新小児科医のつぶやき

2017-10-11 第2部桶狭間編:あとがきじゃなくて補足みたいなもの

5/19午前中が満潮だったのは信長公記の記述からわかりますが、具体的にはどうだったのかを海上保安庁の潮汐計算から見てみます。

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とりあえず1560年6月11日が旧暦の永禄3年5月18日で6月12日が5月19日になります。この潮汐表で仮定しなくてはならないのは、潮位がどれほどなら大高鳴海間の通行が遮断されるかです。これについてはデータも参考資料もないのですが、おそらく100〜150cmの間ぐらいで通行の可否が決まりそうな気がします。一応これを前提として考えると、

  • 5/18の10:30ぐらいから通行可能になり、17:30ぐらいに通れなくなった
  • 5/19は11:30ぐらいから通行可能になり、17:30ぐらいに通れなくなった

信長の熱田から善照寺砦への移動の辰の刻(7時)ですから満潮時に当たっており、上の道を通る必要があったのに符合します。おおよそこんな感じ

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辰の刻に熱田を出発した信長が善照寺砦に到着したのは9時から10時の間ぐらいと推測していますが、ここから信長は午の刻まで動きません。清州からの移動ですから決戦に備えて休憩の意味もあったでしょうが、もし大高城別動隊攻撃の意図があったのなら潮が引くのを待っていた可能性があります。それと義元の着陣が確認されたのが信長公記では午の刻ですが、今川軍が突然現れて「あっ」と言う間に布陣したとは考えられず、信長が善照寺砦に到着した頃には既に前衛部隊が見え始めていたとも考えられます。信長は桶狭間道に現れた今川軍の動向を善照寺砦で窺っていたのかもしれません。

もう一つ中島砦での信長の檄ですが

あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。

この檄の後に中島砦を出陣しますが、午の刻は回ってますから大高鳴海間の交通が可能になっている時期です。「あの武者」とは今川軍の大高城別動隊しか考えられませんが、道は通れるようになっているが「つかれたる武者」なのでやって来ない、もしくはやって来ても物の役には立たないと自軍を鼓舞していると解釈できます。これは大雑把な推測ですが

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ついでですから桶狭間の勝利後の信長の帰路ですが、

もと御出での道を御帰陣侯なり

おけはざま山の義元本陣を追い崩したのが未の刻(14時半)ぐらいと信長公記ではなっていますが、およそ2時間の戦闘時間があったとして16時半、そこから軍勢をまとめて清州に向かったのが17時頃とすると、古鳴海あたりは18時から19時ぐらいとも考えられ、また満潮に近づきます。その頃には下の道も中の道も使えなくなっていたたので、「御出での道」すなわち上の道を通って清州に戻ったと見ることができます。

これは本編では説明が煩雑になるので省略しましたが、信長公記の記録と潮の干満はかなり符合すると見ることは出来そうです。

JSJJSJ 2017/10/11 21:03 榎原雅治著「中世の東海道をゆく」(中公新書)の中で、
飛鳥井雅有の旅日記「春の深山路」(1280年)、作者不明「東関紀行」(1242年)の
潮待ちや当時としても異様に早い深夜の宿立ち等の記述から、
当時、熱田〜鳴海の干潟は潮位130cm以下で通行できたのではないか、という推測が述べられています。

300年経って干潟の堆積もすすんでいるだろうことを勘案すると、
潮位150cm以下で通行できたのではないか、というYosyanさんの仮説は説得力があると思います。

BugsyBugsy 2017/10/11 21:39 世界史から見て奇襲が成功した会戦はないんです。

だからJSJ様の話は正当です。鎌倉も10年で変わりましたね。

BugsyBugsy 2017/10/12 14:29 ああ日の下に新しきものなし。

年取って一通りやったので目新しいものがなく、日々退屈です。退屈だから仕事をしてまた退屈です。服装だって男ものは流行がなく、40年前の背広を着てゲンナリしています。だから食事も一緒で外で食べません。新しいのは研究雑誌くらいですね。

この潮の満干で推理するのは楽しくて繰り返し読みました。新しいことをして楽しませるのは勲章の価値がありますよ。退屈が死ぬほど嫌いで気分転換が苦手な自分ですから、北朝鮮がまた楽しいことやってくれないかしら。韓国はあいも変わらず同じことの繰り返しでうんざりです。ミサイルに寄付してやりたいくらいです。日本人はどいつもこいつも単調ですから。

BugsyBugsy 2017/10/12 15:45 歴史の楽しみは新しい世界を見せてくれるからです。だからローマの休日は新しい命をローマに与えました。それがない小説は意味がないです。不思議と日本では多いですね。研究論文は得意でも素人に面白く解説できる歴史研究家が少ないからでしょう。

JSJJSJ 2017/10/12 16:43 Bugsyさん
>年取って一通りやったので目新しいものがなく、日々退屈です。退屈だから仕事をしてまた退屈です。
そりゃ院長なんてやってるからじゃないですか?
ご自分を平医師に降格したら楽しくなると思いますよ。
私は療養病院の平医師ですが、日々楽しいですよ。

>研究論文は得意でも素人に面白く解説できる歴史研究家が少ないからでしょう。
こりゃまた大層なご発言を。そんなに読んでおられます?
もしまだ読んだことがなかったら、手始めに石井進なんていいですよ。
スタンダードな中世史で今となっては古典ですが、読みやすくて、1960〜70年代に学校で日本史を勉強した人間には目からウロコが落ちるようなことが書いてあります。
今回の潮汐の話に興味を持たれたのなら、上記の「中世の東海道をゆく」もお勧めですし、
以前このブログでも名前の出た足利健亮もいいです。「地図から読む歴史」 (講談社学術文庫) がお手頃だと思います。

BugsyBugsy 2017/10/12 17:18 自分がヒラになっても勉強は一緒だから変わりません。泣きたいくらいです。楽しみは学会だけですね。子供の頃の最初の趣味が歴史だから論文も読みふけりました。医学よりも発見がなくて 似たような遺跡が出たくらいで死ぬほど国内の歴史は退屈で むしろ遺伝子解析による民族の起源が新しい情報が多いから好きです。魚は海藻を食べるのでウィルスが移り、食べる日本人に移ったそうです。海洋民族しか魚の旨味が分からず動物の旨味は分からないそうです。この点でニホン人はベトナム人に近縁して、大陸の人間から分かれたのではないのはミトコンドリア解析の結果を裏付けています。だから公園で初めて見る花を眺めている方がマシです。女性もどうでもいいです。

BugsyBugsy 2017/10/12 19:29 続いて皆様は趣味はどうされていますか?

自分は靴はすぐにプロより上手くなったから飽きました。バラは何もしなくても咲くし、オペラは健康にいいからやってるだけです。

日本の小説が画一的なのも単一文化だからではなく読者がバカなんです。タイトルで結論が分かるから、読むだけ損です。シェークスピアは単語ひとつ新鮮ですが、日本語訳じゃわかりません。北方騎士団、ダビンチコード、ベオウルフ タイトルだけでワクワクです。

人は平穏な渡すを幸せって言ってくれますが、高揚感のない毎日が幸福なわけありませんよ。だから西洋史に絡めてコメントを書く方が楽しいのです。

YosyanYosyan 2017/10/12 20:49 足利健亮氏の影響は確実にあって、私の歴史ムックは地理とか地形とか街道の推測を必死こいてやってます。地名もそうです。一の谷も長い間ムックしてますが、藍那から塩屋に至る地形とルートの推測は面白かったです。多井畑厄神の義経の必勝祈願伝承も当初は便乗伝承と思っていましたが、ムックの末に宿営地じゃないかと考えるようになっています。

日本の歴史小説が面白くないと感じるのは主観ですが、これは長い間、定説に寄りかかって書かれたためかと考えています。桶狭間も甫庵信長記・太閤記が史実と信じて疑われなかった時代が長く、その「史実」の上で話を展開するので同工異曲にならざるを得なかったぐらいです。ただ最近は流れが変わりつつあるとは思っています。

そうそう私の歴史の楽しみ方ですが資料の多すぎる時代は基本的にパスです。資料が多すぎる時代は既存資料の把握と確認だけでお手上げになります。ですからエエ加減な定説に乗っかっているだけの話のムックが好きです。他の趣味? 今は秋のハイキング・シーズンですから毎週のように山に登ってます。なかなか楽しいですよ。

