新小児科医のつぶやき

2017-01-05 長篠の合戦ふたたび:やっと合戦本番

信玄の死から長篠の合戦までの経緯を追うのに2回を費やしましたが、やっと合戦に取り掛かります。

勝頼の進攻路

まずは甲陽軍鑑より、

勝頼公信州より遠州平山越を御出あり、三州うりと云う所へ御着被成

土地勘が乏しいところなので難儀しましたが、どうもこういう事のようです。

信州から二股城に進んだ勝頼は浜名湖の北岸を通り、野田城方面に進んだようです。二股城から長篠城に至るルートは他にも井伊谷を通り伊平城、柿本城を通るのもあり、信玄西上作戦の時には山県昌景が両城を落としていますから、確実に存在するはずです。こちらならダイレクトに長篠城に着きますが、勝頼は南寄りのルートを取ったとなっています。もちろん勝頼の別動隊が通った可能性もありますが、これ以上はわかりません。勝頼が平山越を通ったのなら気になるのは野田城です。

野田城は信玄が最後に攻め落とした城として有名ですが、通説では天正2年に徳川が奪還したとなっています。この時に長篠城も奪還しているのですが、そうであれば勝頼も野田城をまず攻め落とすのが常道のような気がします。そうでなきゃ、わざわざ平山越をする理由がありません。ここについてはwikipediaより、

なお近年では元亀2年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている。

野田城が落とされたのは勝頼の長篠の時の可能性の指摘です。この辺はこれだけの情報ではなんとも言えませんが、ここでは勝頼が野田城を占領したんじゃないかぐらいにしておきます。


長篠城包囲網

長篠城は500で守っていたとされます。これに対する武田の布陣はこんな感じであったようです。長篠設楽原の戦いから引用しますが、

地形図に落とそうと思いましたが、どうにも出来なかったのでゴメンナサイ。長篠城の構造についてはwikipediaより、

長篠の戦いのころの構造について言うと、本丸のすぐ北側には堀が掘られ、その北側に二の丸、そのすぐ北側にまた堀が掘られていた。二の丸外側に三の丸、弾正曲輪などがあり、本丸の西側に服部曲輪があり、野牛曲輪なども築かれ、城域を北側を囲むように木柵が作られていた。川と断崖のおかげで南と東西の守りは堅かったが、北側は(台地状に)平地が広がっておりそのままでは守りが弱かったので、そちらにはしっかりとした堀が掘られていたのである。

北側に地形的な弱点があったようで、そこには人工施設を設けていたようです。もう少しリアルな推測図を探してたら長篠城と周辺遺跡に、

豊川と宇連川に挟まれた三角地帯が長篠城であったようです。武田軍は城の北側に布陣しているだけでなく、豊川や宇連川の対岸にも陣を置いていたようです。


信長の対応

信長公記より

五月十三日、三州長篠後詰として、信長、同嫡男菅九郎、御馬を出だされ

これだけじゃサッパリわからないのですが、勝頼が長篠城攻略に取り掛かったのが5/8となっています。一方で勝頼が甲府を出陣したのが4/5となっており、二股に入城したのは4月中旬から下旬ぐらいかもしれません。この辺の日付はハッキリしないのですが、浜松城の家康からすれば、野戦で勝てない武田の大軍が二股城におり、これから遠江を暴れまわるのは確実ですから信長に援軍の急使を派遣してもおかしくありません。甲陽軍鑑では二度の使者で断られ、三度目の使者で勝頼と和議を結び遠江を譲り、その代わりに尾張に攻め込むと脅して信長がようやく腰を上げたとなっています。

どうも甲陽軍鑑の話は脚色がありそうなんですが、信長が武田軍の遠江進攻に際し即応しなかったのだけは事実してあり、家康が何度も催促の使者を送ったぐらいはあったとしても良さそうです。ただなんですが前にも考察した通り、織田は当時でも超大国であり大軍を動員できますが、現実的には目一杯の手を周囲に広げており、大軍を編成するには各方面軍からの引き抜きが必要です。この方式は織田方から決戦を挑むときは問題は少なくなりますが、相手が予想外の動きをした時にはどうしたって時間がかかります。

たぶんと言うか、なんとなくですが信長は「行く、行く」と家康の使者に答えながら、兵が集まるのを待っていたぐらいを想像します。実数については毎度のことながら不明ですが、当時の織田家であっても3万の大軍を集結するには、どうしたって時間がかかるだろうというところです。さらに信長公記です。

五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次日、御逗留。十六日、牛窪の城に御泊り。当城御警固として、丸毛兵庫頭・福里三河守を置かれ、十七日、野田原に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷、極楽寺山に御陣を置かれ、菅九郎、新御堂山に御陣取

安土城は天正4年ですから信長が出陣したのは岐阜だと思うのですが、さすがは織田軍は早いですねぇ、翌日には岡崎に着いたとなっています。5/17に野田原に野陣、翌日に「推し詰め」ってありますが、武田方になっていた野田城を奪還したのも含むかもしれません。これは野田城が徳川方ならば野陣する必要はないですから。この辺は武田方も戦わずに撤収したのも十分にあり得ます。なんとなく明知城の時の事を思い出しますが、信長は長篠城を包囲する武田軍に直接襲い掛かるというより、武田軍を圧迫する位置に陣を構えたぐらいにも確かに解釈できます。

5/18には極楽寺山に進出して

志多羅の郷は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段々に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原へ打ち上げ、武田四郎に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵を付けさせられ、彼のあるみ原は、左りは鳳来寺山より西へ太山つゞき、又、右は鳶の巣山より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川、山に付きて、流れ侯。両山北南のあはひ、纔かに三十町には過ぐべからず。

有名な馬防柵を作るのですが、勝頼は

川を前にあて、武田四郎鳶の巣山に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを、長篠へは攻め衆七首差し向け、武田四郎滝沢川を越し来なり

長篠城に抑えの兵を置いて接近してきたとなっています。次のところが信長公記でも解釈の分かれるところのようですが、

今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損せず侯様に、御賢意を加へらる。

武田軍が近づいてくれたのを天与の好機としています。これは裏を返せば武田軍が近づかずに帰国なりしていれば、にらみ合いだけで決戦に至らなかったとも解釈できます。もう一つ気になるのが

    武田四郎鳶の巣山に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを

これは太田牛一がそう感じたのか、信長がそう言ったのか、はたまた織田軍の当時の声(長篠後も含めて)がそうであったのか確かめる術もありませんが、武田軍が鳶の巣山に本陣を移すのを非常に嫌がっていたと素直に解釈できます。いうまでもないですが、勝頼が医王山から鳶の巣山に本陣を移しても長篠城がすぐに落ちる訳ではありませんので、別の意味で嫌がっていたと解釈するのが妥当です。さてさて何を織田軍は嫌がっていたのだろうです。


設楽原と鳶の巣山と長篠城

おそらくなんですが宇連川は豊川との合流地点に向かうほど高い崖を形成していたで良いと思いますが、

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これは現代地図ですが武田軍の姥ヶ懐陣地と君が臥所陣地の間に道があります。この道はおそらく織田軍が鳶の巣山奇襲に用いたルートと考えていますが、織田軍は鳶の巣山の武田軍を追い落とした後に長篠に入城しています。つうことはこの辺りに渡河地点があったんだろうといえます。武田軍からしてもそうで、この辺に渡河地点がないと鳶の巣山とそれに連なる山々に陣を置く意味が乏しくなります。とにかく現場に行った事がないので推測にしかすぎませんが、鳶の巣山の戦略的意味は川中島で謙信が妻女山に登って海津城を圧迫したのと類似する格好になるってところでしょうか。姥ヶ懐陣地と君が臥所陣地の間の道は海津城でいうと地蔵峠みたいなもので、長篠城を完全包囲するには斜断が必要なルートであったぐらいです。

史実では武田軍主力が豊川を渡り設楽原に近づき、長篠城包囲の軍勢を減らしたので、その隙をついて鳶の巣山に信長は奇襲攻撃をかけるのですが、鳶の巣山に武田軍本陣があれば奇襲がかけられたかは疑問となります。鳶の巣山本陣が健在なら武田軍は設楽原に進みませんから、可能性の一つとして長篠城を包囲する武田軍と、設楽原に馬防柵を作って籠っている織田徳川連合軍のにらみ合いに展開する可能性があります。そうなった時の問題は

    長篠城

武田軍は攻めあぐねてはいますが城内が危機的なのはいうまでもありません。鳥居強右衛門のエピソードで援軍が来ることがわかり士気は上がったでしょうが、wikipediaより、

兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。

士気だけで空腹は耐えられないってところです。織田軍の来援の重要な目的の一つに長篠城救援があります。そのために設楽原に巨大な陣地を作り武田を圧迫したで良いとは思いますが、それでも武田が包囲を解かないと時間の問題で長篠城は落ちます。もし長篠城を救援するのなら設楽原陣地から長篠城に織田徳川連合軍は進まざるを得なくなり、せっかく築いた馬防柵は役に立たず、平地で武田軍と戦う必要が出てきます。川中島で茶臼山から海津城に信玄が敵前横断したのに少し似る状況になります。

ただなんですが信長がそこまでのリスクを冒すかの問題が出てきます。信長の武田との決戦プランは馬防柵を構築した陣地での武田軍の迎撃です。それに勝頼が乗ってくれなければ無理に決戦を行わなければならない必然性はありません。決戦は勝敗も重要ですが、勝ったとしても被害が大きいと後の影響があります。織田軍が乱戦の末になんとか武田軍を押し切ったとしても、その損害が大きければ各方面軍の弱体化に連動します。そうなると信長が取りそうな行動はにらみ合いながら長篠城が落ちるのを設楽原で待つぐらいでしょうか。

そうですねぇ、家康に悔やみごとの一つでも言い、野田城の強化でも指示しながら岐阜に帰るぐらいです。ここでも信長にはもっと嫌な展開があります。長篠城を手に入れた勝頼が甲府に帰らず、さらなるにらみ合いに持ち込むことです。そんな状態で家康を置いてさすがの信長も帰りにくくなります。つまり織田三万の大軍が設楽原に釘づけ状態になり、信長が一番困ります。そうなれば信長は相当不利(家康に取って)な和議を呑んででも帰る工作をやるか、強引にでも豊川を挟んでの決戦を行うかですが、そこまでの展開になれば遠江を勝頼に譲渡しても帰る気がなんとなくします。


鳶の巣山奇襲

信長は勝頼が鳶の巣山籠城の選択をしなかった事を見て、逆に鳶の巣山を奪い長篠城を救援する作戦を実行します。

坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、?びに信長の御馬廻鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻、のりもと川を打ち越え、南の深山を廻り、長篠の上、鳶の巣山へ、五月廿一日、辰刻、取り上げ、旗首を推し立て、凱声を上げ、数百挺の鉄砲を焜と、はなち懸け、責め衆を追つ払ひ、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋々々を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて侯間、癈忘致し、風来寺さして敗北なり。

どうもこんな感じであったようです。

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奇襲は見事に成功し、武田軍の長篠城攻撃隊は崩れ潰走したとなっています。信長公記を読みながら気づいたのですが、信長公記には織田軍が持ち込んだ鉄砲の数を明記してあります。まずは鳶の巣山奇襲に500丁とありさらに、

兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近々と足軽を懸けられ、御覧じ侯。

鳶の巣山に向かった500丁はそのまま長篠城守備に回されていますから、長篠の決戦で使われたのは1000丁となっています。奉行が5人ですから200丁の鉄砲部隊が5つってところでしょうか。そうなると信長は1500丁の鉄砲を長篠に持ち込んでいますが、そのうち1/3の500丁を鳶の巣山奇襲に用いたことになります。つうか鳶の巣山攻略に用いられた鉄砲は織田の500丁だけではありません。

    家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列

徳川軍の鉄砲も動員されています。家康が設楽原の時に何丁の鉄砲を保有していたかはわかりませんでしたが、300丁ぐらいはあっても不思議ありません。織田軍が500丁出したなら、家康も100丁ぐらいは提供しないとバランスがとりにくいところです。長篠の合戦の形式上の主役は徳川ですからね。そうなると鳶の巣山攻略に用いられた鉄砲の数は600丁以上、下手すりゃ700丁になっていたかもしれません。それだけの鉄砲隊に雨あられと撃ち込まれたら武田の守備隊もこらえれなかったぐらいでしょうか。裏を返さば、それぐらい鳶の巣山奇襲を信長が重視した傍証になるかもしれません。


勝頼の決断

鳶の巣山の奇襲は「やられた」って感じでしょうか。落城寸前の長篠城は息を吹き返した上に武田軍の退路を塞ぐ格好になります。前には織田・徳川連合軍が柵を構えて頑張っています。こういう状況に追い込まれて通説では武田の重臣の意見は割れたとなっています。簡単には、

  • それでも帰国する
  • 主力は無事であるから正面の織田徳川連合軍を撃破する

勝頼がどちらを選んだかは御存じのとおりですが、なんとなく勝頼は心情的に帰国する選択枝がなかった気もしないでもありません。ここまで勝頼は東美濃、高天神城と勝利を手にして求心力を高めていますが、いうてもまだ3年目です。ここで帰国したら「逃げた」と言われるのは間違いないですし、「勝頼。頼むに足らず」の評価も出るでしょう。つまりは家督を継いでから築き上げた求心力を失う懸念です。そこを耐えるのが名将への道なんですが、父信玄の重すぎる名前が勝頼の判断を左右した気がします、帰国意見は信玄以来の重臣派であったとされますが、勝頼の目には重臣たちの顔に

    ほら見たことか!

