新小児科医のつぶやき

2016-12-08 播州布団屋台・屋根ムック

布団屋台は泉州で生まれ淡路を経て瀬戸内沿岸に広がったとされています。各地に広がった屋台はその地域で独自の発展をするのですが、播州布団屋台もまたそうです。しかしその変化や発展の経緯は「よくわからない」部分が多々あります。布団屋台には幾つも特徴がありますが、その中で布団屋根の部分を中心にちょっとムックしてみます。


源流の泉州屋台

布団屋台の最古の記録とされるものは貝塚宮・感田神社 太鼓台祭りの、

感田神社の夏祭りにふとん太鼓が担ぎ出されたのは、寛保元年(1741年)で、泉州地方のふとん太鼓では最も古いまつりです。

同神社の記録によれば、「寛保元年のおまつりに北之町だんじりが出されたが、引たん志りは堺から借ってこなかった」と記されており、両者を区別しているところから、このだんじりはふとん太鼓のことと考えられます。

1741年(寛保元年)頃には泉州に布団屋台は存在していたと見て良さそうで、そこからそんなに時代は遡らないとして良さそうです。この原初の布団屋台がどんな形態であったのかですが、1796年(寛政8年)に発行された摂津名所図会が参考になります。

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これは感田神社の記録から50年ばかり後のものになりますが、この布団屋台を当時はどう呼んでいたかですが、

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「太鼓」と呼んでいたとみて間違いありません。ただ地域によっては壇尻とも呼ばれていたようで、長崎のコッコデショは別名境壇尻とも呼ばれるからです。コッコデショは1799年に初めて登場したとなっていますが、おそらくその激しいアクションと7年に1度しか登場しないので、1799年当時の原型をかなり保っていると私は考えています。画像を紹介しておくと、

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摂津名所図会の太鼓と非常によく似ており、18世紀末の布団屋台はこんなスタイルであったと見て良さそうです。これを泉州で布団屋台が使われる最大級の祭礼である百舌鳥八幡の月見祭の現在の屋台と較べてみます。

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200年の歳月の変化は当然あるのですが、摂津名所図会と長崎のコッコデショの雰囲気は残っている気がします。どこに注目するかですが、布団屋根の形態です。屋台の基本構造は太鼓を載せる泥台と呼ばれる足元部分があり、そこに担ぎ棒を装着するのが基本です。その泥台から四本柱が上に伸びて屋根を乗っけています。百舌鳥八幡のものは摂津名所図会やコッコデショと較べると屋根と四本柱の間に斗組や水切り金具が加えられていますが注目点は最下段の布団の大きさです。

四本柱で囲まれた部分を天井と呼びますが、摂津名所図会と長崎のコッコデショでは天井の面積の布団が最下段になっており、百舌鳥八幡でも天井と屋根の間に構造物こそ増えていますが、布団の最下段はほぼ天井の面積程度になっています。布団屋台は泉州から淡路に広まったとなっていますが現在の淡路の屋台は、

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淡路の屋台もバリエーションがありますが、基本形態は百舌鳥八幡の屋台に類似していると思います。特徴として抽出したいのはやはり

    最下段の布団が天井の面積に近い

そういう形態の源流は18世紀末に泉州で既に確立し泉州や淡路ではこれを受け継いでいる屋台が多いと言えそうです。


播州布団屋台・中町の事例から

播州祭り見聞記より屋台の分布を見てもらいます。

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播州屋台は布団屋根の他に神輿屋根があり、神輿屋根は姫路を中心とした西播に広がっています。神輿屋根は素直に御神輿を参考に製作されたとして良さそうで、播州オリジナルとして良いかと考えています。分布図をよく見て欲しいのですが、西から

    神輿屋根 → 神輿屋根・反り屋根混在 → 反り屋根 → 平屋根

こうなっていると見えなくもありません。ここで播州の地域分類を屋台分布で定義したいのですが、

    西播・・・神輿屋根分布地域
    東播・・・平屋根分布地域
    北播・・・反り屋根・反り屋根神輿屋根混在地域

さらに平屋根の東播のうち沿岸部以外の小野・三木を北播とします。


東播地域は泉州と言うか淡路の布団屋根の影響を強く受けたと考えています。そりゃ目の前ですからね。淡路の影響は沿岸部から北上していったと見るのが素直だと思います。一方で北播には神輿屋根・布団屋根以外の別系列の屋台があったと考えています。参考になるのは中区における屋台文化です。中区とは馴染みがない地名ですが、多可郡中町であるとすればわかりやすくなると思います。ここには1842年(天保13年)の絵馬が残されています。

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この絵馬に描かれた屋台は摂津名所図会の50年ぐらい後のもので、泥台・担ぎ棒・高欄・四本柱と基本構造は似ていますが、屋根が一段です。屋根の段数は地域差がありますが、見栄えからすると多段化は早くから行われたと考えたいところです。つうか泉州から淡路に広まった時点で多段化が進んでいたと考えても良く、淡路由来の布団屋根とは別の可能性を考えます。絵馬には布団屋根様の屋根はありますが、これは泉州・淡路直系のものではなく、淡路の布団屋根を真似した程度のものではないかと見ています。

北播オリジナルはもっとシンプルで泥台に担ぎ棒だけの屋台であったと考えています。エラいシンプルですが現在も実在します。西脇の春日神社には暴れ太鼓が奉納されますが、

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これが北播オリジナルの「荷い太鼓」だったとすると播州布団屋台の変遷が説明しやすくなります。多可郡中町の屋台の変遷を断片的ですが追ってみると

西暦 年号 根拠 屋根形態
1842年 天保13年 奉納絵馬 一段平屋根
1874年 明治7年 三木の新町が中古購入 多段平屋根の可能性が高い
1895年 明治28年 中町最古の屋台 反り屋根

新町は中古を購入しているのですが、中町はこれをもっと前に購入している訳で、絵馬の屋台から10〜20年もしないうちに布団屋根屋台に切り替えられた事になります。この新町購入屋台は現在も花尻屋台として健在で、

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この屋台も150年近い歳月の中で何度も改修を受けているはずで、どれだけオリジナルが保たれているかは不明ですが、虹梁が使われている事から平屋根で淡路系の屋台だと考えられます。これは中町が絵馬の屋台から一度は淡路系の平屋根になった傍証になります。さらに明治28年製作の森本屋台は、

ここも古い屋台なのですがオリジナルは良く保たれているとされます。中町では1842年の絵馬の屋台から1895年の森本屋台までの50年間に

    オリジナル一段平屋根 → 淡路系多段平屋根 → 反り屋根

こう目まぐるしくスタイルを変えていったと考えられます。このうちで一番のポイントは先に淡路系の平屋根が導入された点と見ます。


反り屋根と神輿屋根の関係

反り屋根の説明に平屋根からの進化系だの説明は良く見られます。ただよく見ると平屋根と反り屋根の共通点は屋根が布団であることだけじゃないかとも私には思えます。また平屋根からの進化も泉州・淡路型の屋根なら反らす事さえ困難です。ちょっとした思い付きで布団屋根を反らす発想は簡単には出てきません。反り屋根は単に布団の端を反らせたのではなく、布団屋根を何かの形に似せた結果じゃないかと私は推理します。

反り屋根で注目したいのは、屋根の中央部が盛り上がっている点です。これは反りの浅い古い形式のものでも必ずそうなっています。この盛り上がりは布団を反らせただけでは発生しないものです。つまり反り屋根では布団の中央部が盛り上がる事を必要としたんじゃないかと考えます。まだるっこしい言い方をしていますが、反り屋根では布団の中央部が盛り上がる事が絶対に必要であったと考えています。ここで神輿屋根を見て頂きたいのですが、

神輿屋根ですから中央部は盛り上がるというか高くなっています。注目したいのは屋根の端が昇総才と呼ばれる金具で反っている事です。ここで反り屋根をみてもらいますが、

布団の真ん中の盛り上がりが神輿屋根の屋根の部分に相当し、布団の反りが昇総才の金具に相当すると私は見ます。つまりは反り屋根とは神輿屋根を布団屋根で真似たものと考えます。これは他の部分にも痕跡が見られます。井筒は前にやったので置いとくとして、神輿屋根には庇に相当する部分があります。神輿ですから神殿建築の繁垂木を用いていますが、反り屋根でも同様に用いられています。これは神輿屋根に似せる意味と、そうやって布団屋根の底面積を増やさないと見栄えが悪かったのが理由と考えています。


平屋根の進化

さてなんですが反り屋根が神輿屋根に似せた布団屋根ならいっその事、神輿屋根屋台を購入すれば良さそうなんものです。ここの説明が厄介なのですが中町の例から考えると先に淡路型平屋根屋台が広まっていたぐらいしか理由が見付けられません。先に布団屋台があったので、布団屋根に愛着があったぐらいでしょうか。ただなんですが、中町での淡路型布団屋根の使用期間はせいぜい20年ぐらいです。20年でそこまでの愛着が出るかの問題は当然出てきます。

そこでと言うわけではありませんが、中町の西側地域に注目したいと思います。ここは屋台の分布で神輿屋根・反り屋根混在地域となっています。こちらの方がひょっとして淡路型平屋根の導入が早かったのかもしれません。中町は反り屋根分布地域になっていますが、淡路型平屋根をまず導入したものの、同じ布団屋根なら反り屋根の方が見栄えがするぐらいで導入されたぐらいは考えられます。もしそうであれば淡路型平屋根は加古川流域より市川流域に先に広がった事になります。市川流域で神輿屋根に似せた反り屋根が開発され、加古川上流地域の淡路型平屋根を駆逐してしまったぐらいの構図です。

そう考えても次の疑問が出てきます。市川流域の淡路型平屋根を駆逐し、加古川上流域も制覇した反り屋根が北条であたりで南下が止まったのは何故だろうです。地域の好みで済ませても良いのですが、平屋根にその時期に変化が現れ、反り屋根に対抗する魅力を得たんじゃないかは考えられるところです。現在の播州型平屋根を見てもらいますが、

泉州・淡路型とは異なり雲板を使った屋根の底面積の拡大が行われています。それと現在は布団の厚みが増す傾向にありますが、古写真で確認する限り布団はかなり薄くなっています。明治45年に同時新調されたとされる新町と滑原を見てもらいますが、

