新小児科医のつぶやき

2016-09-27 一の谷の合戦・多田行綱関連資料の発見

他の事を調べていてヒョイと目についたのでエントリーにします。


福原会下山人氏

会下山人氏はwikipediaに載っていないのが遺憾ですが考古学者であり、郷土史の草分け的な人物です。神戸の古地名の由来をムックすると西摂大観によく行き着きますが、神戸の地名部分の執筆者が会下山人氏であり、西摂大観とは別に神戸市内町名由来記も書かれています。内容は現在でも研究者がまず引用されるというか、会下山人氏の研究から発展させる手法も珍しくもありません。記紀や風土記などの該博な知識を駆使するだけでなく、そこから新たな角度で更なる考察をふんだんに加えられています。会下山人氏の研究で特徴的と思うのは口碑や地元伝承を豊富に集められている点とも思っています。この点については現在では既に蒐集不能になっている事柄も多く、非常に興味深いものが多々あります。

そんな会下山人氏の著作の一つに山田村郷土史があります。この本は山田村がその歴史を後世に残すために村費で刊行されたもので、会下山人氏に委嘱されています。なにせ村の公式事業ですから村人の前向きの協力が得られたものとして良く、今では失われてかもしれない伝承・口碑を豊富に集められたんじゃないかと推測しています。ちょっと寄り道ですが明要寺の由来についても面白い考察を加えられています。

明要寺は欽明天皇の御代に仏教公伝を行った百済の聖明王の王子の童男行者が開基したとなっています。童男行者は明石の船上に上陸し北側に見える丹生山の秀峰に惹かれたの解説は今でも行われ、会下山人氏もこの伝承を大筋では認めています。ただ王子を童男とするのはおかしかろうとされています。童男・童女とは始皇帝の命を受け蓬莱山を目指した徐福が、童男・童女300人を連れて行ったの記録にあるように、童男とは王子ではなく従者と解釈するのが妥当としています。

ではなぜに王子伝承が生まれたかですが、聖明王は高句麗・新羅との抗争で劣勢にあり日本との同盟強化に熱心であったとされますが、対新羅戦の最中に戦死します。この時に王子の余昌は弟の恵を日本に派遣します。恵は日本の援軍を取り付けて帰国しますが、余昌は王位に就かずに亡父王を弔うために僧になると言い出したとされます。百済も危急存亡の時ですから群臣はこれを強く諌めて王になっていますが、この王子が王にならずに僧になろうとしたエピソードを投影したのが明要寺の童男行者王子伝承だろうとしています。つまりは百済王子である恵の従者が明要寺を開いたのであろうの見方です。

会下山人氏の説もすべてが正しい訳ではありませんが、私の見るところ考え方に妙な偏りがなく、得られた知識から合理的かつ論理的な分析が出来た人物と考えております。


多田行綱の最前を考えてみる

一の谷合戦で近年注目を浴びている人物として多田行綱がいます。ただ一の谷合戦で行綱の活躍は平家物語では全くなく、わずかに玉葉

一番に九郎の許より告げ申す(搦手なり。先ず丹波城を落とし、次いで一谷を落とすと)。次いで加羽の冠者案内を申す(大手、浜地より福原に寄すと)。辰の刻より巳の刻に至るまで、猶一時に及ばず、程無く責め落とされをはんぬ。多田行綱山方より寄せ、最前に山手を落とさると。

これしかありません。これは吾妻鏡にも収録されていますが、ここから鵯越の逆落としを行ったのは義経でなく行綱であるとの主張も出てきています。私も玉葉の記述の解釈には様々に頭を悩ませましたが、個人的に引っかかるのは「最前」の表現です。つまり最前とは、なにの一番前なのかです。とにかくこれだけしか行綱の一の谷の記録がないもので、どうとでも考えられるってところです。ここで会下山人氏の山田村郷土史に興味深い記述を見つけました。

寿永三年二月源平一の谷の合戦の時は、摂津源氏の党多田蔵人行綱義経に属し、先発隊として丹生山田に来り、義経軍の三草より来るものと会し、藍那村相談の辻より鵯越に出で、山田の住人鷲尾三郎経春に高尾より鉄拐山までの山路を案内せしめ一の谷城に拠れる平軍を一掃したり。

この話はこれまで一の谷関連の話をあれこれムックしていましたが初めてみました。つうか、私の仮説では行綱は先発隊として六甲山の北側に展開していたの考えでいましたから、これを裏付けるものとなります。ほいでもってこの話の出どころは会下山人氏が集めた山田村の伝承・口碑とするのが妥当と思われますが、ここも鵜呑みするのは危険だと考えます。おそらく会下山人氏も一の谷は鉄拐山の麓にあったの考えで書かれている気がします。しかし

    高尾より鉄拐山までの山路を案内せしめ

これは地形的に無理があり過ぎます。ごく単純には高尾山から鉄拐山に向かうのは無茶ということです。たしかに相談が辻から左に曲がれば高尾山に通じる鵯越道になりますが、高尾山から鉄拐山に至ろうと思えば、

    高尾山 → 高取山 → 東山 → 栂尾山 → 横尾山 → 高倉山 → 鉄拐山

平面的にはこういうルートを設定できますが、東山から栂尾山の間には須磨アルプスの名所である馬の背があります。

須磨アルプスの馬の背(第44回兵庫労山六甲全山縦走より)

