やしお

ふつうの会社員の日記です。

「君の名は。」と「シン・ゴジラ」の、粗と密

※別にネタバレとかはないです。


 小説でも脚本でも、フィクションのお話を書いていると途中で「ストーリーに寄与しない細部」に必ずぶつかる。「大人を説得して動かす」という場面があったら「どうやって動かしたのか」という細部、「主人公が漫画を描いている」という設定があったとしたら「どんな漫画を描いているのか」という細部、人物の部屋の散らかり具合、私服の選択、言葉遣いといった細部は、詰めずに「だいたいのイメージ」で処理してもストーリーは成立する。ここを詰める作業はとても面倒くさい。
 この面倒くささを全面的に引き受けているのが「シン・ゴジラ」で、ほとんど全部回避しているのが「君の名は。」だった。つい3週間前に「シン・ゴジラ」で(ここまで密にやるの)とびっくりした記憶がまだ新しいうちに、「君の名は。」で(こんなに粗のままでいいの)とびっくりしたという、時期が近かったから並べただけだけど、あんまり対照的だったから。


 ストーリーと関係ないと思ってた細部を詰めていくと、結果的にストーリーまで変えなきゃいけなくなることがあるから大変。細部を詰めていくと「こういう事態にはなり得ない」とか「こいつはこういう言動は取らない」とか作品内の現実が立ち上がってくる。よく言われる「登場人物が勝手に動き出す」ということが起こってくる。そうして細部と物語が両方向で支えあって、分かちがたく成り立ってるものを見ると(はあー、リアルだなあ)ってうれしくなる。現実って、例えば悪いことが起こっても誰か一人の悪意じゃなくて、みんなが善意でやった結果変な風になるみたいな、細部や背景の積み重ねで物語が生じてるから、それを作品内で整合的に積み上げられてると「リアル」だなと感じる。


 「シン・ゴジラ」だとその面倒くささを全部やってるおかげで、「傲岸で無能な政治家」とか「硬直的な官僚」とか「怪獣」とかの既存のイメージがリセットされてるのがうれしい。「だいたいこうでしょ」っていうイメージがみんな裏切られて「うわっそんなことなんのか!」ていうびっくりがうれしい。
 その面倒くささを回避すると、既存のイメージで処理することになる。「君の名は。」だと、都会の高校生、少年があこがれる年上の女性、おしゃれな東京、神話、幻想といった諸々ぜんぶが既存のイメージで処理されていて、フィクション上の現実、リアルとは無縁な映画だった。新海誠の映画を見たのは初めてだったけど、そういう面倒くさいポイントに来ると「やだなあ」って、「ストーリーの仕掛けとかっこいい絵や音があればそれでいいんだ」って割り切るタイプの人なのかもしれない。


 「細部の詰め」が無いからだめってことはなくて、実際いい加減としか言いようがないけど魅力的な映画はたくさんある。ただそれらもみんな既存のイメージからはだいたいズレてて変だから楽しい。逆に既存のイメージを大量にぶち込んで「過剰に常識的」なのもそれはそれで変だから楽しい。ただ「君の名は。」は、そういうむちゃくちゃ側に振り切るタイプのお話ではなく、状況を積み上げてくお話なので「細部の詰め」に対する意識が浮上してきてしまうという。
 こういうこと書くと、「君の名は。」のことだめと思ってるみたいに見えるけど、そんなことないよ。ちゃんとお話の仕掛けあるし、絵もきれいよ。年に7,80本くらい映画館で見てると、物語も細部もひどいなんてしょっちゅうだから平気。


 それに、「中身が女子高校生に入れ替わった男子高校生」を表現するのに、「女子が頑張って男子らしさを演じている」というリアル方向ではなく、「女子っぽさをむしろ過剰にする」にしてて結果的に、ぶりっ子のオカマみたいな神木隆之介が聞けるわけだから。これは細部を既存イメージで処理してるおかげと言える。