先々代新町屋台 先々代滑原屋台

泉州・淡路型が布団を厚くし段数を増やして高くする傾向があるのに対し、屋根を薄く低くしている感じがします。この改良により

    反り屋根より平屋根の方が「しゅっとして」格好が良い

こういう嗜好が生まれ平屋根地域として現在に至っている可能性はあると思います。


播州型平屋根の登場地域は

あくまでも私の仮説ですが、反り屋根が神輿屋根の影響を受けて誕生したのが市川流域なら、平屋根が改良されたのは三木・小野あたりではないかと考えます。この辺りが反り屋根と平屋根の境界になるからです。加古川上流地域に反り屋根が広がったのは中町の事例から考えて明治の初めぐらいじゃないかと推測されますから、播州型平屋根も幕末から明治初期ぐらいと考えられます。三木で製作記録が残る最古の屋台とされる久留美屋台が万延元年ですが、評価として最初から雲板はあったらしいとされているからです。

明石町屋台が久留美屋台より古いか新しいかは不明ですが、古い可能性はあります。理由は井筒に平屋根だからです。井筒の技法は神輿屋根や平屋根に一般的に用いられ、平屋根の場合は虹梁になります。久留美屋台も虹梁なのですが、井筒に平屋根の組み合わせになるのは反り屋根を平屋根に改造した場合がもっともポピュラーに発生します。明石町屋台の由来も謎に包まれていますが、反り屋根の中古屋台を購入して平屋根に改造したと私は考えます。この改造時に雲板を使った屋根の底面積の拡大が行われたぐらいでしょうか。

久留美は明石町の影響を受けて屋台を製作しましたが、井筒でなく従来通りの虹梁を用いたぐらいです。もうちょっと広げて言うと、三木では明石町と言うモデルが目の前にあったので井筒に平屋根タイプのものが幾つも製作されましたが、三木以外では従来通りの虹梁に平屋根で製作され、雲板による屋根の底面積の拡大だけが広まったぐらいでしょうか。

播州型平屋根の登場は反り屋根の浸透を跳ね返すぐらいのインパクトがあったと考えられるのですが、時期と地域からしてヒョットして明石町が第1号の可能性が出てきます。でもわかんないですよね。今日のお話も殆どが推測で、その上にさらに推測を重ねている部分が殆どです。その点は毎度のことながら御容赦下さい。

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2016-11-26 延慶本の二つの「みくさやま」

延慶本九巻に一の谷の合戦が書かれていますが、

  • 「みくさ」が16ヶ所
  • 「三草」が1ヶ所

1ヶ所の「三草」は

さてあきのうまのすけよしやすをおんつかひにて、のとのかみのもとへいひつかはされけるは、「三草山の手、すでにおとされて候なり。いちのくちへはさだよし、いへながをさしつかはされさうらひぬれば、さりともおぼえさうらふ。いくたへはしんぢゆうなごんむかはれさうらひぬれば、それ又心安く候。山の手にはもりとしむかへとて候へば、山はいちだいじの所にてあるよしうけたまはりさうらへば、かさねてせいをさしそへばやとぞんじさうらふが、いづれのとのばらも、『山へはむかはじ』とまうされさうらふ。いかがしさうらふべき。

これは義経が夜襲で攻略した三草山の事であるのは明らかです。では「みくさ」はどうかです。これがどうにももう1ヶ所の「みくさ」がありそうな気がしています。


三草山合戦の「みくさ」

列挙します

  1. げんじみくさのやまならびにいちのたにおひおとすこと
  2. からめでのたいしやうぐんくらうよしつねは、おなじきひきやうをいでて、みくさのやまをこえて、たんばぢよりむかふ。
  3. たんばぢにかかりて、みくさのやまのやまぐちに、そのひのいぬのときばかりにはせつきたり。
  4. みくさのやまはやまなかさんりなり
  5. へいけこれを聞て、みくさやまのにしのやまぐちを、たいしやうぐんはしんざんゐのちゆうじやうすけもり
  6. しちせんよきにてみくさやまへぞむかひける
  7. そのよのうしのこくばかりに一万余騎にて、みくさのやまの西のやまぐちかためたる平家の陣へおしよせたり
  8. みくさやまは、さんぬる夜のよなかばかりに、源氏のぐんびやうに、さんざんにおひちらされさうらひぬ。
  9. いづれの谷へおちて、いづれの峯へこゆべしともしらざりければ、みくさのやまのようちのとき、いけどりあまたせられたりけるを、きるべき者をばたちまちにきられぬ
  10. それらが申候つるは、『小松殿のきんだちは今度はみくさのやまをかためておわしけるが、いちのたにおちにければ、しんざんゐのちゆうじやうどの、さちゆうじやうどのふたところは、船に乗てさぬきのぢへつきたまひにけり。

この10ヶ所は三草山合戦の三草山を指していると判断できます。しかし読み直してみるもので三草山合戦では義経は戌の刻に小野原に到着し丑の刻に襲撃したと書かれてました。


一の谷の平家側の「みくさやま」

平家は三草山が落ちた事に反応して越中前司盛俊、能登守教経を山の手の補強に派遣しますが、

ほどなくみくさのやまへはせつきて、ゑつちゆうのせんじもりとしが陣の前にかりやを打てまちかけたり。

三草山に駆けつけてきたのは教経で、その陣屋は盛俊の陣の前、もうちょっとザックリとは盛俊陣の近くに仮屋を設けたとなっています。この三草山は三草山合戦の三草山とは明らかに指しているところが違う、一の谷陣地内の三草山を指しています。この盛俊隊・教経隊の動きは大手の範頼軍からも見えたようで、

大手のせいは宵の程はこやのに陣をとり、しころをならべてゐたりけるが、みくさの手にむかひたるゑちぜんのさんゐ、のとのかみのぢんの火、みなとがはよりうちあがりて、きたのをかに火をたてけるを

盛俊隊・教経隊は湊川から「きたのをか」に移動したとなっており、これを「みくさの手」に向かうとしています。ここは少し微妙なところで、

  • 「みくさの手」とは守備方面の事
  • 「みくさの手」とは義経軍の事

2つの解釈が成立しますが、その前段で教経が「みくさのやま」に駆けつけたとなっていますから、守備方面と解釈可能と考えています。


一の谷の源氏側の「みくさやま」


ここまでは平家軍の「みくさ」への動きですが次は義経軍です。

そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし」とてあゆませけり。

ここは

源氏のからめで一万余騎なりけるが、七千余騎は九郎義経につきてみくさのやまにむかひぬ、三千余騎ははりまぢのなぎさにそうていちのたにへぞよせたりける。

これと連動させて読みたいのですが、

  • 実平隊3000騎は山の手を目指すがルートは「はりまぢ」つまり塩屋経由で、山の手とは西の木戸を指す模様
  • 義経隊7000騎は「みくさのやま」を越えて鵯越を目指す

次は「みくさ」の途中描写です。

みかたへむかひて申けるは、「是より下へはいかにおもふともかなふまじ。おもひとどまりたまへ」と申す。「みくさより是まではるばるとくだりたれば、うちあがらむとすともかなうまじ。下へおとしてもしなむず。とてもしなばかたきのぢんの前にてこそしなめ」とて、たづなをくれ、まつさかさまにおとされけり。

急坂に怯んだ義経隊が馬を落として通れるかどうかを試すシーンですが、

    みくさより是まではるばるとくだりたれば、うちあがらむとすともかなうまじ。

みくさを下るとあるので峠と見て良いでしょう。つまりって程ではありませんが、延慶本の義経隊は、

    三草山を越えて下る → 急坂に出くわす → 逆落とし → 一の谷

こういうルートを取ったと書かれています。ついでですから「みくさ」の描写をもう少し具体的に

平家のおわするじやうの上から、じふしごちやうぞさうらふらむ。ごぢやうばかりはおとすといへども、それよりしたへは馬も人も、よもかよひ候わじ。

14〜15丁が峠の距離としています。1丁とは60間なので108mぐらい、15丁なら1.6kmぐらいですが、とくに山道では実際の距離ではなく平地換算の所要時間と見るべきで40分ぐらいってところでしょうか。それと登って下って15丁ですから、大雑把に登り10丁ぐらいの山とも見えない事はありません。よく登る丹生山が登りだけで25丁ですから 、せいぜい標高差100〜150mぐらいと見えなくもありません。それと偶然かもしれませんが、妙法寺から明泉寺あたりまでの歩行時間は地図検索で35分ぐらいとなっています。もう一つ「おとす」となっている高さの5丈とは50尺になり15mぐらいになります。どうも最後の標高差15mが馬では下りられない急坂として描写されています。


一の谷の「みくさ」はどこだ?

まず盛俊と教経は山の手防衛のために湊川から移動していますが、それは生田の範頼軍から見て「きたのをか」となっています。一方で教経は三草山に駆けつけたとなっていますから、

    きたのをか = 三草山

こうなります。三草山に駆けつけた教経は仮屋を建てていますが、これは盛俊の陣の前としています。前ってのが解釈が広いのですが、たとえば盛俊陣より敵に近いって見方も可能です。実は気になるのが仮屋で

おとしはつればしらはたみそながれさとささせて、平家のすまんぎの中へみだれいりて、時をどつとつくりたりければ、わがかたもみなかたきにみへければ、きもこころも身にそはず、あわてまどふことなのめならず。馬よりひきおとし射落さねどもおちふためき、上になり下になりしけるほどに、じやうのうしろのかりやに火をかけたりければ、西の風はげしく吹て、みやうくわじやうの上へふきおほひける上は、煙にむせびて目もみへず。とるものも取あへず、只海へのみぞはせいりける。

襲撃した義経隊は仮屋に火をかけたとしています。この仮屋が教経が建てたものならば、教経は明泉寺方面にいた事になります。つうのも明泉寺は盛俊が陣を置いたとされ、盛俊もこの付近で戦死したとなっています。推測を広げると盛俊は明泉寺を陣とし、遅れて到着した教経は仮屋を建てて陣としたんじゃなかろうかです。「みやうくわじやう」が盛俊陣ともし比定できれば、義経隊が教経の仮屋に火を放った事により、その煙が流れ込んで平家軍が崩れたぐらいになります。盛俊は義経隊の襲撃に対し踏みとどまって戦死するのですが、教経はどうかです。これは上の引用の続きになるのですが、

ところどころにてかうみやうせられたりしのとのかみ、いかが思われけむ、へいざうむしやがうすぐもと云馬に乗てすまの関へおちたまひて、それより船にてあはぢのいはやへぞ落給にける。

すまの関とは多井畑になりますが、船でとなってますから塩屋に落ち延びたとなっています。ここの気になる表現は、

    いかが思われけむ

これは「日頃の武名にもかかわらず」ぐらいと解釈できます。延慶本の教経は皆が嫌がった山の手守備を快く引き受けた時点までは良いのですが、いざ合戦が始まると次の描写は「すまの関」への落去になります。これはどうも最後まで踏みとどまって討死した盛俊との対比で描かれているように感じられてなりません。そうなると盛俊と教経は近いというか同じところを守っており、先に襲われて崩れたのが教経陣であり、それを収拾出来なかった教経は鹿松峠を越えて多井畑方面にいち早く逃げてしまったぐらいに受け取れないこともありません。つうことで

    みくさやま = きたのをか = 鹿松峠

こう解釈しても無理は少なくなります。


三草山 = 高尾山の可能性は?