ここを騎馬武者が夜間に通り抜けるのはどう考えても無謀で、昼間だって無理と思います。この相談が辻ですが「辻」というぐらいで、道の分岐点になります。左に曲がれば高尾山に向かいますが、右に曲がれば白川方面に出ます。本当に相談が辻で行綱と義経が相談をしたのであれば、単に相談をしたのではなく軍勢が分かれた地点と見たいところです。つまり相談が辻で、

  • 行綱は高尾山に向かった
  • 義経は白川方面に向かった

この白川方面に向かった義経が逆落としを行ったぐらいです。ほいじゃ行綱は何をしていたかですが、高尾山経由の鵯越道を進んで行ったで良いでしょう。高尾山には義経関連の旧跡がありますが、これは義経ではなく行綱のものであったぐらいです。なぜにそう考えるかですが、高尾山経由の鵯越道では奇襲にならないからです。高尾山は丸山を見下ろす位置にありますが、高尾山まで源氏軍が進出すれば平家軍から見えるからです。ちなみに高尾山からの進軍路としては、

  • 本道から会下山方面
  • 支道から明泉寺方面

これは平家物語になりますが、鵯越道方面の源氏軍の動きに対応して

  • 明泉寺方面に前越中司盛俊
  • 会下山方面に能登守教経

こういう配置を行ったとなっています。地図で示せば、

20160927110337

こんな具合です。そうやって待ち構えられているところに奇襲は成立しません。実はここからの行綱の動きが不明です。ここから攻め下ったのか、それとも洞ヶ峠をやりながら戦況が傾いてから動いたのかです。なにせ平家物語に書かれてないのでサッパリってところです。でもってもって、玉葉の「最前」を考え直してみます。行綱は源氏軍の動きに合わせて能勢の多田荘から動き出したと考えて良いと思います。具体的には多田荘から有馬街道を通り、一の谷陣地の背後に回り込んだぐらいです。

山田荘に至った行綱は藍那古道を通り藍那に進出し、高尾山(鵯越道)方面に作戦を展開したと考えます。一の谷陣地から見て高尾山は重要な防衛線であり、平家も哨戒・守備部隊を配置していたと考えています。この哨戒・守備部隊は義経が三草山から駆けつけるまでに行綱によって排除された状態でなかったかと推測します。平家物語で宗盛が山の手の危険性を訴える描写がありますが、これは行綱の藍那から高尾山への作戦行動に反応してのものと見れそうな気がします。

行綱の作戦行動は源氏本隊の矢合わせ以前に行われたものであり、これを梶原景時の報告では「最前」と表現したんじゃないでしょうか。


補足

山田村郷土史にはもう一つ同じような説明が記載されています。こちらの方が一の谷合戦時の山田荘の雰囲気を伝える伝承にも感じます。

源氏の所領地として重代其恩顧の民なりしもの一郷挙げて皆然らざるなし。平清盛源氏の勢力を抑圧し、都を摂津の福原に移さんとするや、先づ山田の郷に勢力を注ぎ、丹生山に日吉権現を勧請し、旧都の日枝山に擬し明要寺に寺坊を起し、僧徒の歓心を利し大いに自家擁護に努力せるも、源氏年来の勢力は抜くべきも非ず、寿永の一の谷戦に於て、多田蔵人行綱は早くも此の地に来りて、一の谷後方攻撃の策は、九郎判官と共に籌謀されたり。旧家鷲尾箱木二氏の如き何れも源氏に附従せる徒なりしなり。土俗久しく須磨と山田とは婚儀を結ばずとの説は、此の間の消息を説明して余りありというべし。

この伝承がある程度真実を反映しているのなら、行綱は山田荘の有力者であった鷲尾氏・箱木氏に寝返り工作を行ったぐらいに読み取れます。ちなみに山田荘の伝承では源満仲の時から源氏の所領であったとされ、多田行綱は満仲の摂津源氏の本家にあたります。もっとも行綱は満仲の本家筋ではありますが、山田荘の領主は源為義であり、為義は河内源氏になります。同じ源氏でも摂津源氏と河内源氏は一の谷期では少々離れます。ですから伝承では重代の恩顧に山田荘の住人が応えたとなっていますが、実際は逆で重代の恩顧を盾に行綱が寝返り工作を行ったぐらいに思えます。

ただ工作は案外容易であったようで、行綱は山田荘が味方になることを確認した上で能勢の多田荘から進んできたと見たいところです。実のところ問題は行綱と義経が作戦上の打ち合わせを行ったのは事実かと思いますが、当初から合流計画があったのかどうかです。ここを考え出すと長くなるのですが、行綱の作戦行動が早期から行われていたのであれば源氏本隊の本来の作戦は平家物語と違った可能性が出てきます。範頼が山陽道を進んで生田の森の東の木戸を攻撃するのは同じでも、義経の搦手軍が西の木戸を攻めるのは含まれていなかったかもしれません。

一の谷の合戦での三草山の合戦は軽く語られがちですが、三草山後の日程を考えると、義経が三草山に着陣してその夜に平家軍を潰走させないと間に合いません。いくらなんでもその計算は作戦として無茶です。もともとの源氏の作戦は、

  • 範頼が東の木戸から正面攻撃
  • 行綱が鵯越道から山の手攻撃

こうであったのかもしれません。義経の本来の任務は三草山方面から山陰道に進もうとする平家別動隊の抑え役で、一の谷に参加する予定がなかったのかもしれません。

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2016-09-19 久しぶりに日本書紀

前に日本書紀での年代を遡ってムックしていたのですが、応神と神功のところで引っかかって止まったままになっています。行き詰った感じだったのですが、ようやくヒントがつかめた気がしています。


