新小児科医のつぶやき

2017-03-24 桶狭間の合戦余談・梁田政綱ムック

梁田政綱と言えばお手軽にwikipediaより、

桶狭間の戦いの功績の内容は不明だが、一説には、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝え、義元の首を挙げた毛利良勝よりもその功績は大きいとして、沓掛城主となったという。

恥ずかしながら結構長い間史実と思ってましたが、これもwikipediaより、

しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗者である今川家にはこの前後の感状が残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。

ほんじゃ出どころはになりますが、またまたwakipediaより、

簗田出羽守の勲功第一という表現に比較的近いものは、小瀬甫庵の『信長記』や『武家事紀』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分

甫庵信長記を読んでみましたが、該当しそうな部分を見つけられませんでした。そうなると武家事紀を読まにゃなりません。


武家事紀

武家事紀は山鹿素行が書いたもので延宝元年(1673)の序文があります。さっそく梁田政綱の部分を書き起こしてみます。

戸次右近大夫、初名梁田出雲守。信長にツカヘテ戦功アリ、桶間合戦ニ、信長自義元ノ旗本へカケ入テ、勝負スヘシト議セラル、群臣アヤフミテ不一決梁田一人信長ト議ヲ一ニシテ、竟に義元カ旗本ヘ押カカリ、義元ヲ討捕、由此信長軍功ヲ賞シ沓掛三千貫ノ領知ヲ梁田ニ賜う(毛利新介得義元首梁田賞賜倍毛利)。元亀元年、小谷放火、八相退口ニ、抜鉄砲五百挺、騎射五十人ヲサツケテ殿タラシム(一梁田、二佐々、三中條)。天正3年、加越平均ノ時、加賀国ヲ賜テ敷地ノ天神山ニ在城ス、同年賜戸次氏改左京大夫、而メ加州一揆蜂起、天神山ノ在城不叶メ大聖寺ニ引退、因っ此加賀国ヲ佐久間玄蕃允政盛ニワタシ、安土ニ蟄居スル也

ちなみに桶狭間以外の事績は信長公記で確認可能な部分が多く、

武家事紀 信長公記
賜戸次氏改左京大夫 簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ
加賀国ヲ賜テ敷地ノ天神山ニ在城ス 賀州能美郡.江沼郡、二郡御手に属すの間、檜屋城、大正寺山、ニツこしらへ、別喜右近、佐々権左衛門、江相加へ、入れ置かせられ、
八相退口ニ、抜鉄砲五百挺、騎射五十人ヲサツケテ殿タラシム(一梁田、二佐々、三中條) 殿に諸手の鉄炮五百挺、?に御弓の衆三十計り相加へられ、簗田左衛門太郎、中条将監、佐々内蔵介両三人御奉行として相添へられ候。敵の足軽近々と引き付け、簗田左衛門太郎は中筋より少し左へ付きて、のがれ侯。

梁田政綱が簗田左衛門太郎が同一人物なのか、それとも親子なのかは見解が分かれるところのようですが、実在の人物であるのは間違いありません。実在どころか信長公記に

御家老の御衆、友閑は宮内卿法印。タ庵は二位法印。明智十兵衛は、維任日向になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ、忝きの次第なり。

簗田左衛門太郎が家老であったのも確認できます。


手柄部分

武家事紀が参考にしたんじゃないかと思われる資料を挙げてみます。

作品名 著者 年代 内容
信長公記 太田牛一 江戸初期 記述無し
甫庵信長記 小瀬甫庵 元和8年(1622) 梁田出羽守進来テ仰最可然候 敵ハ今朝鷲津丸根ヲ責テ其陣ヲ不可易然レハ此分ニ懸ラセ給ヘハ敵ノ後陣ハ先陣也 是ハ後陣ヘ懸リ合フ間必大将ヲ討事モ候シ只急セ給ヘト申上ケレハイシクモ申ツル者哉ト高声ニ宣フ
三河後風土記 不詳 寛永2年(1624) 梁田出羽守政綱仰尤ニ候 敵ハ昨日城ヲ攻メシ陣ヲ不改此道筋ノ押寄セハ必敵ノ後ニ出テ大将ヲ討事アラン急キ玉ヘト云ケレバ
武家事記 山鹿素行 延宝元年(1673) 桶間合戦ニ、信長自義元ノ旗本へカケ入テ、勝負スヘシト議セラル、群臣アヤフミテ不一決梁田一人信長ト議ヲ一ニシテ、竟に義元カ旗本ヘ押カカリ

信長公記には梁田政綱はまったく出てこないのですが、甫庵信長記と三河後風土記には出てきます。ほいでもって甫庵信長記と三河後風土記の内容は非常に似ています。とくに甫庵信長記は信長公記の中島砦への移動に際し重臣が止めに入ったシーンも取り入れていますから、武家事紀は甫庵信長記を参考にした可能性があります。甫庵信長記を参考にした傍証として三河後風土記には「政綱」の名前が出ていますが、これは残された資料で唯一名前が出ているものだそうですから、武家事紀では政綱の名が無い点から三河後風土記ではなく甫庵信長記を参考資料にした可能性が高いと考えます。三河後風土記の政綱の名が出ている個所を見てもらいます。

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この三河後風土記も内容から甫庵信長記の影響はありそうな気はしています。推定成立年代が甫庵信長記の後と考えられていますし、信長公記には梁田政綱は出てきません。ただどこから「政綱」が出て来たかは不明です。どこからと言えば武家事紀が「出雲守」としている根拠が不明ですが、書き間違いの可能性はあります。

それと手柄部分の記述ですが、迂回襲撃すれば義元を打ち取れると甫庵信長記でも三河後風土記でも書かれていますが、私が覚えている梁田政綱が義元本陣を見つけて報告し、信長がそれを聞いて動いたエピソードがありません。後方からの襲撃案は信長が出して、重臣たちが反対する中で梁田政綱が信長の意見に強力に賛成したとなっているだけです。なんとなく甫庵信長記のこの部分が後年にさらに膨らんだぐらいが想像されます。


沓掛城主

甫庵信長記の桶狭間部分を隅から隅まで読んでも見当たらないのを遺憾としますが、武家事紀には政綱に毛利新介の2倍の3000貫の所領を沓掛に与えたとしています。wikipediaより、

簗田出羽守(政綱)が沓掛の領主であった事は、里村紹巴の『紹巴富士見道記』にも見られる。

紹巴富士見道記とは永禄10年に紹巴が富士を見るために駿河に行った記録で、同時代人の記録であり客観性の高い資料と考えられます。ネット時代は有難いものでこれも目にすることができます。ただ出来るんのですが殆ど読めません。これは純粋に私の能力不足で流麗な崩し字が読めないのです。それでも頑張って梁田政綱の名が出てくるところを見つけ出しました。出てくるのは全部で2ヶ所で

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4行目の下の方から5行目にかけて「梁田出羽守息 酒もたせ給えるに」と読むのだそうです。もう1ヶ所は「時鳥」から始まる1句が書いてあって、その次の行に「○○○○城○○出羽守」とあります。それ以外には私が探す限り梁田政綱は出てきません。

読めるところを断片的に解釈するとまず「廿日」に九坪松元院に行っているのがわかります。この松元院は曹洞宗・月峰山松元院として健在です。健在なんですが何度も衰微・中断を繰り返して紹巴が訪れた時の住職は不明だそうです。でもって松元院には九之坪(西春日井郡西春町大字九之坪)にあり、そこの氏神の十所社には、

神社の棟札によれば「永禄二年(1559年)九之坪の領主梁田出羽守社殿を造営し、天正十年(1582年)梁田弥冶右衛門社殿を寄進」とある。

桶狭間の合戦は永禄3年ですから、梁田出羽守が社殿を造営したのはその前年になります。九之坪にも城はあり、ここは梁田氏が城主であったとなっていますが沓掛に3000貫をもらっても九之坪城主であった点は変わっていなかったので、紹巴がやってきたら出羽守の息子が接待にでたぐらいにも見えます。たしかにそう見ても良いのですが、梁田出羽守が関係しそうな城名は、

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これしか見当たらないのですが、これがいくら崩し字だからといって「沓掛」とか「くつかけ」と読めるかというとチト疑問です。紹巴富士見道記のどこに梁田出羽守が沓掛城主であるかを書いてあるかは謎として残った次第です。


感想

梁田政綱(ないしその子)は信長の重臣であったのは確実で、桶狭間以降の合戦で活躍しているのも史実として良さそうです。ただ一番有名になった桶狭間の手柄については曖昧な部分が多そうの感触だけ残りました。ムックした範囲で武家事紀の沓掛3000貫の論拠はwikipediaより、

太閤記』によると、桶狭間の戦いの戦功によって3,000貫文の知行と沓掛城を与えられたとしている。

まさかと思いますが、これしかないのかもしれません。ちなみに甫庵信長記が元和8年(1622)、甫庵太閤記が寛永3年(1625)に出版されたとなっていますから、小瀬甫庵が信長記を書き終えて太閤記を書いた時に話が膨らんだ可能性が一つあります。ただ梁田政綱が沓掛城主でなかったかといえばこれも言い過ぎで、重臣の一人として対三河の前線基地である沓掛城主になったのはあり得ます。

