『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第三話「隊ノ一日・梨旺走ル」の感想 

テレビアニメを見ていると、三話目から急につまらなくなったように感じることが少なくない。
景観、さまざまなもの、光。繊細な描写が素敵な作品だなーと毎回思わされるのだけれども、やっぱり気障だよなーなんて。
模倣と混合が、この作品を語る上で、本質的になるかもしれないが、それは手に余る。


◆時計
第三話冒頭、夜明け前の砦、目を覚ましているのは彼方さんと梨旺さんだけ。彼方さんは、時計の管理をして、時を告げる喇叭を吹く。まるで時間を司る女神のように、あるいは時計そのものであるかのように。それを梨旺さんは見守っている。今回の挿話は、彼方さんが倒れて、梨旺さんが奔走するというお話だったと言うことが可能だと思うのだけれども、この時間を司る二人を見ていると、二人が時計の短針と長針にも思えてきたりもする。1時間に30度しか動かない短針とは違って長針は一時間ごとに走り回るわけで、もし彼方が時計そのものであれば、彼方を中心に(彼方のために)梨旺が走り回るのも、理由のないことではなくなるだろう。映像の上では、まったく梨旺さんが「回る」描写はなかったので、単なる連想ゲームでしかないかもしれないが。「死人まで目を覚ましそうだ」と言われる彼方さんの喇叭には、やはり過去への遡及力を読み込んでしまう。
しかし、この挿話の中で、たびたび描写される柱時計は妙だな。なんかうまく読めない。


◆過去
第一、二話の感想でも述べてきたが、この第三話でも彼方さんは過去へと遡って行くように思える。彼方さんは、普通は子供のものである病気に罹ってしまうからだ。大人ではないが決して子供でもない彼方さんが、そのような病気に罹ってしまうことは、端的にアナクロニックであり、つまり時間が順当ではないのである。時間が逆行していると言えるだろう。その逆行が、彼方さんだけでなく梨旺さんをも、幼少時の記憶へと連れ戻すのである。少し奇妙に思うのは、熱にうなされ過去の記憶を彷徨っていた彼方さんが目を覚まし、これまた「アメイジング・グレイス」を口ずさみ過去に浸る梨旺さんに、手を伸ばすと梨旺さんが傷ついてしまう描写があることだ。いや、ほとばしる体液(涙、鼻水、汗)の描写もこの作品の特徴の一つであるから、そこに血が加わっただけで、このシークエンスにことさら負荷をかけるべきではないのかもしれないが、しかし血を流すということは尋常なことではない気もする。また、梨旺さんの傷の処置も、非常に大げさにも見える。なんなんだろうか。第1話から示唆されていたことではあるが、二人はなんらか共通の過去を背負っているようである。しかし、それでも二人は結び合えないということの暗示なのだろうか。
過去との因縁が物語を動かしていくということは、珍しいことでもなんでもないが、現状では少し特殊な過去への「手つき」を感じる。いや、どうなるのかわからないが。


◆戦車
戦車と喇叭は良く似ている。喇叭は音を放ち、戦車は弾を放つ。だから、戦車が音楽を奏で、喇叭と化してしまっても、さほど驚かなくていいのかもしれない。けれども、戦車が時計へと変容してしまうようにも思えるから、それには驚かざるをえない。戦車はいくつかの音を奏でることで、一つの曲を完成させていると言われる。そして、それが戦車を動かすことと同じであるとも言われる。奏者と操者は似ている。それぞれがそれぞれの役割を果たすことで、一つの全体が完成する。そういうお話を耳にすると、どうしても私は歯車と機械の関係を想起してしまう。いくつもの歯車が合わさって一つの機械が動作する。そして、機械といえば、時計なのである(これは思想史的にもそうかもしれない)。この戦車自体が過去の遺物であり時間を思わせるものなのだが、それだけでなく思い出の曲を積んでおり、さらには時計との類似点も持つ。


なんだろうなー、何か大事なものを語り損ねているよなあ。