神功皇后と卑弥呼と大陸外交

書紀では

    神功皇后 = 卑弥呼

この解釈で書かれているのですが、なんとなく本音では「神功皇后 = 卑弥呼」と信じていなかった気がしています。ではなぜに信じていないのに結び付けたかですが外交のためじゃないかと考えています。推古の時代から遣隋使、さらには遣唐使が断続的に派遣されるのですが、使節は国を代表して大陸皇帝に謁見しています。国書を奉呈するためなのですが、そこではその他の事も話がされています。この時に大陸皇帝の持つ日本知識隋書倭国伝がわかりやすく、まんま魏志倭人伝知識です。たぶんなのですが大陸皇帝は日本と卑弥呼の関係を尋ねたはずです。

あくまでも想像ですが、中国皇帝に聞かれるまで大和王権の人々は卑弥呼の存在を良く知らなかった可能性を考えています。いや知っていたかもしれませんが、大陸皇帝から聞かれるとは想定外みたいな感じです。そこで卑弥呼を誰かに当てはめる作業が必要になったぐらいです。とにかく卑弥呼は女性であるのは確かですから、伝承の女性大王で該当しそうな人物として神功皇后が出てきたぐらいで、かなりの力業で結び付けている形跡が認められます。

当時の年代の特定法は年干支です。この年干支は60年で一周します。その時に生きている人間であれば、60年分のマーカーがあれば十分なのですが歴史を書くとなれば少々不便なものになります。そりゃ同じ干支年でも60年前なのか、120年前なのか、180年前なのかの区別が判らない時はわからないからです。書紀編纂者は魏志倭人伝にある卑弥呼関係の3つの魏の年号、景初3年、正始元年、正始4年を使って卑弥呼と神功皇后を結び付けますが、合わせたのは年干支だけだったんじゃないかと考えています。


神功と応神

神功と応神の関係で書紀が絶対の前提としたらしいものとして、

  1. 神功と応神は実の親子である
  2. 応神の誕生年は庚辰である
  3. 応神の即位は庚寅である
  4. 応神の在位年数は41年間である

理由は不明ですがこの応神条件は崩すことが出来なかったとしか考えようがありません。神功が摂政(実際には大王)になったのは応神誕生の翌年にこれまた設定していますから、景初3年、正始元年、正始4年に該当する年干支は庚辰より後に来る必要があります。さらに魏の使者が見た卑弥呼は女王であるので、応神が即位した庚寅より前でないといけません。干支の並びでは、応神誕生の庚辰から次の庚寅(応神即位)は10年後か70年後になるのですが、庚辰から10年後の庚寅の間に景初3年、正始元年、正始4年の干支年である己未、庚申、癸亥は入りません。文字じゃわからないと思いますから表にしてみます。

西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢 西暦 干支 神功紀元 応神年齢
389 69 70 377 57 58 365 45 46 353 33 34 341 21 22 329 9 10 317 * *
390 * 71 378 58 59 366 46 47 354 34 35 342 22 23 330 10 11 318 * *
391 * 72 379 59 60 367 47 48 355 35 36 343 23 24 331 11 12 319 * *
392 * 73 380 60 61 368 48 49 356 36 37 344 24 25 332 12 13 320 * 1
393 * 74 381 61 62 369 49 50 357 37 38 345 25 26 333 13 14 321 1 2
394 * 75 382 62 63 370 50 51 358 38 39 346 26 27 334 14 15 322 2 3
395 * 76 383 63 64 371 51 52 359 39 40 347 27 28 335 15 16 323 3 4
396 * 77 384 64 65 372 52 53 360 40 41 348 28 29 336 16 17 324 4 5
397 * 78 385 65 66 373 53 54 361 41 42 349 29 30 337 17 18 325 5 6
398 * 79 386 66 67 374 54 55 362 42 43 350 30 31 338 18 19 326 6 7
399 * 80 387 67 68 375 55 56 363 43 44 351 31 32 339 19 20 327 7 8
400 * 81 388 68 69 376 56 57 364 44 45 352 32 33 340 20 21 328 8 9

書紀編纂上でとくに動かしにくかったと考えられるのは、応神の即位の庚寅が西暦換算で390年である点であったようにも感じます。神功と卑弥呼を結び付けるための干支一運の操作の結果は、

  1. 応神即位年齢が71歳になった
  2. 応神崩御年齢が111歳になった
  3. 神功皇后の在世が69年間になった

応神は異様な程の高齢即位の大王になってしまっています。また魏志倭人伝の3つの年号との関係も60年ずらしてもまったく合っていません。書紀の年代なら景初3年は359年になりますが、本当の景初3年は239年であり、まだ120年も遡らせないといけない勘定になります。この点からも書紀編纂者は応神基準から強引に干支年だけ合わせて神功と卑弥呼を関連付けたと考えます。神功と応神の年代の実際として妥当なのは

西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢
413 * 34 401 * 22 389 * 10 377 * *
414 * 35 402 * 23 390 即位 11 378 * *
415 * 36 403 * 24 391 * 12 379 * *
416 * 37 404 * 25 392 * 13 380 誕生 1
417 * 38 405 花王 26 393 * 14 381 * 2
418 * 39 406 * 27 394 * 15 382 * 3
419 * 40 407 * 28 395 * 16 383 * 4
420 腆支王没 41 408 * 29 396 * 17 384 * 5
421 * 42 409 * 30 397 * 18 385 * 6
422 * 43 410 * 31 398 * 19 386 * 7
423 * 44 411 * 32 399 * 20 387 * 8
424 * 45 412 * 33 400 * 21 388 * 9

