胸を張って死語を口走ってしまおう。
禿同ー!と。
↓
中盤の個々の受賞作への批評は、その作品自体を知らないので、わからない。
んが、
それを挟む前後のくだり。
どれほど、そしてどんな風に磨かれてきたのかすらあやしい手前勝手の感性頼みの、いわゆる「ありのままの自分」とやらを至上においた鑑賞姿勢に疑問を呈しているあたりは、まったくもって、禿同である。
もう禿げ散らかしてしまう。
たとえば、なにをして「読みやすい」だのとのたまうのか。と日々思う。
なにをして「つまらない」などと言えるのか。と思う。
好きだの嫌いだのと。
ドストエフスキーが読みやすかったか?
ただ漠然と読みやすいから読み継がれてきたのか?
そんな尺度で「人間観察」だのとやられちゃかなわない。
感性、なんて言葉はあたしにとっちゃよそよそしくて扱いにくいが。
たとえばそれは、ほったらかしにしておくならば、躾けられていない野生の犬のようなものなのだ。
サリバン先生に出会う前のヘレン・ケラーのようなものなのだ。
マッピング。とはうまいことを言ふ。
ヘレンは言葉によって外を知り、自分を勝ち得た。
つーことで。
世界が、そして日常が退屈なのは、
己の読解力不足のせいではないのかと、せめて一度は疑ってみることであーる。
☾☀闇生☆☽