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やしお このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-11-18 Fri

理屈ハラスメントというか、ロジハラというか

 会社の中だと「合理的にやること」が正義になっている。それで「なんとなくこうしちゃった」という人は「ちゃんと考えてやれ!」と糾弾されてしまう。

 適切なタイミングとルートで情報を上げないとか、すでにスケジュールが崩れる材料がそろっているのに手を打たないとか、実はやる必要のない作業を惰性で続けているとか、「なんとなくそうした」、「前からそうしてたからそうした」、「そうするものだと思ってたからそうした」、といった場面があふれてる。

 そして責められても当然みたいなところがある。責める方も、責められている方も、それを見てる周りも、みんななんとなく当たり前だと思っているふしがある。でも本当はそんな正当性なんてない。これはダメなことなんだ、とはっきり認識するために「理屈ハラスメント」と心の中で呼んでいる。


 小さな子供に「どうしてそうしないの!」と理屈で問い詰め続けてる親がいたとしたら周りは「ちょっと……」ってなる。子供は何も考えていないわけじゃない。手持ちの知識を組み合わせて考えている。その手持ちの知識が大人よりも狭いだけだ。それは当人にとって仕方がない。どうしようもないことを怒っても意味がない。

 だけど、怒ってる方から見ると「本人にとってどうしようもないこと」だとは見えなかったりする。怒ってる方は「こう考えればこうなるに決まってる」というのが見えているせいで、「どうしてそうしないのか」が見えにくくなっている。しかも怒られている方も「こうこうこうだから、こうなるでしょ!」と言われて「確かにその通りだ」と納得してしまった後だと、「じゃあなんで自分はああしたんだろう?」というのがもうわからなくなってしまう。それでもう「どうしてそうしなかったの!」と責められても「わかりません」「すみません」としか言えなくなる。


 でも子供だけじゃなくて、大人だってみんな全員がこの延長上にいる。同じ地平にいる。

 会社の中で「なんでそうしないの!」と怒っている人だって、オバマやゴーンやジョブズ(霊魂)から見たら「もっとこうすればいいのに」と思われる。もっと大きな範囲で「資本主義というシステムの中で生きている」とか「国家という枠組みがある」とかは、ほとんどの人が「そういうもの」と思って生きている。

 みんな、どこかの地点で「そういう風になっているから」で考えを止めている。怒っている方だって、怒る相手と別に変わらない。


 そういうわけで、同じ穴のムジナなんだから責める資格はないし、どうしようもないことを責める有効性もない。理屈で相手を追い詰めるという正当性がない。

 ないはずの正当性を「ある」となんとなく思い込んで、責められながら「自分が馬鹿だからしょうがない」とつらくなっていく人を生む事態は許容されない。それで「理屈ハラスメント」と呼んでる。名前をつけるとはっきりするし。


 別に責めなくても、「どうしてそうしたの?」を聞きながら途中で「こう考えたからこうしたんだよね」と助け船を出してあげればいいだけだ。それから「でももう一歩考えると、こっちの方がいいってことがわかる」って説明すればいいだけのことだ。助け船を出すには、相手の内在的なロジックを正確に把握する必要がある。「こうすべき」というロジックを立てられるだけでは未熟で、さらに「そうしなかった」という人のロジックまで突き止められないとダメだということだ。そこまでいって初めて理屈ハラスメントから免れられる。

 これは自分がロジハラをする側に回りかねないから、いましめで書いてる。

2016-11-15 Tue

仕事を拾わないで。あたしを見て。

 製造業で検査のお仕事をしていて、外注先に出張で検査しにいくことがある。同じチームの後輩が、外注先Aと外注先Bの製品を担当していて、Aには1か月のうち3週間、Bには1週間くらい出張検査に行かないと間に合わない、もう1か月ずっと行くことになる、みたいなことを言うので、そんなのひどいと思って、じゃあBの分は僕が担当するねっていって引き取った。


 そして僕は外注先Bの出張検査を廃止した。よく見たら、製品自体の性格、外注先が実施する検査、外注先の管理体制をおさえれば、出張検査でなくても必要な品質は確保できるということがわかった。外注先と上司と社内ルールに根回しして出張検査をやめた。外注先も遠いしね。


 ところがどういうわけか、後輩は外注先Aに1か月以上ほぼ行きっぱなしになっているという。

 つじつまがあわないじゃないですか。僕が引き取った1週間分はどこへ消えたのよ?


