新小児科医のつぶやき

2016-08-29 松平氏の勉強

松平氏の経歴を少しムックしておきます。この辺になるとドンドン資料が少なくなるのでwikipedia程度であると先に白状しておきます。


十八松平

松平氏で記録に現れるのは松平信光からとされ、その前となると「よ〜わからん」の世界になっているぐらいの理解で良さそうです。そこからいわゆる十八松平の系図を書き出してみます。

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分家が多いのですが分布を地図にプロットしてみます。

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興味深い分布で、信光流は南東部の丘陵地帯に多く分布しており、親忠流の分布は北部、長親流は安祥から南西部に広がっている感じです。これは素直に松平氏の勢力拡張がその方面にあったと受け取りたいところです。信光は長沢城を奪って根拠地にしたため長沢松平とも呼ばれた時期があったとなっていますが、信光事業で大きかったのは安祥城奪取であったとなっています。wikipediaより、

永享12年(1440年)、三河国碧海郡周辺を支配していた和田氏(畠山氏の一族と言われる)の和田親平が築城したとされる(安祥城築城以前は、西隣の安城古城が本拠地になっていた)。築城当初は居館であった。その後文明3年(1471年)、三河国岩津城主の松平信光が城の近くで祭りがあるとうわさをたたせ、それを知った城の者はみな祭りだと興奮し祭りに行ってしまったとされる。そして城に人がいなくなったのを見計らって無血落城させた。以後4代、松平氏の居城となる。この4代の間を安祥松平氏と呼ぶ。

安祥城を根拠地にすることで西三河に台頭する基盤を築いた人物ぐらいで良さそうです。地図を見る限りでは能見に進出することで矢作川西岸に達し、安祥を奪うことで矢作川東岸経営の拠点を築いたぐらいにも見えます。でもって次代は親忠になっているのですが、殆ど記録に残っていない人物だそうです。親忠に関しては

『三河物語』では、父の信光は長男(名は記載なし)に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかったとされている。だが後に安祥松平氏から清康・家康ら松平氏を代表する人物が現れたため、親忠が第4代当主扱いされたと言われている。

曖昧模糊なんですが、親忠は三男で兄がいた(系図上もそうです)となっています。兄がいても庶出であれば正室の三男が継ぐことは普通なのですが、この辺にどうも疑問があるようです。信光が安祥城を奪ったのは史実としても信光が安祥城を根拠地にしたかどうかは疑問符が付けられるのかもしれません。一方で親忠流の分家は存在します。なんとなくですが親忠は前線の安祥城で分家となり、惣領家は別だったの見方が研究者にはあるようです。


事歴のはっきりしない親忠の次代が長親です。この長親も三男で長男は岩津松平となっています。この岩津松平ですが宗家であったとの説もありました。そりゃ長男の家ですから可能性は十分あるのですが、系図を見ていると岩津松平は親忠の長男から始まったのではなく、信光の時から宗家であった気がなんとなくしています。でもって親忠が宗家の直系に系図上でなったのは長親の活躍によるものであり、親忠系の分家も長親の功績によるものの気がします。それぐらい長親の影響は大きい気がしています。

長親が台頭したのは松平氏の危機の到来によるもので良さそうです。遠江まで勢力を広げた今川氏(義元の父の氏親の時代)が三河にも勢力を伸ばそうとしたとなっています。この今川氏(北条早雲指揮であったとされます)の進攻を撃退したのが長親とされます。どうもこの勝利によって本家筋の岩津松平は衰退し、長親の安祥松平が宗家とみなされるようになったとされているようです。長親が松平氏のカリスマみたいな地位についたぐらいを想像しますが、長親は30歳の若さで隠居してしまいます。

松平長親 年齢 松平信忠 年齢
1473 出生 0
1490 17 出生 0
1501 今川氏撃退 28 11
1503 隠居 30 家督相続 13
1506 今川氏撃退 33 16
1511 38 隠居 21

青地で書かれている今川氏撃退は1度なんですが時期は2つの説があります。

  • 1501年説:柳営秘鑑
  • 1506年説:徳川実紀

どっちでもエエようなものですが、長親の隠居がからむと微妙になります。1501年説なら隠居後に今川氏撃退の指揮を執ったことになるからです。この辺はいくら考えても真相はわからないのですが、そもそも30歳で隠居の理由は何だろうです。ここで家督を譲って隠居として実権を握る手法は割とあります。今川義元も、北条氏康も、織田信長も、徳川家康もやっています。ただこれは家督相続で混乱を生じさせないようにする目的が強そうで、息子はそれなりに成人しています。しかし長親に家督を譲られた信忠は13歳です。チト若すぎる気がします。

あえて考えると宗家の地位の不安定さだったかもしれません。十八松平の系図は江戸期に成立したと思っていますが、いわゆる宗家の地位は実力主義の奪い合いの様相があったのかもしれません。長親は今川氏撃退の功績により宗家として認められていましたが、この地位を早期に世襲することで固める狙いぐらいがあったのかもしれません。

家督を継いだ信忠ですが、三河物語では愚物とされています。この辺も真相はわからないのですが、とにかく長親と信忠は仲が悪かったようです。実権を求めての勢力争いもあった気がしますが、長親の方が求心力が強かったようで信忠は21歳の若さで隠居させられ信忠の子(長親の孫)である清康が12歳で家督を継ぐことになります。


清康の経歴を三河物語から拾ってみます。

松平清康 年齢 織田信秀 年齢
1510 出生 0
1511 出生 0 1
1523 家督継承 12 13
1525 山中城攻略 14 15
1527 17 家督相続 17
1529 尾島城攻略 18 19
1530 岩崎城攻略 19 20
宇利城攻略
吉田城攻略
1532 21 那古屋城攻略 22
1535 森山崩れ 24 森山崩れ 25

清康は早熟の天才であり英雄児であったようです。家督を継ぐや三河平定に乗り出し20歳までにはほぼ成し遂げています。参考に織田信秀の経歴も並べておきましたが、とりあえず驚いたのは2人は1歳違いだったことです。信秀も17歳で家督を継いで21歳で那古屋城を謀略で奪っていますが、清康の方が目覚ましい活躍をしているのがわかります。個人的に気になったのは長親との関係ですが、この辺は目ぼしい資料が見つかりませんでした。どうにも巧妙に丸めこんでしまったぐらいしか言いようがありません。

ちなみにこの時代の今川氏は氏親から氏輝の時代で義元は1536年に家督を継いでいます。氏親時代には三河まで押し寄せていますが、氏親時代の晩期から氏輝時代は甲斐の武田信虎と緊張関係にあったようです。ここは単純化すると信虎が今川氏の北の脅威になっており、今川氏は西に延びる余裕が乏しかったぐらいでしょうか。この流れの延長線上に義元が家督を継いだ時に信虎との同盟成立があったと見て良さそうです。

武田氏と今川氏の緊張関係がわかっていないと清康に信虎の使者が来た理由がわかりにくくなります。ただ、それでもわかりにくいのは三河物語では森山出陣に関連して信虎と美濃三人衆の使者が来たとなっています。美濃三人衆とは安藤守就、稲葉良通、氏家直元でエエと思いますが、信虎と美濃三人衆の利害は異なります。信虎は清康に遠江方面に進出して欲しかったと思いますし、美濃三人衆は尾張方面です。清康は尾張方面への進出を選択したというところでしょうか。まあ普通に見れば今川より織田の方が組し易しと判断すると思います。森山崩れの時の関係地図ですが、

