新小児科医のつぶやき

2017-05-16 摩耶花壇ふたたび

摩耶花壇については何度かムックしているのですが、最近また摩耶山に登ったのでまずは近況です。

わずかに残っている壁の部分も崩壊しそうなので補強工事が行われているようです。ここも補足しておくと摩耶山観光はかつては天上寺参拝がメインでした。天上寺参拝のために今もある摩耶ケーブルが敷設されています。戦後は掬星台に奥摩耶遊園が建設され摩耶ケーブル摩耶駅(現在は虹の駅)からロープーウェイも作られています。ところが奥摩耶遊園も廃園になり、天上寺も1976年に火災で失われ移転してしまいます。そのために摩耶山にあった観光施設は廃業していかざるを得なくなります。

そんなかつての摩耶山繁栄を偲ぶ廃墟を摩耶遺跡として観光地化しようとしているのが最近の動きです。摩耶遺跡と言っても建物として存在するのはマヤカン、旧天上寺山門、高尾大明神、摩耶ケーブル駅、摩耶ロープーウェイ駅ぐらいですから、摩耶花壇の残骸も壊れてしまったらマズイぐらいの判断でしょうか。たしかにいつ最後の壁が崩壊してもおかしくない状況ですから、観光地化するなら出来れば残したいのでしょう。余談ついでですが、天上寺も奥摩耶遊園もなくなっても運行しているケーブルとロープーウェイこそが最大の摩耶遺跡じゃないかと感じた次第です。

摩耶花壇の調査については摩耶花壇様が熱心に取り組まれています。時々見に行くのですが、段々に情報が充実しています。とにかく摩耶花壇については情報が乏しいのですが、新たな画像情報を上げられていたので紹介しておきます。既にご紹介したものと合わせて3つ並べて見ます。

1925年(大正14年) 1927年(昭和2年) 1930年(昭和5年)

大正14年のものは開業を伝える神戸又新日報のものですが、写真を見る限り屋号も何も書いてありません。この辺は写真の精度と修正が入った可能性も残りますが、次の昭和2年のものは玄関の渡り廊下のところに「摩耶花壇」の屋号が入っています。さらに昭和5年になるとアサヒビールリボンシトロンが出てきます。だからどうしたって話ではないのですが、注目したいのは摩耶花壇の向かいの建物です。ここについては

20160605073520

これぐらいしか情報がなかったのですが、こうやってみっると屋根には看板らしきものがあり、微妙な点は多々残りますが屋根の形状が摩耶花壇によく似ています。現在はどうなっているかというと、

妙に立派なコンクリート基礎だけが残されています。今回の画像でわかるのは昭和2年段階で確実に存在するだけなんですが、断片的な情報から判断するとこの平屋の建物もやはり摩耶花壇の一部であった可能性が高そうに思えます。ただですが摩耶花壇とは違い木造の感触があります。摩耶花壇は戦後の混乱期に解体され、その廃材を使ってバンガロー村を作ったとなっています。バンガロー村はゼンリン地図からも確認できますが、取り壊した摩耶花壇跡には、

こういう建物がありました。現在はこの画像の左側部分が崩れ右の壁だけ残っているのですが、ひょっとしたらこれって向かいの建物を移築改造したものじゃないかと思い出しています。傍証としては屋根の形態で、摩耶花壇及びその向かいの建物に似ている気がします。推理推測に過ぎないのですが、摩耶花壇の向かいの建物は職員宿舎的なものであった可能性もあると考えています。摩耶ケーブルは開通していますが、宿泊施設でもあるので職員が泊まり込む必要があります。

摩耶花壇本体の中に職員の宿泊設備があった可能性も否定しませんが、残された画像からするとあんまりスペースに余裕はなさそうな気がします。だから本体とは別に職員宿舎とか事務部門の建物があったぐらいの想像です。画像だけの判断ですから怪しい部分は多々ありますが、本体が鉄筋コンクリート造りに見えるのに対して、道向かいの建物が木造ぽく見えるのは営業用の建物でなかったからかもしれません。それと戦後の一時期に経営者の家族が摩耶花壇に住んでいた情報もありますが、住んでいたのは本体ではなく向かいの建物だったかもしれません。

