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2006-3-04
■[デッサン][近代思想][言及した]質問と回答の想ひ出祀り

前々から人力で気になってた、
わたしが後になって思いついたことや分ったことを書き付けていく
もう誰も見てないのに この無駄無駄なフォローのオンパレードを 残念さ堪えて書いてます
さあ、それでは、はりきって歌っていきましょう。どうぞ。
「宗教と社会の関わりについて、各国比較調査が行われたらしいんだけど」
【政教分離-各国で比較】8/20の丸激(政教分離特集)において、宮台真司氏が例にひいた近代国各国の意識調査のことについて調べています。各国市民対象に宗教と社会の関わりについて聞いたところ、
「『社会に宗教は重要だと思うか』と聞くと、西ヨーロッパでは4割を超える人がYESと言う国は、無い。しかし、米国では7割を超える人がYESと言う」との結果が出たそうです。
たとえ同じキリスト教圏であっても抱える歴史の違う国同士のこと、ましてそこへ東アジア国を含めるとなると、一体どんな設問を立てて聞いていたのでしょうか?もしくは、どのような設問を立てるのが有効なのでしょうか?興味津々です。
※前に同じ質問をしてますので、必ずここを目を通してからお答え下さい。
http://www.hatena.ne.jp/1124281929
※わたしの調べた限り、日本語ページでは調査元など突き止めることは出来ませんでした。もちろん、英語ページで構いません。
これは、8月半ばに第一段を開始したものの5週間で回答が出ず、再質問した時の質問文。
この質問の意図は、今さら言うと実はあれは小泉の靖国行く行かないの時期で、その間、せめて人力の他の質問・回答で「政教分離」をめぐるガサツな説明を目にしたくないなという個人的「美意識」があり、「政教分離とはナショナリズムが国民国家意識が、歴史が、あーじゃこーじゃ」と習いたてだけど好きに発言する場を自分で設け、適当な宗教観・政教論が出てきそうな空気を遠回しになにげに牽制したい、というつもりなのであった。
実際、一回目開始の8月半ばから2回目の終了の10月29日まで、政教分離や靖国にまつわる目立った質問を目にすることは無かったのだが、果たして功を奏したのか、ただの偶然で気のせいなのかは定かではない。
また、ガサツとまでは決して言わないが、フランスでのムスリム女性のベール問題といった、表層的なニュース記事事象のみ眺めてみても、政教分離思想の概要すら掴みきれないのではないかと思う。
結局、8〜9週間かな、質問を掲げていたが、結局は回答者から回答は出なかった。すぐ出なかったのは、質問の本意からして幸いというべきだった。
もちろん、わたしも当初全く知らずに質問をしている。回答は得られず、最終的に自分で調べて、いわしに投稿した。
当初から、「社会学かもしくは宗教社会学」の調査だろうという思い込みでわたしもたまに調べてみていたが、それでは一向に引っかかってこなかった。
宮台先生が好んで2回も引き合いに出したことから、
- どんなに古くても10年以内、おそらくここ6〜7年以内に実施かまとめられたもので、
- 学術的にある程度”権威ある”(これでいいんだっけ?言葉をど忘れ)
この2条件を備えてるもの、と見込みつけていた。
いよいよ2回目のも4週目入った、ある平穏な夕暮れ時のことであった。
夕飯のみそ汁を煮ながら「あの質問の決着、どうつけようか」と念頭していたら、
「社会学ニトラワレテ調ベナクテモ、別ニイインジャネ?」と、突然、脳内にお告げが降りたのだった。
そこでガスを切り、パソコンに向かい宗教社会学ではなく「宗教学」というくくりで検索を始めると、ものの数分もせぬうちに次のページに行き当たったのだった。これが決め手となった。
- 『WHOが"spirituality"概念の標準化を求めた経緯について』(PDF)
http://www.circam.jp/report/getPDF.php?id=3
ところで、実は、宮台先生が引き合いにしていたのはこのWHOの調査だったのかどうか、未だに確証得ていない。いずれ何かの著書でぶちあたってはっきり分るだろうくらいに考えてたら、はや年を越してしまいました。
ただ、上の2条件を充たしてるというと、このWHOの調査くらいしかなかったと思う。
追伸:
一回目の方のいわしで、別の方からのコメントを頂いてたのに、たった今気がつきました。すみません。
「裸族の性生活って」
女性がほとんど裸体に近い格好で生活しているような民族というか部族がアフリカなどに存在しますが、
そこに属している男性たちはどのような性的志向を持ち、どのような性生活を送っているのでしょうか?
