新小児科医のつぶやき

2017-06-08 富士川の合戦頼朝不在説・吾妻鏡から検証する

以前にこの仮説のムックをやった事があるのですが、吾妻鏡の原文が入手可能になりましたから見直してみます。


吾妻鏡

治承四年(1180)十月小一日庚辰。甲斐國源氏等相具精兵。競來之由。風聞于駿河國。仍當國目代橘遠茂催遠江駿河兩國之軍士。儲于興津之邊云々〕於石橋合戰之時令分散之輩。今日多以參向于武衛鷺沼御旅舘。

大変読みにくいのですが欲しい情報は10/1時点で

  1. 甲斐源氏が挙兵したとの風聞が駿河に届いた
  2. 駿河の目代橘遠茂が駿河・遠江の兵を興津(清水市興津町)に集結させた
  3. 頼朝は鷺沼(千葉県習志野市)にいる

治承四年(1180)十月小二日辛巳。武衛相乘于常胤廣常等之舟楫。濟大井隅田兩河。

10/2に大井川・隅田川を渡河。

治承四年(1180)十月小六日乙酉。着御于相摸國。

10/6に頼朝は相模到着。この間に武蔵の豪族が頼朝の傘下に入りますが省略します。

治承四年(1180)十月小十三日壬辰・・・(中略)・・・又甲斐國源氏并北條殿父子赴駿河國。今日暮兮止宿大石驛云々。戌尅。駿河目代〔遠茂〕以長田入道之計。廻富士野。襲來之由有其告。仍相逢途中。可遂合戰之旨群議。武田太郎信義。次郎忠頼。三郎兼頼。兵衛尉有義。安田三郎義定。逸見冠者光長。河内五郎義長。伊澤五郎信光等。越富士北麓若彦路。爰加藤太光員。同藤次景廉。石橋合戰以後。逃去于甲斐國方。而今相具此人々。到駿州云々

この記載はなかなか興味深いのですが、まず地図で示します。、

20170605195651

まずなんですが「甲斐國源氏并北條殿父子赴駿河國」はどういう意味だろうってところです。ここは

  • 治承四年(1180)九月大八日丁巳。北條殿爲使節。進發甲斐國給。相伴彼國源氏等。到信濃國。於歸伏之輩者。早相具之。至驕奢之族者。可加誅戮之旨。依含嚴命也。
  • 治承四年(1180)九月大十五日甲子。武田太郎信義。一条次郎忠頼已下。討得信濃國中凶徒。去夜歸甲斐國。宿于逸見山。而今日北條殿到着其所給。被示仰趣於客等云々。
  • 治承四年(1180)九月大廿日己巳。土屋三郎宗遠爲御使向甲斐國。安房。上総。下総。以上三箇國軍士悉以參向。仍又相具上野。下野。武藏等國々精兵。至駿河國。可相待平氏之發向。早以北條殿爲先達。可被來向黄瀬河邊之旨。可相觸武田太郎信義以下源氏等之由云々。

ここに関連すると見て良さそうです。9/8に時政は甲斐に向けて出発しているのですが、この時期は上総からさらに安房に動いて上総氏や千葉氏などへの協力工作を行っている時期にあたります。こんな時期に北条時政父子をわざわざ甲斐に派遣するというか、ルート的に派遣できたかどうかにチト疑問を抱きますが、吾妻鏡ではそうなっています。そうなっているだけでなく、9/20には武田氏に黄瀬川に来いとまでしています。もっとも9/19には上総介広常が大軍を率いて頼朝に加わっていますから、将来的に駿河進出を考慮したかもしれませんが、当然ですが時政にその情報が伝わるのはもっと後になります。

もっともそうやって時政が甲斐に行っていないと「甲斐國源氏并北條殿父子赴駿河國」にならないのですが、情勢からして時政は黄瀬川を目指していたと取るのが自然かと思います。時政は大石駅に泊まったとしていますが、ここは現在の大石寺の近くになり中道往還になります。甲斐から黄瀬川に向かうのに中道往還を使っても不思議はないのですが、駿河の興津に平家軍が集まっている情報ぐらいは手にしていたはずです。そんな時に中道往還を使えば鉢合わせしかねません。もし黄瀬川に向かうのであれば鎌倉往還を使うべきかと思います。鎌倉往還は古くは官道の甲斐路に始まりますから、この時でも使えたはずです。


他に気になるのは「戌尅。駿河目代〔遠茂〕以長田入道之計。廻富士野」で、戌の刻とは日没後に夜空に星が見えかける時間帯を指します。つまりは北条親子が大石駅に止宿した後に飛び込んだ情報と解釈できそうです。ごく単純には興津に集結していた平家軍が中道往還を北上することであり、北条親子から見れば駿河軍は相模に進まず甲斐に進む情報を得たともいえます。

平家軍の「廻富士野」の解釈も微妙なんですが、これは武田軍の解釈だった気がなんとなくします。中道往還を使えば甲府を直接狙えますが、平家軍はそうは動かず富士山北麓の富士五湖周辺にまず展開すると読んだんじゃないかと見ています。ここも微妙で武田軍は甲府近辺での決戦を望まず、武田軍主力が富士五湖に進出することによって平家軍の甲府侵攻を牽制し、決戦場を富士五湖周辺に誘導する意図であったかもしれません。とにかく武田軍は若彦路を南下したとなっています。

治承四年(1180)十月小十四日癸巳。午尅。武田安田人々。經神野并春田路。到鉢田邊。駿河目代率多勢。赴甲州之處。不意相逢于此所。境連山峯。道峙磐石之間。不得進於前。不得退於後。然而信光主相具景廉等。進先登。兵法勵力攻戰。遠茂暫時雖廻防禦之搆。遂長田入道子息二人梟首。遠茂爲囚人。從軍舎(捨)壽被疵者。不知其員。列後之輩不能發矢。悉以逃亡。酉尅。梟彼頚於富士野傍伊堤之邊云々。

10/14の鉢田合戦の描写なんですが、武田軍は「經神野并春田路」で鉢田に午の刻すなわち12時頃に鉢田に到着したとなっています。読み下しになるのですが神野を経て春田路を通りと読みたいところです。神野は浅間神社の野原の解釈があるようですが、一方で富士宮市白糸の解釈もあるようです。白糸とは白糸の滝があるところですが、白糸は鉢田合戦で勝利した武田軍が討ち取った平家軍の首をさらした伊堤(井出)よりさらに南にあるので、河口湖周辺からから春田路(= 中道往還)に移動するのに神野を横切ったぐらいに私は取ります。地図で示すと

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甲府から若彦路で河口湖北岸に出た武田軍は、西湖北岸を通り本栖湖あたりで春田路(中道往還)に入ったぐらいの見方です。西湖から本栖湖の南側には青木ヶ原樹海が広がっていますが、明治期の地図には西湖から本栖湖に至る道が記されているので、それを通ったぐらいの推測です。ここで鉢田の地名は後世に失われてしまい不明となっているのですが「赴甲州之處。不意相逢于此所。境連山峯」の記述から甲駿国境ぐらいと見るのが自然の気がします。少し付け加えると、武田軍は甲斐国内の鉢田に一旦集結し、そこから国境に向かって南下したぐらいでしょうか。

もうちょっと推測を加えると源平両軍が遭遇したのは国境の峠としても、少し駿河に下ったところの可能性が高いと思っています。どう見たって峠道での合戦ですから、高いところに陣取って戦うのが有利です。峠に武田軍は先着し、登ってくる平家軍を迎え撃ったぐらいの状況を想像します。そうそう鉢田合戦は10/14で、武田軍が若彦路を越えたのが10/13です。若彦路を越えた武田軍は河口湖北岸辺りに宿営したと仮定すれば、甲駿国境までおおよそ22〜23kmぐらいです。この距離なら寅の三刻ぐらいに出発すれば午の刻に到着は可能と考えます。

鉢田合戦は武田軍の快勝だったのですが、勝った後にどこまで武田軍が進んだかは「酉尅。梟彼頚於富士野傍伊堤」とあります。伊堤は井出であり、現在の上井出(明治期の上井出村)で良いと思うのですが、宿営するなら村があるところを選んだと思います。伊堤に着いたのが酉の刻すなわち日没時間あたりになりますから、移動時間は3時間ほど推測され、10kmからせいぜい15kmぐらいが限界と考えられます。甲駿国境から一番近い村は明治期の地図でも人穴でこれが10kmぐらい、白糸の滝があるあたりが上井出の中心地みたいですが、これが18kmになります。距離と時間からして人穴ぐらいが有力そうですがどんなものかというところです。

余談ついでなんですが10/13夕に大石駅に北条時政親子が泊まっているのですが、どうしたんだろうってところです。あえて推理すれば

  1. 大石駅で平家軍をやり過ごし、鉢田で平家軍が敗走した後に伊堤ぐらいで武田軍に合流した
  2. 平家軍北上の情報に反応して中道往還を夜道でも突破して武田軍に合流した

どちらにしても10/14時点で武田軍に合流したんじゃないかぐらいが想像されます。

治承四年(1180)十月小十六日乙未。爲武衛御願。於鶴岡若宮。被始長日勤行。所謂法華。仁王。最勝王等鎭護國家三部妙典。其外大般若經。觀世音經。藥師經。壽命經等也。供僧奉仕之。以相摸國桑原郷爲御供料所〕又今日令進發駿河國給。平氏大將軍小松少將惟盛朝臣率數万騎。去十三日到着于駿河國手越驛之由。依有其告也。今夜。到于相摸國府六所宮給。於此處。被奉寄當國早河庄於箱根權現。其御下文。相副御自筆御消息。差雜色鶴太郎。被遣別當行實之許。御書之趣。存忠節之由。前々知食之間。敢無疎簡之儀。殊以可凝丹祈之由也。御下文云。