JSJJSJ 2017/10/12 23:18 >自分がヒラになっても勉強は一緒だから変わりません。
せっかく臨床医なのに。
私は、50人の入院患者を担当していると毎週毎週何かしら解決すべき問題が出来し、たいていは些細なことですが一人一人に合った解決法を見つけなきゃいけないので飽きません。
最新の医学とはほとんど関係ないです。
ちなみに外来は定期的に診ているのは月に一人しかいませんwww。新患もほとんど来ませんwwwwwww。外来は疲れるので、その点でも今の職場は気に入っています。

趣味は、合唱歴は長いです。3年x3回くらいのブランクもありますが馴れ初めは中学生の時なのでかれこれ40年近いです。
あとは家庭菜園ですかね。ベランダガーデニングを始めて5〜6年ですが、去年戸建てを買いまして、幅50cmのウナギの寝床のような畑で野菜を育てています。
今年の成果は、グリーンピース豊作、ソラマメ不作、サヤインゲンまずまず、エダマメ失敗、トウモロコシ失敗、トマトまずまず、シソ豊作、バジル豊作、サツマイモまずまず、カボチャまずまず、オクラまずまず、ラッカセイ・サトイモ・ショウガ・長ネギ収穫待ち、イチゴ育成中。
植物は土を作って種なり苗なり植えればあとは自主的に育ってくれるのでズボラな私には合っていると思っています。

BugsyBugsy 2017/10/13 13:47 JSJ様

私は本が読みたいのでわざと退屈な病院にしました。退屈すぎてベテランナースが逃げて大変結構です。レスピレーターやCVPを置かないので軽傷しかいません。胸を張ってヤブと言うので連絡しなくてもナースが病院に転送するので、褥瘡や肺炎すらいません。検査や処置は全員一緒で聞かれもしません。思うところがあって常勤医は全員廊下で失禁する認知症です。給料は小遣い程度でも家族は患者予備軍だから喜んでいます。当直医にも仕事はさせないので一晩二万で教授も押しかけます。酒もどうぞです。回復期リハビリで九割は慣れ親しんだ脳卒中の術後で原因疾患はかたがついています。

貴方くらいのガーデニングが楽しいですね。バラ以外にはベリーやオリーブで水もやらずに勝手に育ってます。鳥寄せに良いくらいで退屈です。

BugsyBugsy 2017/10/15 10:56 この辺りの遺構は残ってるのでしょうか。不思議と縁なない場所ですが行ってみたいです。自分はそう言うわけで今日は北関東の城跡巡りのバスツアーです。昔近所に勤めていたので唐沢山城しか知りません。遺構の方が想像の翼が広がるから好きです。霧と紅葉が手伝ってくれます。バスツアーは修学旅行以来初めてですが、観光に興味がなく名物料理も知らないから家族が飽きたからです。

それにしても後ろからはトムハンクス、前からはエリッククラプトンと毎回言われるのは笑いました。目つきは決して良くないけど、紺のブレザーでくつろいでいます。

YosyanYosyan 2017/10/15 14:26 Bugsy様

 >この辺りの遺構は残ってるのでしょうか

現代地図を見ればわかると思いますが、今の桶狭間はビッシリ住宅街になっています。そりゃ鳴海城とか大高城、鷲津・丸根砦の跡の石碑ぐらいあるとは思いますが、歴史好きの私でもあんまり行きたいと思いません。つうか桶狭間のムックで大変だったのは現在が変わり過ぎてて、当時の地形とか街道とか、汀線を推測するのに非常に難儀させられました。鎌倉往還のルートを比定するだけでも、そりゃもうです。

BugsyBugsy 2017/10/15 20:48 そういえば城塞というイメージが湧きませんが、横浜も神戸も城跡が無いわけじゃないでしょう。我が家の斜向かいには神社があり中世吉良氏の支城で一部土塁が残っています。世田谷でも多摩川沿いはこんな小高い丘にある神社が多くて、見晴らしも良く重要な多摩川の防衛ラインでした。中には古墳を利用したものもあり、今でも等々力渓谷や我が家の井戸から鏃や古銭が出てきます。歴史の古い場所というだけで何やら嬉しくなってきます。下町よりも古くて昔の東海道も近所に走っていたそうです。地盤がしっかりしているので地形は殆ど変わってないようで寺も鎌倉時代からの古いところが多いです。駒の名前がつく地名が多いのも高麗との関連というより、公設の牧が多かったようです。狛江、駒形、駒場なんてまさにそれです。

YosyanYosyan 2017/10/15 21:20 神戸にも城塞ありますよ、和田岬砲台なんてどうですか。布引の滝の奥にも城塞はあり、赤松円心も旧天上寺を城塞化して篭ってます。近世なら荒木村重が伊丹城から逃げて籠もったのが花隈城です。今は市営駐車場ですけどね。つかあんだけ兵庫津やったんですから兵庫城ぐらい覚えて下さい。

この辺は冗談ですが、神戸市も広くて端谷城はよく整備されてて一見の価値があります。また淡河城は牝馬の計で秀長を翻弄したので有名です。本丸と二の丸はよく残ってます

BugsyBugsy 2017/10/15 21:37 家内が神戸の女子大なのでパンの話しか出ませんが一度行きたいですね。実家の広島は広島城と三原しか知りません。先祖に水軍がいて海の城は知っていますが、別の先祖は毛利氏の家来でした。そこの毛利の山城には墓はあっても行ったことがないんです。

YosyanYosyan 2017/10/15 21:52 そりゃ神戸はパンでしょ。神戸ほど自家製パンの値打ちが低いところは少ないと思います。自家製は単なるスタート時点ですからね。ケーキも同上。

BugsyBugsy 2017/10/15 23:19 娘は御学友で自分は宮内庁によく呼ばれます。東京にいるからでしょう。

行くと江戸城や赤坂御所の昔が聞けて楽しいです。皇族の人も座談はうまいですね。r

BugsyBugsy 2017/10/18 10:13 信長は典型的な日本人でした。彼は最後まで法律を作りません。これは単一民族で習慣が一緒のため説明が要らず、彼の意図を配下が即座に分かったからです。他家の式目も同様で箇条書きで簡潔です。

一方ローマ帝国はまるで文化が違う異民族を支配したために細かいところまではっきりさせる必要があったために細かい法律を明記して法の遵守に厳密でした。法を破る時は新しい国を作る時であるとカエサルは述べています。法とは民族の生き方なんでしょう。生き方はラテン語ではチヴィタスですが、文明という意味でもあります。ローマはルビコン川を超えて多民族と接する帝国になってから急に法律が細かくなりました。

BugsyBugsy 2017/10/18 10:13 信長は典型的な日本人でした。彼は最後まで法律を作りません。これは単一民族で習慣が一緒のため説明が要らず、彼の意図を配下が即座に分かったからです。他家の式目も同様で箇条書きで簡潔です。

一方ローマ帝国はまるで文化が違う異民族を支配したために細かいところまではっきりさせる必要があったために細かい法律を明記して法の遵守に厳密でした。法を破る時は新しい国を作る時であるとカエサルは述べています。法とは民族の生き方なんでしょう。生き方はラテン語ではチヴィタスですが、文明という意味でもあります。ローマはルビコン川を超えて多民族と接する帝国になってから急に法律が細かくなりました。

BugsyBugsy 2017/10/18 14:25 JSJさま

歴史は叙事詩です。凡百の歴史家は細かいデータにこだわるだけで叙事詩を楽しむ素養がないので打ち捨てられます。マキアベリが愛されるのは人間を描くからで人間は時代によって変わるから永遠に愛されています。

自分は基礎研究者だったので人間と向き合った実感がありません。だから今では普通のお医者さんになったと満足しています。欧米では医師が人文科学を通じて最新の科学知識を元に人間を見ています。理科や数学が得意だから医師に向いているとする日本の風潮は明らかに間違っています。

BugsyBugsy 2017/10/18 15:09 それとご主人様の信長の描写はいつも優しいですね。これは日本には小物の悪党しかいないのでピカレスクロマンが育たないからです。

信長は全くチェーザレボルジアと一緒ですが、毒のない君主ほど困りものはありません。立ち居振る舞いはイタリアンルネッサンスと完全に一緒です。こういった描写の方が信長の本質をついています。女を徹底的に利用したのもです。ZbqEA