例えば、彼らは女性の胸などに対して性的に興奮したりするのでしょうか?また、いわゆる「愛撫」をきちんと(?)行ったりするのでしょうか?
まず、「裸族」かどうかの境界問題とか。
女性の乳房は、太ももは、おへそは―――。
17世紀の貴族の女は乳房を高くコルセットで上げて乳首も半ば露出していたが、そんな時代の人から見て、股間やお尻にぴったり密着させた現代の女性のジーンズ姿の方が、「裸族に近い」格好として映るだろうと思う。
「日本人も最近までは裸族同然だったのではないか」と回答したのだが、ここで決定的な例を挙げそびれてしまってた。
実は単にこれが、心残りだっただけなのです。あは。
銭湯の混浴なら明治半ばまでで廃れたかと思っていたが、以前にNHKアーカイブスの昭和22,23年のニュース映像にて、東北のある村に突如湧いた温泉について報じるなかで、老若男女が30〜50人だったかが一斉に詰めかけて身を寄せあい混浴で浸かっているという、凄まじい光景を観たことがあった。(古き良き日本人観って何)
ということは、昭和のある時期までは、地方において混浴は当たり前だったところもあったのだろうか。
そういえば、成瀬巳喜男監督映画『浮雲』(1955年)での温泉地の場面。旅館内のではない、町の公衆浴場だったが、そこでも混浴が当たり前っぽいみたいだった。脱衣場も男女一緒で、シミーズ姿のデコちゃんの横で、近所のおじさんたちがやって来て服脱いでいく、という状況。さらに出入り口から脱衣場を隠す仕切りも無くて、戸を開けたら外からも丸見えになる感じだった。
また、大学時代、九州の山村の出身だったある先生が、子どもの頃(昭和20年代?)まで村に夜這いや若衆宿・娘宿の風習が残っていたと語っておられてたのも思い出した。
あと、回答で挙げた本などからも、性的な関係を持つ/持たないことでその個人の「尊厳」みたいな根本的なところに結びつくようになったのも、わりと最近の人間からなのではないかという印象をもっている。
そう捉えると、昔の、夜這いとか子どものセックスとか身売りするということの(苦笑してしまうほどの)敷居の低さも、今の道徳意識で捉えたりせず、イメージしやすいものとなる。
「昔は性的にはおおらかだった」という表現もしたくない。性規範の「ルール設定」が、現代とは違うところにあるというだけのことだと思う。
例えば、回答でも挙げたように、処女や童貞の筆おろしの時は「穢れが発生する」ことを畏れて巫女や宮司にお祓いしてもらいながらセックスする、というルールは現在はもうない。
この場合の「穢れ」とは、汚れというよりも、単純に「境い目」の“こっち”と“あっち”をまたぐ時、人間はなぜか畏れと不安を抱いてしまう、という意識からくるタブー観である。
『末子成功譚』--ローティーンで出産して、30歳前後には孫ができてる、という昔のライフサイクル。
これは、民話についての質問だったけど。http://q.hatena.ne.jp/1133482994
3番目回答欄でのわたしのコメントについて、もう少し付け加えると、
「ローティーンでも出産して…」というのも、昔の人は、子どもを保育園入れたり高校進学さたり、塾に行かせたり電気水道代払ったり、といった親としての甲斐性を様々に要請されることもなかったから、子どもが子どもを産んで育てるのも可能なくらい、今みたいに複雑で大きな社会ではなかった、というだけのこと。
あるいは、育てられないと「子返し」といって親が死なせても罪に問われなかったという慣習もあったかと思う。
もし、他の処でだけど、誤解される向きもあるのかなと思ってちょいと。
虚構の人間への愛について
以下の議論へ感情的な反論と理性(論理)的な反論の双方を書いて下さい。
A1.人間は外部世界(外部)を認識する
A2.外部は認識によって内部世界(意識、内部)に現れる
A3.外部の認識はいつも不完全である
C-1:内部化された外部は外部そのものではない
B1.外部の如何なるものも内部によってのみ制作されうる
B2.内部によって制作されたものは、外部のそれと比べて差異は無い(eg 夢)
B3.他人は外部の一つの物事である