こう書いてあるように見えたぐらいを私は想像します。運命の決戦に勝頼は歩を進めることになります。


合戦の実相を想像する・まず織田軍

これが有名な割にははっきりしないところがあります。様々な説があるのですが、一つには鉄砲の音に武田の騎馬隊が驚いたがあります。この点は馬は臆病な生き物だからで納得できそうですが、よくよく考えなくとも鉄砲は織田軍の専売特許ではありません。また馬が鉄砲の音に驚いて役に立たなくなるのなら、長篠より大量の鉄砲が使われた関が原なんてどうなるんだがあります。そもそもなんですが武田軍にも鉄砲隊はあり長篠でも300丁はあったとされます。さらにさらに川中島合戦の頃にも武田軍に鉄砲は既にあったとされます。武士に騎馬は重要ですから、鉄砲の音に驚かないような訓練(どんな方法かはわかりませんでした)がされていたと考えるのが妥当です。ですので鉄砲の爆音説はまず否定します。

馬防柵自体もこれほど大規模なものが以前にあったかどうかは自信がありませんが、当時の野戦築城では必ずしも珍しいものではなかったとされます。これもそもそも論になるのですが、武田軍は長篠城から移動した勢いでそのまま織田軍に突撃した訳じゃありません。連吾川を挟んで3日間ぐらいはにらみ合いをしています。当たり前ですが馬防柵をその目で見て観察しているわけです。見たこともない馬防柵に訳も判らずに突撃した訳じゃないと考えます。


大量の鉄砲が効果を発揮したであろうことは否定はしませんが、通説の様の馬防柵の前で練雲雀状態で武田軍が為す術もなく壊滅した可能性を考えてみます。まず鉄砲の数は信長公記で1000丁、これに徳川軍の200丁ぐらいがあったとして1200丁です。設楽原の両軍の配備も合戦中の移動があったりして微妙なんですが、こういう感じであったの説もありました。

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当初極楽寺山にあった織田徳川軍本陣は、武田が決戦に臨んでくるとなって信長は茶臼山、家康は高松山に陣を移したと信長公記でもなっていますが、私が注目したいのは織田徳川連合軍の配置です。織田軍と徳川軍は基本的に別であったとして良いはずです。「別」とは我ながら拙い表現ですが、姉川を思い出せば参考になります。姉川の時の織田徳川連合軍の配置はwikipediaより、

織田軍が右翼担当、徳川軍が左翼担当でキッチリ分かれています(浅井朝倉連合軍もそうです)。長篠も当然ですがそうだったはずです。具体的には高松山の家康本陣から南側が徳川軍担当、北側が織田軍担当です。だからこそ信長本陣の茶臼山はあんな北側に寄っていても問題ないぐらいでしょうか。姉川のエピソードもどれだけ信憑性があるかは言い出したらキリがありませんが、信長は家康軍の兵数の少なさから織田から援軍を出すと提案したところ、ほんのわずかしか望まなかったとされています。

姉川は信長への援軍でしたが、長篠は家康に対する援軍です。そうであれば家康は信長の援軍を基本的に断ったと見ても良いんじゃないかと考えています。つまりは徳川軍だけで自分の担当部署を守ったって事で、何が言いたいかですが、鉄砲隊の配分つうか信長からの援助を受けなかった可能性は十分にある気がします。馬防柵は約2kmぐらいですが、おおよそですが織田が1km、徳川が1kmぐらい担当しています。織田軍に1000丁あれば、1mに1丁の密度になります。

火縄銃ではお互いの間隔を1mなんて距離で射撃するのは危険だそうで、3mぐらいは距離を空けるのが常識だったそうなので、織田軍は戦線にビッシリ配置してもあり余るほど、いや6割以上は余るぐらいになります。そこまで多い鉄砲を有効活用するために有名な三段撃ちが出てくるのかもしれません。設楽原の地形を見ていると3人で1セットの通説もあったかもしれませんが、それより雛壇のように縦三列で射撃を浴びせた可能性もあるんじゃないかと思った次第です。織田軍の射撃の凄まじさの一端は甲陽軍鑑にもあります。

真田衆かかって柵を一重やぶるとて、大方討死仕り候、或ひは手負引のき候、中にも真田源太左衛門兄弟ながら深手負則ち死す

真田隊が突撃したら、柵を一重破る間に壊滅状態に陥ったとなっています。織田軍の戦い方も甲陽軍鑑にあり、

上方勢は徳川衆の如く柵の外へ出さるゆへ

徹底して柵の中からの狙い撃ちに徹している様子がうかがえます。こういう戦法を駆使することで信長公記にある、

御身方一人も破損せず侯様に、御賢意を加へらる。

こういう状態を実現しようとし、それに近い効果をあげた可能性があります。なんとなく本願寺戦の雑賀鉄砲隊との戦いで学んだ匂いもしますが、どうなんでしょう。


合戦の実相を想像する・徳川軍

徳川軍にも鉄砲はあったでしょうが、織田軍に較べると遥かに少なく、織田軍みたいな芸当は無理だった感じがあります。甲陽軍鑑の

上方勢は徳川衆の如く柵の外へ出さるゆへ

この部分は織田軍が柵の中に籠る戦術を取ったのに対し、徳川軍は柵の外に打って出ていたと素直に解釈できます。有名な長篠合戦屏風でも、

この描写は徳川軍が馬防柵の外で戦っていたことに基づくものではないかと思われます。鉄砲隊まで柵の外に出ていたかどうかはわかりませんが、わざわざ柵外で戦う様子を描写しているのは「それぐらい有名だった」と取れないこともありません。当然ですが甲陽軍鑑の戦闘描写も変わります。

家康衆六千ばかりを、山県三郎兵衛千五百にて柵の内へおひこむ、されども家康強敵のゆへ、又くいつき出る、山県衆は味方左の方へ廻り敵の柵の木いはざる右の方へおしだし、うしろよりかかるべきとはたらくを、家康衆みしり、大久保七郎右衛門てうのはの差物をさし、大久保二郎右衛門金のつりかかみのさし物にて、兄弟と名乗て、山県三郎兵衛衆の、小菅五郎兵衛、広瀬郷左衛門、三科伝右衛門此三人と詞をかわし、追入おひ出し九度のせり合あり

甲陽軍鑑から当時の状況を想像すると、

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高松山の南側は北側が丘が続くのに比べると平坦地になっています。山賀昌景はここの突破を狙ったようです。これに対し家康も柵から打って出たようですが山県隊に押しまくられて柵内まで侵入されたぐらいとまず読みます。ひょっとしたら徳川軍は総崩れ状態で柵内への付け入りを許したのかもしれません。山県隊は柵内に侵入した後に北側に転じ家康本陣の背後に出ようと動きますが、そうはさせまいと徳川軍も予備隊を次々に投入したぐらいの様子を想像します。非常な激戦になったと思われますがこの局面で勝負を分けたのは、

山県三郎兵衛くらの前輪のはづれを鉄砲にて後へ打ぬかれ即ち討死あるを、山県被官志村頸をあげて甲州へ帰る

どうも乱戦の中で山県昌景は鉄砲で撃ち抜かれて戦死したようです。当時の軍制では直属の大将が戦死すれば部下は戦う意味を失いますから、山県隊は昌景の戦死をもって戦場から引き揚げたと書かれています。甲陽軍鑑の描写を読む限り三段撃ちもクソもありません。いわば普通の合戦の様子を描写しているだけで、家康にとって幸運だったのはタマタマ山県昌景が鉄砲で戦死してくれて、猛威を振るっていた山県隊が撤退してくれたぐらいでしょうか。

山賀昌景と並び武田四天王と呼ばれた内藤昌豊は中央を担当していたとされ、家康本陣に襲いかかり三重の柵を突破したとなっています。猛攻撃をしかける内藤昌豊を本多忠勝が槍を揮って奮戦の末に撃退したと本多家武功開書にあるそうですが、ここにも鉄砲隊による練雲雀状態についてはとくに記されていない感じもします。鉄砲もあったんでしょうが、織田軍の様に雨あられと浴びせかける戦法は徳川軍には無理で、いわゆる普通に陣地戦を行っていたぐらいに私は読めます。


合戦の実相を想像する・重臣の戦死

まず山県昌景、真田信綱真田昌輝は確実で、信長公記にある

西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。

これは小幡信貞の事を指すそうですが、戦死したのは信貞ではなく弟であったとされています。甲陽軍鑑より

唯今討死なりとことはりて、敵出ざる故、自身かかって、柵を破り候とて、土屋右衛門尉其歳三十一にて則ち討死也

これは土屋昌続のことで、wikipediaでは二重目の柵を破ったところで一斉射撃を浴びせられたとなっています。wikipediaには他に安中景繁、望月信永、米倉丹後守の名がありますが、戦死はしているようですが鉄砲によるものかどうかは不明で、さらに他には信長公記に

討ち捕る頸の見知分、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。

これは大変でまずすぐにわかるのが、

    山懸三郎兵衛、西上野小幡、さなだ源太左衛門、馬場美濃守

横田備中は勇将横田備中守高松の婿養子で原美濃守の長男だそうです。土屋宗蔵は土屋昌続の弟で天目山で殉死したはずですが別人かどうかは不明、甘利藤蔵は甘利虎泰の息子の信忠になるはずですが、どうも長篠には参加しておらず甘利信康か信頼だろうとされています。高坂又八郎は高坂弾正の一族の高坂昌澄、なわ無理介は名和宗安、川窪備後は河窪信実、仁科は油川信次ぐらいが候補に出ますが不明、興津も不明、竹雲は岡部竹雲斎、恵光寺は高森恵光寺快川で武田信重の子孫、根津甚平は根津宮内太輔元直で滋野の一族、土屋備前守は異説も多いですが土屋貞綱、和気善兵衛は和気宗勝らしいみたいです。このうち

    高坂昌澄、名和宗安、河窪信実、和気宗勝

この4人は鳶の巣山の奇襲関連で討死のようで、岡部竹雲斎もその可能性がありますが、一説では鳶の巣山は逃げ延びて設楽原で討死したともなっています。他にもwikipediaによると三枝昌貞、五味貞成、和田業繁、飯尾助友が鳶の巣山で討死となっています。こうやって確認すると鳶の巣山戦だけでもかなりの損害を武田軍は蒙っていそうな気がします。


勝頼に勝機はあったか

これをやらないとムックは面白くないのですが、案外あった気がします。もちろん後世の後出しジャンケン満載ですから、その点はご容赦願います。長篠の合戦を大雑把に単純化すると、

  1. 長篠城救援のために織田徳川連合軍が設楽原に防衛拠点を作った
  2. これを長篠城攻略戦中の勝頼が襲いかかり惨敗を喫した

まずは最上策は信玄以来の重臣が進言したという帰国策です。桶狭間の信長ではないのですから、別に決戦が絶対不可避って状況ではないってところです。長篠城を落とせずに帰国したら、勝頼の求心力にキズは付くかもしれませんが、それはそれ、勧めたのが信玄以来の重臣ですからある程度のfollowは期待できます。少なくとも長篠で惨敗を喫するのと較べてキズの大きさ、深さは比較するのもアホらしいぐらい差があります。もう少し工夫するのなら、軍議の開口一番で余裕と確信に満ちた表情で帰国を宣言してしまえばさらに効果的です。そうすりゃ、ヒョットしたら重臣たちは信玄の面影を勝頼に見たかもしれません。

しかし歴史は決戦に舵を取ってしまうのですが、この決戦もバカ正直に設楽原の織田徳川連合軍の陣地に突撃しなかったらと思えてなりません。この辺は蓋然性の問題になるのですが、長篠の決戦で織田徳川方から突撃する選択はあっただろうかの問題があります。信長の設楽原での作戦の基本は

    受けて立って押し返す

こうの気がします。そりゃ1000丁の鉄砲を有効活用するには混戦は拙い訳で、そのために長大な三重の馬防柵を構築して待ち受けていた訳です。信長から設楽原の陣を出て決戦に挑む作戦は毛頭なかった気がしています。となると勝頼が動かなかったらどうするつもりだったんだが出てきます。設楽原の信長作戦の要は「攻めてもうらうこと」で、攻めてこなかったら1000丁の鉄砲隊も、長大な馬防柵も飾り物になってしまいます。信長公記に勝頼が鳶の巣山に居陣していたら云々があるのはその点だと思われます。

鳶の巣山奇襲は酒井忠次の発案の説がありますが、なんとなく信長の作戦としてあった気もしています。信長は設楽原の陣を構築したものの、ここにどうやって勝頼をおびき寄せるかの工夫をあれこれ考えていたはずです。たとえば長篠城を囲んだまま武田軍が動かなかった時です。その時には鳶の巣山を襲撃するのも作戦の一つとしてあっても不思議ありません。ここを織田徳川連合軍が取ると、武田軍の長篠城包囲は宜しくないというか、たぶん鳶の巣山方面から長篠城への入城を武田軍は遮る事が難しくなるだろうぐらいです。

ただ鳶の巣山襲撃は、これをやったら設楽原決戦に持ち込めるというより、長篠城救援と武田軍の帰国を促す策にしかならないので、信長に取ってはあくまでも最終オプションの一つぐらいでしょうか。だから鳶の巣山に勝頼が本陣を移し、守備を強化されると打つ手が狭まってしまうぐらいです。

信長にしたら決戦は三重の馬防柵と大量の鉄砲が秘策であって、長篠城まで動いたら馬防柵は無用の長物になり、鉄砲も使いにくくなります。想定していた有利な条件での決戦が出来なくなれば信長の判断としては「帰る」になるかと思われます。信長が偉大なのは不利となれば判断が非常に素早い点です。あの金ヶ崎の時のようにです。ただなんですが、帰ると言ってもさすがに同盟国の家康の顔を少しは立てないといけません。信長なら家康の面子ぐらい平気で潰しそうな気もしないでもありませんが、その辺は少しは配慮する作戦はやったかもしれません。

何をするかですが、やっぱり鳶の巣山襲撃です。この時に信長にとって理想のシチュエーションは徳川軍から提案してくれて、徳川軍単独でやってもらうことです。成功すれば長篠城救援が出来ますし、失敗すればさすがに長篠城の飢えは限界になるかと思われるので、長篠城を勝頼に渡して「帰る」です。信長にすれば不利な条件があれば「今」勝頼と無理して決戦しなくともチットも困らないわけです。

ここは仮にですが、長篠落城(せずとも)武田軍が帰国したらどうなるかですが、家康にしたら長篠城奪還、さらには二股城奪還を信長に提案するかもしれません。せっかくの大軍ですからそれぐらいの戦果拡大は欲しいところです。しかし信長は勝頼が帰国すれば直ちに岐阜に戻りそうな気がします。つうのも明知城攻防戦を含む東美濃の記憶があるからです。勝頼は真冬に中山道を通って東美濃に攻め込んできた訳ですから、二股城なんかに引っかかればタマランぐらいでしょうか。同盟軍とはいえしょせんは他人の領土の問題で、織田軍だって忙しいぐらいでしょうか。

織田も武田もこの時期に余程有利な条件でもなければ決戦を行わなければならない大局的な状況になく、信長にしたら設楽原の罠に勝頼が乗ってくれれば決戦、自重されれば「また今度」ってところだった気がどうしてもします。勝頼の勝機というか負けないチャンスはただ一つ、

    設楽原の織田徳川連合軍を攻めない

このために重臣が勧めたという帰国策でもエエですし、信長公記にある鳶の巣山に本陣を移して粘るのもアリでしょうし、そのまま長篠城を囲んだまま鳶の巣山を襲撃されて撤退するもアリだった気がします。武田の重臣さえ見抜いていなかったかもしれない気配がありますが、決戦で信長が勝っても甲斐まで追撃する気はさらさらなかったのは、史実の長篠合戦の後を見ればわかります。信長は長篠の時点で甲斐攻略を腰を据えてやる余裕はまったくなかったぐらいです。

つうても、そんな事は史実が出そろってからPCの前で呻吟しているから出せる結論であって、すぐ近くに織田徳川の大軍が迫っている状況で勝頼が決戦に走ってしまったのは仕方がないかなぁ。進む決断より、退く決断の方がはるかに難しいのだけは私程度でもそれなりに理解できるところです。そうなると話はドンドン巻き戻されて、長篠城がもっとアッサリ落城していたらぐらいは挙げても良いかもしれません。長篠城がなかなか落ちなかったのは勝頼が織田徳川を決戦に誘い込むためであったと説は昔からあります。

