YanoShinの日記

2011-04-08 生誕100年 岡本太郎展

情報化社会だからこそ、単なる理解を超えた超情報にもっと敏感に、真剣になるべきだ。そこに、とりわけ無目的な情報を提供する呪力をもった『芸術』の意味が大きく浮かび上がってくる。』


友人と絶対行こうと約束していた岡本太郎展に行ってきました。日曜日。


皇居もお散歩してきましたが、天気は曇り、ちょっと寒かった。


展示は各人に見に行ってもらうとして、いくつか岡本太郎の言葉を振り返っていきましょう。


写真を撮る方々にはこの言葉はおすすめ。


『絵はどんなにデフォルメしても、自分の分際でしかない。

写真は、自分が想像していなかった、自分を超えたものが出る。

そういうチャンスをうんともてる人間が強いんだ。』


僕は写真をとらないし、とる習慣が無いので全くなんですが、写真を取ろうと思いました。↑影響されすぎ笑。


これまで何度かチャンスはあったのだけど…。結局やらずじまい。

デジカメでも何でも良いから撮り始めてみようか。


『すぐれた芸術には、飛躍がある。

創造だから。

かならず見る人に一種の緊張感を要求する。』


岡本太郎展は7つの章に分かれて展示してある。それぞれで岡本太郎が何と対決してきたかにわけて展示してある。


その一番最初のイントロでノンという作品が出てくる。


これは否定の意味を持っている作品。この否定から始まる。


否定されて、初めて何かを本気で考え始める。

肯定される事はそれはそれで励みにはなる事は多いけど、否定されて初めて生まれる緊張感。


これもまた創造的に生きる人間(研究者)としては大事なこと。


『若さということは無条件にいいことだと考えてよい。』


最近、mixiの僕のプロフィールをみてメッセージをくれた女子高校生がいて、将来物理の研究者になりたいのだと。


僕も相手のプロフィールを見返すと、なんと同郷なのでした。


若さのほとばしる『私こうなりたいんです』という言葉は魔力ですね。


『何でもやってみなさい』と言ってみたくなる笑。出来る限り協力したくなる。


彼女は運も良かったと思う。実際に研究をやっている自分にアクセス出来たわけだから。

(田舎にいるとそういう機会もなかなか無いものです。)これは明らかに情報化社会の功績部分。


自分からもアドバイス出来たし、より詳しいアドバイスが出来る人を紹介出来た。


彼女自身は今年の大学受験では本命がだめだったそうなので、来年浪人して再挑戦するそうです。


頑張ってほしいですね。朗報を待つ時間も愉しいですね。


『もっともっと悪条件の中で闘ってみることだね。』


物事もいろいろ慣れてくると、妥協しても成果を出せるときも来るかも知れないし、歳を取ってくると自分の領域ですこし余裕を持って仕事をこなせたりするかも知れない。


これはこれで愉しいし、充実感もある。


この充実からは、大人の余裕と信頼感が生まれる。


でも、もっともっと悪条件に挑戦してみる。もっともっと悪条件で、いつでも愉しく成果を挙げる。


その一つ一つの挑戦が人を輝かせるのかも知れない。


この輝きは、こいつは何かやってくれそうだという期待感を抱かせる。


もっともっと悪条件で挑戦しようというマインドでいたいですね。



ここに挙げた言葉はすべて『壁を破る言葉』イースト・プレスからいただきました。


展示会では、すべての展示を見終わると最後に一人一人、岡本太郎の言葉を一つもらえます。


僕には『絶対に自分自身と妥協しないことを決意しなければいけない』でした。


どうもありがとうございました。


生誕100年岡本太郎展、国立近代美術館、5月8日まで。 

無明長夜無明長夜 2017/08/29 01:16 真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。

2011-03-29

日本辺境論

23:14 |

日本辺境論という本があります。


私にとっては2010年のベストの本なのですが、これについて討論・勉強会をしたいと考えています。(内容については特に新しいものではないと著者も言っています)


4月9日(土曜日)の夕方あたりからやろうと思っています。


震災の影響で私の考えも随分と変わりましたが、基本的なことは変わりません。


日本人として、そのメンタリティをもう一度見直し、それを乗り越えて

どうやって世界に貢献していくか。


これだから日本はダメなんだという短絡的な結論(震災直後の今はこの論調はあまり見かけませんが)を導き出す多く人から抜け出して、

国際社会はこれからどうあるべきかというイシューを語り、行動していくためにはどうするか?


今のところは矢野とさえちゃん。


さえちゃん(産経新聞記者さんです)は


・教育問題。特に、大学全編入時代における問題。

・日本辺境論をふまえ、これからの世界における日本の立ち位置とは。

・世界的な食糧危機に日本はどう対応すべきか。TTPとか。


を議論したいそうです。


私は日米同盟の経緯の復習から、国防について考え直したい。

私は専門が物理なので特にアジアを中心とした物理の今後について考えていきたいと思います。(物性をメインに考えてしまいますが…、しかも震災でだいぶ状況が変わった)

あとは日本語と日本人のメンタリティ、日本人が英語を学ぶべき本当(矢野的解釈)の理由。


参加条件は


本を読んでくること(いちいち内容について復習しない)

ファクトをもとに議論できること(こう思うではなく、このような事実からこう考える)

自分の立場で何かできないか?考える人(批判ではなくて、自分はこういう行動をするという人)


興味がある人は連絡ください(直接知らない人はコメントください)。

興味がありそうな人がいるよという人は転送お願いいたします。


あと、たぶんそのあとは普通に飲みに行きます。

2011-03-20 blogをやると言うこと

昨日は、東京大学大学院博士課程で原子力を専攻している人が原子力勉強会を開いてくれたので行ってきました。


本当に学ぶことは多かったし、たくさんの優秀な人に知り合えて良かった。


彼は専門は原子力だけど、原子炉の設計までは詳しく知らなかったのだろうけど、誠実に答えてくれた。


専門的な知識はたくさんあったのに加えて、本当によく準備されていた。


彼はブログもやっているが、そこで原子力の事について書いてある。


彼には批判もあるだろうけれども、持っている情報から、『自分はこう判断した』とリスクを取って発言し、たくさんの意見や質問に答えながら成長していっている。


僕もブログに関しては最近はリスクを恐れて、書くのに躊躇していたけれども、自分のためにふたたび書くことにした。


言えば、間違えれば誰かが訂正してくれるし、批判してくれるでしょう。


間違った考えも表に出なければ、何も変わらない。


20代もあと少し、加速して行きましょう。

2011-02-03 復活するかしないか。

最近Facebookに友人が増え始めました。やはり日本人が増えてきたことが大きいようです。


そこの紹介にこのブログを乗せていたのを思い出しました。


めっきり書いていないですね。


やめ方がよくわかりません。笑。

2010-11-13

お久しぶり

13:40 |

またまた久しぶりに日記を書きます。


10月11月は実験がとてもプレッシャーがかかっていてなかなか気が休めませんでした。


その調子はしばらく続きそうです。


実験はあと一週間くらい東海でやっています。


それが終われば、データ収集の一応のところは終わりで後は解析に入ります。


年内には終わらせておきたいことがたくさんあるのでできることは前倒しにやっていきたいところです。


が、今日はなかなか気分が乗らないところ。


もう11月も中盤ですね。


今年はとても長かった気がします。


年内も残すところ短いです。楽しみながらやっていきたいですね。


頑張りましょう。