やしお

ふつうの会社員の日記です。

レゴのよろこびを思い出した

 さいきんレゴを買っている。この前映画の「レゴムービー」を見た。お話自体もメタ要素もあったりしてとてもよくできていて面白かったけれど、それ以上に出てくるパーツたちが懐かしかった。小学生のころ父親によく買ってもらっていた。映画を見ながら(そうだ、このパーツ僕も持ってたな)とたまらなく懐かしくなった。
 「黄色のアイデアボックス」(昔でいう「青いバケツ」に相当。ブロックが色々入ったセット)と、追加ブロックの「アイデアパーツ」、それぞれ一番たくさん入っている「スペシャル」版を買った。



レゴ (LEGO) クラシック 黄色のアイデアボックス スペシャル 10698

レゴ (LEGO) クラシック 黄色のアイデアボックス スペシャル 10698

レゴ (LEGO) クラシック アイデアパーツ <スペシャルセット> 10695

レゴ (LEGO) クラシック アイデアパーツ <スペシャルセット> 10695



 ブロックを全部ボックスにぶち込んでじゃらじゃらしていると、手の感触から全身に、一気に懐かしさがよみがえってきた。20年前に段ボール箱の中でパーツを探してじゃらじゃらしていたあの感じが。でもそれで何かを作ろうと思うと途端に、目的のパーツが見つからないことにイライラしてしまった。子供のころは何とも思わなかったのに。
 大人になって整理する喜び、整理されてある喜びを知ってしまった後だともう耐えられない。耐えられずにダイソーに行ってタッパーをたくさん買ってきた。形状別に分類して整理していく単純作業が楽しかった。エントロピーを減少させる楽しみ。そして満足して、この「ドアの上の回転する顔が走り寄ってくる」という作品だけを作って、しばらく放置していた。




「ドアの上の回転する顔が走り寄ってくる」



 どうしてあんなに好きで何時間も組んではバラし、組んではバラししていたレゴにやる気が起きないんだろうと考えていた。ミニフィグ(人形)がいないからかもしれない、特殊パーツ系が足りないからかもしれないと思った。
 そう思ってミニフィグが何体か入った安いセットを買ったりした。それからアメリカに2週間出張することになって、休みの日に現地のレゴショップに行ってみたりした。自分でパーツを選んで3体つくれるセットと、カップにパーツ詰め放題、マインクラフトのセットを買った。




パーツを選んで3体つくって10ドルのセット。左から「3日ほど風呂に入っていない研究者」、「サルを持った性的にだらしない女」、「右手にコウモリがとまってるくせにりりしい顔をしてる捜査官」





 マインクラフトは仮想空間でブロック遊びをするというコンセプトのゲームなのに、それを実体空間でレゴで商品化するというのは、もう何が何やらという感じ。ちなみに一番大きなマインクラフトのセットは70ドルくらいで荷物になるので買わなかった。あとで日本のレゴ専門店(横浜のクリックブリック)で1万4千円くらいだったから、やっぱり日本で買うと割高なのかもしれない。
 買い始めてわかったけれど、レゴは公式サイトに商品情報が載ってても日本への入荷予定がなかったり、一時的に品切れになっててネットで割高になってるのに公式サイトに価格表示がなくて割高なのかどうか分からなかったり、あるいはあっという間に廃番になったり、そうしたところが不親切というか大雑把だなと思った。いっそレゴはグラム単価の表示をしてほしい。


 帰国してから、さらにキットとミニフィグを買った。



レゴ (LEGO) シティ お仕事トラック 60073

レゴ (LEGO) シティ お仕事トラック 60073



 この「お仕事トラック」は作ってみて本当にすばらしいと思った。トラックのフォルムといい細部といい本当に無駄なく、適切なパーツが選択されてぴったり表現されている。それが高密度に具現化されている。例えばサイドミラーはたった3つのパーツで軽やかに実現されている。





