Hatena::ブログ(Diary)

やしお このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-06-16 Thu

柳父章『翻訳語成立事情』

http://bookmeter.com/cmt/57050356

明治初期に定着した翻訳語の、権利、恋愛、彼など10の単語を取り上げて、定着の過程や日本語の意味からどう引きずられて原語の意味とズレていったかを見せてくれる。普及して定着する翻訳語には、あまり中身がないことで逆に「なんか深い意味がありそう」って思わせる言葉じゃないと流行らないし、最初は肯定的な意味で流行ってその後反動で否定的な意味で使われるって特徴が指摘されてて、今のビジネスカタカナ用語、ウィンウィンとかも同じだなと思った。本書は単語に絞ってるけど、著者の『比較日本語論』だと文法構造も含めて語ってて刺激的。


 この本で触れられてる話ではないんだけど、読みながら「設計」っていう言葉のことを思い出してた。designを訳すと設計なんだけど、それとはまた別にデザインというカタカナ語も日本語として定着してて、designだと意味範囲は一つなんだけど、設計とデザインだと意味範囲が異なるという。設計だと電気とか機械とか、単に仕様を満たす機能が実現されるように図面に展開すればOK、みたいなイメージだし、デザインだと見た目がかっこよければOKみたいなイメージに偏ってる。

 性能を追求すること、使いやすさを追求すること、外観の美しさを追求すること、みんなひっくるめたトータルの概念としての「design」なんだけど、日本語で「デザイン」って言うと一般的には前2つの意味が落ちちゃうことがある。

 プロダクトデザインなんかだと顕著だけど、本来「デザイン」って言っても見た目がカッコ良ければそれでいいわけじゃなくて、機能性と両立しているというか、いろんな面で高度に機能的であることによって美しさが生まれる、みたいな話なんだけど、日本語で「デザイン」って言うとそこが含まれてこないところがある。そのせいで、ロゴデザインみたいな純粋に視覚効果しかないようなものでも、本来「設計」という意味も含まれている以上、そこには機能性(拡大縮小できる/外部の文脈を適切に担っている/拡張性がある、等々)も含まれているという認識が、プロはともかく一般には抜け落ちていて、そのせいで理解されなかったり誤解されたりする。

 機能性が高くなければ美しくできないし、美しくなければ機能性が高いとは言えないわけで、確かに表裏一体になってるんだから、分けて考えるということができないのは当然なのだ。それで「design」という概念を一度知ってしまうと、「設計」と言うときでも「デザイン」の意味も含めて考えてるし、「デザイン」と言うときでも「設計」の意味も含めて考えている。それで「設計」と「デザイン」を別物として考えている人との齟齬が出てきてしまう。


 本書で紹介されていた「right」の翻訳語としての「権利」についても、似たようなことが書かれていた。本来「right」には「正しいこと」という意味も含まれている。実際、辞書を見ても、「右、正しさ、権利」と出てくる。「right」という言葉が権利の意味で使われる場合でも、原語だと「当然のものとしての権利」というニュアンスが入ってくる。権利の意味でのrightは、正しさという意味も含んで使われることになる。ところが日本語としての「権利」からは、「正しいこと」「当然であること」というニュアンスは切り離されている。(含んでもいいし、含まなくてもいい。)

 それはもともと、日本語の体系の中に(=日本の現実生活の中に)「right」に相当する概念がそもそもなくて、でも「正しいこと」という概念は(rightとはズレを含みながらも)存在はしていたので、その足りない部分の意味だけを担う「権利」という語が作られたという経緯があったからだ。そんな経緯を、いろんな語について見せてくれるのが本書ってわけ。


 あとこの本を読んでいると、あまりにも福沢諭吉の登場回数が多くて、この人の翻訳語に果たした役割がものすごかったことがよくわかる。そして福沢諭吉が翻訳ということにかなり繊細に反応していて、本人は原語からの意味や概念のズレにとても敏感だったし慎重に言葉を文脈に応じて使い分けてたけど、でも一旦その語が世の中に定着してしまうと、もうどうしようもなくその語を使わないと通じなくなってしまう、というつらさも見えてくる。


翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

横山秀夫『クライマーズ・ハイ』

http://bookmeter.com/cmt/57050383

迷いながら必死にやってる、他人は自分を許さないだろうと思ってる、それでも必死でやってく、その中でふいに、赦しが訪れる、自分が許されているということを人に教えられる、それが17年の時間差でシンクロしながら訪れる、ということで、こういうのは単純に生理的な反応として泣いちゃうけど、それって作中の新聞屋さん達が紙面に「泣き」を入れるって態度と通底している(作りが一緒)。映画の「俺物語」とかもそういう構造になってるなと思い出してた。一応、衝立岩を画像検索したけど無理。わたし宇宙と深海と山は絶対行きたくないと思った。

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

クライマーズ・ハイ (文春文庫)

ニーチェ『この人を見よ』

http://bookmeter.com/cmt/57050435

ここまではっきり、いかにこの私が/私という精神が/私の本が、他と隔絶して圧倒的に素晴らしいか、と言い募る書物なんて見たことなかったからびっくりした。偉ぶってるとかじゃなくて、どうフラットに考え直してもやはり素晴らしいとしか思えなくて、でもそれがきちんと伝わってないからもう言わざるを得なくて言ってるって話だった。こうして読んでみると抽象的な思想なんかじゃなくて、ひたすら現実的な実践ということで、本人も言ってるけど姿勢としては仏陀に近いという。他の著書を読む前に本書で大掴みの精神を知った方が伝わりがいいかも。

この人を見よ (岩波文庫)

この人を見よ (岩波文庫)

宇野弘蔵『経済原論』

http://bookmeter.com/cmt/57050469

本文より注記の方がずっと分量が多くて、しかも注記の方が面白いという変な本。この本はマルクスの『資本論』を、より純粋な資本主義システムとして抽象化させるってコンセプトで(一旦純粋な論理体系として把握しないと、かえって現実を把握できないという認識が前提されてる)、気を付けるべき点、もう一段大きいところから見た位置付け、マルクスの認識の誤り、宇野自身の思考などなどは、本文からは排除されて注に入っているため。他の人の著作とかで資本主義の理論をある程度知ってないと、そもそも何がここで語られているかすら迷子になる本。

経済原論 (岩波文庫)

経済原論 (岩波文庫)

2016-06-15 Wed

残業してほしくない

 残業したくないし、残業してほしくない。そのメモ。


動機

  • 24時間からもろもろ差っ引いた残り3時間ほどの余暇を削りたくない。関心事は仕事のみではない。経験上2時間以上の残業が続くと思考の向かう先が業務以外に十分に切り替わらない。
  • 7時間の睡眠を削りたくない。短期的には判断力の低下を、長期的には短命を招く。
  • 残業代は実体的には割増賃金になっていない。賞与を除外して考えると割増になっているが、含めて考えると残業をすればするほどレート(時給)が下がる。私自身の場合計算したら3分の2だった。仮にバイトで「ごめん仕事あるから残業してくれる? 時給は3割引きにするからさ」と言われたら「ふざけるな!」だけど、それが起きている。また全体で労務費が上がれば賞与で調整されることになるから、残業すればするほどタダ働きに寄せられていく。
  • 本人が心底有意義な仕事だと思えていない状態での残業は、囚人に穴を掘らせてまた埋めさせる拷問と変わらない。書類の度重なる手直しや社内を納得させるためだけのパワーポイント資料の作り込み、不必要な定例会議といった無駄に圧迫された上での残業は拷問と変わらない。
  • 日本の一人あたりGDP先進国中26位でイタリアと同程度。イタリア人よりはるかにあくせく働いてるくせに同程度の(対外的に加算可能な)価値しか創造していない無能だと言われるのは悲しい。
  • 労働基準法は本来「1日8時間以上働かせてはいけない」という趣旨になっている。時間外労働は(労働者との合意と監督署への届け出を条件に)特別に許されているという位置付けでしかない。
  • 130年前に「8時間の労働、8時間の睡眠、8時間の休息(余暇)」というスローガンで8時間労働制が成り立っている。人間が働けるのは8時間という知見がはるかに前から存在する。
  • 会社側視点で見ても労働生産性を上げて労務費を下げることは有利。教育コストを考えると少人数を長時間使い倒す方が有利のようでも、個人の耐用年数が減ったり離脱時の穴埋めが却って不利になる。
  • 近頃は世間の価値観もなるべく無駄な残業をしないことをよしとしている。(というか国力が衰退して共働きでないと生きていけなくなったせいもあるのかも。)長く残業して頑張るのはえらくない、時間内に納めるように頑張るのがえらい、という価値観にシフトしつつある。
  • 若いうちの苦労は買ってでもしろという。しかしそれは業務の長時間化を正当化しない。だいたい1日8時間も費やさせておいて必要な知識技能を身に着けさせるのが追いつかないのだとしたら教育メソッドが悪いだけだ。

