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2013-02-02 Sat

つらいということ

 先々月に父が急死した。

 もし親が死んでも自分は意外と平気でいられるんじゃないかと考えていた。何かを整理して考える力も大分ついてるし大丈夫かもしれないと侮っていたが実際はまるで平気ではなくて自分でも驚いた。体験を通さないと本当には分からないことが確かにある。


 12月14日(金)の昼前、母から「父と昨日から連絡がとれない」とメールが入った。両親は離婚して別々に住んではいたものの、連絡を取り合ったり会ったりもたまにしていた。

 前日が僕の誕生日で、田舎から両親の名義でお菓子が届いていたから、二人宛にお礼のメールを出していた。いつもは電話をかけてくる父親から返事がなかったから変だなとは思っていた。

 僕の誕生日のこともあり10日ぶりに母も父に連絡をとろうとしたようだが、メールの返事もなく、電話も「電源が入ってない」のメッセージばかりだという。それで警察と部屋を見に行ってくるという。

 事故か、失踪か、病死か、事件か、なんだろう……ひとまず会社で仕事を続けてはいたけれど不安でしょうがなかった。作業に集中している時は忘れていても、不安感はずっとわだかまっていて、ふとしたときに手が止まって心が潰れそうになるというような感覚。

 ちょうど原発事故があった直後の、いったいどうなるんだろうとひたすら一人テレビやネットを見て大丈夫、いややっぱりだめかも、いやいや大丈夫らしいと思って、落ち着かずに心が潰れそうになっていたあの感じにとても似ていた。そのレベルの不安は生まれて初めてだったけれど、これほどすぐに訪れるとは予期していなかった。

 これは明確にならない宙吊りの状態が不安にさせているだけだから、そこさえはっきりすれば、たとえ亡くなっていたとしても(そしてその蓋然性は高いだろうと既に思っていた)落ち着くんだろうと思っていた。ひょっとすると「近いうちに不安は解消される」と信じることで自分を救済していたのかもしれない。


 就業時間が終わって母に連絡を入れ、父が自宅で病死していたことを知った。職場のある建屋の、人通りのない寒い階段で聞いた「ゆう君、お父さん、亡くなってたよ」っていう母親の、あまり聞いたことのない間延びした言い方や声をまだ忘れていない。

 とりあえず事件性はないということだけ聞いて、あの不安はひとまず解消された。

 よし、自分はでも、大丈夫だ、と思って職場に戻ってチームのリーダーの人に事情を話して、さしあたって必要な引き継ぎをてきぱきこなして、ほら、やっぱり自分は大丈夫だと思ってたけどはたから見たらちょっと変だったかもしれない。


 それから会社を出て駅まで歩いてる内に、具体的に何というわけでもないのに、急に突き上げるみたいに嗚咽しそうになって何度もこらえた。精神的にというより肉体的にしんどかった。

 電車に乗ってからも突き上げに襲われてたけど、人目があれば何とか堪えられる。会社を出た直後に母に連絡したら途中で警察が出て「とにかくすぐに葬儀社に連絡して遺体を引き取るように」と言われて、せっせとスマホで地元の葬儀社を探す作業をしていたから気が多少は紛れてた。

 それにしても不思議な気がした。こうやって、父親が死んだと今さっき知って、心中むちゃくちゃになってても、外側から見るとスマホをいじってる会社帰りのただの若い男でしかない。まるで普通に見えて、だれも知らないし気にもしない。今まで毎日電車に乗って、ただの通勤通学者だと思ってた中にも何か非日常の状況にいた人もいたのかもしれないと思うと妙な気がした。これからもほとんど気にはしないだろうけど、たまには思い出そうとぼんやり思ったりした。


 葬儀社は選び方が分からず電車では決めきれずにいた。帰宅してからもパソコンで調べていたら警察から「冬場なので一晩くらいは安置できるから葬儀社が決まらないようなら引き取りは明日でも」と連絡が入った。ただ母親が「銀色(たぶんステンレス)の冷たそうな台に裸のまま載せられて、すごくかわいそうだ」と言うのを聞くと、どうしても割り切れないもので、その日のうちに引き取ってもらうことに決めて、葬儀社もえいやで決めて引取りを手配した。死んでいるのだから冷たいも何もないと表面上で考えることはできても、心底納得するまでには至っていなかった。