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2017-10-10 第2部桶狭間編:祝杯

・・・数日後に例の旧友から電話。

    「プロポーズしたんだって」
    「うん」
    「むちゃくちゃビックリしたわ」
    「だってなんかアクションしないと手遅れになるって言うたやん」
    「そりゃ、言うたけど、私は恋人のステップをトットと進めろって言うただけで、ステップを飛ばせって言うたつもりないで」
    「は、ステップって?」

どうも話を聞いていると、旧友が思っていた彼女へのアクションとはキスするとか、それこそエッチしたり、旅行に行ったりの恋人ステップを踏んでいくお話で、手ぐらいしか握ってくれない私の行動に、コトリちゃんは物足りなさから不満というか不安を感じていたぐらいだったようです。旧友の言葉も合わせて考えると、コトリちゃんの目には恋人になっているはずの私からの次のアクションがあまりにも乏しくて、私に『本当に恋愛対象にしてくれてるんやろか』の疑問さえ出ていたようです。そこで前の彼氏の復縁攻勢があり、グラッと来てしまったようです。

    「それやったら、そうって言うてくれたら良かったのに」
    「そんなもん、わからん方が鈍すぎるやろ。だから前の時にもいうたやん、コトリちゃんは天使じゃなくて普通の女の子だって」

丹生山の日もデートじゃなくてハイキングだったもので、言い方は悪いですが健全過ぎるというか、健康的過ぎる印象はあったようですが、それでもシチュエーション的に紅葉の下でキスも悪くないぐらいは心づもりしていたようです。まあ、さすがにドライブじゃなくてハイキングですから、汗かいた後のエッチはないだろうぐらいです。でもそこまで進めば、恋人ステップはなんとか一段でも進みますし、自分が恋人である実感も出来て、前彼とモヤモヤした関係や感情もかなり整理できるかもしれないと思っていたようです。

ところが、ところが出て来たのは恋人ステップを全部踏み飛ばしてのプロポーズ。不意打ちも度が過ぎたってところです。ただ前の彼氏はそれなりに長く付き合ってはいたものの、結婚の話は出て来ず、乗っても来ずで、それが前の彼氏への不満だった点の一つだったようで素直に感動してくれたようです。一つ間違えば討ち死にだった思うと冷や汗タラタラですが結果オーライとはこのことです。信長は桶狭間の教訓を後に活かしましたが、私は別に活かす必要はありません。だって次はあり得ないからです。今日は待ちに待った祝杯です。

    「マスター、チェリー・ブロッサムを作って」
    「祝杯ですか?」
    「そう、本当の意味での祝杯」
    「おめでとうございます。では、お二人にプレゼントさせて頂きます」

珍しく鼻唄交じりでマスターはカクテルを作り始めました。隣にはもちろん天使のコトリちゃんが微笑んでいます。薬指に輝く指輪が眩しい。

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JSJJSJ 2017/10/10 23:31 信長(山本君)はせいぜいゲリラ戦を仕掛けてくるくらいと高をくくっていたら、
全軍で攻撃してきて泡を食った義元(コトリちゃん)というところですか。

そうするとBugsyさん説ですねぇ。

YosyanYosyan 2017/10/11 07:34 JSJ様

それぞれの桶狭間があって良いと思ってます。

BugsyBugsy 2017/10/11 14:09 とうしで全部読んで見ました。

チャキチャキの歴史ファンですが、日本史は読まなくなりました。西洋史と違って作者の内容が陳腐で目新しいものがありません 不思議ですね。たとえば本能寺の変は朝廷なんて昔から繰り返し言われていてウンザリです。

恋愛小説と絡めるというのは この先どうやって関連付いていくのか楽しみじゃないですか。読者の気持ちを忖度しない小説なんてクソくらえです。

BugsyBugsy 2017/10/11 14:16 信長が降参すると触れたので、やすやすと義元のお膝元に近づけたという説もあながち嘘っぽくないですねえ。

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2017-10-09 第2部桶狭間編:決戦

幸い天気にも恵まれて気持ちの良いハイキングになりました。コトリちゃんはホントに天使級の晴れ女です。桶狭間も佳境なので自然にその話題になるのですが、

    「でさぁ、問題の義元本陣はどこにあったの」
    信長公記を追ってけばわかってくるよ、とりあえず雷雨の中の突撃はあらへん」
    「そうやね突撃の時は
    空晴るゝを御覧じ
    だもんね」
    「次に信長公記には義元本陣が後ろに崩れたとなってる」
    「うんうん
    後ろへくはつと崩れなり
    だもんね」
    「ここはもうちょっと注意深く読みたいところで
    くずれ逃れけり
    やから義元本陣は信長の突撃に崩されて、おけはざま山から下ったと読んで良いと思う」
    「そう読んでイイと思う」
    「そうなると次の描写は義元が本陣を構えていた『おけはざま山』から桶狭間道を沓掛城方面に逃げる途中の描写になるんやけど
    旗本は是なり、是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向かってかかり給う。
    織田軍は沓掛城に逃げる義元を東に向かって追撃してると、ここは素直に解釈できるやろ」

信長公記の義元本陣への突入シーンですが、織田軍の突撃により短時間で本陣は混乱状態に陥ったと見て良さそうです。しかし義元は本陣で討死していません。本陣である桶狭間山を下って東向きに逃げ延びようとしているのがわかります。ここは素直に義元は桶狭間道に下りて沓掛城を目指していたと解釈して良いと考えています。可能性としては大高城別動隊との合流を目指していたかもしれませんが、どちらでも結果としては変わらなかったぐらいです。

    「ところでさぁ、信長は襲撃したところが義元本陣って知ってたんかな」
    「知ってたはずやで、信長公記にも佐々・千秋の惨敗を見る描写や、義元本陣から謡が聞こえるシーンがあるやん。つまりは織田軍も義元本陣がどこにあるか知っていたとしてエエと思う。義元本陣の場所が不明って話の出どころはやはり甫庵太閤記でエエんじゃない」
    「小瀬甫庵の影響恐るべしやわ」
    「でもこれで義元本陣が桶狭間の北側丘陵だってことがわかるやん」
    「そやね、義元が桶狭間道を『おけはざま山』から下りて沓掛城方面に逃げるのやから、もし南側の丘陵地帯に本陣があたっら、そこをさらに南側から攻め落とさなあかんから、そんなのは時間的に無理やもんね」
    「そういうことやねん。これは完全に推測やけど、鎌倉往還のどこかから桶狭間北側丘陵にあった義元本陣に向かい、そこから義元を桶狭間道に追い落としたと読んで良いと思てるねん」
    「でもこれだけじゃ、北側丘陵のどこかわからへんやん」
    「そこなんやけど、佐々・千秋の突撃が参考になる気がするんや。佐々・千秋は中島砦近くにいて、桶狭間道を東に突撃した可能性が高いと思うねん」
    「私もそう思う」
    「信長公記の義元が佐々・千秋の敗北を喜ぶシーンを鵜呑みにしたらの前提やけど、佐々・千秋は義元本陣から見えるところで戦った可能性があるねん」
    「そうとしか読めへんもんね」
    「つうか、もし信長が強襲策を最初に抱いていても目標は義元本陣にしたいはずやから、見えてたはずやと思うねん。それに本陣位置は必ずしも秘密にするもんやなくて、むしろ味方に御大将が見ているぞと示す必要もあると思うねん」
    「そうね。采配を揮うにも、敵味方がどうなっているかを見れる位置じゃないと困るもん。だいたい未の刻にもなって御大将が本陣も構えずウロウロ移動中とか休憩中ってのは油断しすぎもイイとこだし」
    「最低限、佐々・千秋の敗走兵から義元本陣の位置を信長は確認してると思てんねん」
    「義元本陣の位置がわかっているから鎌倉往還迂回戦術が出て来たとも言えそうやね」
    「その辺から推測すると、こんな感じじゃなかったかと考えてるんや