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岡崎を出て岩崎城に宿泊したようです。最初は飯田街道の可能性もあるんじゃないかと思っていましたが、この時には沓掛城も松平方ですから鎌倉往還でも良さそうな気がします。でもって当時の信秀の根拠地は那古屋城ですから、守山城は目と鼻の先になります。守山城で清康は急死するのですが、しなかったら那古屋城攻略に進む予定かと思われます。信秀も名将ですが、この時点では三河をまとめている清康の方が優勢な気がしますから、尾張をかなり切り取っていた可能性はありそうな気がします。


森山崩れ後

松平氏はこの後に長い低迷時代が来るのですが、もめたのは宗家の継承問題に集約されそうです。つうか継承に関する内紛は松平氏には通弊としてあった気がしないでもありません。嫡々でいうと清康の子である広忠なんですが、まだ9歳。元服さえしていない歳です。この時に長親の三男である信定が岡崎を「押領」したとの表現が出てきます。後から見れば押領でしょうが、信定にすれば宗家争いに名乗りをあげたぐらいだった気がしています。この時に長親が信定の押領を黙認したとの表現も見られます。

歴史は勝者が書きますから、後に家康につながる広忠が善になるのでしょうが、戦国時代に9歳の当主は無理があるとの判断はそんなにおかしいと思えないところがあります。ただ英雄清康の存在は死んでも大きかったようで、信定派と広忠派の内紛が起こってしまったぐらいに見ています。この内紛は信定が死に、広忠が岡崎に復帰することで決着を見たようですが、松平氏に取って不運だったのは広忠が凡庸であったことだと思います。もちろん西から信秀の侵入があり、内紛後に求心力となるにはかなりの器量が必要なんですが、いずれにしても広忠にはそこまでの器量はなかったってところです。

松平氏の系譜を見る限りでは長親はかなりの人物であり、清康は英雄として良い人物のようです。一方で信忠、広忠はイマイチってぐらいでしょうか。才気は一代おきで次が傑出した英雄の一人である家康につながるぐらいです。アラアラでしたが、これぐらい知っておけば松平氏の流れがわかりそうです。

BugsyBugsy 2016/09/01 01:02 鎌倉期の御家人が蒙古襲来を機に下向して子孫を広げたり 宇佐神宮の神官が相続を通じて各地に分流したのはよく見かけます。しかし先祖がはっきりしない氏族が政治的正当性の曖昧なまま地方に子孫が広がっていったのは 少ない例なのでしょうか。それなりの来歴は皆明らかにするはずです。少なくとも中央政権とは無縁のはずなんです。農民のような豪族のような不思議な家系です。仰るように松平氏の初期は始祖の官位や役職を明らかにしていないので土地支配の正当性は主張できなかったはずで何をやっても 横領としか映らず 後ろ盾がない以上 周辺の反感は強かったと思います。

YosyanYosyan 2016/09/01 08:06 Bugsy様

松平氏の出自というか家系伝説は面倒ですから省略したのですが、初代とされる親氏は国人であった松平信重の婿養子となっています。でもってもともとの母体の松平氏の出自は賀茂氏、鈴木氏、在原氏の説があるそうですが不明ぐらいで良さそうです。でもって後に譜代筆頭として江戸期に活躍する酒井氏とは信重時代から姻戚関係があったらしいとされています。この酒井氏も結局のところ出自が不明で在地領主だった「らしい」とあるぐらいです。酒井氏との姻戚関係を持ち出したのは婚姻とは釣り合いになりますから、松平氏もその程度であった傍証になるぐらいでしょうか。イメージとしては大元の松平氏は地侍で、それが土豪として成長していったぐらいを考えています。十八松平の家系図も参考になり、分家が成立したのは三代とされる信光の時代からです。初代や二代の分家は残っていないというか、分家するほどの勢力もなかったと見て良い気がします。そういう意味で実質的な初代は信光なんだと見ています。

 >先祖がはっきりしない氏族が政治的正当性の曖昧なまま地方に子孫が広がっていったのは 少ない例なのでしょうか

これについては何とも言えません。松平氏は紆余曲折の末に江戸幕府を作りましたから著名ですが、たとえば信光時代程度の土豪クラスなら他に例が少ないかどうかの検証は片手間では容易じゃありません。ありそうな気はするのですが、例を出せと言われたら思いつかないぐらいです。それでもあえて無理やり出せば南北朝期の楠木氏。松平氏もそっちに近い系列だった可能性はありそうな気がします。楠木氏とは時代がかなりずれますが、南朝系の残党の子孫ぐらいはあるかもぐらいです。

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2016-08-26 水野氏再考と村木砦の合戦

桶狭間時の水野氏の動きが引っかかるのでムックし直してみます。


水野氏の構成

水野氏は知多半島勢力を持っていた一族ぐらいの理解で良さそうで宗家は緒川水野氏となっています。この水野氏は多くの分家があり、なおかつ水野氏として団結力があったなんて説明があり、そういう形態を一族一揆ともしています。一族一揆については調べてもイマイチ良くわからなかったのですが、もう少し単純化して考えてみます。戦国時代ですから本拠地を城にします。勢力が広がれば新たな戦略拠点として城を築きます。この新たな城なんですが、セットで城を維持する領地もついていたと見て良いと考えます。

そこに新たな城主を任命するのですが、誰を選ぶかとなると親族が優先されます。でもって任命された新城主は世襲権も同時に得ていたんじゃないかと見ています。なんというか本拠地の宗主権を認めていますが、城主に任命されると分家として独立するぐらいの形態です。鎌倉時代に相続で細分化し家が衰えたので惣領相続になったのに反するように見えますが、分割単位が領地とセットとなっている城ですから、細分化の弊害を抑制できるのと、実際問題として1人の領主が複数の城主を兼任できないので分割統治みたいな感じでしょうか。

これは水野氏独特のものではなく、たとえば松平氏もそうであったと見ます。岡崎の松平氏は宗家だったかもしれませんが、一方で十八松平と呼ばれる分家があったからです。本家と分家の関係も代を重ねると濃淡が出るのは世の常ですし、血筋上の本家が衰微して分家が宗家になったりもあったと思います。ただ内部で争いがあっても外部の敵に対しては基本的に大同団結するぐらいでしょうか。緒川水野氏は宗家とはなっていますが、本当に求心力のある宗家になったのは水野信元の代になってからのように思えます。wikipediaに書かれている信元の知多半島における戦績ですが、

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大雑把にいうと知多半島の東岸には戸田氏がおり、これを北から駆逐していったようです。宮津城を落として亀崎城を作り、そこから成岩城、富貴城と攻略し、布土城を築いて河和城の戸田氏を圧迫した上で婚姻により従属関係にしたぐらいです。常滑城は常滑水野氏と婚姻関係を結び、半島南部の佐治氏に対しては野間まで進出した上で戸田氏同様の扱いにしたぐらいです。こうやって地図で見ると知多半島の覇者になった事が良くわかります。

信元が知多半島の覇者となれた原動力の一つが織田氏との同盟とされています。西三河の覇権は清康急死後に衰えた松平氏に代わって織田氏が安祥城まで勢力を伸ばしおり、この同盟関係を利用したってところでしょうか。同盟関係が密接だったのは信長の初陣が吉良大浜であったことでも窺えるとして良さそうです、


刈谷城明け渡し問題

水野氏は弱小勢力ではありませんが、大勢力ではありません。ここも単純に織田氏や今川氏と正面から争えるほどの力はありません。織田氏や今川氏から水野氏を見ると、滅ぼすにはチト手間がかかるが、味方になってくれたら助かるぐらいの規模ぐらいでしょうか。ですから松平清康が三河を平定した時にはこれと結び、織田氏が西三河に台頭してきたら結んでいる訳です。ここでわかりにくいのは、1549年の今川氏による安祥攻略後の水野氏の動きです。当然ですが、次代の覇者は織田か今川かの算盤勘定をやっていたはずです。ここでなんですが新たな事実がわかりました。1949年の今川氏による安祥攻略ですが、それだけではなかったようです。水野史研究会様の水野氏と桶狭間合戦に、