 それから部屋で一人せっせと荷造りする中、もう人目もなくて抑制がきかずに突き上げがくるままに嗚咽して疲れた。隙間隙間で父親のことをふと思い出したり考えたりする瞬間、何か価値判断も許さない内に即刻あふれ出るといったていで涙と鼻水が出てきてしまう。花粉症で目と鼻がばかになると息ができずに辛いが、それに加えて、心臓が収縮するというのか胸が締め付けられるというのか、そんな感触もあってなおさら疲労する。顔を洗って気を取り直して、作業を再開して、また突き上げを食らって嗚咽して、ぐったりしながら顔を洗っての繰り返し。


 翌朝早くに地元に戻る新幹線の中で、いったいこのしんどさはいつか解消されるのだろうかと考えた。とにかくこのしんどさから免れるやり方を知りたいと思った。よく言われる「時間が解決してくれるよ」なんて意味がない。もし時間の経過に伴って減衰するなら何が減衰させているのかを知りたかった。

 「肉親が死んでつらい」というのは極めて一般的な、当たり前としか外側からは見えない話だとしても、自分の側から見ると不思議でしょうがなかった。みんなもそうだから、自分もそうなんだろう、っていう納得の仕方はとてもできない。


 突き上げが落涙を引き起こすといった生理的なプロセスは措いておいて、そもそも何がこの突き上げを催させているかを考えようとした。けれどどう考えていいのか端緒がなく難しかった。父親のことを思い出すなり考えるなりした瞬間、もっとひどいときは、父親のことを自分が思い出した/考えたと知覚するより前に突き上げてくるから、プロセスを一つ一つよく観察してどう引き起こされているかを考えていく余地がなかったから。

 分からないなりにまず、「もういない」という現実への認識を拒絶する動きがあの突き上げなのかもしれない、といったことを考えてみた。父に対してこれをするつもりだったのに、あれを伝えたかったのに、せっかく会社の寮を出てはじめて一人暮らしを始めたことだし遊びにきてもらおう、ついでに東京らへんを観光してもいいし、といった、応答できる相手がいることを疑う事なく前提していた習慣と、「それは間違いである」と主張する現実認識との齟齬が、突き上げを生んでいるのかもしれない。

 「もういない、ってことがつらいの」と言えばひどく月並みだけど、そういうものかもねとひとまず考えることにした。「人はいつ死んでもおかしくない」という当たり前のことを、例えば同じ職場の人が突然事故で亡くなった経験や、津波で突然生活を断ち切られた人の姿を見て、相当の衝撃を伴って理解したように思っていたけれど、それでもこんなに、本当にはわかってなかった、ということが驚きだった。生きていると前提することから免れはしていなかったという驚き。

 「この先」をいつも通り一瞬思い浮かべても、もはやあり得ず、無限に突き放されてしまう。そうした途方もなさに突き当たる。


 そういえば、前日は「お悔やみ」みたいなことを言われるのが嫌で嫌でしょうがなかった。職場でもチームリーダーにだけ伝えて他の誰かに何かを言われる前に帰ったし、警察や葬儀屋の仲介業者への電話でも「この度は……」というようなことを言われても(それはいいんで、はやく用件に入ってくれ)という反発する気持ちになって、自分でも何だろうと思っていた。自分が相手の立場なら同じように言うはずだと分かっているのに、どうしてこう苛立っているんだと。

 でもこれもそうした齟齬の一変奏かもしれない。死んだって事はあなたに言われなくてもわかってます! お悔やみ? 俺の父親のことなんか、俺が父親をどう思ってるかとか、何一つ知らないくせに、そういう無責任なことを言うな! みたいな気持ちだったのかもしれない。苛立ちを剥き出しにして当たったりせずに済んでよかった。


 そうした齟齬が突き上げてくるのだとして、それがいったいどうやって解消されていくのかという肝心のところはまだわからなかった。


 地元に着いてレンタカーを借り、母と一緒に病院で遺体検案書を受け取り、警察署にゆき、葬儀社で簡単な説明を受け、柩に入った父の遺体を見た。死んでるってなんだ、という気になった。

 発見が割と早かったので遺体の状態は良いと事前に聞いていて、確かに目の周りがやや黒ずんでいる以外目立って変わりはない。ただ、よく言われる「眠っているときと変わらない」とは違うと思った。呼吸などがない一切動きがないということが、無意識に分かるのかもしれない。

