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2018-05-23 Wed

トラブル対応は「それならしょうがない」と相手に納得させるゲーム

 仕事でもプライベートでも自分(や自分の組織)のせいで何かトラブルが起きた時は、相手に「それならしょうがないか」と早く納得させるゲームが立ち上がる。ささいなトラブルでも大きなトラブルでも変わらない。このゲームを無視するとトラブルが拡大したり、自分の責任の範疇以上に責任を負わされたりする。


 勝手にアイスを食べてしまったのなら「帰ってきたらめちゃくちゃ暑くて死ぬーって思って冷凍庫の冷気を浴びようと思って開けたらアイスが目に入って……食べちゃった。ほんとごめん明日代わりの買ってくる」とかバレる前に言う。

 ユーザー先で自社製品にトラブルが発生して自分が品証部門なら、訪問して調査の進捗や推定原因、暫定策、恒久策などを丁寧に説明する。

 待ち合わせ時間に遅れて「早目に出ようって気は満々で7時にはちゃんと起きたんだけど歯を磨いてたら急に洗面所の細かい汚れが気になって掃除を始めてしまったらこんな時間に……」という無茶苦茶な理由でも、相手が(まあそういうことってあるよね)と納得されれば成立する。


 これは「非を認めたら負けのゲーム」ではないし、「ほとぼりが冷めるまで静かにしているゲーム」でもない。「とにかく謝ればそれでいいゲーム」でもない。しかしそう勘違いしている人は実際にとても多いし、そのせいで相手の怒りをさらに買う人や組織も見かける。

 「誠意」や「責任」という曖昧な概念で捉えているとどうすればいいのかが分かりづらい。それなら「もし自分が相手だったら、どう説明されたら納得するか」を考えて実行するゲームなんだと割り切った方が精神的にも楽だし、どうすべきか考えるのも楽だ。


 人に怒られたくないし責められたくない。「こいつクソだな」と軽蔑されたくない。だからこのゲームの上手なプレイ方法を考える。


自分から申し出る

 「来い」と言われてから行くと「お前は俺が言ったから嫌々来たんだろう」と思われる。「納得させるゲーム」としては一気に不利になる。自分から先に言い出せば、「自分にとっての不都合を顧みずに問題を解決しようとしている」と思われて納得も得られやすい。タイミングを逃さず説明の機会を申し出る。


他の人よりも早く出す

 トラブルの原因となった人や組織が複数にまたがる場合、他の当事者に先に説明されてしまうと不利になる。最初に説明した人は「自分が不利になってもちゃんと説明しようとした誠実な人」と見なされても、後追いで説明する人は「先に説明されて不利になったから自分の立場を良くするために立ち回っている利己的な人」に見えてしまう。反論するにしても補強するにしても、先に説明した人以上に説得力のある情報が出せなければ、このマイナス分を覆すことができないから一気に苦しくなる。

 逆に言えば最初に説明する人は多少情報が不足していてもこのアドバンテージの分だけ相手を納得させやすくなる。とにかく早く「相手が納得できそうなストーリー」を組み立てて提示する。


非の範囲を正確に定めて謝罪する

 「私が悪かったです。」「何を悪いと思っているの?」「……」と答えられないと、(こいつ形だけ謝罪して終わらせようとしてる)と思われて「相手を納得させるゲーム」としては最悪の状態に陥る。自分の何が悪かったためにこのトラブルが発生したのかを正確に説明した上で謝罪する必要がある。

 自分の非の範囲を正確に特定してみると案外小さかったりする。自分ではどうしようもできない要因の積み重ねの上で、最後の最後だけ自分が引き金を引いてそのトラブルが発生しているということはよくある。しかしそれは説明しない限り相手には「全部お前のせいなのでは?」と見えてしまって、自分の本来の責任の範囲以上を負わされたりする。それを防ぐためにも、非の範囲を正確に特定しながら、「そしてこの部分に関しては自分に非がありました」と謝って納得してもらう。