 トラックの屋根も、ミニフィグを入れる際簡単に取り外せるように、がっちり固定せずに4つのぽっちだけで止めるように設計されていてひたすら適切という感じだ。





 特に仮設トイレは組み上げた後また少しバラしてみたりしながらこの部品をこう使うのねとか、こういう処理をすればこういうことができるのねとか見てつくづくほれぼれしてしまう。たった一個のありふれた白い円筒パーツで、ぴったりトイレットペーパーが表現されている。そうしてミニフィグのサイズ感に対応させてオブジェクトを作り上げている。





 設計者(ビルダー?)はすごいなと思った。こうした無駄のなさに感動を覚えるというのは子供のころには感じたことがなかった。
 マインクラフトの方はそこまで緻密な作りではなかったけれど、「立方体のユニットを複数用意して、固定力も弱めて簡単に組み替えられるようにしてマインクラフトの『ブロックを置いたり消したりする』様子を擬似的に再現させる」というやり方は面白いなと思った。
 そうやってミニフィグも増えて、キットも増えてくると急に楽しくなってきた。




「ねこをクレーンでトイレに入れてあげる、やさしいゾンビ」




「トイレでおしっこする、かしこいねこ」




「求人サイトにのってる『楽しい職場です』の写真」



 ちょっとしたパーツやユニットと、ミニフィグがいるだけで、勝手に関係性やお話が次から次へと出てくる。




「抽象的なガチャピンとムックから逃げる紳士」



 ただ、この「飲みすぎて吐いている女」と、その続編「ヤリ捨てにされた女」という作品を作ったときに、(レゴってこういうものを作るためのものだったっけ)という気持ちにはなった。




「飲みすぎて吐いている女」




「ヤリ捨てにされた女」



 膨大な量のブロックを使用したオブジェ、キャラクターや建築物をレゴで再現した大きな作品をネットや店頭の展示で見かけることがある。すごーいと本当に思うけれどあたしの心がときめかないのよ。小さくぴったり作ってあるのを見るのがうれしい。ちょうどミニフィグを基準にしたサイズでできているのがうれしいんだということを改めて意識した。それは強い制約を逆手にとる鮮やかさとか、ミニフィグが物語性を立ち上げてくるからとか、いろいろあるんだろうなと思ってる。
 それから完全にバラバラのブロックがあるより、中途半端なユニットの状態でゴロゴロしている方が、かえってあれこれ思いつく、想像が刺激されるということがわかった。そういえば子供の時も、とりあえずキットを説明書どおりに組み立ててから、それをどんどん改造しながら遊んでいたんだった。
 大人になって会社で仕事しながら、「概形を作る工程と細部を調整する工程はしっかり分けたほうがトータルで効率的」と思って、例えばパワーポイントでの資料作りとかは内容と見た目を作る工程は分けないと、いつまでも細かい位置やフォントの色をいじってなかなか出来上がらない、引っ越しの途中で漫画読み始めるのに近い感じになっちゃうから厳に謹んできた。でもレゴやりながら、ああでもないこうでもないってただいじりながら、そうそう、こういう時間も効率もなにも気にせず好きなだけ試行錯誤してる感じ、なつかしいと思った。




「ねこをめちゃくちゃマッサージする人」



 自分が飽きたら甥っ子の兄弟に押し付けようと思ってる。そうでなくても今度会ったときに何か買ってあげようかな。でも彼らがハマってくれるかどうかよくわからない。自分自身は子供のころ何時間でもレゴやガンプラをがちゃがちゃ動かして、断片的な場面やお話をいくつも繰り返していた。兄弟もいなかったしチームスポーツもしていなくて親も共働きだったし家で一人で遊んでいる時間が長かったからかもしれない。(甥っ子の母親、私の姉は11歳離れていて父親も違っていて一緒に暮らしたことはなかった。)勝手にどんどんお話を想像する習慣がそのまま大人になっても続いてる。でも姉にはそういう習慣はあまりないみたいだ。その子供たちの甥っ子にレゴを買ってあげて、それでもハマるんだろうかどうなのか、ちょっと確かめてみたいと思ってる。




「定年退職後に目覚めた女装子と、その固定ファン 」