甫庵の作品には脚色部分が多いのですが、どこかで甫庵が梁田政綱が桶狭間の後に一時的に沓掛城主であった話を聞き、そこを膨らませて有名なエピソードに仕立て上げた感触はあります。まあ甫庵の信長記にしろ太閤記にしろ現在でこそ歴史資料としての評価は低くなっていますが、私の子ども時代の教科書レベルでも甫庵の説が史実として扱われていましたから、江戸期ならなおさらであったぐらいがムックの感想です。現在でも司馬遼太郎作品の歴史が史実であると信じて疑わない人がいるのと似ている感じですかねぇ。

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2017-03-22 桶狭間の合戦ムック2・信長の戦術編

地形編は1回で終るつもりで本来は信長の純戦術編の準備をしていたのですが、結果的に地形編もミックスしながらの戦術編になっています。


佐々・千秋の突撃再考

信長公記より

信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ候。

ここが気になって仕方ありません。佐々・千秋は中島砦の東側にいたと推測されていますが太田牛一は、

    義元へ向つて

こう描写してますし、義元本陣で謡をする様子も書いています。この部分を後から集めた情報で再編集したと見る意見にも説得力はありますが、実際にそうであった可能性もあるんじゃなかろうかです。つまり佐々・千秋隊は義元本陣めがけて突撃し、義元の見ている前で惨敗を喫し、それを見て喜んだ義元が謡を歌わせたって事です。後はそんな事が実際の地形で成立するかです。

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ここも謎の一つですが佐々・千秋隊はどこから出現したのかもあります。大高城付城群には鷲津・丸根砦の他に氷上山砦は千秋四郎が、正光寺砦は佐々隼人正が守っていた説があります(向山砦は水野氏)。信長公記から解釈すると今川軍の接近に伴って鷲津・丸根砦以外は撤収され、佐々・千秋隊は鳴海方面に配置されたぐらいが一番可能性がありそうです。部署は出典がわからなかったのですが中島砦の前方となっており、桶狭間道から進んでくると予想される今川軍に備えていたぐらいでしょうか。

運命の5/19に義元以下の今川軍が沓掛城から鳴海方面に動いたのは史実ですが、桶狭間道の地形からして今川軍の前衛部隊がまず前進して中島砦方面を塞いだとするのが順当です。そうやっておいて後方に陣地を順次設営する段取りです。高根山・幕山には松井宗信が布陣していた伝承があり、とくに幕山の麓に松井宗信の陣幕があったので幕山と呼ばれるようになったともされています。この伝承を信じれば今川軍の前衛部隊は松井宗信になります。

ここも微妙なところがあって史実では5/19に今川軍は決戦を挑みませんでしたが、当初の予定では鳴海城付城群を押し潰す予定ではなかったとも考えています。前夜の鷲津・丸根砦攻略の時点で清州の信長が動かなかったので、鳴海城付城群に対しても同様に動かない、もしくは撤退してしまうんじゃないかの予想です。そういう見方が出ても不思議はないと思います。どうもなんですが、義元は鳴海方面に信長は出てこない判断を強めに持っていた気がしています。

そういう仮定を置くとチョットだけ話の筋が見える気がします。松井宗信は前衛部隊ですが、織田軍の抵抗がなければそのまま進んで中島砦攻略に取り掛かる予定ではなかったかと考えています。義元本陣を赤色のあたりに私は比定していますが、5/19に鳴海城付城群の攻略にあたるのなら位置として妥当な気がするからです。

ところが佐々・千秋隊が先に展開しており、どうも織田軍は尻尾を巻いて撤退する気がないどころか、鷲津・丸根砦が落ちてもやる気まんまんの様子が窺えたぐらいです。この辺の時刻関係が信長公記にも明記されていないので推測するしかないのですが、佐々・千秋隊がいたがために今川軍はストレートに中島砦に進むのを中止し、桶狭間道でにらみ合いをしながら陣地構築に移行したぐらいの見方です。義元の判断として、清州から信長が主力を率いて来ているのなら鎧袖一触で鳴海城付城群を粉砕するのは難しいぐらいの見方でしょうか。でもって、

    信長、善照寺へ御出でを見申し

ここをどう解釈するかで議論が分かれるところですが、端的には後詰が出来たとまず解釈できます。他の見方なら御大将の見ている前で先陣の手柄を挙げられるがあります。だから佐々・千秋隊は突撃し、義元本陣から見下ろされるところで惨敗を喫したと見るのも可能ですが、本当は違うんじゃないかと考え始めています。


信長の馬廻り衆

信長公記では

    信長の善照寺砦到着 → 佐々・千秋隊突撃 → 中島砦への移動 → 中島砦で檄を飛ばす → 馬廻り衆の合流

こういう具合なんですが信長公記より、

前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人
右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯

この9人はすべて信長の馬廻衆であり、前田又左衛門、毛利河内、木下雅楽助は赤母衣衆でもあります。この9人のうち前田又左衛門だけは信長公記より、

此の比、御勘気を蒙り、前田又左衛門出頭これなし。義元合戦にも、朝合戦に頸一ツ、惣崩れに頸ニッ取り、進上侯へども、召し出だされ侯はず侯ひつる。此の度、前田又左衛門御赦免なり

これは永禄4年の森部の合戦のときの記録ですが、前田又左衛門は馬廻り衆であっても独自行動を取っていたと見ても良さそうですが、残りの8人は信長の命なく勝手に動けないはずです。それとこの9人の馬廻り衆はどこで今川軍と戦って首を挙げたかです。ここで太田牛一は桶狭間の合戦に面白い表現を使ってくれています。

  1. 朝合戦
  2. 惣崩れ

惣崩れは義元本陣突入時で異論はないと思いますが、朝合戦は佐々・千秋隊の突撃と比定してしまっても良い気がします。現実にそれ以外の合戦を太田牛一は記録していませんし、あちこちで小競り合いが起こっている状況にも読めません。そう考えると馬廻り衆が首を取った合戦は佐々・千秋隊の突撃になります。


朝合戦

佐々・千秋隊の突撃に信長の馬廻り衆も参加していたのであれば、これは信長の命による突撃と見たいところです。数の劣勢は十分に意識していたはずの信長は無駄な合戦は避けたいはずですから、佐々・千秋隊に馬廻り衆を加えれば「勝てる」算段で突撃させたと私は見ています。なぜに勝てると判断したかですが、中島砦で信長が将士に飛ばした檄にヒントがある気がします。

あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。

これってよくよく読むと変です。指しているのは鷲津・丸根砦を攻撃した松平元康・朝比奈泰朝隊であるのは明らかですが、信長がこれから戦おうとしている今川軍は「つかれたる武者」ではなく織田軍と同様の新手です。信長はこの時点で大きな誤認をしていた可能性があるんじゃないかと考えています。タイトルが書かれていないのでこのページからの引用としますが、

「長坂道」は、北は相原郷付近の鎌倉街道から分岐したとみられており、鳴海村・有松村・桶廻間村・伊右衛門新田・横根村を経たところで境川・逢妻川を越えて三河国へと至るという道筋をたどっている[76]。すなわち三河国刈谷に至る近道として[77]「三州道」・「刈谷街道」・「刈谷街道」と呼ばれたこともあり[78]、江戸時代以前より存在していたと考えられる古い街道である[76]。他方、飯沼如儂の手になる『尾陽寛文記』という書物には、有松村に始まり大符村(おおぶむら、現大府市)・緒川村(おがわむら、現知多郡東浦町)・半田村(はんだむら、現半田市)など知多半島東部の海岸沿いを南下して師崎村(もろざきむら、現知多郡南知多町)に至る街道を「東浦街道」と呼ぶとあり[79][注 7]、『尾張国知多郡誌』(1893年(明治26年))では、有松村にて第一号国道より分岐して師崎村へと至る県道を師崎街道、俗称を東浦街道としている[80]。

また後者の「大高道・大脇道」は、東は東阿野村(ひがしあのむら、現豊明市)付近に端を発し大脇村・桶廻間村を経て西大高村(にしおおだかむら)へと至る道筋である。これも鎌倉街道と同様に江戸時代以前から存在していた官道で、東海道の開通に伴い1601年(慶長6年)に官道を解かれている[76]。

これから合戦当時の街道を再構築すると信長の脳裡にはこんな地図が浮かんでいた可能性があります。

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信長は今川軍が沓掛城から鳴海方面か大高方面の二択で攻め寄せると見ていた気がしています。ここで今川軍は大高城にまず動くのですが信長の判断は、

  1. 今川主力軍は大高城方面に向かった
  2. 前夜から夜襲もやっているので疲れている
  3. 大高と鳴海の浜沿いの道は満潮で使えない

史実は今川軍は別動隊で大高城に兵糧を搬入し、別動隊で鷲津・丸根砦を攻め潰していますが、信長はこれを今川主力軍によるものと誤認していたぐらいでしょうか。桶狭間道方面にも備えは置いてあるかもしれないが、ここは手薄のはずで、これを突破して沓掛城の兵糧を焼いてしまおうぐらいの算段でしょうか。

