やしお

ふつうの会社員の日記です。

コスプレ映画としての「柘榴坂の仇討」と「舞妓はレディ」

「柘榴坂の仇討」 - コスプレオーバーライドの敗北

 時代劇はどうしたってコスプレを免れない。黒沢清監督がどこかで、ちゃんばらは面白いけどどうしてもコスプレになってしまうので、自分が時代劇を撮るのは難しい、みたいなこと言ってたのを思い出す。


 免れないから、普通はどうするかというと全員に同じような格好をさせる。そして「コスプレであること」から観客の意識をせめて遠ざける。
 ところが「柘榴坂の仇討」はその軽減策を放棄するのだ。舞台を江戸から明治へ移行させ、主人公を武士の格好にとどめたまま周囲の服装を西洋化させる。種々雑多なコスプレ大会のなかで、武士の格好もまた一つのコスプレにすぎないと私たちの意識に浮かび上がらせる。作り手としては「明治になっても武士のまま取り残されている男」を表現したいだけだったとしても、実際の画面としてはコスプレを際立たせることになっている。
 面白い! 時代劇のコスプレ性に対して、何かの回答を出そうとしているのかもしれない! と少し期待しました。
 それで、最終的にどうするつもりだろと思って見てたら、そのコスプレのオーバーライドをやめちゃうんだよ。
 最後は中井貴一阿部寛が二人きりになって対決するわけだけど、中井貴一は武士、阿部寛は車夫の格好、舞台は武家屋敷の塀を背にした通りで江戸に逆戻りする。対決後も阿部寛は長屋でみんな江戸のままの格好をしている中に戻るし、中井貴一は和装の妻と連れだって帰る。
 中井貴一阿部寛が、武士の心もったまま新しい時代を生きていきまっしょい、ガンバるんば! みたいなこと言って終わるくせに結局、いやあやっぱ時代劇の格好でおさまった方が絵になりますね(笑)ってなんだいそりゃあ、という気持ちです。

「舞妓はレディ」 - コスプレ映画に対する強固な意識

 ちょうど同じ時期に公開してる「舞妓はレディ」と比較すると特に意識の差がはっきりわかる。
 これは、鹿児島&津軽ハイブリッドなまりの田舎少女が、京都弁(舞妓ことば)へと推移して舞妓になる、というお話。このとき、言葉じゃなくて衣装の面でも不可逆的に移行するのね。田舎少女→見習いの和装→舞妓スタイル。途中で後戻りは全くしない。ラスト近くで大学へ私的に訪れる際にすら舞妓フルアーマーのままだ。
 そして、この映画は節分から翌年の節分までの1年間を描いている。この節分の日は、舞妓・芸妓みんなが仮想をする「お化け」の日。コスプレ大会の場面を、映画の冒頭と末尾に配置している。しかも冒頭のコスプレにおいて、町の唯一の舞妓(主人公の先輩)はコスプレをせず舞妓の恰好のままでいて、「私はずっとお化けみたいなものだから」と発言している。
 ここには作り手としての強烈な自覚があるわけ。舞妓はコスプレなんだよ、コスプレ映画なんだよこれは、という「舞妓はレディ」の強固な自意識の前では、「柘榴坂の仇討」はあまりに無邪気だよ。


 ついでに言うと、ミュージカル映画としての意識もかなり強くて、ミュージカルで歌いだす瞬間の奇妙さというのを、最初の歌の瞬間に最大限ぶつけてくる。その後はもっと自然に導入したりもしているので、技術が足りないなんてわけじゃない。これは奇妙なことをしているんです、という明確な表明なんだ。周防正行は前作の「終の信託」もそうだったけど、形式というかジャンル性に相当強い意識をもって作る人なんだ。

「柘榴坂の仇討」 - 「武士の心」という俗情との結託

 とは言え、「柘榴坂の仇討」の貫徹しない態度は、衣装だけでなく「武士の精神」を語るときも同じで、そういう意味では一貫している。
 この映画では中井貴一が一応「武士の心」を体現してることになっている。この「武士の心」が極めて曖昧で同定しがたい。


 主君を守れずに死なせちゃって、仇討ちしろと中井は厳命を受ける。やだー武士だもん切腹したいよー。でも広末涼子(妻)がダメ! 命令に従うのが武士ぢゃん! という。そして明治を迎えても中井は二本差しで仇を探し続ける。(なるほど。武士はたとえ命令者が消滅してもあくまで実行する哀しい存在って話ね)と見てるこっちは納得する。
 そのあと町で借金取りにいびられてる武士を中井がたまたま見かけて割って入るシーン。「情けをかけるのが人の道でしょ!」って。そうすると町にいた人たちが「俺も武士」「俺も」ってわらわら出てきてみんなでかばい始める。「俺らって見た目は変わっても心は武士だもんね!」って。「わるいことは許せないもんね!」って。見てるこっちは(えっ。「武士の心」って道徳心のことだったの?)と混乱するわけ。(しかも集団で威圧して屈服させるのが武士の心だって言うの……?)
 さらに中井の前に情報提供者の元武士(藤竜也)が現れる。なんか元武士としてシンパシー感じるって言って。それで仇の情報をくれるのかと思いきや、急に中井に「でもでも相手にだって事情があんじゃん! 今さら殺そうとかおかしくなーい??」などと非難しだすの。(えっ。事情とか心情とか無関係に、ただオーダーを実行することに、武士の悲哀があるって話じゃなくて??)と思っていると、中井泣き出して「うち主君のこと好っきゃねん! やっぱ好っきゃねん! 悔しいけどあかん、あんたよう忘れられん!」って。(えっ。個人的な怨恨で仇討しようとしてただけなの? それ武士道かんけいなくね?) で、藤「うんうん。あんたはほんまもんの忠義モンやで。ほんもんの武士やで」みたいなこと言うわけ。武士って、何??
 それで最終的に仇(阿部寛)と対決して殺すのやめて、「やっぱ新時代でも武士の心もってりゃEジャン? そうやってウチら生きていきまっしょい! がんばルンバ!」でしょ。なんだそれは。


 チャンバラ(アクション)のためと割りきった上で、コスプレ劇をやりますって時代劇ならいいよ。でも、現代の価値観を裏返しに投影して、ありもしなかった「武士道」を礼賛して俗情をなぐさめるような時代劇なんて見てられない(最近おおすぎる)のに、その「武士道」すらぶれっぶれなら、もう何がしたいのよ、って感じです。それで映画館でおじさんやおじいちゃんが涙流してるんだから、罪深いよ。


 あと広末涼子が武士の妻でございますってあんたはキャンドル・ジュンの配偶者でしょの気持ちでずっと見てました。これはもっぱら私の側の問題です。ただ、もし、武士のかっこうを捨てた中井貴一が独創蝋燭作家として生計を立ててる後日談が描かれていれば、もう私それだけでこの映画をぜんぶ許そうという気持ちでいましたが、そういうのはなかったです。