 ここまで手厚く並べ立てる準備が必要だということは、まだこの価値観がこの職場で当たり前ではないということを意味している。



方法

 動機だけでは片手落ちなので方法(方針)も立てておかないといけない。


8時間という制約を固定する

 まず8時間というのはゲームのルールだと思うところから始めないといけない。サッカーをしていて「じゃあちょっと手を使っちゃおうかな」とはならないのと全く同じように、仕事をしていて「じゃあちょっと残業して済ませようかな」とは思わないところから始める。残業をしても仕方がないと思っていると、残業ゼロを達成するために工夫するという契機が絶対にやってこない。

 実際、リーマンショックだの震災だので時短勤務を強いられたときに、それでも回ったのだ。8時間で回らないということがないという確信が前提にないと始まらない。


整理する

 2Sという製造業でよく言われる用語がある。整理整頓のことで、そのうち整理の定義は、「物の要/不要を判別して、不要物を捨てること」となっている。これは仕事にも全く当てはめられる。「(永続的に)金儲けをする」という会社の目的と照合して、いらない仕事(主に社内に対してしか価値を持たない作業)を捨てていく。まるっきり捨てるのが難しければ一部を省略して軽くする。

 社内の説明にパワーポイントを使うのをやめてテキストファイルで済ませるとか、毎週の会議を隔週にするとか、他の課との役割分担をきちんとして本当は自分がやらなくていい仕事をむやみに背負い込まないとか。


チームを組む

 業務には繁閑がある、という現実的な条件が必ず存在する。どうしても暇なときと忙しいときの差が出てしまう。しかし平均化することはできる。誰かが忙しいけど誰かが暇なら、その忙しい人の分の仕事を暇な人がやってムラをならせばいい。

 この単純な話を実現するためには、まずお互いの仕事の状況を知っている相手、自分の仕事を渡せる相手が必要になる。だからチームを組まないといけない。少なくとも2人、できれば4人くらいのチームがいい。なるべく業務の種類が近い相手の方が、渡しあうハードルが低くなる。


特殊性をなくす

 特殊性、「この人しかできない」という仕事は、業務量のムラを平均化する妨げになるから排除していく。そのためには「この人しかできない」を「誰でもできる」に転換していく必要がある。どんなに職人的な技能でも、実際には言語化して共有できない部分というのはかなり少ない。それなのに「○○さんにしかできないこと」という作業があるとすれば、本人が自分のプライドを確保するために不当に抱え込んでいるか、日々のルーティンワークに追われてマニュアル化・言語化するのを怠っているかでしかない。

 日々の仕事に追われている→他人に共有できる形に仕事を落とし込む余裕がない→他人と仕事を共有できない→仕事のムラをならせずに忙しさに沈んでいく→…… という循環に陥っている姿をよく見かける。ばっさり断ち切るというより、とりあえず仕事を渡し合える相手を見つけてチームを組んで、共有するのが大変じゃない(そこまで特殊性の高くない)仕事から共有してみる、という形で少しずつ抜け出していく。循環させながらゆっくり浮上していく。


おもてなしをやめる

 相手の意図を先回りして想像して実現してあげようとするのは、日本社会のコミュニケーション形態に基づく習慣だと思われるが、これは仕事のムダを発生させる機構になっている。ツッコミを受けないために「念のために」といって手厚く検証作業をしてみたり何かを作りこんだりして結果的にムダにする。それを「よく準備ができている」といって評価してしまうような価値観がある。しかしそのムダになって廃棄されたものは、社内の中でしか価値がなく、「金儲けをする」という根本的な目的を裏切っている。