桶狭間道に今川軍は現れましたが、これは小部隊のはずであり佐々・千秋隊に加えて馬廻り衆を後詰にすれば容易に蹴散らせるはずだの判断が朝合戦だったんじゃなかろうかです。信長公記では朝合戦の後に中島砦に信長は移動しますが、これは朝合戦の結果で動いたのでなく、もともと桶狭間道を突破する作戦であっただけだった見たいところです。つまり朝合戦は単なる前哨戦でなく、佐々・千秋隊が今川前衛部隊を蹴散らしたら信長は引き続いて主力を率いて合流し桶狭間道を東に進む予定であったって見方です。


中島砦の信長

中島砦は位置的に桶狭間道を見通せる位置であったと考えています。つうかそのために設けられた砦のはずです。中島砦に主力を率いて入った理由は、佐々・千秋隊は敗れてしまいましたが、桶狭間道突破作戦はまだ捨てきっていないぐらいです。そこで信長が見たのは今川軍が予想していたより遥かに多い点だったと見ています。ここでも信長は今川主力軍が大高城方面に回ったはずだの誤認を引きずった判断を下したと考えます。

  1. 佐々・千秋隊の惨敗から今川前衛部隊は強力である
  2. それ以外に見える今川軍は徹宵行軍で大高城に移動した後に、引き続いて鳴海方面に引き返してきた「つかれたる兵」である

さすがに今川軍の前面は強力だが、そこさえ迂回すれば残りは疲労と寝不足でフラフラの軍勢のはずだぐらいの判断です。もう一つですが、今川軍の布陣は当初がこの日に鳴海城付城群攻撃の予定であったため、桶狭間道中心というか、桶狭間道の南側に偏ったものであった可能性があります。つまりは桶狭間道の北側丘陵への展開がなかったんじゃなろうかです。微妙なんですが、高根山が仮に今川軍の最前線基地だとすれば、地形的に善照寺砦ぐらいまでしか見えない気がします。

信長公記では信長は中島砦から山際に移動していますが、山際が相原郷あたりだと比定すれば、今川軍には善照寺砦に戻ろうとしているぐらいにしか見えなかったのかもしれません。いやそう見えるはずだと判断しての信長の移動であった気がします。


まとめ

桶狭間は日本史に残る合戦ですから信長勝利の原因の仮説は多数あります。信長が戦術的に動いていた証拠として、

  1. 満潮で孤立する鷲津・丸根砦の撤退を行わなかった
  2. 今川軍の鷲津・丸根砦攻撃の報告に反応して清州を出陣している

これだけで十分と考えています。しかしこれだけではさして信長が有利になったわけではありません。諸説はこの状態から義元本隊を破った理論を作られていますが、どう作ったところで無理が出ます。私もその路線で推理したことがありますが、三国志演義諸葛孔明のような神算鬼謀を行うか、小瀬甫庵のように緒戦の勝利に酔った義元が油断して酒盛りをしていたぐらいの義元大間抜け説になってしまいます。これは史実の義元本隊と織田軍の兵力差が圧倒的で、そうでもしないと信長が勝てないからです。

信長が優れた戦術家であることは否定しませんが、孔明ほどの神算鬼謀で合戦を行っていないのは信長の戦歴から確認できます。また圧倒的な兵力差があるのに、義元が大間抜けであることに賭けて清州を出陣したとも思えません。少なくとも鷲津・丸根砦が攻撃された時点で鳴海から5/19は桶狭間方面では今川軍と互角ないしやや優勢であると信じたから清州を出陣したんだと見ています。

信長の戦術根拠は鷲津・丸根砦を攻めているのは今川軍主力であり、鳴海方面に進出している今川軍は背後を衝かれないようにするための別動隊ぐらいと信じていたんじゃないかが私の仮説です。それぐらいの状況でないと野外決戦での目途すら立ちません。この錯覚は最後まで信長を支配したが故に、是が非でも5/19中に今川軍と決戦と考えて動き回った信長に幸運の女神が微笑んだ結果ぐらいでしょうか。

まあ私のも仮説の一つに過ぎませんが、そう仮定すると信長公記の信長の動きをほぼ説明可能であるぐらいにさせて頂きます。

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2017-03-18 桶狭間の合戦ムック1・地形比定編

前に積み上げたものの再考編です。今日は地形の比定を中心にムックします。


鎌倉往還と桶狭間

桶狭間の合戦があった地域も当時と今では様相がかなり変わっています。とりあえず現在の地図では住宅がビッシリって感じで建ち並び、往時をここから想像するのは無理です。少しでも往時の様子を推測するために明治初期の地図を主に使っていますが、明治期の地図でも合戦時とはかなり様相が変わっています。とりあえず大きく変わっているのは海岸線で、河川による沖積作用と江戸期の干拓により合戦当時と様相を変えています。戦国期以前の海岸線に関する資料は毎度のことながら乏しく推定に難儀させられました。

もう一つ難しいのが当時の道路の様子で、これに関しても情報が乏しいところです。まずわかっているのは鎌倉往還(≒ 古代東海道)と江戸期の東海道ではルートが異なっていることです。ここで桶狭間の谷あいを抜ける道を桶狭間道と呼ぶことにしますが、江戸期東海道は池鯉鮒から西に直線的に桶狭間道に向かい鳴海に出ます。これに対し鎌倉往還は池鯉鮒から北西の丘陵地帯に向かい沓掛から古鳴海に向かいます。

義元が池鯉鮒から沓掛城に向かったのは確実ですから合戦当時も池鯉鮒から沓掛までは鎌倉往還を利用したのは間違いなさそうですが、問題は沓掛から古鳴海に向かう鎌倉往還の位置付がどうであったかです。歴史的と言うか、通説では江戸期東海道が桶狭間道になったため古鳴海に抜ける鎌倉往還は寂れ廃道状態になったとしていますが、結果としては変わりませんがチョット様相が違う気がします。字でばっかり書いてもわかりにくいと思いますから当時の推測地図を示します。

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赤線が鎌倉往還なのですが古代は笠寺が半島状になっており、古鳴海から島田に回り込んで熱田に向かうルートになっています。その頃は鳴海もまだ海だったと見ても良いはずで、鎌倉往還が最短ルートだった訳です。これが時代が下ると古鳴海と笠寺半島の海がドンドン浅くなり、鳴海付近にも陸地が形成されます。鳴海城は応永年間(15世紀初頭)に築城されたとなっていますから、その頃には人が住み田畑があっただけではなく交通の要衝的な位置づけになっていたと見ることも可能です。笠寺半島と鳴海の交通は信長公記より、

浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ

上の道は鎌倉往還で島田を回る道ですが、中の道は笠寺半島から直接古鳴海に向かう道であり、下の道は古鳴海もカットしてさらに南につながる道になります。笠寺にはこの当時も城があり織田氏と今川氏が争奪戦を演じていますが、見様によっては笠寺経由で鳴海に向かう交通量が多かったとも考えられます。

沓掛を起点に考えると熱田に向かうのに鎌倉往還で古鳴海から笠寺半島に向かった方が鳴海経由より近い気がするのですが、ここで桶狭間道が出てきます。この道は谷間の道なんですが、一番高いところで30mぐらいです。それに対して鎌倉往還では沓掛からまず70m程度の峠を越え、扇川に下りてからもう一度50mぐらいの丘を越えて古鳴海に至るコースです。どうもなんですがとくに最初の峠を越える部分を嫌がられた気がします。少々距離が延びても桶狭間道で鳴海に向かう方がラクだったぐらいでしょうか。


でなんですが義元は間違いなく池鯉鮒から沓掛に進んでいますが、問題は沓掛から西に向かうルートで地図上では、

  1. 鎌倉往還を使って古鳴海方面に進む
  2. 桶狭間道を使って鳴海方面に進む

この2つの選択があるはずですが、織田軍も今川軍も鎌倉往還ルートに注意を払った形跡が乏しいところがあります。もし鎌倉往還が交通路として健在なのであれば今川軍が鎌倉往還に別動隊を進ませる懸念が必ず出るはずです。沓掛から古鳴海方面に今川軍の別動隊が進出すれば鳴海城や大高城周辺に展開する織田軍は孤立しますし、信長だって清州から駆けつける事ができません。また信長が善照寺砦に入った後でも同様の効果が考えられます。これは城郭放浪記様からの引用ですが、

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鳴海から熱田に至るルートには城砦群が築かれていますが、沓掛から古鳴海方面の鎌倉往還ルート上には何もないのがわかってもらえるかと思います。無いということは織田氏も今川氏も沓掛から古鳴海に至る鎌倉往還は既に軍用道路として使える状態でないと見なしていたと考えるのが順当な気がします。ということで、