 この物体は何なんだろうという感じだった。ひたすら父に似ている、しかしもはや意識もなく、目を開くことも口を開くこともないという。じっと見続けてもまるでまとまらない。そうかあ、死んでるのかあ、というあいまいな納得と、これでもう二度と何か言葉を発したり動いたりは絶対にしないって何?という不思議さが明滅するような感覚。

 あまりに妙な感覚なのと葬儀社の人もいたのでその場で泣きはしなかったけれど、その後車を運転している時に急にきて運転大丈夫かなとも思ったものの大丈夫だった。


 それから母と父の部屋にいった。ワンルームのアパートで今まで見てきた姿と全く変わりなかった。もともとかなり掃除も整理もされていたが、全く変わりない。父が亡くなっていたという布団も敷かれたまま、枕元のゴミ入れの缶の中に血が吐いてあっただけで、他は、仏壇にはお茶が供えられたまま、コンロにはおでんが入ったまま、全てそのまま生活しているという状態だった。それを見て急に落ち着くのを感じたけれど、それは、まだ残っていた不安感、どんな状況で亡くなったんだろうといった宙吊りが多少は解消されたからかもしれない。

 しかしそれからさらによく見ていくと、かえって宙吊り感が増していった。カレンダーの日付の下にメモしてあった謎の数字(恐らく歩数)が5日で途切れ、財布の中のレシートが5日までだったり、どうも6日の時点でそれまで通りの生活は送っていなかったらしい。検案書の死亡推定日は12日だけれど、6日からそれまでどうだったんだろう。推定日が間違っているのか、この間苦しんでいたのか、少しずつ衰弱してしまっていったのか……身体の不調は聞いたことなかったけれど……

 血を吐いた缶の中にはビニール袋を敷いて、その底には新聞紙まで敷いてあったり、一切洗濯物もゴミもなかったり、そうした余裕があったのならどうして救急車を呼ぶなり、母や僕に連絡するなりしなかったんだろう。布団の脇の文机の下に4桁の数字が2つ書かれたメモ紙が落ちていて、最初は何だろうと思ったけれど、それが銀行口座の暗証番号だとわかったときは一体どういうことかと混乱した。何か、死ぬ覚悟を決めていたということだろうか。それとも、自分では大丈夫だと思いながら念のため、というつもりが急に体調が悪化してどうにもならなくなったということなのか……

 検案書には「死因不祥(事件性なしと判断)」としか書いていないのでもはや確定はできない。


 その日の夜、母から父の生い立ちや来し方を聞いてせっせとメモした。戦後の混乱期(?)に私生児として生まれ、親戚をたらい回しにされたというような話は漠然と聞いていたが、今は親戚づきあいもなく詳しいことを知らなかった。前々から聞こう聞こうと思ううちに当人が死んで不可能になった、と思っていたら母が「だいたい知ってるよ」と言うので聞いた。

 家系図や年表を書くうち、なんとはなしに気持ちが楽になっていく気がした。実際たびたび突き上げる嗚咽も収まってきた。

 しばらく考えて、これは相手を死者の側に押し込めるということかもしれないと思った。物語にして対象化し、自分とは切り離すということ。

 生きている・ものを伝えられる存在という意識と、もう死んだ・もはや伝えることはできない存在であるという現実認識の齟齬が問題だった。「こういう人生でした。」、「こういう人でした。」と物語化して確定させていくことで、自分の側から、死者の側へと追いやることで、そうした齟齬が解消されていくのかもしれない。時間の経過に伴って自動的に救済が進む訳ではなく、こうした作業を経て少しずつ安定していく。

 そう考えると、あの世を前提して戒名や法名をつけることも、いったん名前のリセットをかけ、生前の物語を確定させて対象化する一手段かもしれない。それと同時に、あの世にいると考えて、仏壇に手を合わせて心で唱えたりすることは、伝えられる存在であると考えることだ。生きてる/死んでるの衝突を、どちらかを捨てるのでなしに解消している。物語にすることと、継続して伝えられる存在にすることを同時に実現する装置。アウフヘーベンみたいな。

