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やしお このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-08-03 Fri

オリンピックや医大で見せられる部分最適のこと

 人が死ぬレベルで暑いけどオリンピックはどうするの、という話で「打ち水をする」「マラソンを早目の時間にやる」といった案はせいぜい部分最適でしかなく(それすら怪しく)、全体最適なら「10月に開催する」(あるいは開催しない……)でしかない。

 女性の医者は結婚や出産を機に退職してしまう、という話で「男性の医者を増やすために医大の入試で女性だけ点数を下げる」は医大側の狭い損得から導かれる解でしかなく、全体最適なら「医者や女性の(性差別に基づく)労働環境・構造を改善させる」でしかない。


 誰だって真っ先に思いつく全体最適の解が踏みにじられながら、対症療法が「必要悪」「妙案」として本当に実行される姿を見せられると、たとえそれが自身の利害に直結する話でなかったとしても精神が疲弊する。誰だって自分たちが生きている世界で「まとも」がきちんと機能するところを見たい。部分最適によってひずみやしわ寄せが発生して苦しむ人がいる、そんな不条理な話がまかり通るのを見るのはしんどい。

 もう週に一日、テレビもネットもネコチャンの映像を流し続けるだけの日とか作らないとみんな精神がもたない。


 昨日、高野連の事務局長がインタビューで「こんなに暑いけど甲子園どうするの?」という話に「ベンチの冷房を強くする」「観客席もなんとかしたい」「でもこの時期以外の開催は無理」「甲子園からドームにするとかは調整だってあるし難しい、球児も『聖地』でやりたいだろうし」といった回答をしていた。

 そこをイニシアティブ取って全体最適の解に向かって進めるのがあなた方の立場でしょうよ、という気持ちにはなる。けれど本人の感覚としては、スポンサーその他関係者・関係団体との兼ね合いまで含めると高野連の事務局長でどうにかできる話を超えているし、その立場にはない、ということかもしれない。

 時々そうした立場を超えて関係者や関係団体を巻き込んで全体最適へと進めてくれるパワフルな人が登場することもある。実際にそうした人達のおかげで状況が改善されたりする。しかしその登場はほとんど運に近い。


 日本の気候が変動したので従来の慣習がマッチしなくなってきたとか、経済成長がなくまた差別に対する認識が改善された結果、性別に基づく役割の押付けが不適合になっている、といった社会全体で方針を決めて進まざるを得ない話を調整するのは、政治的な解決だろうと思う。そうした「全員で一斉に改善させないと変えられないこと」を主導するために政治家は本来いるはずだろうという気もする。

 それは強権的に政府が命令するというより、多少時間的・手間的なコストがかかっても、例えば立法過程を通して世論を喚起しながら議論を重ねて、課題を洗い出しながら全体最適に向かって進めていくといったプロセスになるのかもしれない。運良く現場に近い人から誰か立場を超えて解決してくれる人が現れるまで待つという話ではない。


 恐らく小選挙区制度への移行に伴って政権党内部で中央集権化が進んだ状況で、そうしたイニシアティブを取って進めること自体は旧来よりやり易くなっているのだと思う。ただ「権力構造を維持する」「歴史に分かりやすく名を残したい」といった目的に対しては寄与しないため、そうした目的のみを抱くタイプの政権では無視されてしまう。

 政治家自身も「我々はそもそもそういう立場にない」「それは民間が自主的に改善していく話だ」「外交・安全保障・経済だけやればいい」と信じ込んでいる人も少なくなかったりするのかもしれない。


 これは「だからアベ政治を許すな」みたいな話ではなくて、なに政権であってもそもそも自然状態では構造的に政権にそうした課題を解決するインセンティブが働かないのなら、「あなた方がやらずに誰がやるのか」と騒ぎ立てるしかないという話だ。民主主義的なプロセスは別に多数決の原理に基づく選挙のみに一切が付託されるわけではなく、デモその他によっても担われる。


 こうした時事的な話はあまりダイアリーに書きたくない、と思っているけど、見てしまうと「あんまりにもあんまりだ」という気持ちが募るのは止められないし、一旦書いてしまった方が精神衛生にいいかと思って……

