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2011-01-16 Sun

金子一朗『挑戦するピアニスト 独学の流儀』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/9268978

大げさな言い方で恥ずかしいけれど、人生で音楽への認識が一気に昇華された瞬間でした。演奏家を目指していない人にも勧めたい。良い演奏家は良い聴き手であることが必要条件だという前提から書かれており、ピアノ演奏の技術以前に楽曲をいかに捉えるかが様々な面から書かれています。しかも恐ろしいのは、原理原則とその応用(数多い実例)がかなりクリアーに語られているために、読むうちに当然のことのように思えるところ。本来これらの認識に辿り着くには大変な紆余曲折と労苦が支払われるところが、たった2,300円+税なんて。恐ろしい。


 著者は早稲田中・高校で数学の教諭を勤めながら、2005年ピティナピアノコンペティション・ソロ部門特級でグランプリ。すごすぎる。副題に「独学の流儀」とありますが、苦労して問い直した事々のため非常に納得し易い書かれ方がされています。


バッハって何がすごいわけ?」と思っていても、本書を読んだ後では「バッハ、おそろしすぎる……」となります。

 例えば「平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第1番 ハ長調 前奏曲」(BWV846)について。


f:id:Yashio:20110116213304g:image

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 (画像は1小節目から5小節目まで。参考までにyoutubeにあった音源も貼っておきます。)

 これを弾くだけならヘッポコの私にも弾けます。けれど著者によるとここでは「次の2通りの感覚を要求されている」とのこと。すなわち

(1)「すべてを16分音符として捉え、1本の運動量のある線として認識すること」

(2)「この作品が1小節ごとに和音が変化することを考え」5声として認識すること

 弾くだけなら弾ける、と言ったのが(1)のことです。普通に弾く。とは言え、きっちりテンポ・リズムを守って全ての指で均一に弾くことが前提として要求されているので本当に弾けているのかといえば怪しいものです。

 そしてオソロシイのは(2)です。上の楽譜を見ると、1小節の中には高さの異なる5つの音が入っていることがわかります。これを一つの和音として捉えて、この和音が変化していくことを見る。5つのラインが存在して、それぞれが流れていくと見る、時間変化を捉える。この5つのラインを「美しく滑らかに連結するように演奏するのである。」これは恐ろしい。そもそも私みたいな素人は一つのメロディラインしか見えちゃいないのです。これを、同時に5つのラインが進行していくのを耳で聴いて演奏するだって? 無理!

 しかも要求されるのはそれだけではありません。


 さらに、「メロディーと伴奏型」での感覚はここでも必要で、バスとソプラノ(これを両外声と呼ぶ)、すなわち、最低音のラインと最高音のラインでバランスをとり、その響きの中に他の声部を溶け込ませることで美しいハーモニーが生まれるのである。

 和声法を学習するとわかることであるが、和音の揺らぎの中で、とても大切な連結をしている2音を「限定進行音」と呼ぶ。この限定進行音は、この場合、たまたま、重要な両外声に入っている。具体的には、3〜4小節にかけてのソプラノのf→eとバスのh→cである。これは緊張から弛緩と変化するニュアンスを他の声部の音の連結よりも強く感じさせるもので、これが他の内声に現れている場合は、その声部もある程度意識が必要になる。


 もはや気が遠くなりますが、これは簡単な方の例なのです。オソロシイですね。


 本書はこのレベルで具体的に理念が展開されていくのでよく納得できます。しかも春秋社だからか、楽譜もその都度必要な分だけきちんと掲載されているのでとてもわかりやすい。ちなみに上ではバッハを引いてきましたが、古典派から近代までバランスよく実例として挙げられています。本当にピアノ弾きでない人にも勧めてみたい1冊。

挑戦するピアニスト 独学の流儀

挑戦するピアニスト 独学の流儀

苦痛と引き換えに高次の快楽を得る「禁断の果実」

 上のエントリであのバッハの例を引いたのは、これを引用したいがためでした。著者金子一朗は先に引用した部分に続いて、次のようなことを言っています。


 初心者には信じられないかもしれないが、優れた演奏家は、これら2つの感覚を同時に持ち、それを表現しているのである。訓練すればできるようになるが、実はそれを聞き取れる耳を持つようになったとき、これら2つの感覚を同時に持っていない演奏を聴くと、とても退屈してしまう。つまり、一種の「禁断の果実」である。


 この「とても退屈してしまう」について、小説や映画で同じような体験をしたことがあるので実感としてよく分かるんです。ストーリーやプロット以外の楽しみを知ってしまうと、ストーリーやプロットがどれだけ面白くても、その他の面(語り口だったりショットの長さだったりキャメラの動きだったり)で退屈、あるいは不快だと読むに堪えない、観るに堪えない作品になってしまうのです。

 「ストーリーやプロット以外の楽しみ」を知る以前は面白いと思っていた作品も、今はとても苦痛で読み通せないということがあり得るのです。なんだか少し悲しいですが、これはストーリーやプロットの面白さを犠牲にして別の面での面白さを実現している諸作品を楽しめるようになる歓びと引き換えの、ささやかな不幸なので、昔に戻りたいとは思いません。


 これは例えば、にしおかすみこがどれだけ面白いことをトーク番組で話していても、声がどうしても耳障りなのでチャンネルを変えざるを得ない、というようなことと少しは似ているかもしれません。

 内容とともに表現の達成も要求されるということです。たまに「ミテクレじゃなくて中身が大事」という意見を耳にすることがあります。確かにミテクレばかりが重要視されている状況では有効な発言ですが、これを「中身が良ければミテクレは構わない」とみなすのは危険な罠です。そういう易きに流されてはいけない、両方実現しなければならない、という点は自他共によくよく銘記されなければなりません。