「フィクションの中に生きる」ということ:近代の精神 (『肉体文学から肉体政治まで』)
- 作者: 丸山眞男
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 1964/05/30
- メディア: 単行本
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「現代政治の思想と行動」第三部三.「肉体文学から肉体政治まで」という、A氏とB氏の会話という形をとり1949年に発表された小論。この日記では、これをノートしていく。
というより、結構だだ写し状態になってしまった。
というより、結構だだ写し状態になってしまった。
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本文より
A. …フィクションの中に生きる事を心もとながり、これを直接的な感覚的現実の側に押しやろうという日本人の態度だね。
時<中略>こいつはやっぱり例の、日本社会の封建的性格という奴に関係あるのだろうね。<中略>B.…じゃそういう政治の問題を論ずるミニマムの前提として、という条件付きで、しかも思想史だけに限定して超特急に話を進めて行こう。
⇒日本の読者というものが「フィクションをフィクションとして楽しめない」ということと、「日本の政治思想」との関係
- ex.読者にとって背後のモデル詮議が度々問題になつたりする。(p.380)
- 「実話ジャーナリズム」というジャンル;「作りごと」に心もとなさを感じる気持ちが支えるものだ
- ↑「あれこそ日本的リアリズムの極地だよ。」などとA氏。
てな具合。*1
なぜ、非近代的社会意識が「フィクション」の上で不安を感じるか
- なぜ、近代精神とは「フィクション」の価値と効用を信じ、
- これを普段に再生産する精神として現れるか。
- :ここで云う「フィクション」を信ずる精神とは。
- 人間の知的製作物・加工(「ゲシュタルト」として*2)を、
- 自然的実在(:「質量」として)よりも高い価値評価を与える態度である
- 云うなれば、「質量性」が濃い程フィクション性が薄れ、「ゲシュタルトの方が濃くなる」に従ってフィクションとしての性格が強くなる
- ⇒すなわち「媒介された現実」を自然的直接的所与の現実よりも高度なものと見るのが近代の精神
- 人間の知的製作物・加工(「ゲシュタルト」として*2)を、
- :ここで云う「フィクション」を信ずる精神とは。
⇒虚構の優位性がなぜ近代で必要だったか。
「中世的秩序」を壊し、「市民社会」が建設されたが、→その「思想的前提」として、
- 人間を取り巻く社会的環境すべてが人間の産物であるということ
- 理性、自意識の発見
- 自然的所与のものとして意識しなくなること
⇒それは、「脱呪術化」とも言う。
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- ∴前近代社会のイデオロギーにおいて:「フィクション」という考えは支配的でなかった
- →この発想は、オッカムのウィリアム修道士(「オッカムの剃刀」のオッカム)あたりから明白に現れてくる(:後期スコラ哲学)
- オッカムによるそれは、唯名論による「普遍概念は存在しない」という論
- ↑これは聖トマスによる「普遍概念の先天的存在」に対抗したものだった。
- つまり、唯名論 対 実在論
- ↑これは聖トマスによる「普遍概念の先天的存在」に対抗したものだった。
- 社会契約論が唯名論の嫡子である*3
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- 同じ「契約論」でも、「これが高度なフィクションである」ということが、ルソーやカントの契約論まではっきり自覚されなかった(! 意外だったなー)
- :「フィクションとしての自覚」とは、自然所与環境から人間を徹底的に切り離すことへの自覚でもある。
- ↑なぜなら「原始契約」を歴史的事実に根拠付ける傾向が強かったから
- →by E.トルレチ『それは教会との闘争で自己の世俗的権力についての鋭く明確な意識を学んだ国家であるが、それと同時に生の充満を支配しえず、またすべきでないという感覚を持っていた』
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- 「フィクションとしての制度」の自覚が待たれる*4
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- ⇔東洋の「君民契約説」
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東洋の一種の「人間主義」について
- 「西洋近代精神」:制度の自然的所与性を否定し人間を強調するとすれば
- ⇔東洋においては:統治者の「人格を磨く議論」か、統治の「手管」の議論が多かった
- そこに組織論機構論というたぐいがほとんど無い
- つまり、直接的な関係しか問題にされていない
- →「具体的環境ぐるみ」で捉えた人間を問題にしているというもの
- ∴社会的規範が「既知の関係」でのみ通用するということ
- それは伝統的所与に基づいた関係性の秩序
- 中世ヨーロッパ社会:王においても、「永遠の昨日が支配する」すなわち、慣習法のしばり。*5
- ⇒近代とは:人格関係の非人格化であり
- 未知の相互関係のためのルール作りとは:非人格関係の人格化の必要が。
- 中世ヨーロッパ社会:
- しかし、日本において:近代的制度も「揉まれて形成された」のでなく、「既製品なのに(天子からの)所与のもの」として上から移植された
- そこでは「フィクション」としての意味を持たれていない
- つまり、慣習的支配関係と同じように「実体化」されている状態
- ⇒ex.そこへ大政翼賛会の登場が。
- ⇒日本において、常に議会に統合されないエネルギーが非合理的に吹き上がる可能性が孕んでる
「フィクション」を信ずるとは、フィクションの自己目的化を絶えず防止し之を相対化することだ。
- すなわち、一旦作られたフィクションを、「慣習法のしばり」のように絶対化することとは逆である。
- 「目的」と「手段」の不断の媒介を怠らないこと
- ⇒社会関係が自然所与的なものとして受け取る(人格的統治の強い・慣習法のしばりの強い)傾向の強い社会では
- 「フィクション」が凝固し易い
- その先に、便宜のための制度等が効用を離れて実体化される流れが。そして
- ex.専門における「縄張り化」
- 「組織のリヴァイアサン化」の現象
- それは一種のアナーキー状態に等しい
- ↑ex.ワイマール共和国:政党自身の国家化により、政治的統一を喪なっていた
- ⇒社会関係が自然所与的なものとして受け取る(人格的統治の強い・慣習法のしばりの強い)傾向の強い社会では
- ex.ナチズムにおいて
- 「民意の代表」「多数決」というフィクションを猛烈に攻撃した
- :政治と民衆の「機械的」な方法を媒介する繋がりの否定
- 「選挙などよりも遥かによく大衆の喝采の内に」
- 絶対的権威との合一という形で吸収
- 「民意の代表」「多数決」というフィクションを猛烈に攻撃した
*1:中江兆民の『三酔人経論問答』思い出す。(立ち読み出来るサイトみっけ)
*2:本では「形相」となってる箇所を、このメモでは勝手にゲシュタルトと言い換えて書くことに。その方が分りやすいかなと。
*3:こちらの説明も参考に。:http://www.geocities.jp/meinohammer/doituhou.html
*4:丸山「日本の思想」p43 三.『フィクションとしての制度とその限界の自覚』より(トルレチの引用も)
*5:小室直樹著「痛快!憲法学」p40〜