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2017-09-19 Tue

イクメンと管理権の移譲

 テレビで「夫がイクメンみたいな顔してムカつく」という話をしてた。それなりに手伝ってくれるけど、自分で気づいてくれない、受け身でしかない、私の方がたくさんこなしてる、なのに「俺は結構子育てに参加してる」って満足げな顔してるのがムカつくという。

 でもそれって夫側に全面的に問題があるというわけではなくて、もっと構造的な問題で、どの夫婦でも起こるんだろうなと思ってる。


 どうしたって出産というフェーズは夫婦で非対称になる。妊娠・出産という大きな身体的な負担は、どれほど夫の側がサポートをしたところでどうしようもなく妻の側に一方的にかかってくる。それだけ非対称に大きな負担を一方的に背負ったという事実から、妻の側がその成果物(子供)の(所有権とまでは言わなくても)管理権が自分にある、と漠然と感じるのはごく自然なことだろうと思う。

 めちゃくちゃ苦労して開発・設計した製品があったとして、それを横から別の人に「もっとこうした方がいいんじゃない?」とか口出しされたら、(ふざけるな! 私がこいつの専門家なんだ!)という反発を感じたりするのは割と自然な感情だ。


 それで夫の側が口出し(アドバイスだったり「何かしようか?」と聞いたり)すると妻の側が何となく反発した態度を取ってしまったりする。「今さらお前が口出しするなよ」という反発心が(本人は自覚しない程度でも)底にあったりする。

 お互い平和でいたいから夫はもう話をしないようになる。主体性を放棄する。それでせめて送り迎えやゴミ出しや休日に遊んだり、目に見える範囲の子育てには参加する。しかし目に見えにくい細かいタスクはそれよりはるかに多い。この目に見えにくいタスクは、主体的に取り組む中でしか見えてこないものだから夫の側からは見えにくい。

 主体的に取り組む妻と、非主体的な夫とでは、見えているタスクの範囲が大きく異なる。夫は自分の見える範囲の50%を負担して「公平だ」と思っていても、妻から見える範囲だと「5%しか負担してない」となったりする。夫の側は「自分はイクメンだ」と思っていても、妻の側は「ぜんぜんやってくれない」「もっと主体的に動いてほしい」と思うことになる。


 しかし夫の側からすると、主体性を発揮しようとすると「主体性を発揮するな」と抑えつけられ、主体性を発揮しないでいると「主体性を発揮しろ」と責められるという、アンヴィバレントな状況で引き裂かれている。仕事で上司が決裁権を部下に渡さないまま「自分で考えてやれ!」と言うのと、状況としては似てくる。

 たとえばこのことを妻の側が自覚していれば、「じゃあこの範囲のコントロール権は夫に引き渡そう」と意識することができて上手くいく。でも「自分がコントロール権を握っている」状態を無意識に是認したまま夫に「お前がちゃんとコントロールしろ」と言うと、お互いにとって地獄が発生する。


 その意味で、「夫が自主的にやらない」「夫が自分から気付かない」といった問題は実の所、夫にのみ要因があるというより、管理権の所在の問題、管理権の移譲の仕方の問題ということになる。


 じゃあ「範囲を決めて管理権を移譲する」とはどうすればいいんだろう。全部タスクを洗い出した上で、「これとこれはもう全部お前がコントロールしろ、私は口出ししない」と指定して、実際にもう多少気に食わなくても任せてしまう。気に食わない点があっても、(それって自分が相手の管理権を奪いたいからそう感じるんじゃないか?)と疑ってみて、それでも「こうした方が客観的によい」と思われる点があれば、お互いに改善する場をはっきり設けてそこで話し合う。

 一方で管理権を移譲しないまま、かつ負担感を公平にする方法もある。タスクの洗い出しも担当決めも一切妻がやる。リーダーもマネージャーも妻が担う。その代わりその労力分、夫の側に働いてもらう。頭を使うのは私、手を動かすのはお前、という関係をつくる。(これは夫婦逆でも構わない。)

 チームメイトの関係を築くか、上司・部下の関係を築くか、どっちかの方法で負担感を公平にする。どっちが適しているかはお互いの性質・適性その他による。ただ会社のように明示的に命令体系とポジションが指定されていない以上、上司・部下の関係を築こうとしても、片方が圧倒的に頭がいいとお互い疑っていないくらいの間柄(あいつが考えたことは全部正しいと本気で信じてるくらい)でない限り難しいから、チームメイト的な関係を築く方が上手くいきやすいのかもしれない。


 しかしこれ、「妻が管理権をどうするか自分でちゃんとコントロールしろ」という話になっているけれど、それは平等なんだろうか? そもそも自分自身に管理権の帰属を強固に設定してしまう構造そのものが問題なんじゃないか。