勝頼が長篠城をどういう意図で攻略しようとしていたかは、今となっては皆目見当もつかないのですが、参考になる情報だけはあります。たいした情報ではないのですが、その前の勝頼の2戦である東美濃と高天神城です。どちらも城を落とせばあっさり帰国しています。長篠城もまたそうであった可能性はあります。徳川を叩けば織田が出てくるのは計算の内ですが、サッと叩いて引き上げたならば織田は出てこないぐらいの観測でしょうか。つまりって程ではありませんが、長篠城から野田城、さらに吉田城に続くラインの構築の一環だったぐらいです。そのラインが出来れば浜松の家康は三河と分断されます。

もちろんそんなラインが出来上がったら家康も困りますし、家康の力が落ちすぎると東にも織田軍の有力部隊を回さなければならなくなり信長にとっても都合はよくありませんので、吉田城を巡るあたりで決戦ぐらいの準備攻撃です。ただそう考えると「いずれ決戦」が勝頼の胸中にあり、長篠で引っかかっているうちに信長が出て来たので決戦に突っ走ってしまったぐらいになってしまいます。決戦に逸り立つ勝頼が長篠を回避するには、どうも長篠城がアッサリ落ちることぐらいしかなかった気がしないでもありません。


歴史の「if」

勝頼の能力の評価は様々ですが、個人的にはかなり優秀な部類に入る気がしています。たとえば景勝とくらべてどうだぐらいです。ただ相手が悪かった気がします。信長の純戦術的才能は信玄や謙信に劣るの評価は良くなされますが、それをカバーして余りある戦略的才能があったぐらいに私は思っています。たとえば信玄と信長が将棋の様にまったく互角の戦力で会戦すれば信玄が勝つ気はします。しかし信長はそういう合戦をやりません。いや桶狭間以降はやらなくなったぐらいです。

信長の合戦は、合戦が本番ではなく、合戦までが本番で、いざ合戦になれば粛々と相手を押し潰すのが基本ぐらいに見ています。もちろん成長拡大期には必ずしもそうはいかない場面もあり、バクチ的な采配もやらざるを得ない局面もありましたが、基本はそうしようと動ているとみて良さそうです。これは弟子の秀吉の戦法をみればよくわかります。秀吉の時代にも信玄なり、謙信と戦えば「どうか」的な話題が出ることもあったそうですが、たしか秀吉は10倍の兵力で押し潰すみたいな返答をしていた気がします。これが信長戦術の基本と思います。これは戦術云うより戦略になりそうです。

設楽原を見返してみると、信長は勝頼をいかに誘い込むかに苦心があったと思っています。上述したようにいくら長大な馬防柵を作り、その中に大量の鉄砲隊を配置しようとも勝頼が来なければ、単なる独り相撲です。これは勝頼に申し訳ありませんが、信玄や謙信なら、そんな罠にのらずに別の手を打っていたと思います。たとえば反転して浜松城を狙うとかです。浜松城を狙うのはさすがに無理でも、二股城まで戻って、そこに有力部隊を配置した上で帰国はあります。ちょうど川中島の海津城みたいな感じです。

信長は勝頼というか、武田家での勝頼の地位を冷静に分析していたのかもしれません。偉大な父の二代目、有力重臣の信玄への陶酔、それに反発してしまう勝頼。考えてみれば信長もそんな環境(もっと悪いかもしれない)で家督を継いだわけですから、血気と面子にこだわる勝頼なら、挑発にのってくれる可能性は低くないぐらいでしょうか。史実では信長が策を弄するより先に勝頼が動いてくれて「天与の好機」といわしめた訳です。やはり勝頼の経験不足が露呈したぐらいに思えます。


ふとふと歴史の「if」を思うのですが、長篠で勝頼が重臣団の意見に従って帰国していたらどうなっていただろうと思うことがあります。一つの可能性は、勝頼の進出方向としてはやはり遠江から三河であり、長篠は回避できても、どこかで別の長篠で同じ運命をたどったの見方です。それも十分に可能性がありますが、長篠と違うのは勝頼も経験を重ねていくことです。なんでもそうですが、実戦の経験数の差は大きなものです。信玄だって無謬の名将ではなく、若いころは手痛い敗戦も経験しています。まだ実質的に3戦目であった長篠と、10戦目ぐらいのどこかの長篠では同じになるかどうかです。この辺は最終的に勝頼の真の器量になってきます。

というのも武田家滅亡は長篠から7年後の天正10年になりますが、この時期に武田家が滅亡してしまったのは織田徳川連合軍の強さと言うより、武田家の自滅に見えます。長篠後の勝頼も立て直しに躍起になったのは記録にもあるようですが、結果としては裏目裏目になり天正10年の自滅に至るぐらいでしょうか。

これが長篠抜きであればどうだったかですが、信長の勢力拡大方針の主体はあくまでも西です。中国の毛利を秀吉に攻めさせていますし、四国征伐軍も本能寺時に集結しています。中国・四国を征したら今度は確実に九州でしょう。そういう基本戦略も秀吉は信長から受け継いでいたと見ても良いかと思います。西を勢力圏に収めた後に、圧倒的な大軍で東に進もうぐらいが基本だったんじゃないでしょうか。そういう目で見れば、信長軍は天正10年時点でまだ備中高松です。四国は準備しているだけで海は渡っていません。

そういう状況で信玄後も綻びを見せない武田攻めを信長が行うとは思いにくいところです。それこそ家康に丸投げして、時々本当にやばくなれば申し訳程度の援軍を送る程度でお茶を濁していたかもしれません。家康にすればたまったもんじゃないかもしれませんが、信長の家康への扱いはその程度の気がします。でもって天正10年は本能寺の年でもあります。武田家滅亡無しで本能寺が起こったかどうかは結論など出ようもありませんが、長年の度重なる信長からの冷遇に切れた家康が光秀になっていたかも・・・この程度で新年の妄想は留めさせて頂きます。

JSJJSJ 2017/01/07 11:49 明けましておめでとうございます。
今年も楽しみにしています。

武田勢は、結果として大敗を喫しましたが、けっこう敢闘していたんだな
という感想を抱きました。
織田・徳川方の動きは、まさに「作戦勝ち」という感じで見事の一言ですが、
こうまで見事だと難癖をつけたい気分になります。
武田にあと百頭馬がいたら負けてたんじゃないの〜?みたいな。

もうちょっと真面目なifしては、旧暦五月といえば梅雨季ですから、
勝頼が決戦を雨の日まで待っていたらどうなっていただろう?
というのはいかがでしょうか。

YosyanYosyan 2017/01/07 13:38 JSJ様

ユリウス暦なら6/29ですから、雨に見舞われなかったのは信長が天運に恵まれていたとしたとしか言いようがありません。ひょっとしたら空梅雨の年だったのかもしれませんが、勝頼が雨を待たなかったのは・・・やはりどこかで鉄砲の威力を軽視していたのかもしれません。つうか織田軍の方が鉄砲が多いとは思っていたと推測していますが、1000丁は推測を越えていたのかもしれません。

武田の騎馬武者の数ですが500頭ってな記録がどこかにありました。正直なところ少ないと思ったのですが、これとて推測ですから良くわからないところです。あえて合戦に入ってからの武田軍の勝機を考えると、南部戦線の対徳川戦でしょうか。山県昌景の甲陽軍鑑での奮闘が本当かどうかは言い出したらキリがありませんが、もう少し押すことができたら崩せたんじゃなかろうかです。馬防柵を突破して後ろに回り込めれば挟撃体制になりますから、史実とは違う展開が起こったと推測できます。

ただあれこれ情報を集めると武田軍は数の多い織田軍に厚く配置していた可能性が高そうで、さらに「どうも」ですが典厩信豊も、逍遥軒信廉も積極的とは言いにくい動きに終始しています。山県隊と内藤隊だけでは限界があったぐらいです。甲陽軍鑑を読んでいて面白かったのは長篠後に高坂弾正が5カ条の申し入れを勝頼に行ったとなっています。その5カ条目は典厩と梅雪に切腹を求めるものでした。5カ条の申し入れ自体も信憑性を言い出せばキリがありませんが、長篠時点でも武田一族の間に不協和音があったのかもしれません。

信長の作戦は見事でしたが、調べ直すと勝頼にも綾は幾つもあった気がしています。微妙な綾を巡る判断がすべて裏目になったのが勝頼で、そうでなかったのが信長ぐらいでしょうか。どうしても歴史は新しい時代を信長に託していたぐらいにしか言いようがない気がします。

YosyanYosyan 2017/01/07 14:12 そうそう勝頼が雨を待たずに決戦に走った理由ですが、鳶の巣山戦の結果であったかもしれません。勝頼は長篠城包囲隊を置いて設楽原に進んでいますが、この時に兵糧は長篠城包囲隊に残していたとしても不思議ありませし、それこそ鳶の巣山に置いていた可能性もあります。織田徳川軍は鳶の巣山を落としただけでなく、長篠城包囲部隊の陣やも焼き払っていますから、武田軍の兵糧が2〜3日単位ぐらいしか残っていなかった可能性はあります。つまりは設楽原でこれ以上の対峙は難しかったぐらいです。

BugsyBugsy 2017/01/08 11:45 あけましておめでとうございます。

実は長篠の戦いでの現地調査の報告書があります。それによると織田徳川軍の馬防柵とは、単に平野に柵を連ねただけではなく、前側の土を掘りあげて空堀にしただけではなく 土を堀の後ろ側にに盛り上げて高くしておいてから柵を乗せたものであり、関ケ原の戦いでも見られた陣城を構築したようです。従って当時の軍馬の馬格では堀を飛び越えてから馬体を当てて柵を壊すのは不可能であっただろうと記載されていました。

私は勝頼の戦術は間違っていなかったというより それしか方法がなかったと思います。
陣城ですから防御機能は野陣よりはるかに高く武器や軍事物資の貯蔵は可能で 時間がたつと工事が拡張するにつれて城になり軍事根拠点を持たれてしまうことになります。一方武田方にはそれがなく、長篠城と連携されると包囲殲滅される危険性が増してしまいます。

そもそも軍事行動の目的は敵の行動意欲を断念させることにあり、兵員を全滅させる必要はありません。同時に個々の戦闘の勝利とは 相手方の地面を占拠することにつきます。武田方にとってみれば敵方のトップ二人が前面に出てきて このままでは面を占拠され自分の軍事行動の目的が立たれる以上 兵員を損傷することなく帰国したとしても負けになるんです。大規模な人数を相手方が引き連れている以上 退却戦での損害の方がむしろ莫大な人数になるのはどう見ても明らかでしょう。

おっしゃるように武田方に物資集結のための根拠ポイントがない以上本国からの補給が望めません。 勝負は早めにつけないと全軍が瓦解して そのまま本国に乗り込まれてしまいます。

YosyanYosyan 2017/01/08 14:19 Bugsy様

 >織田徳川軍の馬防柵とは、単に平野に柵を連ねただけではなく、前側の土を掘りあげて空堀にしただけではなく 土を堀の後ろ側にに盛り上げて高くしておいてから柵を乗せたもの

信長公記を信じれば織田徳川連合軍は5/18に極楽山まで進出し設楽原陣地の構築を始めており5/21に決戦です。この辺りの時間関係から設楽原はそれ以前から武田・徳川の勢力境界であった時期があり、有名な馬防柵は基礎があった上で築かれたとする説もありました。正直なところ「どうなんだろう」ぐらいの感想です。ここで興味深いのは馬防柵に用いられた木材の調達です。仮に2尺感覚として縦棒だけで一重で3000本ぐらい必要です。三重となると1万本近く必要になり、さらに横棒が1本1丈程度してやはり1万本ぐらい必要になります。これらを調達し運搬するには思い付きで「すぐ」にはできません。その点を考えると、ある程度の基礎があって構築された可能性は捨てきれないぐらいです。

 >武田方に物資集結のための根拠ポイントがない以上本国からの補給が望めません

長篠城包囲への補給拠点は素直に二股城であったと考えています。二股城は川中島の海津城的な戦略地点になりそうだからです。鳶の巣山の敗戦は二股城から長篠方面の補給ルート(井伊谷ルート)を失う事にはなったとは思っています。平山越は設楽原に織田徳川連合軍が進出した時点で塞がれているからです。

 >時間がたつと工事が拡張するにつれて城になり軍事根拠点を持たれてしまう

ここが微妙なところで、家康はともかく信長がそういう長期戦を望んだかになります。そもそも徳川軍単独では守り切りるのは少々難しいところがあります。あくまでも陣地である点と、とにかく横に長い点です。それこそ徳川全軍が貼り付いても足りるかってところです。信長だって設楽原に織田軍主力を貼り付けるどころか、5000だって残すのは嫌がりそうな気がします。織田軍の主要戦線はまだまだ武田じゃないってところです(勝頼がどう見たかは不明です)。

 >勝負は早めにつけないと全軍が瓦解して そのまま本国に乗り込まれてしまいます。

史実的には勝った織田徳川連合軍は勢いに乗って武田本国に乗り込んでいません。つまりは乗り込む気が全くなかったで良いかと存じます。これは当時の織田軍の全体の状況を見れば当然そうなりますが、その点を勝頼は見切れてなかったと感じます。ですから勝頼が撤退しても大規模な追撃戦が行われたどうかは怪しいと思っています。

 >軍事行動の目的が立たれる以上 兵員を損傷することなく帰国したとしても負けになるんです。

勝頼がどんな形であるにしろ「負け」を嫌がっていたらしいとは行動から推測されます。ただなんですが、大将としの器量が育つには負ける事も時に必要です。大敗・惨敗は困りますが、許容範囲の負けを経験することで器量が育つことは多々あります。信玄だって信長だって手痛い敗北を喫しています(謙信は例外かな)。設楽原で人的被害を少なくして撤退した「負け」を後に活かせるかどうかは勝頼次第です。

Bugsy様の指摘はそれこそ勝頼の判断そのままだと思っています。だから決戦を挑んだになりますが結果は史実の通りです。そうであれば勝頼の長篠の敗戦は回避できない必然になってしまいますが、回避できる材料は皆無ではなかったと私はムックして感じた次第です。ただし後出しジャンケン部分が多いのは遺憾とさせて頂きます。そうでもしないと材料が乏しかったもので。。。

BugsyBugsy 2017/01/08 16:04 Yosyan様のお返事を拝見して二つの点を思い出しました。

後世我々は武田勝頼と呼んでますが 当時の名乗りは諏訪四郎勝頼です。ご存知のように信玄が滅ぼした諏訪氏の息女を側室に入れて生まれた男子です。諏訪地方の懐柔の意味から 諏訪氏の名跡を継がせました。従って武田一族集や重臣からしてみると分家筋ではなく かつて自分たちが滅ぼした別家の当主でしかすぎません。軽くは見ても 素直に服従するとは思えにくいです。一説によると子息信勝が正式の後継者で父勝頼は成人するまでの後見人にすぎなかったとあります。従って信勝が成人した暁には もとの諏訪地方の地方領主に戻るわけで家臣たちにとっては時間切れは数年先とみられ やがては信勝を取り囲む合議制にもっていく腹積もりだったでしょう。家臣にとっては領地を保全した信玄と武田家には先祖からの義理はあっても 諏訪氏と勝頼に対してはないのです。だからこそ 勝頼はどっしりと腰を据える時間は左程なく 色んな方面に焦って戦線拡大したとみています。長篠の戦もです。