10/16の記録も興味深いのですが、この日の頼朝の朝からの行動は、

    爲武衛御願。於鶴岡若宮。被始長日勤行

鶴岡八幡宮で祈祷をやっていたとなっています。まあこの祈祷に頼朝が参加していたか、参加していたにしても最後まで付き合っていたかは疑問ですが、この日に駿河への出発令を下したとなっています。ほいでもって発見したのが、

    今夜。到于相摸國府六所宮給

六所宮とは現在の六所神社であり大磯にあります。調べると相模国一の宮だそうで、宿泊場所としては悪くありません。鎌倉からの距離も30km弱なんですが、、

治承四年(1180)十月小十七日丙申。爲誅波多野右馬允義常。被遣軍士之處。義常聞此事。彼討手下河邊庄司行平等未到以前。於松田郷自殺。

10/17は対波多野戦が行われたようです。「戦」といっても実質的な戦闘は乏しかったと推測され、波多野義常は松田郷で自殺となっています。ここで問題は頼朝が六所神社からどれだけ進んだのだろうです。まず六所神社から黄瀬川まで65kmぐらいです。頼朝は足柄道を越えたともなっていますから、とりあえず松田郷までで18kmぐらいです。ここも地図で示すと、

20170606131501

10/17朝時点で頼朝は六所宮にいるのですが、下河内行平率いる討伐隊が仮に六所宮から出発したとすれば、六所宮から北上して秦野に向かったと考えるのが妥当です。下河内隊の接近を聞いた波多野義常は足柄道を西に逃げて松田郷で自殺となっていますが、頼朝は下河内隊の後に続いたのか、それとも海岸線を酒匂川まで進んでから国府津あたりから北上し松田郷を目指したかのどちらかが考えられます。波多野義常が松田郷で自殺している点を考慮すると、頼朝本隊が南回りで松田に接近したためとも考えられますが、これ以上は不明です。

どちらにしても頼朝も松田に到着して足柄道を西に進んだと見て良いと思いますが、ここからが少々問題です。ここからの宿場的な町は平安期なら次が関本でその次が足柄関所になるはずです。頼朝が関本に泊まったか、さらに進んだかですが、

治承四年(1180)十月小十八日丁酉。大庭三郎景親爲加平家之陣。伴一千騎欲發向之處。前武衛引率二十万騎精兵。越足柄給之間。景親失前途・・・(中略)・・・及晩着御黄瀬河。

まず「越足柄給之間」とあるところから10/18に足柄峠を越えたとまず見たいところです。それと「晩着御黄瀬河」とは黄瀬川の到着時間がかなり遅かった事を示唆します。関本から黄瀬川まで約50kmあり、途中で足柄峠を越える点を考えると、昔の人の足をもってしても相当な遠距離と見て良いかと思います。そのため「晩着」とは戌の刻さえこえて亥の刻になっていたかもしれないと想像されるので、私は関本に頼朝は宿泊した可能性が高いと考えます。またそれだけの距離をこなすためには万騎なんて大軍は到底無理で、後発隊があるとしても1000人ぐらいがせいぜいじゃなかろうかと思う次第です。

治承四年(1180)十月小十九日戊戌。伊東次郎祐親法師。爲属小松羽林。浮船於伊豆國鯉名泊。擬廻海上之間。天野藤内遠景窺得之。令生虜。今日相具參黄瀬河御旅亭。而祐親法師聟三浦次郎義澄參上御前。申預之。罪名落居之程。被仰召預于義澄之由。先年之比。祐親法師欲奉度武衛之時。祐親二男九郎祐泰依告申之。令遁其難給訖。優其功可有勸賞之由。召行之處。祐泰申云。父已爲御怨敵爲囚人。其子爭蒙賞乎。早可申身暇者。爲加平氏上洛云々。世以美談之。

其後。加々美次郎長芿參着。去八月上旬出京。於路次發病之間。一兩月休息美濃國神地邊。去月相扶。先下着甲斐國之處。一族皆參之由承之。則揚鞭。兄秋山太郎者。猶在京之旨申之。此間兄弟共属知盛卿。在京都。而八月以後。頻有關東下向之志。仍寄事於老母病痾。雖申身暇。不許。爰高橋判官盛綱爲鷹装束。招請之次。談話世上雜事。得其便。愁不被許下向事。盛綱聞之。向持佛堂之方合手。殆慚愧云。當家之運因斯時者歟。於源氏人々者。家礼猶可被怖畏。矧亦如抑留下國事。頗似服仕家人。則稱可送短札。献状於彼知盛卿云。加々美下向事。早可被仰左右歟云々。卿翻盛綱状裏有返報。其詞云。加々美甲州下向事。被聞食候訖。但兵革連續之時遠向。尤背御本懷。忩可歸洛之由。可令相觸給之趣所候也云々。

さて10/19なんですが、あえてフル引用にしています。この日のトピックとして伊東祐親の捕縛が挙げられています。祐親は鯉名から海路で平家軍との合流を目指していたようですが、天野遠景に見つかり捕縛されたようです。この捕縛された祐親が黄瀬川に連行されたとなっていますが、果たして何時ごろだったのだろうかです。吾妻鏡を読んだ印象では祐親の捕縛は10/18以前に行われた見れそうで、頼朝が10/18に黄瀬川に着いたので連行したと見るのが妥当かと思われます。天野から黄瀬川まで11kmぐらいなのですが、これを3時間と見、出発が6時頃であっても9時頃になります。もうちょっと遅い可能性も十分にあり、詮議の時間も含めると午前中いっぱいは祐親詮議に費やされたとしても不自然とは言えません。

また10/19の記事は祐親詮議以外にもあれこれと書かれていますが、どう読んでもこの日に黄瀬川から動いたとする記録はありません。つまりは

    10/19は頼朝は黄瀬川にいた

と見るしかできません。この点について吾妻鏡も整合性を配慮しているところはあり、10/18の記事に

    以來廿四日。被定箭合之期。爰甲斐信濃源氏并北條殿相率二万騎。任兼日芳約。被參會于此所。武衛謁給。

10/24に矢合わせとし、武田とも約束していると記録しています。10/24に矢合わせなら10/19に黄瀬川で祐親詮議をやっていても日程的には無問題ってところです。でもって

治承四年(1180)十月小廿日己亥。武衛令到駿河國賀嶋給。又左少將惟盛。薩摩守忠度。參河守知度等。陣于富士河西岸。而及半更。武田太郎信義。廻兵畧。潜襲件陣後面之處。所集于富士沼之水鳥等群立。其羽音偏成軍勢之粧。依之平氏等驚騒。爰次將上總介忠芿等相談云。東國之士卒悉属前武衛。吾等憖出洛陽。於途中已難遁圍。速令歸洛。可搆謀於外云々。羽林已下任其詞。不待天曙。俄以歸洛畢。于時飯田五郎家義。同子息太郎等渡河追奔平氏從軍之間。伊勢國住人伊藤武者次郎返合相戰。飯田太郎忽被討取。家義又討伊藤云々。印東次郎常義者。於鮫嶋被誅云々。

10/20は賀島に着いたとしています。黄瀬川からの出発になるのですが、黄瀬川から平家越までおおよそ25kmぐらいになります。関本から黄瀬川の50kmを一日で踏破している頼朝ですから移動可能の距離ですが、それでも半日以上はかかる距離とはいえます。もし頼朝が富士川に来ていたら10/20の午後ぐらいに着陣し、その夜に水鳥の羽音で逃げた平家軍を見ることは距離と時間的には可能です。

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。爲追攻小松羽林。被命可上洛之由於士卒等。而常胤。義澄。廣常等諌申云。常陸國佐竹太郎義政。并同冠者秀義等。乍相率數百軍兵。未歸伏。就中。秀義父四郎隆義。當時從平家在京。其外驕者猶多境内。然者。先平東夷之後。可至關西云々。依之令遷宿黄瀬河給。以安田三郎義定爲守護。遠江國被差遣。以武田太郎信義。所被置駿河國也。

今日。弱冠一人。彳御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齢之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。互談往事。催懷舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辞朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤協彼佳例之由。被感仰云々。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發之處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失恪惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士云々。

秉燭之程御湯殿。令詣三嶋社給。御祈願已成就。偏依明神冥助之由。御信仰之餘。點當國内。奉寄神領給。則於寳前。令書御寄進状給。其詞云。

ここも長いのですが、前半部は富士川戦後の処理が書かれています。

    依之令遷宿黄瀬河給

つまり黄瀬川に陣を早く戻すようにの記載もあります。だからまた半日かけて黄瀬川に戻り、そこで義経との対面があってもエエことなりますし、その夜に三島大社に参詣しても時間的には可能です。ただなんですが、

月日 吾妻鏡
10/20 于時飯田五郎家義。同子息太郎等渡河追奔平氏從軍之間。伊勢國住人伊藤武者次郎返合相戰。飯田太郎忽被討取。家義又討伊藤云々。
10/22 飯田五郎家義持參平氏家人伊藤武者次郎首。申合戰次第并子息太郎討死之由。昨日依御神拝事。故不參之由云々。

飯田家義は石橋山の合戦にも参加していますが、敗戦後に武田家に身を寄せていたとされます。どうも家義は退却する平家軍を渡河追撃したようですが、引き返してきた平家の伊藤次郎に息子の太郎を討ち取られてしまったようです。それに対し家義は伊藤次郎を討ち果たして頼朝に見参しようとしたらしいのはわかります。吾妻鏡と整合性をもって解釈すれば、

  1. 10/20の夜に水鳥の羽音で平家軍退却
  2. 10/21朝になり飯田家義、平家軍を渡河追撃
  3. 伊藤次郎の首を見せようと思ったら頼朝は黄瀬川にトットと帰還
  4. 10/21夜は頼朝が三島大社参籠のために不在
  5. 10/22になり手柄を賞せられる