 その外注先Aには、後輩だけじゃなく、他に2人のおじさん検査員が出張検査に行っている。そのおじさんたちの作業分が後輩に降りかかってきて、結果的に僕が抜いた1週間分が埋められている格好になっている。

 じゃあその2人のおじさんはサボっているのかというとそんなことはなくて、また別の外注先CだのDだのEだのに出張検査に行っている。


 こういうことなの。いつだってこういうことなのよ。そうやって仕事がかぎりなく増殖していく。

 その後輩はまじめだし頑張っている。それで、「念のためこれもやった方がいいね」とか「念のためあれやっといて」とかいう仕事を取り込んでしまう。せっかく「念のため」の部分を誰かがはぎ取って捨てても、別の「念のため」で埋めてしまう。そしてその「念のため」の仕事はほとんど、金をかせぐという組織の目的には寄与しない。

 「まじめだし頑張っている人」のところへ「念のため」の仕事が吸い込まれていく。どれだけかわりに捨ててあげても、また別の「念のため」を拾ってきちゃうんだったら、捨ててる意味がないじゃない!


 うちらの仕事は「汗をかくこと」じゃなくて「知恵を出すこと」だ。「手を動かすこと」じゃなくて「頭を動かすこと」なのだ。そうでないと説明つかないお給料をもらっている。そうして、いちばん手間・暇・金のかからない方法を探して、システムを変えていく。もともと営利目的の会社には「(永続的に)金を稼ぐ」以外の目的なんてない。「品質を確保する」といった目的だって、「永続的に金を稼ぐ」という大目的から展開されているに過ぎない。(ちなみに「世の中をこうしたい」という種類の目的は「法人」というもう一つ上のレイヤーに属する。)

 「作業を頑張る」じゃない、「頑張らずに済ませるために頑張る」。これは全員がそう思っていないと、誰かが捨てた仕事を吸い込んでしまうから成り立たない。


 でもねえ。これを伝えるのが難しいんだよ。だって頑張ってるんだよ。その後輩は。

 伝えようとすると「君の頑張りは意味ないよ」って言ってることになってしまう。他の人より頑張ってる、なのに「はー、だめだね」とか言われるなんて、耐えられないに決まってる。(殺すぞ)って思うに決まってるもん。そのあと何言ったってもう聞いてくれない。

 よく「意識改革」と言うけれど、それは変えようとしてる本人が言うならいいけど、他人が言ったってだめだよ。「人の価値観や思考を他人は直接操作できない」という制約、ゲームのルールがある。

 もう個別のケースの中で、具体的に「こういう考え方もあるよ」とか「僕はこういう風にやるね」とか見せていって、どうしてそうするのが有利かの理由も具体的に伝えて、(あ、そっちの方がいいな)と自然に本人が思えるようにしていく、それを積み重ねてくしかないかもしれないと思ってる。急がば回れみたいな。しょうがないね。