もう一つなんですが この時代までの部隊編成です。下級の領主は寄り親に対して所領に応じた槍何人、騎乗の武士何人を戦闘の際提供するという書面をかわします。それを複数まとめ さらに部隊指揮官たちを統帥した頂点に立つのが戦国大名なんですが 歴代仕えた重臣たちが集めた部隊を兵種別にまとめなおおして師団編成ができにくく、それぞれの軍事拠点では在地の領主から兵を集めています。戦線を立てても戦闘行動は各小部隊が上級紙機関の命令で動くのですが 大まとめした銃兵や騎馬兵だけを敵の弱点に集中投下は出来ません。寄り親が違う小部隊がお互いに連携行動もとりにくいのです。ですから歴史ファンなら誰でも知ってる魚鱗や鶴翼の陣なんて出来ましたかね。戦線において他の部隊をサポートするのは真っ平ごめんで抜け駆けしてでも冷え首とそしられようと自家の領地が増えればいいじゃないですか。その点で急速に拡大した織田家では新規採用で 専門兵種を揃え部隊の行動を統一やすかったと思われます。

この長篠の戦も 小当たりに当たって相手の軍事意欲を削いでからの帰国とは当然考えたでしょうが こんな小部隊がかわるがわる柵に向かって進むから、各指揮官が後ろから押し寄せれば負けじとほかの指揮官も逸って進み、彼の家来もつられて殺到したという小兵力の繰り返した投入という野戦のタブーをおかしたと思っています。三弾撃ちとは戦線が同じリズムで斉射を繰り返したように解釈されがちですが これは怖くはないでしょう。発射した後如何しても弾丸や火薬の装填の間があり リズムが分かれば遮蔽物に隠れては少しずつ前進できます。むしろ嫌なのは小部隊ごとに指揮官がいて彼らのリズムで斉射を繰り返す 乱れ撃ちなんですが、これをされるといつ発射されるか分からないので動きようがなくなります。正面の敵の発射リズムが分かってきても 正面の敵しか撃ってはいけない規則はないので 横に広く広がった射撃部隊のどこから弾が飛んでくるかわかりません。凍り付いてしまいます。これは陸軍士官学校に行った大叔父が教官から習ったそうです。

自分は勝頼には武田家を継いだ最初の時点から勝機はなかったと思います。戦略も戦術も家中の支配もです。

YosyanYosyan 2017/01/08 16:33 Bugsy様

武田勝頼でなく諏訪勝頼であったから武田家臣に忠誠心は無かったとするのは如何なものかです。信玄は太郎義信を廃嫡にした時点で勝頼を武田に復姓させていると見て良いかと思います。出戻りではありますが正式には武田勝頼で良いはずです。そうじゃなきゃ信勝なんて別家の二代目になって正統もクソもありません。信勝が正嫡のロジックは勝頼が武田に復姓後に出来た子供であるからのはずで、そうであれば勝頼は諏訪ではなく武田勝頼になります。勝頼に出自と言うか経歴の問題はなかったとは言いませんが、甲陽軍鑑の信玄の遺言にどれだけ信憑性があるかの問題に帰結します。ただなんですが、

 >やがては信勝を取り囲む合議制にもっていく腹積もり

家臣団は信玄に従って東奔西走して武田家を大きくし、自らもまた大きくなっています。信玄の最後は最後は西上作戦でしたが、これも相当無理を重ねて行ったと見ています。無理してもカリスマ信玄であったからこそ不満や不平も出ず、むしろ一緒に夢を追ったぐらいでしょうか。しかし信玄の死によって「もう。ええじゃないか」の空気が醸成されていたとしても不思議ありません。つうかカリスマ信玄とともに夢は霧散し、勝頼と再び夢を追うのは「もうしんどい」ぐらいでしょうか。後は手にした果実を楽しみ、子孫に伝えたいぐらいです。

勝頼の人物像は断片的にしか伝わっていませんが、勇将であったのは確かそうです。裏返せばまた合戦合戦に傾く気配が濃厚にあり、その点で忌避されたはあるのかもしれません。かなり状況が違いますが、信長より信行支持が多かった織田家の継承にもつながるところがありそうな気もします。どっちが良かったかは不明ですが、勝頼も毛利輝元程度の位置づけで大きくなった武田を守成する方針なら少なくとも天正10年の自滅は無く、ここをクリアしたならば上杉家程度の規模でも江戸期に生き残れたかもしれません。

たんだタラレバの「if」を長篠に持ち込むには、なんにしてもかなりの努力が必要なのだけは実感しました。

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2017-01-04 長篠の合戦ふたたび:信玄の遺言

信玄の遺言は甲陽軍鑑にあるものになりますが、甲陽軍鑑自体が偽書の主張があるぐらい怪しいところがある代物です。それでも酒井憲二氏の研究(wikipediaです)によると、

  • 景憲の書写態度は、傷んで写し難い箇所は「切れて見えず」という注釈を190数箇所もしているように原本に忠実であり、加筆や潤色などがあっても、最小限に留められたであろうと判断できる。
  • 軍鑑本来の本文は、息の長い一センテンス文、類語の積み重ねによる重層表現、新興語、老人語(古語)、俗語、甲斐・信濃の方言や庶民が使用する「げれつことば」など、室町末期の口語り的要素を色濃く残している。このような文章を、小幡景憲の世代が真似て書くことは出来ない。

とにもかくにも甲陽軍鑑の原本とされる高坂弾正のものは愚か、小幡景憲の筆写原本もないので限界はあるのですが、とくに否定する材料もないので甲陽軍鑑の信玄の遺言を調べてみます。


信玄の遺言

甲陽軍鑑より、

惣別五年已来より此煩ひ大事と思ひ判をすへ置く紙八百枚にあまり可有之と被仰御長櫃より取出させ各へ渡し給ひて、仰せらるるは諸方より使札くれ候へば返札を此紙にかき信玄は煩ひなれ其未だ在生ときいたらは他国より当家の国々へ手をかくる者有ましく候某の国取べきとは夢にも不存信玄に国とられれば用心ばかりと、何れも仕候へば三年の間我死たるを隠して国をしづめ候へ跡の儀は四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり其間は陣代を四郎勝頼と申付候但し武田の旗はもたする事無用なりまして我そんしのはた、将軍地○の旗八幡大菩薩の小旗何も一せつ持すべからず太郎信勝十六歳にて家督初陣の時尊師の旗斗り残しよの旗は何も出すべきなり勝頼は如前大文字の小旗にて勝頼差物法華経の幌をば典厩にゆづり候へ諏訪法性の甲は勝頼着候て其後是を信勝に譲り候へ、典厩穴山両人頼候問四郎を屋形のごとく執してくれられ候へ勝頼がせがれ信勝当年七歳成を信玄ごとくに馳走候て十六歳の時家督になおし候へ又それがしとぶらひは無用にして諏訪の海へ具足を着せて今より三年目の亥の四月十日に沈め候へ信玄望みは天下に旗をたつべきとの儀なれども、かように死する上は結句天下へのぼり仕置仕残し、汎々成時分に相果たるより只今しいて信玄存命ならば都へのぼり申すべきものを諸人批判は大慶也、就中弓箭の事、信長家康、果報のつよき者共と取合をはじめ候故、信玄一入はやく命縮と覚たり其子細は、縦へをとるに矢勢盛には射ぬく者也、矢勢過る時分には浅く立、矢勢過ては已と落る其ごとく人の果報も久しく無之候果報の過時分をまたずして盛に取合を始め天道より○し○とさるる也、信玄が信長家康と武辺対々ならば是程早く命は縮るまじけれ共弓矢には信長家康両人懸りても信玄には更になり難き故天道果報をひきし給へば天より信玄をころし給ふ其印には輝虎三年の間に病死仕るべく候信玄次には輝虎より外信長を○みつくる者有間敷候と被仰、次に勝頼弓矢の取様輝虎と無事を仕り候へ謙信はたけき武士なれば四郎わかき者に、こめみする事有間敷候其上申合せてより頼むとさへいへば首尾違ふ間敷候信玄おとなげなく輝虎を頼と云う事申さず候故、終に無事に成事なし必勝頼謙信を執して、頼と申べく候さように申くるしからざる謙信也、次に信長とは切所をかまへ対陣をながくはり候は、あなたは大軍遠き陣ならば五畿内近江伊勢人数草臥無理成働き仕る時分、一しほのけ候は、立なをす事有まじく候家康は信玄死したると聞候へば駿河迄もはたらき申べく候間駿河の国中へ入たて討取申べく候小田原をば無理にかかっておしつぶし候とも手間は取まじく候氏政定て信玄死したると聞候ば人質をも、すてふりを可仕候間其心得候へと各御一家衆侍大将衆へ被仰渡舎弟逍遥軒今夜甲府へ使に行と申し心安き小者四人つれ出るふりにて物共をば土屋右衛門尉所に預け此暁き籠輿に逍遥軒をのせ信玄公煩に付て甲府へ御帰陣也と申候ば我等と逍遥軒と見わくる者有まじく候累年見るに信玄が面を各をはじめしかとみる者なく候と相みえ候へば逍遥軒を見て信玄は存命なりと申べきは必定なりかまへて四郎合戦数寄仕るべからず。幷信長家康果報の過るを相待事肝要なり、果報に年をよらする物は身をかざり、ゑようにふけり、おごり是三ヶ条也、初め申候信玄が信長家康果報の過るのをまつべき物を、といひつるは、勝頼に心をつけと云う事也其ことはりは信玄に信長は十三の年おとりなり、家康は二十一をとり謙信は九ッ氏政は十七おとりなれば、あなたが信玄すへをまちうけたり、又勝頼は謙信に十六信長に十二氏政に八ッ家康に四ッいずれも年ましの者共にまけぬ様に仕り今信玄取て渡したる国々あぶなげきもなきように仕置をつつしみ候所に各より無理成働き仕候ば、持の内へ入たて有無の一戦可仕候其時は我つかひ入たる、大身小身下々迄一精出し候はや信長家康氏政三人ひとつになりても、此方勝利はうたがひ有まじく候、輝虎みなひとつになり四郎にこめをみする事有間敷候信玄死してより、弓矢は謙信也、天下をもちたる信長果報のすへ輝虎が武勇両人のすへをまちうけ申べく候、信玄よろづ工夫思案遠慮十双倍気遣い致し候へと被仰但其方を敵あなづり候は甲斐国迄も入れたて、かんたんに仕りてのち合戦をとぐると存候ば大き成かちになるべく候卒爾はたらきさすべからずと、馬場美濃、内藤、山県にくわしく被仰付其次に信玄生たる間は我等に国をとられぬようにと、氏康父子も謙信も信長家康共に用心候へ共、北条方には深沢、足柄、家康方には二股、三河、宮崎、野田、信長方には岩村、かんの、大寺、瀬戸、信濃迄とる謙信ばかり越後の内を此方へ少も取事なけれども高坂弾正数斗をもって越後へ、はたらき、輝虎居城春日山へ東道六十里近所へ焼詰濫妨に女童部を取て子細なくかへるなれば是とても、我等にかたをならぶる弓矢とは申がたし信玄わづらひなりといふ共、生て居たる間は我等の国々へ、手さす者は有間敷候、三年の間ふかく謹めとありて御めを給ふが又山県三郎兵衛をめし明日は其方旗をば瀬田にたて候へと仰らるるは御心みだれて如此然共少。

ネットを探しても意訳はあっても原文がなかったので手打ちで起こしましたが、長いのにウンザリしました。ほいでも手打ちしたいお蔭で遺言の趣旨が少しわかったような気がします。


勝頼後継への不満

甲陽軍鑑を信じる前提ですが、これは勝頼の能力というより勝頼の出自から後継に不安というより不満をもつ家臣が少なからずいた気配を感じます。武田家では長男の義信が粛清され次男の龍芳(信親)は盲目で、三男の信之は義信粛清より前に夭折していたとされます。ここまでが正室の三条夫人の息子になります。正室に後継者がいなければ側室の子に後継が回り、その中で最年長である諏訪御前の息子の四男勝頼でおさまりそうなものですが、そうでもなかったぐらいで良さそうです。巷間言われるように信虎時代からの宿敵であり、信玄自らが滅ぼした諏訪氏の娘の子どもである点に引っ掛かりを感じる家臣がいたってところかな?

勝頼以外となるとwikipediaで確認できる範囲では五男の仁科盛信と六男の葛山信貞になりますが、五男の仁科盛信でも勝頼より11歳下です。私の知る範囲は狭いとはいえ盛信擁立派がいたとは思えませんし、聞いたこともありません。そうなると勝頼反対派が推していたのは消去法で信玄の弟になります。既に典厩信繁は川中島で戦死していますから逍遥軒信廉ぐらいしかいない気がします。密かに根回ししていたのはヒョッとしたら穴山梅雪ぐらいかもしれないというのは陰謀論としてアリぐらいです。信廉にその気があったかなかったかは確認しようもありませんが、そういう家中世論を背景にしていたとでも考えないと勝頼への待遇が不可解ってところです。

それと私にはわかりにくいのですが、勝頼の息子の信勝に家督を継がすからリリーフとして勝頼が家督を継ぐで納得できたんだろうかです。血筋で言えば勝頼は武田家に恨みを持つ諏訪氏の血を引いていますが、信勝は織田氏の娘の子です。織田氏がこれからの武田氏の大敵になるのは見えていますから「どうなんだろう?」ってところです。まあ、この辺は最終的に織田氏と和議が成立することがあれば有利ぐらいの計算もあるかもしれませんが、そこまで信玄の死に際して家臣団が計算するかどうかです。


続勝頼後継への不満・名分論から考える

勝頼後継に不満ですが感情論がベースでも後継反対論とするには理屈が必要だったはずです。これが武将としての明らかな能力不足とか、人格の極端な破綻とかなら簡単ですが、勝頼は家督相続までに信玄の下で戦場の実績を積み上げており、この点で攻撃するのは無理がありそうに思います。そうなるとも名分論になったはずです。戦国期の名分論で参考になりそうなのは清州会議。あの会議では三男信孝を推す筆頭家老勝家と、秀忠の息子の三法師を推す秀吉の対立でしたが、たしか秀吉が展開した理屈の一つに

    信孝は織田の家を出られた方云々

信長は伊勢支配と後継争いを予防するために信雄に北畠氏を信孝に神戸氏を継がせています。武田氏で言うと勝頼が諏訪氏を、盛信が仁科氏を、信貞が葛山氏を継いだのと類似しています。武田氏から見ると勝頼は武田家を一旦出た人であり帰り新参ぐらいの見方でしょうか。もっとも帰り新参と言っても信孝とは違い、1565年に義信が幽閉された時点で後継者に指名され武田に復姓しているはずですから無理がある気もしますが、その辺をテコにしていたぐらいです。単純には帰り新参の親子継承より兄弟継承の方がより正統的な継承で「お家のため」みたいな理屈でしょうか。