    20171009074049

    今川軍は鳴海城方向に対して北西を向いて布陣していたのやけど、桶狭間道を挟むように布陣していた可能性が高いと思てんねん。そういう今川軍の陣地伝承跡もあるし。中島砦の東側にいた佐々・千秋隊は桶狭間道を東に進んできたはずやけど、有松村のあたりで包囲殲滅を喰らったぐらいと見れそうな気がするんや」
    「そんなに無理ないね。でもちょっと今川陣地からしたら深いけど」
    「まあ、桶狭間道でも有松村のあたりは少し広いから、狭いところをそれなりに通しておいて、広くなったところに誘い込こんで包囲したぐらいはあると思てる」
    「まあ、あると思う」
    「有松村で合戦があって、義元が本陣を置いて見ているとしたら、地図で『義元本陣』としたところぐらいが一番可能性が高そうに思てんねん」

信長が義元の不意を衝いたのは信長公記の描写から確実ですが、信長が意図して義元本陣を襲ったのか、たまたま襲ったところが義元本陣であったのかは意見が分かれるところもあります。ですが小瀬甫庵が義元の所在地を不明にした創作を除外して考えると、信長はひたすら義元本陣を目指したと考えています。

    「なるほどね。ほんで青の点線のところを織田軍が進んで来て南側に追い落とされたら、桶狭間道になるもんね、鎌倉往還から外れたのは
    沓掛到下の松の本
    こうなってるから松に関係する地名がある『八つ松』あたりかもしれへんねぇ」
    「そうやって東に追われて討ち取られたとしたら、伝今川義元墓辺りでもおかしくないし」
    「ところでさぁ、私は信長がこの地形を知ってた気がするの」
    「コトリちゃん、どういうこと」

彼女がなにか閃いたようです。

    「鷲津・丸根砦を始めとした付城群が築かれたのは永禄二年なんやけど、信長の性格・行動力からして自分で見に来て砦の設置場所まで陣頭指揮していた可能性は高いと思うねん」
    「信長ならあり得そうやな」
    「鎌倉往還もこの時期には赤塚から文木がメインみたいやったけど、茶屋ヶ根の方も自分で見て確認してた気がするの」
    「もし今川軍が善照寺砦間際まで寄せてきたら、茶屋ヶ根通って古鳴海に出られてしまうからね」
    「そういうことなの。当時の信長は今川軍との決戦を嫌でも意識していたと思うから、決戦の時の地形を他人ではなく自分の目で確認していたと私は思てるの」
    「そんなキャラが信長やし、そんな手間をかける時間も信長にはあったし」
    「そういうこと、だってそもそも鳴海・大高城の包囲が始まってから一度も信長が前線に出てないと思う方が不自然やと思わへん」

信長はこの時点でも歴戦の将です。その上ずば抜けた行動力があったとして良いはずです。清州で他人任せにして、ふんぞり返っていたと考える方が余程不自然です。

    「たしかに。ちょっと歴史小説風にしてみるわ。信長が善照寺砦の佐久間信盛のところに視察に行ったぐらいの設定で、

      信長:『沓掛峠は』
      信盛:『ここを通っての軍勢の移動は無理でござる』
      信長:『しかとか』
      信盛:『見た者に聞いたところでは・・・』
      信長:『たわけ、見に行く』

    こんな調子で沓掛峠ぐらいまで足を延ばすぐらいの行動力は信長にはあると思うわ」
    「それぐらいは信長ならやってない方が不思議なぐらいやもんね。実際の桶狭間の時ほどの大軍が来るとまで予想していなくても、付城築いて包囲戦やってれば、いずれは今川軍が救援に来るのは当然やし、迎え撃つのはこの近辺になるのは間違いないし」
    「桶狭間道の方だって自分で行って見てないほうが不思議なぐらいや」
    「だから中島砦で中入り戦術を選んだってことやね」
    「まあ義元があんな大軍を動員してくるのは信長の予想を越えていたかもしれへんけど、地理の方は信長はしっかり把握してたんでエエんじゃない」
    「これじゃ梁田政綱がわざわざ登場する余地は少なそうやね」

桶狭間では、とにもかくにも信長はなんらかのルートを使って迂回奇襲を行ったのは確実です。そのルートを信長は予め把握していたと解釈するのが自然な気がします。信長が付城群を築いた理由として今川軍をおびき寄せる説がありますが、おびき寄せたからには勝たなければならない訳で、勝つための必要条件として地形やルートの把握は絶対に必要です。

    「さて、桶狭間道に追い落とされた義元もある程度は東に進んでるんや信長公記にも
    初めは三百騎計り真ん丸になって義元を囲み引きたるが、二三度、四五度、帰し合い、帰し合い、次第次第に無人となって後には五十騎ばかりに成りたる也。
    義元を囲んで退却しようとしてるのがわかるんや」
    「うん、時代劇でよくある本陣で義元が討ち取られるシーンは甫庵の創作だってわかるわ」
    「でもって、退却戦は難しくて、基本は相手を一旦押し込んで距離を取って、その隙に下がり、陣を整えて追撃してくる敵軍を迎え撃つみたいな感じになると思うねん」
    「うんうん、相手はかさにかかって攻め崩そうとするから、退却戦の殿は難しくて被害も大きいのよね。秀吉が方面司令官に抜擢されたのも金ヶ崎の退き口を成功したからやもんね」
    「戦国時代でも軍勢は統制が取れていないと脆いし、退却戦ではなおさらだったでエエと思う。秀吉の退き口もすごく高く評価されてるし、関ヶ原の時の直江兼続最上義光戦もそうやと思てんねん」
    「そうよね。義元は『おけはざま山』の本陣から追い崩された時点でも三百人ぐらいはいたみたいやけど、完全に敗走体勢になっての三百人やから秀吉や兼続の時より条件が悪いもんね」
    「そんな感じになってたと思う。三百人でももう少し余裕のある体勢で織田軍を迎え撃っての退却戦なら、桶狭間道自体は広くないから、なんとか義元は逃げきれた可能性はあったと思うねん」
    「そんな崩れそうな義元部隊に織田軍は猛烈に喰らいついたわけやね」
    「なんとなくやけど、わりと短時間で義元を守る軍勢は支えきれずに散り散り状態になり、乱戦の白兵戦状態から毛利新介に義元は討ち取られてしまったってところかな」

桶狭間の話も終り、山頂で紅葉を眺めながらお弁当です。彼女の料理はお世辞抜きで美味しくて、本当に幸せです。そんなランチも終った今からが私の桶狭間決戦になります。まずは善照寺砦から中島砦に移動します。

    「・・・ちょっと話があるねん」
    「そういうてたねぇ。なんのお話?」
    「あの夜にチェリー・ブロッサムで祝杯を挙げてくれたんは本当に嬉しかってん」
    「ありがとう」
    「でもさぁ、チェリー・ブロッサムで祝杯の本当の意味をマスターに聞いた?」
    「彼女が出来たらじゃなかったの?」
    「もちろんそうやねんけど、マスター言うてなかったみたいやな」
    「なになに?」

物凄い緊張感に押し潰されそうなのですが、ここが人生の正念場やから頑張るしかありません。こんな時にTMNのselfcntrolのメロディーが頭の中に流れてきました。

    “言いたいことも うまく言えなかった
     このままサヨナラに するわけにはいかない
     心の中で高まってくリズム
     もう押さえることはできないさ“

笑って誤魔化せる最後のチャンスですが、覚悟を決めて中島砦を出撃。中入り戦術を決行します。

    「付き合ってからもずっと思ってるけど、コトリちゃん以上の女性がこの世に存在するとは思えません」

いつもなら「そんなぁ」「やだぁ」とか言いながら軽く流す彼女も、私の異様な口調と雰囲気を察してか次の言葉を待ってます。後は鎌倉往還を遮二無二突っ走ります。

    「チェリー・ブロッサムの本当の意味は、自分と結婚してくれる素晴らしい彼女が出来た時に祝杯を挙げることなんです」

彼女の顔がビックリして固まっています。一気に義元本陣に突撃を敢行します。

    「絶対に幸せにします。ボクと結婚してください」

この日のために用意しておいた秘密兵器の婚約指輪を捧げながら、彼女の返答を待つ時間が無限と思えるほど長く感じました。彼女の目に涙が溢れそうになっています。

    「無理。私はそんな女じゃないの・・・」

うわん。外したのか、信長にはやっぱりなれなかった。やっぱり梁田政綱の本陣情報が必要やったかも。甫庵先生ゴメンナサイ。

    「前のチェリー・ブロッサムの時に二股の話したやん。あの時の前の彼氏は完全に切ったつもりやってんけど、ゴメンナサイ、切れ切れてないんよ。私みたいな二股女にこのプロポーズを受ける資格はないわ」

