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やしお このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-08-28 Sun

「君の名は。」と「シン・ゴジラ」の、粗と密

※別にネタバレとかはないです。


 小説でも脚本でも、フィクションのお話を書いていると途中で「ストーリーに寄与しない細部」に必ずぶつかる。「大人を説得して動かす」という場面があったら「どうやって動かしたのか」という細部、「主人公が漫画を描いている」という設定があったとしたら「どんな漫画を描いているのか」という細部、人物の部屋の散らかり具合、私服の選択、言葉遣いといった細部は、詰めずに「だいたいのイメージ」で処理してもストーリーは成立する。ここを詰める作業はとても面倒くさい。

 この面倒くささを全面的に引き受けているのが「シン・ゴジラ」で、ほとんど全部回避しているのが「君の名は。」だった。つい3週間前に「シン・ゴジラ」で(ここまで密にやるの)とびっくりした記憶がまだ新しいうちに、「君の名は。」で(こんなに粗のままでいいの)とびっくりしたという、時期が近かったから並べただけだけど、あんまり対照的だったから。


 ストーリーと関係ないと思ってた細部を詰めていくと、結果的にストーリーまで変えなきゃいけなくなることがあるから大変。細部を詰めていくと「こういう事態にはなり得ない」とか「こいつはこういう言動は取らない」とか作品内の現実が立ち上がってくる。よく言われる「登場人物が勝手に動き出す」ということが起こってくる。そうして細部と物語が両方向で支えあって、分かちがたく成り立ってるものを見ると(はあー、リアルだなあ)ってうれしくなる。現実って、例えば悪いことが起こっても誰か一人の悪意じゃなくて、みんなが善意でやった結果変な風になるみたいな、細部や背景の積み重ねで物語が生じてるから、それを作品内で整合的に積み上げられてると「リアル」だなと感じる。


 「シン・ゴジラ」だとその面倒くささを全部やってるおかげで、「傲岸で無能な政治家」とか「硬直的な官僚」とか「怪獣」とかの既存のイメージがリセットされてるのがうれしい。「だいたいこうでしょ」っていうイメージがみんな裏切られて「うわっそんなことなんのか!」ていうびっくりがうれしい。

 その面倒くささを回避すると、既存のイメージで処理することになる。「君の名は。」だと、都会の高校生、少年があこがれる年上の女性、おしゃれな東京、神話、幻想といった諸々ぜんぶが既存のイメージで処理されていて、フィクション上の現実、リアルとは無縁な映画だった。新海誠の映画を見たのは初めてだったけど、そういう面倒くさいポイントに来ると「やだなあ」って、「ストーリーの仕掛けとかっこいい絵や音があればそれでいいんだ」って割り切るタイプの人なのかもしれない。


 「細部の詰め」が無いからだめってことはなくて、実際いい加減としか言いようがないけど魅力的な映画はたくさんある。ただそれらもみんな既存のイメージからはだいたいズレてて変だから楽しい。逆に既存のイメージを大量にぶち込んで「過剰に常識的」なのもそれはそれで変だから楽しい。ただ「君の名は。」は、そういうむちゃくちゃ側に振り切るタイプのお話ではなく、状況を積み上げてくお話なので「細部の詰め」に対する意識が浮上してきてしまうという。

 こういうこと書くと、「君の名は。」のことだめと思ってるみたいに見えるけど、そんなことないよ。ちゃんとお話の仕掛けあるし、絵もきれいよ。年に7,80本くらい映画館で見てると、物語も細部もひどいなんてしょっちゅうだから平気。


 それに、「中身が女子高校生に入れ替わった男子高校生」を表現するのに、「女子が頑張って男子らしさを演じている」というリアル方向ではなく、「女子っぽさをむしろ過剰にする」にしてて結果的に、ぶりっ子のオカマみたいな神木隆之介が聞けるわけだから。これは細部を既存イメージで処理してるおかげと言える。

2016-08-20 Sat

他人に秘密を背負わせざるを得なかったこと

 一橋大学の男子学生が、ゲイであることをアウティングされて自殺してしまったという話で、「一方的に他人に秘密を背負わせるのもどうなの」みたいなブックマークのコメントにそこそこ星がついていた。いきなり他人に重い鉄の塊を渡して「落とさないように持ってて」と一方的に要求するのは理不尽だろうという。だから渡した側にも加害の一面はあるはずだろうという。

 たとえば車椅子の人から申し訳なさそうに「階段を上るのを手伝ってくれ」と頼まれる。たまたま居合わせた4人で運びながら(運が悪かったな)と思うことくらいはあるかもしれない。しかし「どうして一方的に手伝わせるんだ。我々の負担になるんだから我慢しろ」と車椅子の相手に言うのだろうか? スロープやエスカレーターが設置されていない現実や、サイボーグ(?)が実現されていない現実に文句を言うのではなく、相手に向かって文句を言うというのは筋が正しいのだろうか。