応神の誕生の翌年から神功の時代が始まりますが、神功9年に終り、応神は11歳で即位したとする考え方です。古代大王はどこかで30歳以上が条件であるとの話がどこかにありましたが、だからこそ神功の目の黒いうちに応神を即位させて既成事実を作ってしまったぐらいを考えます。神功の崩御年も書紀にはありますが、怪しむのはそっちの方で、実際は応神即位後も摂政としてかなりの期間、実権を握っていた気がします。ですから応神の事績として書かれているかなりの部分が実質的に神功の実績じゃなかろうかぐらいです。


編年作業

書紀は歴史書ですが、その時に編年はどうしても必要になると考えています。もちろん史記のような紀伝体方式もありますが、書紀の場合は神武から持統まで連綿と天皇家が続いている前提ですから、編年作業は必要になってくると考えるのが妥当です。それこそ干支年の表を作って、大王伝承のある人物を当てはめていく作業だったと想像しています。このうち持統から近い時代はまだ良いと思っています。記紀以前にも天皇記、国記が書かれ、これらは乙巳の変で失われたとされていますが、天皇記や国記を書くための基礎資料、確実そうな伝承はあったでしょうし、旧辞帝紀も活用できたと考えています。

しかし時代を遡るにつれ作業は困難になったと想像しています。それこそ断片的な伝承しか残されていない時代に突入するからです。そこで活用されたのが百済三書であった気がしています。百済三書に書かれている干支年で基準年代を作り、伝説の大王を割り振っていく作業です。この時に応神の年代が明記されていたんじゃないかと考えています。一方の神功の年代については不明瞭であったと。今となっては百済三書も失われてしまっているので理由がわからなくなっていますが、当時の編年作業で応神の即位年は動かしがたい絶対の根拠があったぐらいに想像しています。そうでも考えないと応神と神功の関係が不自然すぎるってところでしょうか。


余談・干支年と年号

干支年は近い時代を記録するのは便利ですが、60年で一回りするために古い時代の記録には少々不便です。なぜに大陸文明が干支年方式を採用したかの理由は不明ですが、編年作業には向いていない気がします。それだけの理由ではないかもしれませんが、編年で時代を見るための基準として年号が併用された気がしています。年号もコロコロ変わりますが、あれなら積算式で編年作業が可能です。そこから西暦式の永久ナンバリングに進まなかったのは・・・歴史を編年で見る時にいつも不便を感じています。

BugsyBugsy 2016/09/21 21:31 異論も確かに多いのですが 古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」との著説には着目せざるを得ません。

要約は

『 三国志・魏志倭人伝 』 には、「邪馬臺国」 とは書かれていない。書かれているのは、「邪馬壹国」 である。
当時の大和朝廷は対外的に そして日本の学者は、「ヤマト(近畿・大和、筑後・山門)」 に導く為に、強引に  「壹」 は 「臺」 の間違いであると断定。台 ← 臺 なので 「 やまたいこく 」 となるのだが、、元々は 「 邪馬壹国 」 なのだから 「 やまいこく 」 となるのである。
  c.f.  「壹」 は 「豆」 を含むので 「と」 と読んでいた可能性もある。 という説もある。

『 三国志・魏志倭人伝 』 が出発点ではなく、現天皇系の経歴詐称の為に 「 ヤマト 」 に結び付けたいという目的の為に「壹」 は不都合 「臺=台」 と原文を直さねばならなくなった。

けっきょくこれがきっかけで邪馬台国に対して興味を持った人は少なからずあるように思います。

YosyanYosyan 2016/09/22 08:48 Bugsy様

邪馬「壱」国説ですね。

前に少しだけ三国時代の漢字の音を調べたことがありますが、おそらく唐音(= 呉音)に近いだろうとされていました。「台」については現在は「tai」になっていますが、唐音の時は「dai」ないし「da」に近かったとされています。日本語は呉音(= 唐音)がベースで、「台」は「tai」とはまず読みません。「台」はあくまでも「dai」です。これは奈良期もそうであったと私は考えています。そりゃ、遣唐使直輸入の音ですからね。ですから邪馬台国」なら「ヤマダイコク」と読むんじゃないかと考えます。

もう一つ国名ですが、邪馬台国もやはり地名をベースとしていたと考えています。「ヤマト」の語源もはっきりしないところがあるのですが、通説では三輪山の麓を「山門(= ヤマト)」と呼んでいたとしています。大和が「ヤマト」になったのもおそらく倭が最初にあり、倭を「ヤマト」と当て字読みし、美称の「大」がついて大倭になり、倭の字を卑しんで「和」に変えたぐらいの経緯を想像しています。余談ですが倭は「輪」から由来するとするのも有力だったと思います。これは私の感覚ですが魏志倭人伝で国名が列挙されていますが、感触的に邪馬台国は浮いている気がしています。なんとなくですが「邪馬」が本来の国名であり、「台」は国にかかる美称のような気もしています。そうなれば「邪馬 = 山」になり「台国 = 大国」とも考えられ、「邪馬台国 = 山大国」の可能性もありそうな気がします。これは海幸彦・山幸彦伝説にもなんとなく対応する気がするぐらいです。