2018-07-25 Wed

ゴネ得の人はそれ以外の方法を知らないのかもしれない

 他人を利用しないと人間は生きていけないけど、そのためには交渉や相談をする、脅す、ゴネる、暴力を振るうとか色んな方法がある。

 一番まともなのはきっと、相手にとってのメリットや現実的な条件を提示したり譲歩したりしながら、お互いの利害がバランスする落としどころを探って、両者で納得できるポイントまで持っていくよう相手と交渉したり相談するようなやり方だと思う。それが「まとも」「フェア」だと感じられるのは、相手も自分と対等な人間だという前提の上でこの方法が成り立っているからだ。

 買い物でも、相手に物と金額を提示して納得して買ってもらうプロセスなら(価格交渉が伴っていなくても)こうした相談の一種になる。


 一方で「ゴネる」は、相手の利益を無視して、ひたすら自分の要求、自分にのみ都合のいい条件を突きつけ続ける手段だ。それでは相手が受け入れるはずがないので、「相手にとってより不利益な条件」をわざわざ作り出して、二択を迫る。

 「タダでよこせ、さもなくばレジで騒ぎ続けるぞ」「土下座しろ、でなきゃ殴る」といった形で「相手にとってより不利益な条件」が提示されるから、それは脅しや暴力とも相性がいい。

 「不利益な条件」は実際に口に出して提示されるとは限らない。「誠意を見せろ」と言い続けたり、相手が望むことを言うまで「違う」と否定し続けたり、あるいは自分の要求をひたすら大声で喚き続けたりすることも、相手に「いい加減この状況から逃れたい」と思わせて「不利益な条件」として働く。


 不利益な条件と、もっと不利益な条件の二つを突きつけられ続けて、耐えられずに不利益な条件を相手が選べば「ゴネ得」が成立する。

 相手には不満しか残らないし、わざわざ「より不幸な状態」を用意するという点で全体にとってもマイナスになる。そのため「ゴネ得」の人は周囲の人やコミュニティからは歓迎されない。

 周りからは「いつも自分一人だけ得しようとするズルい人」「わがままな人」としか見えないこの「ゴネ得」の人は、でも実のところ、「そうしようと思ってそうしている」というより「それ以外のやり方を知らない」からそうせざるを得ない人なんじゃないかという気がしている。




 甥っ子(小5と小4の兄弟)がいて、兄の方は相手の立場に立った交渉ができるけれど弟の方が「ゴネ得」のタイプなのかもしれないと、この前お正月以来で久しぶりに会って思った。


 兄がSwitchゼルダをやりたい、弟がフォートナイトをやりたいといって喧嘩になった。もともとゼルダはソフトもセーブデータも弟のもので、弟の方が最初は「ゼルダでイーガ団が倒せんからやってほしい」と僕に頼んできたのだった。でも弟は兄弟2人でフォートナイトをやる方が面白くなって「別にいいや」となった一方で、兄の方が「フォートナイトやるよりイーガ団やってるとこ見たい」となっていた。


 兄は「お前もイーガ団倒してもらったら進められるって言っとったやんか」「こっちでゼルダやるからお前はフォートナイトやればいいじゃん」「ゼルダやらんのやったら僕はフォートナイトやめる」と弟に言う。

 相手のメリットを示すこと、相手のデメリットを軽減する手段を提示すること、相手のデメリットを作り出すこと、となっている。3つ目は「ゴネる」の手段だけど全体としてはまともな交渉だろうと思う。

 それに対して弟は最初「じゃあもう1回だけフォートナイトの試合が終わったらゼルダに変えてもいい」と言う。しかし試合が終わってもぐずぐずしてフォートナイトを終わらせようとしない。それで兄が「約束と違うやんか」と抗議すると勝手に次の試合を始めてしまって、怒った兄がSwitchを取り上げたのだった。そうして兄弟喧嘩になる。弟はSwitchを強引に取り返して、兄の方のソフトをホーム画面から勝手に削除したりして、いくらなんでもあんまりだった。


 「それはおかしい」という話を僕が始めると、それを打ち消すような大声で弟が「あいつの方が先に奪ったやんか!」とか言う。僕が少しでも話そうとすると「あいつが悪い」「お前らが悪い」と反論になっていない反論を大声で叫んで、僕に一切喋らせようとしない。こっちも声が大きくなって「そうじゃない」と言ったりしていたけど、どうやっても話が通じないから途中で諦めてしまった。(もうあと30分で帰るのに、年に2回くらいしか会わないのにこんなことで時間を使いたくない)という気持ちが勝って黙ってしまったのだった。