こっちに来たか、でもこっちだけは対策を考えてあります。ここで義元じゃなかったコトリちゃんを取り逃がしたらチャンスは二度とありません。熱田の神軍じゃなくてここは丹生都比売の援軍を念じながら、

    「その話は知ってた」
    「えっ!」
    「知ってた上で今日プロポーズしてる」

彼女の顔がみるみる泣き顔になります。

    「前の彼氏よりブサイクで、連れて歩いてもパッとせえへんと思うけど、コトリちゃんを愛する気持ちだけは誰にも負けへん。何があっても絶対に幸せにしたる。コトリちゃんを泣かすようなことは絶対させへん。前の彼氏への未練があっても全部吹き飛ばしたる。もう一度言います。ボクと結婚してください」

これだけ臭いセリフを並べたのは生れて初めてですが、顔は耳まで真っ赤だったに違いありません。彼女も嗚咽していましたが、なんとか絞り出すように

    「ありがとう。こちらこそよろしくお願いします」

聞いた瞬間に頭が真っ白になってしまいしたが、気がついたら飛び込んできた彼女を抱きしめていました。どうやら勝ったみたい。それにしても天使の唇は甘かった。

JSJJSJ 2017/10/10 08:11 我らが山本君、中入りというより猪突猛進の正面突破のように見えますなw。
意地の悪い見方をすれば、コトリちゃんの注文通りに突貫しちゃったようにも思えますが、そうするとこの戦さ勝ったのか負けたのか微妙かも。
ま、私の桶狭間合戦像にひきずられた憶測です。真実はコトリちゃん(義元)しか知らないことで。
祝着至極に存じます。

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2017-10-08 第2部桶狭間編:デニッシュ・メアリーと歴史に選ばれた者

    「カランカラン」

カウベルが鳴って彼女が登場。今夜も彼女からのお誘いは突然のバーだけ。それも彼女は遅れ気味で先にラスティ・ネイルを頂いてました。これはスコッチにドランブイを入れてステアしたものですが、ドランブイをアマレットに変えればゴッド・ファーザーになり、ウイスキーをブランデーに変えればフレンチ・コネクションになります。

    「じゃ、私はブラッディ・メアリーにしようかな」
    「それやったらデニッシュ・メアリー飲んでみ」
    「じゃあそうする」

ブッラッディ・メアリーはウオッカをトマトジュースで割ったカクテルですが、ウオッカをアクアビットに変えたのがデニッシュ・メアリー。この店のブラッディ・メアリーは少々胡椒が利きすぎて私は好きでないのと、彼女に血まみれのメアリー女王になって欲しくないってところです。今日も友達との食事の後と言っていましたが、やっぱり相手は前彼かなぁ。状況が切迫しているのをますます感じます。それでもバーには来てくれているのでチャンスは残されているはずです。肝心のコトリちゃんの心を鷲掴みにする作戦ですが、ついに秘策を思いつきました。

    「・・・沓掛から古鳴海までの鎌倉往還やけど、前にこの道は『通れない』前提で織田も今川も戦略を立てたって話してたよね」
    「そうだよ。だってどう読んでも今川軍が通った形跡がないもん」
    「ちょっと鎌倉往還を調べ直したんだけど、あの道は通れたの」
    「えっ」
    「でも通れなかったの」

『通れる』のに『通れない』ってなんの謎かけなんだ。

    「沓掛から古鳴海に出るには二村山の沓掛峠を越えて扇川の谷間に入るよね。そこから古鳴海への丘陵を越えるんだけど相原郷から古鳴海までの鎌倉往還は二本あったのよ。地図見てくれる

    20171008081052

    古鳴海から言うと赤塚まで進んだ後に茶屋ヶ根に向かうルートが本来の鎌倉往還で、桶狭間の頃には赤塚から文木に出るルートがメインになってるの」
    「ひぇ、二本あったんだ。そっか、文木ルートは善照寺砦があるから通れないし、文木から相原郷に鎌倉往還が通っているなら、ここも今川軍が通れないってことか」
    「ちょっと違うと思う。今川軍がその気になれば善照寺砦を囲んで封じ込めるのは容易だから、今川軍が通れない理由にならないのよ」

あかん完全に押しまくられてます。キレキレになったコトリちゃんがいかに凄いかは良く知っていますが、今夜もコテンパンにやられそうです。

    「じゃ、義元はなんで鎌倉往還を通らなかったの?」
    「沓掛から古鳴海への鎌倉往還やけど、通れなかったのは沓掛峠だったと考えるべきじゃない」

コトリちゃんの意図がようやくつかめました。沓掛から西に向かうルートの目的は熱田に出ることです。古代は鳴海付近が海だったので丘陵地帯を通って古鳴海に出ていましたが、鳴海が陸地化すると桶狭間道を使うルートにシフトします。そのために沓掛峠の荒廃が早く進んで使えなくなったと見ても無理はありません。一方で、相原郷から古鳴海丘陵を越えるルートは村々も点在しており生活道路として健在であっただけではなく、善照寺砦や中島砦、さらに大高城の付城群への兵糧輸送に使われていた可能性も考えられます。丹下砦から善照寺砦への移動は信長が五月一九日に通っているので可能ですが、鳴海城の側を通るより鎌倉往還を通った方が安全だからです。

    「両軍が鎌倉往還を使わない前提にした山本君の見方は正しいけど、これは鎌倉往還全体が使えなかったからじゃなくて沓掛峠を軍勢が通れなかったからと考えるべきよ」
    「じゃ、古鳴海から相原郷までは軍勢は進めたってこと?」
    「そうじゃなくちゃ、信長公記の時間に合わないの」

時間関係として、午の刻に佐々・千秋の突撃から中島砦への移動があり、義元本陣襲撃が未の刻で十四時半前後ぐらいです。中島砦を何時に出撃したかは不明ですが、中島砦から義元本陣までせいぜい二時間程度ぐらいしか余裕がありません。たとえば中島砦から丹下砦方向に移動し、丹下砦と古鳴海の間ぐらいから赤塚に登り伝今川義元墓あたりまで目指すと一〇キロメートルぐらいになります。この時に古鳴海の丘陵の鎌倉往還が悪路であれば二時間では厳しすぎるので、街道として普通に通れたとする方が合理的です。

    「なるほど。信長は中島砦からとりあえず赤塚を目指したで良さそうやな。でも時間がないのなら文木から登った可能性はどう」
    「私は文木じゃないと思うの。文木じゃ今川軍から丸見えじゃない。今川軍だって古鳴海丘陵の鎌倉往還は使えることは知ってるわけだから」
    「でも文木からでも織田軍が清州に退却した風に見えないかな」
    「信長は熱田から丹下砦経由で善照寺に来てるのも今川軍に見られている可能性があると思うの。そこで文木ルートを通ったら清州に帰る以外の可能性を義元に抱かせるのを避けたと思うの」
    「言いたいことがわかったぞ。清州に帰るのなら最短距離で帰るはずやから、下手に文木ルートを使えば警戒されるってことやな」
    「そうなの。義元が信じるか信じないかは『賭け』やけど、文木より丹下砦から古鳴海に進んだ方が騙せる確率が少しだけ上がるぐらいと思うの」

たしかに文木から赤塚に上がると茶屋ヶ根ルートの可能性を残すので、よりそう感じさせない古鳴海方向へのバックだったと考える方がこれまた合理的です。

    「でもさぁ、信長が通った伝承ぐらいあっても良さそうなものやけど」
    「それがあるのよ。赤塚の少し南の朝日山に豊藤稲荷があるんやけど、そこの伝承に朝日山の麓で織田軍が勢揃いしたとなってるの。朝日山の麓って茶屋ヶ根ルートで相原郷に下る谷間なのよ」
    「えっ、そんな伝承があるんや。ひょっとして信長公記の『山際』って朝日山の麓の谷かも」
    「私もそう思うねん」
    「ちょっとまとめるわ

    • 信長は佐々・千秋の惨敗を見て桶狭間道からの強襲をあきらめた
    • 義元は五月二〇日に大高城別動隊が活用できるまで積極的な決戦の意志はないと賭けた
    • 古鳴海方面に退却するように見せかけ、今川軍から姿を消した