それと書紀編纂時に魏志倭人伝をどれぐらい意識したかですが、無視していないのは神功皇后に結び付けているので明らかですが、濃厚に意識していたのであれば正始8年の卑弥呼の死、さらには後継者になった臺与の対照も必要な気がします。しかし神功の子は応神だけですし、卑弥呼の死後も神功は生きています。それより神功を強引に卑弥呼と結びつけたために編年に混乱を来しています。個人的には卑弥呼と結び付ける必要は認めたが、結び付けた「だけ」以上の意識は薄かった気がしています。

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2016-09-12 麻疹の定期接種率

厚労省の定期の予防接種実施者数 平成6年法律改正後(実施率の推移)から接種率の推移のグラフを作ってみました。

20160912143645

たく読みにくい表でウンザリしましたが、少し解説を加えます。接種率というのは当たり前ですが、

    接種者 / 接種対象者

こうなります。厚労省データでも母数として接種対象者が挙げられていますが、2005年までの母数は1歳児の数になっています。しかし2005年までの1回接種の時代は接種期間が12〜90ヶ月でした。つまりは7歳半まで接種が可能だったわけです。1歳時に接種する人は多かったですが、すべてが1歳児に接種されていたわけではなく、2歳以降に接種された子供も決して少なくありません。だから2005年までにしばしば100%を超える接種率が見られます。とくに2005年は2006年から2回接種になる事による駆け込み需要が多く140%を超える接種率が叩き出されています。ちなみに2006年から移行措置はありましたが、

    1期・・・12〜24か月
    2期・・・小学校入学前の1年間

こうなったため、2010年ぐらいから、ほぼ正確な1歳児の接種率を反映していると見て良いかと思います。では1回接種時代の1歳児の接種率がどうであったかですが、IDSC(国立感染症研究所感染情報センター)の情報では

これは2000年の情報ですが目分量で40%ぐらいしかありません。ただなんですがIDSCの情報も

20160912150143

2010年時点でも1歳児の接種率は接種歴不明者を接種者に含めても80%ぐらいしかありません。厚労省のデータと矛盾するので、どんなものだろうってところです。


2回接種した世代

2006年から2回接種になっていますから、2006年時に1歳であったものは2回接種世代にまずなります。これに2006年に2〜5歳であった者も2期接種を受けられます。2006年時に5歳であれば現在は16歳になります。それと2008年から3期4期があります。3期は中1で4期は高3ですから、2008年時点で18歳であった者も2回接種世代になり、現在は26歳ぐらいのはずです。ただ3期・4期の接種率はイマイチでして、

3期 4期
接種対象者 接種者 接種率 接種対象者 接種者 接種率
1192612 1015341 85.1 1224084 946593 77.3
1194878 1026892 85.9 1213204 933891 77.0
1200301 1047356 87.3 1214161 957506 78.9
1207874 1064727 88.1 1201664 978440 81.4
1190773 1057237 88.8 1235125 1027607 83.2
5986438 5211553 87.1 6088238 4844037 79.6

3期の中1も忙しいですが、4期の高3なんてもっと忙しいですから、個別接種ではこれぐらいが限界なのかもしれません。でもってその上の世代は1回接種時代になります。おおよそ1990年以前に生まれた人は定期しか接種していなかったら1回だけになります。もうちょっと簡便には昭和生まれの方は1回接種ぐらいに見れば良いかもしれません。

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2016-09-11 年齢別麻疹抗体保有率

国立感染症研究所年齢/年齢群別の麻疹抗体保有状況、2015年があります。これは2015年度の麻疹抗体保有状況の調査で、現在公表されている最新のデータと見れます。非常に詳しいデータなんですがたとえば、

20160911094245

これを見てもイマイチ状況が把握しにくいところがあります。そこでもう一工夫したいところですが、そもそも麻疹抗体価はいくら必要かの知識が必要です。そこで小児感染免疫 Vol.23にある庵原俊昭氏の抗体検査:目的・結果・次にすることはから表を引用します。

20160911095052

国立感染症研究所はPA法で抗体価を測定してますから、感染予防レベルで256倍以上必要になります。この感染予防レベルの年齢別抗体価保有率をグラフにすると、

20160911095446

全体の平均で72.2%、グラフでも70〜85%の範囲に殆どの年齢層が含まれます。後は発症予防レベル、陽性レベル、それ以下とグラフを作ってみたのですが見にくいので思い切って2分します。

  • 0〜32倍の陽性以下
  • 64倍以上の発症予防レベル以上

これでも見にくいのですがグラフにしてみます。

20160911105426

64倍以上の全体の平均は90.8%になります。このグラフでは10歳未満の動きが見にくいのでそこのグラフを作ってみます。

20160911100344

わかりやすい動きで、1歳時の1期のMR接種により10.6%しかなかった抗体保有率が2歳には93.5%になり、小学校入学前の2期の接種により6歳では98.2%まで跳ね上がっています。0歳児から2歳児までの数値を表にすると、

月齢・年齢 麻疹抗体保有率(%)
64〜128倍 256倍以上
0-5M 25.0 10.7
6-11M 4.5 3.0
1 68.4 55.2
2 93.5 84.1

国立感染症研究所は0-5Mと5-9Mのデータも取ってくれているので助かりますが、0歳児でも6か月未満であれば低いながらも移行免疫による抗体価が少しはありますが、6ヶ月以降になると5%未満に落ち込みます。そうなると麻疹感染に一番脆弱な年齢は、