今日のストーリーは鵯越道で高尾山を越え鵯越支道を使ってもルート的には成立します。鵯越支道説なら襲撃されて逃げた教経が源氏軍のいない鹿松峠を強引に乗り越えて逃走したの説明には有用です。一方で鵯越道は当時の山田荘から福原へのメインルートの一つ(山田荘は福原京時代に天皇家の御料米であったとされます)で凄い難路で道案内探しに苦渋するって道でないのが一つと、一の谷当時に明泉寺方面に下りる鵯越支道があったかどうかは確認出来ていません。

それよりなにより最大のネックは義経が鵯越道を使うのであれば義経軍は藍那の相談が辻で、

  • 義経隊は左に曲がって鵯越道へ
  • 実平隊は右に曲がって多井畑へ

こう分かれる必要がありますが、相談が辻あたりの地図を出しておくと、

相談が辻は神戸電鉄藍那駅から坂を登りつめたところにありますが、現在はともかくかつては鵯越道から会下山を通って福原に向かう道と、白川方面から多井畑経由で塩屋(塩の供給地)に続く道の分岐点であったとしてよいと考えています。分かれた後の横の連絡は基本的にプアで、それこそ地元住民しか知らない杣道で、騎馬武者が通るには適さなかったであろうぐらいです。つまりは一度鵯越道方面に進んでしまうと、相談が辻まで戻らないと白川方面(多井畑から塩屋)に行けないぐらいに考えて良いかと思います。

そうなった時に困るのが熊谷直実・平山季重の抜け駆け先陣になります。熊谷・平山は寅の刻の初め(3時)に義経陣を抜け、卯の刻(6時)には西の木戸に到着しています。通本でも夜半に抜けて寅の一刻(3時)までには西の木戸に到着していますから義経陣から西の木戸までの所要時間は延慶本と同じ3時間足らずになっています。3時間足らずでは藍那から塩屋を抜けて西の木戸に到着するのは距離からして不可能です。義経隊にいた熊谷・平山の抜け駆け先陣が史実としてある限り、義経が鵯越道を通った可能性は極めて薄いとさせて頂きます。


平家の判断の深読み

行間を読むような作業なんですが、

山の手にはもりとしむかへとて候へば、山はいちだいじの所にてあるよしうけたまはりさうらへば、かさねてせいをさしそへばやとぞんじさうらふが、いづれのとのばらも、『山へはむかはじ』とまうされさうらふ。

宗盛が山の手の防衛強化のために越中前司盛俊隊にさらに増援を送る判断をしています。でもって盛俊隊は明泉寺にいます。山の手防衛は嫌われて諸将に断られ最終的に能登守教経が増援を受諾しています。教経が仮屋を建て陣を置いたのは盛俊陣の前となっています。つまりは教経隊は盛俊隊と同じところを守っていたと読み取れます。そこを義経隊に襲われて潰走するのですが、一つの謎は何故に脆くも潰走したかです。奇襲だからで片づけていましたが、教経は猛将であり、盛俊も勇将です。

奇襲といっても真昼間の襲撃ですし、鹿松峠を越えての襲撃が心理的に不意打ちであったとしても、監視を怠っていなければ源氏軍が鹿松峠を越える頃には確認可能ですし、源氏軍も鹿松峠の坂を一気に駆け降りた訳ではありません。最低限、最後の5丈の急坂の前では立ち止まっています。ごく単純には鹿松峠の上に源氏軍が現れてから、明泉寺方面襲撃までにそれなりに時間があった事になります。教経像の実相はわからないにしろ、その状態であっさり仮屋を焼かれての潰走する理由として物足らない感じがしています。

やはり義経隊の襲撃が奇襲になるだけの要因があったんじゃないかろうかです。もう少し具体的には教経や盛俊が油断しきってしまう状況が出現したんじゃないかです。その原因は平家の情報判断にある可能性があります。源平時代の物見隊・偵察隊についてはよくわかりませんでしたが、義経軍が通った

    山田荘 → 藍那 → 車 → 多井畑

このあたりは清盛が福原を盛り立てるために力を入れていたところです。平家物語などでは源氏にあっさり寝返った描写になっていますが親平家派がいたとしてもおかしくありません。つうか源平合戦自体がこの時点ではどちらに帰趨が傾くか不明なわけで、源氏に全面加担して平家が一の谷でこれを撃退してしまうと後の祟りも怖いってところもあったはずです。義経軍の動きを平家軍に報告する者があったとしてもおかしくありません。この通報者による情報で平家軍は戦略を立てていた可能性があります。

平家に取って問題は義経軍がどこから攻めてくるかです。地図があった方が良いと思いますから、

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まず相談が辻から車方面に進めば鵯越道の可能性は消えます。宗盛の判断は義経軍が鵯越道を進まない段階の情報で鹿松峠の防衛強化を考えたのかもしれません。次は車から多井畑に進むのか妙法寺進むのかです。この違いは

  • 妙法寺に進めば鹿松峠越
  • 多井畑に進めば塩屋経由で西の木戸

もうちょっと単純化すれば義経軍の多井畑宿営の情報が入れば西の木戸に進む公算が大きくなるぐらいです。盛俊隊・教経隊は2/6(合戦前夜)には明泉寺方面で備えを固めていますが、2/7朝までに義経軍多井畑宿営の情報が手に入ったぐらいを想像します。いや多井畑宿営情報が手に入らなくとも、2/7卯の刻に西の木戸に源氏軍が現れれば教経の判断として、、

    義経は鵯越道にも鹿松峠にも来ず西の木戸を目指した

つまりは明泉寺にいる教経も盛俊も完全に後陣となり当面は合戦に至る心配はなくなります。つまりって程ではありませんが、教経は思うわぬ奇襲に動揺したのではなく、来るはずもないと思い込み油断しきっていたところでの襲撃に動転してしまったぐらいはあるかもしれません。


義経の戦術の深読み

熊谷・平山の抜け駆けにある

はりまぢのなぎさに心をかけてうちいでむとする所に、むしやこそ五六騎いできたれ。「只今ここにいできたるはなむ者ぞ。名乗り候へ」と云けるこへを聞て、くらうおんざうしのおんこゑと聞て、直実申けるは、「是は直実にて候。君のぎよしゆつとうけたまはりさうらひて、おんともに参り候わむとて候」とぞ申ける。のちに申けるは、「御曹司のおんこゑをそのときききたりしは、百千のほこさきを身にあてられたらむも、是にはすぎじと、おそろしかりし」とぞ申ける。

これは熊谷父子が抜け駆けをしようとしたら義経率いる巡視隊に出くわすシーンです。これは延慶本にはあり通本では消えた部分ですが、義経はなんのために巡視隊を率いて夜回りしていたんだろうかです。抜け駆けの先陣防止の意味もあったかもしれませんが、平家への通報者の防止のためだったんじゃないかと見れそうな気がします。私は多井畑宿営説を取っていますが、多井畑厄神も平家からの恩恵を蒙っていたはずです。義経も自分行動が平家軍に通報されている可能性を常に念頭に置いていたのかもしません。なんと言っても多井畑も敵地だからです。

義経が平家軍に知られても良い情報は実平隊が西の木戸に向かう事であり、知られてはならない情報は鹿松峠に反転して向かう事になります。多井畑宿営はそのための欺瞞行動の一環と見ることも出来ます。別動隊編成も早いうちに発表してしまうと通報される危険性があるため、それこそ実平隊が出発寸前の丑の刻になって漸く発表したとしても不思議ありません。軍勢に発表すると多井畑厄神の神官にも知られる危険性が高くなるので、別動隊発表後は平家陣地に通報者が出ないように巡視隊を率いて監視していたぐらいです。

それともう一つ欺瞞戦術を取っていた可能性があります。義経軍の進路ですが実平隊の進路は「はりまぢ」とありかなり明らかです。一方の義経隊は曖昧です。曖昧と言うか「みくさ」の言葉で行き先をぼかしているんじゃないかと思えるのです。義経軍は東国兵ですから地理に昏く、地名にも暗いところがありますから、極端な話、御大将が引きつれて進むところに付いていくだけです。目的地の地名を知られて困るのは地元の人間と平家軍になります。そこで鹿松峠を「みくさ」と故意に言い換えたんじゃないでしょうか。

おそらく平家にとっても「みくさ」といえば三草山合戦のあった三草であり、一の谷周辺には該当する地名はなかった可能性が十分にあります。もし別動隊の存在を通報されても「みくさってどこだ?」の混乱を期待したぐらいです。そう考えると鵯越も暗号かもしれません。三草と鵯越の二つの言葉を掛け合わすと鵯越道襲撃の可能性なんてのも出てくるからです。ただ義経が多井畑にいるとの情報の上ですから、鵯越道襲撃を予想しても2/7に攻めてくる可能性は低くなるぐらいです。

この「みくさ」は勝ち残った源氏軍にとっては固有の地名になり、平家物語が成立する時に集められたとされる各家の武功談でも

    義経と越えた峠は「みくさ」である

こうなっており平家物語でも定着した可能性はありそうな気がします。地名も一の谷の様に失われることはあり得ますが、峠の地名は失われにくい気がします。しかしどれだけ探しても神戸に三草山なり三草峠は見つかりません。だから義経の欺瞞戦術の一つじゃなかったかと考える訳です。

