蓮實重彦『随想』
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スタイル(例えば日付の明示や一人称の選択)への自覚、ついにフィクションでしかあり得ないことへの自覚は当然されている訳だけど、何もそれを後書きで改めてバラす必要は無いんじゃないのかなとかすかに思う。いろいろ面白かったけれど、磯崎憲一郎の『終の住処』について触れられているのは、なんていうかラッキーだった。「説話行為と物語内容があからさまに齟齬を生産しているが故に歴史とかろうじて触れあっている『終の住処』」。そして「齟齬」を全然生産しないサイボーグ川口松太郎も掬ってあげる懐の深さ。
ちなみに『終の住処』について語られているところで、一般的な話として下のようなことが書かれてあってなるほどねと思ったので引用。
「語ること」と「語られているもの」とが大きな齟齬をきたさぬかぎり、「レアリスム」の物語は時代を超えて広く受け入れられるのであり、そのとき物語は非歴史的な世界に漂い出し、観念的な消費の対象としていつでも要約を受け入れる。
近代小説とは、この消費の構造を支える「レアリスム」にさからう言説としてみずからを支えるあやうげな言説でしかないのだが、そのあやうさの中にかろうじて歴史が露呈される。
(p.167-168)
この「齟齬」について具体的に『終の住処』のどこに現れているかも(当然といえば当然だけど)きっちり語ってあるのでなんちゅうか、ありがたいねえ。
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九鬼周造『「いき」の構造 他二篇』
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/7781132
一番感動したのはかっちり構築した上で最後に相対化している点だった。「結論」で<すべての思索の必然的制約として、概念的分析によるのほかはな>いけれど<概念的分析によっては残余なきまで完全に言表されるものではない>と体系の限界を認識している点。あと二項対立を4つも見出してそれを立体的に組み合わせ、ほら他の現象もこの中に入りますよと示す手際は、あまりにクリアーなので自分でできそうな気にさせられる罠。方法として(今見て)新しくはないけど限界への認識とあの手さばきが1930年に示されていたのかと思うと溜息が出る。
上では(255文字に収めるために)触れなかったけれど、「内包的構造」として「いき」は「媚態」、「意気地」、「諦め」の3つが契機となって発生している、という認識が面白かった。ちょうどここ最近考えていたことがまんま、すっきり記述されていたのでかなり驚かされた。「媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。可能性としての媚態は、実に動的可能性として可能である」。ここ1年くらい、自分と他者がいて、その接近の運動にしか楽しみは無いんじゃないか、同符号の電荷が二つあって、反発力に耐えながら接近する運動。接近の運動に喜びがあるのに、接近するに従ってダメになる……みたいなことを考えてたの。
しかしこの認識、本人に何かあったんじゃねえかとしか思えないけど、まあそんなことどっちでもいいか。
それからこれも無視していたけど「他二篇」もなかなか楽しかったよ。「風流に関する一考察」と「情緒の系図」。
「情緒の系図」は読みながら笑ってしまった。「悲」、「憎」、「愛」、「嬉」……といった感情の内包的/外延的な解説をしていくんだけど、何せその数50以上なので、おいおいおっさん、感情コンプリートする気かよ……と笑いがこみ上げてくるし、最後に感情曼荼羅みたいのが図で出てきたときは、もう、呆然としちゃう。
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