  1. 0歳児、とくに外での活動(託児所、保育所も含む)が増えてくる6か月以降が最も危険
  2. 1歳児は接種後に抗体が上がれば(およそ1か月されています)、他の年齢層とリスクは変わらない、もしくはそれ以上
  3. 2期の接種の効果は長期免疫の観点から必要だが、1期の効果は十分に持続している

だから麻疹アウトブレイクに対して0歳児の前倒し接種が勧められている訳です。では0歳児対策に必要なワクチン数はどれぐらいかになりますが、どの月齢からスタートするかについては議論が分かれるところかもしれませんが、0歳児にフルに接種しても100万本。仮に6か月以上に限定したとして50万本ぐらいです。

もちろん他の年齢層の抗体保有率を少しでも高めることは長期的戦略から必要ですが、それは平常時の努力であって、緊急時には持てる戦力をピンポイントで注ぎ込むのが戦術が効果的になります。全体をカバーするには程遠い数のワクチンしか現実的には存在しないわけですから、これを全年齢層に広く薄く使用しても効果は限定的になります。とは言うものの現状は深刻で、ワクチンは定期接種の維持さえ出来なくなっています。当院でも9月の新規予約は既に出来なくなっており、0歳児への接種の余裕などどこにもありません。

10月にワクチン供給状態が改善してくれないと、数少ないワクチンは1歳児の1期の定期予防接種に振り向けざるを得なくなります。そりゃ、0歳児に1本使用すれば、1歳児への使用が1人減ります。ワクチン投与前の1歳児は0歳児よりさらに危険な状態にあるのは説明の必要もないでしょう。来月はどうなっているのかなぁ。

luckdragon2009luckdragon2009 2016/09/11 12:21 一歳前に接種を受けた場合、再接種が必要となるようですね。
> 麻疹とは (国立感染症研究所)
> http://www.nih.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/518-measles.html
///
いずれにしても、1 歳前に接種を受けた場合は、1 歳以降に再接種(この場合は定期接種として実施)をする必要がある。その理由は、乳児期後期まで母親からの移行抗体が持続している場合があり、その場合は ワクチンウイルスが母親の免疫で中和されてしまうため、十分な抗体が産生されない可能性があるためである。
///

YosyanYosyan 2016/09/11 12:47 luckdragon2009様

1歳以降に再接種しなければならないと言うより、1歳以降に定期接種を公費でもう2回受けれると取った方が良いと思っています。1回接種より2回接種、2回接種より3回接種の方が単純により有効だからです。

hkoyaanhkoyaan 2016/09/11 22:49 昔教授が10ヶ月以降でないと、ワクチン接種しても意味ないとか言ってたけど、ほんとに、9ヶ月未満は接種しても効果が悪いみたいですね。
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/9707142

YosyanYosyan 2016/09/12 07:29 hkoyaan様

だから1期接種は1歳からになってるのですが、アウトブレイク時の前倒しの月齢を「いつから」は意見が分かれると思ってます。パニック心理も絡むでしょうから、適応の6か月以上になるとは思ってますが、ワクチンが不足していればより月齢の高い方、結局は1歳以上の1期接種になるとも考えています。

かなこかなこ 2016/09/12 22:14 9/10付のエントリーで質問させていただいたものです。
答えにくい質問にレスポンスくださりありがとうございました。
非常に参考になりました。効果の面から、またワクチン不足の面から、いつから打つべきかというのは難しい問題ですね。

SeisanSeisan 2016/09/13 17:27 ご無沙汰しております。

北大阪の各自治体で、麻疹ワクチンの不足を受け、「定期接種、特に1期を優先すること」「定期外の接種はその必要性を十分に勘案して実施すること」という指導案内が出ています。

特に、自治体一括購入のところでは、定期接種以外の接種を禁止しています。

実際には、1歳未満児において患者との接触が明らかな場合は、緊急接種の対象になると思います。接触後72時間(できれば48時間)以内に麻疹ワクチンを接種することで発症を阻止できるのは周知のことと思います。
その必要性が出てきたときにどうするか、が難しいところだと思います。
むしろガンマグロブリン接種のほうが有効性が高いかもしれません。
成人に対しては、MRワクチンの不足を考えるなら、ガンマグロブリン接種(もちろん自由診療になりますが)という方法があることも、もっと周知してほしいところではあります。
ただ、血液製剤なので、血液製剤使用に伴う承諾書がいるんですよね…

YosyanYosyan 2016/09/13 19:45 Seisan様

麻疹接触患児も1人ならまだしも、5人とか6人となると難しい判断が迫られる事になります。これも今は難しい判断ですが、もう1週間もすると完全に無い袖は振れないになります。とりあえず厳しい判断に直面しないように祈るばかりです。

 >ガンマグロブリン接種のほうが有効性が高いかもしれません

血液製剤の同意書の問題もありますが、自由診療のコストの問題も出てくる気がします。ガンマグロブリンなんて長い間、触れもしてませんからアレですが、お安くなかったような。。。

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2016-09-10 麻疹アウトブレイクとワクチン本数考