 そういう意図を忖度して先回りすること=おもてなしをやめる。


試作品を先に見せる

 一番のムダはやり直すということなので、ダメ出しを喰らってやり直すというムダをとことん省かないといけない。そのために試作を先に決裁権者や関係者に見せる。パワーポイントの資料を作り込む前に、紙にざっと流れが分かるものを書いて上司に見せてOKをもらう。さらにそれを作る前にこういう目的や内容でやりたいと口頭で伝えてOKをもらう。何かをやる前に「こういうつもりでこういうことをやりたい」と先に言っておく。根回しとも言う。

 完成品の前にコストの低い試作品を段階的に作ってチェックを入れていけば、その時点でダメ出しを受けてもやり直しのコストは小さくて済む。



 自分がまたいつか新人の教育担当になったら残業意識の汚染を防止しようと思って、そのためのメモ。

2016-06-06 Mon

低ハードル方式で人との関係を築く危険性

 あれ、この人なんか自分のこと嫌いになったのかな、飽きたのかな、と不安になることがある。前はもっと話しかけてくれたり誘ってきてくれたり、もっとよく笑ったりしてくれたのに、最近なんか冷たいような気がする。でも別の人にはあんなに楽しそうに笑ってる。なんだろう。そんな不安感を抱くというのは割とありふれたことだと思うけど、案外その相手の方は何とも思ってなかったりする。

 これは対人関係の形成の仕方として、低ハードル方式を採用している相手だと自然に起こることなんだと思ってる。「低ハードル方式」というのは私が勝手につけた正式でもなんでもない用語。


 まだお互いあまり知らないうちから、かなり友好的に接してくるのが低ハードル方式だ。こちらの話を本当に興味深そうに聞いてくれるし、たくさん質問もしてくれるし、ちょっとしたことでよく笑ってくれる。人懐っこい人だなあという印象だ。

 ただ、これはある種の緊張感から来ている。気を遣っているのだ。基本的には「人に嫌われたくない」という恐怖があって、嫌われないように相手の気に入ることをやっている。本人の意識としては単に、自分は気遣いができる人間だと思っていたり、もっと素直に「この人いいなあ」と思ってそうしていたり、しんどいと思いながらもどういうわけか気を遣っちゃってしょうがないなと思ってたりまちまちだけど、「嫌われる恐怖」がベースにあるという自覚を持っている人は少ないんだろうと思う。

 この気遣い、友好的な態度は「人に嫌われたくない」という恐怖を原動力にしているため、相手に嫌われる心配がなくなるにつれて、気遣い・友好性は落ちていく。だからその相手と十分に仲良くなって、「この人は大丈夫だ」、「自分を受け入れてくれる」という安心感が出てくると、最初の頃より愛想をふりまかなくなる(その必要がなくなる)。甘えているということだ。


 その結果、相手からどう見えるかというと、(えっ私もしかして嫌われてる?)という感じになる。そりゃあ前までは嬉しそうにしてくれたことを、そうでもなさそうな態度、なんか雑な態度に変わるんだから当然だ。しかも相手からしたら嫌われるようなことをしたつもりもないから混乱する。

 なお悪いことに、低ハードル方式の人は、あまり気を許していない相手に対してはいっそう愛想よくしているので、(えっ自分の方が仲いいと思ってたのに、なんであの人との方が楽しそうにしてるの)と見える。それなりにみんなプライドがあるから、相手に嫌われてるのに自分は好きでいるっていうアンバランスには耐えられない。お前が嫌いだって言うならこっちだって嫌いだよ、というバランスを取りたくなってしまう。

 これで本当に嫌われているのならわかりやすいけれど、しかしきちんと時間を取って話したり久しぶりに遊んだりしてみるとやっぱり楽しそうにしてくれるので、(あれ? 別に嫌われてるわけじゃないのか)となる。この(嫌われてるのかな?)(そんなことないか)の間で心の反復横跳びをさせられて精神が疲れていってしまう。そうやって耐えられなくなって別れたりする。

