新小児科医のつぶやき

2016-06-14 モノクロ画像のカラー化2

reservoir様からオンラインで無料で自動着色してくれるサイト(siggraph2016_colorization)があるとの情報を頂きました。さっそくやってみると、

かなり優秀なソフトだと感心しました。そこで第3作に予定してた画像も試してみたのですが、

20160614120316

全自動着色にも向き不向きがあるようです。そこで前2回の経験を活かして手作業でトライしてみました。とくに2回目の経験として境界線処理がうまくいかなかったので、その点でもリベンジです。

これぐらい塗れれば個人的には上出来です。摩耶花壇ネタなんですが、乏しい情報の中に「三階建」となっていましたが、これは地上3階ではなく地上2階・地下1階であったようです。それと画面の左側にあるアーチ状の構造物は釜風呂に向かう橋じゃないかと推測されます。宿泊客は1階のレストランを通らずに風呂の向かえる設計の見方です。それにしても電気は通っていたようですが、水はどうしていたんだろうと思います。飲料水ぐらいならケーブルカーでも運べるとは思いますが、釜風呂用の水はどうしていたんだろうです。もちろん炊事・洗濯もあります。同じ問題はマヤカンにもあったはずですから、水道設備は摩耶ケーブルが設置されたときに敷設されていたのでしょうか。


もうひとつですが、マヤカンの客室は13室の情報がありました。摩耶花壇は2階が客室部分で良いと思うのですが、北側の方は階段室があり部屋はあったと思えませんから、摩耶花壇の客室はすべて南向きであった可能性が強そうだと考えられます。具体的には2階は北側に階段室があり、あがったところは釜風呂に向かう廊下があり、その廊下沿いに客室が並んでいた可能性です。次の画像を見て欲しいのですが、

20160614122714

この角度から見るとオープンデッキの柱間は4つです。柱の間を1間と考えると4間(7.2m)になります。部屋の幅を1間とすれば4部屋取れますが、シングルならともかくダブルでは狭い気もします。では1.5間にすれば端数が出ます。この先は確認しようがないのですが、

  1. 1間幅で4室
  2. 1.5間のダブル2室と1間のシングル1室の計3室
  3. 2間のダブル1室と1間のシングル2室の計3室
  4. 2間ずつの2室

2〜4室と考えて良さそうな気がします。マヤカンも客室数がそんなに多くないのが気になっていましたが、当時であっても摩耶山で宿泊までする客層は多くなかったとも考えられます。と言うよりもマヤカンも摩耶花壇もかなりの富裕層を対象にしていた面がありそうですから、マヤカンや摩耶花壇に宿泊する客層を考えると客室規模はそれぐらいになったと考える方が妥当なのかもしれません。つうのも戦後の話で良いと思っていますが摩耶花壇もバンガロー村を作り、摩耶山株式会社もバンガロー村を作っています。さらに奥摩耶にも神戸市がバンガロー村を作っています。これは摩耶山に宿泊したい客層がかなりあったと見ることも可能です。

ここは想像になりますが、摩耶ケーブルから天上寺に至る道筋に戦前は大衆向けの宿泊施設が存在していた可能性はあると考えだしています。摩耶花壇が摩耶ケーブルの開通に合わせるように開業したのは、そういう宿泊施設の繁盛があったからで、大衆向けとは差をつける意味で高級路線を取ったぐらいの見方です。戦中から戦後の10年間はケーブルも撤去され、記録も非常に乏しい時代になりますが、この時期に大衆向けの宿泊施設は消滅してしまった可能性は十分にあります。

ケーブルカー再開により摩耶山観光は再び栄えることになりますが、消滅した大衆向け施設の代替にバンガロー村が設置され、戦後のマヤカン復活は富裕層向け施設への需要に応えたものだったぐらいに思えてきました。ホントに現地に行っても今でも健在なのはケーブルカーとロープーウェイしかないので想像するのが大変なんですが、戦後に繁栄した奥摩耶遊園さえ私の世代で辛うじて知っているかどうかの時代になっていますから、遥かなる昭和の薄れゆく記憶といったところのようです。

BugsyBugsy 2016/06/16 15:22 古いモノクロ写真をカラー処理すると昔風のくすんだ色になってしまうのでしょうか。

当時のカラー写真は、実はモノクロの画面に色をつけていたようで手彩色と呼ぶそうでエッチングにもあるようですね。

YosyanYosyan 2016/06/16 17:28 Bugsy様

言ってはならぬことを・・・

くすんだ色になったのは昔の写真だからではなく、色を塗った者の技術が劣っているからです。細かいことをいえば、元の写真の壁の部分はかなり傷んでいる写り方をしています。おそらく新築当時の写真ですから、もっと染みのないものだったはずです。壁を綺麗にするには原画の染みを除去する必要があります。ただ、染みと影を区別してクリーニングしなければなりません。これが正直なところおっそろしく面倒です。

私は手を抜いて原画のままで色を被せています。しかしそれだけでは汚い壁にしかなりません。仕方がないのでコントラストで誤魔化したのですが、壁だけ誤魔化すと全体のバランスが悪くなるので、全部が「くすんだ色」になってしまった次第です。

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2016-06-12 モノクロ画像のカラー化

純粋に「出来心」なんですが、モノクロ画像のカラー化は出来たはずです。モノクロ映画のカラー化もしていたわけで、そういう話を聞いてからそれなりに年数が経っていますから、今ならお手軽に出来るかもしれないとググってみました。結論的にはさすがに全自動着色をやってくれるフリーソフトは見つかりませんでした。それでもググっていくとモノクロ画像への着色を紹介しているサイトはわりとありますし、見てるだけなら簡単そうに思いました。

ほんじゃ、と手を付けたらこれがさすがに手強い代物でした。まずどうやってというか、基本的にどういうメカニズムで塗っていくのか理解するのに一苦労ってところです。わかってみれば基本原理はシンプルで、

  • 原画に透明レイヤーを重ねる
  • レイヤーの上に色を塗る
  • さらにレイヤーを重ねて別の色を塗る

レイヤーはIllustraterでもお馴染みのシステムなんですが、アナログ風に言えば原画の上に透明セルを重ねて色を塗っていくぐらいの感じです。PCが手書きよりお利口なところは、一度塗った色を後から自在に変えられる点です。機能的にはPhotoshopで出来るはずなんですが、実際にやってみるとレイアー毎に色を調節する設定が上手く動いてくれません。ネットに対策を求めてもversionが相当古くて「???」ってところで、もう少しやりやすいソフトに変更したらうまく動いてくれました。つうことで習作の第1作です。

原画 着色後

さて技法的にレイアーだけでも色を塗れるのですが、サイトにはマスク技法を紹介したものが多くあります。マスクを理解するのにこれまた一苦労だったのですが、私が理解した範囲では

  1. 原画を複製コピーする
  2. 原画全体を塗りたい色に変更
  3. 原画の上を黒く塗りつぶすマスクをつける
  4. マスクの上を白抜きすると、元の原画のその部分だけ色が反映される

アナログ的に解釈すると、黒い紙に色を塗りたい部分だけ穴を空け、そこに色を塗りつけるぐらいか、原画自体の色を変えて必要な部分を切り取り、原画の上に貼り付けているぐらいです。どうにも最後のところの理解がイマイチなんですが、手法だけはわかったのでマスク技法を中心に第2作です。

