やしお

ふつうの会社員の日記です。

彦星と織姫のバレンタインデー

 今日ね、通勤電車に乗ってた。座ってたら目の前におじさんが立ったんだ。スーパーのビニール袋を提げて、地味なジャンパーを着たしょぼくれたおじさん。
 それから別の駅で女子高生が乗ってきた。おじさんと女子高生が話し始めたから、
(あれ? しりあいなのかな?)
と思ってたら、おじさんと女子高生が手を握り始めた。
(え、なにこれ、なにこれ)
 ぼくはものすごく興味がすごかったけど、顔を上げて見るわけにもいかないし、iPodレディ・ガガを聞いてるところだったから話の内容もわからない。乗ってきた駅が違うから親子じゃないだろうし、そもそもあの年の親子で手はつながないだろうし、とか、どきどきした。いろいろ考えた。痴漢からはじまった恋、塾の講師と生徒……わかんない。でも、とにかくすごいんだ。
 だって二人はただ手を握ってるわけじゃなくて、にぎにぎしてた。それからお互いの太ももをこっそりつつきあったりしてた。よくある若いカップルみたいに派手にいちゃつくんじゃない。ただ手でいちゃついてるんだ。
(すっごくきになる!)
 でもそのときガガが
「ポ・ポ・ポ・ポーカーフェース。ポポポーカーフェース」って歌ってたからぼくは表情を変えなかった。ああでも、おじさんのしわしわの手と、高校生のすべすべの手が!
 その後、おじさんが先におりてった。
 よくわかんないけど、たぶん今日って恋人たちの特別な日じゃん? だからだと思う。いつもはがまんしなくちゃいけない二人が、おしゃべりだけでがまんしてた二人が、今日だけはとくべつに手をつないだんだと思う。
「オゥ、オ、オゥオゥ、オゥ。オ、オ、オ、オ、オ、オゥ。」
 それってすてきじゃーん?
 そうでもないか。とりあえず会社についてから、職場の人に報告した。ホウ・レン・ソウはビジネスパーソンの基本だからね。

新田次郎『八甲田山死の彷徨』

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/16600221

作中に実在の資料を召喚して作品の正当性を主張するんだから恐ろしい。その瞬間ルール違反の報いとして、作品が仮構かつ真実という主張が無化される。この意図と結果の撞着を導くラジカルさ。火事の場面から小銃の解決に至るフィクション性に所々干渉する現実。終章の5に至ってはひたすら現実の資料に侵食される(仮構の人物名を括弧に押し込める念の入れよう)。小説の決定的な敗北。それでもなお全体を小説と呼ぶことで小説の果て無さが際立つ。もちろん作者の意図しない読み方だとは思うけど、いいの。勝手に面白く読んだもん勝ちなんだから。


 映画なんかでも「これは実話です」みたいなことを書かずにはいられない人たちがいる一方で、「これがフィクションである」ということをはっきり受け止める人たちもいます。例えばアッバス・キアロスタミの『そして人生はつづく』でスタッフがごく自然に画面の中に入り込んで人物と会話を交わす瞬間や、ティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』で主人公の実家がありえない小ささと位置で存在して、その中にいる両親の祖父母4人が互い違いにベッドに寝ている意味不明さを目にした瞬間に、フィクションを受け止めていると感じて無償の感動を覚えるわけです。
 本作はそういう意味では前者に属するわけですが、ただちょっとおかしいのは、作者がもはやこの小説に対していささかも「これは私の作った世界なのだ」という意識に捉われていないように見えるところです。例えば「倉石一大尉(小説では伊東中尉)」(p.256)と「終章の5」で平気で書くわけですが、もう驚かずにはいられない。「小説では」って、じゃあこの「終章」は何なんだ! と言いたくなるわけです。もう本当に、小説のことはどうでもいいと思っているとしか思えないところがすごいと思いました。


 ところで盗作やトレースって、アレンジすればいいのに律義に写してバレるケースが多いんですが、あれって実は、アレンジしようとはしてるんじゃないかとひそかに思っています。アレンジしようとモデルを観察すればするほど、あらゆる要素が相互に支え合って完璧に存在しているように見えてきて、手を入れる余地がないように思えてくるんですよ。それで最初はアレンジするつもりだったのが結局、考えて考えた末に、そのまんま使っちゃうっていう。(もちろん技術的にアレンジする力がなかった、あるいはそもそもただパクるつもりだった、ってこともあるんでしょうけど。)
 そんな事態が本作にも生じてるんじゃないかなって思ってるの。(自らモデルを明かしてるからもちろん盗作じゃないけどね。)モデルじゃなくてプロトタイプ、完全に換骨奪胎するぜと銘肝しないと作品がモデルに屈服しちゃう。


 そんなことばっかり言ってるけど、ちゃんと素直に「山ってこわーい」とか思って読みました。

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)