言い出せばキリがないのですが、摩耶花壇が解体されたのは事実で、一時バンガロー村が立てられたのも事実として良いでしょうが、摩耶花壇の本体は壊してもバンガロー村の資材にできる部分は少ない気がしています。木造ならともかくコンクリート造りなら転用できる部分が限定されてしまうからです。むしろ向かいの建物の資材を転用した可能性も残る気がします。ただそれならば残る謎として、コンクリート造りの本体を何故に手間かけて壊したんだろうです。修復するのが無理なぐらい傷んでいたぐらいの説明でエエのかなぁ? 壊し方もかなり雑な感じがあって、

柱と言うか壁の部分の残骸が結構残っています。まあ本体も基礎部分はコンクリートでも、建物部分は木造であった可能性は残るのでなんとも言えないところです。それとこの部分は摩耶花壇の玄関部分にあたると推測しています。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、地下室に入る階段も確認できるのですが、これはどうも摩耶花壇の外側にある感じがします。地下施設は厨房ぐらいを考えていますが、ここ以外に出入口があったのかどうかは不明です。最後にもう一枚、現在の摩耶花壇の写真なんですが、

摩耶花壇と書かれた看板の左右に2つのロゴが見えます。左側はアサヒビールなんですが、右側は三ツ矢サイダーに見えます。かつてはアサヒビールとリボンシトロンだったのですが、大日本麦酒が1949年に朝日麦酒と日本麦酒(現サッポロビール)に分割された時にリボンシトロンは日本麦酒のものになっています。そのため朝日麦酒はソフト飲料の主力をバヤリースにしています。wikipediaより、

1951年(昭和26年)には朝日麦酒がゼネラル・フーズとバャリース・オレンヂの一手販売契約を締結した。

そうなるとこの看板が作られたのは1951年より前の可能性が出てきます。絞れば1949年から1951年の2年ほどの間に旧摩耶花壇本体は解体され、現在の木造の店舗に変わったんじゃなかろうかです。謎は残りますが、今日はこの辺で。

BugsyBugsy 2017/05/17 14:15 友人のカメラ付きは夜の廃墟を思い切り露出時間を長くして撮影しています。出来上がりはものすごく幻想的なんです。そんな使い方のできる場所であってくれれば 彼は喜んで馳せ参じるでしょう。

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2017-05-13 古代製鉄のムック5・続日本の場合

専門家の方には基礎レベルなのですが、素人のムックなので目をつぶって下さい。


間接製鋼法のおさらい

製鉄の基本原理は酸化鉄を熱で酸化還元させ、酸化鉄中の酸素を取り去る事です。この時に炉内が高温であるほど鉄は炭素を取り込みやすくなり、出来上がる鉄は銑鉄になります。鉄は炭素含有量が多いほど融点が下がり、銑鉄なら1200℃ぐらいになります。西洋の高炉も中国の爆風炉も出来た鉄は溶けた鉄として炉内の底に溜まり、それを溶けたまま取り出すことが出来ます。この溶けた鉄を取り出せる点が重要で、連続して製鉄が可能になり大量生産が可能になります。

直接製鉄法で連続製鉄が出来ないのは鉄は400〜800℃でも製鉄できますが、炉内の温度が低いと炭素含有量が下がり融点が上がります。そのため固まった鉄が炉の底に形成される事になります。これを取り出すには炉を壊す必要があるからです。えらく単純な説明ですが、原理的にはそんなところです。

間接製鋼法にも欠点はあり、出来た鉄は銑鉄で鋳物には適していますが固い代わりに脆く、刃物や工具として使うには炭素を減らし鋼鉄や錬鉄にする必要があります。言うまでもないですが、銑鉄をまず作って鋼鉄や錬鉄にしたので間接製鋼法と言い、製鉄段階で錬鉄や鋼鉄を作るので直接製鋼法と言います。

銑鉄は鋳物に使われますが、西洋の鉄需要は鋼鉄や錬鉄(つうか銑鉄自体が無かった)です。にもかかわらず間接製鋼法による銑鉄製造が製鉄のメインになったのは量産のメリットが余りに大きかったと素直に受け取って良いと思います。ほいでもって日本の製鉄は独自に発達したものではなく、大陸技術の導入です。当然のように銑鉄製造技術が伝わっているのですが、なぜか連続製鉄に進んだ形跡がありません。この辺の理由を再考したいと思います。


