大人になると味覚がかわるっていうよね。
ピーマンが好きになったり、塩辛が食べられるようになったり、自分でも最近びっくりしたのは、焼いたサンマの内臓をほんとうにおいしいなあと思ったことだよ。子供のころ父親がおいしそうに食べてるの見て食べてみたら(はぁああっにっが!)ってなって父親にゆずってたあのサンマの内臓、掛け値なしにおいしいと思って俺たべてる、っていう驚き。むかし自分がまったく理解できない父親が好きだったものを、どんどん好きになってくっていうのを最近とみに感じてて、妙な気分になることがある。
まえなんかのテレビで、そうして苦いものや辛いものが平気になってくのは味覚が衰えているからだと専門家が言ってた。子供は苦さや辛さにとても敏感だけど、それが衰えてくからおいしく感じるだけなんだって。スタジオの芸能人たちが納得いかねえみたいな顔してたのが印象深かった。ぼくもテレビの前で(なにーっ!)って軽い怒りのようなものを感じてた。
こうした釈然としなさは、子供から大人へと成長していくものだと信じた上で、より上にいる自分が子供を見下してた、その安全性がふいに突き崩されたことへの怒りなのかもねと後から思ったよ。味覚が発達した自分が、未発達な子供を下に見てたと思ってたのに、逆転させられたことへの困惑。
ピーマン食べられない子供をほほえましく思ったりするのも、見下しの一変奏だったのかもしんない。
でも後からじんわり考えてみると、これはとてもうれしい話を聞いたなと思った。
イチローがさ、若いときより確実にいろいろ肉体的に衰えてくじゃん。でもそうした衰えを自覚的に受け入れた上で、現時点の自分の肉体のフェーズを踏まえた上でトレーニングを組んで、自分の動きをコントロールして、技術的な精度を上げていって、考えに考え抜いて、野球というものに対して可能な最高を目指す、みたいなみんな大好きな話。あれとおんなじ話が自分の身の上の味覚の変化でもあり得るってうれしいじゃない。
こう、羽生善治が若いころより確実に計数能力は落ちてくんだけど、その中で将棋への認識を深めていって創造的な一手を指し続ける話みたいな。
甘さ辛さ苦さ等々のセンシティビティが低下する、油っぽいものへの処理能力が衰えていく、そうしたバランスを見極めながら、自分にとって最も美味しいものを目指す、目指しながら、かすかな味の差異への認識も上げていく。ダイナミックレンジは狭まっていくけれど分解能を上げてくみたいな戦略。すごくわくわくする話だね。たんに「大人になったから(成長したから)味覚が発達した」っていう認識より、ずっとおもしろい。
10年くらい前まで小説を読んでても、物語を追ったり、プロット(どんでん返しでびっくりするみたいな)を楽しんだり、人物に感情移入したりするだけだった。それはそれなりに面白かったんだけど、途中でもっといろいろな面があるってことが分かり始めてから、面白さが爆発的に広がったっていう経験があるんだ。視点、人称、語り口、構造、その他もろもろの面を同時に見ていきながら、いろんな思想や体系や、当人や他人の過去や未来の作品、あるいはその作品自身の内部との類似や差異を感得して、いくつもの驚きを発見していく。そしてその「同時に見ていく」手段がどんどん増えていって、より豊かに読めるようになっていくうれしさ。
簡単にいうと、「ふつうこうくる」からのズレを見つける精度が高まってくんだ。より多角的にズレが見つけられるようになっていく、っていうのと、より繊細にズレを見つけられるようになっていくっていう。
こんな感じの発展が、味覚についてもあるのかもしれないと思うと、ものすごい希望があるって思えてうれしくなっちゃうね。
でもこれ、両刃の剣ってところはあるんだ。見る精度が上がってくると、逆に今まで面白かったのがもう退屈で退屈で耐えられなくなるっていうことが起こるの。
「多角的」っていう点について言えば、たとえば人物の特異さだけで支えていく小説や、プロット(構成)のびっくり感だけで支えていく小節が耐えがたく退屈になってくる。いろんな面で面白さが同時に実現されていないとつまらなくなっちゃう。乱暴な言い方をすると、ラノベやミステリを読まなくなってしまうのは、そうした一面だけで面白さを支えているような作品にあたる確率が高いからなんだ。(もちろん、多面性を捨てて排他的に一面を突き抜けさせずにはいられない、って存在もあったりするので、一概には言えない。)
「繊細」っていう点では、最初は例えば「この文体おもしろい!」って思ってたものが、だんだん退屈になってったりする。最初は「ふつう」からの大きなズレとして楽しめてたんだけど、だんだんそれも「ふつう」の範疇でしかないと思えてくる。大きなズレって簡単に実現できるからね。もっと微妙なズレでないと楽しめなくなっていく。
こういう話するといっつも思い出すのが、金子一朗というピアニスト(本職は数学の先生)がある本で書いてた話。
バッハの「平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第1番 ハ長調 前奏曲」という曲は、「2通りの感覚を要求されている」っていうんだ。ひとつが、16分音符が1本の線として運動していくっていう感覚(横のライン)、もうひとつが、1小節ごとに和音が変化していくっていう感覚(縦のライン)。
初心者には信じられないかもしれないが、優れた演奏家は、これら2つの感覚を同時に持ち、それを表現しているのである。訓練すればできるようになるが、実はそれを聞き取れる耳を持つようになったとき、これら2つの感覚を同時に持っていない演奏を聴くと、とても退屈してしまう。つまり、一種の「禁断の果実」である。
これ読んだとき、そうそう、そうなんやよー!と激しく思った。(ピアノのことはわかんないけど)
でもこんなの、誰だって経験あることだと思う。子供のころコロコロでゲータゲタ笑ってたのに、「うんこ」のネタとかで笑い転げてたのに、今は(ん?ううん……?)っていう感じになるっていう。
うわー! いつの間にかぜんぜん味の話じゃない!!
ま、味について正直はなすことなんて何もないんだ。
自分の身体的な変化とダイナミックに関わりながらより深みに進むって面白さが、味覚にもあるんだろうなって想像したらうれしくなったっていうだけの話。味のことはぜんぜんわかんない。好みが変わってきたなーと思いつつ、それを真剣にウォッチしてるわけでもないし、自炊してて奇跡みたいに美味しいものができたりしても、それを成立させた要因(火加減、塩加減、きり方、時間等々の要素)を見極めたりもしない。できなり。味についてぼくは、あの刺激的に豊かな体験をぜんぜん目指してない。ふはは!
※ちなみに金子一朗の本ってこれ。
ピアニストが何を考えて演奏しているかってことがきわめて実証的に書かれててめっちゃくちゃ面白い!(ただ、ピアノに全く興味がないとたぶん読むのがスーパーつらいと思う……)
- 作者: 金子一朗
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2009/07/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 3人 クリック: 28回
- この商品を含むブログ (10件) を見る