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2016-11-19 義経鵯越強襲説の検討

延慶本より、

一万余騎、たんばぢにかかりて、みくさのやまのやまぐちに、そのひのいぬのときばかりにはせつきたり。

三草山の義経軍は1万騎としています。一の谷の時は

そのせい七千余騎は義経に付け。のこり三千余騎はとひのじらう、たしろのくわんじやりやうにんたいしやうぐんとして、山の手をやぶりたまへ。わがみはみくさのやまをうちめぐりてひよどりごえへむかふべし」とてあゆませけり。

通本はどうかというと

都合その勢一万余騎、同じ日の同じ時に都を発つて丹波路にかかり、

これも三草山は一万騎で一の谷は、

六日も曙に、九郎御曹司、一万余騎を二手に分かつて、まず土肥次郎実平をば七千余騎で一の谷の西の手に遣わす。我が身は三千余騎で一の谷の後ろ鵯越を落とさんと、丹波路より搦手にこそ回られけれ。

前から気になっていたのですが、一の谷の兵力分割は

延慶本 通本
義経隊 7000 3000
実平隊 3000 7000

実数はともかく延慶本では義経隊が主力で実平隊の2倍以上になっています。延慶本も写本ですから写し間違いの可能性を言い出せばキリがないのですが、ヒョットしたら大元の平家物語でも義経隊の方が多かった可能性があるかどうかを少し考えてみます。


道の再考察

何回も出している一の谷西側の道の様子ですが、

まず古代の山陽道は塩屋付近の浜が狭くて通れず、須磨から多井畑を抜ける迂回ルートを使っていました。これが徐々に海岸が広くなり、一の谷期には塩屋を直接通れるようになっています。そのために迂回ルートは古道越と呼ばれる姫街道になったとされていますが、この古道越のうち多井畑から須磨の部分はかなり衰微したようです。一方で塩屋から多井畑ルートはそれなりに健在であったようで、これは塩屋から多井畑厄神参詣ルートとして必要であったからとして良さそうです。

ここでまずポイントは妙法寺で、清盛は妙法寺を鞍馬に見たてて庇護しています。福原から妙法寺に至るルートですが、どうも妙法寺から南に下り板宿に出るルートは明治期になるまで使い物にならなかったようで、そのために明泉寺を経て鹿松峠を越えるルートが活用されたようです。寺社参詣は信仰の面と娯楽の面がありますが、福原に都があった頃に妙法寺参詣は貴族の楽しみの一つであったともされます。さて清盛は舞子方面にも別荘があり、その行き帰りに妙法寺参詣を行っていたの伝承もあり、この時に多井畑厄神もセットであったらしいです。つうのも鹿松峠を越えて妙法寺行くのは良いとして、そこからの道が未整備なら再び鹿松峠を越えなければなりませんから、妙法寺と多井畑は結ばれていて当然のはずです。

それと塩屋もポイントです。塩屋の地名は伊達ではなく、古代から製塩を行っています。この塩は福原にも運ばれたでしょうが、多井畑や妙法寺も必要ですし、藍那や山田荘も必要です。塩の道として藍那からの道が多井畑に通じているのは自然でしょう。それと鹿松峠が整備されたなら、藍那からの道が接続される方が自然です。藍那から福原へは鵯越道がメインですが、大輪田の泊を目指すなら鹿松峠の方が近くなります。


鹿松峠

この峠は坂は急ですが、たとえば六甲山を越えるとか、生駒山を越えるのと比べるとはるかに容易です。鵯越道で高尾山を越えるのも似たようなところがあるのですが、たとえば吾妻鏡

鵯越〔此山猪鹿兎狐之外不通險阻也〕

これは大げさすぎるってところです。妙法寺から明泉寺までの標高図を参考までに出しておきますが、

20161119121403

おおよそですが100メートル登って、100メートル下りるぐらいの峠道です。そのうえで清盛時代には参詣道として整備もされています。おそらくですが険しさの程度は徒歩ならともかく、馬で越すにはチト難しい程度ではなかったかと考えています。それでも鹿なら通れると聞いた義経が例の「馬も四足」発言が出たぐらいを想像します。あくまでも私の想像ですが、馬が通れない険路って評価が平家物語でかなり誇張されて表現されている気がします。

この鹿松峠を軍勢が越えられるかですが、湊川の合戦で足利直義が越えています。一の谷合戦と湊川の合戦では150年の差はありますが、この150年間に鹿松峠の道の質が良くなっているとは思いにくいところがあります。むしろ一の谷の時の方が良い可能性さえあると思います。鹿松峠は知る人ぞ知る抜け道と言うよりは、一の谷期でもかなりポピュラーな道であったと考えています。


平家陣地

一の谷陣地の描写を延慶本より、

さんぬるしやうぐわつより、ここはくつきやうのじやうなりとて、じやうくわくをかまへて、せんぢんはいくたのもり、みなとがは、ふくはらの都にぢんをとり、ごぢんはむろ、たかさご、あかしまでつづき、かいしやうにはすせんぞうの舟をうかべて、うらうらしまじまにじゆうまんしたり。いちのたにはくちはせばくておくひろし。南は海、北は山、きしたかくしてびやうぶをたてたるがごとし。馬も人もすこしもかよふべきやうなかりけり。誠にゆゆしきじやうなり。

ちょっと整理すると

    先陣・・・生田の森、湊川、福原
    後陣・・・室、高砂、明石

まず後陣ですが言うまでもなく海路の拠点です。つうか播磨は安全圏として前提しているとも受け取れます。先陣なのですが、

    第1防御ライン・・・生田の森
    第2防御ライン・・・福原
    第3防御ライン・・・湊川

こういう構成ではなかったかと考えだしています。防御ラインといえば広そうな印象がありますが、生田の森は生田の森の東の入り口付近、福原は生田の森の西の出口付近、湊川は山陽道と湊川が交叉する地点です。つまり東から山陽道を通って攻め込む源氏軍を三重の防衛線で防ぐ構想です。西も北も平家勢力圏になっており、そこには防衛ラインを設定していなかったんじゃないかってところです。つまりは東に向かっての縦深陣地であったと思えます。もう少し具体的に地図で考えると、

平家陣地には重要拠点として一の谷本営と大輪田の泊があります。東から源氏軍が攻め寄せるとして生田の森の東側の生田川がまず第1線になるのはわかりやすいところで、いわゆる東の木戸で良いかと思います。第2線は福原とはなっていますが、この頃の福原は基本的に焼け野原ですから、大輪田の泊道が山陽道に合流する地点の東側ぐらいにあったと推測します。福原そのものの防衛と言うより、大輪田の泊と一の谷の防衛です。

第3線の湊川は第2線を突破された時の防御になりますから、山陽道を西に進む源氏軍と、大輪田の泊を襲ってから一の谷に進む源氏軍への対策となりそうです。ここで食い止めて押し返す、もしくは時間を稼いでいる間に山陽道を西に逃げるぐらいです。明石まで逃げられれば後陣がありますから、船で屋島に逃げられるぐらいでしょうか。

平家軍の戦略が狂ったのはやはり三草山の敗戦で、これで北からも西からも義経軍の脅威が及びます。とくに一の谷本営は先陣なしで剥き出しで源氏軍と接触する状態になったと見て良い気がします。三草山の平家軍は2/5の早朝に潰走していますが、一の谷に敗報を届けた者がたどったルートは

    三草山 → 明石 → 一の谷

こう考えるのが妥当ですが、これが約110kmありますから、普通に歩いて2日半ぐらいで急いで2日ぐらいでしょうか。どうも平家の総帥宗盛に三草山の敗報が届いたのは2/6もかなり遅くなってからの可能性があります。そこから平家物語では山の手対策のために越中前司盛俊、能登守教経を派遣するのですが、これも平家物語では夜間の移動で松明の動きが範頼軍から見られたとなっています。いくら騎馬武者時代でも山道の防備に麓に布陣するのはどんなものかと疑問でしたが、夜間の移動であったので麓までしか動けなかったと見ても良い気がします。これも平家物語を信じるしかないのですが、盛俊と教経が陣を構えたのは延慶本には

ほどなくみくさのやまへはせつきて、ゑつちゆうのせんじもりとしが陣の前にかりやを打てまちかけたり。

ここにも三草山が出てくるのですが、一の谷への山の手ルートは具体的には鵯越道と鹿松峠になりますから、盛俊は鹿松峠対策で明泉寺方面、教経は鵯越道対策で会下山方面に陣を構えたぐらいを想像します。そうやって山の手防備は強化はされましたが、西や東と違い防御施設に依っての防衛線ではなく、陣を構えての迎撃態勢だったぐらいを想像しています。


一の谷の兵数

源平両軍の実数はどれぐらいかですが、吾妻鏡より

源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。着于一谷後山。〔号鵯越〕

偶然かどうかわかりませんが「七十餘騎」で1騎につき10人と数えると700人になり、そうなると実平隊は30騎で300人になります。ここで義経の搦手軍が100騎1000人とすれば、吾妻鏡で昆陽野の勢揃い時の兵数が範頼大手軍5万6000騎、義経搦手軍2万騎馬ですから、比が同じであるなら280騎2800人になります。ではでは延慶本の範頼軍の数の描写は、

はまのてよりは、がまのくわんじやのりよりたいしやうぐんとして三千余騎にておしよせたり。

これまた奇妙に符合します。そうなると源氏軍は全部で4000人弱ぐらいになります。この数字の傍証として玉葉に、

源納言示し送りて云く、平氏主上を具し奉り福原に着きをはんぬ。九国未だ付かず。四国・紀伊の国等の勢数万と。来十三日一定入洛すべしと。官軍等手を分かつの間、一方僅かに一二千騎に過ぎずと。

「一方僅かに一二千騎に過ぎず」が義経搦手軍を指すとすればこれまた妙に一致します。源氏軍が4000人程度だったとすると平家軍もチョボチョボぐらいで良い気もします。でもって源氏軍4000人を関東から兵糧付きで送り込むのに必要な人数は、