    合戦当時でも既に主要街道は桶狭間道にシフトし、鎌倉往還は軍勢が通れない道として見なされていた

こう結論しても良いかと思います。そうなると義元は沓掛城から少し南下して桶狭間道を通って桶狭間に布陣したと考えるのが妥当になります。


知多湾

桶狭間の合戦の前半部分は大高城への兵糧搬入になるのですが、まず当時の推測地形図を見てもらいます。

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とにかく知多湾が奥深くまで広がっているのがわかってもらえると思います。沓掛からであれ池鯉鮒からであれ陸路では大高城に行けないと見て良いかと思います。もちろん海岸沿いの小道が通じていた可能性はありますが、そこを押し通るより海路を利用した方が効果的と考えます。だいたいこういう地形のところでは海岸線の道を作るより船での交通が発達するものです。松平元康は通説では5/18夜に沓掛城を出発したとなっています。そうであれば、沓掛城から南下して知多湾北岸から舟を利用して現在の大府市あたりに上陸するルートを取ったと考えられます。

ただもう一つ可能性はあると考えています。信長公記より、

今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ

別に大した事は書いていないのですが、少なくとも沓掛城から元康が出発したとは書いてありません。もちろん沓掛城から出発した可能性も十分ありますが、そうでない可能性もあるってぐらいのところです。というのも仮に大高城救援が当初から織り込み済ならば、池鯉鮒から重原に向かうルートもありそうな気がするからです。重原は舟運の拠点でもあったとされますから舟が集めやすいでしょうし、陸路で沓掛まで運ぶより距離がかなり短縮されます。もっとも知多湾の北岸にも舟運の拠点があっても不思議ないので、そういうルートも可能性としてある程度に留めておきます。

知多湾の広がりはむしろ他のところでポイントになります。たとえば義元が沓掛城から大高城に向かう可能性の有無です。義元がそうしようと思った時にルートとしては、

  1. 知多湾北岸から大府市辺りに上陸して陸路を進む
  2. 桶狭間道の途中から曲がって大高城を目指す

海路で目指したのであれば桶狭間丘陵にわざわざ入り込む必然性がないので没です。陸路は言い出したらキリがないのですが、桶狭間道から大高城に抜ける道ぐらいはあったとは思います。ただそこを義元が通るかどうかになります。端的には義元は移動に輿を使っていたとされますから、輿が通れるかの問題です。通れなければ馬に乗るか、歩くかになりますが、そこまでして大高城を目指す作戦を義元が取るだろうかの問題です。まあ義元が乗らなくても輿だけでも運ばないといけないのもありますからねぇ。

もう一つは今川軍敗戦後の元康の帰国です。緒川城の水野氏からあれこれと連絡があったとの記録がありますが、元康が帰国するには桶狭間の戦場は避けたいでしょうから、基本的には来た道を知多湾まで引き返し、そこから舟が必要です。舟の調達には水野氏の協力が必要でしょうから水野氏との関係は重要になります。また舟に乗ったとしても沓掛や池鯉鮒方面も避けたいところでしょうから、知多湾を南下し、三河湾から矢作川を遡って岡崎を目指したとする説も成立するぐらいです。


鳴海付近の推測地形

信長公記より鳴海城の描写です。

鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり

鳴海城の南側には海が迫っており、満潮時には城の南側は海になっていたことがわかります。合戦当日の5/19の潮の様子ですが信長公記より、

  • 十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由
  • 浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ

ここから読み取れる事は

  1. 合戦当日は満潮であった
  2. 満潮になると鷲津・丸根砦と善照寺砦の間の交通が遮断される

大高城の付城である鷲津・丸根砦と鳴海城の付城である善照寺砦の間の交通は浜沿いであったと見て良さそうで、これが満潮になると通れなくなる地形であったようです。推測地形図を出してみますが、

20170316093148

大高城付近はもう少し海が入り込んでいたかもしれませんが、合戦当日の海の様子はこんな感じであったと考えられます。ちょっと意外だったのは丸根砦あたりから善照寺砦方面に内陸部ルートがあったと思っていましたが、軍勢の移動に使えるようなものは合戦当時にはなかったようです。信長公記は太田牛一が実際に見聞したものが多いはずですが、当時の織田軍の常識として満潮になれば鷲津・丸根砦は孤立する状態であったようです。

それと鳴海城の付城群の配置ですが北側の丹下砦は古鳴海方面への防御、南東側の中島砦は桶狭間道方面の備えと見れそうです。善照寺砦は鳴海城と30m弱の丘を挟んで設けられており、丹下・中島砦を統括しながら鳴海城包囲を行うためのものぐらいに見えます。道に関しては鳴海城周辺がわかりにくいのですが、鳴海城周辺の地形情報を信長公記から拾っておくと

  • 東へ谷合打ち続き、西又深田なり。北より東へは山つゞきなり(鳴海城の描写)
  • 中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深困の足入り、一騎打の道なり(善照寺砦から中島砦への道の描写)

東は鳴海城の要害の谷間になっていたようですから、そこに街道を通していたかはチト疑問で、なんとなく潮の問題はあっても鳴海城の南側を通っていた気がします。ただ鳴海城の北側にも丹下砦から善照寺砦を結ぶ道はあったと見るのが自然そうに考えています。いくらなんでも鳴海城の真南の道を補給部隊が通っていたとは思いにくいからです。それと鳴海城周辺の地形として軍勢を広く展開するのは困難そうなのも読み取れます。もし展開出来るであれば潮が引いている時の南側ぐらいになるんじゃないかと推測します。


おけはざま

信長公記より

信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ

桶狭間の謎の一つである佐々・千秋の謎の突撃です。突撃理由は謎なんですが、桶狭間道を東に向かって突撃したのだけは間違いなさそうです。この突撃は佐々・千秋も討死するほどの惨敗なのですが、佐々・千秋隊は桶狭間道のどのあたりまで進めたんだろうかです。佐々・千秋隊の戦闘時間は明記されていませんが、どう読んでも短時間であったとしか受け取れません。短時間でこれほどの惨敗を喫するということは、桶狭間道の状態が「脇は深困の足入り、一騎打の道なり」でなく、それなりに広い戦闘スペースがあって包囲殲滅されたと解釈するのが妥当です。

そういうスペースがあるのは義元敗走シーンでも確認できます。信長公記より、

東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが

「東へ向つてかゝり給ふ」とは桶狭間道を沓掛城方面に逃げる義元を追撃する描写で良いかと思います。その時でも義元の周囲には300人ぐらい護衛隊が残っており、義元の周囲を囲んでいたとなっています。この丸く囲む陣形も戦国期の守備陣形としてポピュラーなものですが、そういう陣形を取れるだけのスペースがあった事も同時に示唆されます。もちろん桶狭間道全体がそうであった訳ではなく信長公記より、

おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。

ここの表現なんですが、桶狭間道の「おけはざま」という地点の描写とすべきかと考えます。ごく簡単にはそこまで比較的広かった道ないしスペースが急に狭くなっているところぐらいの見方です。それと、この「おけはざま」からの連想ですが、太田牛一は義元が「おけはざま山」に本陣を置いていたと書いています。単純な発想ですが「おけはざま」と「おけはざま山」は近い可能性が高いと思います。「おけはざま」に近いところの山(というより丘ですが・・・)だから「おけはざま山」と仮に呼んだぐらいです。

以上の事を念頭に置いて桶狭間道を見たいのですが、

20170317173637

桶狭間道は谷間の道なんですが有松村あたりまでは比較的広くなっています。おそらく佐々・千秋隊は有松村までで包囲され惨敗を喫したと考えます。この有松村を東に少し進めば道が狭くなってるA地点がまずあります、またA地点を過ぎると谷間が南にも広がっているところがあり、そこもにも狭くなっているB地点があります。太田牛一の示す「おけはざま」とはこのどちらかの可能性が高いと考えられます。ではどちらかといえばA地点が有力の気がします。理由はB地点は狭すぎて「深田足入れ」の田が確認できないからです。さらに信長公記より、

若者ども追ひ付き追ひ付き、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。

ここは「おけはざま」が節所であるとの描写に続く部分ですが、桶狭間まで踏み込んだ織田軍が今川軍の将士を打ち取ったのはすぐにわかりますが、その首を信長に見せに行ったともなっています。ここの取りようなんですが、信長は義元本陣を襲撃した時にはそれこそ先頭を切るぐらいの勢いで突撃したと考えられますが、義元が本陣を追い崩されて桶狭間道に下り「おけはざま」に逃げ込むあたりからは有松村あたりで後方指揮に変わっていたと受け取れます。ほんじゃ肝腎の義元本陣があった「おけはざま山」はどこであったかですが、幾つか条件が出てきます。

  1. 信長は佐々・千秋隊の惨敗を見ていますから桶狭間道には直接進んだとは考えにくい
  2. 桶狭間道より南側の山では織田軍がさらに南方から追い落とせる進撃路が設定不可能のため除外
  3. A地点と仮定した「おけはざま」から西側に下りられる山でないと「東へ向つてかゝり給ふ」が出来なくなる
  4. たぶん「おけはざま」に近い
  5. 本陣だから中島砦に近いところは除外

これらの条件を満たしそうな場所はC地点のあたりがとりあえず該当します。ここを北側もしくは東側から追い崩されれば有松村方面に逃げざるを得なくなります。その辺りは広くなっているところですから、丸い守備陣形を組みながら東に逃げたとしても話は合います。この辺はまだ逃げてはいても、ある程度踏みとどまりながらの退却だったかもしれません。しかし丸い陣形はある程度の幅が必要です。「おけはざま」では陣形の組直しが必要になるのですが、織田軍の追撃が厳しく崩されてしまい「おけはざま」を抜けたあたりからは乱戦になってしまい義元も討ち取られてしまったぐらいを想像しています。