原画 着色後

やってみた感想ですが、とにかく陰気な作業の連続です。出したい色がなかなか出てこないのは「慣れ」の問題なんですが、とにかく塗るのが異常に細かい作業になります。とくに今回は原画のサイズが小さくて、しかも拡大すれば境界は限りなく不鮮明になります。現実的には8倍に拡大して、ピクセルの1点、1点に色を塗りこむって感じで、1枚につき作業時間にして4時間から5時間ぐらいでしょうか。プロに頼むと1枚につき数万円って話が転がっていましたが、なんとなくわかる気はします。私も基本技法はなんとか出来るようになりましたが、自発的ならともかく、頼まれてやりたい作業とは思えませんでした。

それでも在りし日の摩耶花壇の様子が少しだけでも再現できたので「自己満足」的にはOKとしておきます。そうそうとくに第2作は着色後に直線がギザギザになってしましたが、これを解消するには境界線処理の知識と経験が必要なんですが、そこまで頑張るには気力が尽きた・・・

reservoirreservoir 2016/06/12 17:39
最近流行りの自動化だとこんな感じで。。。。
http://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/result/d2d34b58-88d5-4481-a634-ba2cfead153e
http://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/result/d37c4647-1d96-4cef-a384-c4a7eb2c2797

Webサービス入口
http://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/

プレスリリース
https://www.waseda.jp/top/news/41520

YosyanYosyan 2016/06/13 15:34 reservoir様

自動でも結構きれいに塗ってくれるみたいでチト悔しいです。まあレタッチの基礎を学習したぐらいに思っておきます。

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2016-06-06 続々摩耶花壇

第3弾を書くことになるとは思いませんでしたが摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様がかなり突っ込んで調べられていましたので便乗します。とにかく情報が少なくて、摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様も、

遺跡とも廃墟とも呼ばれる摩耶花壇跡。 様々に憶測される謎の建物ですが、入手した史料に基づく考察を加えたいと思います。
反面、この遺跡の存続を考える時、謎のまま置くことと、ベールを剥ぐことの、どちらが望ましいのか迷うところです。

気持ちはわかりますが、たぶんベールをすべて剥ぐのは不可能だと思っています。なんといっても戦後も71年経ち、摩耶花壇経営に携わった人間どころか、摩耶花壇を利用した人間すらどれだけおられるのかの時代になっていますから、わかる範囲で詰めて見ます。とりあえず新たに見つけた摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様の画像を紹介させて頂きます。

大食堂ですが、バーカウンターも備えていたのがわかります 完全なオープンデッキだったことがわかります。

非常に貴重な画像で良く残っていたものだと感心しています。


重箱検討

摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様は摩耶花壇の沿革も年表にまとめられております。内容的には摩耶山観光のムックの時に作った年表に近い内容なのですが、

摩耶花壇の遺跡地が、摩耶山株式会社の所有地であったことから、1925年の「食堂」や1926年の「客室」が摩耶花壇に当たると思われる。

摩耶山株式会社は摩耶山観光のために阪神電鉄が作った子会社ぐらいで良いのですが、摩耶花壇が摩耶山株式会社の所有地に建てられていたのは初めて知りました。その点から摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様(以後摩耶遺跡神戸様にさせて頂きます)は摩耶山株式会社の経営目的である

    療養所ホテル食堂および浴場娯楽場経営

の一環として摩耶花壇が建設されたんじゃないかと推測されています。真相はもちろん不明ですが私は違う気がします。理由は単純で、

    摩耶花壇・・・1926.7.22開業
    マヤカン・・・1929.11.17開業

施設として重複するからです。摩耶山株式会社もホテルはともかく、食堂ぐらいは摩耶ケーブルが1924年に開通した時に作ったでしょうが、ホテルまでは「まだ」だった気がします。むしろ摩耶花壇の高級路線の成功を見てマヤカン建設に進んだぐらいを考えています。次のところも微妙なんですが、

1941〜1945 太平洋戦争による観光施設としての営業を自粛、山頂の高射砲陣地整備事業に協力、軍による大きな影響があったと思われるが、観光ホテル、摩耶花壇ともに当時の資料はほとんど見当たらない。軍用施設化?

戦時中に摩耶花壇もマヤカンもどうなっていたかの情報が非常に乏しいのですが、陸軍の高射砲陣地が掬星台に築かれたのは1943年に軍用道路(現在の奥摩耶ドライブウェイ)が出来てからと見たいところです。つうか高射砲陣地を作るために軍用道路が作られたと考えるのが自然です。摩耶ケーブルの利用者は1943年には20万人弱に減少していたとの記録が残っていますが、それでも20万人ぐらいはいたわけで、細々と営業を続けていたと見ることも可能です。つうのも摩耶遺跡神戸様の聞いた話として、

「戦時中に大砲の銃身を製作する傍ら、3中(現・長田高校)の同窓生が寄って、ここでスキ焼きをした」という先輩に出会った。

旧制中学生が大砲の砲身を作るとは、学徒勤労動員によるもののはずでwikipediaより

学徒勤労動員または学徒動員とは、第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)以降に深刻な労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたことである。

学徒勤労動員は1943年からとなっていますが1944年に

4月には全国学徒は軍需工場へ動員された。文部省は「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」を発令した。

つまりは摩耶遺跡神戸様の先輩が砲身を作るのに動員されたのは1944年の可能性が十分にあり、その時点でも摩耶花壇ですき焼きを食べられた証言になります。マヤカンを調べた時に戦時中の様子として、

    兼業の土地家屋及び温泉業は時局国策に副うように営業継続

ここの「国策」の解釈が難しいのですが、前は高射砲陣地の将校宿舎の可能性も考え、その可能性も十分ありますが、一方で民間向けのある種の慰安施設として営業していた可能性はある気がします。だって当時のことはよくわからないですが、旧制中学生が摩耶山の食堂ですき焼きをそうは簡単に食べられるとは思えないからです。推測にすぎませんが、学徒勤労動員された生徒に給料代わりにそういう御馳走の権利を渡していたんじゃないかと考える次第です。ただ私の説もこれまた微妙なところがありまして摩耶ケーブルはwikipediaより、

1944年(昭和19年)2月11日 - 不要不急線として高尾 - 摩耶間が休止。翌年にかけて軌道も撤去される。

まあ歩いて登ったのかもしれません。それとなんですが、例の療養所としての運用時期です。摩耶遺跡神戸様も

摩耶花壇が一時、医療施設として使われたとの解説があるが、その確証は見当たらない。

私も探し回りましたが見つからなかったのですが、可能性としてあるのはやはり戦時中です。戦時中はおそらくマヤカン同様に摩耶花壇も「国策」に副った営業が行われていたと思われますが、食堂部分は営業していても宿泊部門が傷病兵の療養所として使われたんじゃないかと考えだしています。摩耶山の宿泊施設はある意味、純観光施設ですから戦時体制下では不要です。つうかそんな時世に泊りがけで摩耶山観光をする客も激減していたと考えるのが自然です。そこで宿泊施設を医療施設として提供する代わりに、食堂部分の営業を認めてもらっていたぐらいです。


終戦後

ここはマヤカンも含めて情報が乏しい時期ですが、摩耶遺跡神戸様は、

1950〜55 摩耶花壇を関係者家族が宿泊施設として利用

この情報の出どころがわからないのですが、仮にそうであっても1945〜1950年の間はどうしていたのだの疑問が出てきます。それと営業と言っても摩耶ケーブルの再開は1955年になってからになります。ケーブルが無い場合の摩耶花壇へのアプローチは、