麻疹定期接種率

厚労省HPの麻しん風しん予防接種の実施状況から2008年度から2014年度までの実績を掘り起こしてみました。

年度 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014
1期 接種対象者 1099696 1091349 1091098 1080996 1076242 1051564 1047926
MR 1036271 1020829 1043815 1030193 1049423 1004521 1010193
麻疹単独 511 290 213 158 137 107 117
接種率 94.3 93.6 95.7 95.3 97.5 95.5 96.4
2期 接種対象者 1155479 1211024 1105035 1076327 1096271 1102300 1093665
MR 1060813 1034364 1023749 998884 1026618 1024753 1020036
麻疹単独 465 247 192 140 102 79 105
接種率 91.8 92.3 92.2 92.8 93.7 93.0 93.3
3期 接種対象者 1192612 1194878 1200301 1207874 1190773 * *
MR 1014323 1026416 1047049 1064415 1056986 * *
麻疹単独 1018 476 307 312 251 * *
接種率 85.1 85.9 87.3 88.1 88.8 * *
4期 接種対象者 1224084 1213204 1214161 1201664 1235125 * *
MR 943368 932262 956362 977482 1026855 * *
麻疹単独 3225 1629 1144 958 752 * *
接種率 77.3 77.0 78.9 81.4 83.2 * *

麻疹なり風疹がアウトブレイクすると「日本の定期接種率が50%ぐらいしかなく・・・」式の論を立てる人がおられますが、1期で96%、2期で93%ぐらいの接種率があることが確認できます。


ワクチン数

麻疹ワクチンはMRであれ単独であれ「1本 = 1人」ですから計算しやすいのですが、調べ出すのが厄介なのが製造本数です。これは幸いなことに一般社団法人日本ワクチン産業協会「2015ワクチンの基礎」に2014年度までのデータが掲載されていましたので計算が可能になります。麻疹ワクチンの使用用途は、

  1. 定期接種に使用
  2. 自費接種に使用

こうなりますから、

年度 MR(万本) 麻疹単独(万本) 自費合計

(万本)

製造本数 定期接種分 自費使用分 製造本数 定期接種分 自費使用分
2008 469.5 405.8 63.7 31.1 0.5 30.6 94.3
2009 441.5 401.4 40.1 47.5 0.3 47.2 87.3
2010 434.5 407.1 27.4 15.2 0.2 15 42.4
2011 475.3 407.1 68.2 18.6 0.2 18.4 86.6
2012 386.3 416.0 -29.7 12.5 0.1 12.4 -17.3
2013 389.7 202.9 186.8 25.3 0.2 25.1 211.9
2014 227.5 203.0 24.5 15.6 0.2 15.4 39.9

2013年度の自費接種分が突出していますが、これは2012年度から始まった風疹のアウトブレイクの影響で接種者が増え増産した影響です。風疹アウトブレイクの影響で注目したいのは増産数だけではなく、2012年度の自費接種分がマイナス17.3万本になっている点です。もちろん無から有が生じる訳でなく、前年度製造分を使った訳ですが、逆に考えれば17.3万本は例年なら消費期限切れで廃棄されていた分とも考えられます。ここで2012年度と2013年度をハズレ年と考えて平均を取ると45万本になり、このうち15〜20万本ぐらいが接種されずに廃棄されていたとしたら、

  • 通常年の自費接種分は50万本弱
  • そのうち実際に接種されるのは30万本前後
  • 廃棄分が15〜20万本

今回のような麻疹アウトブレイクが起こり、接種希望者が全国で通常年より10万人ぐらい増えるとワクチンは払底します。もう少しいうと、麻疹ワクチンも年度初めに全量がドカンと出来上がる訳でなく、年に3回ぐらいに分けて出荷されています。年間トータルでは20万人ぐらいのキャパシティがあっても、瞬間最大風速で3〜4万人でも接種希望者が増えると容易に枯渇します。

それと流通は1万本需要があるところに1万本供給しただけでは円滑に安定供給できません。需要より多い供給が必要で、それを考えるとたとえば関西全体で突発的に1万人の需要が増えただけでパンクしてしまう事も容易にありうるってところでしょうか。


メーカー事情

現在麻疹ワクチンを製造しているのは微研・武田・北研の3社ですが、このうち北研は2014年に製造したMRワクチンのうち3つのロットで有効期限内に麻疹の規定力価を下回る問題を起こしています。この対策ために現在もMRワクチンを出荷できていません。そのため残りの2社で北研の不足分をカバー生産しています。そのために去年から基本的に品薄状態になり、問屋からの出荷制限が延々とかかっています。これに熊本地震の影響が加わります。化血研は熊本県内に工場を有しており、地震の影響を強く受けています。化血研はMRワクチンは作っていませんが他のワクチンについては、同業他社がカバー生産しています。このために日脳ワクチンもかなりの品薄状態になっています。軽くまとめますと、

    北研のMR分+化血研のワクチン分のカバー生産で他社の設備に余力が乏しい

ここにインフルエンザ・ワクチンの生産が加わります。化血研はなんとか出荷するとしていますが、生産時のプランでは化血研抜きで需要を賄おうであったと聞きます。それでも今年のインフルエンザ・ワクチンは例年より少なめになっているようですが、インフルエンザ・ワクチン増産のためにもワクチン・メーカーは目一杯工場を稼働させているとして良いかと思います。つまりってほどではありませんが、

    現在は麻疹ワクチンを増産する余力に非常に乏しい状態

2013年度の風疹アウトブレイクの時は前年度から風疹流行の兆候はあり、さらに2012年度までMR3期・4期を生産していましたから、この分を2013年度も継続生産させてなんとか150万本ぐらいの供給上積みが出来たと私は見ています。しかし今年の麻疹アウトブレイクに関しては、ワクチン生産事情がただでも逼迫している上で起こったので「お手上げ」ってところです。


