はじめに

創価王道で募集された、「読書グループ参加者追加募集」に参加させていただいた。
このブログはその読書グループの課題図書の感想を中心に、情報と私の気づきについて綴るブログにしたい。
この読書グループの主催者の斧さんは「よくそんなにたくさんの本が読めますね」と言いたくなるほどの読書家。そんな方の読書グループに参加するにはそれなりの覚悟が必要だ。最初の募集の時は決意できずにいたが、追加募集の時に決心して参加。こころして行きたい。
 42歳になった本年、人生の半分を過ぎ残る人生を考えたとき身に詰まらせられる気持ちになる時がある。 斧さんの言葉を借りると、

観心の長者から業を考える by 創価王道
人間を形成しているのは癖や習慣であり、その集積が業(ごう)であるつまり、身口意のバランスシートといっていいだろう。ただ、この考え方でいくと、一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がることの多い人生だと、いつまで経っても負債が減らないことになりはしないか? っていうか、利子が嵩(かさ)みそうな気になる。

 習慣とは今まで掛けてきた時間の集合体である、今まで掛けてきた時間では、負債が減らない焦りを感じて仕方がない。(笑)
私が高校に入学した時、創立者のメッセージのタイトルは、「すべてによい習慣を」だった。当時短いメッセージだと感じたが、何と深いものであったかと今になって感じる。「よい習慣」の最初は、読書である。このメッセージに少しでも近づく為に新しい習慣を身につける必要を感じこの読書グループに参加することを決意した。

すべてによい習慣を
本日は、新たなスタート台に立つ皆さんの晴れ姿を思い描きつつ、これからの学校生活で、深く心に刻んでいっていただきたいことを、一点、申し上あげておきます。
 それは、「すべてに、よい習慣を」ということであります。
 読書、勉強、早寝早起き、礼儀やマナー、友情をはぐくむ等、よい習慣というものは、皆さんの人生のすべてに、豊かな彩りをそえていくでありましょう。そして、そうした習慣は、一生を左右する大事な人格形成になるがゆえに、今こそ、しっかりと身につけておかなければならないのであります。
 人間の身体や心は、悪い習慣にはすぐ染まります。逆に、よい習慣というものは、努力なくして決して身につきません。昨日よりは今日、今日よりは明日と、向上をめざす一日一日のねばり強い努力の蓄積が必要です。どうか、「努力が習慣となり、習慣が性格をつくる」を合言葉に、創価の道をまっすぐに進み、悔いなき学園生活を送って下さい。
 若鮎のごとく溌剌とした皆さんとお会いする日を楽しみに、皆さんの前途に栄光あれ、と祈りつつ、私のメッセージとさせていただきます。

はじめに 改訂

小野さんの読書グループに参加したが、あることがきっかけで感想が送れなくなり、そのままクビになった。

とても立ち直れそうにないその出来事は弟の自殺。母は発狂し、父もおかしくなった。口が悪く、馬鹿で不器用な弟だったが、いなくなるとどうしようもない寂しさがおそって来る。弟が私より早く亡くなるということを想定していなかった。どんな思いで死んだのだろうと思うと悲しくてしかたがない。父は大の学会嫌い、母は40年間、副白百合長という人で、信心で乗り越えるというタイプではない。末弟はかろうじて、入会している程度だ。一家の宿命転換をほったらかしにしてきたそのつけがまわってきた。弟の死と、一家和楽。信仰にからむ一切を私が背負う事となった。

こんな状況の中、小野さんとのやりとりは苦痛となり小野さんから投げかけられる、「組織内部における葛藤や批判」はそのまま自身の「家族内における自身が行って来た葛藤や批判」となり直視出来ない状況だった。

 私は、小野さんのようなレベルではなく、組織活動のやまに翻弄されながらくるくると六道輪廻の中でまわっている、凡庸で、同じ失敗を何度も何度も繰り返し「失敗する傾向性」を身にまとった中高年なのだ。

 その出来事から1年がたち、やっとまわりが見渡せるようになった、このブログは、小野さんから投げかけられる「組織内部における葛藤や批判」を自身の組織や家庭内にあてはめ、小野さんへの返答文として自身の確認作業として行く。