この辺は異論もテンコモリあるかもしれませんが、この仮説を補強するには信長が「おけはざま山」を北側ないし東側から攻め込むルートを取っていた証拠を拾えるかになります。


沓掛の到下

桶峡合戦記とは尾張藩士田宮如雲が山澄英竜の桶狭間合戦記に様々な注釈を加えたものです。読みにくいところがあるので原本で示しますが、

20170316185225

ここは「どうも」桶狭間の従軍者の記録としてしばしば引用されている部分かと思われます。つうかその原本を探して見つけたつもりですが、読めば読むほど怪しい記述です。桶峡合戦記の体裁は本文の山澄英竜の桶狭間合戦記が罫線1行を使って書かれており、田宮如雲の注釈部分が罫線1行に2行の体裁で挿入されています。画像で示した部分は注釈部分であり「予」とあるのは田宮如雲になるはずですが、田宮如雲は文化5年(1808)生まれであり、桶狭間の合戦は永禄3年(1560)です。孫だって生きているはずがないってところです。

探しあてた部分は期待外れでしたが、関心を引いたのは最後の部分です。

惣見記ニ余リニ強キ雨風ニテ沓掛ノ山ノ上ニ生タル二カイ三ガイノ松ノ木楠ノ木ナドモ吹倒ス計リナリト云々

この記述は信長公記の

沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ

ここに該当します。惣見記自体はレファレンス事例詳細より、

『織田軍記』は、織田信長の事蹟を編年的に叙述した戦記です。『総見記』、『織田治世記』ともいいます。著者は遠山信春で、23巻、23冊から成っています。1685年(貞享2)ごろに完成したようです。序文によると、遠山信春が小瀬甫庵の『信長記』を読んで、これに補足・訂正・考証して『増補信長記』と名付け、のち『総見記』と改め、さらに信長の子孫に校閲を依頼して成立したものといわれています。史料的価値はあまり高くありませんが、一部に他書に見られない記事を含んでいます。なお、『織田軍記』という書名は表紙に付けられた題名によります。諸本内題は『総見記』です。

史料評価としてはイマイチですが、沓掛の到下(峠)とは「沓掛ノ山ノ上」している点は注目したいと思います。沓掛の山とは沓掛から見える山で良いでしょうし、そこには鎌倉往還が通っています。具体的には

20170316192415

つまり「72m地点」とした丘が沓掛峠と比定して良さそうです。「72m地点」は二村山で豊明市の最高峰と紹介されています。そこで強風のために大木が倒れている光景を太田牛一は実際に見たことになります。見えるところまで近づいている訳ですから、濁池付近まで織田軍は進出していた傍証になります。この「沓掛の到下」から読み取れることは、

  1. 信長は鎌倉往還を通り沓掛峠が見える地点に進出している
  2. 中島砦から沓掛峠の間で今川軍による妨害は皆無である

こうして良いと考えています。


山際

信長公記より、

山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。

大木が東に倒れている訳ですから西風です。この西風が今川軍に取っては向かい風、織田軍に取って追い風になるシチュエーションはどんな状況になるかです。単純には東西で対峙し、西側に織田軍がいる位置になりますが、それでは中島砦のいる時と同じです。ただ「山際」となっている点が注目されます。沓掛峠に向かうに相原から八つ松に向かって扇川沿いに東に進む必要があります。この時の状況なら鳴海方面を向いている今川軍に取って向かい風になり、東に進む織田軍は追い風になります。

それと山際とは山の稜線が空と接するところの意味もありますが、山の麓、山の裾って意味もあります。この場合稜線と空では意味不明になりますから、山の裾って表現が妥当です。ここまでの仮定では織田軍は扇川を東に進み沓掛峠を目指したとしていますが「山際まで御人数寄せられ侯ところ」とわざわざ書いているのは、縦列状態でばらけた軍勢を一旦集結させたぐらいのニュアンスじゃないかと思います。問題はどこから山際に向かったかです。信長が中島砦にいたのは間違いありませんから、

  1. 中島砦から直接山際に向かった
  2. 古鳴海に戻り山越えで相原郷に出た

実はどちらも可能性があります。私は2.の可能性をずっと考えていました。中島砦は今川軍前衛部隊の視界内にあったのは確実で信長公記にも

無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由

この状態で中島砦から相原郷の鎌倉往還を目指すのは余りにも無理がある戦術だからです。中島砦(当然ですが善照寺砦も見えていたはず)が見えるのであれば、相原郷への移動も今川軍に確認されてしまいます。そのためには一度今川軍の視界から消えるために古鳴海方面に後退してから山越えで相原郷に出る戦術の方が妥当だろうの見方です。この日を象徴する激しい風雨は山際で集結中に起こったと信長公記でなっており、中島砦から風雨が始まっていたならまだ可能性はありますが、そうでないと無理があるってところです。

ほいじゃ1.が完全に否定されるかといえば、そうとも言い切れない部分がしっかり残ります。太田牛一は清州から中島砦までの信長の動きをかなり詳しく書いてくれています。もし信長が古鳴海に後退してから鎌倉往還を使う戦術を取っていたならば、これを書き落としている理由がちょっと思いつかないところです。中島砦は最前線もエエところのうえ、既に佐々・千秋隊の壊滅、前田利家らが敵の首を打ち取って信長に見せたりしています。つまり血の匂いが将士を興奮状態に追い込んでいるところだと想像します。

そういう状況で戦術的退却を見せるのは士気の問題に直結します。どちらかと言わなくても今川軍に負ける予感を嫌でも抱いているわけで、そういう状況で戦術的でも退却すると総崩れになる懸念さえあります。太田牛一もどこに突撃するのかピリピリしながら信長の命令を待っていたはずで、私の想像した戦術的退却を行ったのなら必ず書きそうなものです。山際の前の文書の続き具合も

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ

右の衆とは前田利家以下の事ですが、ここはどう読んでも中島砦での檄に引き続いて比較的短時間で山際に集結したとしか読みようがありません。つまり中島砦と山際はかなり近く、太田牛一が描写しなかったのではなく、そもそも古鳴海への戦術的退却などなかったからだとも十分に解釈できます。そうであれば

    中島砦 → 山際(相原郷)→ 沓掛峠 → おけはざま山 → おけはざま

こういうルートで信長は進んだ事になり、太田牛一はかなり正確に中島砦以降の信長の動きも描写している事になります。だとすれば今川軍はなぜに織田軍を見失ったのだろうの疑問は残ります。大木が倒れるぐらいの激しい風雨だったので山際に移動した織田軍を今川軍が見失ったぐらいになりますが、そんな説明で良いかどうかは悩ましいところです。

それと信長は沓掛峠の近くまで進んだ事は間違いありませんが、そこから義元本陣にどんなルートで迫ったのかは完全に謎です。おそらく太田牛一も途中からわからなくなったというか、描写できる目ぼしい地点が無かったぐらいにしか想像できません。

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2017-03-09 堀田道空ムック5

資料の乏しい堀田道空なのですが、もう少し続けます。


堀田盛重

織豊期の堀田氏で確実に存在した武将に堀田盛重がいます。盛重は秀吉の七手組に属したとなっていますが、まず七手組とはwikipedaiより、

七手組(しちてぐみ)は、豊臣秀吉の馬廻組から武功の者として選抜された精鋭およびその組頭衆で、御馬廻七頭の異称。七手組頭とも言う。

七手組は元は秀吉の黄母衣衆であったとされ、秀頼の時代に七手組として再編されたとの研究もあるようですが、黄母衣衆にも七手組にも堀田盛重の名は確認できます。またこの七手組は、

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、冬の陣の後に使者として出て帰還しなかった青木一重と徳川氏に内通していた伊藤長次の2名を除く、ほぼ全員が落城と共に討ち死を遂げた。

最後まで豊臣氏に節義を守った勇士であったと見て良さそうです。道空が大坂夏の陣まで生きていたのお話は、どうも盛重(盛高)を道空と同一人物としているようです。たとえば武家家伝・堀田氏には、

正貞には何人かの男子がおり、その長男が盛重である。かれは『寛政重修諸家譜』では正高とされているが、法名の道空で知られる人物である。秀吉に仕え、馬廻衆となり一万石を与えられ、関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、戦後、秀頼に仕えてやはり一万石を領した。大坂城七手組の一人で、大坂夏の陣のときに自刃している。

この七手組に具体的にどんな人物がいたかなのですが、

大坂夏の陣七手組 小田原征伐黄母衣衆
氏名 生年 大坂落城時
青木一重 1551年 64歳 服部一忠
郡宗保 1546年 69歳
伊東長次 1560年 55歳 伊東長次
中嶋氏種 不詳 不詳
野々村雅春 不詳 不詳 野々村雅春
真野頼包 不詳 不詳 真野頼重
堀田盛重 不詳 不詳 堀田盛重