原因と対策を説明する

 「どうしてそれが起こったのか」という原因と、「どうしたらそれが起こらないか」という対策を示す。原因が明示されることで「それが起こったことは必然だった」と納得され、対策が明示されることで「確かにこの人は全力でリカバーしようとしている」と納得される。解明や分析が間に合っていないのなら、「それを明らかにするつもりだ」という意思と予定を示す。

 ちなみに原因と対策を明らかにするのが「責任を取る」ということなのだろうと思う。「何を言っても言い訳になるから言いません」「今となっては過ぎたことなので前を向きましょう」などと説明もせずに「責任を取って辞任します」という場面を見るたびに(違う)という気になる。原因が自分で、最も効果的な対策が「自分が排除されること」になると判断されて初めて「辞任する」というアクションになるはずで、そこを抜かして辞めるのなら単に責任の放擲でしかない。


具体的なデータやエピソードを出す

 具体的な日時、文書や映像や音声といった記録、測定値などのデータを出す。あるいはそのトラブルに至る経緯やストーリーを具体的なエピソードとして提示する。会話の内容やその時の状況といったディテールを付加して「ああ、そういうことならそうなるのも無理はないな」と相手に納得してもらう。

 主観的な認識ではなく、客観的な事実だと相手に信じてもらえるように、信憑性を高められる材料を集めて構築する。


共通の敵を作る

 放っておくと「対応しようとしないお前」が敵になってしまう。原因の説明などを重ねていくことで「トラブルの原因」を相手と自分にとっての共通の敵にする。(必ずしも「共通の敵」は人である必要はない。)「こいつは敵だ」と思われている状態では納得してもらったり信じてもらうことが難しくなるから、共通の敵を作って、自分と相手がそれに対抗する仲間になる状況を作る。


仲間を作る

 こうした手をどれだけ尽くしても、相手に納得してもらえないということはある。もはや自分の力ではどうしようもないことがある。教師や上司や、友人や家族、警察といった人々を巻き込んで仲間を形成していく。納得してくれないような相手であればそうした人々の目に入るところで相手に説明をする。「この人の言っていることは正当ですよ」とジャッジしてくれる仲間を増やしていき、数の大きさや権力の大きさといったものを味方に付けていくしかない。

 自分より相手の方がはるかに権力や数が大きいようであれば、メディア(マスメディアでもソーシャルメディアでも)の力を借りて世論を形成する。どうしても自分の方が正しい説明をしている、と感じられるのならそうして一人でも納得してくれる人を増やすほかない。




 代表監督を解任されたハリルホジッチさんがサッカー協会を相手に慰謝料請求額1円の訴訟を準備しているという話も、日大アメフト部に暴力を加えられた関学大選手の家族が被害届を提出するという話も、納得のいく説明さえ最初からされていれば済んだ話だった。2年前に一橋大学の学生がゲイであることをアウティングされ自殺した事件で、遺族が大学とアウティングをした学生を相手に民事訴訟を起こしているが、これも加害者側・大学当局側の納得できる説明がされなかった。

 被害を受けた側・トラブルに巻き込まれた側は、好き好んで訴訟を起こしたり刑事告訴したりするわけではなく、もはやそうするより他に「納得のいく説明」が得られる道が断たれてしまったから、やむにやまれずそうしているだけだ。

 昨日、日大アメフト部の加害側の選手が会見を開いて正確に原因と対策を述べた上で謝罪したというのは、とても珍しく貴重なことだろうと思う。自分の非を正確に特定してそこに至る経緯を説明することで、一方的に悪者にされるのを防ぐという意味でも正しい振る舞いだと思った。ただその「対策」が「自分はもうアメフトをしない」にならざるを得ないのは(加害の内容を考えれば仕方がないとはいえ)あまりに悲しい。

 立場が強い集団・組織が、原因と対策を正確に説明する営みを放棄して、立場の弱い人々にその責任を転嫁させて苛む、といった姿を連日見させられるのは心がむちゃくちゃになる。