技術基盤の問題

中国の銑鉄技術はある程度完成したものであったと見て良いかと思います。前にも出しましたが、中国における製鉄遺跡研究の現状と課題にある古栄鎮製鉄遺跡の復元図にあるように、

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こういうシステムがあったわけです。現代なら技術導入と言えば、こういう装置一式を持ち込んでのものになりますが、大陸(ないし半島)の技術者は徒手空拳で日本に来たと考えるのが妥当です。つまりイチから日本で装置造りから始めなければならなかったってところです。そりゃ木炭さえ現地でイチから製造しなければなかったんじゃないかと思われます。たぶん当時の日本の技術基盤では先進の大陸の装置をそのまま再現するのは非常に難しかったぐらいです。そこで日本の技術水準に合わせたアレンジを行ったとしても不思議ありません。銑鉄が作れるだけの高温の炉はなんとか作ったものの、それを取り出して連続製鉄に持っていくのはあきらめたぐらいの想像です。

それでも時の権力者に十分に喜ばれたんじゃないかと思っています。これまで輸入に頼らざるを得なかった鉄が自給できるからです。現実的に連続製鉄技術を当時の日本で実現するのは難しく、とにもかくにも鉄が出来たので誰しも満足してくれたぐらいでしょうか。この辺は鉄の歴史からするとアンバランスな技術伝承となり、連続製鉄が出来ないのに高温の炉を持てたので鋳物が出来るなんて状態が出現する訳です。まあ大陸の技術者からすれば、銑鉄を作ればこれは鋳物にするのが常識で、その技術はセットで伝えないと意味がないぐらいの情熱を燃やしてくれたんじゃないかと想像しています。


鉄需要の問題

JSJ様から

おそらく爆風炉にはそれなりの設備投資が必要で、それに見合う需要がなかったのだろうと想像します。

ここは考え直すと微妙な点で、鉄は供給さえ豊富なら需要はドンドン湧いてきそうな感じがします。鉄は汎用性の広い金属で、近世の構造材はさておくとして農具・工具・武器・鍋釜と身近な実用品として需要はあったはずです。また書紀を信じるならば、神功皇后三韓征伐を始めとして半島への出兵記録はかなりあります。当然ですが相手は鉄製の武器で武装しているわけで、日本が石製や青銅製で戦ったとも思いにくいところがあります。少し時代は下りますが、白村江の敗戦で失った鉄は近江の古代製鉄より、

663年の白村江の戦で大敗した日本は、(一万人の兵が沈んだと記され、一人5キログラムの鉄を着けていたとすると)50トンの鉄を失ったと思われますので、これを回復するために鉄を大増産する必要があり、技術の改良がおこなわれたと考えられます。

ここには当時の鉄生産が年間30トンぐらいであったとの推測も書かれており、天智天皇は鉄の大増産を命じたとなっています。そりゃそうするでしょうが、近江の古代製鉄には古代では近江に60カ所以上の製鉄遺跡があり、古代最大の製鉄地となっていたとも書かれています。天智天皇が近江に遷都した理由は色々書かれていますが、鉄の産地に近いと言うのもあったかもしれません。

それでも史実として日本で鉄供給が溢れた記録は存じません。天智天皇の命令で鉄生産は増えたかもしれませんが、一挙大増産とか、今日のテーマである連続製鉄法に発展したはなかったとして良さそうです。チト強引な結論かもしれませんが、日本で鉄需要が高くならなかったのは供給サイドに問題があり、慢性的な鉄不足のために鉄をあんまり使わない文明体系が出来たような気がしています。


原料の問題

大陸から製鉄技術が伝わった時には鉄鉱石を原料としていたでどうも良さそうです。これも大陸ではそうでしたから日本でもそうなるのは自然です。ただ日本は鉄鉱石に恵まれた国とはいえません。鉄自体は地球の5%ぐらいあるものなのですが、製鉄するには鉄分を多く含む鉄鉱石が必要です。優良な鉄鉱石は50%以上の鉄分を含むそうですが、日本ではそんな優良なものは少なく、あったとしてもすぐに掘り尽くしてしまう程度のものしかなかったぐらいは推測できます。