問題は飯田家義がどこで伊藤次郎の首を頼朝に見せたかです。

治承四年(1180)十月小廿三日壬寅。着于相摸國府給。始被行勳功賞。

なんと10/23に頼朝は相模国府まで帰っています。これは10/22朝に出発しても相当な強行軍になります。来た時に逆廻しで、

  1. 黄瀬川を相当早く(寅の刻)から出発し、10/22夜に関本到着
  2. 関本から相模国府までも50kmぐらい

10/23はまだしも余裕があるかもしれませんが、10/22は相当な強行軍が必要になります。そうなると頼朝は三島大社に参籠せずに夜のうちに黄瀬川に引き返し、10/22の出陣前に飯田家義を謁見した事になります。そうじゃないと会う間がありません。まあ関本に向かう道すがらの可能性も残りますが、頼朝の相模帰還も相当な無理を押しているのがわかります。


仮説

ここまでが吾妻鏡の記録の再検証なのですが、頼朝は10/22に黄瀬川を出発したのではなく10/21に出発したんじゃないかと考えています。

10月 吾妻鏡 私の仮説
頼朝宿泊地 出来事 移動 頼朝宿泊地 出来事 移動
1 鷺沼 * * 鷺沼 *
6 相模 武蔵から移動 相模 武蔵から移動
14 鎌倉 鉢田合戦 鎌倉 鉢田合戦
16 六所宮 駿河出陣 鎌倉から黄瀬川へ 六所宮 駿河出陣 鎌倉から黄瀬川へ
17 関本? 波多野氏・大庭氏追討 関本? 波多野氏・大庭氏追討
18 黄瀬川 夜到着 黄瀬川 夜到着
19 黄瀬川 伊東祐親詮議 * 黄瀬川 伊東祐親詮議 *
20 賀島 富士川合戦 黄瀬川 義経引見、三島神社参詣
21 黄瀬川 義経引見、三島神社参詣 竹之下? 相模帰国へ 黄瀬川から相模国府へ
22 関本? 相模帰国へ 黄瀬川から相模国府へ 松田?
23 相模国府 論功褒章 相模国府 論功褒章

さらに地図もみてもらいます。

20170607122414

まず鎌倉から黄瀬川の往路ですが、距離を見ると3日で到着するのは可能ですがかなり無理をしています。とにかく無理があるのは関本〜黄瀬川で距離こそ42kmぐらいですが、途中に16kmの足柄峠越があります。黄瀬川到着は夜となっていますが、夜でもかなり遅い時間帯であったと推測され、竹之下から黄瀬川の途中で夜道になったと考えられます。これだけの移動をこなすには大勢では無理で少人数での行動であったとするのが妥当です。

復路も同じ道を通ったと考えれば距離は同じですから黄瀬川〜関本は移動可能に見えますが、往路と復路では条件が変わります。黄瀬川〜竹之下で26kmあり半日はかかる距離ですが、そこから足柄峠にかかると山道で夜になってしまいます。つまり往路の竹之下〜黄瀬川は夜道であっても平地の東海道であったので移動できましたが、足柄峠の山道を夜間突破するのはかなり無理があるだろうってところです。そうなると復路は足柄峠の麓あたりで宿営したと考える方が妥当です。

ただ竹之下で宿営とすると竹之下から六所神社(相模国府)まで1日で移動する必要が出てきます。これが約40kmぐらいになり関本〜黄瀬川より少し短くなりますが、時間にして1時間程度の短縮しか期待しにくく、相模国府到着はやはり夜になります。その時間帯から論功褒賞をやるだろうかの疑問があります。武士にとって論考褒章は忠誠心の源泉ですから、夜であってもやるでしょうが、頼朝にとって重要な政治的パフォーマンスの場ですからもう少し余裕をもってやりたいと考えます。

そのためには竹之下から相模国府まで強行軍をやるのではなく、松田辺りで宿営したんじゃないかと推測します。状況的にも駿河の平家勢力は壊滅し、相模の反頼朝勢力も駆逐され、足柄峠を越えれば日は浅いとはいえ地盤の相模ですから、それぐらいのゆとりを持っても怠慢とは言えないと思います。松田からなら早立ちすれば午前中には相模国府に到着可能と考えられ、10/23午後に論功褒賞を行う時間が作れます。

ただなんですが復路に松田宿営を入れると、黄瀬川から相模国府まで3日かかります。つまり10/21昼には黄瀬川を出発する必要が生じます。しかし吾妻鏡では10/21朝は賀島におり、その日は黄瀬川に引き返し、義経と会い、三島神社の参詣しています。つまりは吾妻鏡では10/21中に黄瀬川を出発することは不可能となっています。これを義経に会ったのも、三島神社参拝も1日繰り上げて10/20だったとすればどうかと思います。そうすれば10/21中に黄瀬川は出発可能であり、竹之下、松田と宿泊を重ねて相模国府で10/23午後に論功褒賞が可能になります。

もちろんそうなると吾妻鏡の10/20の賀島での富士川合戦の記録は創作になり、頼朝は黄瀬川から動かなかった事になりますが、玉葉でも富士川合戦で頼朝の事を一言たりとも触れていない点を考慮すると、

    頼朝は黄瀬川から動かず、富士川の合戦にまったく参加していなかった

富士川の合戦は敗者の平家側の記録を残す玉葉によると平家軍は10/18に富士川の東流の西岸まで進み10/19に総攻撃の予定でしたが、10/19夜に逃亡者が多数出現。10/19の決戦は無理になり、10/20の夜に撤退で宜しそうです。10/20夜の撤退を水鳥の音として平家物語が歴史に残しています。吾妻鏡も編集時に玉葉や平家物語を参考文献にしたとされますが、頼朝を富士川合戦に参加させるには10/20から10/21に富士川にいれば良いことになります。なにせ決戦は起こらず平家が勝手に逃げた形の合戦ですから存在さえすれば参加したことになります。

黄瀬川から富士川まで25kmぐらいですから、おおよそ半日ぐらいの道のりになります。10/20に黄瀬川を立てば10/20の午後には富士川に着き、10/21に富士川を立てばその日の午後には黄瀬川に戻れます。この点に注目して吾妻鏡の編集者は10/20〜10/21の記事を創作したんじゃないかと考えています。ただそのために黄瀬川から2日で相模国府に戻る日程を組まざるを得なくなったぐらいです。これも10/23の相模国府での論功褒賞は変えられない事情があったと見ざるを得ません。

他も不自然な点はあり、本当に頼朝が富士川で平家軍を迎え撃つつもりなら10/19に富士川に向かうべきかと思います。伊東祐親の詮議も重要でしょうが、平家軍の来襲は源氏の命運にかかる問題のはずだからです。吾妻鏡では武田軍との連携を随所に書き込んでいますが、10/18つまり頼朝が黄瀬川に到着した日に10/24を矢合わせにしたとするのも怪しげなところです。10/18時点で平家軍は翌日の決戦のために富士川東流の武田軍陣地の前に進んでいます。そこから6日先に矢合わせを決めたなんてのは無理がありありです。

平家軍陣地は富士川の中州にあったわけで、平家軍がそこで漫然と6日も待つはずがないってところです。中州陣地は雨が降れば危険なのは誰の目にも明らかですから、そこまで平家軍が進んできたというのは即決戦以外の選択枝はありません。変形ですが平家軍は背水の陣を敷いたとも見れるからです。ただ吾妻鏡の編集上はそうしないと頼朝の動きが不自然になるとして書き加えた気がします。頼朝が黄瀬川を動かせる日は10/19が伊東祐親詮議で絶対でしたから10/20になります。つまり頼朝は10/24が矢合わせだったので予定通りに富士川に進んだとする必要があったと見ます。

こういう編集になって一番怒るのは武田になりますが、武田はこの後に勢力を落とし頼朝の下風に入らざるを得なくなっただけではなく、頼朝から続く鎌倉幕府に脅かされる関係になってしまいます。歴史とは勝者の歴史であるとはよく言ったものだと感じています。


黄瀬川の目的は?

吾妻鏡では黄瀬川進出の目的を頼朝・武田連合軍による駿河の平家勢力排除として組み立てています。小道具として時政父子が甲斐に行った事になっていますが、時政父子の出発時期は石橋山で敗れ、房総半島に逃げ込んだ後にようやく安房の安西氏の支援を得た段階で、この時期は上総介広常の動向もまだ不明なだけでなく、千葉氏さえまだ協力が判明していない時期に当たります。いかに頼朝とてチイと飛躍しすぎだろうってところで、せいぜい相模になんとか舞い戻りたいが精一杯の構想の時期だと考えるのが妥当です。

頼朝の運命が大きく開けたのは上総介広常の支持で異論が少ないと思いますが、広常の支持により上総から相模へのルートが可能になった見れる気がします。上総から相模に陸路で行くには武蔵を通らなければなりませんが、武蔵の豪族を力で威服できるだけの軍勢を広常が連れて来てくれたぐらいでしょうか。頼朝が相模に舞い戻れたのは10/6ですが、相模に入った頼朝の次の目的は相模国内の親平家勢力、反頼朝勢力の排除になります。具体的には大庭氏・波多野氏ですが、これに動いたのは10/16になってからです。

この10/16ですが10/14の鉢田合戦の影響は排除して良さそうな気がします。鉢田合戦は10/14の昼を過ぎてから行われています。戦闘時間は不明ですが、10/14午後の合戦の結果を10/15の夜までに鎌倉の頼朝に知らせるのは距離と時間からまず不可能です。当時の情報伝達は人の移動速度に縛られますから、早馬みたいなものでも利用しないと10/15夜段階で頼朝が知る事は出来ないからです。たとえば勝利した武田軍が頼朝のために、わざわざそこまでしたとは思えないってところです。

