蠅の女王

2016-1-16 現代美術における引用と、歴史文化の「動員」

Manit Sriwanichpoom

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 昨年12月19日、東京本郷にて、『歴史を描くこと ―絵画と、漫画や映像のストーリー芸術と―』というトークイベントを開催しました。漫画家の速水螺旋人さん、社会学者の北田暁大先生、社会学者の稲葉振一郎先生にご登壇頂きました。

 私の提示した「美術で正史を描くとはどういうことだったか」で時間が押してしまって、ストーリー芸術における偽史ものの話があまり出来ず、問題提起の前の段階の、背景説明の段階で結構時間使ってしまいました。ストーリー芸術の話をして頂くのが短い時間になり、残念でしたし、皆様に申し訳なく思ってます。

 私の発表は、なにぶん美術史専門家ではないので、自分が直に鑑賞した作品について同じ描き手としてどう考えたかを中心に、あとは調べたことを付け加えました。

 私の一通りの発表後、北田先生と稲葉先生から「考えるポイントが幾つかありました、」と言われましたが、時間の関係で「HOW(いかに描くか)」と「WHAT(何を描くか内容)」の問題についての一点だけ触れられました。(HOWとWHATの話については来月に書きます。)


 「偽史を描くとはどういうことか」については、私も連作作品で偽史を描いてはいますが、ストーリー芸術での事例の知識が乏しく、稲葉先生からは存在論の話も出て、自分の手に負えないところがあります。ひとまず、ここでは「正史を描くとはどういうことか」の内容と、そこに至った問題点を上げておきたいと思います。

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歴史ものと時代もの

 レジュメを考える際、稲葉先生のご著作『モダンのクールダウン』を手がかりに、また、途中で稲葉先生から直接、助け舟の手がかりを頂きまして、歴史と言っても時代ものではなく「歴史もの」について話すこと、「正史を描くということ」と「偽史を描くということ」の二つを二本柱立ててみるということにしました。

 ちなみに「時代もの」とはつまり時代劇の類いのことで、稲葉先生曰く「終わらない江戸時代(終わらない夏休み、終わらない学園生活と同じく)」、ローカルなお約束とガジェットを弄くったり操作することによって形作られる物語であると。ファインアートでは、山口晃さんの作品がまさに「時代もの」に当てはまるかもしれません。著書では、時代ものに類うものとして、ジャンルSFやジャンル・ファンタジーが取り上げられてもいます。


 最初私がずいぶん悩んでしまったのは、美術の方から何か話をしようと思っても、良い例というのが中々浮かんでこないことでした。観に行った展覧会数が少ないせいもあるのですが、現代の作家の話がなかなか良い例が思い浮かばない。打ち合わせの段階で、ストーリー芸術の話で盛り上がってるところへ、美術の方ではこうですという話がどうも挟みにくいなと感じました。19世紀歴史画からのナショナリズム、オリエンタリズムとの関連について話をしようかとも思ったのですが、これも、私だけでは荷が重いテーマでした。例えば歴史画の衰退を招いたのは何だったのかな、と考えてみますと、まず絵描きたちが正史を描くことを担おうとしてきていたこと、そして1930年代からグリーンバーグ等モダニズムの批評家から歴史画、リアリズム批判が出てきたと。抽象表現の隆盛と現在の狭間に、コンセプチュアルアートがある、という流れが思い浮かびます。現在、日本では戦争や戦争画をテーマに発表しだした日本の作家はいますが、いきなり「戦争」といっても「今の自分等にはリアリティも無い」という実感から出発せざるをえず、とりあえずアートの文脈とやらに沿わせて、せいぜい異なったコンテクストのモノ同士でくっつけた「萌えと戦争」「カワイイと戦争」や、自意識系の作品が、『美術手帖』2015年8月号*1や、『戦争画とニッポン』*2という本でも紹介されています。「そんなのセカイ系でしょ、もう古い」と指摘がされました。セカイ系とは、主人公の自意識と戦争状況などが直結してるような、中間の背景が無く、自分と超遠景の背景しかないという構造の漫画やアニメを差しますが、そうしたセカイ系が今まだ連綿と、漫画でもファインアートにおいても出てきています。特にファインアートで、そこからまた歴史画やろうかという人が果たして出てくるのか、面白い表現が出てくるのかは、よく分かりません。

 また稲葉先生から「なぜ歴史画を現代にやるのか、小倉さん自身は未だ分らず踏み出しているのではないか」と訊かれたのですが、育った環境で近現代史に子供の頃から関心を持つようになったのと、情操教育に熱心だった親に古典の美術展をよく観せてもらっていたので目だけは肥えていたのと、ポストモダニズム以降、リアリズムの具象で近現代史を扱ったりストーリー性の強い絵画をやるというのが国内外でもちょうど空席状態だった、といった戦略的理由もあります。確かにジャンルとして廃れたリアリズムの歴史画を今やるとなると、構想をよほど固めておかないと、一見して風俗画と区別されないものになります。また、もう一つ、北田先生と稲葉先生に指摘頂いたのは、歴史的出来事には既に強い引力があり、その引力に作品が負けるということは考えられないか、と。その指摘について、また後ほど考えてみたいと思います。