B4.よって内部によってのみ制作された他人と、外部のそれに差異はない
B5.内部によってのみ制作された他人への感情(愛)と、外部のそれへの感情(愛)に差異はない
C-2:内部(虚構)の他人への愛と、外部(現実)の他人への愛は同一である
C1.同一の質的な面で二つの物事の一方が勝っている情況において、人間ならば質的に勝る方を取る
C2.内部で制作されたものは、理解という質的な面において外部に勝る
C3.理解は愛の必要条件である
C-3:人間は虚構への愛を取るべきである
D1.C1の対偶を考えよ
C-4:現実の他人に愛を抱く者は人間ではない
前提:語義の一般性、意識の存在
2番目での回答の元ネタは知る人ぞ知る、大澤真幸先生著書『恋愛の不可能性について』である。
ソール・クリプキの可能世界と否定神学とを合わせ技にするというアイディアは、大澤先生オリジナルだったのかどうかは、知らない。
その12番目のは、ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」。これはまだわたし自身、消化不良だった。「愛というのは抽象だから一概にはなんとも論じられない」としてしまってる他の回答に対する異見をしている。「抽象か具象かの境界というものがある」という前提にしてたら、プラトンのイデアの話に退行してしまうのではないか。
芸大受験志望、デッサンの勉強って
3. 回答者:YOW (58) 2004/11/06 18:56:31http://www.hatena.ne.jp/1098703535
先月にやはり大学入試のためのデッサンの質問がかかって私も回答したのですが、こちらも御参考下さい。
まず、たとえ「芸術」であってもやるべきは受験勉強であるので、美大芸大受験のための参考書を何冊か購入したほうがいいでしょう。
それと、前回「絵を早く上手く描くには」という、あくまで余暇にやる趣味の絵として始める人向けとして参考になる本も色々薦められていましたが、これから専門的にやろうとしている人には、そうした本は私は大してお薦め出来ないです。
「そうした本」というのは、この本の事だったんだけど。
絵を右脳で描く―「描く能力」が劇的に向上 (朝日カルチャーセンター講座シリーズ)
- 作者: クリスティンニュートン,古賀良子,Kristin Newton
- 出版社/メーカー: 旬報社
- 発売日: 2001/10
- メディア: 単行本
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タイトルがなんか疑似科学ぽくてうさん臭いと思って(失敬)「必要ない」などと決めつけてかかってたけど、後になって、初めて中をパラパラッと見て、大変理にかなった訓練法を考案してあるのが分ったので、2年越しで前言撤回したいと思う。
どうもすみませんでした。
でも、内容的にも右脳、左脳なんて言葉使って説明する必要性は、別にないんじゃ…?という印象はあった。
今手許に本がないので正確に書けないけど、要するに、画塾とかに行くと大抵、先生は「モチーフをしっかり見て描け」としか言ってくれなかったりするんだけど、わたしも現在成人対象に教えているとよく訊かれるのが「デッサンはよく見て描けって聞くけど、その視方が分らない」とという質問が出てくるわけです。
「素直によく視ればいい」とアドバイスするのは「嘘だ」と思ってるから、じゃあどう言えばいいのか、いつもかえってわたしの説明はややこしくなる。
やがては「わたしの目って、オカシイんでしょうかね?」とご自分の視力を疑い出す人までいる。
いえあなたの目のせいではありませんよ。訓練しないと、精密デッサンで捉えるように「視えてこなくて」当たり前ですよ、おそらく生物学的に。てか、普段からそんな視え方だったら、病理。
この本では、デッサン的「視る仕方」のレッスンのアイディアが色々考案されてあって、どれも理に適っていて、お薦めしてもいい内容だった。
普段、わたしたちは「偏見に凝り固まって物を認識し捉え、大雑把に処理している」生き物であって、そうだからこそ、逐一疑問にぶつからずスムーズに日常を過ごすことが可能なのだ・・・
