来島港フェリー乗り場が正面に見える
f:id:YBR125K:20180504170048j:image

今度は島の東側を見に行ってみよう
f:id:YBR125K:20180504171238j:image

2018-01-31

来島にて その5

来島水軍城の本丸跡に到着。
曇天なので夕方のように薄暗く、来島海峡大橋が霞んでいる
f:id:YBR125K:20180131215117j:image

こちらは、天気が回復してから再度登ったときの画像。
真正面に小島(おしま)が見えるが、名前に反してここ来島の3倍以上の面積がある
f:id:YBR125K:20180131215636j:image

この場所からでも海峡の潮流の速さが見て取れる
f:id:YBR125K:20180131220023j:image

馬島と来島海峡大橋が鮮明に見える
f:id:YBR125K:20180131220326j:image

来島海峡第三大橋を来島側から眺める
f:id:YBR125K:20180131221942j:image

本丸跡から対岸の今治市小浦町付近を望遠で撮影。
左上がホテル大潮荘、右下の白いクルマが駐まっている辺りが定点観察地点になる。
f:id:YBR125K:20180131221043j:image

先日歩いた海岸は来島から眺めるとこんな感じ
f:id:YBR125K:20180131221446j:image

2018-01-26

来島にて その4

食事を済ませ、休憩所の建物を出てさっきと反対方向に向け歩いていく。

右手に見えるのは来島漁業協同組合の建物
f:id:YBR125K:20180126172327j:image

食事をしながら話した人はここからやって来たのかもと思い室内をうかがうが、蛍光灯は点いているものの人影は見えない。

このあと4時間ほどの滞在時間中、まったく人に会うことはなかった。

漁協のすぐ隣の建物の前に、島で唯一の自販機が設置されている
f:id:YBR125K:20180126172514j:image

自販機のある建物から数軒奥の建物のポスト。
今治市来島493」と手書きされている
f:id:YBR125K:20180126172739j:image

さらに進むと左手に案内板がある
f:id:YBR125K:20180126172839j:image

この時、来島城址本丸跡まで登ってみたが、その後一旦下って東側の海岸で柱穴跡の見物を終えた頃に陽射しが出てきた。
晴天の時の本丸跡からの景観を見るのためもう一度登ったので、晴れと曇りの画像が混在している

矢印にしたがい所々崩れかけた石段を来島城址と心月庵めざして登っていく
f:id:YBR125K:20180126173312j:image

心月庵の入口にほど近い場所から案内板のあった付近を見下ろす。
島に暮らす世帯は、各家庭の菜園で多種多様な野菜を栽培していた
f:id:YBR125K:20180126174204j:image

心月庵の入り口
f:id:YBR125K:20180126210131j:image

ここは来島城主の屋敷跡で、現在は心月庵と呼ばれている
f:id:YBR125K:20180126210544j:image

残念ながら内部の様子はピンボケ画像しかない
f:id:YBR125K:20180127214739j:image

経年劣化と台風被害により石段を始め色々なものが歪んでいる
f:id:YBR125K:20180126210821j:image

こちらは二の丸跡にほど近い場所にある村上神社に続く石段
f:id:YBR125K:20180126211220j:image

鳥居をくぐる
f:id:YBR125K:20180126211428j:image

拝殿が見えてきた
f:id:YBR125K:20180126211633j:image

拝殿に奉納された村上(北畠)師清(むらかみもろきよ)の画像。
能島村上家、因島村上家、来島村上家の祖とされている
f:id:YBR125K:20180127221438j:image

同じく来島村上三郎越智通総(来島通総くるしまみちふさ)
f:id:YBR125K:20180127220403j:image

同じく村上通康(むらかみみちやす)
f:id:YBR125K:20180127221839j:image

同じく来島通之(くるしまみちゆき)
f:id:YBR125K:20180127222200j:image

神社周辺には芸予地震と数年前の台風被害の痕跡が残る

数本が倒れかけたままの寄付者芳名石碑
f:id:YBR125K:20180128160532j:image

立木にロープでくくり付けられている
f:id:YBR125K:20180128161236j:image

こちらの石碑はまだ真新しい
f:id:YBR125K:20180128173824j:image

村上神社は二の丸跡にほど近い場所に位置する。
八千矛神社と同じくこちらの本殿も四隅を鎖で固定されている
f:id:YBR125K:20180129215510j:image

いよいよ本丸跡を目指し落ち葉を踏みしめて歩いていく
f:id:YBR125K:20180129215637j:image


データベース『えひめの記憶』より伊予水軍の活躍