やしお

ふつうの会社員の日記です。

人間関係のデザイン方針

 最近、自分の対人関係や人に対する態度をどうするのがいいのかあれこれ考える機会があっていろいろ書き散らしてきたけど、ちょっと現時点の考えや方針を整理しておきたいと思った。
 整理しておけばこの先(どうしようかな?)と迷っても参照して言動を決められるし、それでダメならアップデートする基盤にもなる。


自分と他人の自尊心を満足させる

 自尊心を満足させること=惨めさを感じさせないこと=自分を肯定できる状態にすること。これを自分と他人に対して目指していく。
 自分が幸せになるためなのは当然として、他人の上にも目指すのは、これが満たされていないことで相手が不幸になって攻撃的・反抗的になれば結局自分の幸福を阻害される、他人の自尊心も満足させることが総合的に自分の幸せになるだろうという認識から。


 現時点ではここが至上命令になっている。これに先行するような方針はない。この先見ていく方針や例も常にこの至上命令に従属する。
 人間関係を構築したり更新する手段を考えるときは常にここに背いていないかチェックが入る。絶対にここは外さない、というポイントを設定した方が手段の選定もし易い。


 とはいえ、人間関係という舞台上での至上命令でしかないため、他の目的遂行と対立することがある。その場合でも放棄されることはない。
 例えば仕事上で、信頼性が低くてこの業務を任せられないという人がいたとする。すぐ嘘ついたりごまかしたりする癖あるから、お客さんとやり取りさせらんないとか。仕事上の目的からは彼をその業務から排除しようとするのは当然だが、一方で「相手の自尊心を毀損させない」という方針と相反しかねない。それでもこの方針を放棄するわけではなく、その中で最大限達成する方向で手段を検討する。なんか「この仕事から外すのはあなたが悪いんじゃないよ」とか「こっちの仕事もすごく重要であなたの能力を発揮してもらえてサイコーだからこっちの仕事をお願いするよ」とか自尊心を満足させようとしていく。


他人の価値観は変えられない

 他人の性格や思考のシステムを直接変えることはできない、と見なすようになって対人関係がはるかに楽になった。
 対人関係の手段を考えるときに、「他人の価値観」を所与の条件として固定する方が、より現実的に効果のある手段を導ける。逆にそこを変更できるパラメーターとして設定するとお互いにイライラして終わるだけのことが多い。


 「他人の価値観は変えられない」という認識は自分自身を振り返っても妥当性がある。他人から「俺がお前をもっとよくしてやるよ」と言われて嬉しいとは思えない。自分のことは自分がコントロールしたい、他人にコントロール権を渡したくないという欲求はごく自然に見える。自分が選んだ本や人に教えてもらうならいいけど他人から押し付けられたくない。
 「お前を変える」というのは「今のお前はダメだ」を前提するから、「相手の自尊心を満足させる」という至上命令にも背く。


 「他人の価値観は変えられる」という認識は「自分の価値観を押し付ける」という短絡的な手段を導く。相手の価値観を消去できる=相手の価値観がどうなっているのか理解する必要がなくなる。
 「価値観は変えられない」という制約を課した上で手段を考えるなら、そもそも相手がどんな価値観や思考プロセスを持っているのかという点を分析せざるを得なくなる。そして相手の内在的な論理が理解できた時にはもはや「この人がこう思うのも当然だよな」「悪いとしたら環境やシステムの問題だよな」としか思えなくなって、自分と価値観の異なる人を許せるという副産物まで手に入る。他人を許せないという怒りや苛立ちによる疲れが減ってハッピーに近づく。


 それで周囲の環境やシステムや仕組みを変えて相手が望ましい行動を取れるようにするという手段を取る。そのうち、環境の変化→言動の変化からのフィードバックで相手の価値観が変わるかもしれない。でもそれは結果論であって、それを期待してやるわけではない。変わらないことだってあるし、まあ変わったらラッキーくらいの感じで、相手に変な期待して勝手にイライラしたりせずお気楽にやれてこっちもハッピー。


人との関係は唯一無二である

 自分とある他人の間には世界史上でただ一つだけの関係性がある。完全に全く同じ関係性はどこを探しても存在しない。時間的、空間的にまったく唯一無二だ。
 そりゃそうだ、当たり前だって感じするけど結構ここを忘れてしまう。どうしても親子、友人、同僚、夫婦といった既存のカテゴリに当てはめて他者との関係を見てしまう。そういう制度を子供の頃にインストールされて世界を把握してきたんだから捨てるのは難しい。思い込みがたくさんある。


 そういった一般的なカテゴリと、それが纏う通念をどんどん意識的に捨てていく。捨てた上で、もう一度二人の関係性を一から丁寧に把握し直す。その新しい視界に立って「自分と他人の自尊心を満足させる」という目的から手段を構築する。
 「夫婦は一緒に暮らさないといけない」「同じ寝室で寝るのが普通だ」そんな通念は捨てる。別居だって手段に浮上してくる。「親は自分で子供を育てないといけない」なんて通念も捨てる。児童虐待でお互い苦しいなら預けたっていい。
 そう言うと簡単に人を切り捨てるみたいに見えるかもしれないけれど実際には逆で、制約を減らす=取り得る手段が広がるので、「この人とはもう無理」と昔なら諦めていたような状況でも、もう一度人間関係を構築し直す強さが出てくる。