小田原征伐の黄母衣衆は調べきれていないのですが、堀田盛兼が小田原征伐時から存在しているのは確認できます。ここで簡単な年表を出しておきますが、

西暦 元号 事柄 弘治2年からの年数
1556 弘治2年 道三崩れ 0
1582 天正10年 本能寺 26
1590 天正18年 小田原征伐 34
1615 慶長20年 大坂落城 59

道三崩れから大坂落城まで59年になります。ここで堀田盛重の大坂落城時の年齢を考えたいのですが、

大坂落城時 道三崩れ時
60歳 1歳
70歳 11歳
80歳 21歳
90歳 31歳
100歳 41歳
110歳 51歳

大坂夏の陣でも奮戦したとなっていますから、せめて60歳ぐらいを想定したいのですが、それでは道三崩れの時に1歳になってしまいます。逆に道三崩れの時に道三の重臣であった訳ですから、せめて41歳を想定すると大坂夏の陣では100歳になる関係です。これだけで

    堀田道空 ≠ 堀田盛重

これは証明できます。この盛重の年齢も謎が多いと言うか、系図上の無理があって、江戸期の堀田系図を武家家伝様から必要部分をピックアップしてみると、

20170309074857

大坂落城時に堀田正吉は43歳になります。正吉と盛重は伯父甥関係ですが、

  1. 盛兼は正貞の長男であり正吉の父の正秀は正貞の四男
  2. 正吉は正貞の五男

どう少なく見積もっても系図上では30歳は離れていると見るのが妥当です。この辺がどこまで信用できるかってところです。


寛政重修諸家譜と美濃国諸家系譜の堀田正道

ここで寛政重修諸家譜を参考にしていると見て良い武家家伝様のところに興味深い記述があります。

正重の子正純は、尾張守護斯波氏に仕え、尾張国中嶋郡北島・有堀・丸淵・甲山などを領し、永正七年(1510)に没したという。正純の子が正道で、かれは織田信秀および信長に仕え、本能寺の変後は秀吉に仕えた。天正十一年(1583)には、尾張国中嶋郡において二千四百石余の所領を与えられたという。

美濃国諸家系譜から拾えるところで較べておくと、

  1. 正純の没年は永正5年(1508)。
  2. 正純は文明15(1483)時点で船軍の大将となっている
  3. 正道は大永4年(1524)没

寛政重修諸家譜で興味深いのは正道が天正11年(1583)まで確実に生きているしているところです。正純の没年から

    寛政重修諸家譜では73年
    美濃国諸家系譜では75年

こうなります。一方で正純は船戦の大将から没年まででも

    寛政重修諸家譜では27年
    美濃国諸家系譜では25年

理由は不明ですが江戸期の堀田氏家系図は正道を長生きさせすぎていると思います。


もっとシンプルに考えてもエエような

どうにも道空関係の資料の乏しさから系図の系譜を追いすぎた感じがしています。系図はその家の記録ではありますが、一方で書くときの当主の意図や都合が優先されるため資料としての信憑性はまさに玉石混交です。ここまでムックした感触では

  1. 美濃国諸家系譜は正道ぐらいまではまだしも、道空以後になると創作が多すぎる気がする。
  2. 江戸期の堀田系図は正吉以降は信用できたとしても、そもそも正吉の父とされる正秀から正貞につながっているのかさえ疑問が残る

参考までの美濃国諸家系譜の正純以降を出しておくと、

20170308113254

極論すれば2つの系図で正道以後で共通する人物は正貞ぐらいしかいないってところです。ここで道空の数少ない1級資料を思い出して欲しいのですが信長公記

    津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊ぱし、それより清洲へ御帰りなり。

津島は当時最大の尾張の商業都市ですが、津島神社の門前町でもあります。津島の発展とともに津島神社も繁栄したと見て当然なのですが、堀田氏は津島神社の当時の社家です。この時代ですから宮司であっても武将になるのは熱田の大宮司の千秋氏もあるので違和感はないのですが、当然ですが神職の堀田氏もいるわけで、信長が踊ったのは神職であった堀田道空邸であった可能性はまず一つあります。もう一つは張州雑志で「豪富之家」の表現で、これは栄えた津島神社の社家であったからかもしれませんし、堀田の一族の中で神職にもならず、武家にもならず商家になったものがいたって構わない訳です。

堀田氏は江戸期には栄えていますが、戦国期から織豊期にかけては私の知る限り「さして」の有名人を出していません。その中で辛うじて歴史に名を残しているのが堀田道空と堀田盛重の気がします。堀田氏の系図を作るにあたって数少ない先祖の有名人を系図に取り込もうとして、道空を取り込んだのが美濃国諸家系譜であり、盛重を組み込んだのが江戸期の堀田系図だったんじゃないかと思っています。


堀田盛重って何者なんだろう?

この人物もかのwikipediaに載っていません。ですから想像するしかないのですが、秀吉・秀頼に仕えているのは史実ですが、秀吉の前は信長であったとするのは異議も少ないかと思います。信長に仕えるといっても2タイプあって、

  1. 信長の直臣(馬廻りとか)
  2. 信長の配下の武将の家来

ここで名前を考えたいのですが、ここまでムックした限り堀田氏の一族では「正」の字が諱として世襲されている気配が濃厚です。であれば盛重ももともとは「正重」であったかもしれません。これが盛重に変わるには、仕えている主人から諱をもらうってケースがポピュラーで、そういう視点で考えると佐久間信盛の配下であった可能性はあります。佐久間信盛は天正4年(1576)に信長の勘気を蒙って高野山に追放されていますから、その後か、本能寺の後に秀吉に仕えたぐらいが推測されます。

大坂夏の陣に堀田盛重が出陣ていたのは間違いないのですが、たとえば60〜70歳ぐらいなら道空の息子の可能性ぐらいは残ります。もし本当に盛重に法名として道空を使っていたら父にあやかっていた可能性があるのと、法名ではなく盛重が自分の出自を誇る時に父の道空の名前を出していたぐらいはありえるかもしれません。

う〜ん、資料が少ないので想像できるのはこの辺りまでです。

井澤康樹井澤康樹 2017/03/13 03:13 美濃源氏フォーラム事務局本部理事長の井澤康樹と申します。
MINO阿弥さんと小林正信さんの紹介でお邪魔しました。
素晴らしい御研究と拝見し機会が有れば神戸まで伺ってお話出来たらと思います。
つきましては、私の連絡先は下記の通りですので、出来れば御返信をお待ち申し上げます。
〒 509-6121 岐阜県瑞浪市寺河戸町1262番地
電話 0572-68-3142
携帯 090-5108-8374
メール minogenji-tokiichizoku@docomo.ne.jp
職業 (株)井澤商店取締役会長
公職 前瑞浪市議会議員
瑞浪ライオンズクラブ会長
備考 facebookを井澤康樹で登録しており誰でも閲覧出来ます。

第二陣第二陣 2017/03/15 23:51 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170314-00000005-hokkaibunv-hok
市立札幌病院の救急医7人が3月末で退職する問題で、札幌市は4月以降も、救命センターの受け入れを継続していく方針を明らかにしました。

 札幌市病院局 蓮実一郎経営管理部長:「24時間365日の救命受け入れは、そのまま維持していく。Q.医師の数が減っても大丈夫か? ギリギリ可能です。医師の数が減るから、シャッターを閉める(受け入れ減少)ということは想定していません」
 現在12人いる医師の数は、半分以下に減りますが、週3回は、泌尿器科などの救命の経験のない医師で補います。

YosyanYosyan 2017/03/16 22:29 第二陣様

春ですねぇ。異動時期に合わせて無難に集団退職は良くあることです。救急医なんて「需要 > 供給」ですから、酷い扱いで胡座をかいたら逃げ出します。春の風物詩かな。逃げたと言っても救急医をやめる訳じゃないでしょうから、これで札幌以外の救急が少し充実したんじゃないでしょうか。

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2017-03-07 堀田道空ムック4

あまりにも情報量の乏しい堀田道空をムックするのは自ずから限界があるのですが、個人的には面白いので続けます。


道三・道空・信秀の年表

道空に関わる主要人物として道三・信秀がいますが、道三の事歴を中心に簡単な年表を作ってみました。信秀は永正7年(1510)生まれで良いのですが、道三は明応3年(1494)説、道空は美濃国諸家系譜の文亀2年(1502)とします。

事柄 道三年齢 道空年齢 信秀年齢
1517 第一次お家騒動 23 15 7
1518 第二次お家騒動 24 16 8
1519 第三次お家騒動 25 17 9
1524 織田弾正忠家、津島を支配 30 22 14
1525 第四次お家騒動 31 23 15
1527 信秀家督を継ぐ 33 25 17
1530 守護代長井長広死亡 36 28 20
1533 父新左衛門尉死亡 39 31 23
守護代長井景広死亡
道三、守護代になる
1535 第五次お家騒動 41 33 25
1538 守護代斎藤利良死亡 44 36 28
道三、斎藤氏を名乗り守護代になる
1542 頼芸追放、道三国主となる 48 40 32
1544 朝倉・浅井・織田軍介入 50 42 34
1547 加納口の合戦 53 45 37
1548 信長と帰蝶の婚姻 54 46 38
1551 信秀死亡 57 49 41
1554 義龍に家督を譲る 60 52 *
1556 道三崩れ 62 54 *