ここで頼朝が黄瀬川でやった事を列挙してみたいのですが、

  1. 捕縛された伊東祐親の詮議
  2. 義経との再会
  3. 三島大社参詣
  4. 飯田義常の褒賞

このうち義経と飯田義常のエピソードはアクシデントと見なせます。ひょっとしたら主目的は伊東祐親の詮議が目的ではなかったかと思い出しています。吾妻鏡には天野遠景による捕縛は書かれていても「いつ」捕縛されたのかは不明です。なにが言いたいかですが、祐親を捕縛した天野遠景の報告を鎌倉で受け取ったのが10/15ぐらいじゃなかろうかってことです。伊豆は頼朝にとって因縁浅からぬ土地ですし、伊東祐親も因縁深い人物です。それだけでなく伊東氏を排除できれば伊豆が手に入る計算もできます。

そこで波多野氏・大庭氏排除と連動させて伊豆も手に入れる作戦が頼朝の黄瀬川進出じゃなかろうかってところです。関本から黄瀬川まで頼朝が異様に急いだのは、捕縛された祐親の状況の変化(伊東氏による奪還とか)が起こらないうちにってところで、とにかく頼朝が黄瀬川まで進み、捕虜の祐親を詮議してしまう事が政治的に求められたぐらいです。10/18夜に黄瀬川に到着した頼朝一行は100人にも満たない少人数であったと思っています。そうでなければ関本〜黄瀬川の移動はまず不可能です。

ただ後続部隊はあったはずです。たいした仮説ではないのですが、頼朝隊は少人数で関本から黄瀬川に急行する一方で、千人程度の後続部隊はまず関本から足柄峠を越え竹之下で宿営し、それから10/19になって黄瀬川を目指していたぐらいでしょうか。祐親を詮議するのは伊豆支配のためのパフォーマンスの意味もありますから、軍事力の誇示も必要だからです。そうしておけば天野遠景が黄瀬川に祐親を連行した時に目にする光景は、続々と相模の源氏軍が黄瀬川に集まってくるものになるからです。

祐親の詮議を10/19に終えた翌日に飛び込んできたビッグニュースが平家軍の敗戦であった気がします。この状況にへの対応についてはそれこそ

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。爲追攻小松羽林。被命可上洛之由於士卒等。而常胤。義澄。廣常等諌申云。常陸國佐竹太郎義政。并同冠者秀義等。乍相率數百軍兵。未歸伏。就中。秀義父四郎隆義。當時從平家在京。其外驕者猶多境内。然者。先平東夷之後。可至關西云々。依之令遷宿黄瀬河給。

吾妻鏡では富士川でこの軍議が行われた前提なので「依之令遷宿黄瀬河給」としていますが、富士川に行かず黄瀬川に留まったままであるのなら「相模に早急に戻るべし」だったと推測します。私の仮説日程の方になりますが、この軍議は10/21朝に行われ、10/21午前中に相模帰還の路についたと見れば流れは自然です。


ただこの仮説にも問題点はあり、

    ほんじゃ、頼朝は平家の追討軍をどうするつもりだったんだ?

この辺は頼朝も腹を括っていたというか、リスクを冒さざるを得ない時期であったとしか言いようがありません。そもそも論になりますが、この時期の頼朝は南関東の有力豪族の支持を得て勢力を広げていますが、とにもかくにも日が浅く、結束力の点で不安がテンコモリだったと考えています。つまりはまともに戦えるかどうかの不安です。黄瀬川に着くころには鉢田合戦の結果も、維盛の追討軍の動きもある程度把握していたと思いますから頼朝の前提は、

    武田が勝つ!

そりゃ富士川で武田が惨敗を喫して黄瀬川、さらに相模に押し寄せる事態になれば頼朝に味方している南関東豪族の動向も怪しくなります。すべては武田が勝つ、たとえドローであっても、とにもかくにも平家の追討軍が一旦は都に引き返す前提で事を進めていたんじゃないかと考えています。見様によっては武田が駿河の平家勢力、さらには維盛率いる追討軍相手に大汗をかいている間に相模の反頼朝勢力を叩き潰し、伊豆も掠め取ったぐらいにも感じますが、旗揚げの時期にはこの程度の博打や要領のよさは欠かせないと思います。

JSJJSJ 2017/06/13 09:36 おはようございます。
頼朝が黄瀬川に留まっていたという説への賛否は保留します。
可能性はあるとは思います。

頼朝が富士川には参陣していなかった、という前提で頼朝の思惑を想像すると、
1.これは以前のエントリでもYosyanさんが指摘していたのではないかと思いますが、
頼朝が富士川合戦に参戦しても「武田と共に戦う」どころか「武田の下で戦う」形になる恐れがあり、それは避けたい。
2.Yosyanさんの仮説でも黄瀬川までの往路は急行しているようです。
これは武田が負けた場合に備えてのことではないでしょうか。
祐親を処断したあとも追討軍の撤退を確認するまでは黄瀬川に留まっていたのは、そのためだと思います。
追討軍が自分のほうに向かってくればそこで応戦するし、武田を追って甲斐へ向かえばその背後を脅かす、
そういう位置取りではないでしょうか。

YosyanYosyan 2017/06/15 21:04 JSJ様

やはり詰めが甘いですよね。吾妻鏡のお陰で頼朝の1日単位の動きが石橋山から辿れる訳で、そこから頼朝の戦略が見えそうな気がしています。最初はレスにするつもりで書き始めて挫折。エントリーに書いているのですが、手を付けたら選択肢が多くて難渋してます。

これは難しいから書けないのではなく、想像の翼を広げる範囲が多過ぎて「楽しい」状態とご理解下さい。とにもかくにもまとまった考察時間を取るのが目下の課題です。

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2017-05-26 古代製鉄のムック6・余談編

製鉄の話を調べていた時の余談です。


ダマスカス鋼とはインドで作られたウーツ鋼をダマスカスで鍛えて剣にしたものです。ダマスカスで作られた鋼ではないのでウーツ鋼で作られたダマスカス剣と言うべきなのでしょうが、慣例によりダマスカス鋼として扱います。このダマスカス鋼が西洋社会に知られたのは十字軍遠征で、この時の戦利品・略奪品の中にダマスカス鋼があったぐらいです。ダマスカス鋼については既に伝説化している部分が多いのですが、

    もし絹のネッカチーフが刃の上に落ちると自分の重みで真っ二つになり、鉄の鎧を切っても刃こぼれせす、柳の枝のようにしなやかで曲げても折れず、手を放せば軽い音とともに真っ直ぐになる

13代目石川五右衛門斬鉄剣を思い起こさせる剣ですが、丈夫でよく切れるだけではなく

20170526073545

刀身に独特の縞模様があり、切れ味と美しさから欧州貴族のステータス・シンボルとしても珍重されたとなっています。このダマスカス鋼ですがwikipediaより、

高品質のダマスカス刀剣が最後に作られた時期は定かではないが、おそらく1750年頃であり、低品質のものでも19世紀初期より後の製造ではないと考えられる。

製法は一子相伝の秘法とされ、現在では忘れ去られたとなっています。実は現代でもダマスカス鋼の包丁とかナイフは作られていますが、これはダマスカス鋼の刃紋に似るように鋼を折り返したり、モザイクのように複数の素材を組み合わせて鍛接・鍛造されたものです。もちろんこれはこれで美しく、丈夫でよく切れるのですが、本物のダマスカス鋼はそういう鍛接を経ていない物になります。ダマスカス鋼の詳しい製法は伝承されていませんが”ダマスカス鋼”の謎に迫るには

紀元前9世紀に、小アジアにあったバルガル神殿の年代記には、この鋼の作り方を次のように述べてある。

    「平原にのぼる太陽のごとく輝くまで熱し、次に皇帝の服の紫紅色となるまで筋骨逞しい奴隷の肉体に突き刺して冷やす、・・・奴隷の力が剣に乗り移って金属を硬くする」

奴隷の肉体に突き刺すのは“焼入れ”の意味があるのだろう。中世にはこの焼入れを「赤毛の少年の尿の中で行う」ことを勧めていたという。

これじゃ、どうにもってところです。他にも「7種の金属の混合物から出来ている」てのもあり、これがキッカケになってダマスカス鋼の研究からステンレス鋼の発明に至る話になり興味深いですが長くなるので割愛します。それでもダマスカス鋼の製法の秘密は長年の研究の末にかなり解き明かされており、ロシアの冶金学者アノーソフ(by ”ダマスカス鋼”の謎に迫る)によれば

ダマスカス鋼の模様は、溶けた鋳鋼がるつぼでゆっくり凝固するときの内部結晶作用によって生じたものである。これは後にチェルノフによって科学的な説明がなされた。すなわら鋼が凝固するとき、最初に炭素濃度の低い高融点の鋼が結晶になるがそれは樹枝状晶である。つぎに低融点の炭素を多く含む小結晶が樹枝状晶の間を埋める。

こうして一方は硬く、一方は粘りのある結晶の複雑なからみあいが生ずる。ダマスカス鋼の鍛練はこの樹枝状晶をこわさないように、ただこねる程度にすることが必要だったのだ。また組織だけでなく刃を作る特殊な技術にも秘密があることが判明した。

そう書かれても「そうなんだ」ぐらいにしか理解できませんが、ダマスカス鋼は西洋のシュトック炉のようなもので作られたと考えられています。つまりは直接製鋼法です。直接製鋼法で作られた鋼鉄は隙間の多いスポンジ状の構造になっており、これを鉄として使うには通常は熱して叩いて隙間を鍛接します。ところがダマスカス鋼は鍛接作業を行わず坩堝で溶解したと見て良さそうです。鉄は炭素含有量によって融点が変わりますから、溶けた鉄が冷やされて固まる時に