今度、山口左馬助、別可馳走之由祝着候、雖然、織備懇望子細候之間、苅谷令赦免候、此上、味方筋之無事無異儀山左申調候様両人可令異見候、謹言

これは豊明市史の妙源寺文書として紹介されているものだそうです。大意は山口左馬助(鳴海城主、後に今川氏に離反)の周旋で今川氏と織田氏が和睦。この時の和睦条件として今川氏が占領していた刈谷城を水野氏に返還するぐらいになります。今川氏が返還するということは今川氏が刈谷城を持っていた事になります。そのため新修名古屋市史では、

同年九月今川勢は織田方の吉良氏と戦い、十一月には雪斎の率いる大軍は安祥城を攻略し、城将織田三郎五郎信広を捕らえた。今川氏は、信秀と交渉して信広と交換に竹千代をとりもどし、駿府に送った。さらに、今川勢は、信秀の同盟者水野氏の三河刈谷城も攻略して、軍事的に優位に立った

こういう経緯があったとしているようです。今川氏の安祥攻略後に織田信弘と松平竹千代の人質交換が行われたのは知っていましたが、どうもその周旋に山口左馬助が奔走し、和睦条件の中に刈谷城の水野氏への返還もあったぐらいに解釈して良さそうです。ただなんですが、和睦条件としては今川氏がチト不利の気がします。そりゃ折角奪い取った刈谷城を明け渡しているからです。これには思惑というより明確な意図があったと見る方が自然です。和睦成立前は、

    織田・水野同盟 vs 今川

この構図であったはずです。この構図に乗っかって水野氏も知多半島の覇者になっています。ここで織田氏と今川氏が和睦すれば、形の上では織田氏と今川氏は友好関係になると同時に今川氏と水野氏もまた友好関係になるわけです。この形の上の友好関係を実質的なものにする意図が今川氏にあったと見たいところです。つまりは刈谷城を与えることにより、水野氏を織田陣営から切り離し今川陣営に取り込む工作です。水野氏にとっても魅力的な条件であったはずです。西三河から織田勢力は退潮しており、今川氏はどう見たって強大な勢力です。水野氏は乗りたかったはずです。


水野氏の外交

織田氏が西三河で覇を唱えている時期は良かったと見ています。織田氏は安祥城まで進出し岡崎の松平氏に圧力を加えていますが、矢作川を渡って岡崎城を奪うことが出来ていません。なぜそうしなかったは不思議な点も残りますが、ここは単純に松平氏の背後にいる今川氏との激突を避けたぐらいに見ておきます。信秀時代の織田氏も強かったですが今川氏を踏みつぶすほどの力はさすがになく、対今川氏戦を考えると水野氏は大切な同盟軍になります。

信元が織田氏寄りを鮮明にしたメリットは、北部が同盟軍の織田氏の勢力圏になったため、知多半島にその戦力を注ぎ込めたからじゃないかと思っています。もちろん織田氏への兵力提供は課せられたとは思いますが、それ以上に知多半島で美味しい思いをしたぐらいです。それが1549年に安祥城が今川氏に奪われると様相が変わります。西三河の覇権が今川氏に大きく傾くことになります。そうなった時に水野氏が今川氏にサッサと乗り換えなかった点が解釈に難しいところです。

信元が何を考えていたかなんて知りようがありませんが、今川氏の覇権は、清康時代の松平氏や、織田氏の覇権とかなり異なる分析をしていた可能性はあると思っています。今川氏の強大さは西三河の覇権を維持するのに必ずしも水野氏を必要としないぐらいでしょうか。水野氏の存在価値は西三河に覇を唱える勢力が水野氏の協力を必要とするところです。今川氏は単独で織田氏を滅ぼす力をもっており、西三河から尾張東部に勢力を広げた時に水野氏の存在が不要になるぐらいの見方です。

でもって存在が不要になったモデルケースが岡崎の松平氏であり、このまま今川氏が西に進めば水野氏も「ああなってしまう」懸念があったぐらいです。そのためには今川氏への対抗勢力として織田氏が健在である必要があります。ほいじゃ、織田氏との同盟を堅持して今川氏に対抗するかと言われれば、織田氏が負ければ水野氏は属国化どころか根こそぎ滅ぼされかねません。信元は安祥落城後の織田氏の力の見極めと、どの時期に水野氏を今川氏に高く売りつけるかのタイミングを計っていた気がしています。


水野十郎左衛門尉

ここで微妙な水野氏外交を担った重要人物として

    水野十郎左衛門尉

こういう人物が存在します。ドンちゃんの他事総論から水野十郎左衛門尉の書簡を紹介してみます。

Date 差出人 受取人 文面 出典
天文13年(1544年)9月23日 斎藤道三 安心軒・瓦礫軒 其以後無音非本意存候、仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候懸意令申候、此砌松次三被仰談御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者談近年織弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候、尚期来信候、恐々謹言 新編東浦町誌「斎藤利政判物」
天文13年(1544年)9月25日 斎藤道三 水野十郎左衛門尉 先度以後可申通覚悟候処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手へ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織弾六七人召具罷退候、近年之躰、御国ニ又人もなき様ニ相働候条、決戦負候、年来之本懐此節候、随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候、尚礫軒演説候、可得御意候、恐惶謹言、 新編東浦町誌「長井久兵衛書状」
天文13年(1544)閏11月11日 織田信秀 水野十郎左衛門尉 此方就在陣之儀、早々預御折帋、畏存候、爰許之儀差儀無之候、可被御安心候、先以其表無異儀候由、尤存候、弥無御油断、可被仰付儀肝要候、尚林新五郎可申候、恐々謹言、 新編岡崎市史 「織田信秀書状写」
天文15年(1546年)3月28日 鵜殿長持 安心軒 貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被

仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝

事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、

去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候、恐惶謹言、

静岡県史「鵜殿長持書状写」
永禄3年(1560年)4月12日 今川義元 水野十郎左衛門尉 夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀申付、人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言 別本士林証文にある「今川義元書状写」

1通目は斎藤道三が水野十郎左衛門尉への連絡を要請しているものであり、4通目は信秀が安心軒経由で飯尾信豊に出した密書が水野十郎左衛門尉の手に渡り、鵜殿長持に送ったところ安心軒を叱責した内容と言われています。いずれにしても斎藤道三や織田信秀、さらには今川義元とさしで書簡を交換できる立場の人物であるのは確認できます。この水野十郎左衛門尉は長く謎の人物されており、説としては水野信元か水野信近ではないかが有力だそうで、そう仮定すると都合のよい点は確かに多々あるので基本的に同意です。

ただ水野十郎左衛門尉が水野氏を代表して外交を取り仕切っていたかについての見解は少し異なります。水野氏と織田氏が同盟を結んでいた時期がありますが、織田氏にとっても水野氏は必要な同盟軍ですから同盟強化に努めていたはずです。強化するポピュラーな手法は婚姻ですが、水野一族の中に織田シンパを作るのも含まれていると思います。一方で今川氏の進出に危機感を覚え今川氏との同盟を考える勢力も出ていたはずです。水野十郎左衛門尉は今川シンパの代表格だったぐらいです。