そこで鉄鉱石の代わりに砂鉄と使い出すのですが、東アジアにおける日本列島の鉄生産より、

岡山県大蔵池南遺跡や京都府遠所遺跡は、6世紀代に操業された製鉄遺跡である。いずれも砂鉄を始発原料とするが、我 が国最古と認められる総社市千引カナクロ谷遺跡では、鉄鉱石を始発原料とする。鉄鉱石を始発原料として操業しているのは、山陽地域と近畿に多く見られる。中国大陸や朝鮮半島には、現在のところ、この時期の砂鉄製錬が確認されておらず、課題の一つとなっている。

まず大陸や半島は豊富な鉄鉱石があったのでわざわざ砂鉄からの製鉄をしなかったぐらいに考えています。ただ砂鉄からでも製鉄が出来るぐらいの知識はあったぐらいはあっても不思議ないと思います。最後のところは不明ですが鉄鉱石の入手で不利な日本では、比較的採取しやすい砂鉄による製鉄にかなり早い時期にシフトしているのが示唆されます。この砂鉄からの製鉄にはメリット・デメリットがあるのですがwikipediaには、

ただし、不純物のチタンのため高炉による製鉄には不向きである。かつて製鉄所などで、原料の国産化を図るため高炉で製鉄する実験が行われたが、出銑口に詰まりが多発し、近代製鉄原料には不向きなことが知られている。

近代製鉄とは高炉による連続製鉄で、古代中国の爆風炉にもあてはまると思います。どうも砂鉄を原料とすると連続製鉄が技術的に困難になるとしてよさそうです。古代日本で鉄需要が増えた時に、大陸の連続製鉄技術を導入しようと思っても無理だったんじゃないかと考えられます。そのため銑鉄を作る技術があるのに連続製鉄に進めず、鉄の量産化のネックになり続けたと言えそうな気がします。鉄供給にネックがあったので鉄器の普及が供給分だけに限定されたぐらいでしょうか。


たたら製鉄は大陸の銑鉄製造技術をベースにしながら、原料が砂鉄になった事への対応をした結果じゃないかと思い始めています。日本の製鉄が連続製鉄についにならなかった点について様々な説が出ていましたが、どうも原料問題に帰結して良さそうな気がします。砂鉄で連続製鉄を行うのは技術的にハードルが高すぎたぐらいです。東アジアにおける日本列島の鉄生産に大陸や半島で砂鉄を使った形跡がないとしているのは、使ってはみたが使えなかったが真相の気がします。大陸や半島では砂鉄が使えなくとも鉄鉱石があるからです。

もうちょっと言い換えると、大陸の銑鉄技術(西洋も基本的に同じ)は鉄鉱石が原料であるのが前提で、鉄鉱石を銑鉄にして連続製鉄する技術発展を遂げたぐらいの見方です。これが日本の砂鉄になると鉄が出来るところまでは可能でも、連続製鉄を行うのが事実上不可能だったぐらいです。そのために独自の発達をせざるを得なくなったぐらいです。

そこまで考えると、たたら製鉄がズク押し(銑鉄製造)からケラ押し(錬鉄・鋼鉄製造)にシフトした理由もわかる気がします。鉄の生産量が限定されるので、用途が農機具や工具、武器にシフトし、そのためには鋼鉄や錬鉄の方が使いやすいぐらいでしょうか。錬鉄や鋼鉄の利用に偏る点は西洋の鉄利用と基本的に同じですから、中国以外は「普通はそうなる」ぐらいです。西洋の高炉だって鋳物が作りたくて作った訳じゃありません。

長々とムックしてきましたが、個人的にはモヤモヤした疑問がそれなりに整理された気がしています。

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2017-05-11 古代製鉄のムック4・日本の場合

簡単にダイジェストするだけのつもりだった世界の鉄の歴史が、エラい膨らんでしまったのはいつもの事ですが「まあええ」として、やっと目的の日本のたたら製鉄に取り掛かります。


製鉄技術のおさらい

鉄は酸化鉄を熱により酸化還元することで得られますが、鉄の融点以下の低温でも製鉄可能です。ここは鉄の性質になりますが、

  • 低温で製鉄すると炭素含有量が少ない錬鉄・鋼鉄が得られる(直接製鋼法)
  • 高温で製鉄すると炭素含有量の多い銑鉄になる(間接製鋼法)