    ん、ん、ん、でもさぁ、鎌倉往還から扇川のとこに下りてきたらやっぱり今川軍に見つかるんちゃう。今川軍だって鎌倉往還見張ってるはずやし」
    「そうなんやけど、実際には雷雨で隠されたしか言いようがないんよ」
    「ほんじゃ、雷雨がなかったら?」
    「だから雷雨はあったんだって」
    「そうじゃなくて、もし無かったらと聞いてるんやけど」
    「無かったらじゃなくて、雷雨はあったの!」
    「雷雨はあったのは事実やけど、そうじゃなくて・・・」

古鳴海から相原郷への鎌倉往還が使えるのであれば、信長が少々小細工したからと言って今川軍の監視が緩むとは思えません。そりゃ「信長は尻尾を巻いて清州に逃げたかも」ぐらいは感想として持つかもしれませんが、だからと言って安心しまくって見張りも放置したとするのは無理があります。史実として雷雨がありましたが、いくら信長でも雷雨まで予想していたとは思えず、雷雨が無かった時の対策をコトリちゃんに聞きたいのですが、どうも違う見方をしているようです。

    「桶狭間の合戦は信長の勝機が非常に少ない合戦やったやん。圧倒的な兵力差の壁は桶狭間丘陵ぐらいの地の利では埋めようがないぐらい大きかってん。そのうえ、今川軍は桶狭間の丘の上に布陣してるの。こういうものは上にいる方が有利なんよ」
    「そうやけど・・・」
    「でも信長は清州籠城を選択せえへんかった。これは、

    • 籠城戦は救援の期待が必要だが、この時点の信長には援軍を期待できる同盟国はない。
    • 逃げ場のない籠城戦になったら裏切りが出る可能性が高くなる
    • たとえ清州籠城戦を凌ぎ切っても、その頃には少なくとも尾張南部は今川の勢力圏になり、これを挽回するのは小さくなった織田家では非常に難しい

    それぐらいの理由はすぐに思いつくから、信長に残された選択は決戦しかなかったと思てるんよ。とはいえ、勝てる要素はそもそも少ないやん。鷲津・丸根砦の捨て駒作戦は非情やけど、そこまで犠牲を払わないと『あわよくば』レベルの勝算も立てられなかったぐらいに思てるんよ」

信長が籠城を選択しなかった理由は諸説ありますが、信長の性格的に籠城を好まなかったのはまずあると思います。それと尾張という国は天険とか要害に乏しい地形で、今川軍に熱田方面に侵入されてしまうと手の打ちようがなくなるのもあった気がしています。

    「なんとなくやけど、鷲津・丸根砦捨て駒作戦の効果はもっと大きなものを信長は期待していたんじゃないかしら。それが善照寺砦まで来てみたら無理なことが思い知らされた気がするのよ」
    「佐々・千秋の惨敗やね」
    「そこで賭けに出たんよ。ほぼ全軍挙げての中入りで一挙に今川軍を覆す賭けにね。ただこの賭けに勝つにも困難というより無謀な要素が立ち塞がっていたんよ。今川軍に見下ろされる状況下で中入りなんてそもそも無謀やから」
    「だよね、でも・・・」
    「鎌倉往還で扇川に織田軍が姿を現した時に、今川軍に気づかれて対応されたら包囲殲滅の危険性もあるけど、織田軍が清州なりに退却したと思い込んでくれれば、『あわよくば』気づかれない可能性がある方に賭けた。そこに都合よく雷雨が訪れたのよ」
    「そんな都合が良いことが・・・」
    「そうなのよ、信長は僥倖に恵まれて必敗状態から起死回生の勝利を得たとしか言いようがあらへんねん。結果として義元の首まで取ってしまうんやから。これが歴史に選ばれた者の特権かもしれへん。信長が勝てた要因をあえて挙げとくと

    • 義元が善照寺砦なり中島砦に信長がいる時に攻撃を仕掛けなかったこと
    • 信長が中島砦から迂回攻撃に移動する時にも攻撃を仕掛けなかったこと
    • 鎌倉往還を通り扇川流域に織田軍が出た時に、ちょうど雷雨がありこれを今川軍が見逃したこと

    これだけのラッキーの団体さんが訪れたぐらいに考えてるの」
    「そういえば、桶狭間の勝利について信長は生涯、殆ど口にしなかったとどこかに書いてあったん思い出した」
    「信長は桶狭間の勝利が幸運に恵まれただけのものと誰よりも知っていた気がするの。だから桶狭間を教訓として、二度と桶狭間のような状況に陥らないように戦った気がするねん」

今日はこのあたりでお開き。冴えまくってキレキレのコトリちゃんに歴史談義では追いまくられました。女性としての魅力は言うまでもありませんが、これだけの歴女は二度と望んでも手に入るとは思えません。ここで秘策のための工作を行います。

    「ところでさぁ、またハイキング行かへん」
    「桶狭間に行くの?」
    「あそこは行っても完全な住宅街になってるからやめとこ」
    「じゃ、どこ」
    「丹生山の紅葉」
    「行きたい、行きたい」
    「それとちょっと話もあるねん」
    「話って?」
    「そん時のおたのしみ」
    「じゃ、お弁当作っとくね」

秘策の第一段階はお出かけのお誘いです。コトリちゃんはお出かけ大好きなので、まずはクリアすると踏んでましたし、もしこの段階で蹴られたら既に天使の気持ちは前彼に行ってしまっている事になります。とにもかくにも『お誘い』は成功しました。でも『お誘い』に成功しても難題は何一つ解消していません。これは単なる舞台設定に過ぎないからです。勝負はここから始まります。とにかく相手は今川軍の様に強大です。じっと清州城で待つだけではジリ貧で勝てる要素が見つけられそうにないのが今の情勢です。ここは信長じゃありませんが、リスクが高くとも思い切った賭けに出るしかありません。私の桶狭間が丹生山です。

丹生山を選んだのは、紅葉が綺麗と言うのもありますが、あんまりハイカーで賑う山でないのもあります。そこで私は勝負をかける決意を固めました。ただ物凄く不安やなぁ。相手は義元級ですが、私は信長ではありません。丹生山が桶狭間として私の中入り戦術は・・・秘策中の秘策ですがリスクが高すぎて不安がテンコモリです。私にも僥倖の団体さんが来てくれないと勝利は難しいかも。でも負けるわけにはいきません。

JSJJSJ 2017/10/08 18:46 こんにちは。家族で温泉に行ってきました。

一点、純粋な間違いがあります。
斎藤道三は4年前に死んでいます。

YosyanYosyan 2017/10/08 18:55 ありゃ、お恥ずかしい。原作共々、明日訂正させて頂きます。前半部分も直しておかないと。

BugsyBugsy 2017/10/18 19:58 日本人は皆自分しか語らないから信長公記を越えられず 価値がありません。だから日本人の小説は外国では売れず村上春樹も同様です。ですから繰り返し見るのはパゾリーニとフェリーニだけで 目をつぶっても そこが古代ローマの港町と知れます。下手な役者と一緒で日本の作家はうるさいだけです。

これはロリータ好きと一緒です。女性を人間として相対していないので 幼児、ロリータ、女を辞めた人間だけです。歳をとっていくに連れ妖麗さを増すオードリーヘップバーンが分かりません。だから日本の社会は群を抜いて幼稚です。女性はそれに甘えていつまで経っても子供です。だからイタリアファッションが似合いません。ファッション雑誌はだから退屈なだけです。

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2017-10-07 第2部桶狭間編:Dumpieと沓掛峠

      「カランカラン」

ドアのカウベルが鳴って

    「はぁい、今日はゴメンネ」

夜になって急に飲みたくなったのお誘いでした。

    「今日は黒板のお勧めのDumpieにしたい」

Dumpieは日本バーテンダー協会神戸支部が神戸開港150年記念カクテルパーティーで選ばれた新作カクテルの一つです。レシピはウイスキー、バナナ・リキュール、フレッシュ・レモン・ジュース、ブルー・キュラソーをシェークしコリンズ・グラスに注ぎ、クラッシュアイスを入れ、ミントを散りばめ、炭酸を満たして軽くステアし、レモンスライスをグラスの縁に飾るです。 港町レモネードとなんとなく似ていますが、味はもうちょっと大人の感じです。 ちなみにDumpieとはスコッチのブランド名のようで、神戸開港時に活躍したサー・アーサー・ヘスケス・ブルームが愛飲していたものだそうです。ただこのDunmpieと言うブランドは今は残っておらず、どんなスコッチであったかは不明だそうです。