  1. まず炭素含有量の低い錬鉄部分が固まり樹枝状になる
  2. 次に炭素含有量の高い鋼鉄部分が樹枝状の間を埋めて固まる

ぐらいに理解したら良さそうなのですが、そうなると疑問点が出てきます。銑鉄の融点は1200℃ぐらいですが、錬鉄ととなると1500℃ぐらいになります。それだけの高温を得るだけの技術があったにも関わらず低温の直接製鋼法に留まった点です。ウーツ鋼は紀元前9世紀のバルガル神殿の年代記にも記され、紀元前4世紀には西洋にも名声は聞こえアレキサンダー大王にウーツ鋼のインゴットを贈った記録もありますが、日本のたたら製鉄同様に間接製鋼法に進めるだけの高温技術がありながらそこには進まなかった事になります。

もう一つはそこまでダマスカス鋼の製法の秘密が解き明かされているのなら、鍛接による疑似ダマスカス鋼を作るのではなく、本物のダマスカス鋼を現代ならそれなりに量産しても良さそうなものです。この辺については本物のダマスカス鋼の原料の鉄鉱石にはパナジウムが多く含まれており、パナジウムが上記した作用に大きな役割は果たしたとされています。ダマスカス鋼が18世紀半ばに姿を消したのはパナジウムを含む鉄鉱石の枯渇が原因であろうともされています。それはそれで筋道が通った話ですし、現在でもパナジウムを使って高張力鋼などを作っています。ただなんですが、現代のナイフや包丁に本物のダマスカス鋼を使わないのは何故だろうってところです。

まあ必ずしもすべてを解き明かすのが良い訳ではないので、残りはロマンとしておきましょう。


日本刀

日本刀も製作時期によって古刀と新刀に分けられるそうです。この古刀と新刀を分けるのが原料の違いになります。日本のたたら製鉄は

    ズク押し・・・銑鉄製造
    ケラ押し・・・錬鉄・鋼鉄製造

この2つの手法がありますが、安土桃山期から江戸初期ぐらいにケラ押しによる錬鉄・鋼鉄製造法が多くなります。このケラ押しで取れる鋼鉄が玉鋼で、その玉鋼を使って作られた日本刀が新刀とされています。現在も日本刀は作られていますが、ケラ押しによる玉鋼からのものです。

では古刀はどうだったかですが、これが良くわからないってところです。日本の製鉄法の源流は中国の銑鉄製造技術であり、だからこそズク押しが可能になっているのですが、一方で中国を経由しない直接製鋼法も入っていたと十分に考えられます。ほいでもって鉄需要的には供給サイドの問題もあって中国のように鋳物主体にならず、錬鉄や鋼鉄を鍛造する方が多くなっています。そのためにズク押しで作った銑鉄を脱炭素化して鋼鉄や錬鉄にするための大鍛冶場システムに発展しています。

何が言いたいかですが、日本刀には錬鉄や鋼鉄が必要ですが、古刀は銑鉄から作ったものを使っていた可能性もありますが、一方で直接製鋼法で作っていた可能性もあります。つうかどちらも使っていた可能性がありそうぐらいです。だからどうしたみたいな話なのですが、一般的に日本刀の評価は、

    古刀 > 新刀

これも実はホンマにそうかの議論もあり、古刀の象徴ともいえる正宗も評価が確立した時点で既に神格化され、実用品と言うよりステータス・シンボルになっていたと考えられるからです。そこのところの議論は果てしないと思うのである程度置かせて頂いて、新刀と古刀に差があるとすれば技術も可能性はありますが、鉄自体に差があった可能性はどうだろうと思っています。銑鉄・鋼鉄・錬鉄といっても原料と製鉄法によって差が出ます。たとえば古刀の名刀とされるものは、その鉄自体が優れていた可能性もあるんじゃなかろうかです。

ダマスカス鋼は「どうも」レベルですがダマスカスの鍛冶職人の技術が卓越していた訳ではなく、原料であるウーツ鋼が優れていたとしても良さそうです。たたら製鉄で作られていた鉄も古刀の時代と新刀の時代で同じであったかは調べようのない話になりますが、ひょっとしたら鎌倉期に作られていた鉄がダマスカス鋼みたいに優秀な鋼であった可能性もゼロじゃないと思います。それぐらい製鉄は微妙なところがあるのがこれまで古代製鉄をムックした感想です。

JSJJSJ 2017/05/26 13:36 隆慶一郎の『鬼麿斬人剣』という小説で、主人公の刀工が長曽祢虎徹を評して、
「古い鉄をふんだんに使っていてうらやましい」みたいなことを言っていて、
具体的にどういう点がいいのか分らなかったのですが、
今回の話のような可能性もあるのですね。

YosyanYosyan 2017/05/26 18:32 JSJ様

旧友で特殊鑿を作っているのがいますが、たたらで玉鋼を定期的に作って使う事もあるそうです。でもって使った感想として玉鋼は使いにくいそうです。使いにくいとは手間の問題もありますが、ちょっと軟らかいてな感想でした。また名人級の鉋職人もいますが、玉鋼で使ったものは、たとえばスウェーデン鋼なんかと較べるとかなり軟らかいそうで、すり減り方が早いと聞いたこともあります。固さや品質は炭素含有量とその他の不純物の割合が左右しますが、日本のたたら製鉄の品質が一定していたとは考えにくく、やはり時代によって変化している可能性はあると思います。製鉄法の微妙な変遷もあるでしょうし、原料である砂鉄も変わっている可能性があっても不思議ないところです。

なんとなくですが、江戸期のケラ押しによる玉鋼は品質はある程度一定でしたが、古刀時代の特定時期の鋼と較べると劣る部分があった可能性はあっても不思議ないと思います。もちろん古刀時代の方が産地によってムラは大きかったと思いますが、玉鋼しか選択肢がなくなった(南蛮鉄もありますが・・・)のが新刀時代の特徴かもしれません。

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2017-05-16 摩耶花壇ふたたび

摩耶花壇については何度かムックしているのですが、最近また摩耶山に登ったのでまずは近況です。

わずかに残っている壁の部分も崩壊しそうなので補強工事が行われているようです。ここも補足しておくと摩耶山観光はかつては天上寺参拝がメインでした。天上寺参拝のために今もある摩耶ケーブルが敷設されています。戦後は掬星台に奥摩耶遊園が建設され摩耶ケーブル摩耶駅(現在は虹の駅)からロープーウェイも作られています。ところが奥摩耶遊園も廃園になり、天上寺も1976年に火災で失われ移転してしまいます。そのために摩耶山にあった観光施設は廃業していかざるを得なくなります。

そんなかつての摩耶山繁栄を偲ぶ廃墟を摩耶遺跡として観光地化しようとしているのが最近の動きです。摩耶遺跡と言っても建物として存在するのはマヤカン、旧天上寺山門、高尾大明神、摩耶ケーブル駅、摩耶ロープーウェイ駅ぐらいですから、摩耶花壇の残骸も壊れてしまったらマズイぐらいの判断でしょうか。たしかにいつ最後の壁が崩壊してもおかしくない状況ですから、観光地化するなら出来れば残したいのでしょう。余談ついでですが、天上寺も奥摩耶遊園もなくなっても運行しているケーブルとロープーウェイこそが最大の摩耶遺跡じゃないかと感じた次第です。

摩耶花壇の調査については摩耶花壇様が熱心に取り組まれています。時々見に行くのですが、段々に情報が充実しています。とにかく摩耶花壇については情報が乏しいのですが、新たな画像情報を上げられていたので紹介しておきます。既にご紹介したものと合わせて3つ並べて見ます。

1925年(大正14年) 1927年(昭和2年) 1930年(昭和5年)

大正14年のものは開業を伝える神戸又新日報のものですが、写真を見る限り屋号も何も書いてありません。この辺は写真の精度と修正が入った可能性も残りますが、次の昭和2年のものは玄関の渡り廊下のところに「摩耶花壇」の屋号が入っています。さらに昭和5年になるとアサヒビールリボンシトロンが出てきます。だからどうしたって話ではないのですが、注目したいのは摩耶花壇の向かいの建物です。ここについては

20160605073520

これぐらいしか情報がなかったのですが、こうやってみっると屋根には看板らしきものがあり、微妙な点は多々残りますが屋根の形状が摩耶花壇によく似ています。現在はどうなっているかというと、

妙に立派なコンクリート基礎だけが残されています。今回の画像でわかるのは昭和2年段階で確実に存在するだけなんですが、断片的な情報から判断するとこの平屋の建物もやはり摩耶花壇の一部であった可能性が高そうに思えます。ただですが摩耶花壇とは違い木造の感触があります。摩耶花壇は戦後の混乱期に解体され、その廃材を使ってバンガロー村を作ったとなっています。バンガロー村はゼンリン地図からも確認できますが、取り壊した摩耶花壇跡には、

こういう建物がありました。現在はこの画像の左側部分が崩れ右の壁だけ残っているのですが、ひょっとしたらこれって向かいの建物を移築改造したものじゃないかと思い出しています。傍証としては屋根の形態で、摩耶花壇及びその向かいの建物に似ている気がします。推理推測に過ぎないのですが、摩耶花壇の向かいの建物は職員宿舎的なものであった可能性もあると考えています。摩耶ケーブルは開通していますが、宿泊施設でもあるので職員が泊まり込む必要があります。

摩耶花壇本体の中に職員の宿泊設備があった可能性も否定しませんが、残された画像からするとあんまりスペースに余裕はなさそうな気がします。だから本体とは別に職員宿舎とか事務部門の建物があったぐらいの想像です。画像だけの判断ですから怪しい部分は多々ありますが、本体が鉄筋コンクリート造りに見えるのに対して、道向かいの建物が木造ぽく見えるのは営業用の建物でなかったからかもしれません。それと戦後の一時期に経営者の家族が摩耶花壇に住んでいた情報もありますが、住んでいたのは本体ではなく向かいの建物だったかもしれません。