これは想像ですが水野氏内の織田シンパ勢力は案外多くて、宗家の信元とて独断で今川シフトを明言しにくい状況があったのかもしれません。下手に公言すれば織田シンパの水野氏が織田氏の支援を受けて宗家に反旗を翻しかねないぐらいです。そういう見方からすれば水野十郎左衛門尉は信元の代理人的な性格を帯びていたとはいえます。一つ言えるのは国主と直接書簡を交わせる立場の人間ですから、書簡を送る側からすれば水野十郎左衛門尉が信元の意志であると受け取っていたように思えます。


村木砦の合戦

当時の推測地形図を先に見てもらいます。

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今川軍はまず重原城を攻略します。情け容赦のない攻撃だったようで後世に山岡氏の記録が残らないぐらいの結果になっています。重原城を確保した今川軍は、そこから村木砦建設の資材を運び出したとなっています。重原は舟運の要衝だったそうで、それもあって今川軍はまず攻め落としたぐらいでしょうか。さてなんですが、舟運といっても重原から村木砦に向かえば緒川城と刈谷城の間を通ります。水野氏は地形的にそれなりの水軍も有していた可能性があり、たとえ有していなくとも舟を出して輸送の妨害を行うはずです。

そうなると重原から丘越えで高津波あたりから村木砦に向かうルートぐらいが思いつきますが、急増の砦といってもそれなりに本格的なものなので陸路を挟む輸送は手間がかかります。つうか、それなら別に重原城を攻略する必要がありません。もちろん織田方の城ですから刈谷城攻撃のために邪魔だから落としたはエエのですが、なぜに重原を補給拠点としたかが少々謎です。この点は悩んでいたのですが、どうも重原から直接舟運で村木砦に資材を運んでいたんじゃないかと思い始めています。

つうのも砦は建設中に攻撃するのが定石なのですが、砦が完成するまで緒川城にいたはずの水野信元が手を拱いて見ていたのが腑に落ちません。ヒョットしたら村木砦の合戦自体が今川氏と水野氏の出来レースじゃなかったかの疑念が私にはあります。水野氏が今川氏と連絡を取り合っていたのは書簡から確認できます。今川氏がいずれ尾張に侵攻するのは時間の問題であり、勝ち馬は誰が見ても今川氏です。信秀時代の力は織田氏にはなかろうと見るのが自然です。

先ほど水野氏内部に織田シンパがいるだろうの推測を書きましたが、信元は織田シンパも納得する形で今川氏に加担する策を練っていた気がします。いや今川がそういう状況を作ったのかもしれません。村木砦の合戦では今川氏は織田氏との連絡路であった寺本城を寝返らせ遮断しています。これは織田氏の援軍が簡単には来にくくなる策だと思います。そうしておいて緒川城の目と鼻の先に村木砦を構築して攻略の姿勢を示します。緒川城の三河からの防御の要は天然の外堀である知多湾であり、村木砦はこの外堀を無効化する狙いです。

そういう状況になれば水野氏は織田氏に援軍を要請することになりますが、当時の信長は尾張平定戦の真っ最中で緒川城まで出てくる余力はないと見たのだと思います。寺本城は織田の援軍の阻害の意味もありますが、信長が「こういう状況の援軍は無理」の言い訳を出来るようにしたとの考え方もできます。水野氏の危急存亡の時に信長が援軍に来れなかったら、今川氏と和睦しても織田シンパは納得するでしょうし、信長が援軍に来なかった点で織田氏を見限る効果も期待できます。こういう見方をすると、どうも村木砦の合戦の焦点は、

    信長の援軍の有無

今川氏も水野信元も「来ない」の計算で連携プレーをやっていたんじゃなかろうかです。そういう状況を信長はどれぐらい読んでいたかどうかも不明ですが、かなりの無理を押して水野氏の援軍に駆けつけます。道三に援軍を要請し、美濃からの援軍を本拠地の防御に置き、織田主力軍を率いて知多半島を一周する奇策です。道三は「蝮」の異名が当時から定着していたはずで、これは間違っても信用が置けるを意味しません。信長が村木砦に向かっている間に道三に尾張を乗っ取られる危険性はテンコモリあるってことです。それを押してでも信長は来援します。なんとなくですが、村木砦の合戦は信長が来た時点で終っていた気がします。来ないはずの信長が来てしまうと

  1. 水野氏は織田氏側で戦わざるを得なくなる
  2. 水野氏は重原から村木砦への海上補給ルートを真剣に妨害せざるを得なくなる
  3. 村木砦が機能しなくなると緒川城攻めは渡海攻撃になってしまうし、そんな準備は今川氏にはない

信長が来援して村木砦が落ちるとこの合戦は終結します。信長の来援は水野氏内の織田シンパの勢力が大きくなる結果をもたらし、信元の今川氏に加担するプランは瓦解してしまったぐらいです。その傍証として刈谷城があります。今川氏は重原城を猛攻で落としています。一方で刈谷城は落とさずに引き返しています。村木砦を落とされたことにより、緒川城攻略の拠点を失ったとはいえ、刈谷城は陸続きですから攻略可能です。今川氏が本気で水野氏を潰しに来ていたのなら、刈谷城は攻め落としてもおいても良いはずです。それをしなかったのが綾ではないかと見ています。


蛇足の桶狭間

水野十郎左衛門尉の書簡の中で一番注目されているのは、

    夏中可令進発候条 其以前尾州境取手之儀申付 人数遣候 然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言

「尾州境取手之儀申付」を義元から尾張国境に砦を作るように命じられたと読むのが通説の様ですが、実際に水野氏が作ったかどうかは不明です。水野氏が関連しそうな砦としては大高城に向山砦、氷上山砦、正光寺砦があります。このうち氷上山砦は千秋四郎が守り、正光寺砦は佐々隼人正が守っていた説があり、ほんでもって最後の向山砦は水野氏が守っていたらしいです。3つの砦の場所がはっきりしないのですが、

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たぶんこんな配置であったようです。千秋四郎・佐々隼人正が守っていたのもあやふやな部分はあり、もし守っていて撤退したのであれば5/18午後になるはずで、少なくとも佐々・千秋の2人は5/19午の刻には中島砦の前方にいて、そこから今川軍に突撃しているからです。佐々・千秋は今日は置いとくとして、この3つの砦で合戦があった記録は残されていません。そうなると大高城別動隊が到着した頃には撤退していた可能性が高いことになります。妥当とは思いますが、他の可能性を少し考えてみます。

「其以前尾州境取手之儀申付 人数遣候」の主語は義元ではなく信長に出来ないだろうかです。つまりは信長が水野氏に要請して大高城に対する砦を作らし軍勢を派遣させたって解釈です。次の「然者其表之事」は然れどもそれは表向きの事、すなわち偽装であると読みます。「弥馳走可為祝着候」これはいよいよ馳走、すなわち今川軍への寝返りを行うことで、「尚朝比奈備中守可申候」その事は大高城主の朝比奈備中守にも伝えてあるぐらいに読みます。あくまでも読みようですが、大高城別動隊が兵糧を運んで来たら水野氏が寝返る計画でもあった気配を感じます。

実際にそんなことが起こっていれば桶狭間後の水野氏の立場はさすがに宜しくありませんから、大高城別動隊が到着する前日にそれこそ佐々・千秋は中島砦方面に撤退し、一緒に守っていた水野氏の軍勢も一緒に撤退となってしまった気がなんとなくします。戦場の主導権を握る織田氏側から「帰ってよろしい」と言われて残るのは変ですからね。この3つの砦跡を実際に見られた方によりますと、規模は小さくて死守する砦というより、監視用のものじゃなかったかの感想もありました。