  1. 麓からテクテク登る
  2. 1953年に出来た掬星台へのバス路線を利用し、天上寺を抜けて摩耶花壇に至る

天上寺への参詣客相手の宿泊施設の可能性は残るとはいえ、本当に宿泊施設として営業していたかどうかは疑問が残ります。むしろ1955年の摩耶ケーブル再開まで終戦から閉鎖状態ではなかったかと思います。


バンガロー村

摩耶遺跡神戸様より、

1960 年前後に3階建「摩耶花壇」を解体、廃材でバンガローと茶店を建設し、同名の「摩耶花壇」と命名

このバンガロー村も謎が多いのですが、前にも出した当時の住宅地図が参考になります。

1956・1958年版とも同じ(「神戸市全産業住宅案内図帳 灘区」神戸地学協会)
1964年版(「神戸市全産業住宅案内図帳 灘区」神戸地学協会)
1966・1968年版とも同じ(「灘区 西部(観光と産業の神戸市住宅地図)」関西図書出版社)
1969年版(「灘区 西部」ゼンリン)

これでは1956年には既に摩耶花壇の南側斜面にバンガロー村が出現しています。仮定になりますが、

  1. 1955年の摩耶ケーブル再開をみて摩耶花壇復活を企画した
  2. ところが終戦時より10年間閉鎖されていた建物は傷みが激しかった
  3. そこで3階建ての建物を解体し、その廃材も利用しながら、

    • バンガロー村を建てた
    • 旧館の後に茶店としての摩耶花壇を建てた

この方が自然の気がします。閉鎖時期について摩耶花壇神戸様は、

  • 1967/7/9 集中豪雨のため、ケーブル、観光ホテルとも大被害で廃墟化
  • 1968 年頃に2代目「摩耶花壇」も無人となり廃墟化開始?

1967年の台風被害はマヤカンにも致命傷に近い損害を与えているので、摩耶花壇及びバンガロー村も同じような被害を受けたと考えるのは自然です。しかし台風前年の1966年の住宅地図では既にバンガロー村は消えてなくなっています。住宅地図を信じる限り摩耶花壇のバンガロー村は1967年の台風に関係なく消滅したと考えるのが妥当と思われます。さらに1966年の住宅地図には既に摩耶花壇の屋号(つうか1964年には「アート」に屋号が変わっています)も消えています。これらの情報から茶店としての摩耶花壇及び後継の「アート」の営業も1965年頃に終わったと私は考えたいところです。


おまけ

摩耶遺跡神戸様の画像です。

20160605073520

キャプションには

松林の上部にジェットコースターの軌道らしい影や、道向いにも洋風らしい建物(松?園)の一部が見られる。

ジェットコースターは奥摩耶遊園には存在しましたが、ケーブル摩耶駅周辺には存在していませんから思い違いとして、目を凝らすと摩耶花壇の前(画像の左側)にも建物があるように見えます。つうか絶対に存在してたはずで、現在も

20151018130116

コンクリート基礎が残されています。摩耶花壇様はこの建物の名前もかすかに知っておられるようで「松?園」までは記載されています。この建物のと摩耶花壇は地下でつながっていたの説もあるのですが、先日に摩耶山に登った時に上からのぞいてみましたが、出入口らしきものは見つかりませんでした。もっとも擁壁の内側に通じていた可能性は否定できないのですが、これまた地面を見る限り入口跡らしきものは見つかりませんでした。地面側の入り口は塞いだ上に土が乗っかってしまったのは否定できませんが、伝承の真偽はどうなんでしょうねぇ。


今日はまるで摩耶遺跡神戸様の重箱を穿る様なエントリーになってしまいしたが、実際のところ私の見解が正しいのか、摩耶遺跡神戸様の説が正しいのかは検証しようがありません。それより何より貴重な画像の提供と、取り壊し立て直しの話を発掘して頂いた功績の方がはるかに大きいと思います。奥摩耶も含めた摩耶山観光の歴史は自分も調べたからわかるのですが、とにかく情報が乏しくて、始まった年は比較的残っていても、いつ閉鎖になったかについては曖昧至極の世界になります。それぐらい情報が少ないのが摩耶花壇と思っています。

BugsyBugsy 2016/06/11 15:15 この写真は神戸らしく面白いですね。

自分の祖父はカメラ道楽で昭和の初期からのスナップ写真が今でもたくさん残っています。
昭和19年あたりまで国内は平和だったようで 霧島や雲仙温泉に家族旅行を楽しんでいました。
男性は洋装でも、女性は真夏以外では和服で旅行をしていたようです。畳の間が寛ぐようで 宿泊はすべて旅館です。
当時の観光地の風景写真にも洋風のホテルはなく、テラスというよりは縁側で夕涼みをしています。
バーカウンターなんて大都会のホテルしかなかったようです。もしくは箱根や、日光、軽井沢といった元々外国人の保養地に限っていたようです。従って死ぬまで祖父はナイフとフォークが苦手でしたし、カクテルを飲んだことがなかったでしょう。

土地の特徴はよく出ている点が気に入ってしまいました。

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2016-06-05 リボンシトロンってなんだ?

摩耶山に登った時に摩耶花壇で新しい情報が見つかったのでエントリーを1本立てたのですが、ネタ元の画像にはQRコードが付いてました。恥ずかしながら利用したことがなかったので、どうやって利用するかを娘に聞いたら、

    「バーコードリーダーを入れたら読めるで」

さっそく入れてみて、ハイキング中に撮った画像のQRコードを読み取らせるとスルスルとサイトが開いてくれました。世の中便利なものです。そのサイトにはより鮮明な画像があったのですが、スマホからでは画像がチトとりにくい。そこで、PCから検索したのですがググっても容易にお目当てのサイトに行き着きません。仕方がないのでURL入力したらちゃんと存在しました。摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸ってサイトで、そこから元画像を引用させて頂きます。

20160605073519

これはかなり鮮明です。ここから摩耶花壇ネタをもう1回やりたいところですが、今回は趣向を変えて、画像左側のアーチ状のところに書かれている文字に注目したいと思います。「アサヒビール」は今でもメジャーなブランドですからストレートにわかるのですが、

これってなんだってところです。


リボンシトロンと戦前のビール業界の変遷

直感的にビールに対してのソフト飲料の感触がありますが、私は見たことも聞いたこともありません。ほいじゃってことでググるとあっさり出てきました、お手軽にwikipediaより、

リボンシトロン(Ribbon CITRON)とは、ポッカサッポロフード&ビバレッジ(旧・サッポロ飲料)が販売する炭酸飲料である。

まだ製造・販売していることに驚いたのと同時に、サッポロビール系のソフト飲料とアサヒビールが並べられているのは「なぜ?」です。普通は同系列の商品が並ぶだろうってところです。ポッカサッポロフード&ビバレッジのRibbonの歴史を開いてみたのですが、

ただいま準備中ですので、どうぞお楽しみに!