騎数 将兵 馬丁 軍馬 駄馬 将兵+馬丁
1 10 9 1 9 19
100 1000 900 100 900 1900
200 2000 1800 200 1800 3800
300 3000 2700 300 2700 5700
400 4000 3600 400 3600 7600
500 5000 4500 500 4500 9500
600 6000 5400 600 5400 11400
700 7000 6300 700 6300 13300
800 8000 7200 800 7200 15200
900 9000 8100 900 8100 17100
1000 10000 9000 1000 9000 19000
1100 11000 9900 1100 9900 20900
1200 12000 10800 1200 10800 22800
1300 13000 11700 1300 11700 24700
1400 14000 12600 1400 12600 26600
1500 15000 13500 1500 13500 28500

将兵と馬丁を合わせて最低7600人は必要で、8000人ぐらいの規模であった可能性があります。この規模が多いと見るか少ないと見るかですが、この時期の頼朝でもこの規模の遠征軍を送る事は可能ってぐらいの評価はしても良いかと思っています。


義経七千騎

私も多くの人も鵯越はごく少数による奇襲を想定していますが、この知識と印象のモトダネはなんのことはない平家物語です。どうもなんですが平家物語では成立の過程で義経の攻撃を少数による険路突破の前提でどんどん編集脚色したんじゃないかと思いだしています。しかし鹿松峠がそれほどの険路ではなく、義経軍が搦手の主力を率いていたのであれば鵯越の様相は奇襲から強襲に変わります。仮に鹿松峠方面を守っていたのが盛俊として、移動時刻の関係で鹿松峠の東の麓である明泉寺に布陣していたとします。

義経隊は西から鹿松峠を登り下ってきますが、盛俊には当初は「小勢」に見えたんじゃないでしょうか。そりゃ峠越えですから横に源氏軍は展開できません。ところが後から後から源氏軍は増えてきます。盛俊が率いていた兵も不明ですが、多くて200人程度だったんじゃないかと想像しています。そこに順次であっても700人の大部隊が押し寄せられたら苦戦し支えきれずに崩れてしまったぐらいはあってもおかしくありません。盛俊が明泉寺あたりにいたとしたら、そこから南に進めば長田神社になり一の谷本営は大混乱ってところです。

とりあえずの結論として延慶本の義経七千騎は成立するとして良さそうです。それと少数奇襲説に較べると平家軍の被害が説明しやすくなるメリットもありそうです。少数奇襲説の場合、義経隊自体は戦力的に小さなものです。この辺は想像になってしまいますが、義経が襲撃した時点では東の木戸も西の木戸も破られていないはずです。そこから平家軍の退却が始まるのですが、少々将領クラスの被害が大きすぎる気がします。退却中に被害が大きくなるのは常識としてもチト大きすぎる印象があります。

これを義経隊が鵯越から西の木戸に進み実平隊と合流し、山陽道を福原に向かって進んだぐらいを考えています。義経軍が一の谷から泊道を進んで大輪田の泊に進んだ可能性もあるのですが、平家物語の描写でも大輪田の泊はかなりの間平家軍が確保していたとしか思われないので、義経軍は福原に進んだ可能性が高いぐらいの見方です。ここには湊川の陣もあるとはなっていますが、追い立てられて福原方面に退却、さらに生田の森、福原陣の兵も東からの範頼軍に追い立てられたぐらいです。

そういう状態になると東の泊道から大輪田の泊を平家軍は目指さざるを得なくなるのですが、ここも範頼軍に抑えられそうになれば、強行突破を試みて討死、旧福原方面に退却したものの、追い詰められて討死が相次いだぐらいの想像です。玉葉の

次加羽冠者申案内(大手、自浜地寄福原云々)自辰刻至巳刻、猶不及一時無程責落了

辰の刻(8時)から巳の刻(10時)ぐらいまで生田の森方面の平家軍は健在だったと受け取っても良さそうですから、巳の刻ぐらいに義経搦手軍が福原にまで進出し、平家軍が総崩れになったのかもしれません。細かい点の想像はともかく、奇襲でなく強襲として考えても無理なく成立するぐらいを結論とさせて頂きます。

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2016-11-17 一の谷合戦前夜の義経陣地の比定

前にやった熊谷親子・平山季重の先陣から考えるの焼き直しバージョンです。


平家物語延慶本

平家物語の成立は複雑で、大元は治承物語とするのが通説のようです。治承物語は全3巻ととする説と6巻とする説があるようですが、現在は失われて存在しません。治承物語が成立した年代として承久年間とする説もあるようですが、治承物語が次第に膨らんで平家物語になっていったとする説は同意します。平家物語と言えば琵琶法師になりますが、数多い異本があるのは琵琶法師が各地で平家物語を語るうちに新たな情報を取り入れたり、話を膨らませて拡大した部分は少なからずあると思っています。

そういう成立過程がありますから、平家物語に書かれていることでも史実と創作部分がどうしても入り混じります。まあ太閤記とか三国志演義みたいなものですが、数多い平家物語異本でも成立時に近いものほど史実に近いんじゃないかとされています。少なくとも後世の創作部分は無い訳ですが、現在一番古いとされているのが延慶本です。延慶本は1309年夏から翌正月にかけて根来寺で筆写されたものですが、平家物語諸本へのいざないの延慶本より、

  • 表記が生生しさを帯びているとの評があります。それに、各種材料となった記事を膾炙しきれないかたちで纏めているため、文体がころころ変わります。
  • 頼朝挙兵譚の詳細記述があるのですが、この場面では頼朝に付き従った者達の活躍と戦功保証が描かれていることから、この場所が、それぞれの家に伝承されていた「家の物語(戦功譚)」を纏めたものと見られている

他にも特徴があるのですが熊谷父子と平山季重の先陣の記録も「家の物語(戦功譚)」を基にしている可能性は十分にあると見れます。仮に治承物語時点から収載されていたら、熊谷直実・平山季重当人こそ生存していませんが、その子どもなら生存している可能性があり、二人の記憶の比較的新しい部分であるぐらいは言えるかもしれません。私の興味は延慶本全体の研究ではなくあくまでも一の谷ですから、もう一度、熊谷・平山の先陣記録を見直してみたいと思います。


通本バージョン

平家物語多数のバージョンがあるのですが

六日の夜半ばかりまでは、熊谷、平谷搦手にぞ候ひける。熊谷、子息の小次郎を呼うで云ひけるは、「この手は悪所であんなれば、誰先と云ふ事もあるまじきぞ。いざうれ、土肥が請けたまはつて向こうたる西の手へ寄せて、一の谷の真つ先駆けう」ど云ひければ、小次郎、「この儀尤も然るべう候。誰もかくこそ申したう候つれ。さらばとうよせさせたまへ」と申す。熊谷、「誠や平山もこの手にあるぞかし。打ち込みの戦好まぬ者なれば、平山がやう見てまゐれ」とて、下人を見せに遣はす。案の如く平山は、熊谷より先にいでたつて、「人をば知るべからず、季重においては一退ききも退くまじいものを、退くまじいものを」と、独り言をぞしゐたる。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長喰らひかな」とてうちければ、平山、「さうなせそ。その馬の名残も今宵ばかりぞ」とてうつたちけり。下人わしりかへつて、主にこの由告げければ、さらばこそとて、これもやがてうつたちけり。熊谷がその夜の装束には、褐色の直垂に、赤革縅の鎧きて、紅の母衣をかけ、ごんだくりげといふきこゆるめいばにぞのつたりける。しそくのこじらうなほいへは、おもだかをひとしほすつたるひたたれに、ふしなはめのよろひきて、せいろうといふしらつきげなるむまにぞのつたりける。はたさしはきぢんのひたたれに、こざくらをきにかへいたるよろひきて、きかはらげなるむまにぞのつたりける。主従三騎うち連れ、落とさんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆくほどに、年頃人も通はぬ多井畑といふ古道をへて、一の谷の波打ち際へぞうちいでける。一の谷近う塩屋と云ふところあり。未だ夜深かりければ、土肥の次郎実平、七千四騎で控へたり。熊谷夜に紛れて、波打ち際より、そこをばつと駆せ通り、一の谷の西の木戸口にぞ押し寄せたる。その時も未だ夜深かりければ、城の内には静まり返つて音もせず。

まず時刻関係を拾いたいのですが、話は「夜半」に始まります。夜半がいつかになりますが、熊谷父子が塩屋を通り過ぎる頃も、西の木戸に到着した時も

    未だ夜深かりければ

これはまだ東の空が白んでない頃の表現として良く、白めば寅の刻になりますから、その前の丑の刻以前とするのが妥当です。一の谷の合戦日は卯の刻が6時、酉の刻が18時ぐらいで良いので、熊谷父子は3時(寅の一刻)までには西の木戸に到着していた事になります。熊谷父子の通過ルートではっきりしているのは、

    多井畑 → 塩屋 → 西の木戸

なのですが、これが11kmぐらいになります。道としては塩屋からは山陽道で整備されており、多井畑から塩屋も古道越で、清盛が舞子の別荘から多井畑厄神・妙法寺を参詣して鹿松峠を越えて福原に戻るルートとして使われていた記録もあるようなので、それなりには整備が行われていたと見ています。ただ夜道です。月齢7日はほぼ半月ですが深夜には沈みますし、吾妻鏡に「雪降」ともなっており月明かりも期待できないのがわかります。そうなると真っ暗の中を駆け抜けるってわけにはいかないでしょうから時速4kmぐらいで

  • 多井畑 → 塩屋が3.8kmで約1時間
  • 塩屋 → 西の木戸が7.3kmで約1時間30分

これぐらいはどうしてもかかると推測されます。多井畑から2時間30分なら多井畑通過が0時半頃で西に木戸に3時に到着になります。もちろん通本では義経陣は実平陣と別のどこかですから、義経陣から多井畑までの所要時間が必要ですが、夜半の用法として子の三刻(0時)ないしそれを過ぎた時間帯として用いる用法もありますから30分未満の可能性が出てきます。つまりは多井畑にかなり近い地点に義経陣はあった事になります。もう少し具体的には1〜2km程度がせいぜいって感じです。

ほんじゃ2km圏はどれぐらいになるかですが、現在なら多井畑厄神に隣接する奥須磨公園程度になります。源平期に奥須磨公園も、名谷のニュータウンもないわけで人家も見当たらない林と言うか、森と言うか、山道ですから多井畑厄神をわざわざ避けて義経が陣を置くのは少々不自然です。合戦ですから野宿も避けられないですが、武者であっても野宿より屋根のあるところで宿泊する方が体力の消耗を防ぐうえで望ましい訳であり、吾妻鏡に「雪降」とされているのでかなり寒かったはずで、目の前に多井畑厄神があるのにあえて利用しない理由が思い浮かびません。