 その時(あ、これがゴネ得ってことか)と思った。


 相手が根負けするまで大声で言い続ける。相手の嫌がる状態を作り出すことで自分の要求を通す。今回に限らず弟の行動は基本的にこのパターンになっている。相手にとって得のない選択肢を提示することもよくある。それは母親(私の姉)や友達が相手でも同じだ。ちょうど友達が遊びに来ていて弟と二人でマインクラフトを遊んでいたけど、弟が「○○をしたい」と言って友達が「えー」と言うと大声で「はあ!? なんでぇ!?」と言う。たぶんそれが日常的になっているから友達の方ももう強く反対せずに「あーはいはい」って感じで好きにさせているようだった。

 理不尽な要求、間違った理屈に対して「それはおかしい」と言うが、弟の反発に付き合うには膨大なエネルギーを消費するのでみんな諦めてしまう。諦めると成功することになってますますこの手法が彼の中で定着していく。


 弟は普段からずっと大声を出している。(ちなみに兄の方は大声を出しているのをほとんど見たことがない。)「○○するのやめて」と言うと嬉々としてそうする。「大きい声やめて」と言うとわざと耳元で大声を出して嬉しそうにするし、マインクラフトの中で友達が弟から殴られる(体力が減る)ので「殴らんといて」と言っても殴ったりする。

 大声を出すのも、相手の嫌がることをするのも、元々は「ゴネる」手段としてやっていたのが、何か要求する場合でなくても習慣化してしまっているのかもしれない。


 しかしこの「ゴネる」という方法は、周りを幸せにしないから肯定されない。周りから肯定されないと自己肯定感も満たされない。そうするとますます他者からの承認を得ようともがく。こうした負のサイクルに甥っ子の弟が入り込んでいってしまうといった話を、前回お正月に会った後に思って↓を書いたのだった。


甥っ子が承認欲求のおばけになっていく - やしお


 別に知的水準が低いということはなくて、交渉という観点では兄の方がはるかに真っ当でも、例えば学校のテストの結果とかは弟の方が良かったりする。一面的な頭の良し悪し(学力の高低)といった問題ではないのだろうと思う。

 成功体験や失敗体験を繰り返していく中で誰でもやり方を自分の中で構築していくのだけど、「ゴネ得」は一度方針として選択されると、周囲もゴネ状態を回避しようとするためにますます成功するから定着していってしまって、撤回する契機が見つかりにくいのかもしれない。

 親の教育が悪いんだ、と簡単に言えるような話ではなくて、もっと複合的な要因でたまたま「ゴネる」が方法として一旦定着してしまうと、それを変えるのは周囲はもちろん本人にとっても難しいんじゃないかと思ってる。赤の他人は「もっと親が毅然とやればいいんだ」と簡単に言ったりするけど、以前そのまま家を飛び出してどっか行って最後は警察のお世話になったことがあるとも聞くしちょっと難しい。




 メルカリで出品物に付けられたコメントを紹介した↓の記事を以前に読んだ。


メルカリ 本当にあった怖いコメント10選。 : ゲムぼく。


「大事にしますので1000円にしてもらえませんか?」「購入後に傷がついたら返品できますか?」といった、出品者にとってメリットゼロの提案をナチュラルに繰り出す人達が少なからずいる。

 実は「相手の立場に立って相手のメリットは何かを考える」ということは、誰にでも当たり前に備わっている習慣ではない。当たり前にそうしている人にとって「それをしていない」と想像するのが難しいから「わざと(悪意で)言っている」「こわい」と見えてしまうけれど、本当にまるっきり「そう考える」という発想がない人も少なくない割合で存在する。


  • 相手の立場に立って相手のメリットは何かを考える
  • 自分の要求に優先順位をつけて譲歩する

 この二つが揃って初めてまともな交渉ができるし、この二つが欠けると「ゴネ得」の人になる。

 これらは独立ではなく相補的な関係にある。優先順位がつけられなければ自分の要求の全てを突きつける他ないから、相手のメリットを勘案する余地がなくなるし、相手側のメリットを考えられなければ、そもそも譲歩する必要が生じないから自分の要求の優先順位を考える必要が生じない。


 「ゴネ得」の人は相手の立場で考えることができないわけではない。相手にとっての不都合は何かというポイントを探すことには敏感だ。ただ普通の交渉が相手にとってのメリットとデメリットの両方を考えるのに対して、「ゴネ得」の人はデメリットの方だけを見る。

 相手にとってのメリットを考えるという発想がそもそもない。子供の頃からずっと「相手のメリットを考えて優先順位をつけて譲歩しながら自分の要求を実現していく」という手法をそもそも知らなければ、「自分の要求を一方的に突きつけ続ける、相手の不都合をぶつける」といったやり方しか知らずに生きていくことになる。

