2006 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2007 | 01 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2008 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 |
2010 | 01 | 08 | 09 | 11 | 12 |
2011 | 01 | 03 | 04 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 |
2012 | 01 | 05 |
2007-9-15 殺せ/殺さなくてもよい/殺しても殺さなくてもよい
■[アート][言及した]殺せ/殺さなくてもよい/殺しても殺さなくてもよい

なぜころ宿題の再開を1年ぶりにしようとしているんですが、自分が選んだ課題図書が増えて、更新までに未だ一ヶ月以上猶予欲しいところ。
前回「民主主義」の回(id:YOW:20070719、id:YOW:20070720)もそうでしたがゴール地点はそんなに大きくぶれるものでもないので、過程で何を拾って繋ぎ合わせられるかが、最も大きな課題になります。
そして、そのゴールには「それでも殺してはいけません」というような悲愴さは、置かない。
「それでも**してはいけません」と断固決然禁止しても、裏腹で「**なされる可能性も開かれよ(造反がなされよ)」という好奇な期待感が密かに貼り付いてしまうものなのだ…
- わたしもまた色気の業が強いもんで、こういうみのもんた的なイヤらしさには敏感ときてる。
ベトナム戦争当時、岡本太郎が『殺すな』の新聞意見広告を出したのは有名なのですが、
わたしもアフガニスタン攻撃の時、いわゆる「反戦」のためのポスターを制作提供した時に、「反戦」「**反対」といった抵抗の言説に依るのは、現代ではあまり有効ではないんじゃないかと、何となく表現の技巧上の勘みたいなものとしてありました。
ところがその感触を言葉で表そうとすると、結局「スローガンなんて掲げるな」というように、「**するな」の否定のループに陥ってしまう。ループをほどくには、ゴーストやイマジネーションを参照するのではなく、言説を拾い集めるしか方策はない。
「殺せ」の否定は「殺さなくてもよい」
今日のタイトルの由来は、以前mindさんとのTwitterでのやりとりからで出たものでした・・・
その前に、次のような喩えをわたしは挙げていたのでした。
「殺すなかれ」の戒には、「殺せと命じれば殺せ」という指令も裏腹に貼り付いている。「殺すなかれ」と戒めるだけだと、神というのは人間界の倫理に「補足的な権力を与える存在」に過ぎなくなってしまう。
矛盾した命令両方に人間を服従させることで、ヤハウェの人間界での「倫理」の支配もようやく完了させることが出来たのだ。―――
古代にこの聖典を作成した人は、政治の天才だったのだろう。
全体主義体制では「Aをするのは義務ではない」という非義務(義務の外部否定)と、「非Aをしなければならない」という禁止(義務の内部否定)との違いが判然でなく、非義務が禁止に短絡し「事実上の禁止」になる傾向があるという。日本の企業や学校でもありそうな話。』
(ex.いじめで「君はもう来なくていいよ」と言えば、「もう来るな」と命令してることになってる)
「殺せ」の論理否定は…。命令の助動詞「べし」を補って考えると…許可の助動詞「よし」とペアにして様相論理に乗っかってきて…。「殺さないでよし」がスッキリした答え。「殺すべし」「殺さないでおくべし」「殺しても殺さなくてもよし」と3値論理を表現できる。』
(↑mindさんによる解説:http://d.hatena.ne.jp/mind/20070922/p2)
そんなこんなで、論理学も何か読もうと、背中を押されたのでした。*2 ←ム。殺伐とした話題の中で、ここがちょっと[いい話]か。
快不快原則の内側と外側
『倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。 説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース、という類の回答はご遠慮ください。 』
更に「功利主義を持ち出さず」というルールも課した命題にしてたら、質問者も回答者もどう考え巡らせただろう?
宗教的儀礼はネアンデルタール人からすでに始まっていたと考えられている。人間は、人間のことも、植物も動物も地面も天候も、有用か有用でないかの「道具」のようにしてしか見なせないから、「有用性の閉塞感」を超越した「無為なもの=聖性」を見いだそうとする。脱呪術化(世俗化の徹底)によって、再呪術化への横滑りが起る――。(参照:id:YOW:20070719の下の方、<今回のムスビ>)
なぜころ命題は、人間社会の内側の問題に過ぎないので、宗教や生物界といった外側に基準を求めるよりも、人間社会の内側に封じるのがわたしは正統なのだと思ってます。
内側で解決を求めれば、功利主義的(損得、快不快)になる。
しかし功利的説得は、「失いたくないものを持ってる者」にしか効かない。失うものが無いと感じてる人が、逸脱を犯すものだ。
そこで人間社会の「外側」に参照点を一旦とるため、フィクションの力を借りることになる。形而上への感受性がここで必要になる。(信じる/信じないではなく)お好みで、宗教でなくてSETIでも良いけど。
「社会的な作品」
メーカー・ ギャラリー 系ドキュメンタリー 写真家系の人々(さらに長っ!)は、
ドキュメンタリー 写真にとって必要な、コンテクストの扱いがじつに粗雑です。
そうした人々は、コンテクストを動かしようのないもの、