無料と依存心

2006-12-09 WILLCOMを推す 
本と音楽以外に関しては、無駄な金をつかわないという信条に基づいている。
「無駄は謗法である」と心得られよ。

斧節 「無料」の検索 

斧さんは無料が大好きである。無駄が大嫌い。無料のサービスを紹介するケースが多数。しかし現実的には経済活動である以上、無料のサービスは存在しない。そこには何らかの対価が存在するのだ。例えば、Googleのサービスは無料だが、SEOに操作され自然と誘導されていく。変な検索があったら、ああこれは何らかの意図があるんだなという感覚を持つことが必要なのだ。
 今は無料で問題なくても、無料が維持出来ずにどこかに売られた瞬間に問題のあるものになったり、無料にはリスクがあることを意識することが重要。ちなみに、斧さんが紹介した下記のサイトも、セキュリティリスクが存在するサイト。私のセキュリティソフト(有料)にブロックされた。アクセスによりデータを抜いている可能性大。もちろん、無料以外でも同じ。例えば、1円PCなど。基本的にどうしてそういう価格になるかの構造を知る必要がある。

2011-2-9 タダヤサイドットコム 

自由に義務が生じると同時に、無料にも義務が生じる。
斧さん曰く「自由とは離れることだ。欲望から離れ、自分からも離れる。苦を見下ろし、楽を踏みつけながら前へ進もう。」
斧さんから離れよう。楽して何かを得ようとしないことだ。斧さんに依存するのは、斧さんの望む道と違う。

自由と依存心

斧節のテーマのひとつ自由に関する内容の含蓄の深いことといったらこの上ない。またその反語となるのが依存心なのか。

斧節 「自由」の検索 

2010-12-31 2010年を振り返る 
「自由とは離れることだ。欲望から離れ、自分からも離れる。苦を見下ろし、楽を踏みつけながら前へ進もう。」

2010-12-10 赤方偏移 
座敷犬みたいな人生を送るな。幸福ではなく自由を目指せ。

2010-04-29 W杯で母国が勝つなら「1週間断食」51%=調査 
本当のことを書いておこう。功徳とは欲望を満たすことではない。自由になることが真の功徳だ。

創価王道から斧節へ

2011-2-15 検索はまだ全然ダメだ 
その意味で創価学会には「内外からの正当な批判」がなさすぎた。これが組織衰退の根本的な原因である。

 斧さんのブログが「組織内部における葛藤や批判」をメインテーマになり始めたのはいつごろからだろうか?江東区から八王子に移ったころの幹部に対する失望からか。クリシュナムルティの記述が出たころか。
このテーマが出るようになり、今までの斧さんの瑞々しい信心が感じれなくなった。「批判は弱さの裏返しである。現実を変革できないから批判となるのだ。By 創価王道 」正直重い。期待しているのとは違う内容。創価王道とは別のイメージだ。

2009-3-5 アンベードカルを宣揚する 10 
 反応があまり芳(かんば)しくないので、これをもって最終回とする。「目が開かれました」「歴史が人物の虚像を描くことを知りました」――などといったメールが2000通ほど来ると思っていたのだが、1通も来なかった。ま、ネットの世界なんてそんなもんだろう。これ以降は別ブログで続けることにする。

またこんな記述も出始める。

2010-12-11 スピリチュアリズムの否定 
一応私の手の内は全部さらしているつもりだ。読むべき人が読めばわかる仕掛けとなっている。

2008-8-28 色々な仕掛け 
実は色々な仕掛けを施している。

2007-5-10 書くべきか、書かざるべきか 
ブログの評価は、アクセス数とコメントに現れる。アクセス数は申し分ないのだが、コメントを見る限りでは、私の意図が半分も伝わってないような感を覚える。殆どのコメントに対し、「お前なんかに、何がわかるんだ?」「利(き)いた風な口を利くなよ」と思ってしまう。

はっきり言って、誰に向けて仕掛けているのか良くわからない。
そして、決定的な内容。創価王道から斧節に変わった。その影響を及ぼした「N氏の論文」って何なのか?
名前が変わって違和感はなくなったのだが。