残念ですがwikipediaに頼ることにします。リボンシトロンの誕生の経緯は

リボンシトロンの歴史は古く、1909年にサッポロビールの前身である大日本麦酒によりレモン風味の炭酸飲料「シトロン」として発売(シトロンは柑橘類の一種の名)、1914年には同社の清涼飲料にリボンブランドを採用。翌1915年、シトロンもリボンシトロンと改称して現在に至る

大日本麦酒ってなんだになるのですが、大雑把にはこういう変遷をたどっています。

20160605080803

細かい点だけwikipediaから補足しておくと、

その後、1907年に東京ビールを製造していた東京麦酒を買収。1933年には日本麦酒鑛泉(ユニオンビール・三ツ矢サイダーを製造販売。根津嘉一郎経営)を、また1943年には桜麦酒(サクラビールを製造販売。1939年に帝国麦酒から社名変更。旧鈴木商店系)を合併した。朝鮮市場向けのビールを製造するために、地元資本と折半して資本金600万円で1933年8月に朝鮮麦酒株式会社を設立し、現在韓国でビールシェア一位のハイトビール(社名変更)となっている。

第一次世界大戦の戦後処理として、ドイツ租借地であった中国・青島が日本の管理下におかれたことを受け、ドイツ資本によって建てられた青島ビールの経営権を1914年に取得し、1945年まで大日本麦酒が自社工場として経営した。

合併時のシュアは実に7割を占めたとなってますから、戦前のビール業界のガリバーってところです。ただなんですが大日本麦酒として統一ブランドで販売していたわけではなかったようで、合併前のブランドで基本的には販売されていたようです。ここらも情報が錯綜しているのですが、

    大阪麦酒・・・アサヒビール
    日本麦酒・・・ヱビスビール
    札幌麦酒・・・サッポロビール

振り分け的には西日本がアサヒビール、東日本がサッポロビールになってようです。ですから摩耶花壇にもアサヒビールの文字が書かれていたわけです。ビール業界の変遷の基礎知識はこれぐらいにして、リボンシトロンは大日本麦酒になってからの製造販売です。リボンちゃん生誕45周年記念展示によると、

リボン・シトロンは1909年(明治42年)に大日本麦酒から発売された。日露戦争後の不況からビール以外の新製品の開発を考えていた大日本麦酒は、保健衛生の立場から「シトロン」を選び、製造販売することとした。これはビール製造で発生した炭酸ガスを使用できることも理由にあったようだ。

 「シトロン」は途中から「リボン・シトロン」と呼ばれ、日本中に浸透していった。ブランド名を「リボン」にした理由は、女学生の頭につけたリボンからとったという説、「高級そうに聞こえるから」という説があるが、詳しい由来は不明である。

大日本麦酒は日本麦酒鑛泉も合併しているので三ツ矢サイダーもあったのですが、リボン系飲料の販売に力を入れていたフシが窺えます。wikipediaに記載されている大日本麦酒の清涼飲料水ブランドは

  • リボンシトロン(ポッカサッポロフード&ビバレッジが承継。)
  • リボンナポリン(ポッカサッポロフード&ビバレッジが承継。現在は北海道のみで販売。)
  • リボンラズベリー
  • リボンタンサン
  • 三ツ矢シャンペンサイダー(日本麦酒鉱泉より承継。アサヒ飲料が承継。)
  • 金線サイダー(日本麦酒鉱泉より承継。)

リボンの名の付くブランドが4種類あります。推測というか想像ですが、レストランが大日本麦酒のビールを導入したらセットでリボンシトロンも導入されたぐらいに考えています。


戦後のリボンシトロン

1949年に財閥解体の影響で大日本麦酒は朝日麦酒(アサヒビール)と日本麦酒(サッポロビール)に分割されます。この分割にもいろいろ経緯があったようですが、大雑把には

  • 東日本は日本麦酒のテリトリー
  • 西日本は朝日麦酒のテリトリー

これでスタートしたぐらいに考えて良さそうです。この時にリボンシトロンは日本麦酒に継承されたので、リボンシトロン販売は東日本中心に傾いたぐらいに理解できそうです。一方でリボンシトロンを失った朝日麦酒はバヤリースを導入したようです。たしかに子どもの頃の外食でジュースを頼むとバヤリースがよく出てきたことを記憶しています。ではでは東日本では今でもリボンシトロンが健在かといえばそうとも言い切れないようで、「リボンシトロン」はどこへ消えた?に、

  • しかし最近、この「リボンシトロン」、都内で全く見かけなくなってしまったのです。以前はサッポロ飲料の自販機にはたいてい350ml缶が入っていたのですが、最近ではどの自販機を見てもあの緑色の缶が入っていない!
  • 現在、「リボンシトロンは引き続き生産、販売していますが、都内でのリボンシトロンの販売店は大変少なくなっております。恵比寿ですと、ガーデンプレイスタワー地下1階の自販機になら、250g缶があります」との回答が。

どうもなんですがサッポロビールのお膝元である北海道限定販売に近くなっていそうな様相みたいです。そうなった理由もなんとなくわかります。戦前は大日本麦酒がガリバーでしたが、戦後の昭和のビール業界のガリバーはキリンです。アサヒもサッポロも押しまくられていたのは事実です。キリンがガリバーになると、キリン系列の清涼飲料水が広がります。また戦後の清涼飲料水にはあのコカ・コーラが進出してきます。そういう状況でサッポロのリボンシトロンが後退につぐ後退を余儀なくされたんだろうぐらいでしょうか。いつ頃まで首都圏でもポピュラーだったかを調べるのは困難ですが、こんな画像がありました。

どうも販促に使った下敷きのようでちなみに裏は林寛子です。長嶋の背番号が90番で、結構若々しいですから1975〜1980年の第1次監督時代、それも初期ののものじゃないかと思われます。


そりゃ知らんわ

リボンシトロンの歴史を簡単にたどってみましたが、戦前は関西でもポピュラーな清涼飲料水であったとして良さそうです。しかし戦後となると清涼飲料水に次々と新しいブランドが参入してきたと思っています。コカコーラ、ファンタ、キリンレモン・・・優勝劣敗がどこでついたかは様々に理由が挙げられるでしょうが、資本力とそれに伴う広告力の差は確実にあったと思っています。どのジュースを買うかの判断材料にテレビのCMで見たことがあるのは大きな影響力があったと思います。逆にいうと見たことも、聞いたこともないブランドはそうそうは選ばないってところです。

戦後のビール業界はアサヒがスーパードライで復活するまでキリンがガリバーでした。戦前のガリバーの系譜をひくアサヒもサッポロも押しまくられて防戦一方であった時期が長く続いていました。アサヒは西日本が地盤でしたから、まだしも存在感がありましたが、東日本を地盤とするサッポロの存在感はもともと関西では薄く、リボンシトロン販売の強化まで手が回らなかったんじゃないかと推測します。だから私は知らなかったってところです。

行くことがあるかないか怪しくなっていますが、もし北海道に行く機会があったら是非飲んでみたいと思っています。

JSJJSJ 2016/06/05 10:06 子ども時代の前半は関東にいましたので覚えています、リボンシトロン。
でも私はそんなには飲んでなくて、ビール(キリンでした)と一緒に酒屋さんに配達してもらって家で飲んでいたのは三ツ矢サイダーでした。
で、店で買って外で飲んでたのはファンタオレンジ。子どもの頃はグレープは苦手でした。今は発酵しててもしてなくてもブドウジュース大好きですが。
閑話休題。
バヤリースというジュースを知ったのは、そういえば子ども時代の後半でして、
今回、なるほど九州に引っ越したからなんだ、と納得しました。