言い出せばキリがないのですが、摩耶花壇が解体されたのは事実で、一時バンガロー村が立てられたのも事実として良いでしょうが、摩耶花壇の本体は壊してもバンガロー村の資材にできる部分は少ない気がしています。木造ならともかくコンクリート造りなら転用できる部分が限定されてしまうからです。むしろ向かいの建物の資材を転用した可能性も残る気がします。ただそれならば残る謎として、コンクリート造りの本体を何故に手間かけて壊したんだろうです。修復するのが無理なぐらい傷んでいたぐらいの説明でエエのかなぁ? 壊し方もかなり雑な感じがあって、

柱と言うか壁の部分の残骸が結構残っています。まあ本体も基礎部分はコンクリートでも、建物部分は木造であった可能性は残るのでなんとも言えないところです。それとこの部分は摩耶花壇の玄関部分にあたると推測しています。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、地下室に入る階段も確認できるのですが、これはどうも摩耶花壇の外側にある感じがします。地下施設は厨房ぐらいを考えていますが、ここ以外に出入口があったのかどうかは不明です。最後にもう一枚、現在の摩耶花壇の写真なんですが、

摩耶花壇と書かれた看板の左右に2つのロゴが見えます。左側はアサヒビールなんですが、右側は三ツ矢サイダーに見えます。かつてはアサヒビールとリボンシトロンだったのですが、大日本麦酒が1949年に朝日麦酒と日本麦酒(現サッポロビール)に分割された時にリボンシトロンは日本麦酒のものになっています。そのため朝日麦酒はソフト飲料の主力をバヤリースにしています。wikipediaより、

1951年(昭和26年)には朝日麦酒がゼネラル・フーズとバャリース・オレンヂの一手販売契約を締結した。

そうなるとこの看板が作られたのは1951年より前の可能性が出てきます。絞れば1949年から1951年の2年ほどの間に旧摩耶花壇本体は解体され、現在の木造の店舗に変わったんじゃなかろうかです。謎は残りますが、今日はこの辺で。

BugsyBugsy 2017/05/17 14:15 友人のカメラ付きは夜の廃墟を思い切り露出時間を長くして撮影しています。出来上がりはものすごく幻想的なんです。そんな使い方のできる場所であってくれれば 彼は喜んで馳せ参じるでしょう。

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2017-05-13 古代製鉄のムック5・続日本の場合

専門家の方には基礎レベルなのですが、素人のムックなので目をつぶって下さい。


間接製鋼法のおさらい

製鉄の基本原理は酸化鉄を熱で酸化還元させ、酸化鉄中の酸素を取り去る事です。この時に炉内が高温であるほど鉄は炭素を取り込みやすくなり、出来上がる鉄は銑鉄になります。鉄は炭素含有量が多いほど融点が下がり、銑鉄なら1200℃ぐらいになります。西洋の高炉も中国の爆風炉も出来た鉄は溶けた鉄として炉内の底に溜まり、それを溶けたまま取り出すことが出来ます。この溶けた鉄を取り出せる点が重要で、連続して製鉄が可能になり大量生産が可能になります。

直接製鉄法で連続製鉄が出来ないのは鉄は400〜800℃でも製鉄できますが、炉内の温度が低いと炭素含有量が下がり融点が上がります。そのため固まった鉄が炉の底に形成される事になります。これを取り出すには炉を壊す必要があるからです。えらく単純な説明ですが、原理的にはそんなところです。

間接製鋼法にも欠点はあり、出来た鉄は銑鉄で鋳物には適していますが固い代わりに脆く、刃物や工具として使うには炭素を減らし鋼鉄や錬鉄にする必要があります。言うまでもないですが、銑鉄をまず作って鋼鉄や錬鉄にしたので間接製鋼法と言い、製鉄段階で錬鉄や鋼鉄を作るので直接製鋼法と言います。

銑鉄は鋳物に使われますが、西洋の鉄需要は鋼鉄や錬鉄(つうか銑鉄自体が無かった)です。にもかかわらず間接製鋼法による銑鉄製造が製鉄のメインになったのは量産のメリットが余りに大きかったと素直に受け取って良いと思います。ほいでもって日本の製鉄は独自に発達したものではなく、大陸技術の導入です。当然のように銑鉄製造技術が伝わっているのですが、なぜか連続製鉄に進んだ形跡がありません。この辺の理由を再考したいと思います。


技術基盤の問題

中国の銑鉄技術はある程度完成したものであったと見て良いかと思います。前にも出しましたが、中国における製鉄遺跡研究の現状と課題にある古栄鎮製鉄遺跡の復元図にあるように、

20170510094128

こういうシステムがあったわけです。現代なら技術導入と言えば、こういう装置一式を持ち込んでのものになりますが、大陸(ないし半島)の技術者は徒手空拳で日本に来たと考えるのが妥当です。つまりイチから日本で装置造りから始めなければならなかったってところです。そりゃ木炭さえ現地でイチから製造しなければなかったんじゃないかと思われます。たぶん当時の日本の技術基盤では先進の大陸の装置をそのまま再現するのは非常に難しかったぐらいです。そこで日本の技術水準に合わせたアレンジを行ったとしても不思議ありません。銑鉄が作れるだけの高温の炉はなんとか作ったものの、それを取り出して連続製鉄に持っていくのはあきらめたぐらいの想像です。

それでも時の権力者に十分に喜ばれたんじゃないかと思っています。これまで輸入に頼らざるを得なかった鉄が自給できるからです。現実的に連続製鉄技術を当時の日本で実現するのは難しく、とにもかくにも鉄が出来たので誰しも満足してくれたぐらいでしょうか。この辺は鉄の歴史からするとアンバランスな技術伝承となり、連続製鉄が出来ないのに高温の炉を持てたので鋳物が出来るなんて状態が出現する訳です。まあ大陸の技術者からすれば、銑鉄を作ればこれは鋳物にするのが常識で、その技術はセットで伝えないと意味がないぐらいの情熱を燃やしてくれたんじゃないかと想像しています。


鉄需要の問題

JSJ様から

おそらく爆風炉にはそれなりの設備投資が必要で、それに見合う需要がなかったのだろうと想像します。

ここは考え直すと微妙な点で、鉄は供給さえ豊富なら需要はドンドン湧いてきそうな感じがします。鉄は汎用性の広い金属で、近世の構造材はさておくとして農具・工具・武器・鍋釜と身近な実用品として需要はあったはずです。また書紀を信じるならば、神功皇后三韓征伐を始めとして半島への出兵記録はかなりあります。当然ですが相手は鉄製の武器で武装しているわけで、日本が石製や青銅製で戦ったとも思いにくいところがあります。少し時代は下りますが、白村江の敗戦で失った鉄は近江の古代製鉄より、

663年の白村江の戦で大敗した日本は、(一万人の兵が沈んだと記され、一人5キログラムの鉄を着けていたとすると)50トンの鉄を失ったと思われますので、これを回復するために鉄を大増産する必要があり、技術の改良がおこなわれたと考えられます。

ここには当時の鉄生産が年間30トンぐらいであったとの推測も書かれており、天智天皇は鉄の大増産を命じたとなっています。そりゃそうするでしょうが、近江の古代製鉄には古代では近江に60カ所以上の製鉄遺跡があり、古代最大の製鉄地となっていたとも書かれています。天智天皇が近江に遷都した理由は色々書かれていますが、鉄の産地に近いと言うのもあったかもしれません。

それでも史実として日本で鉄供給が溢れた記録は存じません。天智天皇の命令で鉄生産は増えたかもしれませんが、一挙大増産とか、今日のテーマである連続製鉄法に発展したはなかったとして良さそうです。チト強引な結論かもしれませんが、日本で鉄需要が高くならなかったのは供給サイドに問題があり、慢性的な鉄不足のために鉄をあんまり使わない文明体系が出来たような気がしています。


原料の問題

大陸から製鉄技術が伝わった時には鉄鉱石を原料としていたでどうも良さそうです。これも大陸ではそうでしたから日本でもそうなるのは自然です。ただ日本は鉄鉱石に恵まれた国とはいえません。鉄自体は地球の5%ぐらいあるものなのですが、製鉄するには鉄分を多く含む鉄鉱石が必要です。優良な鉄鉱石は50%以上の鉄分を含むそうですが、日本ではそんな優良なものは少なく、あったとしてもすぐに掘り尽くしてしまう程度のものしかなかったぐらいは推測できます。

そこで鉄鉱石の代わりに砂鉄と使い出すのですが、東アジアにおける日本列島の鉄生産より、

岡山県大蔵池南遺跡や京都府遠所遺跡は、6世紀代に操業された製鉄遺跡である。いずれも砂鉄を始発原料とするが、我 が国最古と認められる総社市千引カナクロ谷遺跡では、鉄鉱石を始発原料とする。鉄鉱石を始発原料として操業しているのは、山陽地域と近畿に多く見られる。中国大陸や朝鮮半島には、現在のところ、この時期の砂鉄製錬が確認されておらず、課題の一つとなっている。

まず大陸や半島は豊富な鉄鉱石があったのでわざわざ砂鉄からの製鉄をしなかったぐらいに考えています。ただ砂鉄からでも製鉄が出来るぐらいの知識はあったぐらいはあっても不思議ないと思います。最後のところは不明ですが鉄鉱石の入手で不利な日本では、比較的採取しやすい砂鉄による製鉄にかなり早い時期にシフトしているのが示唆されます。この砂鉄からの製鉄にはメリット・デメリットがあるのですがwikipediaには、

ただし、不純物のチタンのため高炉による製鉄には不向きである。かつて製鉄所などで、原料の国産化を図るため高炉で製鉄する実験が行われたが、出銑口に詰まりが多発し、近代製鉄原料には不向きなことが知られている。