2010-11-18 論文  
N氏がその壁に手を掛けたのであれば、私は触発されざるを得ない。

結局、斧さんが何をしたいのか私にはわからない。私を対象としていないのは明確だから当然だ。
でもね、凡庸な私もこの「正当な批判」というテーマを避けて通れない。

全国制覇

創価王道をチェックするようになって何年が立っているだろうか。2005年ころにはチェックしていたからもう6年に及ぶ。私は心底、斧さんを尊敬している。丁度私がお世話になった先輩と同じ年代。その先輩を思い出すのだ。そしてその先輩は全国制覇をよく口にした。当時私は4年間0戦の部の部長。負け癖がつきまくったその部に全国制覇は重すぎた。しかし、許してもらえない。一計を案じたその先輩は、どこから聞きつけたのか全国制覇の区男幹に私を連れ出した。びっくりなんてもんではなかった。別の宗教のような気がした。同じ御本尊に祈ってこの違い。こんな組織にしたい。20代の私に火がついた。半年で4所帯の結果。

全国制覇なんて夢のまた夢だったが、少なくても意識出来ただけでも幸せ。そんな全国制覇の中心人物が斧さんなのである。90年代を戦った男子部世代で、そのすごさがわからない人はいない。

創価王道の全国制覇の記事

課題図書 2009年12月 山びこ学校

http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20091211/p3

山びこ学校 (岩波文庫)

山びこ学校 (岩波文庫)

開始:12月19日 読了:12月24日

今から23年前私は行き倒れたことがある。読んでいてその時のことを思い出した。夏の暑い時期で、アルバイト帰り、ほとんど飲まず食わず。私は超がつく苦学生だった。薄れゆく意識の中で気がついたら病院だった。原因は過労と栄養失調、救急車で運ばれて、点滴を打ってもらって良くなった。アルバイトばかりしていた無保険の私は、アルバト料のほとんどをその治療費にあてることになった。本当は学費と家賃と食費に変わる予定だった。切り詰めるだけ切り詰めた結果、食べるものも食べなかったから栄養失調で倒れたのだが、治療費にばけてしまった。腹がったって、誰かのせいにしたかったが、救急車を呼んだ人、救急隊員、医者、看護師、受付の人、誰ひとり悪いことをした人はいなかった。結局自分が一番みじめで腹が立った。命拾いしたのは間違いないのだが、感謝するとかそんな余裕はまったくなかった。
「母の死とその後」は、死と隣り合わせの貧しさを感じる。子供の純粋さは迫力となり、そのまっすぐさは、手加減がない。江口江一は貧しいが、集落で蔑まれるほどの貧乏ではない。家屋敷があり、煙草畑もあり一家は、畑や冬のわらじ作りで生計を立てていた。戦争のせいか、父の死か、経済状況の悪化かそれまでのようには生計が立てられなくなっていた。母は病気になり、病院に行く金がない。病院に行くには家畑を売るくらいしか考えがおよばない。もしくは、そういう家が集落にあったのであろう。しかし、畑を売るという選択はなかった。医者に診せることも出来ず母は亡くなる。畑を売ったら母は死なずに済んだかもしれないが、途端に一家の生計は立たなくなる。彼は一家が生計を立てていくにはさらに広い畑が必要だが、その畑を取得するためには、誰かが同じような状況の中手放したものを取得する必要があるのではないかと心配する。彼は、疑問を発し、その疑問に対して勉強で答えを出す決意をする。

第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです。第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです。(略)お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。

 読んだ時に違和感を感じた、理由は学校では貧乏から抜け出す方法なんて教えてくれないだろうということ。それも死を覚悟しなければならない貧しさそんなことを向き合える学校があるのか。江口江一のまっすぐすぎる向学心が痛々しくも感じる。しかし、あとがき、無着成恭氏の言葉に、このまっすぐさの理由を理解することが出来た。子供達の思いをまっすぐに受け止める先生が無着成恭氏だった。今学校で学ぶ内容は、「やまびこ学校」と比べるとまるで生活感がない。社会の仕組みを教わるでもなく、どうやって生きていけば良いか教わるわけでもない。夢を持つことの大事さを教わっても、実現できなかった時の現実と向き合う方法を教えてもらえるわけではない。愚直なまでに子供と向き合う先生との出会いは、ある意味奇跡に近く幸せだと思う。江口江一の感謝の気持ちがそう物語っている。