    「今日はどうしたん」
    「お友達と晩御飯食べに行っててんけど、前から考えていることがまとまってきて、どうしても今日話がしたくなったの」

えっ、まさか今度こそ別れ話とか。だいたい『友達』ってまさか、とか頭の中を暗い妄想が駆け巡ったのですが、彼女の表情にそんな様子はまったく感じられません。むしろ期待で顔が上気している感じさえします。

    「・・・中島砦から信長は運命の出撃をするんやけど、この時に桶狭間の合戦を象徴する天候の変化が起こるよね」
    「激しい雷雨やね」
    信長公記には、
    山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。
    これがどういう状況になるかやけど、今川軍は戌亥、つまり北西に向かって陣を構えてるから風は北西風ないし西風と見て良いと思うの」
    「そうなるよね、大雑把に西風でもエエやろな」
    「織田軍には後ろから風が吹いてると、織田軍は東南ないし東側を向いていることになるよね」
    「当然そうなるはずや」
    「ここでポイントなのは織田軍が山際に来た時に雷雨になってる」
    「そう書いてあるけど、山際がどこかわからへんやん」
    「それが書いてないから、みんな解釈に苦労するんやけど、私はちょっと大胆な仮説を立ててみてん」
    「どんなん、どんなん」
    「信長は中島砦から退却したんじゃないかと思ってるの」
    「ええっ!」

信長公記の中島砦からの信長の進路は曖昧な書き方をされていまして、中島砦の次に出てくる地名らしきものは『山際』です。山際と言う地名は現在ありませんから、これは山の傍ぐらいを意味していると考えられます。そこまではシンプルなんですが、山際で織田軍は西風を背後から受けています。つまりは山際での進行方向が東向きになります。そんな条件に合いそうなところを地図で確認すると、

20171007073551

桶狭間道は佐々・千秋が突撃して敗北して使えませんから、扇川流域を東に進んでいたのだろうぐらいまでは推測できます。扇川流域は桶狭間丘陵と古鳴海丘陵に挟まれた谷になっていますから、南北のどちらかの丘よりのところが山際だろうの見方です。問題は雷雨が始まったのが山際に着いてからとなっているところです。つまりは中島砦から山際まではまだ雨が降っていなかった事になり、その動きは今川軍に見られている事になります。その状態で雷雨のためだけで今川軍が織田軍を見逃し、義元本陣までの侵入を許してしまったと説明するのはちょっと苦しいところです。

    「退却じゃなくて中入りのための迂回戦術やけど、古鳴海方面まで後退させたんやないかと考えてるの」
    「でも退却中に追撃されたら」
    「リスクは高いけど中島砦に移動しても攻撃されなかったから、今川軍は五月一九日には動かない方に賭けたんやと思うの」

コトリちゃんが言いたいことがボンヤリとわかって来ました。信長は佐々・千秋隊の敗北で桶狭間道からの強襲が無理なだけでなく、義元が五月一九日に決戦の意志がないと読んだ、もしくは無い方に賭けたの見方です。

    「でもさぁ、義元に決戦の意志がないと読んだんやったら、べつに中島砦に移動せんでも良かったんじゃないん」
    「信長の中島砦への移動は佐々・千秋隊の敗北の後に行われてるの。善照寺砦の時点で中入り戦術を選択していたと考えたらどう」
    「だから、それやったら善照寺砦から古鳴海に直接動いてもエエんちゃうん」
    「理由は二つ考えられるの。一つは自分の読みに不安があったから。これは前に山本君が言ってたね」
    「ほんじゃ、もう一つは?」
    「前に山本君が否定した義元への牽制。意味ありげな軍勢移動で『信長に策あり』と思わせて、義元の決戦の意志をさらに少なくさせる作戦」

佐々・千秋隊の突撃も謎ですが、信長の善照寺砦から中島砦への移動も謎です。これを義元への牽制と考えるのはおもしろい見方です。

    「でもその策に義元が乗ったら意味ないやん」
    「その時はオシマイ。中島砦なり、善照寺砦で合戦が始まってしまったら信長に逃げ場はないよ」
    「ちょっとまとめると、

    • 信長は佐々・千秋の敗北でも今川軍が動かなかったから五月一九日の決戦の意志はない方に賭けた
    • さらに決戦を牽制するために意味ありげな軍勢移動を行った

    こんな感じかな」
    「リスクを冒したくない義元は五月二〇日になれば少々の策が信長にあっても確実に押し潰せると判断して、結果として決戦は見送ったぐらいよ」

信長と義元がどう考えていたかは本人にでも聞かないと不明ですが、信長があれこれ動いても義元は動かなかったのは史実です。

    「でもさあ、せっかく信長が目の前に来ているのに、これを見逃すのはどうなん」
    「それは惜しいと思うかもしれへんけど、鳴海城を確保し熱田方面まで進出してしまえば、今川軍に負ける要素がいよいよ無くなるぐらいの判断じゃない。これも前に山本君が言ってたやん、義元は絶対に勝てる戦術を優先しすぎるって。これが綾となって出たんじゃない」
    「そうかもしれへんな。義元は軍勢では圧倒的に優勢やけど、桶狭間の地形は大軍のメリットを発揮するにはイマイチやもんな。桶狭間で無理して決戦するより、信長を取り逃がしても熱田進出の方が安全確実ぐらいの判断かもしれへん」

義元が五月一九日に沓掛城から桶狭間に進出したのは事実ですが、大高城別動隊が兵糧搬入後に引き続いて鷲津・丸根砦を直ちに攻め潰したのと比べると動きが緩やかです。この理由として考えられるのは信長の善照寺砦進出かもしれません。信長が進出してきたのは敵の大将を討ち取れるチャンスでもありますが、わざわざ信長が出て来たので『なにか策がある』の疑念が出て、義元により慎重策を取らせたの見方は可能だと思います。

    「後出しジャンケンみたいなものやけど、信長が善照寺砦なり、中島砦にいる間に攻撃を加えていたら信長は清州に逃げ帰るしかなかったと思うの」
    「ボクもそう思てる。中島砦周辺の地形は信長公記に
    脇は深困の足入り、一騎打ちの道なり
    こうはなってるけど、それこそ今川軍が数で押しまくればいずれ包囲されるやろし、包囲されたら織田軍は終りや。そうなれば鳴海城の岡部元信も打って出る可能性もある気がする。織田家の重臣連中の懸念もそうだったと考えるのが自然や」
    「そうそう、鳴海城にも今川軍がいるもんね」
    「少々リスクというか犠牲を払うかもしれへんけど、事実として織田軍は鳴海方面にしかいないわけで、同盟国の援軍があるとか、他に有力な援軍が到着予定って訳じゃないから、今川軍に強引にでも決戦に持ち込まれたらお手上げやもんなぁ。でもさぁ、もし地形を活かして織田軍がとりあえずでも撃退したら?」
    「それでも状況は信長に悪くなるよ。撃退と言っても今川軍の損害はたかがしれてると思うの」
    「言われてみればそうやな。地形が大軍に適していないのは小勢の織田軍には守る上では有利かもしれないけど、義元が駿河に逃げ帰るほどの大損害を与えるのは無理やろな」
    「そうなの。それと今川軍のこの時の戦略は中島砦を落とすことやから、撃退されても桶狭間道を中島砦により近いところに陣を進めてくると思うの」
    「城攻めやもんね」
    「そうなれば信長は中島砦から動きにくくなるでしょ」
    「そっか、佐々・千秋の時はまだ今川軍との距離があったと見れるもんね」
    「そんでもって信長にとって致命的なのは五月一九日の残り時間がドンドン減っていくの」
    「そっかそっか、もう午の刻越えてるんだから、そこで中島砦の攻防戦をやっちゃえばその日の持ち時間が減るし、合戦やれば体力も消耗するし、五月一九日をしのいでも五月二〇日になれば大高城別動隊も北上してくるんだ」
    「そうなのよ、義元は五月一九日に先手を打って攻撃していれば、信長のほんのわずかな勝利の芽を完全に摘み取ってしまっていた気がする」

