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2012-02-19

近代 社会 自己

流行りの書籍のようなタイトルをつけてしまった。久しぶりの更新であり、どんなテンションで文章を書けばいいのか、書けるのか定かでない。今回は「近代 社会 自己」という3つのwordを中心に思考を巡らしてみる。このエントリを書くに至ったきっかけは「内田樹の研究室」のエントリ ポスト・グローバリズムの世界、あるいは「縮みゆく共同体」 (内田樹の研究室) の後半にある以下の一文だ。

その事実をまっすぐに見据えて、その地滑り的な体制の変化の中で、「近代が夢見た(捨てられようとしている)理想」、すなわち「数百万、数千万の人々を結びつける宏大な共生感をもたらしうる何か」を掬い上げることが私たちのとりあえずの仕事であるように私には思われるのである。

この一文が何を意味するのか掴みかねていたため、1ヶ月程このことを考えながら読書をしていた。例えば『自己の発見―社会学史のフロンティア―』『近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結』『小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ』などを読んだ。


近代化とはざっくりとした言葉であり、発話者につきそれぞれ定義があるような状態だ。私は近代化の本質はグローバル化にあるのではないかと考えている。グローバル化とは何か、それは社会が抽象化することだと考えている。現状会計基準はそれぞれの国によって異なる。しかし国際会計基準に統一しようという動きが出始めている。そういったローカルな法、規則が徐々に統一されることを意味する。また、人が所属していると実感する社会が広がることをも意味すると考えている。名古屋民であると自称していた人が愛知県民と自称するようになるということだ。だからもちろんグローバル化とは今日急速に進展している労働力の国際的な移動、自由貿易体制のみを指すわけではないし、もっといえば人類の歴史に一貫した特徴とも言える。


「近代が夢見た理想=数百万、数千万の人々を結びつける宏大な共生感」とはすなわち、全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想=コスモポリタン的世界観を指すのだろう。では近代はなぜそれを理想としたのだろうか。それは社会が抽象化すればするほど、個人が社会から解放され、より自分らしくあれると考えたからだ。それはデュルケームの言葉を用いれば「人格崇拝」になる。デュルケムは楽観的に近代を描いたわけだが、一方人格崇拝が進めばアノミー的自殺が増加するとも述べている。社会から与えられる役割が減少することで無規範状態が生まれ、個人は何をなすべきか分からなくなり自殺するということだ。


社会から与えられる役割が薄れ、過度に自分らしさが求められていることに現代の先進国の自殺問題は説明しうるのではないかと思う。人間は自由という刑に処せられているというサルトルの言葉も同じ文脈を共有している。そして近代が夢見た理想が捨てられようとしている原因もこの辺りにあるのではないだろうか。つまり世界を自分が所属している唯一の社会と見立てたときに人はその中に上手く自分を定位することができないのではないかと思うのである。もう一度アリストテレスの言葉「人間は社会的動物である」に立ち返るべき時にきているのだろう。


当たり前のことなのだが社会というものは実際に存在するものではなく、人間が想像するものである。自己を定位付けるのに最適規模の社会を描き、それをもとに社会を運営する試みが求められているのだと思う。その社会を想像する上においてダンパー数=150人が大きな意味を持つのではないだろうか。