ほんじゃ信勝はどうなるんだになりますが、信勝は1567年に勝頼が武田に復姓してから生まれています。おそらく名分論では信勝は純武田の一族であるって見方になるのかもしれません。信玄の遺言はこの家中の不満の中を取った裁定と見るべきなんでしょうか。武田の正統は信勝にあるのは反対する者はないのなら、勝頼は信勝継承までのリリーフであるとの遺言です。一時的に勝頼が家督を継いでも、信勝が元服すれば速やかに正統に戻るから勝頼で我慢せいぐらいです。

ずいぶん勝頼をバカにしていると見えて仕方がないのですが、勝頼には別に遺言があったとすれば筋が通ります。信勝元服後と言っても10年ぐらいは先のお話です。そこまでに当主として求心力を集めれば信勝への早期継承の話も立ち消えになる可能性も十分にあります。どっちみち信勝は勝頼の長子ですから、健在でさえあれば順番で確実に家督を継ぐからです。もうひとつ家督を譲るとは隠居になる事ですが「隠居 = 引退」では必ずしもないってことです。実権を握りながら家督だけ息子に譲る例は戦国期でもしばしば見られます。

信玄が近くで見た例なら北条氏康と氏政の関係がそうです。信長だって信忠に家督を譲っていますし、家康もそうです。実権を握りながら早期に家督を譲るメリットは、

  • 後継者争いを未然に防ぐ
  • 世襲実績を作る
  • 雑務の軽減

これぐらいは考えられます。1.は信長がそうと考えられますし、2.は征夷大将軍を家康が秀忠に譲る事だったと見れます。3.については私の想像ですが、戦国期の当主は軍事・外交はもちろんですが内政でも最高責任者です。さらに旧家であるほど冠婚葬祭などの行事ごとがバカにならないぐらいあります。家督を譲る事によって内政の細々したことや、家政の煩雑な行事の負担を軽減する意味合いもあったんじゃないかと思っています。戦国期の家の興亡は軍事と外交の比重が大きいですから、家督を譲る事により出来るだけその他の負担を軽減したいぐらいです。

信玄は勝頼に信勝に早期に家督を譲る事によって家臣の不満を和らげ、一方で隠居として実権を握って武田の家を切り盛りせよぐらいに遺言した気がします。信玄だってまだ5歳の信勝の能力の判定は出来ないでしょうし、たとえ能力があっても16歳じゃ周囲の強豪と相対して武田の家を保つのは難しいぐらいは十分過ぎるほどわかっていたはずです。細々と考察しましたが、この遺言は

    とにかく勝頼が家督を継ぐ

これが目的で、信勝早期継承のお話はその場のお話ぐらいであったと見た方が良さそうな気がします。それでも、これぐらい条件を付けないと勝頼継承には異論があったぐらいを読み取るべきなのかなぁ??。


読み方を変える

ここまでは甲陽軍鑑を信じればの話になりますが、どうしても違和感が残ります。甲陽軍鑑はどうにも勝頼を貶める脚色が施されている気がするのです。それが小幡景憲の手によるものなのか、高坂弾正の時からのものなのか不明ですが、そんな気がします。そりゃ勝頼の代に武田氏は滅亡しますから間違いとは言えないのですが、滅亡への責任の伏線をあちこちに散りばめてあるぐらいの感触です。そもそもですが信勝は勝頼正室の長子であり、次子はいません。順当にいけば勝頼の次の武田の当主は信勝になる訳です。たとえばですが、今川氏がかつて当主の義忠が戦死し、その後継を巡って

  • 義忠の息子の龍王丸(氏親)
  • 義忠の叔父である小鹿範満

こういう構図で家督争いをやっていたのなら、信玄遺言も必要ですが、信玄死亡時に勝頼がとくに信勝を忌避して排除しようとしていたとは思えません。元服すれば自然に嫡子となり、勝頼が死亡もしくは隠居すれば、これまた自然に家督が回ってきます。誰の目から見ても当然至極の家督相続です。そこに波風があったように描写したのは創作だと仮定できないだろうかです。どうもなんですが甲陽軍鑑の遺言の中で信勝継承のピースを抜いたら話がスッキリする気がします。信玄の遺言の主旨はやはり、

    三年の間我死たるを隠して

信玄は自分の死を隠す策として氏康型の実権隠居を構想していたと考えれ良い気がします。西上作戦を中断して帰国したのは事実ですから、自分が病であるのは隠せませんが、病は養生できるレベルであり、家督は勝頼に譲りながら実権隠居として健在ぐらいの方策です。いや実権隠居でさえなくあくまでも当主として君臨し、病であるから出陣は出来ないが、その代わりに陣代として勝頼を戦場では立てるとしたものぐらいです。

旗印や具足の使用について妙に細かく具体的な指示が為されていますが、信玄が勝頼への使用を禁じた旗印は信玄が健在なら信玄だけが用いられるものと解釈したら筋が通る気がします。つまりそれらの旗印が戦場に無ければ、信玄が不在である事はわかりますが、一方でこれを使用する本人は国許で健在である可能性を示唆するってところです。もし他国と合戦になった時には勝頼が兵を率いるのですが、勝頼は信玄から派遣された陣代として振る舞うための具体的な作戦指示です。

遺言の中で誰も武田を侵略しないだろうとしているのは、病のために外征は無理であっても、武田領内では信玄は出陣する可能性は十分にあり、武田領内で信玄指揮下の武田軍と決戦を敢えて行う者は天下にいるはずもないぐらいの豪語ぐらいに思えます。豪語としましたが、たしかにそうで、信玄に指揮されると怖いですから、死ぬまで待とうって気になりそうです。ただなんですが、戦国期であっても情報戦は盛んであり、自分の死を完全に秘匿できるとは思ってなかったかもしれません。信玄が期待した真の狙いは、

    ひょっとしたら生きてるかもしれない

この疑念を相手に抱かせることだった気がします。その期間が3年あれば勝頼治世は安定し軌道に乗るぐらいの期待でしょうか。ほいでもってこの策はそれなりに成功した気がします。少なくとも信玄の三回忌が終わり長篠の合戦まで武田家は主力決戦を行っていません。実際のところは東美濃や高天神城を攻略していますが、武田の危機みたいな状況が3年間なかったならば成功と言えそうな気がします。


勝頼が受け止めた遺言は?

甲陽軍鑑に書かれているような遺言もあったとは思いますが、いまわの際の遺言はやはり

    山県三郎兵衛をめし明日は其方旗をば瀬田にたて候へと仰らるる

こここそ創作の意見ももちろんあるとは思いますが、勝頼の行動を考えると実際にあった可能性もあると考えています。勝頼が3年を待たずして東美濃や高天神城を攻略しているのに色んな取りようはありますが、信玄の真の遺言として勝頼が受け止め使ったからと考えるとなんとなく筋が通ります。この言葉は山県昌景も聞いているので甲陽軍鑑にあるように「御心みだれて」て片づけにくいところでもあります。もちろん勝頼が真摯に受け止めたのか、それとも軍事行動のための口実に利用したのかは不明ですが、これもまた信玄の遺言ですから武田にとって軽くないといったところでしょうか。

もうひとつ信玄の遺言で面白かったのは若さのメリットを活かせとしている点です。戦国期の生き残るためには、長生きした方が最後に覇権を握るぐらいの意味でしょうか。これも後付の創作の感触があるのですが、天下を最終的に獲ったのはいわゆる三傑の中でもっとも若く、そのうえもっとも長生きした家康です。その点でいえば勝頼は信長より12歳も若いので、生き残れば有利かもしれません。ただ家康とはたった4歳しか変わらず、家康の長寿を考えると、まともに生きても勝頼の方が先に死ぬ気がしないでもありません。

仮にそこまで読んで、勝頼の次代の信勝の時代に武田による天下統一を考えていた・・・無理があるなぁ。。。そりゃ信長も、秀吉も、家康もいないかもしれませんが、戦国状態が続けば信勝より若い新たな英雄が出てくる可能性がある訳です。たとえば伊達政宗。政宗は信玄より地理的条件は悪いですが、仮に、仮にですが二代の秀忠あたりが絵に描いたような暗君で天下の輿望を失えばってぐらいの「if」を置いときます。とにもかくにも信玄の遺言に後付の脚色があるとしても成立したのは江戸期であり、江戸幕府を否定する脚色は出来ないので、どっか中途半端になっている気がします。

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2017-01-03 長篠の合戦ふたたび:まずは長篠までの途中

あけましておめでとうございます。これだけ更新回数が減ったらブログ開きというのも恥しいですが、新年ですからエエとさせて頂きます。ほいでもってお題は長篠の合戦。以前にもやったのですが、あの時は焦点を三段撃ちの可能性だけで書いたのでもう少し広げてムックしようという試みです。ただやってみると案外大変で、三部構成になってしまいした。いつも通り長いですが宜しければおつきあい下さい。


信玄死後の動き

勝頼と信長の主な動きを年表にしてみます。

西暦 元号 勝頼 信長
1573年 元亀4年 4月 信玄病死。家督相続。
7月 義昭追放
天正元年 8月 朝倉氏滅亡
9月 浅井氏滅亡
10月 * 伊勢長嶋進攻
11月 * 三好氏滅亡
12月 * 松永久秀降伏
1574年 天正2年 2月 明知城攻略 *
6月 高天神城攻略 *
7月 * 伊勢長嶋完全制圧
8月 *
9月 浜松城下焼き討ち
1575年 天正3年 3月 高屋城合戦で本願寺と和睦
4月 長篠の合戦
5月

信長の動きが活発です。まず義昭の反乱を今度は許さず追放しています。さらに長年の宿敵である朝倉氏・浅井氏のトドメを刺し、帰す刀で畿内の完全平定を着々と行った後に、これも長年の抗争相手である伊勢長嶋一向一揆を文字通り殲滅しています。さらに高屋城の戦いで河内の支配権を広げ、対本願寺戦も一時的に和睦となっています。信長は対信玄戦の負担が吹きとんでくれたので、信長包囲網の残党の掃討に励んでいたぐらいと見て良さそうです。


勝頼には信玄の死を秘して3年間動くなの遺言があったとされています。本当にあったかどうかは不明(次回に考察します)ですが、考えてみれば無理がある遺言で、あったとしても3年と言うか三回忌が済むまでは積極攻勢を控えて力を蓄えよならまだしも理解できます。おそらく武田家は信玄の西上作戦でかなり無理をしたはずで、その損害や内政上の不満を「和らげよ」ぐらいの趣旨じゃなかったかと考えています。長篠の合戦は信玄の三回忌が済んでから行われたものですから、勝頼は基本的に遺言は守っていたんじゃないかと思ったりしています。

信玄死後の長篠までの勝頼の大きな軍事行動はwikipediaを信じれば2つで、一つは東美濃の天正2年2月の明知城攻め、もう一つは天正6年6月の遠江の高天神城攻略です。なぜに勝頼が動いたかですが、そりゃやっぱり織田・徳川、とくに徳川の反攻に対応するためで良いかと思います。積極攻勢を控えると言っても相手がある事で、相手が動かないのなら動かずに済みますが、とくに徳川にとっては信玄に遠江をズタズタにされており、武田の圧力が少しでも緩めば失地回復に動くのは当然です。

徳川の反攻を指をくわえて甲府で看過していると「勝頼、頼むに足らず」の評価が必ず起こります。なにせ神格化されるぐらい偉大な父を持っているので、徳川の反攻に対して反応して求心力を高めることが必要になります。この辺は古来からなんですが、新しい当主がその能力を疑問視された時に手っ取り早く評価を挙げる手段は軍事行動での勝利です。実際に指揮して諸将に勝利の凱歌を挙げさせるのが一番即効性があります。

さて勝頼なんですが信玄亡き後の周辺強国の動向をどう判断していただろうがまず興味があります。今川氏滅亡後の東国の三強の関係はやはり謙信の動きになります。謙信は関東管領の肩書を重視して執拗に対北条戦を行っていましたが、晩年は攻勢のシフトを西に向けていたと見ています。越中から能登・加賀への進攻です。一説には上洛戦を意図していたともされていますが、とにかく西に行動をシフトしています。謙信の重圧が緩むことになる関東は、氏政が勢力挽回に積極的に動くことになります。ただ謙信も関東を完全にあきらめている訳ではなく、北条が動けば反応します。ここの構図は、

    上杉 vs 北条

これが続きます。この構図が続く限り北条は武田との同盟を守るだろうぐらいはいえます。北条も駿河に執着があり、信玄が駿河に侵攻した時には徳川と手を結んで一時は駿河から信玄を追い出すぐらいに積極的に動いた北条ですが、氏康亡きあとは再び武田と結んで対上杉戦に専念したいぐらいでしょうか。おそらく信玄死後にも同盟関係の再確認のための外交交渉が行われていたと思っています。でもって謙信は信玄の死をどう勘定していたかは真意は存じませんが、勝頼相手に川中島をやる気はなかったぐらいに見ています。勝頼が挑んで来ればともかく、そうでなければ西へのシフトとチョッカイを出してくる北条戦に専念したいぐらいです。

おそらく勝頼もそれぐらいの情報分析はしていたと思いますから、伸びるとしたら西であり、具体的には遠江から三河を構想していたはずです。勝頼からみて徳川はそんなに怖い勢力ではなかったと思いますが、織田は油断ならないぐらいは考えていたはずです。でもって徳川を叩けば織田が出てくる構図も確実にあります。ただなんですが、織徳同盟は徳川が援軍に行く時には全力で動きますが、織田が援軍に行くときは積極的とは言いにくいところがあります。三方が原がそうです。

三方が原の時には、あんなところで信長は信玄と決戦する気がサラサラなかったぐらいで良いと見ていますが、信長包囲網が崩れた長篠の時点で勝頼がどう考えていたかは興味深いところです。その辺にも長篠の綾はありそうな気はしています。


天正2年2月:明知城攻略

勝頼が動き出すのはwikipediaを信じれば年が明けた天正2年2月からになります。目指したのは明知城、いわゆる岩村城攻防戦の一環なのですが、個人的に地理的重要性がピンと来なかったので確認してみます。東美濃は中山道が通り信濃と国境接する地域なのですが、遠山氏が勢力を張っています。とはいえ遠山氏も一枚岩ではなく遠山七頭(岩村・明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木)と呼ばれる連合体で、とりあえず惣領家が岩村遠山家であったようです。なにせ武田と織田の中間地帯なので双方からの勢力浸透が続けられることになります。この遠山氏の勢力範囲ですが岩村城を中心に遠山十八支城といわれるものがあります。地図でプロットしてみると、

遠山氏の勢力範囲がかなり広いのでちょっとビックリしました。斎藤氏の時代は省略しますが、この遠山氏に先に手を付けたのは信玄だったようです。木曽氏を支配下に置いた信玄は中山道(東山道)を利用した東美濃進出を行ったようです。形式的には遠山氏は武田の臣下に組み込まれたぐらいでしょうか。でもって信玄と信長の関係は信長の徹底した媚態外交で始まります。つまり同盟・友好国関係が続きます。どうもこの友好時代に信長は遠山氏に婚姻外交を仕掛けたようです。記録に残っているのは、