偶然ですが道三・道空・信秀はちょうど8歳ずつの年齢差になります。


津島の堀田道空屋敷

マイナー武将列伝・織田家中編にある「張州雑志」記載系図の記述より、

尾州津嶋ニ在居 織田信長幕下ニ属ス
後、入道シテ閑居ス
豪富之家トナレリ今其宅跡津嶋ニ有リ
此翁ヨリ堀田之氏族諸国ニ分レ繁栄ス

張州雑志というのは1770〜1778年ぐらいの間に尾張藩9代藩主徳川宗睦の命で編纂された100巻にも及ぶものだそうなのですが、遺憾ながら原著は抄録ないし抄しか公開されておらず引用部分の前後を確認できませんでした。張州雑志の資料的評価としては基本的に真摯に集められた情報を記載しているとされ、編纂時の津島に張州雑志に書かれているような口碑・伝承があったと見ても良さそうです。この伝承が今でもあるかどうかですが、ググった限りでは出てきませんでした。

この張州雑志の伝承ですが、これを信じる前提にします。ごく素直に信長公記の堀田道空庭に連動すると考えられるからで、ただでも乏しい道空資料ですから、これぐらいは取り上げないとなんにもムックができなくなります。張州雑志の伝承のポイントは3点で、

  1. 信長の家臣であった(織田氏に仕えていたぐらいに取ります)
  2. 豪富之家は富商と取ります
  3. 「此翁ヨリ堀田之氏族諸国ニ分レ繁栄ス」は少々保留にします。

とくに道空ないし道空の家は富商、すなわち商人であった点に注目します。


堀田氏の系図の再検証・武家堀田

江戸期に栄えた堀田氏は堀田正吉の子孫として良いでしょう。この正吉ですが元亀2年(1571)生まれで、弘治2年の道三崩れの25年後になります。一方の道空ですが美濃国諸家系譜を信じれば文亀2年(1502)生まれですから、道三崩れの時に54歳になっています。つまり正吉と道空には69歳の歳の差があり、二世代から三世代ぐらい離れています。

wiipediaの堀田氏系図は寛永諸家系図伝か寛政重修諸家譜ぐらいから出来ていると考えられるのですが、正吉の父は正秀であり、祖父は正貞となっています。さらに正貞の兄弟に道空がいる関係です。正吉にとって道空は叔父になるなっていますが、世代を考えるとチョット無理がある気がします。そこで前に作った美濃国諸家系譜からの私のモデファイ版をさらに改良したものを見てもらいます。

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こうであれば道空は正吉の大叔父(or 大伯父)になり年齢的に無理が少なくなります。もう一つwikipediaの堀田氏系図と美濃国諸家系譜で共通しているのは、先祖を遡れば正純・正道親子につながる点です。どっちの系図も怪しい点はあるにしろ、江戸期の堀田家は少なくともそう主張していた点は考慮に置きたいところです。系図学的には正道ぐらいまでは家伝の系図のタネ本があったぐらいの見方になるぐらいでしょうか。

この作り直した系図でまず注目したいのは

    喜左衛門 − 正貞 − 正秀 − 正吉

この系統です。喜左衛門も正貞も信秀に仕えたとなっていますが、とくに喜左衛門は美濃国諸家系譜に

降参織田信秀住尾州中島

ここは降参して信秀に仕えたで良いと思います。正貞も

仕織田備後守信秀 一説ニ実ハ喜左衛門某ノ子云々子孫無シ

喜左衛門の実子かどうかはなんとも言えませんが、喜左衛門の跡を継いで信秀に仕えたと見ても良さそうです。正秀は美濃国諸家系譜では見当たらない人物なのですが、ひょっとしたら二代続きで養子であったかもしれませんし、実子であったかもしれません。正秀の子の正吉は事歴がぐっと明瞭になるのですが、なんとなく信秀というか織田氏の介入があった感じがします。これも歴史の彼方の話になるのですが、正貞に子が無く、堀田氏とまったく関係のない人物が堀田氏の名跡を受け継いだだけの可能性も残るぐらいのところです。

ただ系図の細かい点をいくら考えても答えが出るわけでないので、ここでの前提は、

    堀田喜左衛門系は尾張国中島郡堀田村で信秀・信長に仕える武家であった

こうしたいと思います。


堀田氏の系図の再検証・商家堀田

堀田喜左衛門系が武家堀田とすれば道空系はどう考えるかです。まずなんですが堀田喜左衛門は信秀に降参しているとなっています。また堀田喜左衛門の父である正道は織田弾正忠家に津島を追い出され美濃に亡命したと美濃国諸家系譜ではなっています。美濃国諸家系譜を額面通りに取ると、信秀に敗れた堀田氏は

  • 降参して中島郡堀田村に住んだ堀田喜左衛門
  • 美濃に亡命した正道・道空

この2系統に分かれる事になります。そういう事も戦国期ではよくあるのですが、ちょっと津島を巡る争いを想像してみたいと思います。

津島は当時尾張最大の商業都市でいわゆる金の卵を産む鵞鳥みたいなものです。ここの支配権を織田弾正忠家が握ったのは史実なのですが、織田弾正忠家が支配権を握る前はどうだったかです。ここで四家七氏を出したいと思います。四家七氏については戦国期にどれほどの存在感があったかについての疑問もあるようですが、織田弾正忠家の前は四家七氏の連合体が津島を支配していたと見ても悪くはないと思います。弾正忠家は信秀の時代に大きくなっていますが、切り従えたとされる近隣の小豪族とはそれこそ四家七氏で良いというか、四家七氏も当然含まれるぐらいです。

正道については美濃国諸家系譜に引っ張られて弾正忠家に最後まで抵抗をしたと思ってしまいますが、最後まで抵抗したのは各個撃破を喰らった四家七氏の生き残りであって、堀田氏は案外早く弾正忠家に降参していたんじゃないかと思います。ここでの降伏条件として、

  1. 正道は家督を喜左衛門に譲って隠居
  2. 正道の息子の道空もまた隠居

なにを想像しているかといえば弾正忠家が堀田氏攻略に当たり、次男の喜左衛門に家督相続を条件に調略を行った結果ぐらいの見方です。その手の調略条件も「よくある手」です。でもって隠居の地が津島じゃなかったんだろうかです。津島神社の神主家も堀田の一族ぐらいの縁です。ひょっとしたら正道は隠居後にも反弾正忠家秀勢力に加担したかもしれませんが、道空はそれには同調せずに津島で商人になったぐらいです。想像は膨らむのですが、もし正道が隠居でありながら四家七氏に加担した時点で道空は出家し、法名の道空を名乗って袂を分かったぐらいは妄想のうちです。

道空が商人になったのは20代前半ぐらいの時でしょうか。弾正忠家が支配する津島ですが、実家の堀田村の堀田氏は弾正忠家の家来になってますし、父の正道の反弾正家運動にも加担しなかったのであれば弾正忠家の覚えも目出度く、やがて「豪富之家」になってくれないと信長公記で信長が津島の堀田道空庭で踊れません。


道三と道空

道空の商売はやはり津島を拠点とした交易商人であったとするのが自然です。その得意先が美濃まで広がっていてもおかしくはありません。道三の父の長井新左衛門尉は道三伝説の前半生を担う人物ですが、その晩年に取引は既にあったかもしれません。ここも想像するしかないのですが、長井新左衛門尉の御用商人的な地位ぐらいにいたのかもしれません。ただ年数的にはせいぜい5年程度しかクロスしませんから、やはり道三との関係の方が重かったとみたいところです。

道三が守護代になったのが1533年、頼芸を追放したのが1542年なのですが、この間も道三は頼芸を籠絡するために数々の珍品を贈っていたとするのが通説です。この調達を担っていたのが津島の道空であったとしてもあり得るお話です。ただこれだけでは道空が道三の重臣になる理由が不明になります。

難しいのですが、道三は美濃を盗った後に周辺諸国の介入を受け続けます。これは1533〜1547年まで断続的に続いたと見れます。さすがは道三でこの介入を巧妙に撃退していますが、ちょっと注目したいのは撃退はしていますが侵攻はしていません。これは侵攻となれば嫌でも長期戦になり、これを道三は嫌がり国内の体制固めを優先したんじゃなかろうかと見ます。つまり国主となった道三が欲した政治課題は、

    美濃の平穏

これの最後の障害となったのが「尾張の虎」の信秀ってところです。この信秀に対する和平工作の担当者として白羽の矢が立ったのが道空と見たいところです。

道空像は本当に見えにくいのですが、とりあえずいつから道三の家来になったのかが不明です。このエントリーを書くときのプロットとして信秀との和平工作のときに家来となり、信長と帰蝶との婚姻の手柄で道三重臣にぐらいのストーリーを考えていたのですが、それじゃ余りにも遅いし、重臣になるだけのインパクトに欠ける気がします。