 さかのぼると最初に育児の管理権を「自分が持って当然」だと思ってしまうきっかけは妊娠・出産フェーズでの妻側の負担の大きさにあった。そうであれば、やっぱりこの負担をどれだけ減らせて平等にできるのかが結局はそもそもの対策ということになる。あの人が開発に専念させてくれた、余計な仕事を排除して自分をコーディングに集中させてくれた、という記憶がはっきりあれば、「自分だけが苦労したんだからその分自分に管理権があって当然だ」という気持ちは希薄になる。

 妊娠・出産の身体的な負担がとても大きく、それを肩代わりすることが不可能であれば(その上世の中が妊婦にそれほど優しいつくりになっていないのならなおさら)、ほとんどその他一切をやるくらいでようやく、妻が一方的に育児の管理権を設定してしまうというお互いにとっての不幸を免れる。

 あらやだ。じゃあ結局夫が悪いんじゃん。という話になってしまった。


 夫は管理権が妻に張り付かないようにする、それが失敗した状況では妻が管理権の範囲の見直しをする。

 もしお互いがこうした陥穽に初めから自覚的なら、(片方がどうこうするというより)苦しみや恨みにはまらないように二人で話し合いをしていけばいい。


 こういうのって、「どうして自分がこう感じるのか」という根本原因(そういう気持ちが発生する機序)がわからないと、どうしてもすごく皮相なところで因果関係を見出してしまう。例えば「どうして子供の爪が伸びてるのに切ろうとしないんだよ」とイライラしたとして、「こいつは気が付かない人間だからだ」と理由づけてしまうともう「ちゃんと気をつけて見てろ」と注意して終わるしかなくなってしまう。そして根本がそのままなのでまた別の場面で同種のイライラが何度でも発生して、だんだんお互いの不信感が募っていってしまう。本当に不幸で悲しい、でもとてもありふれた光景だよ。


 そうは言っても、あらゆる夫婦が構造を分析して対策を自力で生み出して修正していくというのは、現実的には難しい。ものごとを考えようとすると通念や常識が邪魔をしてくる。仮に夫の側が管理権の再設定をしようと考えても、妻の側が「は? 保育園のことはお母さんがやるのが当たり前じゃん」と頑なに譲らなかったりするかもしれない。そもそも夫の側が「子育てはお母さんの仕事でしょ?」と思い込んでてイクメンどころじゃないケースもたくさんあるかもしれないし。母性とか子育てを神聖視したりするのもフラットに考えようとするときの障害になってくる。

 通念や常識が妥当するモデルケースが現実に多数派だった場合は有効に機能する。自力で分析や対策を取れなくても常識が自動的に適当なオペレーションを導いてくれる。でも現実がシフトしていくと、常識の方に硬直性があるせいで現実と常識の齟齬が生まれてくる。ちょうど「父親一人が稼いで一家を養う」から経済的に衰退して「両親が働かないと家計が維持できない」にモデルがシフトしていく過程にあるから、常識や通念がものごとをスムーズにする方向ではなくて、邪魔をする方向に働いてしまう。最初に「どの夫婦でも起こるんだろうなと思ってる」と書いたのは、社会的にそういう段階・時期だから、そういう齟齬がどうしても起こりやすいんだろうなという。「イクメン」というよく分からない言葉を作ったりして常識の書き換えをしている時期だから。


 ただ「夫婦による育児」を考えると、実のところ「妊娠・出産が妻の側に身体的な負担を強いる」という揺るぎない条件が、全体に対して大きな影響を与えてるんだろうなと思って、そこを起点に考えると色んな(不幸な)光景が説明付けられるんじゃないかと思っただけ。


 あとこれ、前提として「夫婦による育児」で考えているけど、そもそも例えば「子供はコミュニティ全体で育てるもの」といった観念が徹底していた場合なんかだと、妻・母親が「管理権を自分が取る」という感覚自体が消滅する。夫婦関係というもの自体がひとつの通念でしかないし、むしろその通念すら霧消すればいい(その方が全体的に楽だろう)と個人的には思ってる。

 でもそこはとりあえずおいておいて、現実に「俺は家事育児もやってるのに」と思ってる夫と「全然やってるうちに入らねえよ」と思ってる妻がいてそこに苦しみが発生してるなら、どういう形態でその苦しみが生まれてきて、どう解消し得るのかを考えてみるのもいいかなと思って。


 しかしねえ。僕は今のところ結婚したり子供を持ったりする予定もないのに、こんなこと考えたってしょうがないのにねえという気もする。

2017-09-11 Mon

会社の独身寮と老人ホーム

 会社の独身寮のことをなんとなく思い出してて、一人部屋があってそれなりに気楽で、でも仲のいい知り合いの部屋に遊びにいって喋ったりだらだらしたりもできるし、食堂があって食事は出てくるし、そこでも誰かに会えばお喋りできたりする。