 たとえば「血液型がB型の人間は気持ち悪い、生理的に無理」という価値観が一般化した世界や、徹底的に左利きに最適化された世界を想像してみれば、たまたまB型や右利きであるといってひどい生きづらさを強要されるのは奇妙なことに思える。同じことだ。同性愛者でも障害者でも女性でも外国人でも同じことなのだ。

 以前似たことを書いた。「同性愛者が彼ら同士で愛しあうのは認めないといけない」という言説について、一見理解のあるフェアな発言であるように見えて、そして本人もフェアなつもりでいて、実際には差別そのものになっている。

  差別のライブ会場 - やしお

 いずれも「なぜこの人はその塊を人に渡さざるを得なかったのか」、「そもそもこの人が鉄の塊を持たせられているのはおかしいのではないか」という疑問を無視することでしか成立しない。かけっこで「同時にスタートしないとフェアじゃない!」という。一見もっともに思える。しかし実際には相手は10メートルも後ろからスタートさせられているのだ。不当・不合理な前提を無視する態度の上で成り立つ、嘘のフェアネス。それで「自分はフェアなのだ」と思い込んでいる。

 前提にある現実を等閑視するというこの態度は、根本的には「自分が今の自分であるのは当然だ」と信じている点に由来するのではないか。「自分はこの人だったかもしれない」と心底思えるかどうかという程度が個人でかなりの差があって、この差からこうした態度決定や、あるいはたとえば左翼/右翼の違いが生じるという説明ができるのではないかと思っている。

2016-08-17 Wed

宇野弘蔵『資本論に学ぶ』

http://bookmeter.com/cmt/58389818

やっぱり『経済原論』をいきなり読むよりこっちを先に読んだ方が分かりやすかったかもしれない。マルクスの立ち位置、自身の立ち位置、理論の概観やポイントを語っているのでこっちを先に押さえた上で「原理論」の中身を見ないと、抽象的すぎて位置を見失って迷子になる。講演やインタビューなので平易だし。原理としてのマルクスの『資本論』について主に語ってるけど、それ以外にもその外側の話、科学って何、原理って何、現実への応用って何、って認識もあれこれ語ってて、『経済原論』ではほとんど抑圧されていた話だったから聞けてありがたい。


 宇野弘蔵による『資本論』の原理に関する認識のメモ

  • マルクスの『資本論』の3大法則は、価値法則、人口法則、利潤率均等化の法則
  • その中でも価値法則、価値論における「労働力の商品化」が全体にとって最もコアの部分。資本主義の特殊性は「全ての経済を商品形態で処理する」という点で、その軸が「労働力の商品化」。
  • 【価値論、労働価値説】 「商品の価値」が結局「労働時間」で決まることになる。労働時間を基準にして他の生産物の価値もみんな決まる。価値形態論は商品論からは導けず(需給関係のみで価値が決まるわけじゃない)、資本の生産価値に入らないと無理
  • 人口論】 資本の成長と人口の関係を明らかにしている。生産能力が増大すれば人口は追いつかなくてもいい=人口の増大ペースより資本の成長ペースの方が早くてもOK
  • 【平均利潤率】 資本は儲かるものの方へ向かう→平均利潤率が成り立つ
  • 【窮乏化法則】 マルクス人口論から展開してる。生産方法が高度化する→過剰人口が増える→窮乏化する、という流れ。でも「生産方法が良くなり続ける」という前提が成り立たないから、直接展開できないため誤っている。固定資本を考えに組み込むと、その前提が成り立たない
  • 【恐慌論】 価値論と人口論の組み合わせで導くことができる(しかしマルクスはそこには到達していない)。商品価値は労働時間が決める→しかし労働力は直接生産されない→労働力を生産するための労働時間=労働者が一日に必要な生活飼料、という関係にあって、「では生活水準が何で決まるのか」が恐慌論を導くことになる。好景気だと生産方法を改善せずに生産力を増そうとする→過剰人口が吸収される→賃金が上昇する→前よりも利益が出なくなる(不景気だと逆に生産方法を改善しようとする)、という流れの中で景気循環が生まれて恐慌論になる。ここを見ないために『資本論』がシステムとして不完全なのではないかという認識
  • 【資本の蓄積】 生産手段を持たない=労働力を売らざるを得ない(そうしないと生きていけない)労働者(=土地を持たない農民)の存在が、資本の蓄積にとって必要になる→土地の私有を認めるだけで次男・三男があぶれて(長男だけが土地を相続するので、それ以外は土地を持たない)この労働力になる

