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2012-10-31

[]⑪『地獄篇三部作』

地獄篇三部作地獄篇三部作 (光文社文庫)

大西巨人『地獄篇三部作』(光文社二〇〇七年八月二十五日初版一刷発行)

装幀 川上成夫
装画 ボッシュ「最後の審判」より

大西巨人『地獄篇三部作』(光文社文庫2010年9月20日初版1刷発行)

カバーイラスト──林哲夫
カバーデザイン──間村俊一


●『地獄篇三部作』のうち「第一部 笑熱地獄」「第三部 驚喚地獄」には実在する固有名詞をパロディー化した名称が頻出する。登場順に列記。

  • 人名

津山文三つやまぶんぞう⇒津島文治

堕罪修だざいおさむ⇒太宰治

産先腫生うむさきはるお⇒梅崎春生

野馬拾のまひろう⇒野間宏*1

汁菜輪蔵しるなりんぞう⇒椎名麟三

砂糖渋一さとうしぶいち加藤周一

泣村死一郎なきむらしにいちろう⇒中村真一郎

鮒川臭ふなかわくさし⇒船山馨

荒真逆あらまさか⇒荒正人

大螺狂人おおにしきようじん⇒大西巨人

鳴海仙吉なるみせんきち⇒伊藤整

寄葉切捨夫きばきりすてお⇒小田切秀雄

薄井凶見うすいきようみ⇒臼井吉見

狒乃足兵ひのたるへい⇒火野葦平

夜野蠟やのろう⇒矢野朗

土鍋元どなべはじめ⇒田辺元

青岩栄あおいわさかえ⇒赤岩栄

真上信市まかみしんいち⇒真下信一

高鍬澄男たかくわすみお⇒高桑純夫

夜内腹胃作やないばらいさく矢内原伊作

逆口鮟鱇さかぐちあんこう⇒坂口安吾

苦保田曲文くぼたまげふみ⇒久保田正文

倉腹伊人くらはらこれひと⇒蔵原惟人

服長丈低ふくながたけひく⇒福永武彦

鳴海仙吉なるみせんきち⇒伊藤整

寄葉切捨夫きばきりすてお⇒小田切秀雄

薄井凶見うすいきようみ⇒臼井吉見

狒乃足兵ひのたるへい⇒火野葦平

夜野蠟やのろう⇒矢野朗

土鍋元どなべはじめ⇒田辺元

青岩栄あおいわさかえ⇒赤岩栄

真上信市まかみしんいち⇒真下信一

高鍬澄男たかくわすみお⇒高桑純夫

夜内腹胃作やないばらいさく⇒矢内原伊作

逆口鮟鱇さかぐちあんこう⇒坂口安吾

苦保田曲文くぼたまげふみ⇒久保田正文

倉腹伊人くらはらこれひと⇒蔵原惟人

服長丈低ふくながたけひく⇒福永武彦

三々木寄一ささききいち⇒佐々木基一

箆野剣へらのけん⇒平野謙

鰒田角存ふくだつのあり⇒福田恆存

松山秀木まつやまひでき⇒杉山英樹

般若浴衣はんにやゆかた⇒埴谷雄高

箆田痔三郎へらたじざぶろう⇒平田次三郎

箆森さば子へらもりさばこ⇒平林たい子

小井狭介こいせますけ大井廣介

乃武久のたけひさし⇒宮崎宣久

芝村未知代しばむらみちよ⇒柴田美智子

岩嚙純一いわがみじゆんいち⇒岩上順一

岩籐霜夫いわとうしもお⇒岩藤雪夫*2

鼻田清照はなだきよてる⇒花田清輝

高橋銀行たかはしぎんこう⇒高橋義孝

杉浦民兵すぎうらみんぺい⇒杉浦明平

片口安吉かたぐちやすきち⇒中野重治

本田春五ほんだしゆんご⇒本多秋五

尾田作乃助おださくのすけ⇒織田作之助

元川年彦もとかわとしひこ⇒元山俊彦

青木繁あおきはん⇒青木滋

湯地晩雄ゆちばんお⇒湯地朝雄

長野安雄ながのやすお⇒中野泰雄

竹井照夫たけいてるお⇒武井昭夫

南川桃雄みなみかわももお⇒北川桃雄

鮒橋性一ふなはしせいいち⇒舟橋聖一

多村鯛次郎たむらたいじろう⇒田村泰次郎

中谷宇凶郎なかやうきようろう⇒中谷宇吉郎

某学者⇒羽仁五郎