もう一つ不自然なのは寅の一刻以前に西の木戸に到着していることで、とりあえず通常の先陣の例を宇治川から考えます。宇治川では川を挟んで義仲軍と義経軍が対峙しています。当時の合戦作法として矢戦が展開されるのですが、その真っ最中に先頭切って宇治川を渡河するのが先陣になります。この時に先陣を争ったのが佐々木高綱と梶原景季で勝ったのは佐々木高綱なんですが、先陣とは矢戦の膠着状態から白兵戦に持ち込む役目が一つあるのがわかります。先陣が突撃した後に「あれを討たすな、皆つづけ」って感じでしょうか。

名誉とされるのは先頭であるが故に敵軍の矢の標的になり非常に危険です。先陣を行おうとする者を討ち取るのもまた手柄だからです。さらに敵陣に躍り込んだ時点では孤軍です。包囲されて襲われるリスクも多大と言うわけです。そういう生死に関わるリスクを背負って行うのが先陣なので非常に名誉とされたぐらいでしょうか。ここまでは先陣の必要条件なのですが、実は十分条件も存在します。平家物語より、

  • 『さきをかくるといふは、おほぜいをうしろにあててこそかくる事なれ。只一騎かけいりたらば、ひやくにひとついのちいきたりとも、たれをかしようにんにたつべき。ごぢんのせいをまて』(延慶本)
  • 「いたう、平山殿、先駆けばやりなしと給ひそ。先に駆くるといふは、御方の勢を後ろに置いて駆けたればこそ、高名不覚も人に知らるれ。只一騎大勢の中に駆け入って、討たれたらんは、何の詮かあらんずるんぞ」(通本)

どちらも成田五郎が平山季重に語った言葉ですが、先陣の価値をわかりやすく書いてあります。大胆にまとめると、

  1. 先陣を行った事を他の味方にはっきりと見せること
  2. ちゃんと生き残ること

宇治川と違い熊谷・平山は抜け駆けですから、先陣を行った時点では他に味方がいません。この場合の味方は土肥実平隊になりますが、実平隊は卯の刻(6時)の矢合わせに間に合わせるように西の木戸にやってきます。熊谷・平山が先陣を認めてもらうには、実平隊が二人が先陣を行い戦っている姿を認めてもらう必要があります。実平隊が来るまでに退却したり、討ち取られたりすると先陣ではなく単なる抜け駆け扱いになるとすれば良いでしょうか。実平隊が来るまでの3時間をフルマッチで戦っても熊谷・平山は歴史に名を刻む源平武者ですから可能かもしれませんが、あえて3時間も戦う設定で先陣を行うのは無謀というところです。


延慶本バージョン

まず

熊谷の次郎は、子息小次郎直家に申けるは、「この大勢に具して山を落さむには功名深くもあるまじ。その上明日の戦は打ち込みにて誰が先と云事あるまじ。今度の合戦に一方の先を駆けたりと、兵衛佐殿に聞かれたてまつらむと思ふぞ。その故は、兵衛佐殿しかるべき者をば一間なる所に呼びいれて、『今度のい戦には汝一人を頼むぞ。親にも子にも云ふべからず。戦に於いては智勇を尽くして頼朝をうらみよ』とぞ宣ひける。直実にもかく仰せられし事を承て、一方の先をば心にかく。いざうれ小次郎、西の方より播磨路へ下りて、一の谷の先せむ。卯の刻の矢合はせなれば、只今は寅の初めにてぞ有らむ」とて、うちいでむとしける

通本では行動を起こし始めたのを夜半としていますが、延慶本では「只今は寅の初め」つまり3時過ぎとしています。通本では西の木戸に到着している時刻になります。延慶本での西の木戸の到着時刻は、

山沢の有けるをしるべにて下りけるほどに、思ひの如くに播磨路の汀にうちいでて、七日の卯の刻ばかりに、一の谷の西の木戸口へ寄せてみれば、

卯の刻になっています。実平隊も卯の刻目指して西の木戸に向かって来るわけですから、実平隊よりほんのわずか先行しての先陣であることがわかります。これなら成田五郎が忠告した先陣の教訓に程よい時刻になります。それと個人的に注目するのは、この部分の前段は大手側の範頼陣からの平家陣地の描写です。つまり熊谷直実の抜け駆けストーリーは寅の刻の初めからスタートしています。それ以前はどうであったかですが、たとえば平山季重の陣所では、、

下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長喰らひかな」とてうちければ、平山、「さうなせそ。その馬の名残も今宵ばかりぞ」とてうつたちけり。

馬に飼葉を食べさせています。さらに

使い帰りて申けるは、「平山殿のおん方には、只今馬のはみ物して、たひげに候ふも、おん主は参りて候げにて、御物の具召し候かとおぼえて、御鎧の草擦りの音のかすかに聞こえ候。御乗り馬とおぼしくて、鞍置てくつばみばかり外して、舎人控へて候。物の具召し候が、平山殿の御声と思しくて、『八万大菩薩御覧ぜよ。今日の戦の真つ先せむずる物を』とのたまふ」と申ければ

季重は馬に鞍を置き、具足を着込み始めて出陣(つうか抜け駆け)の支度に余念がない様子がわかります。こういう状態が義経隊の一般的な状態でないからこそ直実は季重も「抜け駆けする気だな」と察知するわけで、言い換えれば他の義経隊は具足を解いての休憩中であったとして良いことになります。さて熊谷・平山が西の木戸に向かったルートは延慶本では明記されていませんが、

  • 西の方より播磨路へ下りて、一の谷の先せむ
  • 山沢の有けるをしるべにて下りけるほどに、思ひの如くに播磨路の汀にうちいでて、七日の卯の刻ばかりに、一の谷の西の木戸口へ寄せてみれば

多井畑から西(南西)に向かう道が古道越であり塩屋に通じます。また播磨路とは山陽道の播磨国内の部分を指すとするのが妥当で、塩屋より西に出たとすれば時間的に西の木戸に間に合いません。字ではわかりにくいので前に作った地図を再掲しておくと、

20161006180210

やはりルートは

    多井畑 → 塩屋 → 西の木戸

問題は寅の刻でして、延慶本には実平隊の所在地は書かれていませんが、通本のように塩屋とすれば困った問題が出てきます。塩屋から西の木戸まで7kmぐらいですから、これを2時間とすれば寅の四刻(4時半)ないし卯の一刻(5時)には塩屋を出発する必要があります。多井畑から塩屋は4km弱ですから、これも1時間とすれば寅の一刻(3時)に多井畑を通過しても塩屋は卯の一刻ぐらいになります。つまりは出陣する実平隊と出くわしてしまうってところです。また通本では暗さに紛れて実平陣をすり抜けたとなっていますが、卯の刻とは既に空の星が消えている状態を指します。つまりはかなり明るく、ここを実平隊に気づかれずに通り抜けるのは不可能ってところです。

もちろん出陣支度のドサクサに紛れてって可能性もありますが、それならそれで、出陣直前の騒然とした状態の実平陣をすり抜けるのは大きなエピソードであり、これを一言も描写されていないのは少々不自然ってところです。延慶本では熊谷直実が義経陣を抜けて西の木戸に到着するまで一言も実平について言及していません。これはごく素直に

    塩屋に実平隊はいなかった

つうか塩屋に実平隊がいれば、熊谷親子も平山季重もこのルートを取らないどころか、抜け駆けの先陣自体を行わなかった可能性が高いと思います。二人は生れて初めてこの土地に来たわけであり、塩屋が通れないなら・・・ってほどの地理知識はゼロに近かったとするのが妥当です。


吾妻鏡を参考にする

これまで何度も引用した

壽永三年(1184)二月大七日丙寅。雪降。寅剋。源九郎主先引分殊勇士七十餘騎。着于一谷後山。〔号鵯越

ごく素直に読むと義経は70騎の別動隊を引き連れて寅の刻に一の谷後山(鵯越と号す)に着陣したとなります。吾妻鏡の読み下しをググってもだいたいそういう意味で読み下しています。しかし延慶本での寅の刻の義経陣の描写は着陣直後ではなく休憩中としか読めません。ここは大胆に解釈を変えます。寅の刻に義経軍が行ったのは別動隊の編成であったとすれば延慶本との整合性が取れるのです。義経軍では深夜に軍議が召集され、そこで西の木戸に向かう実平隊と鵯越に向かう義経隊の軍勢分けが発表されたとの解釈で、延慶本の寅の刻からの描写は軍議から自分の陣所に戻ってからの話と考えれば筋が通ります。

延慶本の直実は、山に向かう部隊所属になり念願の先陣が出来なくなるとボヤき抜け駆けを決意しますが、息子の直家に寅の刻のわざわざ「初め」であることを告げているのは重要なポイントと感じます。これは実平隊の出発がもうすぐである事の意味ではないでしょうか。多井畑から西の木戸まで約2時間半と概算していますが、実平隊が多井畑出発なら3時半(寅の二刻)ぐらいの出発になります。実平隊が出発してしまえば、これを途中で追い越すことは不可能になり、実平隊に先行して先陣を行うには今しか抜け駆けをする機会はないぐらいです。でもって直ちに決行したぐらいでしょうか。

土地に昏い熊谷・平山が西の木戸への道を知ったのも実は深夜の軍議で、西の木戸を目指す実平隊の大まかなルートを義経なりが軍議で話したからとすれば納得がいきます。たとえば、

    実平隊はここから西に下り塩屋に出、播磨路から向かい西の木戸を目指し直ちに出陣

この程度の知識で西の木戸を目指したので直実が道に迷わないか心配したと考えます。多井畑は周囲を山に囲まれた盆地と言うか谷ですし、塩屋までにどんな道が待ち受けているか直実は知らないわけで、さらに道も1本とは限りません。抜け駆けを行ったのに迷子になって舞い戻るのは武者に取って大きな恥辱ってところでしょうか。前にも考察しましたが、義経軍陣地は多井畑厄神であり、ここに実平も一緒にいたと改めて結論させて頂きます。