2016-11-09 Wed

コミュ障からの復帰

 コミュ障は自信がない。「こんなことを言ったら変に思われるだろうか」「空気を悪くしないだろうか」と常に怯えている。


  • 話題に加わらずに黙っている : 実は「あ、今これを言おうか」と思い付いている。でも空気を悪くするかもしれないという恐怖がべったり張りついているせいで、口を開くことができない。そうしているうちに話題が自分を取り残して先に進んでいる。この繰り返しで始終黙っている。黙っているといって何も考えていないどころか、他の人より大忙しで頭を働かせている。出力がゼロなだけで。
  • 黙っている2 : 頭が真っ白になって黙っている時もある。ほとんど「大人数の前で質疑応答つきのプレゼンに臨む」くらいの気負い方をしていて、「話題を、この私に何か話題を!」と大急ぎで考えても緊張感のせいで何も出てこない。探しても探しても何も出てこないから「真っ白になっている」という感覚がある。この場合でもめちゃくちゃ頭は働いている。ただ実を結ばないだけだ。脳のなかのお鍋が、弱火(他人の発言や目に入る情報)でこぽこぽ沸騰している、緊張状態だと落し蓋がされて表面の泡(思い付いたこと)が見えなくなる。ものすごく考えているのに、頭が真っ白になって何も思い浮かばない状態というのは、そんな感じ。そして、その落し蓋(緊張状態)は自信のなさによってもたらされる。
  • クールぶる : 「こいつダメだな」と相手に思われていると思うと自尊心が傷つく。だから自分自身に言い訳するために、「いや、別に必要がないから喋ってないだけだし」、「別に人とつるむのとか好きじゃないんだよね」みたいな態度を取る(態度に出さないまでも、中でそう思っている)。そうしていざ発言すると、「しょうがなく喋ってやりますけどね」みたいな態度を出して、必要以上にキツイ言い方をしたりする。
  • 発言のチョイスがおかしい。凝り過ぎているか、当たり障りが無さ過ぎて不自然なことを言う : おかしいと思われないことを言おうと、厳しすぎる条件で話題を検索したせいで結果的に不自然な発言が選択されてしまう。「絶対に違和感を与えない」か「絶対に受ける(感心される)」かどちらかしか怖くて選べず、無意味か意味がありすぎるかの極端に振れ過ぎていて、みんなが「なんとなく思い付いたから話してること」との乖離が大き過ぎて空気をおかしくする。
  • おもねるような薄ら笑いを浮かべる : それでも喋る場面はある。自信がないから、長く喋っている間にだんだん不安になる。おかしいと思われていないだろうかと不安になる、「こいつ本気でこんなこと喋ってるの?」と思われたくないという予防線で、「まあ別にどうでもいいんですけどね」という態度を取る。内容と無関係にへらへらしたりする。その上自信がなくて相手を直視できずに、うつむいたりあさってを向く。さらに不安感から言葉を必要以上に付け足して一方的に大量に喋る。目も合わさずにへらへらしながら一方的に大量に喋るせいで異様に見える。黙っている間のふてくされた態度、その後急にキツイ口調で発言するケースとの差が極端になる。
  • 二人きりだとよく喋る : 二人だと「この話題は全員にとって大丈夫か」、「自分が今発言しても不自然じゃないか」という恐れがなくなるから話せる。その上日頃の敗北感と鬱憤で余計に喋る。ただし二人きりでも「この人は自分を受け入れてくれる、大丈夫だ」という安心のない相手だと全く喋れなくなる。
  • それが何年も続く : 相手に「なんだこいつ」と思われる。思いきって喋ってみたら、へらへらしながら空気読めないことを言うから「はあ? こいつおかしいんじゃねえの」と相手も不安になる。不安感から身を守るために相手は攻撃的な態度になる。それで発言を無視されたり、引かれたりする。もともと「空気を悪くしないだろうか」と緊張しながら発言しているから、そうした相手の態度を敏感に察知してしまう。そして「失敗した」と思ってますます自信を失くす。恐怖で余計に喋れなくなる。この悪循環にはまり込んでいく。


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11/6放送のガンダムオルフェンズで無口なアストンが急に発言したところ。彼はタカキと二人きりだとよく喋る。