中絛フジ子ちゆうじようふじこ⇒宮本百合子

中河善乃助なかがわぜんのすけ⇒中川善之助

村正黒鳥むらまさこくちよう⇒正宗白鳥

大津順吉おおつじゆんきち⇒志賀直哉

森二三子もりふみこ⇒林芙美子

大森秀雄おおもりひでお⇒小林秀雄

場須乃利男ばすのとしお⇒バス乗りお*3

真毛磐晩哉まけいわくれや⇒負け万々歳*3

神物数奇かみものかずき⇒新らしもの好き*3

  • 雑誌名

『動物』⇒『人間』

『文学海』⇒『文學界』

『旧生』⇒『新生』

『藝文』⇒『文藝』

『変造』⇒『改造』

『中央公議』⇒『中央公論』

『地球』⇒『世界』

『旧潮』⇒『新潮』

『群蔵』⇒『群像』

『地球評論』⇒『世界評論』

『眺望』⇒『展望』

『未来文学』⇒『近代文学』

『分析文化』⇒『綜合文化』

『文化見物』⇒『文化展望』

『郷土』⇒『国土』

『思汐』⇒『思潮』

『猟奇譚』⇒『猟奇』

『リベラル文芸』⇒『りべらる』

『朝日評議』⇒『朝日評論』

『ネオ日本文学』⇒『新日本文学』

『社会評議』⇒『社会評論』

『人民評議』⇒『人民評論』

『世界文藝』⇒『世界文学』

『朝日グラフ』⇒『アサヒグラフ』

『ホープ』⇒?*4


『地獄篇三部作』評瞥見

  • 佐々木敦「日誌」(「How It Is」2007年08月24日)

・大西巨人『地獄篇三部作』読了。といっても全体の約半分を占める第二部「無限地獄」は、連環体長編小説『地獄変相奏鳴曲』の第一部『白日の序曲』と同一。が、著者の「前書き」に曰く「約六十年ぶりに本来の場所を占有し得た」とのことで、今後、同作の後三つの中短編も独立して再上梓される可能性のあることが示唆されている。でも『地獄変相奏鳴曲』も持ってるからなあ。とはいえ、これだけを独立して読んでも、この作家の異常さ・奇怪さ・巨魁さが明晰に露出していて、実に興味深いです。

  • astazapote「2007/08/28 05:31」(「はてなに於けるアシュタサポテ」)

『地獄篇三部作』について。装丁がまず素晴らしくて、本の体裁などろくに気にしない俺ですら眺めて手にとって何度も引っ繰り返して愛でたくなるほど。さて内容ですが、太宰の影響(ないしそこからの脱却の試み)を窺わせる第一部が何はともあれ爆笑なんだけど、続く第二部では嘗て『地獄変相奏鳴曲』に組み込まれていた筈の『白日の序曲』が第一部の作家が書いた小説として提示されてしまい、単体としても非常に味わい深かったあの中篇がここに来て今更ながら急激な意味を変容を受けるさまに、ほとほと驚倒する。全く大西巨人は殆ど業に近いまで「方法」の作家なのであり、その私小説(的な書き方)に対する一貫した否定批判は、ただちに私小説(的な書き方)の超克・換骨奪胎を経てメタフィクションへと接近する道に他ならない(これは、無論、俺にとっては牧野信一を想起させる)。そう思うと本書の「前書き」も既に作品の一部をなす短篇小説のように見えて来るし、『三位一体の神話』は作者がどう強弁しようとも虚実のあわいで読者を「挑発」する小説だったし(そもそも尾瀬路迂が、エッセイや談話を通じて葦阿胡右を挑発していたのではないか?)、或いはまた『縮図・インコ道理教』の大尾、作者がしゃしゃり出てあらずもがなの自作解説を施す「題意」を、作品論的にどう読むべきかという問題にも改めて突き当たらずにはいない。

  • 中島一夫「文壇の恐れは天国なき地獄篇に届いていたか」(『週刊読書人』2007年10月5日号)