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 当日の話では、「正史を描くこと」の前に、戦後、近現代史を扱った作家・作品の紹介をかいつまんで致しました。

 その次に、正史を描いたものとして、明治神宮聖徳記念館絵画館についてと、藤田嗣治戦争画

 その次に、フランスの美術アカデミーとロマン派について。この3つに話を分けました。

 この日付では、戦後の近現代史を扱った作家について、話したことと、新たに内容を付け加えて書いていきます。内容は、森村泰昌さんと、昨年開催されたディン・Q・レ展についてに、絞ります。

来月再来月に、「正史を描くこと」の内容を書き出したいと思っております。

森村泰昌と、引用のスノビズム

 セルフポートレートで歴史の中に入り込む作風では、シンディ・シャーマン森村泰昌さんがパイオニアでした。後に1994年『フォレスト・ガンプ』という映画が公開されました。

"Untitled Film Stills" Cindy Sherman 1977年

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 『Untitled Film Stills』シリーズはシャーマンの出世作になりました。上の一点では、架空のヒッチコック映画のスチール写真のようです。

『なにものかへのレクイエム』シリーズ 森村泰昌 2006-2010年

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f:id:YOW:20150227212505j:image:w250:right 森村さんの『なにものかへのレクイエム』シリーズは兵庫県立美術館での大々的な回顧展で観ました。マッカーサー天皇会見の引用のですが、私のものとは半年くらいの僅差で、森村さんに先を越されてしまいました。まあ内容はまた違うので良いかなと。

 チャップリンの『独裁者』、三島由紀夫の檄、アンリ・カルティエ=ブレッソンが撮った尋問されるゲシュタポ女性。他に、1920年のレーニンの演説を模して釜ヶ崎で撮られた映像も出品されていました。

森村泰昌 『なにものかへのレクイエム(VIETNAM WAR 1968-1991)』2006年

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 これは南ベトナムの少将がゲリラを処刑している有名な写真の引用ですが、1992年にタイのアーティストで、ベトナム戦争時の有名な報道写真のパロディを、写真作品にして出してる人が既にいます。

Manit Sriwanichpoom 『Be Links』シリーズ 1992年

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 今のアートシーンで、歴史をテーマにしてる人となると実際少ないと思うのですが、こうした歴史的場面をモチーフにしたとか美術史上の有名作品を引用した作風となると、アートマーケットではよく見られる傾向があります。

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 上の2点はニューヨークのチェルシーで観た作品で、クールベの『世界の起源』引用と、右が、中国で縁起物として描かれる馬を模してますが、金網で作られています(この作家さんだけ名前が分りません、すみません)。*3

 真ん中左は『メデューズ号の筏』、右は台北のフェアで出品されていた大作で、山水画を模してますが、虫ピンを点描状に刺して形作られています。下2点は同じく台北のフェアにて、左はタトリンの第三インターナショナル塔で、右は唐時代の俑ですね。いずれの作品も完成度はとても高いものです。あと、ニューヨークのミッドタウンでは、毛沢東のアイコンを使った違うアーティストによる作品が何点も見られました。こうした、美術史の引用ということでは、似た表現が各国で今後もドンドン出てくるでしょうし、ほとんどの場合、スノビズムとパロディの域です。一方、アートを買う客側にとっては「ラグジュアリーなアートが欲しい」のであり、ラグジュアリーさということであれば名作の引用・スノビズムであっても充分なのであり、私にも「自分の室内を飾る」ことを考えれば、そうした消費者側の気持ちはよく分かります。そうなると、あとはひたすら、手法(HOW)のバリエーションで差別化するしかない。そして私も引用を多用していますが、引用は、見る人に伝わり易い利点がある反面、こうしたただ横に広がるバリエーションを追求することに、なり易い。思わず、引用を詰め込んでもスノビズムには陥らなかったゴダールを、改めて尊敬してしまいます。


 また、歴史を扱った作品というと、私もそうですが、リアリズム表現と結びつきます。リアリズムといっても再現描写を目指すだけなら、それはまさにグリーンバーグが批判していた「キッチュ」に他ならないでしょう。絵画のリアリズムについては、改めて再来月に書き出したいと思います。


歴史文化の「消費」と「動員」

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 今年の森美で展覧会のあったディン・Q・レという方ですが、元は南ベトナム出身で、ベトナム戦争後まだベトナムにおられたようですが、ポルポトの侵攻を避けて1978年にアメリカに渡ったという方です。枯れ葉剤による結合双生児や共産党などベトナム戦争を題材にしてますが、彼はアートワールドで成功するにはとりあえず「アートの文脈」とやらに乗せねばならないと考えたのか、その結果こうしたポップな表象に行き着くという、スーパーフラットポストモダンにおいては何でもポップで趣味的(共産趣味など)になってしまう、そこがなんともモニョモニョする展覧会でした。