  • 岩村遠山氏の景任に叔母のおつやの方を嫁がせる
  • 苗木遠山氏の勘太郎に妹を嫁がせる

さらに信長の妹が生んだ娘を養女として引き取り勝頼に嫁がせています。武田・織田勢力の間ですから遠山氏も両方に良い顔をしながらのサバイバルをやっていたぐらいでしょうか。またこの辺は異説も多いのですが、岩村遠山氏の景任が子を作らずに亡くなった時に岩村城に軍勢を連れて乗り込み、五男の御坊丸を養子として押し付け、未亡人のおつやの方を実質的な城主に仕立て上げるなんてこともやっているようです。これが元亀3年のことらしいのですが、この頃には武田と織田の蜜月時代は既に終わりかけています。

いや終っているので信長は遠山氏取り込みのために力業を揮ったと思いますが、信玄も素早く反応します。高遠城主の秋山虎繁(信友として有名)による進攻です。この辺も調べてもハッキリしなかったのですが、信長の五男を養子として迎えた時点で遠山氏は織田氏に与したようです。虎繁の攻勢は凄かったらしく援軍に来ていたとされる徳川軍を一蹴し、遠山一族連合軍を粉砕したとなっています(上村合戦)。この後に虎繁とおつやの方の婚儀(なかったとする説が最近は有力だそうです)が行われたり、信長五男の御坊丸が甲府に送られたり(これは事実の様です)します。

ここもまたよくわからないのですが、信玄死後の遠山氏は再び織田氏に靡いた気配があります。あちこちに矛盾する個所のある記録を読みながらのパズルみたいなお話ですが、遠山氏は七頭と言われる有力支族の連合体ですが、その中でも有力とされた三家を三人衆ないし三頭と呼んだようです。具体的には岩村・苗木・明知です。このうち惣領家とされた岩村氏は上村合戦後にどうなったかは不明ですが、残っている苗木・明知遠山氏に信長は調略を行ったぐらいに感じています。有力二家が織田になびけば他の四家さらにはその他大勢もも引きずられるぐらいでしょうか。傍証として遠山七頭のうち、一度滅亡した後に信長の後援で復活し、江戸期も生き残ったのは苗木と明知の二家だからです。

東美濃は中山道が通り岐阜に直結する要衝ですから、信長は美濃の安全のために、勝頼は岐阜に突き付けた匕首として譲れないところといったところでしょうか。勝頼は東美濃確保のために信玄時代にも見られない大軍を動員し、自ら指揮して遠山十八支城を悉く落としたとなっています。その軍勢は記録では1万5000。信長も3万の援軍を編成して救援に向かったとされますが、間に合わず東美濃は勝頼の手に落ちたと見て良さそうです。


さて勝頼がここまでの大軍を動員して東美濃の遠山氏を攻略した理由ですが、思いつくのは、

  1. 信長が援軍を送る前に決着を付けたかった
  2. 勝頼自らが東美濃に大軍を率いる姿を見せたかった

1.は戦術的に妥当で遠山氏を攻めれば信長の呼応は必至であり、いくらなんでもこの時点で信長と美濃の地で決戦をやる気は勝頼にはなかったと思います。この決戦が出来ない理由として家督を継いで日が浅いだけでなく、まだ家臣に対する求心力が確保されていない点も大きかったと思います。なにせ信玄の後継者ですから、その辺が大変なところです。実質的に勝頼の初采配ですから必勝を期したと考えるのが自然で、そのための大軍であったと見るのが自然です。相手は家康でもなく、信長でもない遠山氏ですから圧勝としてよい戦果を挙げています。

2.については私の憶測に過ぎませんが、天正2年2月とはユリウス暦で2/22から始まる月になり季節は真冬です。この雪の多い季節に勝頼率いる武田軍主力が東美濃に出現したのは信長にインパクトを与えたんじゃないかと思っています。ココロは武田軍はいつでも東美濃に主力軍を送り込めるってところです。もう少し付け加えれば、信玄は遠江からの西上ルートを取ったが、勝頼は中山道からいきなり美濃に攻め込む選択枝を持っているぞぐらいでしょうか。おそらく信長も勝頼率いる武田主力軍の出現に少なからず驚き

信長は明知城を失う重大さを思い、奈良多聞山城から呼び寄せた子信忠と明智光秀とともに、三万の兵にて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとした。

しかし間に合わず明知城は武田の手に渡り

信長は嫡男・信忠とともに出陣したが、到着前の2月6日に明知城で飯羽間右衛門の裏切りがあって落城したため、東濃の神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。

勝頼の1万5000も信長の3万もどれぐらい信じられるかはキリがないので置いておくとしても、場合によっては決戦の気構えで大軍を動員したぐらいにも見えます。ただこの時には勝頼も信長も決戦を望む気はなく勝頼が東美濃を支配することで双方とも兵を引いたぐらいでしょうか。この戦いでポイントを挙げたのは勝頼の気がします。


天正2年6月:高天神城攻略

明知城攻略の次は勝頼は高天神城攻略を目指します。二股城とか、高天神城とかは遺憾ながら名前は知っていても位置がアヤフヤなので地図に落としてみます。

遠江の地理に疎いので、wikipediaの信玄の西上作戦に出てくる城名をわかる範囲でプロットしてみました。西上作戦時には地図にプロットした浜松城・掛川城・高天神城・野田城・吉田城・堀江城を除く他の城は武田軍が落としたとなっていますが、信玄死亡後は二股城を除いて家康が奪回していたぐらいの理解で良さそうです。どうもなんですが武田の西進は駿河から東海道を粛々と寄せていくにはなっていないようです。その原因は東海道に掛川城、さらにその浜寄りに高天神城があり、ここを落とせなかったので現在の国道152号線ルートを使って遠江に侵入したともいわれています。152号線ルートで遠江の蓋になっているのが二股城で、信玄がこの城の攻略にこだわった理由が良くわかりますし、信玄死後も二股城だけは確保しているのも理解できます。上に示した地図では高天神城の位置づけがわかりにくいのでもう一つ作ってみました。

20161229153057

地形図を見ただけの感想ですが、とりあえず遠江と駿河の国境は大井川ですが、信玄時代から武田は大井川を越えて御前崎に続く丘陵地帯の東側まで勢力を確保し、そこから菊川流域に侵入を試みていたようです。この菊川流域を守る徳川の拠点が東海道沿いの掛川城と南側の高天神城であったようです。この2城が突破されると太田川流域から浜松城のある天竜川流域まで危なくなるってところです。信玄時代は掛川城も高天神城も落ちなかったので西上作戦時は北方から二股城を攻略して一挙に天竜川流域に武田軍が侵入したぐらいの理解で良さそうです。


勝頼がなぜに高天神城を狙ったかですが・・・わかんないですねぇ。まあ、高天神城を奪えば菊川流域の支配権が手に入りそうぐらいは言えそうで戦国用語の切り取りって奴でしょうか。領国の大きくない家康にとっては地味に応えるとは思います。それと家康への示威でしょうか。家康は信玄死後に当然ですが遠江で落とされた城々の奪還作戦をやっています。武田にしても全部守るわけにもいかず二股城だけ橋頭保に残していますが、信玄時代にも落ちなかった高天神城を落とすことで「勝頼を舐めるな」ぐらいの意味合いです。

この示威は対外的には家康に向けられますが、対内的には家臣団に向けられたとも考えて良さそうです。偉大な父である信玄でも落とせなかった高天神城を勝頼は落としたの目に見える実績作りです。まあこの辺は落とせなかったら「信玄でも無理だったから・・・」の釈明は成立しそうに思いますが、結果として高天神城を落としていますから勝頼の企画は成功したと見て良いと思います。少なくとも家康は「勝頼も恐るべし」と感じたに違いありません。


とりあえずここまで

戦国時代の後期は信長が軸なのは間違いありません。信長の勢力は信玄在世時でも既に遥かに凌駕していたとしても良いかと思います。長篠時には長年の宿敵の浅井・朝倉を滅ぼしていますから、純粋の「織田 vs 武田」の決戦なら2倍どころか3倍以上の決戦兵力を集めるのも余裕だったと思います。しかしそれが出来ないところに信長の苦悩があった気がしています。信長の戦略の基本は

    東は家康に任せて手を出さない

信玄との媚態外交もその一環です。東に備える兵力を西に回す事によって短期間での大勢力の構築に成功したと見えなくもありません。もう一つの特徴は多方面作戦です。これも信長戦略の特徴ですが、天下統一を目指し出してから有力勢力の存在を認めない方針があったと思っています。まあ、この辺は結果論で反信長勢力を義昭が上手に煽ったためかもしれませんが、秀吉のように相手によっては適当に許す方針を取っていません。そのために多方面にガチンコ・バトルが展開するのですが、これが信長戦略の弱点になっていたとも考えられます。

多方面作戦が展開できるのは、それだけ織田家が大きいからですが、多方面がガチンコであるために織田家全兵力の結集は難しくなります。まとまった兵力が敵として出現した時に困る訳です。そのために信長は直属の機動部隊ともいえる部隊を持つほかに、必要な時に各方面から必要兵力を引き抜きます。引き抜かれた各方面軍が困ったの記録をどこかで読んだことがありますが、信長にすれば大戦略のために「我慢せい」ってところでしょうか。

この引き抜きによる決戦兵力の集中作戦が自在に行えたの信長の強みだったのですが、引き抜き方式による決戦兵力の形成にも弱点があります。そうは長い間、引き抜き状態を維持できない点です。そのために信長は絶対に決戦になる時期を鋭く見分けて兵力集中を行っています。裏を返せばかき集めた決戦兵力は長期戦には適さず、もし決戦に至らなかったら速やかに引き抜き兵力を元の各方面軍に戻しています。ダラダラと集めたままにしておくと、各方面軍が崩壊しかねないからです。

信玄の西上を怖れたのもこの理由からではないかと考えています。信長にすれば信玄を遥かに上回る決戦兵力を動員できるのは机上では可能で、そういう点で信長は信玄に負けるとは思っていなかったと考えています。問題はどうやってその兵力を動員するかです。「武田強し」は当時の常識ですから2倍ぐらいは最低限必要です。一方でそれだけの兵力を各方面軍から引き抜ける期間は限定されます。信玄との決戦も即日で決着してくれれば良いのですが、長期対陣に引きずり込まれたら大変な事になります。

信玄の西上に対して信長が苦悩していたのは、どれだけの兵力を各方面から引き抜く計算と、いかにして短期決戦に持ち込むかの算段です。あえて想像すれば地形が錯綜しているところでは長期戦の懸念が出てくるので、尾張まで信玄を引っ張り込んでの平地決戦です。ただそうなれば兵力の優位は少しでも欲しいので・・・とにもかくにも信玄は途中で病死したので信長の対信玄作戦がどんなものであったかは永遠の謎です。


こんな事を思い出したのは明知城を巡る攻防戦からです。東美濃に勝頼が進攻したときに信長も反応して自ら指揮して援軍を送っています。その数は勝頼の2倍の3万ともいわれています。信長が反応したのは東美濃を武田の支配下に置かれるのは拙いの解釈は良いとは思うのですが、明知落城を聞くとアッサリと撤収しています。重要地点であるなら勝頼が甲斐に帰れば奪還しても良いはず、つうか奪還作戦に出そうなものです。信長が奪還作戦を起こさなかったのはなんとなく、

    やれば長引く

信長の兵力なら勝頼が奪った遠山十八支城を速やかに奪還するのは不可能と思えませんが、織田軍全体からして東美濃に新たな方面軍を常駐させる余裕はなかったぐらいです。手薄な留守兵力では勝頼が再び主力を率いて来襲すれば駆逐されていしまいます。奪還するにはまたぞろ各方面軍の引き抜き作業が必要になります。これじゃわかりにくいかもしれませんが、武田は場合によっては東美濃で局地決戦、もしくは消耗戦をやれる余裕はあるが、織田にとっては嬉しくない展開というところです。信長が明知城救援に向かったのは

  1. 東美濃から岐阜を目指しても即座に対応できるのを見せる
  2. 状況によっては決戦を行い勝頼を撃破する

2.は戦場の流れ次第で覚悟の一つですが、主な目的は1.だった気がしています。明知城の時は勝頼も決戦を望まず帰国したので、信長もこれ以上の合戦を継続せずに現状維持を選択したぐらいでしょうか。1.についてはもう少し違う側面もある気がしています。信長が一番驚かされたのは雪が武田軍の中山道通行を妨げなかった点の気がします。つまり武田軍は冬でも東美濃に主力軍を送り込める事実を見せつけられたことです。とにかく岐阜に近いですから、あんなところに武田の主力軍がいつでも来襲可能である事実は信長にとって気持ちの悪いことであった気がしています。だからこそ大軍をかき集めて対抗する実績を絶対に作らなければならなかったぐらいでしょうか。

なんとなく力業の面は否定しませんが、勝頼は明知城攻めでの信長の対応に何を学んだのだろうです。長篠の武田軍の敗因は様々に分析されていますが、織田は武田を遥かに上回る大軍を決戦兵力として投入できるが、これを長期間維持することは難しい事を見抜いていれば、勝頼のあの時の判断は変わっていたかもしれないと思ったぐらいです。もちろんこの推測はすべては後世の結果論の上での後出しジャンケンであるのはいうまでもありません。

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2016-12-08 播州布団屋台・屋根ムック

布団屋台は泉州で生まれ淡路を経て瀬戸内沿岸に広がったとされています。各地に広がった屋台はその地域で独自の発展をするのですが、播州布団屋台もまたそうです。しかしその変化や発展の経緯は「よくわからない」部分が多々あります。布団屋台には幾つも特徴がありますが、その中で布団屋根の部分を中心にちょっとムックしてみます。


源流の泉州屋台

布団屋台の最古の記録とされるものは貝塚宮・感田神社 太鼓台祭りの、

感田神社の夏祭りにふとん太鼓が担ぎ出されたのは、寛保元年(1741年)で、泉州地方のふとん太鼓では最も古いまつりです。

同神社の記録によれば、「寛保元年のおまつりに北之町だんじりが出されたが、引たん志りは堺から借ってこなかった」と記されており、両者を区別しているところから、このだんじりはふとん太鼓のことと考えられます。

1741年(寛保元年)頃には泉州に布団屋台は存在していたと見て良さそうで、そこからそんなに時代は遡らないとして良さそうです。この原初の布団屋台がどんな形態であったのかですが、1796年(寛政8年)に発行された摂津名所図会が参考になります。

20150928165313

これは感田神社の記録から50年ばかり後のものになりますが、この布団屋台を当時はどう呼んでいたかですが、

20150928165437

「太鼓」と呼んでいたとみて間違いありません。ただ地域によっては壇尻とも呼ばれていたようで、長崎のコッコデショは別名境壇尻とも呼ばれるからです。コッコデショは1799年に初めて登場したとなっていますが、おそらくその激しいアクションと7年に1度しか登場しないので、1799年当時の原型をかなり保っていると私は考えています。画像を紹介しておくと、