さて直接製鋼法で作られた鋼鉄や錬鉄は隙間が多い鉄として出来上がります。そのままでは強度が落ちますから、熱しながら叩く作業が必要になります。叩くことによって隙間を叩き潰し鉄同士をつなぎ合わせ、同時に不純物を叩きだす作業です。それと炭素含有量が低いほど鉄の融点はあがるので、鋼鉄や錬鉄を鋳造するには高温が必要になり古代ではそこまでの高温を得るのが難しいので叩いて形を作っていきます。えらい雑な説明で申し訳ありませんが、こうやって直接製鋼法で得られた鋼鉄や錬鉄を叩く作業を古代の鍛造技術と言っても良いと考えています。

低温で作られた鉄は炭素量が少ない錬鉄(場合によっては鋼鉄)になりますが、低温のため鉄が溶けて固まった訳ではありませんので隙間が多いものになります。まあスポンジみたいなものを想像しても良さそうです。そこで過熱して叩くことで隙間を埋めていきます。この時に隙間が無くなるだけではなく、鉄同士が引っ付きます。これを鍛接ともいうようです。同時にスラッジといわれる不純物も除去できるとなっています。

鉄にはもう一つ叩く作業があります。鉄だけではないのですが、叩くことによって固くなる性質のある金属があるそうです。これは冷えた鉄を叩くので冷間加工と呼ばれます。昔の包丁は錬鉄で出来ていたので、冷間加工で強度を付けていたそうです。これも叩きすぎると展性が落ちて脆くなるのだそうです。

この鍛造ですが銑鉄(= 鋳鉄)には向きません。つうか銑鉄は溶けますから叩く必要がありませんし、炭素含有量が多いので十分な硬度があります。問題は展性が低いことで、そのために焼き鈍しが使われます。

間接製鋼法で得られた銑鉄は融点が低いので古代でも鋳造可能でしたと言いたいところですが、銑鉄でも融点は1200℃になります。ここは銑鉄を作り出すには欧州の高炉で1500℃以上、古代中国の爆風炉でも1300℃(1200℃の記載もあり)と書いてありましたから、銑鉄を作り出す技術があれば鋳造は可能になるとした方が良さそうです。


たたら製鉄の基本

さて長いことムックしていて、たたら製鉄への素朴過ぎる疑問が湧いています。その答えがどこかにあるはずと鉄の歴史をムックしていた側面があるのですが、私には見つけられませんでした。まずまずたたら製鉄には2つの手法があります。

  • ズク押し(間接製鉄法)
  • ケラ押し(直接製鉄法)

日立金属HPにも

たたら製鉄には2つの方法があります。1つは砂鉄からいきなり鋼を作るケラ押し法(直接製鉄法)、もう1つはズク(銑鉄)を作ることを目的とするズク押し法です。

ズク押しで得られた銑鉄は、

ズクは炭素量が高く、溶け易いので鋳物にも用いられますが、大部分は大鍛冶場(おおかじば)に運ばれて炭素を抜き、左下鉄(さげがね)と呼ばれる鋼や、さらに炭素を下げて軟らかくした包丁鉄にされました。

大鍛冶場で左下鉄を作るところを左下場、錬鉄を作るところを本場と呼んでいたそうです。この2つの手法なんですが、

中国地方全体では山陰、山陽にわたってズク押し法のたたらが多く、また中国地方以外で行われた製鉄法もズク押し法でした。

つまりはまずズク押しで銑鉄を作る事からたたら製鉄は始まっています。直接製鉄法によるケラ押しが出てきたのは、17世紀の千種鋼が始めとされ19世紀になって広まったとなっています。もっとも本当の古代となると、

古代から中世にかけてのたたら炉の進歩は前述の通りですが、そこでどんな鉄が製造されていたのかは明らかではありません。

主に銑鉄を作り、大鍛冶的製法で脱炭し、鉄や鋼にしていたのか、それともケラ状の錬鉄が作られ、これを精錬鍛冶(ケラを高温で叩いて、中に含まれる鉄滓を絞り出す)して鉄を作ったのか、古刀の製造法が分からないのと同様にまだはっきりしないのです。

ある時期にズク押し一色に染まった時期が「どうやら」あったようで、その後にケラ押しが台頭したぐらいの関係と良く書いてあります。世界の製鉄史を考えると炉の温度の関係もあって直接製鋼から間接製鋼に進むのですが、この点だけをとらえる日本は特異な発達をしていると見えなくもありません。そこら辺の理解がスッキリしないってところです。