 通念に従った手段ではなく、「自分と他人の自尊心を満足させる」という至上命令を最も強固に実現できる手段を選ぶ。「強固に」というのは左右される条件が少ないという意味で、たとえ様々な条件(環境、価値観、その他)が変わってもなお、「お互いの自尊心を満足させる」が変わらないような手段を求めていく。


自分を分かってもらおうとしない

 「自尊心を満足させる」大きなファクターに「他人が自分を理解して認めてくれている」という点がある。(最近は「承認欲求」という手垢まみれの言葉があって便利。)
 これを何の制限もなく拡大すると「自分の全部を受け入れてほしい」に行き着く。その裏返しで「どうして理解しないんだ!」という苛立ちや怒りに繋がっていく。「この私を理解できる人間に変われ」、「お前の考えを捨てて私の考えを受け入れろ」という要求に悪化して「他人の価値観を変えようとしない」という方針にも抵触する。自分と他人の双方にとって不幸な結果を招く。


 昔、電話で母親と本気で言い争いになって、「あなたの態度、筋の立て方はこういう理由で卑怯なのだ」といったことを指摘したら「もう私はこんな歳になってまで子供からそんな風に言われたくない」と泣かれて、その場は相当頭にきていたけれど、後になってびっくりした。そうか、ちゃんと説明すれば母親は自分のことをきちんと理解してくれる、なんて自分がまだ信じ込んでいたのかと驚いた。それ以来、母親に対しては顧客満足みたいな感じで接するようになって前より良好な関係を築けている。
 「家族は遠慮せずに付き合うものだ」といった通念に昔の私も囚われていた。だけどそうした通念を捨てて、たとえ家族でも一人の人間との関係だと考えて遠慮(思いやりと言い換えてもいい)を持った方が上手くいくということをあのとき自覚したような気がする。
 本音をぶつけ合うことが正しいとはもう全く思ってなくて、「自尊心を尊重する」という方針で言動を加工してから渡さないのは傲慢で野蛮だと思っている。


 それでも自分のことを誰かに理解してほしいという欲求が無視できない。だったらそれを一人に負わせずになるべく分散させる。あるいはインターネットにでも出力してそちらで担保する。
 そうやってこちら側は抑える一方で、相手の「自分を理解してほしい」という欲求は満たしていく。


優先順位を下げられたと思わせない

 小倉千加子が対談で、結婚はプライオリティの優先順位をお互いに固定させる契約だ、というような認識を示していてなるほどねと思った。
 自分は相手を優先順位1位で扱っているのに、相手にとって自分はそうじゃないというのはとてもつらい。恋人だろうと友人だろうと同僚だろうと傷つく。その人というものさしで測定すると、自分の魅力が他の誰かより劣っている、という事実を突きつけられる。自尊心が傷つけられて惨めさを感じる。
 そんな気持ちを味わうくらいなら、お互いが自由を捨ててプライオリティ第1位ですよという契約を交わして安心したいというのはわかる。(余談だけど、不倫は「そんなプライオリティの契約を相手に破らせるだけの魅力が自分にはある」と錯覚させるので嬉しくなってるという面がある。)


 そこを理解して、自分のプライオリティが下げられたと相手に感じさせないように配慮する。これは私のせいでもあなたのせいでもない理由から、あなた以外の何かを優先させているのだ、と相手が心底納得できるように手配する。手が離せないときに喋りかけられて「忙しいの見たらわかるでしょ」なんて身ぶりはしないといった日常的なレベルから気を付ける。


 自分のプライオリティを下げられていると感じるのはとてもつらいので、つい相手を責めるか、その天秤から降りるかしたくなる。片想いで相手が別の人を好きならもう友達付き合いすらやーめっぴ、みたいな。それは「自分の自尊心を守る」という意味で悪い選択肢ではないと思う。
 ただ一方で、「相手の自尊心を満足させる」という点をそれでも追求して、「自分が至上命令に従っていること」に満足を見いだせば結局、「自分の自尊心を満足させる」にもつながるので関係を再構築できる、なんて道もある。片思いの相手との友人関係を強力に継続させて心底から相手の恋の成就を願う、というような。要するに「それでも自分は相手の自尊心を満たそうと自分を制御できている」ことへの満足感で、ほとんど神に試されているみたいな話。至上命令、信仰ってそこまでやるもんだけど、あんまり無理して自分が壊れたら元も子もないので、自身を注視しながら試さないと危ない。


減算でなく加算方式で見る

 「あり得たかもしれない未来が失われた」とは思わずに、「あり得なかったかもしれない過去が手に入った」と見る。友達と付き合いがなくなっても、がっかりせずに「いやあ今までずいぶん楽しませてくれてありがたかったなあ」と思った方が精神衛生上いい。変な執着の仕方をしなくてすむ。加えて人に変な期待もせずにすむ。人に身勝手な期待を負わせた上でなじるなんてことは「相手の自尊心を満足させる」にはほど遠い。
 人間関係に限らず「完璧より悪い」より「ゼロよりマシ」と見ている方が、趣味で自分を追い込む場面でもない限り、楽しいように思える。




 これで基礎的な方針をあらかた整理して、当分は迷わずに済むんじゃないかって期待してるけどどうなんだろ。