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やしお このページをアンテナに追加 RSSフィード

2012-11-16 Fri

この眼前の、絶望的な40年の差

 会社に入ってすごくおもしろかったのは、まったく同じような環境で、同じような数十年を過ごしてきた二人に、取り返しのつかないほどの差がついてる、それを残酷なくらいはっきり目の前で見せてくれる、ってことだよ。


 学生のころはせいぜい3、4年ほどの差を目撃するだけだった。それでも「入学したころは同じくらいの成績だったのに、ずいぶん差がついちゃったな」っていう驚きや慨嘆があった。

 なのに社会に出たとたん、3、40年で積み重なった差がいきなり目の前にあるんだ! ほんとうに、途方もない気持ちになるよ。

 日々その身に降りかかる出来ごとはさして違いもないのに、一人はそこから細かな疑問や発見を一つ一つ丁寧に積み上げていって、もう一人はそれを見過ごして、それか他人にゆだねていった末に、この唖然とするような差があらわになってしまうんだ。

 今ぼくには、はっきり思い描いているおじさんが二人いる。どちらも同じ職場で一緒に仕事をしたことがあって、その「差」を目撃した具体的なエピソードがたくさんあるのに、仕事の具体的な話は難しくて、どうしても抽象的になっちゃう……


 とりあえずダメなおじさんの方ね。新人だったぼくが何か聞くとするでしょ。例えば何か作業のやり方について。すると、こうすればいいと答えてくれる。それでぼくは「どうしてこうするんですか」と聞くと、もう答えられないんだ。実に浅い答えがかえってくる。だってそんなことを知る必要があるだなんて、おじさんはまるで思っていないんだからしょうがないよね。

 そしてしばらくすると、新人のぼくにその作業のことを聞いてきたりするんだ! あなたが教えてくれたことを、どうしてぼくに聞くんだ! そんなことを新人に聞くなんて恥ずかしくないのか!

 でも恥ずかしくないんだね。おじさんはそうやって40年を過ごしてきたんだから。同じことを、何度でも、誰かにきいてその場が済めば、それでいいんだ。そうしておじさんはずっと同じ位置に漂い続ける。

 きっと何度でも、誰かがそれじゃだめだっておじさんに言ったと思う。いや、そんな言い方じゃなくてもっと嫌みっぽく、それかほんとに怒って(だっておじさん対応で時間を割かれるんだからね)「どうしてそんなことを知らないの」と言っている。そんなときおじさんは、「たはは」って笑うんだ。すごくダメっぽい笑い方だよ、ってのはたぶん偏見だけど、でも「たはは」で済ませようとする。すごく情け無さそうに「たはは」っていうんだ……ぼくは、ほんとうに、いたたまれない。


 それですごい方のおじさんなんだけど、そのすごさってたぶん、状況をきちんと説明してどうすごかったか具体的に言わないと伝わらない。でも仕事がやや特殊なので説明が膨大になっちゃう。

 それで、例えばなしなんだけど、ぼくが森に入ったら、ただ、ああ木や草があるなあと思うだけだけど、植物学者?とかだったらこの木は○○、この草は××という種類で、その状態がどんなで、この木がこういうところに生えているからこの森のフェーズはこんなで……と、そこにまるで別の世界を見てる。ぼくには貧しくのっぺりして抽象的にしか見えない森に、もっといろんな要素を見いだして、それらの相互関係の網が密に重なり合ったものを見て、豊かに世界を解釈している。

 そんな感じで、そのおじさんは、一緒に仕事をするとそのたびに「別の世界」を見せてくれるって感じなんだよ。こんなところに見るべきポイントが、こんな視点があり得て、それをどう解釈していけばいいかを見せてくれる。

 歩きながら足にこつんとあたった小石、ぼくがその存在にすら気づかずに、それか気づいても当たり前のこととして通り過ぎた小石を拾い上げて、おじさんはこの小石は何という種類の岩石で、その種類がここにあるのは不自然なことであって、不自然である理由はこうで、その不自然さがどういう問題を引き起こす可能性があって、そして小石がここにある推定原因は、といったことを見せてくれる。

 こんなに刺激的な仕事はない。そのおじさんと仕事をするのはとても楽しいんだ。

 もちろんいつだって答えられる訳じゃないし、おじさんにだって知らないことはある。でも細かな疑義を見逃さずに、分かる人に尋ねるなり調べるなりしてきっちり詰めていって、自分の中でそれを他の物と結び付けて、自身の内のネットワークを豊かにする作業を怠らないんだ。

 うちの職場でただ普通に過ごしていれば手に入らないはずの範囲までバックグランドを広げられているのは、この地道に一つ一つ積み上げる作業を倦む事なく3、40年も続けてきたからなんだろうな。


 実際のところうちは、植物学者なり地質学者なり(たとえだけど)の知識は必須じゃない職場なんだ。よその部署にはちゃんとその道のプロがいて、そのたびにぼくらはプロに聞けば済んでしまう。ただ情報を集めて体裁よく組み立てれば一応OKなの。何かを丸投げすることだってできる。いつまでも「それはお宅の仕事!」の押し付け精神でも仕事は回る。そういう職場。

 そんな環境にあって、安楽な方に流されるのは実にたやすい。でもそこを踏みとどまって、自分のできる範囲までは精一杯やって、できない範囲はお願いするしかないけどそのときに、せめてほんの少しでもできる範囲や知っている範囲を広げておく、という繰り返し。