ドストエフスキーの描く悪人にも似た彼の徹底的なニヒリズムは、少女をたぶらかし、やがては自殺に追い込んでいく。その後、「税所」は新しい女性と向きあおうとするが、その「今日の税所」は、どうしても「過去の税所」を罪人(税所篤己=最初は罪?)として「審判の庭」に立たせずにはおかない。(…)大西作品ではおなじみの「西海地方鏡山県鏡山市」という舞台は「鏡像」的な想像界でもあるとして、度々作品の(精神)分析の鍵となってきたが、その「鏡像」は(…)「結晶イメージ」(…)──過去と現在とが時系列的にではなく重層的に共存する時間性──的なものというべきではないか。大西作品の人物もまた、容易にカタストロフ(天国篇)に行きつくことのない「地獄篇」という時間の「結晶」の中を、這いまわるところからしか始められないのである。

  • 陣野俊史「「ゲーム的リアリズム」が信奉される時代に、際立つ「唯一性」へのこだわり」(『週刊金曜日』2007年10月12日号)
  • 木下昌明「ミステリーに満ちた"未発表"小説の魅力」(『週刊金曜日』2007年10月12日号)
  • 福永信「数奇な運命三部作」(『新潮』2007年11月号

「笑熱地獄」の読者は、シナリオ風、日記風といった異なる形式の文章から、そのつど異なる感情をくみとることになるのだ。しかもその感情は作中に分散する。行き場をどこにも見つけられず、ただよいつづける。すべてが断片のまま放り投げられるからである。

  • 鎌田哲哉「統合の余地のない「地獄」の複数性」(『思想運動』792号〔2007年11月1日〕)

読者は、澄江の最後の吃音や、彼女を呑みこむあの渦潮の唸りを耳朶から取り除くことがどうしてもできない。それはスタヴローギンに強姦された少女の声音を直ちに想起させ、税所が放つ「茹で玉子の臭気」の不快さに至って『悪霊』さえも部分的に凌駕している。(…)『奏鳴曲』が通時的だとすれば、『三部作』は共時的(空間的)であり、そこでは単一の悪とそこからの脱出ではなく、文字通り「地獄」の複数性が主題と化している。(…)『三部作』には二つのまったく異なる悪の表現があり、それらは同じ「地獄」の名を持ちながら統合の余地が一切ない。(…)作者は互いの不協和音を永久に解消することがない。

  • 高澤秀次「「俗情との結託」再考──大西巨人と野間宏」(『文學界』2013年2月号

主人公は、『精神の氷点』以来の虚無主義の「けち臭い物真似実行者」にして、半獣人である。(…)澄江の失綜直後、身辺が俄に慌ただしくなっても、動じる気配を見せなかった税所は、最後に辛うじてラスコーリニコフ的な回心にたどり着き、「人間の歌」を歌い始める。それ以前の彼は、スタヴローギン(『悪霊』で十二歳の少女を犯し、自殺に追いやる)気取り──そこにも「俗情との結託」が認められる──の薄情な虚無主義者に過ぎない。

 (…)

もっともここで言う、「徹底的に戯画化した内容」とは、たかだか福田恆存を「鰒田角存」、花田清輝を「鼻田清照」、杉浦明平を「杉浦民兵」、埴谷雄高を「般若浴衣」と表記する程度の他愛ないものであった。野間宏の向こうを張ったつもりか、ブリューゲルに対して、ボッシュの「最後の審判」を表紙装画とし、二〇〇七年に漸く日の目を見た『地獄篇三部作』は、作品価値として到底『暗い絵』には及び難いというのが筆者の判断である。


『地獄篇三部作』雑感

  • 枚数問題

福永信は書評に記している。

(本書の説明で作者は「小説の未発表原稿」を「四百字詰め原稿用紙約三百枚」としている。「笑熱地獄」は「約九十枚」、残りは「約二百枚」とも記している。「白日の序曲」は「約百三十枚」と書かれているから、第三部は約七十枚はなければならない。しかし収録された第三部「驚喚地獄」は四枚ほどである)