誰もが否定できないものに設定します(正確には否定しづらいか?)。
ダメな ドキュメンタリー 写真家系の人々は、
それぞれの写真に写し取られた対象に固有のコンテクストの力を借りることによって、
観る者がテーマに アクセス できるよう見せ方を構成していくのではなく、
「人を殺してはいけません」「戦争はいけません」「平和な世の中をめざしましょう」
「人を欺いてはなりません」「お互いを尊重し愛し合いましょう」……といった、
何にでもあてはまるようなコンテクスト、というか、漠然としたムードに、
ベタベタに頼り切ってしまうような傾向があります。
印象に残ってたあることを思い出していました。
以前、あるフォーラムで、アーツ・マネジメントのプロフェッショナルな企業文化事業担当やNPOの方々が、作り手への漠然とした希望として「もっと社会的な作品を」と仰ってて、その言葉にどこか妙な違和感があって、却って刺激になったりしました。(それへの異見は会場で出なかったし、どう言えば良いか分からずわたしも黙していた)
「社会的」なテーマはあるとして、それを社会的な仕方によって扱う作品を・・・か?むー。
なら、大して面白くなるとも深いものになるとも思えないのだ。ただ漠然と仰ってただけだとは理解してるけど。
ビエンナーレのボランティア経験者の中から、「親として子どもに安心して見せられないような過激な作品が色々あって、ああいうのはもう要りません」と言う方もあって、
そのように斬り捨てられる「社会的」から見て異形なものの中に、皮肉にも秀作が数々含まれることになるんだろうな、とも。
mindさん:『ナイショの魔力 と物語脳。(理性の限界に関連して) 』
一昨日、『可能世界・人工知能・物語理論 (叢書 記号学的実践)』という本を買いまして、こういう話は面白いから、なんかレスでまとめるよりまたタイトルで仕切り直したくなりますね。(ブ厚いので、読了・まとめに時間がまたかかるけど)
神様が遡及的幻想に過ぎないのとともに、「使命感」「天職」もやはり「遡及的な幻想」(曰く物語脳作用)に過ぎない。
有用性を見つけようとするから、因果関係を線的に見て「偶然ではなく、意図ある必然」と理解することになる。(陰謀史観、『X-ファイル』『ダ・ヴィンチ・コード』、etc)
- 「自然な恋愛」でいうと、合コンで知り合うよりも、「落とした定期券を拾ってあげたら」のような偶然の出会いで生まれた恋愛が、ロマンス的には望ましい。by ラーメンズ『机上の空論』
で、問題は、幻想なのだ(「モダンの矛盾なのだ」)と自覚した上でなお且つ、「使命感(!)」が降りてこなければ、民主主義とは「神々のみに可能な政体」(byルソー)の域から、降りてくることもなかったわけで。
「命がけの飛躍」、byニーチェだったかな。根拠なき方へのダイブ!
不在、幻想として自覚されてもなおそこへ人間を跳び込まさせる、
そんな近代のフィクションの魔力っていったい――(ゴオォォ…
当のエントリー記事書いた後、「しゃーないから従おう」というのでは「最上位に定式化」しているのと変わらない、と自分でも他のはてブ※で書いたけれど、天皇制については、今の日本には代替しうる何かが未だ無いから、「しゃーないから従おう」と言うしかないですね。
- 国民やゴシップメディアの期待している皇族像では、常に疲弊し困惑した笑顔を浮かべ、「不適応」からの心労で健康障害を示すことによって「皇族として適応的」と見なされる。それは、宿命なので従おうという姿。
犯人が誰か、皆が知っている結末でも、そのサイドストーリーを作る遊びがなされれば、やはり物語の吸引力は弱まらない、と。
- あるいは、ex.「僕と・・・結婚してくれないか?」死亡フラグ立ってるYO!/「次週の大河は本能寺の変、ご期待下さい!(もーイラネー。)」 それでも視聴者はつき合ってくれる。
あ、そうそう、わたし『勧進帳』が好きなんですよ。弁慶らの最後を日本人はみな、頼朝に追いつめられて殺されることを既に知っている。
最後は負け戦であっても、『勧進帳』で知力を尽くす弁慶は、本当に輝いている!
これ、またネタに使いたいのでとっておきます★

それでは、このへんで。今日はヱヴァンゲリヲン観に行ってきます!

追記:9月17日
ひょっとしてdivクラスの編集ミスで、ずっとスタイルシート崩れてた?
はてダって、編集してるうちに、前に書いたことがとんじゃったりする。。
更新完了した一昨日は崩れてなかったんだけど、泣けるぜ。
*1:アガンベン『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』p.74より:『主権原則に対するおそらくは最も強い異義申し立ては、メルヴィル作『代書人バートルビー』で。バートルビーは彼の言った「しないほうがいい」によって、する潜勢力としない潜勢力とのあいだでの決定のあらゆる可能性に抵抗する。これらの形象は主権のアポリアを限界まで押しやるものである。とはいえそれらもまた、主権的締め出しから完全に自らを解放することに成功しているわけではない。(「しないほうがいい」という形式が示しているのは、)締め出しの解消は、論理的ないし数学的な問題を解くことに似ているというよりは、謎を解くことに似ている、ということ。ここにおいて、形而上学のアポリアはその政治的本性を示す。』
*2:
- 作者: マリー=ロールライアン,Marie‐Laure Ryan,岩松正洋
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 2006/01
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 48回
- この商品を含むブログ (32件) を見る







