やしお

ふつうの会社員の日記です。

大西巨人の絶対無責任論

 大西巨人の小説『神聖喜劇』の第一巻で、主人公である東堂太郎が、帝国陸軍の無責任の体系に思い至って慄然とするというエピソードがある。
 軍の中で下級兵は上官に「知りません」と言ってはいけない、たとえ教えられていないことでも「忘れました」と言って謝罪しなければならないという慣習がある。しかし東堂は「忘れました」強制にあくまで抵抗していく。その中で、<「知りません」禁止、「忘れました」強制>という慣習法はいったいどうやって成立したのかを考えていく。そしてその先に、軍というシステム全体が究極的に無責任の上に成り立っていることに思い至る。


 ごく些細な違和感や不条理をつかまえて、そこを徹底して追求することでふいに大きく構造を把握してしまう、という『神聖喜劇』で繰り返される主題がよく現れたエピソードである。またこうした無責任の体系は軍に限らず至るところで今も見られるものかもしれない。




 まず東堂は『軍隊内務書』、『内務規定』の2冊を通読し、また『陸軍礼式令』ほか13冊を拾い読みして<「知りません」禁止、「忘れました」強制>が規則として明文化されていないことを確かめる。それはルールとしてどこかのタイミングで意識的に設定されたものではなく、慣習として醸成されてきたものだ、ということの確認である。


 次に東堂は刑法学上の概念のいくつかを想起する。
<刑法学上に「自然犯(刑事犯)」および「法定犯(行政犯)」という二つの概念がある。自然犯とは、行為が法規範を待たずして、それ自体において反社会的な犯罪。これにたいして法定犯とは、行為自体においては反社会的でないけれども、国家の(当該行為を命じまたは禁じる)意思に反することにおいて反社会性を帯びる犯罪。>
 さらに、『刑法』(「総則」)の「法律ヲ知ラザルヲ以テ罪ヲ犯ス意ナシト為スコトヲ得ズ。」という条文の解釈について、自然犯には適用するが法定犯には適用しないという学説と、両方に適用するという学説の二種類がある(その間のグラデーションが存在する)ことを思い出す。前者に近いほど自由主義的・民主主義的であり、後者に近いほど絶対主義的、ファッショ的である。
 そして<日本帝国の判例は、ほぼ後者に接近した立場をとってきたはずである。>


 この刑法の概念を援用しながら、あの慣習法を理解していく。
 <ここ規則ずくめの軍隊においては、大小あらゆる軍規違反「悪事非行」の大部分が、言わば「法定犯」に属する>が、法定犯に対しても「知ラザルヲ以テ罪ヲ犯ス意ナシト為ス」は、日本帝国の判例と同様に、認められてこなかった。つまり常識的に考えてもわからないような、軍独自のルールに違反したときも、「ルールを知らなかったから」という理由で免罪されることがなかった。
 軍隊が創設されて以来、この態度がとられ続けてきた。それで「知らなかったから」という表現が抑圧されて、最終的に<「知りません」禁止、「忘れました」強制>の慣習法ができあがったのではないか。
 という推断に東堂は至る。


 そして最後に、刑法学上の「責任阻却」のコンセプトと照らし合わせて、さらにその慣習が意味するところを推し量っていく。
<「責任阻却」とは、違法行為者も特定事由の下では(その責任が阻却せられて)刑法的非難を加えられることがない、「責任なければ刑罰なし」、というような意味である。>
 「知りません」が許される場合には、下級者に対して「知らせなかった責任」が上級者に発生する。しかし「忘れました」は下級者の責任だから上級者の責任は発生しない。「知りません」を禁止して「忘れました」を強制するというのは、上級者の責任を日常的に阻却するということを意味する。
 この上級者の上にはまた上級者がいる。そこに同じような上級者の責任阻却の構造が存在する。こうして上流へと遡っていくと、最終的に到達するのは大元帥天皇である。
<この最上級者天皇には、下級者だけが存在して、上級者は全然存在しないから、その責任は、必ず常に完全無際限に阻却せられている。この頭首天皇は、絶対無責任である。軍事の一切は、この絶対無責任者、何者にも責任を負うことがなく何者からも責任を追求せられることがない一人物に発する。しかも下級者にたいして各級軍人のすべてが責任を阻却せられている。>


 そして現実に責任が問われるような事態が発生した場合はどうなるのだろうか。上級者の命令によって否定的結果が出現しても、現実的にはその結果に対して命令を実行しただけの下級者が責任を取ることはできない。責任の客観的な所在は上級者、そのまた上級者へ遡っていく。最後に天皇に到達するが、そこは<完全無際限に責任を阻却せられている以上、ここで責任は、最終的に雲散霧消し、その所在は、永遠に突き止められることがない>。<それならば、「世世天皇の統率し給ふ所にぞある」「わが国の軍隊」とは、累々たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構ということになろう。>
 東堂は巨大な無責任のシステムに触れて慄然とする。




 現実的にはどこにも責任を取らされることが全くないということはなく、上流へと遡る過程で「否定的結果」の重さとバランスが取れた箇所で曖昧に責任が取らされるようになっているのではないか。あるいは上流へと遡る過程で減衰していって霧消するのではないかとも思う。
 かつての軍に限らず、形式的に下側へ責任を押し付けることで現実的に上側に発生する責任を放棄する、それがドミノ倒しのように下から上まで全域に行き渡って、全体として無責任であるような構造というのは結構ありそうだ。


神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)