 今は会社で仕事してるからそれなりに他人と話したりすることあるけど、いつか退職して仕事もしなくなったら、そういうところに住めればすごくいいんだけどなあ、と思ったらそれが老人ホームか。


 8月のお盆休みに、友人にも会わず、バスにも電車にも乗らずに一人暮らしの自宅周辺で5日間過ごしていたら、(ああ、これが定年退職後の生活なのか)と思って、気楽というよりちょっとしんどさがあった。映画を見ることと本を読むことと、あとなんか書いたりできればそれでと思っていても、どうしたって精神衛生のためには誰かと喋ったりすることが必要になってくる。店員に注文する時以外誰とも喋らないのだとちょっとしんどい。そうした意味でも今いる友人関係もちゃんと大切にしてかないといけないとか、地域のボランティアに参加してみるとかした方がいいのかなあと思ったりして、でもあの独身寮みたいな感じだとちょうどいいんだけどなと思ってたらそれが老人ホームなのかという。


 しかし独身寮は、年功序列型の賃金で「若いうちは割安で働かされてる」という面があったから、その代わりにかなり安い寮費で住めた。土地建物も古くから会社がずっと保有しているということや、地方出身の学生も入社してほしいということも諸々含めてあの安さ(光熱費こみで月額1万円ちょっと)だった。でも老人ホームにはそんなのないし、じじばばをケアするスタッフの人件費も必要だしでお金が必要になる。


 それに独身寮は、同じ入社試験を通って同じ年代で入ってるから似たような価値観を持った人たちで、しかも男性ばっかりだし、かなり同質性が強かったはずだ。しかも「同じ会社の人間」ってところや「どうせ数年したらいなくなる」っていうのでお互いに抑制的に、我慢できたりしたのかもしれない。(えっなんか言ってること違うんじゃない?)と思ってもあんまり相手を否定しなかったりとか。

 それが「どっちかが死ぬまでずっといる」で、しかもこれまでの人生やキャリアも違うし固定化された価値観を持ったお互いだと「譲る」「引く」というのが難しかったりするかもしれない。そこで自分が相手に譲って引いちゃったら、自分の人生を否定することになっちゃうって思う人はたくさんいるしね。こっちが別に平気でも、相手がマウンティングを仕掛けてくるタイプだと、こっちも防衛戦をしないといけなくて大変になる。ギスギスがエスカレートしていくかもしれない。「こいつ許せねえ」って感覚が強くなったりする。部屋の外に出るのがもう気持ちがしんどくなって引きこもるかもしれない。想像するとしんどい。


 そんなこと想像したってしょうがない、お金だってそのころ全然ないかもしれないし、地球がどうなるかもわかんないし。でも「独身寮と似てるかも?」とふと思って、でも「いや似てないかも?」とも思って、そう思ったことをただちょっと、記録しておきたかっただけ。

2017-09-08 Fri

宇野弘蔵『社会科学としての経済学』

https://bookmeter.com/reviews/66555829

ここで宇野弘蔵が提出した課題に40年後、真正面から回答したのが柄谷行人の『世界史の構造』にあたる。宇野はマルクス資本論の適用限界を精確に見ようとしている。原理論としての資本論はあくまで資本主義社会のメカニズムを説明するものであって、商品経済を超えた経済生活一般までは説明できない。それでも、経済学を基礎構造として社会を見る方法が画期的だった。それに対して柄谷は、経済学のさらに下部に交換形態を据えることで資本主義の外側、経済生活一般まで(資本論を内包しつつ)拡大する方法を回答として示した、という関係にある。

 本書は宇野弘蔵の講演や座談会などをまとめたものだけど、「この理論がどこまでの範囲を説明できるのか」をはっきりさせようとしている点で、科学者として本当に真摯だ。結構あちこちで現代経済学を批判していて、根本的に抽象化した原理論を作らないまま話なんてしたって、それって結局なんなの? 科学の名に値するの? みたいな話。

板坂耀子『平家物語』

https://bookmeter.com/reviews/66555882

本書のメインの話とは関係ないが、「出家」が今でいう政治亡命に似た位置付けらしいということを初めて知った。平家物語のエピローグで、平氏の幼い生き残りである六代を母親が出家させることで源氏による処刑を免れようとするが、これは出家が政治的な無害化を意味しており、権力者が海外に亡命することで政治権力を失う代わりに生命を保護するのと似ている。出家後も影響力を保持した清盛は、亡命しながら母国の政治に影響力を及ぼす例と似ている。「別の世界」として機能する空間が、現在は外国なのが、当時は仏門だったようだ。