ただそこまで水野氏の寝返り計画が進んでいたのなら、大高城別動隊がすんなり大高城に兵糧を搬入できた理由につながります。ルートは村木砦の時と似たルートで、重野から海路で現在の大府市あたりに上陸し、そこから陸路で大高城に至るです。この辺は水野氏の勢力圏だと思いますが、水野氏が今川氏に加担していたのなら安全ルートです。ちょっと微妙な点も残りますが元康の大高城からの帰路も水野氏が一枚かんでいるのはそのためとも受け取れます。

この水野氏が桶狭間の時に既に寝返っていた傍証の一つに鳴海城主の岡部元信の行動があります。元信は鳴海城に取り残された格好になりますが、義元の首を貰い受ける事を条件に開城します。敵地での開城ですから和睦条件に帰国するまで敵対しないぐらいは付いていたと思います。しかし元信は帰路に刈谷城を襲い、水野信近を血祭りに挙げています。元信にしても鳴海城から駿府に早く帰りたかったはずですが、わざわざ刈谷城を攻撃したのは一つの謎とされています。

ちょっと強引な解釈ですが元信にも水野氏の寝返り情報は伝わっていても不思議ありません。この寝返ったはずの水野氏が織田方にいるのが許しがたかったと想像します。ですから元信の解釈として、今川を裏切った水野氏を討つのは和睦の条件に反しない制裁ぐらいだった気もしています。

もう一つあって、大高城からの撤退には世話になっているはずの元康が桶狭間の翌日に水野氏を攻撃します。当時の元康はまだ今川氏に従属している姿勢を保っており、桶狭間の復讐を建前としていたとなっています。元康の真の狙いは今川氏からの自立と三河平定だったでしょうが、大義名分は桶狭間で今川を裏切り義元を死に追いやった水野氏の制裁であった気がしています。

HeroHero 2016/08/30 14:55 「村木砦の合戦」の中に何度か出てくる「重岡城」は「重原」ですよね。可能なら訂正をお願いいたします。地元なので少しこだわりますがご容赦下さい。水野氏・松平氏を取り上げて頂きとても嬉しく興味深く読ませて頂いております。

YosyanYosyan 2016/08/30 19:08 Hero様

謹んで訂正させて頂きました。

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2016-08-24 刈谷城と重原城と知立神社

刈谷城

刈谷城が水野氏によって作られた時期の記述には少しバラツキがあります。wikipediaより

  • 15世紀中頃水野貞守が尾張国小河(現在の知多郡東浦町緒川)に緒川城と狭い入り江挟んで隣接する三河国碧海郡に刈谷城の二つの拠点を置いたのに始まる。(水野氏)
  • 天文2年(1533年)、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築いた。(水野忠政)

水野貞守は戦国期の水野氏の始祖に位置する人物ぐらいになり、貞守を初代とすると忠政が四代目、信元が五代目になります。系図上では、

    貞守(1487没)− 賢正(1514没)− 清忠(1509没)− 忠政(1493-1543)− 信元(1576没)

貞守が刈谷城を作ったのなら15世紀になります。一方で1533年に忠政が作ったともなっています。どうもこの二つの記録は並行して存在するようで解釈として

  • 貞守が作ったのは元刈谷城もしくは刈谷古城
  • 忠政が作ったのは現在に続く刈谷城

こういう主張を刈谷市教育委員会はされているようです。根拠はwikipediaより

禅僧・万里集九「梅花無尽蔵」に「矢作在三川、蓋水野所住刈屋城東三里」との記述を根拠に、刈谷市教育委員会(刈谷市史)では、文明年間(1469年-1486年)に水野貞守により築城されたという説を主張している。

これに対して、これ以外の記録及び遺構も確認されていない点から刈谷古城の存在を疑問視する見解も強いようです。二つの説の差は割とあって

  • 貞守の刈谷古城があったのなら15世紀半ばから水野氏は三河南西部の碧海郡に進出していた
  • 忠政の刈谷城からなら1533年から碧海郡進出は始まった

大雑把に80年ぐらい差が出ます。ここで華陽院(於富の方)のエピソードとからめて見ます。華陽院は水野忠政の妻で伝通院(於大の方、家康の生母)の母(つまりは家康の祖母)なんですが、清康がその美貌を見初めて忠政と離縁させ自分の妻にした伝承が残っています。この清康と華陽院の結婚時期を推測すると、

  1. 於大の方が1528年生
  2. 清康は1535年没
  3. 清康と華陽院の間に1男1女あり

そうなると結婚期間は最低でも2年間はあった事になり、なおかつ於大の方の出生後になります。そうなると婚姻時期は1528〜1533年になります。この時期の水野氏関連のエピソードとして忠政の刈谷築城があります。もしこれがリンクしているのなら、忠政は刈谷築城とのバーターに妻の華陽院を差し出した・・・そんな事があるんだろうかってところです。ここで1533年なら婚姻時期としてギリチョンになりますが、清康の死後に華陽院が子を産んでいれば結婚期間の短縮はできますから、可能性としてゼロでないぐらいでしょうか。

華陽院が本当に清康の後妻であったかについては疑問も多いようですが、少なくともいえることは、

  1. 水野貞守は知多湾海上支配の一環として緒川城の対岸に刈谷古城を築いた
  2. 清康の三河平定時に水野氏は一度は屈している(忠政時代)
  3. 忠政は清康に屈した時に姻戚関係を結んだ(華陽院のエピソード)
  4. それでも刈谷古城は忠政の手に残り、1533年に刈谷新城を築った

こんな感じに解釈します。


重野城

ここも経歴を探すのが難しい城です。一番詳しそうな三河 重原城から引用すると、

1156年「保元の乱」の頃、重原兵衛父子〔源李貞・貞行父子か〕が荘司となって居館を構えたことに始まる。1221年「承久の乱」の後、二階堂基行〔元行〕が重原荘守護職に補任され、1240年行氏が継ぎ、1285年3代行景は「霜月騒動」で自害した。霜月騒動の論功行賞から、北条時房を先祖とする大仏宣時が入り、宗泰―貞直と鎌倉幕府滅亡まで大仏氏に受け継がれた。重原荘は時代と共に所領を広げ、16世紀末には刈谷市・知立市全域と、安城市北部の一部・豊田市高岡地区まであったと云う。戦国時代前期、刈谷の水野氏により城郭整備が行われ、今川・松平勢の備えとした。1554年織田方の重原城主山岡河内守は今川勢に攻められ落城となる。現在は土塁、空堀が残り、石碑、歴史看板が立つ。

重原荘は平安時代まで遡る荘園で前にも出しましたが水土の礎様からの図です。

重原父子から始まったのか、重原父子が荘園を奪ったのかは不明ですが、西三河の北部の中心地として存在していたぐらいに解釈します。この重原荘の領主ですが

    重原氏 → 二階堂氏 → 大仏氏

こう変遷してるのはわかるとして、鎌倉幕府滅亡が1333年ですから16世紀まで途中はどうだったんだになります。なんとか見つけだしたのが、、

永正6年(1509)重原城主山岡伝兵衛によって再建された多宝塔(二重塔)。

これは知立神社に多宝塔があるのですが、これの来歴に重原城主として山岡伝兵衛(忠左衛門説もあり)が出てきます。山岡氏がいつから城主になったのかどころか、山岡氏がどういう出自の一族かの情報も見つからず、山岡伝兵衛の諱も不明です。この山岡氏はどうも続いていたようで、1554年の村木砦の合戦の時の城主が山岡河内守(この人物も諱不詳)になっています。この時に重岡城は今川軍によって攻略され、おそらく山岡一族は城を枕に全滅したと推測します。それぐらい情報が乏しい一族です。