 でも低ハードル方式の人の側からしてみたら、別に意図的に何かを変えたってつもりはないし、何ならむしろ「気を許した相手」と思って上位に置いていたつもりなのに、突然「ちょっともう無理」って一方的に切られたように感じてしまう。こうやってメカニズムを見てみると全くすれ違ってて滑稽だけど、結構ありふれてよく起こっていることなんじゃないか。

 このように低ハードル方式の人は、最初フレンドリーだからとっつきやすいけど、だんだん仲良くなるにつれて人の扱いが雑になってくるので、幻滅されたり、嫌われたと相手に勘違いされるといった罠がある。


f:id:Yashio:20160606184815p:image:w350


 とても雑な絵だけど、この青いのが低ハードル方式のイメージ。親密度が低い(=お互いよく知らない・会ったばかりの)頃は友好度が高い(=愛想がいい・気を遣ってくれる)けれど、親密度が高くなると友好度が低くなってくる。

 これは一般的な観念、「友好度は親密度に正比例する」というイメージとは逆になるため相手を混乱させることになる一方で、本人の中では自然に機序が作動するため本人が自分でその外部のイメージとの齟齬に気付くのは難しかったりする。内側では親密度が上がったから今まで無理やり上げていた友好度を自然な水準に戻して(取り繕っていた自分を脱いでリラックスして)いるだけなのだが、外側からはその内側の機序は見えないため、友好度が下がったんだから私に対する親密度が下がったのだと判断せざるを得なくなる。こうして誤解される。


 そう考えると、この逆パターンも考えられる。それが緑のグラフ、高ハードル方式だ。親密度が低いうちは友好度も低く、親密度が高くなるに従って友好度も上がるのでわかりやすいと言えばわかりやすい。初対面の頃は(は? なんだお前?)みたいな態度を取る、あからさまに仲間とは認めないみたいな態度を取るけれど、そのうち急に仲間と認めてくれて親切にしてくれるというようなタイプで、こういう人も結構いる。

 このタイプの人は、なにせ最初の当たりがきつかったり愛想が悪いのでとっつきにくい。そういう意味で損している。ところが「ヤンキーが良いことするとすごく良い人に見える」みたいなもので、親密度が上がった後だと、本当に親切な人のように見えてしまうので得している。実は大して他の人と友好性の程度が変わらないのに、すごく優しいように見えてしまう。しかもこのタイプの人は親密度が低い人には厳しいので、あたかも(仲良くしてもらっている自分はこの人に認めてもらっている)というように感じられてしまう。

 そして緑の高ハードル方式の人を青の低ハードル方式の人から見ると(この人よく初対面の相手にそんな冷たくできるな)ってびっくりする。そして低ハードル方式の人からすると、昔の友好度がなぜか低かった頃を覚えているので、その恐怖というか緊張感から、親密度がいつまでも実は上がっていなくて、すごく気を遣ったままになったりする。


 それから、ほとんど態度が変わらないというパターンも考えられる。それが赤のグラフ。親密だろうとそうでなかろうと、あまり態度が変わらない。ナチュラルにこのタイプの人は、実は根本的には他人に興味がないんじゃないかとちょっと思っている。

 青の低ハードル方式の人は「他人に嫌われたくない」という緊張感の裏返しで気を遣って愛想よくしてるわけだし、緑の高ハードル方式の人はある種の仲間意識(身内感覚)というものが強くあるわけで、いずれにしても他人が意識されている。そのどちらでもない人、本当に態度も愛想もナチュラルにずっと変わらない人というのは、そもそもあまり他人が自分をどう思っているかといった意識が薄いのかもしれない。仮に親密度の変化という感覚がそもそもなければ、親密度の変化に伴って友好度が変わるということもあり得ないわけで、それに近いのかもしれない。例えそうだとしても、態度が変わらないというのは他人から見ると安心だし、いい人に見える。


 そう考えるとこの3タイプは、青は「相手が自分を気に入ること」を主眼においていて、赤は「誰かが誰かを気に入る」という感覚が希薄で、緑は「自分が相手を気に入ること」が中心になっている。係数がプラスからマイナスへ向かうにつれて、決定権を握っていると見なす主体が相手から自分へと移っていて、ゼロのとき決定権の主体が無いとみなしている。そんなイメージだ。