資本論』の原理に関する以外の認識についてのメモ

  • 宇野弘蔵マルクスの『資本論』を、レーニンの『帝国主義論』と組み合わせて読んでいる。そのために「資本論を原理・システムとして純粋化する」という方向に行ったという認識。
  • 資本論』はちょうど歴史的に現実の資本主義が純粋化していく(現実が原理論に近づいていく)タイミングで書かれている。それで
  • 自然科学は原理を技術に応用できる。相手が物だから反応を防げる。社会科学だとリアクションが出てきてしまうのでそのまま技術に転化できない。ここを混同してそのまま原理論(科学)を経済政策(技術)に転用しようとすると失敗する。
  • 現実的に何かしようとすれば(政党になって政策を立てるとか)それはイデオローグにならざるを得ない。一旦原理論を切り離して、「こうする」って言わないと何もできないから
  • 社会主義は人間が自分でつくったものに支配される社会からの解放を求める→人間としては当然の願いであることは確か。資本主義が「労働力を商品化する」という点をコアに持っている以上、そこを何とかしようとするのが社会主義(であるはず)
  • システム論をやるときは、現状と切り分ける必要がある。その切り分けをしないままやろうとしているのが近代経済学
  • 経済学の目標自体は現状分析のはず。ただ自分(宇野弘蔵)はそこまではやっていない。それに先立つ原理論をやっている。
資本論に学ぶ (ちくま学芸文庫)

資本論に学ぶ (ちくま学芸文庫)

出川通『技術経営の考え方』

http://bookmeter.com/cmt/58389845

大企業で技術系マネジャー/リーダーとして大小のプロジェクトや事業を進めてきた実体験が色んなケースで書かれていて面白い。組織の違い(自社内での立上げ、子会社化、国内・海外ベンチャーや研究機関とのタッグ)や、フェーズの違い(研究/開発/事業化/産業化)で、上手くいったこと・いかなかったことを色々見せてくれる。編集上の割り切り方が不十分で「誰に何を伝えるか」の方針がブレてて読むのが少ししんどく、役所や大企業で見かけるあの「ポンチ絵」がたくさん出てきてほとんど理解の補助に供していなくて、社内資料に近い雰囲気の本。


 本書の内容自体とは関係ないけど、たくさん「ポンチ絵」が出てくるのを見て、改めて無意味だなと思った。作る手間がかかるわりに、読み手の理解の補助にほとんど役立たないので、作らない方がやはりマシだと思った。役所・学校・大企業であれを部下に作らせたくなるとか、自主的に作りたくなるっていうのは何なんだろうか。「頑張ってるよ感」、「すごいんだぞ感」をなんとなく出す以外の意味がない。

 「ポンチ絵」がまるで理解に役立たないのは、一枚の図の中に大量の情報がぶち込まれているので、理解するためには見る側が内容を分解・分析しないといけないからだ。それだともはや文章で読むのと大差がないし、なんなら文章の方が最初から情報を取り出す順番が構築されている分ポンチ絵よりわかりやすい。

 文章がリニアにしか情報を伝達しないのに対して、図はイメージで同時に伝えることができるという違いがあって、そのために論理の構築を伝えるなら文章の方が、ごく限定的なイメージ(特に要素の相対関係)を伝えるなら図の方が有利になる。図に情報を大量にぶち込んでその特性を殺すというのは、全くこの世界をハッピーにさせない。

 「図に頼らずに文章だけでとことんわかりやすくする」という制約を課して、文章の技術を上げるとようやく、「どうしても文章よりも図で見せた方が絶対にわかりやすいポイント」がはっきりする。その上でようやく補助的に図を使うことを許す、という順番じゃないとダメだなと思った。

技術経営の考え方 MOTと開発ベンチャーの現場から (光文社新書)

技術経営の考え方 MOTと開発ベンチャーの現場から (光文社新書)

富岡多恵子『ニホン・ニホン人』

http://bookmeter.com/cmt/58389874

エッセイなんだけど、ある主張や意味を伝達するために言葉を構築するというより、一瞬一瞬の選ばれた言葉の運動そのものを見ることに意味があるような言葉の組み立て方になっていて、そういう文章をひさしぶりに見たような気がした。普段、仕事とかで言葉を使うときって、伝える順番や粒度や何かに配慮してく、そういう「わかりやすくする技術」を駆使してるから、すっかりそっちの技術にばかり目が行ってるから忘れてた。小説や詩ではなくエッセイだからある種の意見や主張というのは確かに乗っているのに、マテリアルとしての言葉そのものがある。

ニホン・ニホン人 (集英社文庫)

ニホン・ニホン人 (集英社文庫)