BugsyBugsy 2016/06/05 10:50 自分は九州で育ったのでリボンシトロンは今でも覚えています。

アニメのキャラクターのリボンちゃんが庭で遊んでると「リボンちゃーん」ってお母さんに呼ばれてソーダを飲みに帰ってくるんです。
東京で生活するようになって見かけませんねえ。結構おいしかったのを今でも覚えています。
バヤリースも見かけないのは残念です。自分はそっちのほうがオレンジジュースよりも風味が良いと思っています。実家で見かけるとつい飲んでしまいます。子供のころは生のオレンジジュースは少々ぜいたく品でしたから。

YosyanYosyan 2016/06/05 13:09 JSJ様、Bugsy様

この辺は年代と地域柄の差が微妙に出るのですが、とりあえずある時期までは関東でバイヤリースはポピュラーじゃなかったぐらいに解釈します。一方でリボンシトロンがBugsy様の年代で九州であったとはってところです。バヤリースが当時の関東に少なかったのはなんとなく理解できますが、九州ではリボンシトロンがあった理由はってところです。つうか近畿はアサヒのお膝元でもあるのですが、サントリーのお膝元でもあります。どちらもキリンには苦戦していますが、サッポロはなんとか弾いたのかもしれません。

れちなれちな 2016/06/05 13:38 いつも拝見させていただいおります。
北海道です。リボンシトロンはよく存じておりますし、姉妹品のオレンジのリボンナポリンもこちらでは有名です。今も愛飲しております。十分な大人ですが。

YosyanYosyan 2016/06/05 14:37 れちな様

北海道ではポピュラーとは聞いております。札幌ドームの試合でも記念パッケージが売られていたとの話もありました。もう誕生して100年は優に超えていますから、末永く残っていって欲しいものだと思っています。

BugsyBugsy 2016/06/05 17:06 こういった飲料の流行り廃りは会社の販売戦略とは別に消費者の嗜好の変化もあるでしょう。
飲料は人工甘味料と人工着色料のみでした。オレンジやグレープフルーツなんて日本人は誰も知らなかった時代で、自分の田舎ではグレープフルーツが柑橘類とは知りもしませんでした。徐々に健康志向が勢いづくにつれ、人工着色料には厳しい目が向けられるようになってコーラですら売り上げは減った時代で地方のローカルドリンクもヨーグルト飲料以外は姿を消しました。まあ二度と持て囃されることはないでしょう。
あれだけ愛されたラムネは根絶したのでしょう、子供はそれが飲み物の名前なんて知ってもいません。

YosyanYosyan 2016/06/06 07:28 Bugsy様

流行り廃りがあるのは御意です。古い話になりますが「お茶」が自販機に登場した時には驚いたものですが、今や完全に定着してなんの違和感もなくなっています。そういえば近くの自販機も日本茶系と紅茶とコーヒーが主流ですねぇ。たまに炭酸系が飲みたくなっても、選択枝の狭いこと、狭いこと。

nomnomnomnom 2016/06/06 12:05 うちの嫁さんは、愛媛の出身です。僕自身は、Bugsyさんがかかれているように生のオレンジジュースは贅沢品だと思っていたのですが、嫁さんにとっては生のミカンジュースは、安物、ただで飲むものとのイメージだそうです。給食にただでついてきてましたからって。バヤリースやファンタの方が高級品らしい。(うちの嫁さんの中では。)

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2016-06-04 摩耶山とマヤカンをちょっと

廃墟愛好家の方が調べつくしている観がありましたので最大の摩耶遺跡である摩耶観光ホテル(マヤカン)に触れるのは意識的に避けていました。ほいでも摩耶山について語るのなら避けきれないので、

    観光摩耶

について少しだけムックします。


摩耶ケーブル

江戸期にも観光旅行的なものはありました。摂津名所図会もそのために書かれたとしてよく、摩耶山も

20151020152543

ちゃんと紹介されています。江戸期の物見遊山も名所旧跡巡りは現代同様に定番であったとしてよく、摩耶山天上寺も名所の一つに余裕で数え上げられています。それと名所巡りに寺社参詣が加わると、信仰心と御利益も期待できたわけで、あんな山の上にも熱心に登っていたのは間違いなさそうです。つうか、その方が「ありがたい」ぐらいでしょうか。これは勝手な推測にはなりますが、摩耶山の麓には門前町がそれなりにあったんだろうと思っています。昔の人は現代人より健脚とはいえ、たとえば大坂あたりからでも日帰りはさすがに無理だったと思います。日帰りが無理なら宿泊が必要になり、宿泊が必要となれば宿屋も含めた門前町が必然的に発生するだろうぐらいです。

摩耶山天上寺参詣は江戸期から盛んだったようですが、これは明治期に入ってヒートアップしたようです。1905年に阪神電鉄が大阪出入橋−三宮、1919年に阪急神戸線が梅田−上筒井に開通すると集客のために沿線の観光地開発及び既存の観光地のPRに努めたとされます。電車を使えば日帰り参詣も十分可能になり、摩耶山人気はさらに高まったようです。これも推測ですが大坂から電車で日帰りが可能になった時点で摩耶山麓の門前町は衰退して滅んだのかもしれません。戦災、さらには震災のせいもあるでしょうが、現在では門前町の名残りをいくら歩いても見つけることは困難になっています。

この摩耶山人気の次のステップとして摩耶登山のネックを解消するように動いたのは史実して良いかと思います。この動きは非常に早くて、1922年に阪神の子会社として摩耶鋼索鉄道株式会社が設立され、1924年1月6日には今に続く摩耶ケーブルが開通しています。阪神が三宮まで開通して17年後の事になります。ケーブル敷設は大成功をおさめたようで、開通初年度の乗客数は55万人にのぼったとなっています。

摩耶ケーブルの成功は摩耶山を名所巡り・寺社参詣だけから摩耶山観光に転向させたとなっています。そりゃ登山時代はどうしたって登れる人の層が限定されてしまいますが、ケーブルとなれば老若何女誰でも摩耶山に登れるようになるからです。それとケーブルで短時間で登れるようになれば、天上寺参詣にプラスアルファを加えようと阪神は企画したようです。せっかく55万人も摩耶山に登って来るのですから、天上寺参詣だけで終らせず、他の遊興施設も充実させて客にカネを落としてもらおうぐらいでしょうか。そういう事業はケーブル会社とは別建てにした摩耶山株式会社によって行われたとされ、

  • 食堂建設
  • 遊戯具設置
  • 動物小屋
  • ベビーゴルフ場
  • 桜の植樹
  • 夏季テント村

これらを摩耶ケーブル摩耶駅(現虹の駅)周辺に次々と設置されていったぐらいで良さそうです。摩耶山観光開発は阪神だけでなく、他の業者も参入していたと見て良さそうで、たとえば前回取り上げた摩耶花壇も1926年に洋風三階建て堂々たるレストラン・ホテルを開業させています。当時はそれぐらい摩耶山観光の期待度が高かったんだと思います。


マヤカン開業まで

摩耶山観光の中心となったのは摩耶山株式会社なのですが、当初から目的として、

    療養所ホテル食堂および浴場娯楽場経営

こう記載されていたと記録に残っています。ちょっと余談ですが、摩耶花壇が療養所として運営されていた時期があったとなっていますが、ヒョットして当時は「療養所 = 病院」ではなかったのかもしれない気がしています。どちらかというと湯治場みたいな感覚で、長期滞在の施設のことも含んでいた気がしてきています。それはともかく阪神は摩耶山を日帰り観光の場所から、宿泊観光の場所への発展計画をもっていたぐらいには受け取れます。夏季テント村なんて事業もその一環であったと見れるからです。