ただこの山岡氏は土着の豪族らしき気配はあり愛知県教育文化振興会の於万の方に、

第二十九代神主貞英は、刈谷城主水野忠政の女を室とした。そして妹(系図2)を刈谷の水野信近に嫁がせる一方、弟の貞近を松平清康(家康祖父)に奉仕させている。また、重原城主であった山岡河内守(名は不詳)にもう一人の妹(系図1)を嫁がせ、その関係を図った。

第二十九代神主貞英とは知立城主永見貞英のことであり、永見氏の記録は未だしも残っており「松平 → 織田 → 今川」と支配する勢力が短期間で入れ替わる中での外交としての婚姻政策の跡が窺えるってところでしょうか。ちょっと寄り道ですが

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結城秀康は双子であったとされ、知立神社神主家として残っていた永見氏に引き取られたものの31歳で亡くなっています。家康や結城秀康との関係として愛知県教育文化振興会の於万の方に、

実父である家康から冠や太刀等の拝領も受けており、子を思う親の心情をうかがい知ることができる。さらに、慶長二(一五九七)年には、兄である秀康から蔵米として二千俵を送られている。また、秀康の越前入国に際しては、弓十張が知立神社に奉納されており、兄弟の絆を感じることができる。

こうなっています。


知立神社

池鯉鮒は知立神社の門前町として発展したとなっていますが、知立神社は遷座、つまり場所の移動があります。この移動した時期が極めて微妙で社伝はどうやらこんな感じのようです。

景行天皇の御代、日本武尊東征のおり、当地において、皇祖の神々に平定の祈願を行い、無事、その務めを果したことにより、当地に、建国の祖神を祀ったのが初め。一説には、仲哀天皇の頃とも言われているが、創建当初は、現在地の東1Kmの山町の北に鎮座していた。戦国時代に焼失したため、上重原へ遷座したが、再度焼失したため、天正元年(1573)、現在地に移ったという。

戦国時代に焼失して上重原に遷座し、さらに現在地に遷座したとなっています。この戦国時代ってのがえらく漠然としていますが、知立神社から検証してみます。まず原初の位置ですが

当初馬山町の北方高地であつた(現知立神社から東へ約1Km)

これだけのヒントでも難解だったのですが、どうも現在の地名は下馬で良さそうです。今でも下馬観音菩薩があるようですが、東へ1kmの北方高地の条件を満たします。地図でプロットしてみると、

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ここに建てられたのであれば丘の下も湿地帯であった可能性が高そうに思います。これは八橋に和歌にも詠まれた八つ橋があったとされますが、そういう湿地帯を渡るために作られたとしても不思議ないからです。原初の知立神社は明治期の地図で駒場とかかれた村のある丘の上に建っており、知立城とは離れていた事がわかります。でもって戦国時代の焼失の時期は

天文16年(1547)戸田宜光の兵火で社殿焼失

戸田宜光の父は戸田康光で、家康が駿府に人質として送られる途中に信秀に渡した人物として知られています。怒った義元は同年に戸田康光を討ち滅ぼしていますが、戸田宜光は二連木城に分家しており義元に付き生き延びています。この宜光の知立神社放火がホンマかいなってところで、時期で言えば1548年の第二次小豆坂合戦の前々年、1549年の今川氏による安祥城攻略の前年です。安祥城が信秀の手にある時期に知立神社を焼き討ち出来るのかの素直な疑問です。

このエピソードの出典がわからなかったので間違いの可能性もあるんじゃないかの仮説を立てていましたが、戸田宜光の焼き討ちを裏書するような情報が出てきました。これもまた愛知県教育文化振興会の於万の方にからですが、

重原城主山岡氏は信仰心に篤かったとされ、焼失した知立神社の仮宮を重原の地に勧請したり、多宝塔を再建したりしたことが伝わっている。

多宝塔の再建は1509年に山岡伝兵衛のものを指すで良いかと思います。それと知立神社が焼失後に上重原に遷座したのも社伝にあるので事実として良いでしょう。この上重原への遷座に際し山岡氏が勧請したのなら、素直に城主は山岡河内守で良さそうな気がします。ちなみにこの仮宮も1571年に焼失し、現在地に遷座したのは1573年です。山岡氏は1554年の村木砦の合戦まで存続していましたから上重原への遷座は可能です。つまり知立神社は1554年までに焼失しているので、1547年に戸田宜光が焼き討ちしていても矛盾がないことがわかります。


後は余談ですが、1509年に再建された多宝塔を愛知県の塔から引用します。

神社に多宝塔があるのは神仏混淆のためで、社伝では850年に円仁が神宮寺を境内に建てた時に作られたとなっています。この境内は最初の知立神社境内に建てられたはずで、1509年の再建時も同様のはずです。そうなるとこの多宝塔は1547年の戸田宜光の焼き討ちを免れたことになります。そりゃ免れていなかったら現存していません。少し興味をもったのはその後です。知立神社は焼き討ち後に上重原に遷座し、さらに1573年に現在地に遷座しています。多宝塔は現在の知立神社の境内に現存しますから、どこかで移築したはずです。

そう思って調べていたのですが、移築のエピソードは書かれていませんでした。まあ書くほどの事ではないと判断されたのかもしれませんが・・・ここから先の妄想はやめておきます。

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2016-08-21 西三河の鎌倉往還

ここまで来たら鎌倉往還を出来るだけ正確に把握したくなりました。尾張から沓掛はだいたい特定できましたから、沓掛から岡崎までやります。ほいでもって鎌倉往還なのですが、江戸期に東海道が定めれた時に外れたルートは寂れたところが少なくなかったようです。相原郷から古鳴海なんて明治期の地図でも確認できなかったぐらいです。この鎌倉往還(鎌倉街道)を研究した人物に浜田与四郎がおられるそうです。浜田は刈谷藩家老だそうで、まとめた時期は文政年間となっています。この浜田が作った「鎌倉街道之図」が鎌倉往還の特定に今でも貴重な資料だそうで、私もそれを参考にしてみます。


沓掛〜八橋

地図の大きさの関係で分割しているだけですが、

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へぇっ、てなところで池鯉鮒は通っていなかったようです。もっとも古代東海道や江戸期東海道と違って戦国期の鎌倉往還は複数の道があったり、季節で道が変動していたとする研究もあるようですから、池鯉鮒を絶対に通っていないとは言い切れない部分はあります。まあ鎌倉往還は通っていなくとも知立神社は延喜式にも載っている古社ですし、門前町から発展した町ですから鎌倉往還にも道はつながっていたのは間違いないところです。

さて桶狭間の時にも義元は池鯉鮒に進んだとなっていますが、必勝祈願もあったでしょうし、大きそうな神社ですから宿泊施設もアテにした部分はあるとは思います。ただそれだけでない気もしています。池鯉鮒からは重原から刈谷に伸びる道もあったはずです。桶狭間前に義元が緒川の水野氏を攻めた時もこの道を利用したとするのが自然でしょう。元康の大高城への兵糧輸送は海路利用を仮説して立てていますが、池鯉鮒で松平元康隊・朝比奈泰朝隊と分かれた可能性もある気がします。


重原荘

重原には重原城があって、この時期の戦略地点の一つですが、平安期に成立した荘園である重原荘の中心地であったとなっています。荘園にも大小があるので「そんなものか」ぐらいに思ってましたが、水土の礎様から図を引用しますが、

ちょっとビックリしましたが西三河の北側に位置する大きな荘園であったことがわかります。ただ豊かであったかどうかは疑問で、重原荘のあるあたりは低地が知多湾で微高地である台地は水利が悪く農地開発は遅れたそうです。西三河で開発が先行したのは矢作川下流地域の理解で良いようで、室町期になると南側の吉良荘で大規模な開発に成功したとなっています。西三河の農地開発の歴史を追うと長くなるのでこの辺にしますが、重原荘の中心が重原に置かれていたことは注目しても良い気がします。