これは福永信の記すとおりで、整合性が取れないのである。

大西巨人はインタビューで福永信の書評について発言している。

ついでに言っておくと、福永信「〈本〉数奇な運命三部作/『地獄篇三部作』━━大西巨人」(『新潮』二〇〇七年十一月号)は、全体に好意的な書評だけれど、「第三部驚喚地獄」について「単行本化のために新たに書き下ろされ再構成されたものなのか」と推測しているのは事実ではない。執筆したのは当時であり、「驚喚地獄」は元からあの短さだった。*5

 ある書評では第三部が「これが『小説の未発表原稿』に含まれるものなのか、単行本化のために新たに書き下ろされ、再構成されたものなのか、明かされていない」と書かれていますが、トリッキーでありかつ非常に謎の多いパートですよね。でもこの第三部がすごく大事なのでは?

 大西 まず「驚喚地獄」は書き下ろしじゃないよ。*6

では「小説の未発表原稿」(=『地獄篇三部作』)が「四百字詰め原稿用紙約三百枚」であるという「前書き」の言葉はどうなるのか。第二部・第三部は「小計約二百枚」の予定であったが、第二部が「約百三十枚」におさまり、約5枚ほどの第三部とあわせて小計約135枚になったということであろう。それならば『地獄篇三部作』は「四百字詰め原稿用紙」約225枚の作品であり、「四百字詰め原稿用紙約三百枚」というのは間違いでなければならない。

『地獄篇三部作』の文字組みは、1頁あたり(1行43文字×16行で)688文字であり、「四百字詰め原稿用紙」に換算すると1.72枚に相当する。大雑把に計算すると、第一部が130.72枚(76頁×1.72)、第二部が154.8枚(90頁×1.72)、第三部が6.88枚(4頁×1.72)となる。合計すると292.4枚である。この大雑把な計算を採用するならば、「小説の未発表原稿」(=『地獄篇三部作』)が「四百字詰め原稿用紙約三百枚」は正当である。


  • 太宰治の影

『地獄篇三部作』第一部「笑熱地獄」には下の記述がある(pp.66-7)。

 以前に、僕が「文芸家の胸中を朝夕吹き透る落莫の風」と呼んだのは、こういう事象のことであった。これに類することを、ある作家が、左のように書いた。

     ここは武蔵野のはづれ、深夜の松籟は、浪の響きに似てゐます。此の、ひきむしられるやうな凄しさの在る限り、文学も不滅と思はれますが、それも私の老書生らしい感傷で、お笑ひ草かも知れません。

 昨夜に書いた分と今夜の分と、この一見たがいに矛盾するような二つの要素が、真正芸術家の内部には、必ず同居しているようだ。そして、・・・・・・彼らは、「流れに逆行する」。

「ロングインタビュー 大西巨人 文学とは困難に立ち向かうものだ」*7には下の記述がある。

大西 (…)『地獄篇』の六十六ページに「先輩作家」が書いた文章として「ここは武蔵野のはづれ、深夜の松籟は、浪の響きに似てゐます。此の、ひきむしられるやうな凄しさの在る限り、文学も不滅と思はれますが、それも私の老書生らしい感傷で、お笑ひ草かも知れません。」とあるでしょう。私はその当時これを書いた「先輩作家」が誰だか知っていたわけだ。だけど書いてない。ところが今はそれがだれやらわからんようになった。それで、そこだけ注が付けられんのよ(笑)。

 ──他の場所には括弧で引用元が書かれているのに、ここだけないんですよね。

大西 どうしても思いだせんのよ、六十年も前に書いたものだから。

「作家と論争」*8には下の記述がある。

 同一「ロングインタビュー」で、また私は、左のようにも話した。


 『地獄篇三部作』〔光文社、2007年刊〕の66ページに「先輩作家」が描いた文章として「ここは武蔵野のはづれ、深夜の松籟は、浪の響きに似てゐます。此の、ひきむしられるやうな凄しさの在る限り、文学も不滅と思はれますが、それも私の老書生らしい感傷で、お笑ひ草かも知れません」とあるでしょう?。私は、その「先輩作家」が誰だか知っていたわけだ。だが、(その名前が)書いてない。しかるに、今は、それが誰やら、わからなくなった。それで、そこだけ(その出所の)注が付けられんのよ。