それと山の中腹に本格的なホテルを建設するとなると莫大な費用が必要になるのですが、これに阪神が踏み切ったのは案外ですが先行していた摩耶花壇の成功を見たからではないかとも想像しています。摩耶花壇の成功から十分な潜在重要があると判断したので、摩耶花壇以上の本格的な大ホテルを阪神の面子にかけても作ったぐらいの想像です。マヤカンは1929年5月15日に起工、同年の11月6日に完成、11月17日に営業開始となっています。1929年11月17日付神戸新聞には

  • 豫ねて建築中だった摩耶山上のマヤホテルはこの程竣工17日から開業した
  • 鉄筋コンクリートの四層楼にして総建坪650坪
  • アールヌーボー風の洋風ホテルは神戸っ子の話題をさらった

しっかし5月15日起工で、11月6日竣工ですから半年ほどでマヤカンは出来上がっていたのには驚きました。神戸新聞記者もお披露目には招待されたんでしょうねぇ。実はマヤカンの開業日には異説があり1930年説、1932年説もあります。ここら辺もよくわからないところですが、開業当初のマヤカンはケーブル摩耶駅から東側の急斜面を降りて3階の出入り口に至っていたようです。これでは不便なので1930年4月にケーブル摩耶駅からホテルの4階部分に渡り廊下を設置したとなっています。この渡り廊下の完成で竣工・開業としたのがどうやら1930年説で、京阪神新建築集に「昭和5年2月末竣工」となっているのが1932年説のようです。

どういうこっちゃですが、当時の関係者もいなくなったので不明なんですが、個人的には工事期間の異様な短さがヒントの気がします。1929年の時点で営業は開始したが建物はすべては完成していなかったじゃなかろうかです。最低限の営業が可能になったのが1929年で、そこからフル開業に至ったのが1932年ぐらいの見方です。つうのも開業当初のマヤカンの構成ですが、

  • 1階和室・2階洋室の客室で全部で13部屋
  • 3階は大食堂・娯楽場・浴場
  • 4階は400人収容のホール(摩耶山会堂)

このうち1929年の時点で出来上がっていたのは3階部分だけじゃなかったろうかです。4階部分は1930年に渡り廊下の完成時、客室部分は1932年ぐらいの見方です。もう少し言い方を変えると客室の無いホテルは変ですから、ホテルととしての機能が備わった時点で初めてホテルとして認められたぐらいです。この辺の傍証ですが、戦前のマヤカンの呼び名として

    摩耶ホテル、摩耶山温泉ホテル、摩耶倶楽部・・・

いくつかあり、どれが正式名であったか曖昧だそうです。これは最終的にホテルにするつもりであったんでしょうが、順次営業部分を拡大した関係で、当初はホテル抜きの名称も使われた時期があったんじゃなかろうかと見ています。ここで完成当時のマヤカンを摩耶観光ホテルについて11(資料8)から見てみます。

全体は南向きのコの字型ですが、どうも西側が長く、東側が短くなっている気がします。それと3階まではコの字型がそのまま積みあがっていますが、4階部分はコの字の両翼以外の部分だけのようで、ここが摩耶山会堂であったようです。入り口は3階部分となっていますが、写真を見る限りケーブル駅からホテルの東側に回り込んで入るスタイルであったように思われます。それにしてもこんな建物が突如として摩耶山に出現したら、さぞ話題になった事だと思います。もうひとつ渡り廊下が出来たマヤカンの写真も紹介しておきます。

結構立派な渡り廊下であったのがわかります。もう一つ渡り廊下の写真です。

この角度から見ると渡り廊下はケーブル駅から屋根付きで延々と続いていることがわかります。


マヤカンの栄光と大戦

摩耶ケーブルは初年度(1924)に55万人の乗客数を記録していますが、その後は漸減傾向をたどりマヤカンが開業した1929年度には40万人を割っていたようです。ところが1930年度には60万人を超える記録が残されています。これには同年に行われた海軍特別観艦式の影響の指摘もありますが、観艦式っていうても何か月も続いていたわけじゃないでしょうから、マヤカンの集客力が大きかったと見たいところです。このマヤカンの栄光時代がいつまで続いたかですが、やはり大戦前までで良いようです。いやそれ以前の日中戦争時代から影を差し始めていたとも考えられますが、とにかく資料がありません。

辛うじて拾ったものに1943年のケーブルの乗客数は20万人を切り、さらに1944年にはレールや車両が金属供出のために撤去されてしまいます。ケーブルがあってこその摩耶山観光ですから、ケーブルがなくなれば山上の施設の営業は困難になります。つうかそれ以前にホテルや食堂としての食糧が確保できたかも疑問が出てくる時期です。当然1944年には営業停止になったと思いたいところですが、六甲摩耶鉄道の社史には、

兼業の土地家屋及び温泉業は時局国策に副うように営業継続

となっています。この辺が戦時中のマヤカンを考える上のカギの気がしています。というのも1943年に軍用自動車道(現奥摩耶ドライブウェイ)が完成し、掬星台に高射砲陣地が設置されたとなっています。その高射砲部隊の将校宿舎になっていたんじゃなかろうかの推測があります。軍の将校宿舎なら食糧の配給も受けやすいでしょうから「国策」に副って軍隊向けの営業をやっていたぐらいです。そこまで頑張って営業していたマヤカンですが、終戦後は1946年に進駐軍の将校クラブに利用するという話が持ち上がり、ホテルの修復とケーブルの復旧作業が実際に着手されていたそうです。しかしこの計画も中止となり、ケーブルのないマヤカンは閉鎖に追い込まれます。具体的にいつ閉鎖になったかははっきりしないようです。


奥摩耶開発

摩耶山観光が復活し始めたのは1952年頃からだとなっており、神戸市は軍用道路であった奥摩耶ドライブウェイと高射砲陣地があった掬星台を買収し整備事業を開始したとなっています。整備は速やかに進められたようで1953年にはバス運行も開始され、1955年には掬星台周辺は奥摩耶遊園地になり、ホテル奥摩耶荘、ユースホステル、バンガロー村などの宿泊施設を整備されていっています。神戸市主導の奥摩耶開発は成功し1955年頃には、ウィークデイでも1500人、休日には6000人もが押し寄せる状況になったとされます。ありし日の奥摩耶遊園の案内図です。

一方で戦前からのルートである摩耶ケーブルは奥摩耶遊園完成と合わせたのか1955年再開しています。再開したケーブルも賑わいをみせ55万人を記録していますが、戦前とは違い摩耶山観光のメインは奥摩耶に移ったとしてよさそうです。ケーブル復活とともに新設されたロープーウェイですが当時のケーブルの定員が75人、ロープーウェイの定員が25人で、乗換時に長い待ち時間が発生したとなっています。これは見ようですがケーブルで登ってきた乗客の目的地は戦前からの摩耶山中腹ではなく、戦後に新たに開発された奥摩耶になっていたと読み取れます。ケーブル摩耶駅周辺は奥摩耶観光のための通過点に成り下がり、周辺設備の復旧も行われていますが、寂れていったようです。