 このおじさんが身につけた物は、ただ仕事をこなすだけなら必要のない知識や技能かもしれない。でも本当に目に映る景色を豊かなものにして、びっくりするような世界を見るためには、こういった作業が必要なんだ。(もっとも当人はちょっとずつ進んでるので、日常的にはびっくりしないかもしれないけど。)

 それに、だってさー。かっこいいんだよ! 他の、それぞれの専門の部署の人がそのおじさんにわざわざ聞きにくるんだよ。そんなときアドバイスさえできるなんて、かっこいいじゃん。


 それからここが肝心なんだけど、このおじさんは何か飛び抜けた聡明さをほこっているというわけでは決してないってことなんだ。世の中には、一を初めて聞いて十までほとんどノータイムでたどり着くような人、頭のつくりが違うと言いたくなるような人が確かに存在している。でもそういう人じゃなくても、あんな地点にまで到達できるんだ、っていう実例が目の前に存在しているんだから、こんなに嬉しいことってない。

 ぼくのモットー(?)は、「自分は無意識に賭けられるほど天才じゃないし、意識で統べられるほど聡明じゃない」っていうもので、ここをわきまえて、じゃあ何ができるんだ、って考えることにしているの。(むかし天才でも聡明でもないってはっきり感じた時は、ほんとうにがっかりしたけど、今はちゃんとわかってよかったと思っているよ。)

 その一つのやり方が、ここまで話してきたことだし、その実践の結果が、このおじさんなんだ。


 それにしても、そんな二人が同時に存在している状況がどんな職場でも見られるわけじゃないんだろう。(だって優秀な人は根こそぎ管理職へと収穫されて見えなくなってゆく職場だってあるだろうし、だめなおじさんしかいない職場や、逆にすごくレベルの高い職場だったり。)だから、こんな光景を見られてぼくはしあわせだ。

 ただびっくりなのは、この対照的な二人のおじさんを日々目にしながら、この幸福な状況に置かれながら、だめなおじさんへの道を日々歩もうとしている人がいるってことなんだ! あまつさえ、そんな人たちはダメなおじさんをいつもバカにしている。そしてすごいおじさんをそれなりにリスペクトしているはずなのに、自分に対してはあの安楽な道を選ばせる。

 これはひょっとすると、どんなメカニズムでこの二人の差が生じたのか、そしてそれを適用して具体的に、今日のこの時に自分がすべき振る舞いにまで、考えが及んでいないのかもしれない。

 もちろん偉そうにそう言えるほど、ぼく自身の考えもまだ及んではいないはずだし、実践も果てしなく足りることはないとひるがえって自省はするけど、あんまりにもあんまりな光景だから。

 もっとも、すごいおじさんを目指さなきゃいけないなんて強制はどこにもないわけだから、他人にとやかく言う筋合いの話じゃなくて、自分でかってに目指してりゃいいのかもしんない。



 今思えばまったく愚かな話だけど、ぼくはちょうど学生を終えてサラリーマンになろうとする直前に漠然とした恐怖をかんじてたんだよ。今でもうまく言えないけど、ほとんどの人が、なんか無為に生きてって死ぬんだよな、自分もたぶんそう、みたいなこと考えてると、うっすらと背筋がさむくなるような、かるく呆然としてしまうような、そんな気分になってた。NHKの「プロフェッショナル」とか見て、イチローとか羽生善治にしたってそうだけど、いやあすごいね、あんなところまで到達した人がいるんだ! とうれしくなる一方で、でもそうじゃないまま死んでく人の方が圧倒的に多いんだ、自分だってその一人かもしれない、ってすごく寂しくなる。

 でもそんなことなかった。

 どうやら思ってたよりずっと、ちょっとびっくりするような地点まで到達してる人は、この世の中にはいるんだって会社に入って認識を改めた。「普通の」サラリーマンでも、たぶん「普通の」主婦でも、そう世の中の人が「普通の」としか思ってない人達にも、かくれ「プロフェッショナル」みたいな人が結構いるみたい。それを人に見える形で表現されることが少ないから見えないだけだった。当たり前と言えば当たり前だ、みんな真剣になにごとか考えて生きてるんだしね。視野がせまくて少なく見積もり過ぎて勝手に悲観してた。

 たとえば死ぬとき、その死に関心を払う人がたかだか10人にすら満たずに、「普通の」人とみなされて死んでく人たちの中に何人も、とても豊かに世界を見ていた人たちがいるんだと思うと途方もない気分になるよ。そして自分だってそうなれるのかもしれないと、楽天的に信じられているのは幸福だ。

 その確信に従って、もちろん「ここから、すごいおじさん」という境界があるわけではないので、無限遠に向かう運動をつづけていくんだ。確信が持てて運動を続けられることそれ自体が歓びだから、たとえ他人からはかなり手前にとどまっていると見なされたとしても、もはや関係がなくなる。

 そんなようなことを改めて考えてるとなんだか、もう生きることそのものが極めて楽しく思えてくるけど、週明けに出社してだめなおじさんを見ると、やっぱ暗い気持ちになるんだよねー。


補足

 あちらこちらで「それは違うよー」という指摘を受けたので、補足(反論じゃない)を書きました。

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