 これは大きな話に限らず日常的に不断に起こっている小さな話でも同じことだ。「相手が納得し得る説明を素早くする」というのは当たり前のようで、面倒くさかったりあるいは自己保身から曖昧に放棄されたりする。自分がそうならないためには、実際どうすれば相手の納得を得られるのかという技術を事前に考えておく必要があると思って、一旦整理しておきたくてメモを書いたのだった。

2018-05-22 Tue

『Roman J. Israel, Esq.』の「Esq.」の意味

 『Roman J. Israel, Esq.』という2017年公開のアメリカ映画(日本は劇場未公開)の中で、主人公である弁護士デンゼル・ワシントン演)は自己紹介や電話で名乗る際に必ず(頑なに)「私の名前はローマン・J・イズラエルエスクワイアです。」と言う。最初この「エスクワイア(esquireEsq.)」の意味が分からなかった。


 英語で姓名の後ろにつく接尾辞であれば、「Robert Downey, Jr.」の「ジュニア」(父親と名前が同一の場合)や「Marshall Bruce Mathers III」(エミネムの本名)の「3世」などは見かける。敬称なら一般的な「Mr.」、医者や博士号所持者なら「Dr.」もよく見かけるし、ナイトに叙勲されると「Sir Anthony Hopkins」とか「Dame Helen Mirren」のように男性なら「Sir」、女性なら「Dame」が姓名の頭に敬称接頭辞として付くのは知っている。

 ただ「Esq.」は見たことが無くて知らなかった。最初は貴族か何かなのかと思った。


 作中でもローマンが名乗った後で電話の相手(依頼人の女性、一般人)に「そのエスクワイアってのは何なの?」と聞かれる場面がある。この時ローマンは言いづらそうに口ごもりながら、「あの……法曹界での称号なんです。一種の爵位のような。紳士よりちょっと上、騎士より下」(Uh... It's a designation in the legal arena. It's like a title of dignity. Slightly above "gentleman," below "knight.")と答えている。しかし作中にはローマン以外にも多数の弁護士が登場するが、誰一人「エスクワイア」とは名乗らない。ローマンだけが自身の名前に「エスクワイア」をわざわざ付けているのだった。

 映画の『ドクター・ストレンジ』で主人公は「ミスター・ストレンジ」と呼ばれるたびに「ミスターではない、ドクターだ」と毎回訂正していたのを思い出した。これはストレンジという人物の傲慢さや不遜さ、プライドの高さといったキャラクターに基づく。同じようにこの「エスクワイア」もローマンという人物の虚栄心を表現しているのだろうか、とさしあたり理解して受け流していた。


 その後いくつかネットで調べてみたら、「Esq.」は以下のようなものだという。

  • エスクワイアは中世ヨーロッパでは「騎士見習い(従騎士)」を意味していた。語源は「盾を持つ人」。
  • 職業的な意味が薄れその後は階級の名称として残った。イギリスには貴族階級の下にジェントリ(爵位はないが領地と参政権を持つ)があり、その中の一階級となった。上から順にバロネット(準男爵)、ナイト(騎士)、エスクワイア(従騎士)。
  • イギリスではその後20世紀中ごろには男性への一般的な敬称としてMr.と同程度にEsq.が文書上で広く使われたが、1970年代あたりから廃れていった。
  • アメリカでは法曹界の人物の敬称として男女関わらず使用される。(規定で決まっているわけではなく慣習的に使用される。)
  • あくまで文書やレター上で使用される敬称であって、口頭では言わないし、またスペルアウト(略さずに綴ること)もされない。

 ローマンは、ずっと人権派弁護士の小さな事務所の中で、表舞台には出ずサポート役を果たしてきた。人付き合いが得意ではなく、不正義やルールには厳しいこともあり交友関係を上手く構築できていないようだった。米国の司法制度上の欠陥によって不利益を被る市民を救いたいと願っている。「ちょっとしたサヴァン症候群だろう」(He's a bit of a savant.)と人に言われるような異常な記憶力と根気強さを武器に、国家を相手にした集団訴訟を長年かけて準備し続けているが、資金がないため実現できない。そういう人物としてローマンは描かれている。