近代製鉄とは高炉による連続製鉄で、古代中国の爆風炉にもあてはまると思います。どうも砂鉄を原料とすると連続製鉄が技術的に困難になるとしてよさそうです。古代日本で鉄需要が増えた時に、大陸の連続製鉄技術を導入しようと思っても無理だったんじゃないかと考えられます。そのため銑鉄を作る技術があるのに連続製鉄に進めず、鉄の量産化のネックになり続けたと言えそうな気がします。鉄供給にネックがあったので鉄器の普及が供給分だけに限定されたぐらいでしょうか。


たたら製鉄は大陸の銑鉄製造技術をベースにしながら、原料が砂鉄になった事への対応をした結果じゃないかと思い始めています。日本の製鉄が連続製鉄についにならなかった点について様々な説が出ていましたが、どうも原料問題に帰結して良さそうな気がします。砂鉄で連続製鉄を行うのは技術的にハードルが高すぎたぐらいです。東アジアにおける日本列島の鉄生産に大陸や半島で砂鉄を使った形跡がないとしているのは、使ってはみたが使えなかったが真相の気がします。大陸や半島では砂鉄が使えなくとも鉄鉱石があるからです。

もうちょっと言い換えると、大陸の銑鉄技術(西洋も基本的に同じ)は鉄鉱石が原料であるのが前提で、鉄鉱石を銑鉄にして連続製鉄する技術発展を遂げたぐらいの見方です。これが日本の砂鉄になると鉄が出来るところまでは可能でも、連続製鉄を行うのが事実上不可能だったぐらいです。そのために独自の発達をせざるを得なくなったぐらいです。

そこまで考えると、たたら製鉄がズク押し(銑鉄製造)からケラ押し(錬鉄・鋼鉄製造)にシフトした理由もわかる気がします。鉄の生産量が限定されるので、用途が農機具や工具、武器にシフトし、そのためには鋼鉄や錬鉄の方が使いやすいぐらいでしょうか。錬鉄や鋼鉄の利用に偏る点は西洋の鉄利用と基本的に同じですから、中国以外は「普通はそうなる」ぐらいです。西洋の高炉だって鋳物が作りたくて作った訳じゃありません。

長々とムックしてきましたが、個人的にはモヤモヤした疑問がそれなりに整理された気がしています。

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2017-05-11 古代製鉄のムック4・日本の場合

簡単にダイジェストするだけのつもりだった世界の鉄の歴史が、エラい膨らんでしまったのはいつもの事ですが「まあええ」として、やっと目的の日本のたたら製鉄に取り掛かります。


製鉄技術のおさらい

鉄は酸化鉄を熱により酸化還元することで得られますが、鉄の融点以下の低温でも製鉄可能です。ここは鉄の性質になりますが、

  • 低温で製鉄すると炭素含有量が少ない錬鉄・鋼鉄が得られる(直接製鋼法)
  • 高温で製鉄すると炭素含有量の多い銑鉄になる(間接製鋼法)

さて直接製鋼法で作られた鋼鉄や錬鉄は隙間が多い鉄として出来上がります。そのままでは強度が落ちますから、熱しながら叩く作業が必要になります。叩くことによって隙間を叩き潰し鉄同士をつなぎ合わせ、同時に不純物を叩きだす作業です。それと炭素含有量が低いほど鉄の融点はあがるので、鋼鉄や錬鉄を鋳造するには高温が必要になり古代ではそこまでの高温を得るのが難しいので叩いて形を作っていきます。えらい雑な説明で申し訳ありませんが、こうやって直接製鋼法で得られた鋼鉄や錬鉄を叩く作業を古代の鍛造技術と言っても良いと考えています。

低温で作られた鉄は炭素量が少ない錬鉄(場合によっては鋼鉄)になりますが、低温のため鉄が溶けて固まった訳ではありませんので隙間が多いものになります。まあスポンジみたいなものを想像しても良さそうです。そこで過熱して叩くことで隙間を埋めていきます。この時に隙間が無くなるだけではなく、鉄同士が引っ付きます。これを鍛接ともいうようです。同時にスラッジといわれる不純物も除去できるとなっています。

鉄にはもう一つ叩く作業があります。鉄だけではないのですが、叩くことによって固くなる性質のある金属があるそうです。これは冷えた鉄を叩くので冷間加工と呼ばれます。昔の包丁は錬鉄で出来ていたので、冷間加工で強度を付けていたそうです。これも叩きすぎると展性が落ちて脆くなるのだそうです。

この鍛造ですが銑鉄(= 鋳鉄)には向きません。つうか銑鉄は溶けますから叩く必要がありませんし、炭素含有量が多いので十分な硬度があります。問題は展性が低いことで、そのために焼き鈍しが使われます。

間接製鋼法で得られた銑鉄は融点が低いので古代でも鋳造可能でしたと言いたいところですが、銑鉄でも融点は1200℃になります。ここは銑鉄を作り出すには欧州の高炉で1500℃以上、古代中国の爆風炉でも1300℃(1200℃の記載もあり)と書いてありましたから、銑鉄を作り出す技術があれば鋳造は可能になるとした方が良さそうです。


たたら製鉄の基本

さて長いことムックしていて、たたら製鉄への素朴過ぎる疑問が湧いています。その答えがどこかにあるはずと鉄の歴史をムックしていた側面があるのですが、私には見つけられませんでした。まずまずたたら製鉄には2つの手法があります。

  • ズク押し(間接製鉄法)
  • ケラ押し(直接製鉄法)

日立金属HPにも

たたら製鉄には2つの方法があります。1つは砂鉄からいきなり鋼を作るケラ押し法(直接製鉄法)、もう1つはズク(銑鉄)を作ることを目的とするズク押し法です。

ズク押しで得られた銑鉄は、

ズクは炭素量が高く、溶け易いので鋳物にも用いられますが、大部分は大鍛冶場(おおかじば)に運ばれて炭素を抜き、左下鉄(さげがね)と呼ばれる鋼や、さらに炭素を下げて軟らかくした包丁鉄にされました。

大鍛冶場で左下鉄を作るところを左下場、錬鉄を作るところを本場と呼んでいたそうです。この2つの手法なんですが、

中国地方全体では山陰、山陽にわたってズク押し法のたたらが多く、また中国地方以外で行われた製鉄法もズク押し法でした。

つまりはまずズク押しで銑鉄を作る事からたたら製鉄は始まっています。直接製鉄法によるケラ押しが出てきたのは、17世紀の千種鋼が始めとされ19世紀になって広まったとなっています。もっとも本当の古代となると、

古代から中世にかけてのたたら炉の進歩は前述の通りですが、そこでどんな鉄が製造されていたのかは明らかではありません。

主に銑鉄を作り、大鍛冶的製法で脱炭し、鉄や鋼にしていたのか、それともケラ状の錬鉄が作られ、これを精錬鍛冶(ケラを高温で叩いて、中に含まれる鉄滓を絞り出す)して鉄を作ったのか、古刀の製造法が分からないのと同様にまだはっきりしないのです。

ある時期にズク押し一色に染まった時期が「どうやら」あったようで、その後にケラ押しが台頭したぐらいの関係と良く書いてあります。世界の製鉄史を考えると炉の温度の関係もあって直接製鋼から間接製鋼に進むのですが、この点だけをとらえる日本は特異な発達をしていると見えなくもありません。そこら辺の理解がスッキリしないってところです。


直接製鋼と間接製鋼

まず日本で確認されている最古の鉄器は紀元前3〜4世紀、これが弥生時代中期の紀元前後になると急速に鉄器の数が増えるとなっています。製鉄の始まりは遺跡で確認できているのが6世紀ぐらいだそうですが、2世紀ぐらいの鍛冶場の遺跡が確認されているので、紀元前後からの鉄器の増加と合わせて既に製鉄は始まっていたんじゃないかの説も強くなっているようです。

というのも紀元前後には青銅器の国産が始まっており、青銅の精錬技術・鋳造技術が伝わっているのなら製鉄技術もまた伝わっている方が自然だの考え方です。中国では紀元前5世紀には銑鉄の生産が始まっていますから、紀元前後で既に500年は経過しており、半島も紀元前3世紀ぐらいには製鉄が始まっていますから、青銅器の技術だけ伝わって鉄器の技術が鍛造技術だけ先に伝わるのは少々不自然の見方です。西洋や中国の様にステップを踏んで青銅器や鉄器が発達した訳じゃないからです。

ただなんですが製鉄の原型ともいうべき直接製鋼法が日本に伝わっていなかったかどうかは微妙です。製鉄の伝来ルートを日立金属HPより、

20170510114449

この時期に銑鉄を作る技術があったのは中国系の技術だけと見て良いかと思います(タンザニアにも紀元前後からあったそうですが・・・)。中国も広いですが、漢代には製鉄は官営事業になっていたので中国の鉄は間接製鋼の銑鉄だったと見て良いかと思います。一方で伝来ルートとして中国をスキップしているものもありそうに見えます。中国をスキップしたものは直接製鋼法の可能性はありそうに思えます。無難には古代日本の製鉄初期には直接製鉄もあれば間接製鉄も共存していたぐらいを想像します。それと基本的な疑問としてはズク押しをするには高温の炉が必要です。これについてはキャスタロイ物語より、

古墳時代(西暦300〜600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。

もう少し時代が下ると藤原京にも鋳造施設の跡が確認されています。銑鉄の融点が1200℃、古代中国の爆風炉が1300℃となっていますから、鋳造が出来るのなら銑鉄を作るだけの高温の炉もあっておかしくないってところでしょうか。それとこういう官営の鋳造施設が作っていたものとして仏具が多かったの調査があります。一つの見方ですが、律令体制が整ってくると税として鉄が集められるようになったぐらいは容易に推測できます。でもって集めた鉄は仏具の鋳造に大量に用いられたぐらいはあります。