道空は時代小説、とくに司馬遼太郎の脚色もあってあんまり有能そうな人物の印象に薄いところですが、道三が無能な人物を重臣にするとは思えません。では堀田氏が美濃での有力家かといえば、これまた到底思えません。ほんじゃ合戦場で数々の手柄を重ねた武勇の人かといえば無理がありそうな気がします。道空が道三に評価されていた才能は文官的な能力、今日の仮説からすると財務能力じゃなかったかと思っています。つまり国主となった道三が財政面での担当者として道空を家臣として引き抜いたんじゃなかろうかです。これは道空が40歳ぐらいの時になります。おそらく商家の方は隠居して息子なりに譲っての道三への仕官です。

とくに国主になってからの道三は数々の合戦を重ねざるを得なくなっていますが、これを財政面から支えたのが道空の手腕じゃなかろうかです。同時に悲鳴をあげたのも財務担当の道空であったぐらいです。美濃と尾張の平和は同時に津島の道空商店の繁昌にもつながりますから、尾張との和平工作の担当者に指名されれば張り切らざるを得なくなるってところです。

道空の話は想像ばかりになるのですが、ヒョットしたら当時「うつけ」と言われた信長の将来性を道空は高く評価した可能性すらありそうな気がします。この辺は微妙なんですが道三は後継者候補の義龍も、孫四郎も、喜平次もあんまり高く評価していなかった気配があります。道空の和平工作はその点をテコにした感触があります。

そもそも当時の信秀と道三の力関係は加納口の合戦の惨敗もあり「信秀 < 道三」です。そういう状態での婚姻政策による和睦なら劣勢の信秀側から娘を人質として嫁に出すのが通例です。それを道三側から娘を人質として差し出すのは、他に切羽詰まった状況があったとしても道三にとって嬉しい条件とは思いにくいところがあります。これを説き伏せたのが道空の高い信長評価であったと見るのも面白いところです。その評価が後に正徳寺会見につながっていったと私は見たくて仕方ありません。


道空の最後

mino阿弥様から、

斎藤道三の子斎藤孫四郎と喜平次が弘治元年11月12日に暗殺されています。
(常在寺に位牌が存在)。美濃国諸家系譜」記載の卒年は誤りです。
しかし、「美濃国諸家系譜」には堀田道空の卒年が記されていて弘治元年12月8日葬常在寺とあります。
こちらは正しいと仮定すれば、斎藤孫四郎と喜平次の暗殺が堀田道空の死に何らかの関わりがあったのではないか考えられます。

これは鋭い見方で、美濃国諸家系譜では道空の所領は厚見郡菅生村にあったらしいと推測できます。この菅生村と稲葉山城の位置関係ですが、

20170307115030

道三が隠居城にしていた鷺山城を含めて近い距離にあります。直線距離でいえば、

  • 稲葉山城 → 菅生村:約5km
  • 稲葉山城 → 鷺山城:約3km
  • 菅生村 → 鷺山城:約4km

いやぁ、こんなに鷺山城と稲葉山城が近いとは初めて知りました。それはともかく義龍が孫四郎・喜平次を暗殺したというのは鷺山城の道三への宣戦布告になります。そうなると菅生村の道空の所領は義龍にとって目障りになります。端的には東美濃から義龍に加担する軍勢が駆けつける時に邪魔ってところです。そこで孫四郎・喜平次暗殺に引き続いて攻めたんじゃなかろうかの推測です。さらにmino阿弥陀様は、

奥磯栄麓氏の論文「美濃焼」の中に、斎藤苑可知行宛行状が紹介されており、義龍の弟二人を殺害した桑原右近衛門尉は、その功により4500貫の地を拝領したとする内容です。この古文書の真偽のほどは不明ですが単なる二人だけの暗殺ではなく、想像以上に大がかりな事件で、その褒賞として斎藤道三方の所領を配分したのではないかと推察されます。

4500貫はおおよそ9000石ぐらいになりますから、それだけの所領を褒美で捻出するには道三重臣の所領を奪わないと難しいのではないかの見方です。「道三 vs 義龍」戦の展開は

  1. 義龍による孫四郎・喜平次の暗殺
  2. 道三が井ノ口の町と鷺山城を焼いて大桑城に退却

道空の所領が菅生村なら主人不在の土地であり、道三軍に道空が加わっていたら義龍から見れば敵ですから接収するはずです。そこで道空側の抵抗があったかどうかですが、美濃国諸家系図で道三の息子とされる正種の系譜に、

正兼死後 斎藤左京大夫義龍之為所領押領 暫蟄居尾州犬山辺

これを信用すれば道空は自然死ないし暗殺死で、義龍に平穏に菅生村を接収され蟄居を命じられたぐらいになります。ここでもし道空が弘治元年に亡くなったとすれば、

  1. 孫四郎・喜平次暗殺時に道空も稲葉山城に見舞いの使者、もしくは孫四郎・喜平次の付き添いでおり一緒に暗殺された
  2. 稲葉山城は切り抜けたが、その時の傷が原因で死亡
  3. 別の刺客が道空を襲い暗殺された
  4. 井ノ口の町を焼き払った時に流れ弾にでも当たり死亡

この辺が思い浮かびますが、本当に道空が美濃国諸家系譜にあるように弘治元年の12月8日に死んでいたのなら、道空は稲葉山城でも菅生村でもなく大桑城で死んだ可能性が高くなります。調べる限り道空は竹腰道塵のように義龍側に寝返った形跡は認められないからです。もっとも「道三 vs 義龍」戦は弘治元年11月の孫四郎・喜平次暗殺から始まり、弘治2年4月の長良川の決戦まで続きますから、その途中の小競り合い、もしくは道三の味方を募るための使者に出て亡くなった可能性もあります。もちろん病死もありえます。

とにもかくにも道空の足取りなんて探しようもないのですが、ここまで道空ムックをやっているともう少しでも生かしてあげたいと思ってしまいます。たとえば文官であった道空を道三が尾張に落としてしまったのもあっても良い気はします。信長が道空を酷く扱う理由はありませんから、無事津島の堀田商会に戻り余生を過ごした可能性も皆無とはいえないんじゃないでしょうか。

mino阿弥mino阿弥 2017/03/08 10:26 弘治元年十二月十一日付けの斎藤苑可宛行状に書かれている領地方目録には、羽生生頭領家(加茂郡富加村羽生)、以下現地名関市西田原、美濃加茂市加茂野今泉、加茂郡川辺町下麻生、木村、美濃加茂市大田町、美濃加茂市古町、美濃加茂市山上町、美濃加茂市蜂屋町、武儀郡金山町、桐原、神淵、関市神野、富加村揖深、大村一方二方など加茂郡武儀郡各村々で四千三百八十九貫高領とあり、弘治元年十二月十五日付けの桑原右近衛門宛ての新九郎苑可(花押)の感状も紹介されています。
堀田道空の所領は、菅生とされていますので道空の所領を分配したのではないようです。
斎藤孫四郎、喜平次に関わる所領であったのか?
美濃国諸家系譜によれば、堀田氏は明智氏との関係が深く地理的に考えても明智氏に対して楔を打つ意味があったのか?
いずれにしても、義龍の味方をする場合は道三に不満を抱くか、また所領の獲得が最も重要な関心事ではなかったかと考えられます。

YosyanYosyan 2017/03/08 22:21 mino阿弥様

所領の分配に関しては配る方はトータルの収支で考えますが、もらう方はあんまり遠方の所領をもらっても困る時は困るぐらいの関係です。もらうなら、なるたけ地続きの所領の方がより嬉しいってところでしょうか。見方によっては道三が大桑城に退却した時点で、大桑城を中心とした道三勢力圏以外の道三側の所領は、義龍の支配下として自由に分配出来たと見て良いんじゃないでしょうか。

miino阿弥miino阿弥 2017/03/09 10:16 美濃国諸家系譜によれば堀田道空の子正種(母明智宗善女)、正直(母同左)ともに父道空死後、義龍に所領を押領され暫く蟄居と書かれています。

「古代氏族系譜集成」宝賀寿男編著の上巻476頁には、 紀朝臣(四)尾張国津島天王祀官堀田氏の系図が紹介されています。
正道(正通)ー正貞(法名道悦)=正秀(妻正貞女)属織田信秀ー正利(正吉)ー正盛(母稲葉佐渡守正成女)ー正俊(大老)などと書かれていますが、この系図では堀田道空を特定することは困難です。
系図には、後醍醐天皇に仕え四条畷で討死した先祖や、また尹良親王の室となった女子(斯波左兵衛督源義郷室)も見られます。

「美濃国諸家系譜」を取り上げて頂き、大変うれしく思っています。
いろいろと投稿させて頂きましたが、ご研究の進展を祈念申し上げ失礼させて頂きます。

YosyanYosyan 2017/03/09 14:10 mino阿弥様

堀田氏が寛永なり寛政に提出した系図は堀田盛重は取り込んであっても、道空は入っていない気がします。一方で美濃国諸家譜は道空は入っているのですが、道空の子孫についてはどうにもこうにも感じがします。簡単に言えば作った人の主題で内容が変わっているぐらいです。おおよそ正純ぐらいまでは同じタネ系図を利用(津島神社にでもあったのかな?)しているようですが、正道から後は全く別物ってところでしょうか。それでも数少ない道空関係の資料ですから、なかなか興味深かったです。

お付き合い頂いてありがとうございました。こちらも勉強になりました。

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