今夜のコトリちゃんはキレキレです。これだけの事が思い浮かんだのなら、たとえ前彼と御飯を食べていても話に来るはずです。それぐらいの筋金入りの歴女であるのはこれまで付き合ってきてよく知っています。

    「そやけど義元はその選択をしなかったんだ。この時に強引な決戦をしなくても、五月二〇日になれば必勝態勢やし、五月一九日だって織田軍が強襲なり、夜襲、朝駆けをやっても余裕で撃退できると計算したんだろう」
    「その計算は必ずしも間違いではなかったと思ってるけど、結果的に義元の運命を決めてしまったぐらいかもしんない」
    「やっぱ戦場は水物やねぇ」

ここで織田軍の数なんですが、

ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。

現場目撃者の太田牛一の記述ですから信憑性は高いと判断できます。そうなると信長が決戦に用いた兵力は二千弱と見て良さそうです。一方の今川軍ですが、

御敵今川義元は、四万五千引率し

こうはなっていますが四万五千はいくらなんでもです。ただこの中に兵糧搬送輸送部隊も含んでいると考えると、決戦兵力は一万五千程度であったぐらいに見るのも可能です。ここはもうちょっと少なくて一万程度の方が現実的な気がします。大高城別動隊の数も不明ですが松平元康、朝比奈泰朝がそれぞれ二千程度と考えると義元本隊は六千程度であった可能性もあります。それでも信長の三倍の決戦兵力ですが、一日待てば五倍になるのは魅力的な選択枝だったかもしれません。

    「それでやけど、古鳴海までバックして信長はどうしたんや」
    「そこから鎌倉往還を通るの」
    「ちょっと待った、ちょっと待った、鎌倉往還は軍勢は通れへん前提やんか」
    「そうなんやけど、信長は無理やり通ったの。無理やりだったから道中は大変で、桶狭間従軍者の伝承として山を登ったり、下りたりして大変やったの話が残ったんやないかなぁ」

ここの部分も甫庵の脚色が凄いことになっているのですが、それは置いといて古鳴海方面まで退却すると織田軍は今川軍の視界から消えます。消えたところから義元本陣を目指すのですが、道なき道を押し通るより、荒れていても鎌倉往還を通ると考えた方が合理的です。

    「まあ、ええわ。古鳴海から鎌倉往還を通るとどうなるの?」
    「まず古鳴海まで織田軍が後退すると今川軍から見えなくなるの。で、古鳴海から丘を越えると相原郷あたりに出るやん」
    「そっかそっか、『山際』を古鳴海から丘を越えて相原あたりに出るところと解釈すれば、そこからは東に向かうから雷雨は背中から降ってくる事になるわ、たしかに」
    「そういうこと」
    「でもちょっと強引な気が・・・」
    「この鎌倉往還迂回説にはもう一つ根拠があるの。山際から次に示される地名があって、
    沓掛の到下の松の本に、二かい三がゑの楠の木、雨に東へ降り倒るる。余の事に熱田大明神の神軍がと申し候なり。
    ここの『沓掛の到下の松の下』って何と解釈する?」
    「えっと『沓掛に到る、下の松の下』ぐらいかな」
    「私もそんな感じで解釈して困ってたんやけど。これは『到下 = とうげ = 峠』のことで『沓掛の到下』とは沓掛峠のことなの」
    「ひぇ、そうなんや。でも沓掛峠ってどこ」
    「現在の地名には見つからからへんかった」
    「じゃ、不明」
    「いや特定できると思うわ。まず沓掛って言葉入っているから、峠を越えると沓掛に至る道やとしてイイはずやん。織田軍の位置からして沓掛方面から登る事はありえへんから」
    「たしかに」
    「それと沓掛に行ける峠のような道は実質的に1ヶ所しかないの」
    「そっか、鎌倉往還の二村山のところやね」
    「そういうこと。太田牛一は織田軍が沓掛峠を目指して進んでいたと明記してると思うの」
    「なるほど、そう書いておけば鎌倉往還を織田軍が進んだって示せると思ったんやね」

沓掛峠を目指したのであれば鎌倉往還を信長は進んでいたとしか考えられません。これを中島砦から直接鎌倉往還を目指したら今川軍に見つかるので、一度古鳴海方面にバックして今川軍の視野から消えて鎌倉往還に入ったとするのは鋭い見方と感心しました。さて自分の考えが認められたのでコトリちゃんは上機嫌です。

    「今夜は最高よね」
    「うん、凄かった」
    「そう思てくれる。ちょっとでも早く聞いてほしくて、今日は無理いうてん」
    「全然無理じゃなかったよ、すっごく楽しかった」
    「こんな話を真剣に聞いてくれて、一緒に楽しめるのは山本君しかおらへんもん」

コトリちゃんの言葉のあっちこっちに気になるというか、引っかかるところがあるのですが、たとえ夕食の相手が前彼であっても、今夜は天秤を自分の方に傾けた気がしました。いやそうであって欲しい。

JSJJSJ 2017/10/07 11:09 信長と義元の心理の綾というか、情勢判断に同意です。

以下、昨日のコメントの続きで、主に5日のBugsyさんの「義元には思いもよらぬ信長の攻め方」という意見に対する反論です。
義元にとって、今回の軍事行動の目的の一つは大高城への兵糧搬入ですから、おけはざま丘陵を避けて通ることはできません。
そして自軍にとって一番危険な場所、すなわち信長が仕掛けてくるとしたらそれは大軍の利が減弱するおけはざま丘陵であることも読んでいたと思います。
義元も解っていたであろうことは、18日から19日のかけての作戦行動から推量できます。
すなわち、大高城への兵糧搬入と付城の排除は強襲により一晩で完了していますが、その間義元は沓掛城で待機。危険な場所へは出てきていません。
19日もそのままでは、疲れている上に孤立した大高城方面部隊が危険ですから、おけはざま丘陵に進出します。
そして19日には速攻しません。中嶋砦攻撃中に横槍を入れられることを嫌ったのではないかと思います。
おそらく19日はおけはざま山に陣を構築していたのではないでしょうか(陣の構築もせずに休んでいただけならアホです)。

もしかしたら19日の信長は、中嶋砦に入るまでは大高城方面部隊を攻撃することも考えていたかもしれません。(昨日も書きましたが、一つの行動の意図を一つに絞る必要はないと思います。)
ところが実際には既におけはざま丘陵に義元本隊が展開していて、大高城方面部隊への攻撃はあきらめます。
信長には義元本陣が見えたのではないかと思います。
甫庵信長記を離れて常識的に考えれば、御大将はできるだけ戦場全体を見渡せる場所に陣を構えるものだと思うのです。ということは敵からも見える場所にいるということです。
おけはざま山に野戦陣を構築する今川軍を見た信長は、時間が経てば経つほど自分が不利になることを理解したはずです。やるなら今日しかない、と。
また、末端部隊をつぶしても全軍が動揺することはなく、義元の首を獲って一発逆転を狙うしかないことも。

19日に城攻めに入らなかった義元には、今日が一番危険な日であること。
すなわち信長が仕掛けてくるとしたら今日の可能性が一番高いことが解っていたはずです。
19日の義元は、信長の攻撃を予想して待ちかまえていたことでしょう。

そして信長は仕掛けました。
ここまで信長は、他に選択肢のない行動を取っていただけのように見えます。はっきり言って義元の掌の上で走り回っていただけです。
ただ果断であったとは言えると思います。惰弱であれば清州に篭って為す術もなく滅び去っていたのですから。
果断と天運(突然の嵐)によって拾った勝ちだと思います。

YosyanYosyan 2017/10/07 15:33 JSJ様

海上保安庁に潮汐推算ページがあって合戦当日の潮の干満がわかります。本編には使わなかったのですが、問題は潮位が何メートルであれば大高・鳴海間の交通が遮断されるかです。これには5/18の潮位を見るしかないのですが、14時ぐらいが最低で26cmぐらいで、17時には100cm、18時には150cm、19時には200cmになります。最高は21時ぐらいで229cmで、5/19は2時ぐらいに100cmになって再び8時に200cmに達します。ここで仮に150cmまで通れるとすれば5/19は10時半ぐらいであり、100cmなら11時半ぐらいです。信長の善照寺砦到着が9時から10時ぐらいですから、夜襲明けで疲れている大高城別動隊を襲う意図があったのなら時刻的にはちょうど良いぐらいになります。

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