 そのような人物だったから、虚栄心のために「Esq.」を名乗っているという解釈には少し違和感を覚えていたのだった。しかし「Esq.」という言葉が「盾を持つ人」を語源に持ち、その意味で法曹関係者の敬称として使われているようだと知ると見え方が変わってくる。ある種の矜持だったのだろう。自分は法を、市民を守るのだ、という矜持を押し込めていたのが「Esq.」だった。ただ、その意図を誰かに(観客にさえ)明言することはなく、「ただの称号なんです」と口ごもりながら答えるだけの人物。そう思えば、ローマンがひたすら「私の名前はローマン・J・イズラエルエスクワイアです。」という異様な名乗りを繰り返していたのも腑に落ちる。

 「Esq.」に限らず、本当は「Roman」というファーストネームや「Israel」というファミリーネームにも何か作り手の意図が込められているのかもしれない。


 ローマンはある「過ち」を犯すことになるが、彼はそれを自分自身の手で裁こうとする。自殺や辞任といった「やめておしまい」という責任の取り方ではなく、正義やルールにあくまで徹底して則りながら裁くという彼の本来のキャラクターを全うした行動を取る。

 そんなキャラクターを見ていると大西巨人の小説(例えば『深淵』)を思い出して懐かしいような気持ちになる。時々そんなキャラを見るのは気持ちがいい。

2018-05-21 Mon

喫煙者と非喫煙者の間にある認識のずれ

 喫煙者の友人とこの前海外旅行に行ってきて(自分は非喫煙者)、こっちはタバコのことを酒と同じような嗜好品だと思っているけど、相手はトイレと同じような生理現象として感じられている、そういう感覚のズレがあるんじゃないか、という気がした。こっちは嗜好品だと思っているから「我慢すればいいでしょ」と心の底では思っているのが言動や態度に出てくるし、相手は生理現象だと感じているから「しょうがないじゃないか」という態度になる、このズレによって衝突が起きる。

 「喫煙者はタバコが切れるとイライラしたり落ち着かないらしい」という知識はあるし、そのつもりで配慮してきたつもりだった。しかし根本的な認識の部分で最後に「そうは言っても嗜好品でしょ」と思い込んでいるからズレが生じる。


 旅行の最後の空港でちょっと怒ってしまった。

 手荷物検査に入る前に、「もしかしたら中はもう喫煙所ないんじゃない?」と言ったら「えー」という。構内案内図にも喫煙所のマークは無いし、スマホで試しに調べたらやっぱり中にはないと書かれている、と伝えたら「吸っておきたい」という。「我慢すれば?」と言っても「絶対に無理」という。「じゃあ早く吸ってきて」と言うと「場所わからない。調べて」と言う。その時「何言ってんの!」と怒ってしまった。

 なんで自分のスマホも出さないでそんなこと言うのという気持ちと、事前に調べときなよという気持ちと、もともと空港の中を見て回ろうという話をしていたのにあまり時間が無くて早く中に入りたいのにという気持ちと、この旅行中も時々喫煙待ちや喫煙場所探しで時間を使ったり移動したりしていたといった諸々が重なって、怒ってしまった。


 非喫煙者の方は「損をさせられている」という気持ちを抱えている。タバコさえ吸わなければあの待ち時間や移動も発生しなかったのにと思っている。もちろん相手がいつもより吸わないように我慢していることや、こちらが待たなくても済むタイミングで吸いに行くといった配慮をしてくれているのも分かっている。しかし「そもそもこっちは吸ってないんだからね」とも思っている。配慮してくれたところでマイナスがゼロに近付くだけで、そもそも吸わなければマイナスにならずに済む。マイナスをゼロに近付ける努力をしてくれたとしても、マイナスにしていない自分がそれを感謝するのはおかしい、という損得勘定の意識が働いている。