延慶本と通本の違い

わかりやすいところを表にしてみます。

通本 延慶本
抜駆け時期 夜半 寅の刻
義経陣 実平陣と別 記載されず
実平陣 塩屋 記載されず
西の木戸 未だに夜深 卯の刻
ルート 多井畑から塩屋 多井畑から塩屋

通本の方が曖昧ですが、義経陣から西の木戸までの熊谷・平山の所要時間も同じと見て良さそうです。最大の違いは塩屋の実平隊の存在です。通本ではいつの時代からか実平が塩屋に陣を取っていた話が挿入されたようです。これに連動してか義経隊の陣地も塩屋と別の「どこか」、とにかく多井畑より北側の「どこか」に設定しています。たとえば吾妻鏡にある一谷後山とかでしょうか。私も通本の説に相当振り回されましたが、一谷後山を鹿松峠西麓の口妙法寺あたりにすると熊谷・平山の抜け駆け先陣が距離と時間から物理的に難しくなります。

つうのも一谷後山から多井畑まで8kmぐらいあるのです。寅の一刻(3時)にスタートしても、多井畑で卯の一刻(5時)、塩屋で卯の三刻(6時)がせいぜいで、先陣どころか置いてけぼりになってしまいます。急ぐにしても夜道ですし、馬は速度を挙げられても従者は徒歩です。さらにさらに地理に昏いのですから、多井畑から塩屋とではルートの難度の桁が違います。

でもって通本は塩屋に実平隊を置いたので通過時刻を丑の刻以前に設定しています。闇にでも紛れないと実平陣通過は無理との考えだった気がします。この丑の刻以前も寅の刻になれば実平隊も動き出しますから、どうも子の刻ぐらいにしているようです。子の刻なら実平隊も殆どが寝ているぐらいの設定でしょうか。ただそうしたために、西の木戸到着が異様に早い時間帯になっています。つまりは平家陣地も寝ている時間帯になっています。言ったら悪いですが、先陣と言うより夜討に近い感想さえ私は持ちました。

それでも通本も参考になる部分はあります。出発時刻はずらしていますが、移動時間は「どうも」律儀に守っています。守っているからこそ矛盾が出るのですが、ここは変えられない理由があったのかなぁ。それより実平隊塩屋宿営のお話はどこから出たのか・・・これ以上はわかりません。


延慶本の感想

延慶本の記述とて金科玉条ではありません。どうにも矛盾と言うか、チグハグな部分はあります。これについては冒頭でご紹介したように、平家物語の原典の成立資料に家の武勇譚を嵌め込んでいるからだと言われれば納得します。武勇譚は当事者の記憶の書き残しですが、当事者であっても見える範囲は限定されますし、覚え間違い、記憶違いは出てきます。それと原作の平家物語の作者については諸説ありますが、かなり源氏にも平家にも通じている人物で、なおかつ教養の高い人物であるのだけは間違いありません。

しかし当時の事ですから現地調査まで行ったとは思えず、雑多な資料を机上で再構成しただけの気がしています。現場を知っていないのですから、武勇譚の部分も鵜呑みにするところはそうせざるを得ず、チグハグの部分も目を瞑ったというか、チグハグである事も良くわからなかったぐらいです。これは平家物語だけではなく吾妻鏡もそんなところはあると感じています。それより、なにより、読みにくいのに悲鳴をあげています。あんだけひらがなの名前の羅列があると幻暈がしそうになります。

それにしてもあれだけ藍那からの、いや三草山からの義経の足取りをあれこれ考えたのに、結局のところ三草山から藍那に直行し、そこから多井畑へ全軍が一緒に移動した結論になるとは歴史ムックも奥が深いとしみじみ感じました。


蛇足・義経隊

まずは玉葉で、

自式部権少輔範季朝臣許申云、此夜半許、自梶原平三景時許飛脚申云、平氏皆悉伐取了云々、其後牛刻許、定能卿来、語合合戦子細、一番目自九郎許告申(搦手也、先落丹波城次落一谷云々)、次加羽冠者申案内(大手、自浜地寄福原云々)自辰刻至巳刻、猶不及一時無程責落了、多田行綱自山方寄、最前被落山手云々

このうち範頼の部分に

    自辰刻至巳刻、猶不及一時無程責落了

ここは辰の刻(8時)から巳の刻(10時)になっても平家の防衛線を突破できなかったぐらいと解釈しても良さそうです。ここはもうちょっと直截的に平家軍が総崩れになったのが巳の刻ぐらいであったとしても良い気がします。巳の刻も2時間あるのですが、義経が一の谷に攻め込んだぐらいを巳の一刻(9時)と仮定してみます。大まかなストーリーとして、

  1. 巳の一刻に義経が一の谷到達
  2. 巳の二刻までに火を十分に放ち黒煙が立ち上る
  3. これを見た平家軍が動揺し潰走状態になるのが巳の三刻ぐらい

巳の一刻に義経が多井畑から一の谷に間に合うためには5時(卯の一刻)ぐらいに出発する必要があり、卯の一刻に多井畑を出発すれば辰の一刻には鹿松峠の西の麓に着くことになります。ここは仮定ですが、そうであっても可能になるのは上で試算した通りです。

平家物語を読んだだけの印象に過ぎませんが、義経が一の谷に突撃してから平家軍が潰走しだすまでそんなに長くない感じがします。つか義経隊は小勢ですから、平家軍をバッタバッタと討ち取る戦力はありません。奇襲でまず動揺させ、動揺して態勢を整えようとしている間に景気よく放火して回り、本営から立ち昇る煙をアピールしてさらなる動揺を誘う戦術ぐらいを想定しています。

この奇襲のタイミングは矢合わせ直後では薄い気がします。やはり東西の木戸の戦いがたけなわになる頃を見計らう必要があります。理想的には平家軍がややお押され気味になるぐらいの時期でしょうか。押され気味にならなくと、卯の刻の開戦から疲れが見え始める頃でも良いかもしれません。だから義経は多井畑で宿営しても良かったわけですし、寅の刻に出発する必要も感じなかったぐらいです。

熊谷・平山が抜け駆けを決断したのは平家物語では「山」への戦になっていますが、それだけでなく義経隊自体に先陣のチャンスがそもそもない戦術であるのが分かったからかもしれません。

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2016-11-15 三草山の合戦を見直す

三草山の合戦もそれが「どこだ」レベルから諸説が出てくるのが一の谷の合戦の面白さですが、これまでのムックの再整理です。


京都から見た平家軍

都落ち後の平家は紆余曲折はあったものの、基本は山陽道を西から東に向かって都を目指す戦略を取っています。一の谷に陣を構えたのは一の谷以西の山陽道が平家支配になったからぐらいで良いんじゃないでしょうか。一の谷陣地に取って後背地にあたる播磨は重要で、ここを抑えることが出来たからこそ一の谷に進出できたととも言っても良いかと思います。平家の戦略目的は上洛なのですが、上洛ルートは京都から見て2つ想定されると見ています。

  1. 一の谷から山陽道を進み上洛
  2. 播磨から篠山に進出し、そこから山陰道を進み上洛

播磨からのルートは一見迂遠そうですが、篠山まで進めば京都まで2日です。京都から見れば一の谷の平家も脅威ですが、播磨から丹波に入れば京都までたった2日の山陰道方面も不気味って感覚で良いかと考えています。後白河法皇も手を打たなかった訳ではなく、玉葉の2/3に

今日行家入洛す。その勢僅かに七八十騎と。

行家を播磨に派遣しています(義仲と行家の不和の結果でもありますが、行家も播磨からの脅威を認めていたと見なします)。玉葉の2/3の記述は行家の播磨派遣の結果だけを簡潔に記述していますが具体的にはwikipediaより、

行家は11月29日(『玉葉』による。『吉記』では28日)、播磨国室山に陣を構える平知盛平重衡率いる平氏軍を攻撃する。五段構えに布陣した平氏軍は、陣を開いて攻め寄せる行家軍を中に進入させて包囲した。行家は郎従百余名を討たれながら大軍を割って逃げ、高砂まで退いたのち、海路で本拠地の和泉国に到着し、河内国へ越えて長野城(大阪府河内長野市、金剛寺領長野荘)へ立て籠もった(『平家物語』「室山」)。

簡単に言えば行家は播磨で惨敗したぐらいで良いかと思います。行家が11月に惨敗した後の播磨に源氏は何もしていなかったで良さそうです。寿永2年の12月から寿永3年の1月は関東源氏軍の上洛対策に義仲は追われ、結果として1/20の宇治川の合戦で義仲は滅亡します。義仲滅亡後の京都の軍事力の主導権は関東源氏が握りますが、この2か月の間に平家は播磨を制圧してしまったぐらいと考えて良さそうです。後白河法皇は新たな京都の軍事力である関東源氏軍を抱き込んで平家追討を命じますが、攻撃目標は一の谷だけではなく播磨から丹波を窺う播磨の平家軍にも対応が必要と判断したとして良いかと推測します。

義経が丹波ルートを取ったのは時に義経が騎馬の機動力を駆使した天才的な戦術の一端とするものもありますが、一の谷前の平家軍の動きと京都から見た脅威をを考えると、関東源氏軍に取って必然の作戦であったする方が妥当そうに思います。播磨の平家軍を無視して京都を空にして一の谷に進むわけにはいかないでしょう。


三草山の平家軍

2/5の吾妻鏡より

平家聞此事。新三位中將資盛卿。小松少將有盛朝臣。備中守師盛。平内兵衛尉芿家。惠美次郎盛方已下七千余騎。着于當國三草山之西。

「平家聞此事」は源氏搦手軍が丹波に進んでくる事と解釈して良いと思いますが、無防備であった三草山に急遽派遣されたものではないと推測しています。三草山の平家陣地の評価は玉葉にある梶原景時の報告書に「丹波城」となっています。この城って表現が混乱を招くのですが、戦国期以降の城とはまったくの別物と思います。イメージとしては拠点というか、関所みたいなものでないかと考えています。三草山の平家陣地は「城」のイメージからか、三草山の山の上に築かれたものとして史跡扱いされているのが現状ですが、主戦術が騎馬武者による騎射特化の時代に、馬が登れない三草山に要塞工事を行うとは到底思えません。せいぜい三草山の麓に丹波進出のための準備基地つうか、補給拠点的なものがあった程度が妥当そうに思います。