直接製鋼と間接製鋼

まず日本で確認されている最古の鉄器は紀元前3〜4世紀、これが弥生時代中期の紀元前後になると急速に鉄器の数が増えるとなっています。製鉄の始まりは遺跡で確認できているのが6世紀ぐらいだそうですが、2世紀ぐらいの鍛冶場の遺跡が確認されているので、紀元前後からの鉄器の増加と合わせて既に製鉄は始まっていたんじゃないかの説も強くなっているようです。

というのも紀元前後には青銅器の国産が始まっており、青銅の精錬技術・鋳造技術が伝わっているのなら製鉄技術もまた伝わっている方が自然だの考え方です。中国では紀元前5世紀には銑鉄の生産が始まっていますから、紀元前後で既に500年は経過しており、半島も紀元前3世紀ぐらいには製鉄が始まっていますから、青銅器の技術だけ伝わって鉄器の技術が鍛造技術だけ先に伝わるのは少々不自然の見方です。西洋や中国の様にステップを踏んで青銅器や鉄器が発達した訳じゃないからです。

ただなんですが製鉄の原型ともいうべき直接製鋼法が日本に伝わっていなかったかどうかは微妙です。製鉄の伝来ルートを日立金属HPより、

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この時期に銑鉄を作る技術があったのは中国系の技術だけと見て良いかと思います(タンザニアにも紀元前後からあったそうですが・・・)。中国も広いですが、漢代には製鉄は官営事業になっていたので中国の鉄は間接製鋼の銑鉄だったと見て良いかと思います。一方で伝来ルートとして中国をスキップしているものもありそうに見えます。中国をスキップしたものは直接製鋼法の可能性はありそうに思えます。無難には古代日本の製鉄初期には直接製鉄もあれば間接製鉄も共存していたぐらいを想像します。それと基本的な疑問としてはズク押しをするには高温の炉が必要です。これについてはキャスタロイ物語より、

古墳時代(西暦300〜600年)の遺跡から鉄製 の刀や斧などが出土していますが、その中の斧の分析結果から炭素や珪素を含んだ鋳鉄製であることが判明し、日本で作られた最も初期の鉄鋳物であると推定されています。

もう少し時代が下ると藤原京にも鋳造施設の跡が確認されています。銑鉄の融点が1200℃、古代中国の爆風炉が1300℃となっていますから、鋳造が出来るのなら銑鉄を作るだけの高温の炉もあっておかしくないってところでしょうか。それとこういう官営の鋳造施設が作っていたものとして仏具が多かったの調査があります。一つの見方ですが、律令体制が整ってくると税として鉄が集められるようになったぐらいは容易に推測できます。でもって集めた鉄は仏具の鋳造に大量に用いられたぐらいはあります。

仏具だけじゃなかったかもしれませんが、官営の鋳造工場のために銑鉄が必要となり、税である銑鉄を作るための製鉄法であるズク押しが発達し広がったはありえるぐらいの想像です。この銑鉄の利用なんですが中国では焼き鈍し技法である可鍛鋳鉄が早くから行われていますが、どうも日本には十分に伝えられなかった気配があります。そのために鋳物では固い代わりに脆いですから、農具や工具、さらには武器に錬鉄や鋼鉄の需要が多かったようです。だから大鍛冶場が成立していったのですが、一方で直接製鋼法であるケラ押しも残っていたかもしれません。

西洋の高炉と中国の爆風炉は英訳すれば blast furnace なんですが、中国の爆風炉は西洋の様に高くならなかったようです。原理としては類似だそうですが、このブログではあえて高炉と爆風炉と分けて書かせて頂いています。


銑鉄の意味

世界の製鉄史をムックした知見として、

    銑鉄生産 ≒ 量産技術

こうみても良いような気がします。西洋の高炉は銑鉄を作りますが、当時の鉄需要からして銑鉄自体はあんまり欲しい鉄ではなかったはずです。ですから脱炭素の工夫をあれこれ重ねるのですが、直接製鋼に決して後戻りしなかったのは鉄が量産できるメリットは何物にも代えがたいほど大きかったと判断して良さそうです。