 しかし、まもなく私は、若い友人斉藤秀昭君〔「講談社文芸文庫」版『五里霧』所収「年譜」の作成者〕から、それが太宰治の『風の便り』であることを教えられた。

astazapote氏が「太宰の影響(ないしそこからの脱却の試み)を窺わせる第一部」と記しているように、『地獄篇三部作』は太宰治的なものからの脱却というテーマを読み取りうる。太宰治的なものからの脱却を外面において端的に示すのは第一部冒頭の記述である。そこでは、『コメディリテレール』編集室に堕罪修が送付した「長篇自信作『逆陽』八千六百枚」を編集長が包みを開きもせず「床上に投げ出す」のである。

「風の便り」からの引用の他に、p.65には「ダス・ゲマイネ」から下の一節が引用されている。

わかってゐます。けれども、僕は生きて行かなくちゃいけないのです。たのみます、といって頭をさげる。それが芸術家の作品のやうな気さへしてゐるのだ。

同じp.65には下の記述がある。

 そして、ここから、たとえば「芸術の美は、つまり市民にたいする奉仕の美である。」という苦い感慨が、出て来る。

「芸術の美は、つまり市民にたいする奉仕の美である。」は太宰治『晩年』所収の「葉」及び「逆行」における「藝術の美は所詮、市民への奉仕の美である。」を指示するであろう。

「〈インタヴュー〉文学をめぐる複眼的思考の衝撃 大西巨人氏、『地獄篇三部作』を語る」では『地獄篇三部作』着想の一契機について述べている。

──着想が戦前であったということをうかがい、さらに驚きました。マスコミやジャーナリズムに対する醒めた見方は以前からお持ちだったのでしょうか。

大西 マスコミやジャーナリズムに対する考えは、戦前からすでにあったね。否定的な見方をするようになった出来事が具体的にあったというわけではないが。

──文壇ジャーナリズムに対する批判は、芥川龍之介や太宰治が作品で試みていますが、そこから触発されるようなことはなかったでしょうか。

大西 太宰治のことは、ちょっと考えたかも知れないね。(…)

──『地獄篇三部作』には、太宰作品を連想させるところがあります。一つは内容面で、主人公が情死を企て失敗することが共通します。もう一つは形式面で、日記や書簡などプライベートなジャンルの文書を組み合わせた構成や、職業作家の置かれた環境を相対化して描くメタフィクションの手法に類似性を感じるのですが。

大西 『虚構の春』のように、小説家に送られた手紙を集めた書簡体小説が太宰にはあるね。『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』(新潮社、一九三七年六月)に収録されているが、当時それを読んだ覚えがある。そういう作品を読み、面白いと感じていたことが、『地獄篇三部作』を執筆する上で多少関連しているとは言えるだろう。

*1:池田雄一は追悼文「消滅の巨人」で、「「野馬拾」「汁菜輪蔵」といった、あきらかにモデルがそれとわかる名前がでてくる。それらのパロディ名は、積極的に醜い」と記している。『迷宮』における野間宏のパロディ名は「脳漫」であり、より一層「醜い」のであった。

*2:『三位一体の神話』では石葛霜太[いしずるしもた]。

*3:「これは、実在の人の名前をもじっているのではない。場須乃利男は、「バス乗りお」、バスに乗り遅れなかった人間、つまり調子のいい人間ということだね。真毛磐晩哉は、「負け万々歳」、神物数奇は、「意識の流れ」ということを引き合いに出しているように、「新らしもの好き」をそれぞれ意味している。」(「〈インタヴュー〉文学をめぐる複眼的思考の衝撃 大西巨人氏、『地獄篇三部作』を語る」〔『社会評論』2008年冬号〔152号〕)

*4:1946年1月に實業之日本社から創刊された『ホープ』だろうか。それなら、『ホープ』だけパロディ化されていないことになる。

*5:「〈インタヴュー〉文学をめぐる複眼的思考の衝撃 大西巨人氏、『地獄篇三部作』を語る」

*6:「ロングインタビュー 大西巨人 文学とは困難に立ち向かうものだ〔聞き手●市川真人〕」(『文學界』2008年2月号)

*7:『文學界』2008年2月号(p.181)

*8:『論座』2008年6月号(pp.214-5)

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