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2018-03-09 Fri

PC上の差異:スリー・ビルボード、シェイプ・オブ・ウォーター、ブラックパンサー、グレイテスト・ショーマン

 『シェイプ・オブ・ウォーター』は、異人種どころか人ですらない相手とのロマンスとして、白人の美男美女のロマンスに対するカウンターになっているのかもしれない。『ブラックパンサー』は、黒人だらけの中で白人の脇役がぽつんといる風景を作り出して、白人だらけの中に黒人の脇役が言い訳のようにぽつんといる映画の風景に対するカウンターになっているのかもしれない。

 ある過程でそう見えるだけで例えば10年後や20年後にそういう「風景」が当たり前になってしまえば、取り立てて「カウンターである」とは見えなくなる。ビートルズなり手塚治虫なりが当時は革新的だったとしても、彼らの手法や技術が標準になるほど広がってしまった後に生まれた人の目には、取り立てて「革新的である」という風には見えないのと同じだ。

 『グレイテスト・ショーマン』は「異形の人たち」に居場所を与えた男、彼らの人生を肯定した男、という話になっている。「異形の人たち」は彼に感謝する。彼はP・T・バーナムという19世紀に実在した興行師だが、この人物が「日陰者の人生に光を与えた男」だというのは歴史的な現実ではない。バーナムジョイス・ヘスという黒人奴隷の女性を買い取り、「161歳のジョージ・ワシントンの元乳母」として見世物にし、死後に解剖ショーを開いて入場料で稼いだという映画では描かれないエピソードも残る。世の中にウケるものを提示して金を稼ぐという、純粋に興行師としてあった彼を、現代の視点から人道主義的な話に書き換えるというのはほとんど犯罪的だろうという気がする。ポリティカルコレクトネスのためなら何をしても良いというのは、「健康のためなら死んでもいい」というような転倒だ。

 そうであるなら架空の人物、作品として想像された人物として描けば済む話だが、「これは実話です」という断りがある方がウケがいい。二重に俗情との結託そのものでしかない。実話が、あるいはポリティカリーコレクトな作品や言説がウケるから何をしても良いという姿勢は、世間にウケて稼げれば何でもするという現実に存在したP・T・バーナムの姿勢と相似だ。ある意味では正しくバーナム的な作品と言えるのかもしれない。ポリティカルコレクトネスが悪いのではなく、ポリティカルコレクトネスの悪用があるというだけの話でしかない。

 内部と外部が相似になっているという現象は『ブラックパンサー』でも起きている。「王位を継承する儀式」という物語が描かれている。本作は、ブラックパンサーアベンジャーズの一員になる前に、主人公として単体の映画を公開するという必要性、紹介PVをリリースするという位置付けの上にある。内部も外部も「あるメンバーになるための儀式」となっている。しかしこうした作品の内容(内部)と作品の位置付け(外部)が形式的に一致しているという事実は、「そうなっている」というより「見出される」種類のものでしかないから、あえて言い立てるには及ばないかもしれない。

 この3作品が「政治的な正しさ」への目配せがあからさまであるとするなら、そうした振る舞いと距離を取っているのが『スリー・ビルボード』ということになる。主人公の女性も、彼女の周りの人物も、その言動はポリティカリーコレクトであるとは言い難い。のみならず、作品全体としてある誰かの行動が明確に肯定されることもない。特定の作中人物に対してポジティブな「報い」が作り手の側から与えられはしない。全員が何かしらの憤りを抱え、衝動的に行動を起こしたり発言を投げかけたりして、それによって他者を傷つけながら、「何が正しいか」「どうするべきだったのか」は誰にも確定できないまま、しかし「現に起きてしまったこと」「自分が起こしてしまったこと」を受け止めながら時間が推移していく。後悔や反省が訪れたとしても同時に「正解」が分からないまま行動し続けるほかない。衝動的な、突拍子もない言動は、滑稽さや爽快さをもたらすが、それと同時にそのことが不可避的に引き起こしてしまう「誰かを傷つけてしまうこと」と一方で「その時そうせざるを得なかった仕方のなさ」が悲哀をもたらす。可笑しいけど哀しい、という作中の現実が立ち上がる。

 『グレイテスト・ショーマン』と『スリー・ビルボード』のどちらも小人症の男性が脇役として登場する。『グレイテスト・ショーマン』はそのことで他者を恨んで生きてきた彼が、主人公であるP・T・バーナムによって衆目にさらされる中で自負と人生の目的を取り戻すといった扱いだった。一方で『スリー・ビルボード』では、日常生活を営みパブでビリヤードを楽しむ男性として登場する。主人公の女性は彼を小人症であるからといってむき出しの差別的な言動をするわけではない。しかし「私がこんな男と恋人になるはずがない」という隠微な差別意識を根底で持っており、そのことによって最終的に彼の厳しい怒りを買うことになる。

 分かりやすくPC的なのは『グレイテスト・ショーマン』の方だろう。しかしより現実的なのは『スリー・ビルボード』だ。差別意識を根本で抱えながら、しかし言動として表明しないということは現実にありふれている。そのことは非難されるものでもない。心の底でどう考えていようとそのこと自体を非難されるいわれはなく、ただ表現された言動がその効果において非難されるだけだ。ところが他者と深く付き合うに及んでその「心の底」が漏れ出してしまう。付き合いが深くなることでお互いに自覚されていなかった差別意識が表出してしまう。『グレイテスト・ショーマン』は差別的な言動をむき出しにする人々とそうでない理解のある人々の二分法、迫害する人と擁護する人の二分法でしか描かれない。しかし現実にはきれいに二分されることはあり得ない。あたかもその「間」が存在しないように描くのは隠蔽である。

 ポリティカルコレクトネスは差別が否定されていくある段階でのみ有効になる措置であって、硬直的であることはその目的からして仕方のない面がある。従来は許容されていた差別的な言動を一律に禁止するコードをかけることで、差別的な思考自体を変えていく営みだ。

 直接内部にPCそのものを書き込んだ『グレイテスト・ショーマン』と、内部には書き込まず外部の文脈の中で相対的にPCであり得る『シェイプ・オブ・ウォーター』と『ブラックパンサー』、PCであるとは言いがたいが「描くが肯定はしない」という態度によって作品全体として非差別的である『スリー・ビルボード』と、PCに対する距離の取り方が異なる。この点で最も柔軟で豊かなのが『スリー・ビルボード』となる。

 これは単にPCとの距離感という観点でのみ見た場合にどうかという話でしかなく、映画、作品の持つ無数の面のうちの極わずかな側面でしかない。映画にとって本質的な話ですらないとしても、「今」の文脈で見るとどう見えるかというのは、記録しておかないと数十年後にはたとえ同じ作品を見ても見えなくなってしまう。

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