 ただ赤のグラフと言っても、ナチュラルにそうなっている人だけではなくて、意識的に赤になっている(している)人もいる。

 例えばもともとは青の低ハードルタイプなんだけど、さっき書いたデメリットを消すために、親密度が上がっても友好度を意識的に下げないよう気をつけている人もいる。家族だからとか恋人だからとかいう言い訳を使わずに、むしろ仲良くなった相手にこそきちんとケアしなきゃダメなんだ、と思っている人。

 あるいはもともと緑の高ハードルタイプなんだけど、それだと部下や後輩との関係構築に支障があると気付いて、あえて意識的に最初の友好度を上げている人なんかもいるだろう。

 低いお尻を押し上げたり、低い頭を押し上げたりして、全体を落とさないようにしながら、なるべくなだらかにして、まっすぐの赤のタイプに近づけるよう意識的に努力してる人もいる。


 それで、あとはこのグラフ全体が上下にシフトしたり、カーブが急になったり緩くなったりしている。人によって違うし、また接する相手によっても違う。(男性の新人相手だと高ハードルだけど、女性の新人だと低ハードルになる人とか……)

 もちろんこの親密度は時間経過と共に右方向(増大する方向)へ移動するだけではなくて、下がったり上がったりしている(左右に振れている)から、横軸に時間軸を取った場合は、友好度は振動したりいろんな動きを見せることになる。そんなイメージ。


 こんな話を考えてたのは、仲良かった会社の後輩が冷たくなって(なんでだろ?)と思ったからだった。自分が今の職場に異動した当初、すごく愛想もよくていかにも僕のことを気に入ってくれてるし立ててくれていたのが、だんだん話しかけたときの返事が雑になったり、あからさまに忙しそうな態度をとって見せたりするようになった。あれ、嫌われてんのかなと思って、でもご飯とか誘うとちゃんと来てくれるし、話しても楽しそうにしてるし、あれ、嫌われてるってわけじゃないのかと思った。それでよくよく見てみたら、気を遣わなくなっただけだった。

 ほんとは今までも(あー今話しかけられたくないんだよなあ)とか(早く話終わんないかなあ)とか思いながら気を遣って聞いてたんだけど、その気遣いがなくなっただけだった。実際、「あの人もう少し話し短くしてほしいんですよねー」と僕以外の人のことについて愚痴ってるのを聞いて、(そうか、我慢して聞いてたのか)と思った。我慢をやめただけか。そして「この人なら我慢しなくても許してもらえる」っていう甘えだったのかと思った。

 この説に妥当性があろうがなかろうが、(えっ嫌われてるのかな? どうなのかな?)と思ってあの心の反復横跳びして疲れるより、(ああ甘えられてるだけか)と思って安心してる方が精神衛生にいいからね。そういう解釈をさしあたり採用することにした。


 それで低ハードル方式の青いグラフをイメージしてみたら、じゃあこれと逆ってどういうことなんだろうと考えが及んで、緑の高ハードル方式がでてきた。それから、じゃあその真ん中ってなんだろうと思ったら赤いグラフのイメージが出てきた。

 そうやって青・赤・緑の3タイプをイメージしてみて、自分が今の会社に入社した時、当時の職場の人たちの顔を一人ひとり思い出して分類してみたら、割ときれいにすっきり分けることができたので、あ、なかなか楽しい分類かもしれないと思った。


 それで自分はどうなんだろって考えてみたら明らかに青の低ハードル方式だった。それであのデメリットが生じるせいで、割と一気に親密になった人とは一気に疎遠になるみたいなことを昔は繰り返してた。ただ今は、近い人(家族とか親しい友人とか)にこそより一層、気を遣う(思いやると言い換えてもいい)ことが重要であって、ここを甘えておろそかにすると崩壊するということを知っていて、そこそこうまくやれているという感じだ。

 その辺の対人関係の方針をまとめたのがちょうど1年前の↓の記事で、

  人間関係のデザイン方針 - やしお

この「他人の自尊心を満足させる」という基本方針は、今の視点から眺めてみると、もともとの低ハードル方式の青のグラフ上で、お尻側を押し上げてなるべく平らにする、高水準の赤のグラフに近づけるっていう営みの一環だったんだなあと思う。