重原荘全体からすると重原はえらい南側に偏っていますが、平安期はこの辺ぐらいしか農地に出来なかった気がします。というより、この辺が重原荘ではまとまった面積の農地があったぐらいに言い換えた方が適切かもしれません。だから緒川の水野氏が三河に勢力を伸ばすときに知多湾を渡って刈谷から重原に進出したんだろうです。また松平清康による三河平定の時にも、ここを奪うのが重視されたぐらいです。なにが言いたいかですが、西三河北部の重原城周辺が重要地域であり中心地の一つであれば、そこから北側にある古代東海道や鎌倉往還との連絡道もそれなりに整備されていたんじゃなかろうかぐらいのお話です。


尾崎〜岡崎

八橋〜尾崎もあるのですがこれは省略します。

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青色の破線が律令期の東海道であり、江戸期の東海道にもなります。こちらの方が余程自然な気がしますが、鎌倉往還は南に大きく迂回します。地形と豪族の分布と、渡河地点がの変更でもあったのでしょうか。西三河の焦点は安祥城ですが、位置的に矢作川の渡河地点から一番近い丘ぐらいに見れば良さそうです。矢作川を渡れば小豆坂合戦の古戦場になりますが、織田軍は矢作川を渡河し上和田に進出して今川軍と戦ったとなっています。小豆坂は鎌倉往還を塞ぐというより、鎌倉往還を見下ろす地点と見た方が良さそうで、織田軍来襲に対して今川軍は小豆坂の坂の上に陣を置いて戦ったぐらいの理解で良さそうです。

さて安祥城なんですが、現在の地理感覚ならそこまで信秀が進出すれば西三河をほぼ手中にした感じがしますが、当時的の面積感覚はチト違う気がします。西三河の農地は矢作川流域が主体で知多湾周辺の開発は江戸期になってからの開拓によるものです。微高地である台地の上も水利が整ったのは江戸期からで良いと思います。重箱的なお話ですが、信秀の安祥進出は大きな戦略的意味はあり、面積で言えば西三河の8割ぐらいを占領しているように見えますが、松平氏にしてみれば半分ぐらいって感覚ではなかったかと思っていますが、五十歩百歩のお話でした。

そーまそーま 2016/08/23 18:37 いつも楽しく拝見させて頂いています。(「ニセ科学」のブックマークホルダーに入ってるんですが)
素人ですが,地元民として,岡崎市史などを参考に,記憶モードで少し。

1)矢作川の渡河地点ですが,この古地図で分かるように,赤線ですと,立て続けに3つの川を渡らないといけません。そのため,一回で済む下流の「渡」地点が当時,主要渡河地点となっていたようです。そのため,上和田−小豆坂が主要路で,たびたび戦場になったとか。この上和田も重要な地点で,ここに屋敷を構えたのが大久保一族ですね。また,清康が進出する前の岡崎城は菅生川の南(地図の明大寺の南の丘陵上)だったりします。
また,地図の上部付近,上郷(上野荘)−岩津も渡河地点になっていて(渡刈という地名も残っています。),今でも,名古屋東部−岡崎の主要ルートとなっていたりだとか,上野城(上郷)も主要係争地となっています。
で,この岩津のすぐ南が井田(野),大樹寺となります。元康が大樹寺に入り様子を見てから岡崎城を「拾った」とされる点,上郷のお寺に「住職が元康を大樹寺まで案内した」という伝承が残っている点などから,途中は不明でも,最終的にこの地点から岡崎に戻ったのではないかと思っています。
江戸時代初期に,中央の支流(青木川)の流路が真っ直ぐ矢作川に注ぐように変えられました。東海道の整備との順番,関係は分かりませんが,これ以降,青線が街道になったようです。

2)義元の話のところで,太原雪斎が出てきませんでしたね。出家時代からの師弟関係,家督相続時の義元の年齢などから,親武田路線への変換は,雪斎の主導という見方もあるようです。また,三河侵攻は雪斎が直接指揮を取っていて,岡崎城に在城していたこともあるようです。
で,三国同盟が1554年。雪斎の死去が1555年。氏真が1555年に17歳。元康の初陣が1558年。もたもたしていた印象はないのですが…

3)刈谷城主の水野信近は信元の弟ですが,別行動を取り,今川と連絡を取っていたという説もあります。元々刈谷水野氏は緒川水野氏とは別であった,(事前に)今川に攻撃されていない点からあり得ると思っています。そして,変後に,元々今川と通じてたので警戒していなかったのが,変節に怒った岡部元信に奇襲された,という話もあります。でなければ近くで戦いが起こっているのに,無警戒で簡単に城を落とされることは無いでしょう。

2次資料,3次資料による記憶モードですが,参考になれば。しかし,本を読めば読むほど,桶狭間の攻撃ルートはわからなくなりますね。

YosyanYosyan 2016/08/24 10:58 そーま様

水野氏は緒川水野氏が宗家として書かれていることが多いですが、一方で常滑水野氏、刈谷水野氏、大高水野氏と独立していたとの記述もあります。この辺を解くキーワードとして「一族一揆」みたいなものがありました。これも適当な説明がなくわかりにくいのですが、独立はしていても一族としては結束しているみたいな理解で大きく間違ってはいないようです。

水野信近が微妙な動きをしていたのは御指摘の通りです。最近の研究で信秀はもちろん、義元や道三との関係を窺わせるような書簡の存在が確認されているようです。だから信近は刈谷で独自の行動をしていたの説は多いようです。ここも説によっては信近の独自行動と取るのではなく、宗家の緒川水野氏の代理人的な立場じゃなかったの見解もあるようです。

水野氏の利害を考えれば織田氏と組むことで知多半島の覇権を手に入れたはまずあると思います。しかし信秀没後の桶狭間の帰趨については今川強しの観測で動いていた気もしています。どうも村木砦の合戦の後に織田氏からの目付クラスが派遣されていたので、緒川水野氏は今川氏に走りにくい状態にあり、今川勝利後の外交の布石をあれこれ打っていたぐらいは想像されるところです。そのためには緒川水野氏は動きにくく、刈谷水野氏が動いたと考えれば、なんとなく辻褄が合います。

 >本を読めば読むほど,桶狭間の攻撃ルートはわからなくなりますね

御意です。信長公記は清州から中島砦までの信長の動きをかなり詳細に書かれているにも関わらず、そこから義元本陣襲撃のルートが曖昧なのは謎です。謎が残るので面白いところです。こうやっていろんな仮説を立てることができます。

それと矢作川周辺の地理情報ありがとうございます。土地勘がないのが悲しい上に、現在地図をいくらにらんでも、住宅ばっかりでなんにも浮かんでこないのがかなり辛いところです。とくに海岸線や河川の流れを調べようとするとウンザリするムックになります。貴重な情報として参考にさせて頂きます。

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2016-08-20 桶狭間の合戦・知多湾考察と大高城兵糧輸送ルート

昔の海岸線を推測するのは手間のかかる作業で、明治初期ぐらいなら現代水準の測量地図が存在しますが江戸期に入っただけで難物と化します。以前に兵庫津から清盛の築いた大和田の泊の概要を推測するのだけでも物凄い手間がかかりましたし、古代大和王朝期の河内湾、奈良湖も手強かったものです。ですから個人的にはなるべく触りたくない気分が目一杯あるのですが、松平元康の大高城への兵糧輸送ルートを考察するのに知多湾の戦国期の海岸線の推測はどうしても必要と考えざるを得ません。これも難しそうなら頬かむりをしようと思ったのですが、それなりにムックが出来たのでまとめてみます。