 でも実のところ、相手にものを伝えられると前提するということは、それを他者として扱わないということ、モノローグでしかないということであって幻想でしかない。一方で相手を物語に押し込める、「こういう人でした。」と確定させることもまた都合の良い幻想でしかない。ただ、そうしたウソに流れることは安易だとしても、そのウソを引き受けなければ何かを語ることはできないとも思う。(実際、今書いているこれも、当時の記憶やメモを見て正確に書こうと思っていても遂には物語化、様々な現実を剪定したものでしかない。)


 母は、父の死因について最初、寒さによるダメージだと(ちょうど父の日常が止まった6日ごろはとても寒かった)決めつけた。それからノロウィルスとか肝硬変とか胃じゃないかとかその都度一つに断定していった。(それでも「たぶん〜だったと思う」と言う謹みはあった。)これも一つの物語化だと思う。

 戒名や死因の断定で人が救済されることを、僕は全く否定しないどころか肯定もしている。でも自分個人としては、何とかその安易さに抵抗したいとも思っている。死ぬ時にどういう状態だったろうと考えるとしても、それは他を排除するようにではなく、いくつもの可能性(物語)を次々に重ねていくようなやり方をしたい。排他的な確定を避けながら、でも、分からないことを分からないまま放置もしない、どうにか宙吊りに耐えていけないだろうかと思った。しかし抗いがたい。


 翌日(日曜)は遺品整理のために一人で父の部屋に行った。保険証書などを探すために昨日、母が散らかしたままになっていたけれど、それは何となく父の部屋にふさわしくないような気がして片付けたりした。(これ、母を責めるような気で言ってるわけじゃない。散らかして気にしないのは母らしいと思ってる。)後から思えばこれも、生きてるものとしての取り扱いかもしれない。

 それから、12月5日発売のビッグコミックオリジナルが置いてあったので読んだりした。昔から父は本も雑誌も全く買わなかったけれど、唯一の例外がこれで、まだ買っていたんだと思って懐かしくなった。(ぼくは小学生のときから黄昏流星群を見てました。)あと、(えっあぶさんまだやってんの)と思った。

 それなりに突き上げと嗚咽も続いていたけれど、前日、前々日ほどではなかったので、やっぱり昨日の物語化が効いてるのかなと思った。


 その翌日、月曜の朝が火葬だった。金曜に遺体発見、土曜は火葬場がいっぱいで、日曜は友引で火葬場がお休みということで月曜になった。

 母と僕の二人だけで、宗教関係者も呼ばず、柩に花や副葬品を入れて、火葬場に行って、合掌して、焼く、といういわゆる直葬だった。

 釜に入れる前、広々とした前室で柩から少し離れた位置に立って待っている間、ひたすら泣けてしようがなかった。葬儀社の担当や火葬場の職員がそれぞれ一人いて、それなりに抑制はしていたつもりだけれど、どうしようもなかった。そうした空間にあって何もする作業がなければもはや、父のことばかりを考える。本当に、何一つ留保なく、無条件に感謝している。本当にこの父親で良かったと手放しで思っている。どうか卑下などせずに自身を誇ってほしい。自分の学なさや愚鈍さを、あるいは僕が就職する直前のきわめて経済的に苦しかった時期のことを、何か恥じるような素振りを見せたりあまつさえ謝罪までしていたけれど、そんな必要なんてない。むしろ恥じているのは僕の方で、そうした苦しさの中にあってあなたは極めて立派だった、その自分をどうか誇ってほしいと心底思っている。ということを近いうちにきちんと伝えようと思っていたのに、もはや叶わない。「天国で聞いてるよ」だとか「ちゃんと伝わってるよ」なんて全く認めない。これはもう絶対に伝えられない。これ以上の後悔ってあるんだろうか。そして全的に感謝できるという、これ以上の幸福があるんだろうか。

 くり返しくり返しそう思いながら、その途中で、小学生だった時の父から、就職して別に暮らすまでの父や、就職してから帰郷した時の父を、具体的に思い出して結局、これ以上ない感謝と、後悔と幸福に行き着き続けて泣いてた。


 昨日や一昨日の救いなんてその場ではまるで無力だったと、今振り返れば思う。そしてそんな救いをその時まるで欲してもいなかった。無条件で感謝できるというのは、数多くの真実を切り落として観念的な存在に仕立て上げたからかもしれないと、今疑いを持っているものの、どれほど細かく検証してもやはり、総体として父に全的に感謝しているというのは本当としか思われない。14日に父の死を知らされた当初からずっとこの感謝と後悔のことが大きくあった。