 それでプンスコしてたんだけど、ああ、これってトイレなのかもしれない、とふと思ったら相手の言動のあれこれが腑に落ちた。

 トイレに行きたいと訴える相手に「ダメだ。我慢しろ。」と言うのは非人道的だけど、そう言われるのに近い感覚を相手は持っていたのかもしれないと思った。「今日は朝吸ってからずっと吸ってないんだよ」と言われるたびに「じゃあ吸わなきゃいい」「この際やめればよい」と返していたけれど、トイレに置き換えると随分ひどいことを言っているという気もする。「我慢すればいいのに」「やめればいいのに」と言うたびに「無理」とにべもなく返事をするのも、トイレと同じ感覚で言っているなら理解できる。

 それなりの公共施設や商業施設で「トイレがどこにも無い」とは普通想像もしないように、喫煙所が無いことをそもそも思いつかなければ「事前に調べておこう」という発想にも至らない。(実際、日本ならそれなりに大きな商業施設でも駅でも空港でも喫煙所がたくさんあるし。)「場所を調べてよ」というのも、「トイレの場所くらいちょっと調べてくれたっていいでしょ」という感覚なら理解ができる。なんで吸わない自分が吸うあんたに配慮してあげないといけないの、と思っていたけれど、妊婦やお年寄りに席を譲るみたいな意味での配慮として「喫煙場所を調べてよ」と言う感覚なのかもしれない。

 「タバコを吸いたい」という欲求がニコチンの依存性に起因して現実に生理的な欲求として感じられる以上、トイレに対するのと似たような態度になってもおかしくないという気もする。


 喫煙が排便と同じような「仕方のない生理現象」として当人にとって感じられるかどうかは結局依存の程度による。「別に吸わないなら数日間吸わなくても何ともない」という喫煙者ならこうはならない。例えば放送を楽しみにしているアニメがあったとしても、別に旅行中は見なくて我慢できる(何ならしばらく忘れている)のと同じような距離感で「嗜好品」としての付き合いができていれば問題ない。

 これは喫煙者当人が「生理現象だから仕方ない」と自覚的に認識しているという話ではなく、むしろそうした自覚がない、それが自分の身体的な感覚だから疑わずに前提してしまうということだ。実際、自分の感情や感覚を出発点として捉えずに何かの結果として見る、感覚や感情が起こる機序や原因を見るというのは案外難しい。「自分がこう感じるのは正しい」という前提になってしまうのが普通だ。もし自覚があれば「生理現象だからしょうがない、という態度を取らないように気を付けよう」という方向だって見えてくる。


 もっと言えばこの話は「本当に喫煙者がどう考えているのか」すら関係がない。非喫煙者の自分が、喫煙者の友人にイライラせずに済むための見方を見出したいという話でしかない。精神衛生のための個人的な営みに過ぎない。


 衝突が発生しないようにするなら、非喫煙者の側は「相手にとってはトイレみたいなものか」と思って諦めるし、喫煙者の側は「相手は『ただの嗜好品』としか思ってない」と考えておくのが平和なのかもしれない。例えば教師は「自分の教え方がまずいからだ」、生徒は「自分の学び方がまずいからだ」と思ってお互いが改善して歩み寄れば平和だけど、逆だと悲惨なことになるのと同じような感じで。

 ただ「トイレみたいなもの」と捉えて相手のことをさしあたり許容するとしても、そもそも生理的に人間がコントロールできない、依存性の高いものを平気で売るんじゃないよ、という気持ちにはなる。「トイレに行かない人はいない」のと同じレベルで喫煙者が全世界でマジョリティなら良いというのだろうか。


 あとタバコ周りに関して嫌だと思っているとしても、それを上回る魅力があるからその人とは友人関係を維持している。これを書き添えておかないとフェアじゃないかなと思って。