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摂津名所図会の太鼓と非常によく似ており、18世紀末の布団屋台はこんなスタイルであったと見て良さそうです。これを泉州で布団屋台が使われる最大級の祭礼である百舌鳥八幡の月見祭の現在の屋台と較べてみます。

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200年の歳月の変化は当然あるのですが、摂津名所図会と長崎のコッコデショの雰囲気は残っている気がします。どこに注目するかですが、布団屋根の形態です。屋台の基本構造は太鼓を載せる泥台と呼ばれる足元部分があり、そこに担ぎ棒を装着するのが基本です。その泥台から四本柱が上に伸びて屋根を乗っけています。百舌鳥八幡のものは摂津名所図会やコッコデショと較べると屋根と四本柱の間に斗組や水切り金具が加えられていますが注目点は最下段の布団の大きさです。

四本柱で囲まれた部分を天井と呼びますが、摂津名所図会と長崎のコッコデショでは天井の面積の布団が最下段になっており、百舌鳥八幡でも天井と屋根の間に構造物こそ増えていますが、布団の最下段はほぼ天井の面積程度になっています。布団屋台は泉州から淡路に広まったとなっていますが現在の淡路の屋台は、

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淡路の屋台もバリエーションがありますが、基本形態は百舌鳥八幡の屋台に類似していると思います。特徴として抽出したいのはやはり

    最下段の布団が天井の面積に近い

そういう形態の源流は18世紀末に泉州で既に確立し泉州や淡路ではこれを受け継いでいる屋台が多いと言えそうです。


播州布団屋台・中町の事例から

播州祭り見聞記より屋台の分布を見てもらいます。

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播州屋台は布団屋根の他に神輿屋根があり、神輿屋根は姫路を中心とした西播に広がっています。神輿屋根は素直に御神輿を参考に製作されたとして良さそうで、播州オリジナルとして良いかと考えています。分布図をよく見て欲しいのですが、西から

    神輿屋根 → 神輿屋根・反り屋根混在 → 反り屋根 → 平屋根

こうなっていると見えなくもありません。ここで播州の地域分類を屋台分布で定義したいのですが、

    西播・・・神輿屋根分布地域
    東播・・・平屋根分布地域
    北播・・・反り屋根・反り屋根神輿屋根混在地域

さらに平屋根の東播のうち沿岸部以外の小野・三木を北播とします。


東播地域は泉州と言うか淡路の布団屋根の影響を強く受けたと考えています。そりゃ目の前ですからね。淡路の影響は沿岸部から北上していったと見るのが素直だと思います。一方で北播には神輿屋根・布団屋根以外の別系列の屋台があったと考えています。参考になるのは中区における屋台文化です。中区とは馴染みがない地名ですが、多可郡中町であるとすればわかりやすくなると思います。ここには1842年(天保13年)の絵馬が残されています。

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この絵馬に描かれた屋台は摂津名所図会の50年ぐらい後のもので、泥台・担ぎ棒・高欄・四本柱と基本構造は似ていますが、屋根が一段です。屋根の段数は地域差がありますが、見栄えからすると多段化は早くから行われたと考えたいところです。つうか泉州から淡路に広まった時点で多段化が進んでいたと考えても良く、淡路由来の布団屋根とは別の可能性を考えます。絵馬には布団屋根様の屋根はありますが、これは泉州・淡路直系のものではなく、淡路の布団屋根を真似した程度のものではないかと見ています。

北播オリジナルはもっとシンプルで泥台に担ぎ棒だけの屋台であったと考えています。エラいシンプルですが現在も実在します。西脇の春日神社には暴れ太鼓が奉納されますが、

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これが北播オリジナルの「荷い太鼓」だったとすると播州布団屋台の変遷が説明しやすくなります。多可郡中町の屋台の変遷を断片的ですが追ってみると

西暦 年号 根拠 屋根形態
1842年 天保13年 奉納絵馬 一段平屋根
1874年 明治7年 三木の新町が中古購入 多段平屋根の可能性が高い
1895年 明治28年 中町最古の屋台 反り屋根

新町は中古を購入しているのですが、中町はこれをもっと前に購入している訳で、絵馬の屋台から10〜20年もしないうちに布団屋根屋台に切り替えられた事になります。この新町購入屋台は現在も花尻屋台として健在で、

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この屋台も150年近い歳月の中で何度も改修を受けているはずで、どれだけオリジナルが保たれているかは不明ですが、虹梁が使われている事から平屋根で淡路系の屋台だと考えられます。これは中町が絵馬の屋台から一度は淡路系の平屋根になった傍証になります。さらに明治28年製作の森本屋台は、

ここも古い屋台なのですがオリジナルは良く保たれているとされます。中町では1842年の絵馬の屋台から1895年の森本屋台までの50年間に

    オリジナル一段平屋根 → 淡路系多段平屋根 → 反り屋根

こう目まぐるしくスタイルを変えていったと考えられます。このうちで一番のポイントは先に淡路系の平屋根が導入された点と見ます。


反り屋根と神輿屋根の関係

反り屋根の説明に平屋根からの進化系だの説明は良く見られます。ただよく見ると平屋根と反り屋根の共通点は屋根が布団であることだけじゃないかとも私には思えます。また平屋根からの進化も泉州・淡路型の屋根なら反らす事さえ困難です。ちょっとした思い付きで布団屋根を反らす発想は簡単には出てきません。反り屋根は単に布団の端を反らせたのではなく、布団屋根を何かの形に似せた結果じゃないかと私は推理します。

反り屋根で注目したいのは、屋根の中央部が盛り上がっている点です。これは反りの浅い古い形式のものでも必ずそうなっています。この盛り上がりは布団を反らせただけでは発生しないものです。つまり反り屋根では布団の中央部が盛り上がる事を必要としたんじゃないかと考えます。まだるっこしい言い方をしていますが、反り屋根では布団の中央部が盛り上がる事が絶対に必要であったと考えています。ここで神輿屋根を見て頂きたいのですが、

神輿屋根ですから中央部は盛り上がるというか高くなっています。注目したいのは屋根の端が昇総才と呼ばれる金具で反っている事です。ここで反り屋根をみてもらいますが、

布団の真ん中の盛り上がりが神輿屋根の屋根の部分に相当し、布団の反りが昇総才の金具に相当すると私は見ます。つまりは反り屋根とは神輿屋根を布団屋根で真似たものと考えます。これは他の部分にも痕跡が見られます。井筒は前にやったので置いとくとして、神輿屋根には庇に相当する部分があります。神輿ですから神殿建築の繁垂木を用いていますが、反り屋根でも同様に用いられています。これは神輿屋根に似せる意味と、そうやって布団屋根の底面積を増やさないと見栄えが悪かったのが理由と考えています。


平屋根の進化

さてなんですが反り屋根が神輿屋根に似せた布団屋根ならいっその事、神輿屋根屋台を購入すれば良さそうなんものです。ここの説明が厄介なのですが中町の例から考えると先に淡路型平屋根屋台が広まっていたぐらいしか理由が見付けられません。先に布団屋台があったので、布団屋根に愛着があったぐらいでしょうか。ただなんですが、中町での淡路型布団屋根の使用期間はせいぜい20年ぐらいです。20年でそこまでの愛着が出るかの問題は当然出てきます。

そこでと言うわけではありませんが、中町の西側地域に注目したいと思います。ここは屋台の分布で神輿屋根・反り屋根混在地域となっています。こちらの方がひょっとして淡路型平屋根の導入が早かったのかもしれません。中町は反り屋根分布地域になっていますが、淡路型平屋根をまず導入したものの、同じ布団屋根なら反り屋根の方が見栄えがするぐらいで導入されたぐらいは考えられます。もしそうであれば淡路型平屋根は加古川流域より市川流域に先に広がった事になります。市川流域で神輿屋根に似せた反り屋根が開発され、加古川上流地域の淡路型平屋根を駆逐してしまったぐらいの構図です。

そう考えても次の疑問が出てきます。市川流域の淡路型平屋根を駆逐し、加古川上流域も制覇した反り屋根が北条であたりで南下が止まったのは何故だろうです。地域の好みで済ませても良いのですが、平屋根にその時期に変化が現れ、反り屋根に対抗する魅力を得たんじゃないかは考えられるところです。現在の播州型平屋根を見てもらいますが、

泉州・淡路型とは異なり雲板を使った屋根の底面積の拡大が行われています。それと現在は布団の厚みが増す傾向にありますが、古写真で確認する限り布団はかなり薄くなっています。明治45年に同時新調されたとされる新町と滑原を見てもらいますが、

先々代新町屋台 先々代滑原屋台

泉州・淡路型が布団を厚くし段数を増やして高くする傾向があるのに対し、屋根を薄く低くしている感じがします。この改良により

    反り屋根より平屋根の方が「しゅっとして」格好が良い

こういう嗜好が生まれ平屋根地域として現在に至っている可能性はあると思います。


播州型平屋根の登場地域は

あくまでも私の仮説ですが、反り屋根が神輿屋根の影響を受けて誕生したのが市川流域なら、平屋根が改良されたのは三木・小野あたりではないかと考えます。この辺りが反り屋根と平屋根の境界になるからです。加古川上流地域に反り屋根が広がったのは中町の事例から考えて明治の初めぐらいじゃないかと推測されますから、播州型平屋根も幕末から明治初期ぐらいと考えられます。三木で製作記録が残る最古の屋台とされる久留美屋台が万延元年ですが、評価として最初から雲板はあったらしいとされているからです。

明石町屋台が久留美屋台より古いか新しいかは不明ですが、古い可能性はあります。理由は井筒に平屋根だからです。井筒の技法は神輿屋根や平屋根に一般的に用いられ、平屋根の場合は虹梁になります。久留美屋台も虹梁なのですが、井筒に平屋根の組み合わせになるのは反り屋根を平屋根に改造した場合がもっともポピュラーに発生します。明石町屋台の由来も謎に包まれていますが、反り屋根の中古屋台を購入して平屋根に改造したと私は考えます。この改造時に雲板を使った屋根の底面積の拡大が行われたぐらいでしょうか。

久留美は明石町の影響を受けて屋台を製作しましたが、井筒でなく従来通りの虹梁を用いたぐらいです。もうちょっと広げて言うと、三木では明石町と言うモデルが目の前にあったので井筒に平屋根タイプのものが幾つも製作されましたが、三木以外では従来通りの虹梁に平屋根で製作され、雲板による屋根の底面積の拡大だけが広まったぐらいでしょうか。

播州型平屋根の登場は反り屋根の浸透を跳ね返すぐらいのインパクトがあったと考えられるのですが、時期と地域からしてヒョットして明石町が第1号の可能性が出てきます。でもわかんないですよね。今日のお話も殆どが推測で、その上にさらに推測を重ねている部分が殆どです。その点は毎度のことながら御容赦下さい。

med2016med2016 2016/12/24 23:43 「勤務医開業つれづれ日記・2」の中間管理職です。この度、「勤務医開業つれづれ日記・3」に移行することになりました。旧ブログはそのままで置いておきたいと思います。新住所は、
http://kaigyou-turezure.hatenablog.jp
です。すっかり、北海道関連ブログとマンガ感想ブログになっています(苦笑)。

先生ほどの博識なら歴史小説家も十分ありですよね。私は書くのは好きでブログも3000記事以上になっていますが、知識が無くて……。今後ともよろしくお願いします。

YosyanYosyan 2016/12/27 08:10 med2016様

お久しぶりです。

 >すっかり、北海道関連ブログとマンガ感想ブログになっています(苦笑)。

うちも見ての通りの歴史ブログに様変わりです。あの頃の熱気は嘘のようで、のんびりと歴史趣味を満喫しています。寂しいといえば寂しいですが、あの頃のようにピリピリしたエントリーを続けるのはもう無理で、今の私に御似合ってところです。つうかあんだけ良く書けたものです。ある時代の熱狂はその渦中にいたものでないと本当のところは理解できないと言われますが、しみじみ実感しています。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20161208

2016-11-26 延慶本の二つの「みくさやま」

延慶本九巻に一の谷の合戦が書かれていますが、

  • 「みくさ」が16ヶ所
  • 「三草」が1ヶ所

1ヶ所の「三草」は

さてあきのうまのすけよしやすをおんつかひにて、のとのかみのもとへいひつかはされけるは、「三草山の手、すでにおとされて候なり。いちのくちへはさだよし、いへながをさしつかはされさうらひぬれば、さりともおぼえさうらふ。いくたへはしんぢゆうなごんむかはれさうらひぬれば、それ又心安く候。山の手にはもりとしむかへとて候へば、山はいちだいじの所にてあるよしうけたまはりさうらへば、かさねてせいをさしそへばやとぞんじさうらふが、いづれのとのばらも、『山へはむかはじ』とまうされさうらふ。いかがしさうらふべき。

これは義経が夜襲で攻略した三草山の事であるのは明らかです。では「みくさ」はどうかです。これがどうにももう1ヶ所の「みくさ」がありそうな気がしています。


三草山合戦の「みくさ」

列挙します

  1. げんじみくさのやまならびにいちのたにおひおとすこと
  2. からめでのたいしやうぐんくらうよしつねは、おなじきひきやうをいでて、みくさのやまをこえて、たんばぢよりむかふ。
  3. たんばぢにかかりて、みくさのやまのやまぐちに、そのひのいぬのときばかりにはせつきたり。
  4. みくさのやまはやまなかさんりなり
  5. へいけこれを聞て、みくさやまのにしのやまぐちを、たいしやうぐんはしんざんゐのちゆうじやうすけもり
  6. しちせんよきにてみくさやまへぞむかひける
  7. そのよのうしのこくばかりに一万余騎にて、みくさのやまの西のやまぐちかためたる平家の陣へおしよせたり
  8. みくさやまは、さんぬる夜のよなかばかりに、源氏のぐんびやうに、さんざんにおひちらされさうらひぬ。
  9. いづれの谷へおちて、いづれの峯へこゆべしともしらざりければ、みくさのやまのようちのとき、いけどりあまたせられたりけるを、きるべき者をばたちまちにきられぬ
  10. それらが申候つるは、『小松殿のきんだちは今度はみくさのやまをかためておわしけるが、いちのたにおちにければ、しんざんゐのちゆうじやうどの、さちゆうじやうどのふたところは、船に乗てさぬきのぢへつきたまひにけり。

この10ヶ所は三草山合戦の三草山を指していると判断できます。しかし読み直してみるもので三草山合戦では義経は戌の刻に小野原に到着し丑の刻に襲撃したと書かれてました。


一の谷の平家側の「みくさやま」

平家は三草山が落ちた事に反応して越中前司盛俊、能登守教経を山の手の補強に派遣しますが、

ほどなくみくさのやまへはせつきて、ゑつちゆうのせんじもりとしが陣の前にかりやを打てまちかけたり。

三草山に駆けつけてきたのは教経で、その陣屋は盛俊の陣の前、もうちょっとザックリとは盛俊陣の近くに仮屋を設けたとなっています。この三草山は三草山合戦の三草山とは明らかに指しているところが違う、一の谷陣地内の三草山を指しています。この盛俊隊・教経隊の動きは大手の範頼軍からも見えたようで、