 こうした内在的なロジックで、誰でもこの状況に陥り得る。知的水準が低いわけでも、もともと卑屈なタイプでもないのに、あるきっかけから悪循環に突入してしまうと抜け出すのが難しくなってしまう。コミュニケーション不全にも種類が色々あるうちのこれは、「自信がない」という一点から発している。この場合コミュニケーション「障害」というよりコミュニケーション上の「自信喪失」という方がしっくりくるかもしれない。

 どうしたら自信は回復されるのか。


 結局、「大丈夫だった」という成功体験を重ねることでしか自信は回復されない。練習の機会と相手がどうしても必要になる。

 その相手は、「自分の理解できないことを言うやつはクソ」と思うタイプではなく、「相手の言うことを理解しよう」というタイプの人でないといけない。相手側の寛容度が高くないと練習が成立しない。暴投でも怒らずに拾ってくれるキャッチャーでないと練習にならない。そうした人たちが複数いて、しかも近すぎない距離感の相手で、日常的に世間話を交わせる機会が必要になる。

 こうした機会と相手に恵まれるというのは大変なことかもしれない。




 私自身の場合は15〜23歳くらいに、自信喪失の状態に陥っていた。とてもしんどかった。

 中学校までは、幼稚園→小学校の流れのまま人間関係を維持できていたのだけど、中学卒業でリセットされてから自力で構築できずに悪循環に陥ってしまった。高専に入学して、同じ中学出身者が他にいなくて、しかも寮生は入学式より一足先に入寮していてすでに人間関係が出来上がっていた。しかもほとんど部員のいない部活に入ってしまったから、そこで人間関係を築く環境もなかった。なんとなくクラスの中にグループが出来上がっていく過程で、どこにも属さないまま取り残されてしまった。しかも5年間クラスが全く変わらないから、一度そうなってしまうとなかなか途中で変えるのは難しかった。(別に同級生たちが悪いわけではなくて、自分の技術が足りなかったことと、構造的な原因があった、というだけのことだ。)


 そのあと就職したこと、特に社員寮に入ったことが回復のきっかけになったと思う。あまりにもひどかったので対人関係をリセットしたいと思って、地方から出てきて就職したのだった。でも就職した当初はまだおかしかった。新人研修のグループワークで空気をおかしくしたり、同期の飲み会でずっと黙ってうなずいているだけの人になったりしていた。学生のころはすっかり人に誘われることもなくなっていたし、多人数でわいわいするということもなかったから、どう振る舞っていいのかが分からなかった。

 それでも職場に配属されるとずいぶん丁寧に扱ってもらえて、「年上の人達と話をすること」のとても良い練習になった。それから会社の独身寮に入って、そこは個室はあったけど水回りは共同で、大浴場や食堂で同期とたまたま一緒になるということがよくあった。そこで世間話をしたのも、とても良いリハビリだった。

 「自分が話しかけても無視されたり邪険にされたりしない」という安心・信頼があるというのはとてもありがたいことだと思った。そしてその安心感を元手に、練習を重ねて、「だいたいこれくらいは言っても大丈夫」「こういう場面ではこのくらいまでは言える」という距離感をつかんでいく。

 その後、社外の人との付き合いも出てきたり後輩ができたりもして、少しずつそうした距離の操作が自由にできるようになってきたと感じている。


 コミュニケーション不全は自信の喪失が原因になっている、という風に捉えているのも、そのただ中にいる間はわからなかった。何をどうしていいのかもよくわからなかったし、そもそも「どうにかできる」ということすらよくわからずに苦しんでいた。後から振り返ってみたときに初めて「ああ、あれは自信が失われていたんだ」と思うだけだ。

 そしてその自信を回復させてくれた人たちには、本当に感謝している。みんな誰もたぶん「リハビリに付き合ってあげた」とは思っていないだろうけど実際、助けてもらっていたのだ。

 そういう経験があるから、今度は私が寛大なキャッチャーでありたいと思っている。相手が話しかけてきているのを無視しないし、黙っていれば話を仕向けているのは、あの苦しさから回復させてくれた人たちへの借りがある、ということをどうしても忘れられないからだ。