キーワードは衣ヶ浦

解明の手懸りとなったのは大府市wikipediaです。

市域の沖積平野の大部分は、江戸時代に行われた衣ヶ浦の干拓によるものである。現在市域は海に面していないが、かつては沖積平野と丘陵部のたもとまで遠浅の海が入りくんでいたと考えられ、大府市が知多地域に分類されるのもこのためである。1959年の伊勢湾台風や2000年の東海豪雨の際には、こうした沖積地の大部分は冠水し、その被害は甚大であった。なお、市内の北崎町内には近崎(ちがさき)という地名が残っているが、これは当時の近崎付近が衣ヶ浦に面した岬であり、辺り一面には茅(ちがや)が生い茂っていたことに由来する。かつて近崎は、亀崎(現半田市内)・鳶ヶ崎(現知多郡南知多町内)と並んで「知多三崎」と称された。

見つけたって感じ(地元の郷土史研究家の皆様ゴメンナサイ)で、大府市辺りまでかつては海であり、この海は江戸期、それも後期から末期に干拓されています。干拓前は衣ヶ浦が広がっており、その状態は桶狭間の時にも同じであった事になります。このwikipedia記事の嬉しいところは衣ヶ浦の北端付近も記述されているところです。近崎は「ちがさき」と読み、謂れは茅が生い茂っていたとなってますから茅ヶ崎とも呼ばれていたのかもしれません。さらにこの近崎は知多三崎の一つに数えられたとなっています。明治期の地図で確認すると、

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近崎は素直に東側に突出していた岬であったと見て良さそうで、岬ですから南北は海であったと見るのが自然です。近崎の東側に泉田の地名がありますが、ここも近崎とほぼ同じ標高の10mぐらいです。そこから考えると地図北側の東阿野、栄大脇あたりまで海であったとしても良い気がします。想像ですが近崎と泉田の二つの岬のおくに湾が広がっており、その景観を知多三崎としたのかもしれません。でもって東阿野と栄大脇の間を通る道は江戸期の東海道になります。ここに東海道が敷かれたのは桶狭間を通るためもあったでしょうが、南側に海が迫っていたからとも見ることも可能かと推測します。そこからの想像でもう一つ地図を見て下さい。

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泉田から東側にも微高地に挟まれた低地が知立まで続いています。知立は延喜式に遡る知立神社の門前町として発展した町で、天正年間には現在地に移っています。つまりは桶狭間期でも陸地であったはずです。ここで知立神社が標高3mぐらいですから、逢海村と記されている南側ぐらいまで海だったと推測しても良さそうな気がします。


緒川と刈谷

まずは刈谷城の江戸期の縄張り図を2つ示します。

縮小した関係で少々見にくいのは御勘弁願いますが、左の図で本丸の上に「入海」と記されています。そう、川ではなく海となっています。右の図では本丸が西に面していたことが確認できます。つまり刈谷城は西側の海を天然の外堀に見立てた縄張りであったことがわかります。そうなると近崎での考察と合わせて、

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緒川城と刈谷城の間は海であったのが確認できます。水野氏は緒川水野氏を宗家として、知多半島勢力を伸ばし大高城も水野氏の版図であったとなっていますが、三河に勢力を広げるには知多湾を渡る必要があった事がわかります。明治期の地図なら地点を選べば渡河できそうな気もしますが、桶狭間期は渡海しないと三河には進出は無理であったってことです。緒川城から三河に進出するには渡河後の拠点が必要であったのが理解できます。ちょっと想像を膨らませますが、松平清康が三河を平定した時に水野氏と戦ったと見て良さそうです。清康は水野氏を三河から駆逐したのでしょうが、緒川までは攻めていないと見れそうです。これは刈谷まで進出しても緒川城を攻めるには知多湾を渡る必要があり、また陸路を迂回しようと思ったら遠すぎたためじゃなかったかと思われます。


村木砦の合戦再考

この合戦は義元が親織田勢力である緒川水野氏を叩く作戦であったぐらいの理解で良いかと思います。今川軍はおそらく池鯉鮒から重原城に進みこれを落とします。重原城を奪った後の今川軍は2つの作戦を展開します。

  1. そのまま進み刈谷城を包囲
  2. 重原城から物資を運び村木砦を構築する

この状況を知多湾海岸線を含めて考慮すると、

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村木砦の合戦の概要が見える気がします。今川軍が重原城を奪ったのは、とにもかくにもこれを落とさないと刈谷城に進めません。この重原城を奪ったので刈谷城を包囲できたのですが、これにより重原城から知多湾の東岸に進出できるルートが確保できたことになります。ここがポイントになる気がするのですが、今川軍は知多湾東岸から船で西岸の村木に渡り砦を作ったと考えるのが妥当です。そうなるとイメージが変わるのが村木砦です。もちろん緒川城攻略のために設けられたのですが、単なる付城ではなく、知多湾西岸の戦略拠点であることがわかります。つまり緒川城を攻めるためには、知多湾を渡る必要があり、さらに渡海した先に拠点が必要ぐらいの見方です。水野氏の緒川城と刈谷城の関係に似ています。恒久拠点が出来れば、ここに兵員と兵糧を運び込めば戦力強化が容易になります。

なんとなくなんですが、今川軍は緒川城を直接攻める気は薄かった気もしています。狙いは村木砦に有力な軍勢が長期駐留することによる威嚇戦術がメインで、時間が経っても退却はないぞのアピールです。あんなところに砦を構えられれると水野氏は常に臨戦態勢を解くことが出来なくなります。今川軍は同時に知多半島西岸の寺本城を外交で味方に引き込み、これにより織田氏との交通ルートも遮断してます。そういう状態にした上での今川軍優勢の和睦を成立させた上で、水野氏内部にいる織田シンパを追放し、その代わりに今川氏シンパを送り込んで取りこんでしまう戦略だったぐらいでしょうか。

信長は寺本城からのルートが使えないため知多半島を回り込んで緒川城の南側に上陸し、村木砦を攻略しています。これにより今川軍の緒川城攻撃拠点が失われ、水野氏の抱き込みは失敗したと判断し、撤兵したのが合戦の成り行きぐらいに推測します。まあ、刈谷城ぐらいは行きがけの駄賃として落としておいても良かった気がしますが、刈谷城は包囲するだけで十分で、水野氏が今川氏と和睦したら割譲させる予定ぐらいだったので、無理な力攻めを避けたぐらいなのかもしれません。


そうなると大高城食糧補給ルートは?

重原城は桶狭間期でも今川方です。重原城が今川方にあるため刈谷城は抑え込まれた状態にあるため、知多湾の海路を今川方は使えることになります。つうか知多湾があそこまで広がっているのなら、

  1. 重原城から村木砦を作った時に利用した陸路で知多湾東岸に出て、現在の大府市あたりに上陸して大高城に進む
  2. 知多湾北岸から海路を利用して、現在の大府市あたりに上陸して大高城に進む

海路が使えれば緒川城の水野氏の妨害を受けずに大高城に進むのは可能と見えます。ここでなんですが桶狭間後に元康が岡崎に帰ったルートもイマイチ良くわかっていないそうです。その帰還ルートの伝承の一つに舟で岡崎に戻ったってのもあるそうです。最初に聞いた時には「なぜに舟?」だったのですが、大高城への食糧輸送に海路を使ったのであれば、帰りも舟を使ったというか、使わないと知多湾を渡れません。舟を使えば義元戦死で状況がどうなっているか不明な池鯉鮒経由の陸路を通るより、知多湾を南下し矢作川を遡って岡崎を目指す可能性はありかと思った次第です。

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