 火葬場の職員の「合掌」の合図で合掌すると、さっさと父の柩は釜に入れられた。1時間ほど火葬場の喫茶店で待ち、館内放送で呼ばれて元の部屋に戻り、台車がやってくると、えっ、と思った。(骨ぢゃん……!)っていうかんじ。火葬初体験だったけれどもう素直に、えっ、こんななの? こんななっちゃうんや、という感覚だった。白いカラカラした骨がところどころあるだけという。

 職員がスーパーてきぱき、骨の説明をして、どんどん割っては入れ、母と僕は指示されるまま代表的な(?)骨だけ骨壷に入れて、「では残りの骨は市の方で供養しておきますのでー」と言い残して台車はどっかへ消えた。小さな骨壷を箱に入れて、おわり。葬儀社の人ともさようなら。


 遺体を見ればやはり「なんだこの似姿は」という混乱に陥っていたのに、それが骨になって一気に無化されたという落差が思いの外大きかったようで、それから多少うっと突き上げが訪れてもぼろ泣きはしなくなった。以前「火葬が済むと急に終わったという感じがするものだ」と聞いたことはあったけれど、これがそれかと実感を伴って驚いた。

 そのあとせっせと、ドコモの解約手続きをしたり、保険会社と連絡をとったり、市役所で戸籍を取り寄せたり、ことのついでに、昔父と一緒に暮らしていた周辺や父が勤めていてよく遊びにいった繁華街をひたすら歩いてあれこれ思い出したりしても泣くこともなく、ただ懐かしいばかりだった。

 それから遺品処分の業者を手配して、さすがに記憶と結び付いた品々が捨てられていくのを見るのは忍びないので近くの漫喫で時間をつぶして戻ってみれば跡形もなくがらんとした部屋。しばらくぼんやりしたあと掃除をして母の家に帰った。

 家を引き払う際の立会いは母にお願いして、それであらかた片付いたので年明け前に自宅へ戻ることにした。


 一人ぐらしに戻って写真たてに父の写真を入れて、ふと目に入ったときに、あれこれ思い出して、うえーんみたいになっても、以前ほど激しくはない。やっぱり骨を見るってのは効果ぜつだいだなと思った。


 紅白見てたら矢沢永吉が63歳だと紹介されて、あ、父と同じくらいの歳だ、でもうちの父親あんな風に歌ったり動き回ったりはしなかったな、とか思って、ああ、今「しなかった」って完了形で考えてたな、と思ったりした。


 初夢で母方の祖母(故人)と母と僕がこたつに入って、亡くなった父についてあれこれ話をする夢を見た。

 その翌々日くらいに、今度は普通に父が出てくる夢を見た。以前父と二人で住んでたアパートが舞台だった。父に向かって「鬼平犯科帳、録画しといたんだけど、あとで見る?」と言おうとしたけれど(あ、死んでるから「後で」ってないんだった)と思って言うのをやめる。(やっぱりもう、死んじゃってるから、未来ってのがないんだよなあ)とか思ってるとその目の前の父親が「ノートを買ってきてほしい」なんて言う。僕が「今日ちょうどアピタ(地元のスーパー)行くからついでに買ってくる」といったやり取りをしながら(あれ? 未来の話とかも普通にするんだ)とか思ってる。そんで父親が出かける。部屋を見回して、もうお父さん亡くなったんだから、クローゼットや服も処分して、3部屋もあるアパートじゃなくてワンルームに引っ越そうかな、あれ、でもクローゼットとかってこの前業者呼んで処分してもらったんだよな、あれ?とだんだん目が覚めてきて、目を開けたときに(え、ここどこやろ?)、(あ、そうか。就職していま一人暮らししてるんだよな)ってなった。

 またしばらくして、今度は普通に生きているという体で夢に出てきた。別に僕も「死んでるのに」という認識は一切なく普通に父と話したりするような夢。

 死んでる→生きてると逆方向に夢での登場の仕方が変化していったのは、仕組みまでは知らないけれどひとまず、これもまた安定化の一つなんだろうと考えている。


 そうしてもうかなり落ち着いた、もう大丈夫と思っていたけど甘かった。

 23連休(父の死から年末年始に続いた)の終わり、出社する日の未明になかなか寝付けなくて(2時間昼寝したせい)、父と暮らしていたころのことを丁寧にあれこれ思い出す作業をベッドの中でしていた。

