経済成長と貧困削減との関係

大和総研レポートより経済成長は貧困削減に役立つか?(1)を読みました。

経済成長が国内の貧困の削減や格差縮小につがなるのかどうかというのは、経済の在り方を考える上で重要な問題だ。
どの国も高い経済成長を目指している。経済成長は所得の増大をもたらし、すべての人々に恩恵をもたらすことを可能とするからだ。
しかし、国全体の所得の増加が、国内のすべての人々の所得の増加につながるとは限らない。経済成長が高所得層に恩恵をもたらす一方で、低所得層の所得増加につながらない場合、経済成長は格差拡大につながることになる。

このような格差拡大を伴う経済成長が社会にとって望ましいものとは言えないことは想像に難くないだろう。
まず、このような経済成長は国内に格差論争を生み出し、低所得者層を中心に政権に対する不満をもたらし社会を不安定化させることが考えられる。これは小泉政権時代にITバブルの余波を受けて国内景気が改善していったにもかかわらず、国内で格差論争が生じ一部で政権に対する反発が生み出され、その後紆余曲折を経て最終的には自民党政権の終末につながったことを思い出させる。
また、以前ここでも書いたように、国内の経済格差の拡大が持続的な経済成長の妨げになるのであれば、格差拡大を伴う経済成長は持続可能なものではなく遠からず行き詰まりを迎えることも考えられます。

この大和総研のレポートは、フィリピンやインドでは高い経済成長が実現しているにもかかわらず、それが貧困削減につながっていないという実態を踏まえ、複数回に渡って、アジアの発展途上国における経済成長が貧困削減、国内格差に与える影響や所得格差の是正・貧困削減につながる経済成長とはどういうものなのかについて述べていこうというものでありとても興味深いものだ。

第1回目は、経済発展と貧困削減の関係について戦後の経済開発理論の動向を踏まえたうえで述べられている。
レポートの内容をまとめると、90年代以前のマクロ的な経済開発援助(大規模なインフラプロジェクトへの投資を中心とした援助)に対して、90年代以降は特定の貧困層や貧困地域を対象としたミクロ的な援助が広まり、2000年代には両者を統合した「包括的成長(Inclusive Growth)」貧困層を支援する成長(pro poor growth)」といった流れが生じているということらしい。

マクロ的な経済開発援助とは、経済全体の成長を促進させることが最終的に貧困問題の解決につながると考えたものである。高成長をもたらすためにはビッグプッシュ(巨大インフラ投資による有効需要の送出と生産のボトルネックの解消)が必要であり、そのビッグプッシュに必要な国内貯蓄(資金)がない途上国に対し、経済援助によってその資金不足を補ってやれば経済は成長軌道に乗るだろうという考えだ。簡単に言うと公共投資至上主義ってところだ。
このマクロ的な経済開発援助については、さらに2つの流れがある。戦後直後から60年代までは、政府主導による資本蓄積と輸入代替工業化を重視するという政府の役割を重視した構造主義が主流だったが、60年代から80年代に入ると、政府よりも市場を重視し、「市場化・自由化」と「輸出志向」を重視する新古典派が台頭してくる。この頃には、経済援助については、「民営化、各種の規制緩和、貿易・資本の自由化を重視し、インフレ抑制や財政赤字削減といったマクロ経済運営の管理を政策条件(conditionality)として途上国に課してインフラプロジェクトを進める」というワシントン・コンセンサスが主流を占めてくる。つまり、市場経済を推し進め、適切なマクロ経済運営を行っている国に経済援助を限定していこうという考えである。その後、東アジアの経験を踏まえ*1、両者をミックスした市場機能を補完するような形での政府の関与を積極的に評価する新開発主義が現れるが、経済援助の効果が現れそうな優秀な国に限定しながら大規模援助を与えることによって経済成長を実現していこうという考え方自体はすべてに共通していると言ってよいだろう。

これに対し、マクロ的に高い経済成長率を実現しても必ずしも途上国の貧困層を救うことにはなっていないのではないかという考えのもと現れたのが、貧困層や貧困地域に直接限定して支援していこうというのがミクロ的な援助だ。これは、個々のプロジェクトの具体的な効果を重視していこうという考え方が元になっている。インフラプロジェクトなどのマクロ開発援助と違い、支援する対象がはっきりと見えるところもこのようなミクロ的な援助が好まれる理由だろう。
本レポートでは、このような動きを先進国における福祉政策の在り方と比較して考えている。先進国の中では、特定の層を対象とした社会給付といった限定的・選択的な社会福祉政策と、より普遍的・一般的な福祉政策のどちらが所得分配の平等化や貧困救済に有効かという論争がある。ミクロ的な援助は、この前者に対応している。前者の政策は、直接的な貧困問題に対処できるだけでなく、財政状況の改善から経済成長へとつながるというマクロ的な効果までも期待されている。その一方で、行政コストの高さや政治的な支持を失うことによって長期的には貧困問題の解決にはつながらないという「所得再配分のパラドクス」の問題があることが述べられている。このように考えると、ミクロ的な援助の在り方についても、その効率性について様々な議論の余地があることがわかる。

2000年代に入ると、成長重視のマクロ経済開発援助の考え方と、貧困層に直接働きかけることを重視したミクロ的な援助の考え方をミックスした援助というものが考えられるようになる。それが「貧困層を支援する成長(pro poor growth)」や「包括的成長(Inclusive Growth)」と呼ばれるものだ。前者は「貧困層が成長に参加貢献し、貧困層の成長の果実を享受する能力を高める成長のペースとパターン」を重視するものであり、後者は「高い持続的成長率はより多くの経済機会を創出するが、広範な人々、とくに貧困層がそうした機会・市場へアクセスできるようにするための制度インフラの整備や教育投資等の政策が必要」と考えるものだが、経済成長と所得分配を両立させようということは変わらないだろう。

このように、経済成長と貧困削減・格差縮小については両者のいずれかを重視する考え方がまず出てきたが、その後両者をミックスした考え方が出てきたというのが現状だ。これは、政府主導の構造主義と、市場経済重視の新古典派が最終的に新構造主義にミックスされたというのと同じような流れだろう。経済に対する考え方とは、このように二つの極端な考えが現れその後両者の良さをミックスした考えへと進化するものなのかもしれない。

今日はこの辺で

*1:これについては世界銀行による『東アジアの奇跡』が詳しい