大手のせいは宵の程はこやのに陣をとり、しころをならべてゐたりけるが、みくさの手にむかひたるゑちぜんのさんゐ、のとのかみのぢんの火、みなとがはよりうちあがりて、きたのをかに火をたてけるを

盛俊隊・教経隊は湊川から「きたのをか」に移動したとなっており、これを「みくさの手」に向かうとしています。ここは少し微妙なところで、

  • 「みくさの手」とは守備方面の事
  • 「みくさの手」とは義経軍の事

2つの解釈が成立しますが、その前段で教経が「みくさのやま」に駆けつけたとなっていますから、守備方面と解釈可能と考えています。


一の谷の源氏側の「みくさやま」


ここまでは平家軍の「みくさ」への動きですが次は義経軍です。

そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし」とてあゆませけり。

ここは

源氏のからめで一万余騎なりけるが、七千余騎は九郎義経につきてみくさのやまにむかひぬ、三千余騎ははりまぢのなぎさにそうていちのたにへぞよせたりける。

これと連動させて読みたいのですが、

  • 実平隊3000騎は山の手を目指すがルートは「はりまぢ」つまり塩屋経由で、山の手とは西の木戸を指す模様
  • 義経隊7000騎は「みくさのやま」を越えて鵯越を目指す

次は「みくさ」の途中描写です。

みかたへむかひて申けるは、「是より下へはいかにおもふともかなふまじ。おもひとどまりたまへ」と申す。「みくさより是まではるばるとくだりたれば、うちあがらむとすともかなうまじ。下へおとしてもしなむず。とてもしなばかたきのぢんの前にてこそしなめ」とて、たづなをくれ、まつさかさまにおとされけり。

急坂に怯んだ義経隊が馬を落として通れるかどうかを試すシーンですが、

    みくさより是まではるばるとくだりたれば、うちあがらむとすともかなうまじ。

みくさを下るとあるので峠と見て良いでしょう。つまりって程ではありませんが、延慶本の義経隊は、

    三草山を越えて下る → 急坂に出くわす → 逆落とし → 一の谷

こういうルートを取ったと書かれています。ついでですから「みくさ」の描写をもう少し具体的に

平家のおわするじやうの上から、じふしごちやうぞさうらふらむ。ごぢやうばかりはおとすといへども、それよりしたへは馬も人も、よもかよひ候わじ。

14〜15丁が峠の距離としています。1丁とは60間なので108mぐらい、15丁なら1.6kmぐらいですが、とくに山道では実際の距離ではなく平地換算の所要時間と見るべきで40分ぐらいってところでしょうか。それと登って下って15丁ですから、大雑把に登り10丁ぐらいの山とも見えない事はありません。よく登る丹生山が登りだけで25丁ですから 、せいぜい標高差100〜150mぐらいと見えなくもありません。それと偶然かもしれませんが、妙法寺から明泉寺あたりまでの歩行時間は地図検索で35分ぐらいとなっています。もう一つ「おとす」となっている高さの5丈とは50尺になり15mぐらいになります。どうも最後の標高差15mが馬では下りられない急坂として描写されています。


一の谷の「みくさ」はどこだ?

まず盛俊と教経は山の手防衛のために湊川から移動していますが、それは生田の範頼軍から見て「きたのをか」となっています。一方で教経は三草山に駆けつけたとなっていますから、

    きたのをか = 三草山

こうなります。三草山に駆けつけた教経は仮屋を建てていますが、これは盛俊の陣の前としています。前ってのが解釈が広いのですが、たとえば盛俊陣より敵に近いって見方も可能です。実は気になるのが仮屋で

おとしはつればしらはたみそながれさとささせて、平家のすまんぎの中へみだれいりて、時をどつとつくりたりければ、わがかたもみなかたきにみへければ、きもこころも身にそはず、あわてまどふことなのめならず。馬よりひきおとし射落さねどもおちふためき、上になり下になりしけるほどに、じやうのうしろのかりやに火をかけたりければ、西の風はげしく吹て、みやうくわじやうの上へふきおほひける上は、煙にむせびて目もみへず。とるものも取あへず、只海へのみぞはせいりける。

襲撃した義経隊は仮屋に火をかけたとしています。この仮屋が教経が建てたものならば、教経は明泉寺方面にいた事になります。つうのも明泉寺は盛俊が陣を置いたとされ、盛俊もこの付近で戦死したとなっています。推測を広げると盛俊は明泉寺を陣とし、遅れて到着した教経は仮屋を建てて陣としたんじゃなかろうかです。「みやうくわじやう」が盛俊陣ともし比定できれば、義経隊が教経の仮屋に火を放った事により、その煙が流れ込んで平家軍が崩れたぐらいになります。盛俊は義経隊の襲撃に対し踏みとどまって戦死するのですが、教経はどうかです。これは上の引用の続きになるのですが、

ところどころにてかうみやうせられたりしのとのかみ、いかが思われけむ、へいざうむしやがうすぐもと云馬に乗てすまの関へおちたまひて、それより船にてあはぢのいはやへぞ落給にける。

すまの関とは多井畑になりますが、船でとなってますから塩屋に落ち延びたとなっています。ここの気になる表現は、

    いかが思われけむ

これは「日頃の武名にもかかわらず」ぐらいと解釈できます。延慶本の教経は皆が嫌がった山の手守備を快く引き受けた時点までは良いのですが、いざ合戦が始まると次の描写は「すまの関」への落去になります。これはどうも最後まで踏みとどまって討死した盛俊との対比で描かれているように感じられてなりません。そうなると盛俊と教経は近いというか同じところを守っており、先に襲われて崩れたのが教経陣であり、それを収拾出来なかった教経は鹿松峠を越えて多井畑方面にいち早く逃げてしまったぐらいに受け取れないこともありません。つうことで

    みくさやま = きたのをか = 鹿松峠

こう解釈しても無理は少なくなります。


三草山 = 高尾山の可能性は?

今日のストーリーは鵯越道で高尾山を越え鵯越支道を使ってもルート的には成立します。鵯越支道説なら襲撃されて逃げた教経が源氏軍のいない鹿松峠を強引に乗り越えて逃走したの説明には有用です。一方で鵯越道は当時の山田荘から福原へのメインルートの一つ(山田荘は福原京時代に天皇家の御料米であったとされます)で凄い難路で道案内探しに苦渋するって道でないのが一つと、一の谷当時に明泉寺方面に下りる鵯越支道があったかどうかは確認出来ていません。

それよりなにより最大のネックは義経が鵯越道を使うのであれば義経軍は藍那の相談が辻で、

  • 義経隊は左に曲がって鵯越道へ
  • 実平隊は右に曲がって多井畑へ

こう分かれる必要がありますが、相談が辻あたりの地図を出しておくと、

相談が辻は神戸電鉄藍那駅から坂を登りつめたところにありますが、現在はともかくかつては鵯越道から会下山を通って福原に向かう道と、白川方面から多井畑経由で塩屋(塩の供給地)に続く道の分岐点であったとしてよいと考えています。分かれた後の横の連絡は基本的にプアで、それこそ地元住民しか知らない杣道で、騎馬武者が通るには適さなかったであろうぐらいです。つまりは一度鵯越道方面に進んでしまうと、相談が辻まで戻らないと白川方面(多井畑から塩屋)に行けないぐらいに考えて良いかと思います。

そうなった時に困るのが熊谷直実・平山季重の抜け駆け先陣になります。熊谷・平山は寅の刻の初め(3時)に義経陣を抜け、卯の刻(6時)には西の木戸に到着しています。通本でも夜半に抜けて寅の一刻(3時)までには西の木戸に到着していますから義経陣から西の木戸までの所要時間は延慶本と同じ3時間足らずになっています。3時間足らずでは藍那から塩屋を抜けて西の木戸に到着するのは距離からして不可能です。義経隊にいた熊谷・平山の抜け駆け先陣が史実としてある限り、義経が鵯越道を通った可能性は極めて薄いとさせて頂きます。


平家の判断の深読み

行間を読むような作業なんですが、

山の手にはもりとしむかへとて候へば、山はいちだいじの所にてあるよしうけたまはりさうらへば、かさねてせいをさしそへばやとぞんじさうらふが、いづれのとのばらも、『山へはむかはじ』とまうされさうらふ。

宗盛が山の手の防衛強化のために越中前司盛俊隊にさらに増援を送る判断をしています。でもって盛俊隊は明泉寺にいます。山の手防衛は嫌われて諸将に断られ最終的に能登守教経が増援を受諾しています。教経が仮屋を建て陣を置いたのは盛俊陣の前となっています。つまりは教経隊は盛俊隊と同じところを守っていたと読み取れます。そこを義経隊に襲われて潰走するのですが、一つの謎は何故に脆くも潰走したかです。奇襲だからで片づけていましたが、教経は猛将であり、盛俊も勇将です。

奇襲といっても真昼間の襲撃ですし、鹿松峠を越えての襲撃が心理的に不意打ちであったとしても、監視を怠っていなければ源氏軍が鹿松峠を越える頃には確認可能ですし、源氏軍も鹿松峠の坂を一気に駆け降りた訳ではありません。最低限、最後の5丈の急坂の前では立ち止まっています。ごく単純には鹿松峠の上に源氏軍が現れてから、明泉寺方面襲撃までにそれなりに時間があった事になります。教経像の実相はわからないにしろ、その状態であっさり仮屋を焼かれての潰走する理由として物足らない感じがしています。

やはり義経隊の襲撃が奇襲になるだけの要因があったんじゃないかろうかです。もう少し具体的には教経や盛俊が油断しきってしまう状況が出現したんじゃないかです。その原因は平家の情報判断にある可能性があります。源平時代の物見隊・偵察隊についてはよくわかりませんでしたが、義経軍が通った

    山田荘 → 藍那 → 車 → 多井畑

このあたりは清盛が福原を盛り立てるために力を入れていたところです。平家物語などでは源氏にあっさり寝返った描写になっていますが親平家派がいたとしてもおかしくありません。つうか源平合戦自体がこの時点ではどちらに帰趨が傾くか不明なわけで、源氏に全面加担して平家が一の谷でこれを撃退してしまうと後の祟りも怖いってところもあったはずです。義経軍の動きを平家軍に報告する者があったとしてもおかしくありません。この通報者による情報で平家軍は戦略を立てていた可能性があります。

平家に取って問題は義経軍がどこから攻めてくるかです。地図があった方が良いと思いますから、

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まず相談が辻から車方面に進めば鵯越道の可能性は消えます。宗盛の判断は義経軍が鵯越道を進まない段階の情報で鹿松峠の防衛強化を考えたのかもしれません。次は車から多井畑に進むのか妙法寺進むのかです。この違いは

  • 妙法寺に進めば鹿松峠越
  • 多井畑に進めば塩屋経由で西の木戸

もうちょっと単純化すれば義経軍の多井畑宿営の情報が入れば西の木戸に進む公算が大きくなるぐらいです。盛俊隊・教経隊は2/6(合戦前夜)には明泉寺方面で備えを固めていますが、2/7朝までに義経軍多井畑宿営の情報が手に入ったぐらいを想像します。いや多井畑宿営情報が手に入らなくとも、2/7卯の刻に西の木戸に源氏軍が現れれば教経の判断として、、

    義経は鵯越道にも鹿松峠にも来ず西の木戸を目指した

つまりは明泉寺にいる教経も盛俊も完全に後陣となり当面は合戦に至る心配はなくなります。つまりって程ではありませんが、教経は思うわぬ奇襲に動揺したのではなく、来るはずもないと思い込み油断しきっていたところでの襲撃に動転してしまったぐらいはあるかもしれません。


義経の戦術の深読み

熊谷・平山の抜け駆けにある

はりまぢのなぎさに心をかけてうちいでむとする所に、むしやこそ五六騎いできたれ。「只今ここにいできたるはなむ者ぞ。名乗り候へ」と云けるこへを聞て、くらうおんざうしのおんこゑと聞て、直実申けるは、「是は直実にて候。君のぎよしゆつとうけたまはりさうらひて、おんともに参り候わむとて候」とぞ申ける。のちに申けるは、「御曹司のおんこゑをそのときききたりしは、百千のほこさきを身にあてられたらむも、是にはすぎじと、おそろしかりし」とぞ申ける。

これは熊谷父子が抜け駆けをしようとしたら義経率いる巡視隊に出くわすシーンです。これは延慶本にはあり通本では消えた部分ですが、義経はなんのために巡視隊を率いて夜回りしていたんだろうかです。抜け駆けの先陣防止の意味もあったかもしれませんが、平家への通報者の防止のためだったんじゃないかと見れそうな気がします。私は多井畑宿営説を取っていますが、多井畑厄神も平家からの恩恵を蒙っていたはずです。義経も自分行動が平家軍に通報されている可能性を常に念頭に置いていたのかもしません。なんと言っても多井畑も敵地だからです。

義経が平家軍に知られても良い情報は実平隊が西の木戸に向かう事であり、知られてはならない情報は鹿松峠に反転して向かう事になります。多井畑宿営はそのための欺瞞行動の一環と見ることも出来ます。別動隊編成も早いうちに発表してしまうと通報される危険性があるため、それこそ実平隊が出発寸前の丑の刻になって漸く発表したとしても不思議ありません。軍勢に発表すると多井畑厄神の神官にも知られる危険性が高くなるので、別動隊発表後は平家陣地に通報者が出ないように巡視隊を率いて監視していたぐらいです。

それともう一つ欺瞞戦術を取っていた可能性があります。義経軍の進路ですが実平隊の進路は「はりまぢ」とありかなり明らかです。一方の義経隊は曖昧です。曖昧と言うか「みくさ」の言葉で行き先をぼかしているんじゃないかと思えるのです。義経軍は東国兵ですから地理に昏く、地名にも暗いところがありますから、極端な話、御大将が引きつれて進むところに付いていくだけです。目的地の地名を知られて困るのは地元の人間と平家軍になります。そこで鹿松峠を「みくさ」と故意に言い換えたんじゃないでしょうか。

おそらく平家にとっても「みくさ」といえば三草山合戦のあった三草であり、一の谷周辺には該当する地名はなかった可能性が十分にあります。もし別動隊の存在を通報されても「みくさってどこだ?」の混乱を期待したぐらいです。そう考えると鵯越も暗号かもしれません。三草と鵯越の二つの言葉を掛け合わすと鵯越道襲撃の可能性なんてのも出てくるからです。ただ義経が多井畑にいるとの情報の上ですから、鵯越道襲撃を予想しても2/7に攻めてくる可能性は低くなるぐらいです。

この「みくさ」は勝ち残った源氏軍にとっては固有の地名になり、平家物語が成立する時に集められたとされる各家の武功談でも

    義経と越えた峠は「みくさ」である

こうなっており平家物語でも定着した可能性はありそうな気がします。地名も一の谷の様に失われることはあり得ますが、峠の地名は失われにくい気がします。しかしどれだけ探しても神戸に三草山なり三草峠は見つかりません。だから義経の欺瞞戦術の一つじゃなかったかと考える訳です。

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