マヤカン復活と再びの閉鎖

復活当初は戦前にも匹敵する乗客を集めたケーブルでしたが、乗客数は年を追うごとに大きく減少していったようです。これに対しケーブル側はマヤカン復活を考えてはいたようです。しかし自力再建のためには莫大な資金が必要であり、1960年9月1日に民間業者に売却され、民間業者によってマヤカンが復活します。この復活はかなり本格的であったようで、4階建てを5階建てにし、内装はフランスの豪華客船のイル・ド・フランスのものを利用したとなっています。1961年に改装工事は終了し摩耶観光ホテルとしてついに再開します。

マヤカン効果ですが開業により1961年度は前年度の42万人から52万人に大幅増加、1962年にも54万人を記録しています。このまま順調に進めばあんな廃墟にならなかったかもしれませんが、マヤカンにまたもや悲劇が訪れます。1967年の台風被害を受けます。実はこの辺がはっきりしない部分なんですが、1967年の台風被害で閉鎖になった説もありますが、一方で閉鎖は1971年であったという説もあります。それとマヤカン自体の集客力も衰えをみせていたようで、マヤカン復活によって増加していた乗客数は1965年頃から減少し始め、1971年には30万人を割り込むほどになっています。

摩耶山観光衰退の決定打になったのは1976年の天上寺火災です。この火災により天上寺は摩耶別山に移転してしまい、参詣客も皆無になります。天上寺火災後には細々ながら生き残っていたケーブル摩耶駅周辺の商店や遊戯施設は撤退・撤去を余儀なくされて今に至るでしょうか。それだけでなく奥摩耶もまた観光客減少から同時期に遊戯施設等は次々に撤去閉鎖されます。奥摩耶開発は戦前からの摩耶中腹の観光地を衰退させ、奥摩耶に勝利をもたらしましたが、今度は凌雲台周辺との競争に敗れたってところでしょうか。


マヤカンの晩期

マヤカンの歴史は謎というか曖昧な部分が多いのですが、戦後に民間業者に売却され復活を果たしたものの1970年頃にはホテルとしては閉鎖になった「だろう」ぐらいは言えます。ではそのままそこから廃墟に一直線だったかいうとそうではなく、

    摩耶学生センター

と名乗っての営業が細々と続けられていたとなっています。この摩耶学生センターについての情報も錯綜しているのですが、

  1. 1970年から管理人として58歳の男性とその妻が住み込むようになった
  2. この管理人は元段ボール職人であった
  3. 1974年から学生のゼミ、サークル等に限って施設の一部を開放した(1972年に既に始まっていたとの説もあり)

既にホテルとしての機能は失われていますので、自炊なのはもちろんですが、宿泊も残された客室等を適当に利用していたか、ホールに雑魚寝状態だったかもしれないとなっています。これが1993年まで続いていたとなっています。学生の合宿所として使われていたのは使用した学生側の記録にも残っているのですが、ごくごく素直な疑問があります。とりあえず電気・水道・ガスはどうなっていたのであろうです。学生の宿泊もそうですが、管理人が住み続けるためにはライフラインがないと相当不便です。この管理人はホテル業者から依頼されたとなっていますが、電気・ガス・水道代はホテル業者が支払っていたのかなぁ。

それと管理人の話が本当なら、摩耶観光ホテルが閉鎖されたのは1970年であったのかもしれません。まあ、閉鎖された時点ではまだ再生の意図がホテル業者にあったからこそ管理人を置いたと考えるのが妥当だからです。もう少し考えると1967年の台風被害の後は実質閉鎖状態で、当初はホテル業者の社員が管理人として置かれていたのが経費節約のために元段ボール職人に委託したぐらいのストーリーは思い浮かぶところです。学生センターとして活用され出したのは、学生側が閉鎖されてもまだ使えることに目を付けて最初は管理人に直接交渉して始まったぐらいじゃないかとも想像しています。

管理人が1974年から学生センターとして使用されていると話したのと、1972年に学生側の使用記録が残る相違点は、1972年の時点では特例的な使用であったのが、その後に使用希望者が増えたので少しでもゼニが入るのなら体制を整えて受け入れれる判断をしたからぐらいに考えています。それが1974年からだったぐらいです。

1993年に閉鎖になったのは管理人の高齢化のためが通説です。この頃には管理人は80歳ぐらいになっていたはずで、そりゃ無理だろうと思います。後継の管理人を置かなかったのは希望者が現れなかったか、あえて管理人を置くことを中止したかのどちらかですが、個人的には後者だと思っています。学生センターの経営実績なんてどこにも転がっていませんが、よくてトントン、たぶん赤字と思いますし、20年間のうちにさらに荒廃は確実に進んでいたでしょうから、管理人の引退を機に完全閉鎖に踏み切っても経営判断として不思議ありません。まあ後継者を置いたところで1995年には阪神大震災が襲いかかります。この震災でもケーブルは大きな被害を受け、ケーブル事業の存廃が議論になったと記憶しています。

建物は神戸市に無償譲渡されたとなっていますが、神戸市にしても再生する余力はどこになく、力尽きるようにマヤカンは永久に閉鎖され、現在の廃墟と至ったぐらいでしょうか。摩耶学生センター時代の写真を摩耶観光ホテルについて36(資料33)より、

これが1977年の画像とされていますが、戦後の再開時に増築されたされる5階部分の形状が確認できます。造りからして4階の摩耶山会堂を取り壊して4階と5階を積み上げたように見えます。それと渡り廊下はこの時点でなくなっているようですが、この増築部分は以後に取り壊されたとなっています。なぜにの理由が不明なんですが、増築部分の造りがチャチだったのか、他の理由かは不明ですが、マヤカンはこの後も1993年まで摩耶学生センターとして営業していたわけであり、ホテル業者も取り壊しの費用をかける判断をしたことだけはわかります。

ここら辺も謎の部分で、構造上の問題にしろ、安全上の問題にしろ増築部分を撤去するだけで大変な工事が必要になります。つうのは摩耶山中腹には現在ですら自動車道は通じていません。壊せば廃材が生じるわけで、それを運び出すルートから考える必要が出てきます。そういう時にケーブルカーを利用できたかどうかは不明ですが、ケーブル会社はエエ顔しないでしょうねぇ。工事についての記録は残っていないようですが1985年公開の映画のロケに使われ、その時には増築部分はすでに撤去されていたとなっていますから、1977年から1985年の間に撤去工事が行われた事だけは確認出来そうです。

つうことで現存するマヤカンは創建当初の3階部分までとなるはずです。(そうとも見えにくいほど現在の荒廃は進んでいる気がします)


年表

字で並べるとわかりにくいので年表にまとめてみます。

西暦 摩耶中腹 マヤカン 奥摩耶 ケーブル客数
1905 阪神開通
1919 阪急開通
1924 摩耶ケーブル開通、観光施設が順次整備される この頃より掬星台がガイドブックに記載 55万人
1926 摩耶花壇開業
1929 開業 40万人弱
1930 60万人超
1943 軍用の宿泊施設として運用か 奥摩耶への軍用道路が開通、掬星台が高射砲陣地になる 20万人弱
1944 摩耶ケーブル金属供出により撤去 終戦とともに閉鎖らしい
1945 進駐軍の将校クラブ計画があったが頓座
1952 掬星台・軍用道路を神戸市が買収。観光地として整備
1953 バス路線が掬星台に
1955 ケーブル復活、ロープーウェイ設置 55万人
1960 42万人
1961 復活営業再開 52万人
1962 54万人
1967 台風被害、閉鎖状態になっていたかも
1970 管理人夫妻が住み着く
1971 30万人弱
1972 学生センターの試行?
1974 摩耶学生センターとして運用
1976 天上寺火災 この頃より遊戯施設を次々と撤去
1993 摩耶学生センター閉鎖、神戸市に無償譲渡
2001 摩耶ビューライン再開