仏具だけじゃなかったかもしれませんが、官営の鋳造工場のために銑鉄が必要となり、税である銑鉄を作るための製鉄法であるズク押しが発達し広がったはありえるぐらいの想像です。この銑鉄の利用なんですが中国では焼き鈍し技法である可鍛鋳鉄が早くから行われていますが、どうも日本には十分に伝えられなかった気配があります。そのために鋳物では固い代わりに脆いですから、農具や工具、さらには武器に錬鉄や鋼鉄の需要が多かったようです。だから大鍛冶場が成立していったのですが、一方で直接製鋼法であるケラ押しも残っていたかもしれません。

西洋の高炉と中国の爆風炉は英訳すれば blast furnace なんですが、中国の爆風炉は西洋の様に高くならなかったようです。原理としては類似だそうですが、このブログではあえて高炉と爆風炉と分けて書かせて頂いています。


銑鉄の意味

世界の製鉄史をムックした知見として、

    銑鉄生産 ≒ 量産技術

こうみても良いような気がします。西洋の高炉は銑鉄を作りますが、当時の鉄需要からして銑鉄自体はあんまり欲しい鉄ではなかったはずです。ですから脱炭素の工夫をあれこれ重ねるのですが、直接製鋼に決して後戻りしなかったのは鉄が量産できるメリットは何物にも代えがたいほど大きかったと判断して良さそうです。

一方の日本ですが、中国から銑鉄を作る技術が非常に早い時期に伝わっていますが、江戸期に入る頃には直接製鋼法にある意味逆戻りしています。これがどういう事かの意味を考えると、日本の銑鉄製造技術は必ずしも量産を意味しなかったんじゃないだろうかです。つまりズク押しで銑鉄を作ろうが、ケラ押しで錬鉄や鋼鉄を作ろうが、作る手間も生産量も大差なかったぐらいの見方です。鉄需要としては錬鉄や鋼鉄(ある時期から鋼鉄の需要が高まったの記録がありました)が大きいので、わざわざ銑鉄を作って大鍛冶場で鋼鉄や錬鉄に精錬するより、直接作った方が手間が減って経済的みたいな経緯です。

そうなると日本には中国の爆風炉、西洋の高炉みたいなものなしで銑鉄を作れる特異な技術があった・・・ここが調べても見つからないというか、わからなかった点なのですが、技術的には爆風炉の原理を基にたたら製鉄のズク押しが開発されたと考えるのが妥当なんですが、日本で定着した銑鉄製造法は量産には向かなかったぐらいしか想像しようがありません。技術の発展にはしばしばそういう事があり、ある時点で発展性の無い技術として西洋や中国の様な量産技術に発展しなかったぐらいでしょうか。

日本のたたら製鉄の特異性はあれこれと書かれていましたが、早期に銑鉄製造法を得ながら、これを量産技術に出来なかった(つうか中国の出来上がった技術を導入できなかった)のが一番特異な気がした次第です。

JSJJSJ 2017/05/11 22:51 >早期に銑鉄製造法を得ながら、これを量産技術に出来なかった
おそらく爆風炉にはそれなりの設備投資が必要で、それに見合う需要がなかったのだろうと想像します。
(資本がないから需要を喚起できなかった、という見方もできますが)
ヨーロッパは、産業革命期に入り鉄の需要はうなぎ登りだっただろうと想像がつきますが、
古代中国は鉄を大量生産して何に使っていたのでしょうねぇ?まさか鉄獅子みたいなのばっかり作っていたとは思い難いです。
何らかの鉄の構造物を作っていたのだろう、とは想像しますが。

ああ、でも、日本では大きな構造物というとむしろ銅製ですね、奈良の大仏とか。
そういう意味では日本は一点豪華主義というか贅沢だったのかも。

なんか収拾のつかないコメントになってしまいましたが、今回の鉄の話、面白かったです。
やっぱり知ってるつもりで知らなかったことがたくさんありました。

YosyanYosyan 2017/05/12 07:55 JSJ様

 >それに見合う需要がなかった

御意です。だいぶ前に律令制の軍団で徴収された兵士が大刀の持参を義務付けられていた話を思い出しました。あくまでも延喜式からの試算ですが、20万人ぐらいの規模ですから20万本の大刀が必要だったわけです。どうやって調達していたのか、そもそも本当に調達していたのか疑問だったのですが、ヒョットしたら鋳鉄製の大刀だったかもしれません。それぐらいの製鉄規模が古代日本にあったのかもしれません。

軍団は桓武天皇の時に極端に縮小されますが、この時に鉄需要がガクンと下がったぐらいは想像されます。まだまだ民需の規模が小さい時代ですから、縮小された規模に応じた量産技術に変わったぐらいはあっても良さそうな気がします。つまり元来は大量生産技術であったはずの銑鉄製造が、マーケットの縮小により少量生産技術に変質してしまったぐらいです。これも想像に過ぎませんが、中国伝来の進んだ焼きなまし技術も失われた可能性もあります。もっともそんな経緯を証拠立てる遺跡の発掘があるわけではありませんので御注意を。

もうちょっと別の側面でいうと、日本では鉄鉱石を豊富に含む鉄山が存在しません。だから鉄鉱石ではなく、比較的豊富にあった砂鉄からの製鉄にシフトしたぐらいを想像していますが、鉄鉱石に較べると砂鉄からの製鉄は量産と言う点で不利な材料があった可能性も考えています。しかし残念ながら、その辺を説明してくれる資料を探し出せませんでした。

YosyanYosyan 2017/05/12 08:33 もうひとつ資本規模の話ですが、欧州では産業革命期に入り商資本の蓄積があり、鉄の需要を喚起した結果、高炉による大量生産を行っても作れば作るほど儲かり、さらに大きな産業に育っていったはあると思います。中国でも類似の現象が漢代には起こりかけたようですが、中国ではこれをすべて官営化することにより、大規模な投資が継続されたぐらいに見えます。

日本では産業基盤も、商資本の蓄積もないところに中国の大量生産技術を持ち込まれたので、律令期の初期ぐらいは準官営ぐらいで成立しても、以後の平安政府はそういう官営事業からは撤退してしまったので、製鉄事業は地元需要が中心の地場産業化してしまった側面はある気がします。遠距離輸送のための手段も時代が下る方がプアになってましたし。そこに技術だけは銑鉄製造・鋳造技術だけはある程度残ったので、たたら製鉄も銑鉄製造になったものの、量産技術を少量生産技術に縮小させてしまったぐらいはある気がします。

JSJJSJ 2017/05/12 12:28 >それぐらいの製鉄規模が古代日本にあったのかもしれません。
それはないんじゃないでしょうか。
軍団といっても各国に分散していたわけですから、その装備も各国で生産する方が理にかなっています。
原料も製品も重いですから。
平安時代に鉄年貢はありますが、瀬戸内海水運が利用できる地域に限られるようです。http://www.ranhaku.com/web04/c5/1_04tokusan_map.html
何十万という兵を動員して実戦に投入していた中国とは、そこは違うと思います。

日本の鉄製品というと、灯炉供御人の名にもなった灯炉、それから鍋・釜・鎌・鋤・鍬・刀・矢尻・鎧の札・兜・・・
大きなものは思いつかないんですよね。鐘が大きい部類に入るくらいですか(それも現存する鉄鐘は小振りな物のようです)。
で鋳物師というと廻船とか、鎌を背負って行商するとか、行った先でかけつぎしているイメージ。
少量生産で全然困らない印象。

軍とか都とか巨大な需要があればひとつひとつの製品は小さくても大量生産のメリットもあるかと思う一方、
銑鉄をどうしても一ヶ所で大量生産しなければならない場面というのは、やはり鉄獅子のような巨大な製品を作る時だと思うのです。
で、鉄像というのは日本人の美意識には合わないだろうな、と思います。
銅製品は錆びても美しいですが、鉄は錆びるときたないですから。

日本は鉄原料が砂鉄だから大量生産に向かなかったのでは、という仮説は面白いと思います。

YosyanYosyan 2017/05/12 13:16 JSJ様

なんとなく思っているだけですが、鉄の大量生産には社会的インフラみたいなものがある程度必要な気がします。西洋がわかりやすくて、段々に鉄需要が大きくなり、これに応えるために製鉄技術が進歩して高炉による銑鉄の量産にたどり着いたみたいな経緯です。ここで中国が非常に早期に銑鉄製造になったのが世界的にも特異な現象と結論しても良いと考えています。日本は当然ですが中国の銑鉄技術が入ってくるのですが、そんな先進技術を受け入れるには早すぎたぐらいです。

製鉄技術だけは銑鉄が作れましたが、製鉄規模は需要に応じたものに矮小化した感じです。さらに需要に対して供給が過剰になる事は起こらず、起こらなかったから鉄器でなくても良いものは鉄器以外の材料で補ったぐらいです。供給が過剰状態になって初めて、鉄器がたとえば陶器製のものと置き換わる現象が促進される気がします。鉄瓶より陶器製の瓶が廉ければ、あえて鉄製のものを使わず、使わないから需要も増えなかったぐらいでしょうか。これは結果論で語っているだけですが、最後のところはよくわかりません。

YosyanYosyan 2017/05/12 17:45  >日本は鉄原料が砂鉄だから大量生産に向かなかったのでは、という仮説

基本のwikipediaを見落としていました。

 >ただし、不純物のチタンのため高炉による製鉄には不向きである。かつて製鉄所などで、原料の国産化を図るため高炉で製鉄する実験が行われたが、出銑口に詰まりが多発し、近代製鉄原料には不向きなことが知られている。

砂鉄だから量産しにくいのも一因だったようです。

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