 そういう意味で、「ゴネ得」の人は、わざとやっているというより、それ以外の交渉の仕方を本当に知らずにずっと来てしまった人達の方が案外多いんじゃないかと思っている。(両方できて場面に応じて意識的にゴネられる人は優秀なヤクザとかになれるのかもしれない。)


 これは自他ともにすごくしんどい。

 「ゴネ得」の人は、成功したその瞬間は「やったぜ」と得意になれるかもしれないけれど、それで評価を得るのが難しいから自己肯定感を得られにくい。ゴネられた方も当然疲れるししんどいけれど、ゴネた当人もトータルではつらい。

 結局は相手も納得したり感謝してもらえる状況を上手く作れなければ自分を十分に肯定して満足できない。甥っ子の弟のことを考えると何とかどこか中学生くらいで「その方がトータルで得」だと気付いてほしいと心底思うけど、こればっかりは周りがダイレクトに考えや習慣を変えることはできないから、せいぜい考えるヒントや機会を与えることしかできない。

 「実はもっと得なやり方がある」と知らずに「ゴネ得」しか知らずに大人になった人も世の中には結構いるのかもしれない、と甥っ子の弟のことを見ながら思って、つらい。


 ちなみに「相手のメリットを考える」ができなくても「ゴネ得を目指す」以外の方法もある。「全ての要求を断念する」というのがそれで、「怒られるくらいならもう何も言わないでおこう」という断念だ。交渉したり相談するやり方がわからないから、ひたすら我慢して耐えているという状態で、こうした大人だって世の中にはたくさんいるんだろうと想像すると、これも本当につらい。

2018-07-16 Mon

補助線としての神様

 こんなエピソードを以前何かで目にして、ああ、こういう神様の使い方はいいなあと思ってずっと忘れずにいる。


 海で溺れた子供を助けようとしてお父さんも飛び込んだけれど、結局子供はサーファーに助けられてお父さんは溺れ死んでしまう。「お父さんは海の神様に『自分はどうなっても構わないからこの子だけは助けてくれ』と必死でお願いしたから、神様が残酷にも本当にその願いを叶えてしまったんだ」という。


 神様が存在するとは思っていなくても、信仰心があるわけでなくても、こういう形で神様が導入されるのは意味のあることだと思う。お父さんは海に入らなければ良かったのにとか、お父さんは無駄死にだったんじゃないかといったやるせ無さが、ある補助線が引かれるだけで誰の損にもならずに解消される。「優しい嘘」の一種だ。


 それから時々、「そんなことをして死んだあと閻魔様の前で何て説明するつもりなんだ」という言い方をすることがある。「リボ払いをデフォルトで選択させるなんて、死んだら閻魔様の前で何て言うつもりなの」とか。

 別に閻魔や地獄の存在を信じているわけじゃない。だけどこうやって「閻魔様」を都合よく仮定してみることで客観視させることができる。


 どうしたって視界が狭くなって部分最適かどうかしか見えなくなってしまうことがある。でも「閻魔様の前で説明ができるのか?」という視点は、「本当にそれは全体として最善なのか」「本当に自分の行動を自分自身が肯定できるのか」という真剣なチェックをもたらす。

 これは、皇帝や国家指導者が「未来の歴史書にどう書かれるか」という視点で自分を律するというのと同じだし、「神様が見てるから」という律し方、「あの人だったらなんて言うかな」と考えることと同じ種類の視点だ。


 こうした補助線として神を導入するのは、神を都合よく道具としてのみ利用することでしかない。これは絶対的な神ではなく(利用している本人の主観では絶対的なものだとしても)選択に属する問題で、実際「神」でなくても「閻魔さま」でも「妖怪」でも「後代の歴史家」でも何でも構わない。

 以前、↓でそうした選択的な神を否定していった末に(絶対的/相対的といった二分法を全部取り除いた後で)どうしても見出されてしまうようなものがあり、それをあらためて「神」と呼ぶことはできるといったことを書いた。(そしてさしあたり自分はそれを「神」ではなく「単独性」と呼んでいる。)

認識の枠組み - やしお


 色んな種類の、というか色んなレイヤーで神様がいて、補助線として神を利用するというのは恐らくかなり浅いレイヤーに位置するものだと思うけれど、それはそれで構わないと思ってる。