ワクチンは枯渇しています

当院でも9月早々に、

    次の納入分で今月の分は終了します。

地域差はあるようですが、かなり広範囲の地域で突然という感じでMRは供給されない状態になっているようです。そうなるのはワクチン事情を考えると「またか」ぐらいなんですが、NHK news webより、

関西空港を中心にはしかの感染が広がり、ワクチンの接種を希望する人が増えていることから、厚生労働省は、就学前の乳幼児を対象にした定期接種のワクチンが不足するおそれがあるとして、全国の自治体や医療機関などに、定期接種に必要な量のワクチンを事前に確保するよう通知しました。

厚生労働省などによりますと、8月以降、関西空港の従業員や空港の利用者などおよそ40人に、はしかの感染が確認されました。このため、大阪府内の20代から30代を中心に、ワクチン接種を希望する人が増えているということです。

厚生労働省は、今後も感染が拡大して、ワクチン接種を希望する人がさらに増えると、就学前の乳幼児を対象に2度行っている定期接種のワクチンが不足するおそれがあるとして、全国の自治体や医療機関などに定期接種に必要な量のワクチンを事前に確保するよう通知しました。

厚生労働省は、感染拡大を防ぐには、免疫のない乳幼児への定期接種を計画どおりに進めることが重要だとして、今後、自治体のワクチンの接種状況に応じて、メーカー側と供給量を調整していくことにしています。

いくら予防接種事業が市町村依存だからといってワクチン確保をする主体が「自治体や医療機関」はなかろうってところです。ワクチンの流通は、

    メーカー → 販社 → 問屋 → 医療機関

医療機関は問屋からワクチンが入ってこないのなら販社、いやメーカーに乗り込んで直談判しろとでもいうのでしょうか。自治体は自分の地域を通るワクチン輸送車を襲撃してでも自分の自治体分のワクチンを確保せよと言っておられるのでしょうか。当院でも手持ちのワクチン本数に対する予約は既に終了しています。後は10月にあるとされる次回の納入まで、いくらお願いされても無い袖は振れません。そう、厚労省が最も懸念する定期接種への影響が「不足する怖れ」ではなく現実に出ています。厚労省の感染対策の長年のツケに対してどうこう言うと長くなりすぎるのですが、現在のMR不足のツケまで

    通知を出しているのにワクチン確保が出来なかった自治体や医療機関に責任がある

厚労省とは「そういうところである」のは良く知っているとはいえ、堪忍してくれの世界だと思っています。

かなこかなこ 2016/09/10 22:28 はじめまして、突然失礼いたします。
私、2歳児と7ヶ月児の2人の子を持つ、関東在住の者です。
質問なのですが、麻しんの予防接種を、7ヶ月児が打つことに何か問題はありますでしょうか?
麻しんは1歳未満でも感染するようなので、自費での予防接種を考えていますが、何かデメリットはありますでしょうか。ネットで調べても、市役所や、小児科に聞いても、明確な答えが得られませんでした。かかりつけの小児科では、いま流行っているのは関西だし、濃厚接触がなければ感染しないから大丈夫、と言われたものの、これから関東にも拡大の可能性はあるわけで、早めに対策ができればと思っています。
お手数おかけしますが、ご意見伺えれば幸いです。

YosyanYosyan 2016/09/11 10:57 かなこ様

レスになりそうな内容を9/11付のエントリーで上げてみました。宜しければ参考にして下さい。

luckdragon2009luckdragon2009 2016/09/11 11:33 ブログでは、お久しぶりです。

国産が生産切迫するのは予想されているので、成人接種は輸入版で行う処もあるようです。私はこの機に、輸入版MMR(おたふく/風疹/麻疹)を接種してきました。

特に、風疹、おたふくについては、私は接種歴自体がなかったので、やっとで目的を果たせたかも。(元々、風疹を接種予定で、色々あって接種できないでいた。)

luckdragon2009luckdragon2009 2016/09/11 11:36 流石に、小児には国産並みの医療補償のない輸入版はちょっと辛そうですよね。
まあ、これはポリオの不活版が国産になかった時も、同じ問題が存在してたのですが。

luckdragon2009luckdragon2009 2016/09/11 12:29 かなこ様

医療機関で不適切な表現を使ったのか、感染程度に誤解が見られるようです。デマ元になりかねないので訂正を入れておきます。

> 濃厚接触がなければ感染しないから大丈夫、
不安にさせたくないのですが、麻疹発症者との感染経路は空気感染であり、非常に強い感染力を持ちます。

> http://idsc.tokyo-eiken.go.jp/diseases/measles/
///
空気感染が主たる感染経路ですが、その他に、患者の咳やくしゃみに含まれるウイルスを吸い込むことによる「飛まつ感染」、およびウイルスが付着した手で口や鼻に触れることによる「接触感染」もあります。
///
感染力はきわめて強く、麻しんに対する免疫を持っていない人が、感染している人に接すると、ほぼ100%の人が感染します。
///

YosyanYosyan 2016/09/11 12:31 luckdragon2009様

輸入するには当院の事務能力が・・・どれぐらい小児に自費MMRの需要があるかわかりませんし、MRワクチンの供給の展望も不明です。そりゃ、あれば誰でも公費のMRを接種するわけでして、来月にそれなりに供給が行われれば不良在庫と化します。。繁忙事情からいえば来月にはflu接種と4月から待っているHBVが乗っかってきますから、輸入物についてはチョットというところです。

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