 ホームビデオと同じで記憶も、非日常のことばかり覚えていて日常のことは忘れてしまっている。具体的に何時に学校に行って、親が何時に帰ってきて、どんな話をして、どんな食事を何時ごろにとって、といったことを正確に覚えていない。でも後で知りたくなるのは、そうした日常のことなんだ。

 どうせ眠れないしがんばって思い出していた。アイス好きだったなとかみかん好きだったなとか、僕が家を出る前まで父は新聞配達のバイトをしてて、ちょうど夜更かししてる僕が寝る前の3時ぐらいに父親が出掛けるんだけど、たまにその合間にちょっと話したりしたな、内容はあんまり覚えてないけど、「じゃあいってらっしゃい」「うん」くらいの感じだったような気がするな、とかなるべく具体的に細かく思い出してたら、どういうわけかまたうーと涙があふれてきて、枕を汚すのはいやだなと思って起きてベッドのふちに腰掛けたとき、外の光がわずかに漏れ入って青っぽい部屋の中を見て、自分で家具も揃えて、不動産屋とも契約して、きちんと生活してる、そうしたことを普通にできている、これを見てもらいたかったな。春ぐらいにうちに遊びにきてもらうつもりだった。それで、そうできているのは、あなたが頑張ってくれたからなんだときちんと言いたかった、という無念さや、今これだけ経済的な余裕があって当時あんなに苦しかったのはなんだ、均せなかったのか、あ、それが借金するってことか、なんで奨学金を借りるとかしなかったんだ、自分のバイト代を家計に入れはしてたけど、絶対あのとき(親に仕送りしてもらって学生してる奴もいるのに)と思ってたよね、もっと頑張れただろお前、そしたら父親にバイト掛け持ちさせるなんてことさせずにすんだだろ、といった取り返しのつかない後悔と、就職した後、父と食事に行ったときになかなか支払わせてくれなかったり、「あのころは申し訳なかったね」みたいに言われても、そんなことない、本当に感謝してるし自分の方が悪かったと思ってるとはっきり言えず「いや、別に……」としか返せずにいたけれど、あの時期を申し訳なかったなんて思ったまま父が亡くなってるのだとしたら、こんなひどいことない。とあの箇所に辿り着いてぼろぼろ泣いてしまった。

 これでは寝るどころではない、もう会社が始まるのにいけないと思い直して顔を洗って、でも就職してからこの5年で、たまに旅行に連れて行ったり、最近は食事代も映画代もこっちに払わせてくれたし、バイトの掛け持ちなんてせずにゆっくりした生活を送れていたし、と応急処置的に慰めて布団の中に戻った。丁寧に思い出す作業をするとこうなることがわかったので、一旦中止して何も考えないようにして寝た。



 父の部屋を確認したとき、父の人生についてまとめ直したとき、父の遺体が焼かれて骨になったのを見たとき、それぞれの時点で相当しんどさが軽減されるのを体験した。その理由が何なのか自分なりに理屈づけてみて「これで大丈夫だ」と本気でその都度思ったが、何度でもゆり戻しは訪れた。そうやって振動しながら減衰していく運動なのかもしれない。


 ここで語っていることなど、これまでも数え切れないくらい語られてきたことに過ぎないと分かっている。いきなり死なれれば、突き放されてつらい。でも少しずつ納得していく。それだけの話だ。テレビでだっていくつもそうした物語を見聞きして、そのたびに涙を浮かべたりしながらある程度の実感を伴って理解してきた。

 何が驚きかと言って、そうした理解などまるで話にならなかったということだ。全く同じ物語を今こうして退屈に再生産せざるを得ないほど、この自分にとって、想像したことのない衝撃だったということが驚きだ。(もし自分が「痛恨の極み」という言葉を使うなら、これ以上でなければ使うことを許せないだろうなと思う。)

 例えばこの話を数年前の自分に語って聞かせれば最大限の理解をもって受け取るだろうと信じられるが、それはこうした辛さを知ることとはかけ離れている。言説があの突き上げを再現できる訳ではないという当たり前のことを知って驚いているんだ。

 父がいるという27年間の確信の積み重ねがふいに崩されるという体験それ自体に、言説は匹敵しようもない。

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