なんとか見やすくしようと思いましたが、この程度が精一杯でした。奥摩耶観光は1955年(昭和30年)に華々しくスタートし1976年(昭和51年)の天上寺火災で滅んだぐらいの理解で良いかと思いますが、私の世代なら昭和40年代に訪れた可能性はあるはずです。ここで非常に残念なのは私の記憶にはまったく残っていないことです。行ったのを忘れたのか、それとも連れて行ってもらえなかったのかは・・・これまた不明です。


廃墟としてのマヤカン

ここまでのお話は金子直樹氏の2005年5月25日付

ここからの情報を基に書いていたと白状しておきます。この金子氏は摩耶山観光の興亡を丹念に取り上げられており、さすがに論文ですから事実関係をしっかり押さえておられます。私もこれを読んで戦前から続く摩耶山観光開発の経緯の全体像がなんとなくつかめたような気がします。こういう仕事は本当にありがたいところです。マヤカンは廃墟でもメジャーな方ですから丹念に調べられているサイトは少なくないのですが、どうしてもマヤカン情報に重きを置かれますから、摩耶山観光を俯瞰できるのは称賛できます。

金子氏はマヤカンの今後について廃墟遺跡としての活用を結論としてもっていきたかったように読めます。金子氏は「おわりに」にこう書かれています。

廃墟を廃墟として、あるいは文字通り現代遺跡として残すことで、その新たな役割を付与できるとも考えられる。

この方向については神戸市も考慮しているようで旧天上寺跡から摩耶ケーブル虹の駅周辺を摩耶遺跡として整備する方向性が出ています。

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前回紹介した摩耶花壇の「整備」もその一環と見ています。ではそういう整備が観光事業としてどうかを少し考えてみます。マヤカンも摩耶遺跡の一つとして取り上げられていますが、実際に行ってみると非常に見づらい状況になっていました。まず現時点で一番近い虹の駅の展望台からのマヤカンです。

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展望台の前の樹木が生い茂りつつあって、辛うじて屋上部分が見えたぐらいです。この虹の駅からマヤカンへは通路があったのですが、現在は閉鎖されていますから前景を見るのは通常は不可能になっています。もう一つ写真を上げます。

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これは山寺尾根から撮影したものですが、2ヶ所ほどこのアングルでマヤカンを臨めるスポットがありました。ただし山寺尾根からの登山は摩耶登山ルートでもマイナーな方で、なおかつかなり「キツイ」。マヤカンの廃墟見物に手軽に登れるとは言いにくいと思います。それより何よりマヤカンの見どころ(かな?)の正面から見ることが非常に難しくなっています。話によれば麓からマヤカンに通じるルートがあるそうですが、ドがつくマイナールートで、下手すりゃ遭難しかねないないなんて説もどこかで読みました。通る人が少なくなれば道は消えますからねぇ。

金子氏が論文を書かれたのが2005年ですからあれから10年以上経ってマヤカン見物を巡る環境はかなり変わったとして良さそうです。つまりはマヤカン目当てに摩耶ケーブルを利用しても、せいぜい廃墟の屋上を見れるぐらいになります。なにか批判的に書いていますが、月日が経てばマヤカンの廃墟化は進むわけで、興味本位に近づくと危ないのは理解できます。これを近くで見物できる廃墟にするにはそれなりの整備費用が必要なわけで、それだけのコストをかけてもペイするかどうかの問題が出てきます。それと摩耶ケーブルの年間乗客数は現在で年間20万人ぐらいで赤字経営で神戸市が赤字分を負担しています。目標としては黒字化でしょうが、黒字になるほどの乗客数の増加となると・・・やっぱり年間30万人以上は必要な気がします。

そうなると今ぐらいの小手先整備が目一杯かと思う次第です。


今の摩耶山観光雑感

摩耶山は年に1回ぐらいは登っています。摩耶山はハイキング・コースとして人気は高く、休日ともなればかなりの数のハイカーでにぎわいます。ハイキング自体は流行り廃りが少ない趣味と思っていますが、近年では「山ガール」とかの言葉もあって少し増えている気もしています。摩耶ケーブルの利用も面白くて、麓から虹の駅まではケーブル利用で上がってきて、そこから旧天上寺を抜けて掬星台を目指すハイカーも少なからずおられます。まあ登るのに体力を使い果たして帰りはロープーウェイからケーブルって方もおられます。決して楽な山じゃないですからねぇ。

先ほど現在の摩耶ケーブル利用者が20万人程度としましたが、ケーブル利用者以外にもハイカーが結構な数で掬星台に登ってくるはずです。そりゃ往時に較べれば少ないでしょうが、それだけの人数がいれば「それなり」にお茶屋系・売店系があっても良さそうなものです。それでも掬星台には私の知る限り、自販機のほかにはケーブル駅2階にある食堂と、休日だけだと思いますが軽自動車のホットドック(だったっけ、たこ焼きだったけ)ぐらいしか存在しません。

なぜだろうと思っているのですが、摩耶山観光の主体がハイカーになっているぐらいを考えています。ハイカーが山に登る理由は「頂上」にいきたいであり、ハイカーの楽しみは頂上で昼食を食べることです。えらく単純化していますが、私はそんな感じです。この楽しみの方の昼食を食べるですが、それこそ麓から担いで登ってきます。発想として頂上の食堂とかを利用する気がかなり薄いというのがあります。飲料水もそうで当然必要分を持参します。この辺は登山中にトラブルが生じた時の最低限の非常食の意味も少しはあります。つまりはハイカーは登ってきても山頂でほとんどカネを落とさないってところです。

そういうハイカーにとって摩耶遺跡の存在はどうなんだと問われれば、案外魅力的なものです。ハイカーも多様ですから一概にはもちろん言えませんが、見どころがある山はやはり楽しいってところです。廃墟でも十分楽しめるのがハイカーだと思っています。でも楽しんでもカネを落とさないのもハイカーってところです。そんな今の摩耶山観光の状態がどうかといわれれば、これでエエんじゃないかと思っています。どう頑張ってもかつての賑わいは戻らないわけで、また変に観光地化してしまえばハイカーは摩耶山を敬遠するんじゃないかと思っています。ケーブル事業がどうなるかは不透明な部分はありますが、ハイカーにとっては掬星台が整備されていれば満足しますからねぇ。

摩耶山観光の盛衰を見てきましたが、いずれにしても今となれば摩耶山に往時にあれだけの観光客が押し寄せた理由を見つけるのが難しくなっている気がします。

BugsyBugsy 2016/06/04 14:39 神戸は気候が温暖で風光明美ですから 他の瀬戸内海の島々と一緒で結核療養所はあったかもしれないと想像しました。前身がが結核療養所の公立総合病院なんていくつも知っています。

それと東京だと廃墟めぐりの楽しみ方は少し違いますね。
ホテルや工場は幹線道路沿いなので皆車で来ます。ライトアップされているから幻想的です。
これからは夕涼みがてら家族のドライブの帰り道に立ち寄るそうで 家族にも評判がよいようです。

ライトアップされていなければ カメラの露出時間を思い切り長くすると もう不思議な風景がとれるそうです。
花火で違って混んでいないからという理由もあるようです。

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