あ、ジョン・ロックの「自然状態の人間の理性」ってこういうことを言ってたのかなと今、閃いた。
あの参考URLの方の質問者の彼女はどうしているだろう。質問履歴から、随分直前まで進路について逡巡してやっと決心ついた様子だったのを見て、回答をした。
あの時は準備不足で入試落ちたとしても、また学芸員目指してチャレンジすればいいと思うんだけどなあ。
それと、受験生は参考書を、ちゃんと買おう。
「あざやかな喩え話」
鮮やかな「たとえ話」を紹介してください。
該当部分のコピペか、そのHPのURLを紹介いただけるとうれしいです。
できれば出典がはっきりしているものをお願いします。引用するとき、出典も示したいので。
4. 回答者:YOW (58) 2005/07/21 23:26:19わたしはまずこの2ch書込みを思い出しました。
2ch社会学板の質問スレで見かけたものです。
どなたかがドラマツルギーという概念について質問をされて、それへわたしも普段思ってもなかった解説がレスされていて、新鮮で大変面白く思いました。
どこかの大学の先生がレスつけられたんだろうと思われます。
(転載)-----------------------------
202 :名無しさん@社会人:04/07/22 19:35
ドラマトゥルギーを最近起こった出来事を実例にして説明してくれませんか?
204 :名無しさん@社会人:04/07/23 00:49
>>202
ドラマトゥルギーってのは別段特異なことを
指してるんじゃないよ。
人が何かをする時には、いかにもそのことをしているようにそうする、ということ。
例えばエレベーターに見知らぬ人と一緒に乗ったときに
さも互いに相手のことに関心が無く意識してない様子をして
何か別のことに気を取られているようなそぶりをするとか、そういうことだな。
(例えば階数表示をじっと眺めるとか、時計を見るとか、
何か考え事があってそれについて気を取られているそぶりをするとか)
この場合ややこしいのは、相手のことを意識していない様子をするということが
相手への配慮だったりすることなわけで、したがって
本当に相手のことを意識してなかったりするのは非礼になってしまう。
(無遠慮にのびのびくつろいだりするとか)
相手に自分が相手を意識してないのだとわかるように、
いかにも相手に無関心そうなそぶりをしなくてはいけない。
そういうややこしい作法を我々はしてるんだよというのを示しているのがドラマトゥルギー。
この「ドラマトゥルギー」というのは、アメリカの社会学者アーウィン・ゴフマンの概念、だそうです。(現在社会学であまり採用されないようになってきてるらしい。)
参考ページ:
http://www.f.waseda.jp/ohkubo/2003B-6.htm
http://ofc-hjm.misc.hit-u.ac.jp/hjm/GS/Lectures/98Chuo.html
http://ofc-hjm.misc.hit-u.ac.jp/hjm/MyDesk/Bib/1991a_pr.html
*1:『多様性のヨーロッパと宗教性のアメリカ 』(熊谷徹氏)より。『(宗教と政治に関する世論調査で知られるワシントンの)ピュ−・リサーチ・センターが去年春に実施した世論調査によると、回答者の68%が、「大統領は強い宗教心を持つべきだ」と答えている。その中でも、特に福音派プロテスタントの間では、大統領に強い宗教心を望む人の比率が、87%と高くなっているのが目立つ。さらに、福音派プロテスタントの内、「政治的発想の中で宗教は重要だ」と答えた人の割合は、1992年には51%だったが、現在では58%と増えている。・・・米国では有権者の85%が「宗教は自分にとって重要だ」と答えているのに対し、ヨーロッパではキリスト教が社会で持つ意味は、米国ほど大きくはない。2004年6月に発表された調査結果によると、各国で回答者の83%から90%が「家族との生活が最も重要」と答えたのに対し、「宗教が最も重要」と答えた人は、大半の国で全体の24%から34%にすぎなかった。』など。他の調査も挙げられている。