 平家物語の内在的なロジックを説明してくれるのが楽しい。観客の反応を見ながら修正されていった結果、形が整合的になっている(現実の人間に比べてキャラが一貫していたり、価値観の対立軸が明確だったり)。前半は重盛(良)vs清盛(悪)、後半は知盛(聡明)vs宗盛(愚昧)って対立軸が設定されてるとか。全体としては神仏に背いた罰の結果で平家が衰退していくという認識、ただ個別の戦闘結果とかは具体的な個人の判断が効いているという認識とか。あるいは積極策(強行突破や奇襲)を一貫して支持しているとか。

 今の自然主義に慣れた目から見ると「うそっぽい」「リアルじゃない」と見えても、それは楽しみのポイントが違うだけだという。

 あとすごく面白かったのは、戦闘が終わって勝敗が決まったあと、処刑される前に敗者と勝者のあいだで言論での勝負がまだあるという話。勝った方は「これはお前が悪いことをした結果だ」という論理に持っていきたいし、それを相手に認めさせてみじめな気持ちにまみれて死んでくれないと困る。一方で負けた方は「勝負の結果として負けたが、そもそもはお前たちの方が悪い」という論理に持っていきたい。そうして勝者の部下や周囲の士気を上げるか下げるかがかかってくる。そのために敗者が死ぬことは確定しているけれど、その中でロジックを猛烈に組み立ててバトルしている。

平家物語―あらすじで楽しむ源平の戦い (中公新書)

平家物語―あらすじで楽しむ源平の戦い (中公新書)

土居健郎『「甘え」の構造』

https://bookmeter.com/reviews/66555903

「甘え」という日常語のない外国はある面で息苦しいという指摘がある。現象としては存在していても、それを捉える概念=言葉がなければあたかも存在しないように扱われてしまう。甘えに起因する苦しみや悩みがあってもそれを適切に対象化して対応することができない。本書は、甘えを他者に求める場合や、甘えが達成されない場合、甘えがエスカレートする場合、甘えをきちんと経験せずに成長した場合……と甘えという軸から様々な心理的な機序を説明して、日本社会に特徴的な現象を広く説明する試みになっている。

 途中で中根千枝のタテ社会論への言及がちらっとあって、基本的にタテ社会論(資格と場、という概念から捉えれば日本社会のいろいろな特徴を説明できるという)と同じ結論を、「甘え」という概念からも説明できる、という話をしていて、実際にそういう本になっている。ちなみに同じように、「受信者側負担システム」という考え方からも同じように説明できるはずだ、と前々から思ってるけど、それをそのうちちゃんとした形で整理してみたいなあと思いながら、思ったままになってる。

「甘え」の構造 [増補普及版]

「甘え」の構造 [増補普及版]

黒野耐『「戦争学」概論』

https://bookmeter.com/reviews/66555920

戦争の思想や戦略の変遷を、ナポレオン戦争イラク戦争の具体例から地理的・技術的条件を交えてロジカルに、かつコンパクトに解説される。優れた解説である一方、戦争をロジカルに整理しようとすると不可避的に、国家間の損得勘定のゲームとして抽象化してしまう。そのことを相対化しない限り、ロジカルであることがあたかも「正しく」見せてしまうために、語る本人でさえその限定的な正しさを全面的な正しさと混同してしまう。現状への提言でこの部分最適の狭さが発現する。それでも特定の軸での見方(戦争のロジック)を教えてくれる有用な本だ。

 地理的な条件と技術的な条件の掛け算で、戦闘が起こる地点や戦略が決まってくる。地理は固定でも技術が変化する。それで「戦略的に重要な地点」や「戦争が起きやすい地点」は昔も今もそれほど変わりがなくても、飛行機が飛べる距離、ミサイルが届く距離といった技術的な変化で、それまで「海からこれだけ奥に位置していれば大丈夫」だった地点が大丈夫じゃなくなったりして、攻防の戦略が変化する。

 戦車が登場すれば塹壕戦はなくなるし(WW1→WW2)、精密誘導爆撃が実現すればいきなり神経系統を破壊するようになって「前線で両軍がぶつかる」という感覚が消滅したりする(イラク戦争)というような技術との関係があれこれ具体的に語られていく。

 もともと軍事にも兵器にもほとんど関心はないけど、でも地理×技術でアクションがある程度決まってきて、そのアクションを具体的にそれぞれの国が実現しようとしたり、あるいは他の要素(世論なり財政なり)の制約で中途半端に断念したりしている、その「経過」をいつでも今見ているのだとすれば、その「今」の文脈を見ようとすれば(どういうつもりである国がそのアクションを取っているのかを理解しようとすれば)どうしてもこうした軸での見方が必要なのかなと思って。

「戦争学」概論 (講談社現代新書)

「戦争学」概論 (講談社現代新書)