ここでなんですが平家の戦略目的が上洛としましたが、戦国期の信長のような武力による力業は考えていなかった気がします。戦国期には朝廷も、幕府も権威も実力も失墜していましたが、源平期では朝廷の権威は健在です。平家が上洛するとは朝廷の大実力者である後白河法皇と和睦しての平家復権による上洛で良さそうです。軍事力で脅迫はしても、軍事力で京都を強行占領しての上洛復権は考えていなかった気がします。京都の情勢を平家側から見ると義仲は滅亡した代わりに関東源氏軍が頑張っています。この関東源氏軍が義仲のように京都に居座るかの判断ですが、頼朝が出張っていない点から

    遠からず関東に帰る

この見方は間違っていないわけで、一の谷後に留守部隊を残して主力は範頼とともに関東に帰っています。関東源氏軍が京都からいなくなれば後白河法皇を守る軍事力は無くなり、法皇は嫌でも平家との和睦路線を取らざるを得なくなるぐらいのスタンスで動いていた気がします。問題は関東源氏軍が平家と一戦交えて帰るつもりなのか、そのまま帰るかです。結果は一戦交える事になったのが吾妻鏡にある「平家聞此事」と私は解釈します。

一の谷合戦全体を見て私が感じるのは平家軍の積極性の乏しさがあります。積極性に乏しいは語弊がありますが、関東源氏軍と乾坤一擲の決戦を行う意志が乏しい感じです。野戦になれば坂東武者の方が優勢の観点もあるかもしれませんが、日数を稼げば関東源氏軍は帰らざるを得なくなるとするのが基本戦略であった気がどうしてもします。まあ決戦となれば敗北もありうるので、そこまでのリスクを避けて小競り合いをしながら

    お帰り願う♪

三草山もそんな感じで、吾妻鏡に書かれている平家軍は増援部隊だったぐらいに考えています。小競り合いに持ち込む基本は平家軍の方が多い状態が望ましく、源平期の合戦も兵数の多寡にかかわらず無暗に突撃するものではありません。優勢の敵に突撃を命じようものなら逃げ散ったり(富士川の平家軍とか)になります。


三草山の比定のおさらい

三草山の位置を具体的に記す資料となると平家物語に頼らざるを得なくなるのですが、まず源氏の陣地の位置です。

たんばとはりまのさかひなるみくさのやまのひんがしのやまぐち、おのばらにぢんをぞとつたりける。

ここから拾えるキーワードは

  1. 丹波播磨国境に近く、さらに東側つまり丹波側にある
  2. 地名は「おのばら」
  3. 付近に三草山がある

この条件を満たせば良いことになりますが、そんな都合の良い場所があるかといえば、

丹波播磨国境の東側に「上小野原」「下小野原」の地名があり、ここが「おのばら = 小野原」として良いかと思います。もう一つの三草山の存在ですが、

小野原から西に12kmほどのところに三草山があります。この12kmというのもポイントで、吾妻鏡に

源氏又陣于同山之東。隔三里行程。源平在東西

源平両軍の間隔は3里となっており妙に符合します。少しだけ合戦様相を詰めれば吾妻鏡より、

爰九郎主如信綱實平加評定。不待曉天。及夜半襲三品羽林。仍平家周章分散畢。

義経軍が夜襲を行ったのは史実として良いでしょうが、「不待曉天。及夜半襲三品羽林」となっています。実は暁天も夜半も指す範囲が少々広いのですが、この二つが並ぶと特定可能になります。暁天とは夜空の東に日が差し始める状態で寅の刻にあたり、夜半はその前になりますから丑の刻になります。丑の三刻から四刻ぐらいに義経軍の夜襲が開始されたぐらいと取っても良いかと考えます。一の谷の頃はおおよそ日の出・日の入りとも6時・18時ぐらいですから、一辰刻は2時間で一刻は30分になり、丑の三刻で2時、四刻で2時半ぐらいになります。

ではでは義経軍は小野原をいつ出発したかですが、三里は普通に歩いて3時間程度です。ただ夜道ですからもう少し時間がかかったとして4時間とすれば亥の三刻(10時)か亥の四刻(10時半)ぐらいに出発したと見て良い気がします。合戦場所は三草山麓の平家陣地ですから、後世に三草山の合戦として名を残したぐらいでしょうか。合戦の状況は源氏軍が平家軍の将兵を散々に討ち取ったというより「平家周章分散畢」で、不意を衝かれて狼狽し、闇雲に逃げ散ったのが実相で良いかと思います。戦闘時間は1時間から2時間ぐらいでしょうか。ざっとまとめれば、

月日 時刻 事柄
2/4 酉の刻 18時 義経、小野原に着陣
評定・夕食
亥の刻 22時 三草山に出陣
2/5 丑の刻 2時 合戦開始
寅の刻 4時 合戦終了

この合戦でのポイントは幾つもありますが、まずは2/4の夜は源氏軍は寝てないだろうです。そのために合戦終了後に源氏軍が行ったのは

    朝飯を食って寝る

これが絶対になります。これをやらないと次の作戦は何もできません。


三草山合戦のその他のポイント

義経が三草山合戦にあたり何を考えていたかですが、私は矢合わせ日時があった気がします。平家物語より、

さる程に、源氏は四日寄すべりかしが、故入道相国の忌日と聞いて、仏事をとげさせんがために寄せず。五日は西塞がり、六日は道虚日、七日の卯の刻に、一の谷の東西の木戸口にて源平矢合せとこそ定めけれ。

ここも解釈が必要なんですが、2/7卯の刻の矢合わせはあくまでも大手の範頼軍の予定じゃないかと考えています。範頼軍なら無理なく生田の森の東の木戸に到達できます。一方の義経軍は無茶も良いところで、2/6夜に塩屋に宿営したとされる土肥実平でも三草山から75kmぐらいあり、これは2日間ぐらいの道のりになり、2/5に三草山で快勝してやっとこさ間に合うスケジュールになります。つまり源氏は義経軍が2/7の矢合わせに間に合わない予定の決定だったとするのが妥当かと思います。義経軍の本来の目的は、

  1. 播磨から丹波方面への平家軍の進出阻止
  2. 出来れば丹波から播磨に進み、一の谷後背地である播磨を動揺させる
  3. もし播磨制圧が順調に進めば一の谷攻撃にも参加する

優先度としては

    1.>2.>3.

ところが義経は一の谷攻撃参加、それも2/7の卯の刻に間に合わせる事を最優先して行動していたんじゃないかと考える次第です。三草山での源平両軍の兵力差は不明ですが、増援部隊が来たことにより平家優勢であった可能性も十分あると考えています。だからこそ優勢であった平家軍は小勢の源氏軍が攻めてくるとは予想しておらず奇襲で潰走してしまったはありえると思います。一方の義経は小勢であるが故に正面突破は難しいと判断し夜襲を選択したぐらいです。まあ小勢で小野原で平家軍を迎え撃っても勝利は難しいとの判断もあったとは思いますが、小勢で短時間で勝つには夜襲しかないともいえます。

三草山を一夜で打ち破った義経には他にも得たものがあると思います。将兵からの求心力です。義経は宇治川でも指揮を執っていますが、正直なところ宇治川の指揮では将兵の信頼・信用を得るのは難しい気がします。あれは義経でなくとも勝てる合戦です。しかし三草山の勝利は義経の決断と行動力による勝利です。義経でなければ勝てなかったと言い換えても良いかと思います。さらに義経は三草山勝利後に平家物語より

同じき六日の日の曙に、大将軍九郎御曹司義経、一万余騎を二手に分けて、土肥の次郎実平に、七千余騎をさしそへて、一の谷の西の木戸口へさしつかはす。我が身は三千余騎で、一の谷の後、鵯越を落とさんとて、丹波路より搦手へこそ向かはれけれ。

義経軍は一の谷の平家軍を攻めるとしています。一見当たり前のようですが、義経軍の本来の役割が播磨の平家軍の牽制であり、戦場としては裏方仕事の割り当てであったのが、主戦場である一の谷に参戦させると聞けば将兵は奮い立ちます。手際は三草山で見ていますから、義経の指揮に誰しも喜んで従うようになったぐらいを想像しています。この求心力は軍監である土肥実平にも及んだと思っています。実平は一の谷攻撃の最終段階で西の木戸担当になり義経と別行動を取っています。

軍監とは頼朝の代理人であり、御大将の仕事を監視し報告するのが本来の役割のはずで、梶原景時がわかりやすい実例です。御大将を監視するには少なくとも戦場では御大将の傍らに居る必要があり、別行動は異例(屋島での景時と義経の喧嘩別れはありますが・・・)です。にもかかわらず実平は別動隊の大将の役割をさして問題なく引き受けているように感じます。


三草山から一の谷へ

義経は三草山で快勝はしましたが、逃げ散った平家軍がどうなったかを知る術はなかったとするのが妥当です。もう少し具体的には、

  1. 他に播磨に有力平家軍部隊がいるのか
  2. いるとしたらどこなのか
  3. 逃げ散った平家軍がどこかで再集結していないか

こう考えた時にもし有力な平家軍部隊が存在するとしたら明石が怪しいぐらいは考えても不思議ありません。室津もありますが、とりあえず一の谷攻撃には関係しないからです。義経の念頭には2/7卯の刻があったとすれば、明石に進んで平家軍を探して撃破するより、これを回避して一の谷進撃を考えたんじゃないかと思います。そこで思いついたのが多田行綱だったぐらいでしょうか。義経に一の谷周辺の地理がどれだけ頭に入っていたかは謎ですが、大雑把に三草山から一の谷は、

  • 南に道を取れば明石に至り、そこから山陽道を東に進めば一の谷
  • 途中から東に折れて有馬温泉方向に進めば一の谷の北側に進出でき、そこから一の谷に通じる道があるらしい

明石が平家軍との衝突を回避するために避けるとすれば、山田荘に向かう道が残るのですが、どうも義経はそこに行綱が進出する予定であるのを知っていたぐらいしか考えようがありません。義経は行綱に道案内を頼んで一の谷に向かう判断を選んだと思っています。とにもかくにも三草山から一の谷は80km近い道のりがあり、丹生山の近辺で伝承の義経道をウロウロする余裕はなく、まっしぐらに山田荘、いや藍那を目指して進んでいったと思われます。

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