 ここで創作であり且つ「消費されている」という言葉を使いたくなるのです。コミックやほとんどのストーリー芸術の場合、複製による鑑賞が基本であり、オリジナルに対し「礼拝的鑑賞」とかサイトスペシフィックの問題があまり起こらないので、ディン・Q・レの一連の展示内容が漫画として発表されていたら、私もあまり気にならなかったかもしれない。森美術館のような場所に展示されたとたん、何かイヤらしいものになってしまう。いわゆる「ホワイトキューブ批判」ですね。

 先に紹介した第3インターナショナル塔を模した作品も、タトリンやソ連の歴史に所縁のある人の元・場所にあるのでなく、所縁の無い現代作家がアートフェアとかに出展されていると、「タトリンが動員されてる」とか「歴史文化が消費されてる」という感じを持ちます。ディン・Q・レ展にしろ、アートワールドの文脈に則ってると観てしまうと、途端に「消費されてるな」と感じる。

モダンのクールダウン

モダンのクールダウン

 この消費というのはどういうことかですが、稲葉先生は『モダンのクールダウン』の中で、アレントによる「労働」「仕事」「行為」を導入にして、芸術の消費について書かれていきます。アレントで、この「消費」に対置されるのが「公共性」と説明されます。そこでは、「労働」に属するものが娯楽、「仕事」「行為」に属するのを文化と位置づけ、娯楽と文化を峻別させています。娯楽は生存のために必要なものとしています。

アレントのイメージでは、「労働」とは物質代謝であり、そこで生産されるものは生存のために結局は消費されて、消えてしまう

 アレントはマルクスだけでなく、ギリシャ哲学における労働観も念頭にしているようですので、娯楽は生存のための休息として考えられ、対して文化は「生存のためにやる労働から自由」な状態での活動や創作ということになります。

(…)彼女にとって今日の大衆社会における「文化の危機」とは、消費の対象としての娯楽が商業化されて公共世界の前面を占拠してしまい、文化・芸術の生息の余地を狭めてしまうということそれ自体ではありません。そうではなくて、文化・芸術が商業的消費の対象とされてしまう、ということです。

本格的な文化の破壊は、単なる文化の商品化を通り越し、文化が商業的娯楽生産のための資源として乱獲され、搾取されるところからはじまるのです。

 消費と似た意味合いで「搾取」という言葉もありますね。

 アレントの話を部分的に抜き出すと誤解が生まれそうな気もしてきたので、アート関係の方には実際にこの本を読んで頂きたいのですが、「消費」から芸術の「所領から資本化へ」という話に移ります。それは、ロザリンド・クラウスの『オリジナリティと反復』にて「最初の近代芸術」と書かれたロダンの「地獄の門」の例も思い起こさせます。

可動性とは売り買いできること、換金できることであって、その存在意義はもはや世界の部材となることではない。売れるということは、換金されてそれ自体としては消滅する、ということである。つまり全面化した商業世界の中には、「作品」を消費材に、つまりは「仕事」を「労働」に買えてしまう力が働いているのです。

「作品」が消費材に変わるということは、また同時に財産が公私の境界を構築する、いわば「所領」から、単なる商品としての「資本」へと転形する、ということでもあります。このように考えるならば、娯楽と文化の対比は、「労働=(資本主義的商品)」と「仕事=作品」との対比に、ちょうど対応する、ということになります。

 この芸術作品における、所領から資本化への話は、西欧の政治思想史等の知識を経ないと、なかなか理解されにくいかもしれません。芸術界隈ではすぐベンヤミンアウラの話になるところですが、文化や芸術作品も近世までの場所に由来した「所領」から近代以降の資本化とは、固有性を亡くし、等質な商品の連関へと投げ込まれるようになったことである、と。そして資本化から、物量的動員による「テーマパーク型環境」の所与性の問題(または動物化)へと本では繋がっていきます。

 

 私が芸術作品に対しなにがしかの由縁にこだわり、自分の創作においては、知識の詰め込みによってその作品を作った「由緒」のようなものを強引にでも作り上げ制作するという、端から見るとどうでも良いと言われそうですが、まどろっこしい手順を踏むのは、こうした西欧政治思想などに親しんだことの影響はあるなと改めて思った次第です。


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 来月再来月に、今回の続きで、「正史を描くということ -藤田嗣治戦争画」、「正史を描くということ -アカデミズムとロマン派」について書き出していこうと思います。

*1

美術手帖 2015年 09月号

美術手帖 2015年 09月号

*2

戦争画とニッポン

戦争画とニッポン

*3:チェルシーに行った時の記録:http://d.hatena.ne.jp/YOW/20110909/p2