一方の日本ですが、中国から銑鉄を作る技術が非常に早い時期に伝わっていますが、江戸期に入る頃には直接製鋼法にある意味逆戻りしています。これがどういう事かの意味を考えると、日本の銑鉄製造技術は必ずしも量産を意味しなかったんじゃないだろうかです。つまりズク押しで銑鉄を作ろうが、ケラ押しで錬鉄や鋼鉄を作ろうが、作る手間も生産量も大差なかったぐらいの見方です。鉄需要としては錬鉄や鋼鉄(ある時期から鋼鉄の需要が高まったの記録がありました)が大きいので、わざわざ銑鉄を作って大鍛冶場で鋼鉄や錬鉄に精錬するより、直接作った方が手間が減って経済的みたいな経緯です。

そうなると日本には中国の爆風炉、西洋の高炉みたいなものなしで銑鉄を作れる特異な技術があった・・・ここが調べても見つからないというか、わからなかった点なのですが、技術的には爆風炉の原理を基にたたら製鉄のズク押しが開発されたと考えるのが妥当なんですが、日本で定着した銑鉄製造法は量産には向かなかったぐらいしか想像しようがありません。技術の発展にはしばしばそういう事があり、ある時点で発展性の無い技術として西洋や中国の様な量産技術に発展しなかったぐらいでしょうか。

日本のたたら製鉄の特異性はあれこれと書かれていましたが、早期に銑鉄製造法を得ながら、これを量産技術に出来なかった(つうか中国の出来上がった技術を導入できなかった)のが一番特異な気がした次第です。

JSJJSJ 2017/05/11 22:51 >早期に銑鉄製造法を得ながら、これを量産技術に出来なかった
おそらく爆風炉にはそれなりの設備投資が必要で、それに見合う需要がなかったのだろうと想像します。
(資本がないから需要を喚起できなかった、という見方もできますが)
ヨーロッパは、産業革命期に入り鉄の需要はうなぎ登りだっただろうと想像がつきますが、
古代中国は鉄を大量生産して何に使っていたのでしょうねぇ?まさか鉄獅子みたいなのばっかり作っていたとは思い難いです。
何らかの鉄の構造物を作っていたのだろう、とは想像しますが。

ああ、でも、日本では大きな構造物というとむしろ銅製ですね、奈良の大仏とか。
そういう意味では日本は一点豪華主義というか贅沢だったのかも。

なんか収拾のつかないコメントになってしまいましたが、今回の鉄の話、面白かったです。
やっぱり知ってるつもりで知らなかったことがたくさんありました。

YosyanYosyan 2017/05/12 07:55 JSJ様

 >それに見合う需要がなかった

御意です。だいぶ前に律令制の軍団で徴収された兵士が大刀の持参を義務付けられていた話を思い出しました。あくまでも延喜式からの試算ですが、20万人ぐらいの規模ですから20万本の大刀が必要だったわけです。どうやって調達していたのか、そもそも本当に調達していたのか疑問だったのですが、ヒョットしたら鋳鉄製の大刀だったかもしれません。それぐらいの製鉄規模が古代日本にあったのかもしれません。

軍団は桓武天皇の時に極端に縮小されますが、この時に鉄需要がガクンと下がったぐらいは想像されます。まだまだ民需の規模が小さい時代ですから、縮小された規模に応じた量産技術に変わったぐらいはあっても良さそうな気がします。つまり元来は大量生産技術であったはずの銑鉄製造が、マーケットの縮小により少量生産技術に変質してしまったぐらいです。これも想像に過ぎませんが、中国伝来の進んだ焼きなまし技術も失われた可能性もあります。もっともそんな経緯を証拠立てる遺跡の発掘があるわけではありませんので御注意を。

もうちょっと別の側面でいうと、日本では鉄鉱石を豊富に含む鉄山が存在しません。だから鉄鉱石ではなく、比較的豊富にあった砂鉄からの製鉄にシフトしたぐらいを想像していますが、鉄鉱石に較べると砂鉄からの製鉄は量産と言う点で不利な材料があった可能性も考えています。しかし残念ながら、その辺を説明してくれる資料を探し出せませんでした。

YosyanYosyan 2017/05/12 08:33 もうひとつ資本規模の話ですが、欧州では産業革命期に入り商資本の蓄積があり、鉄の需要を喚起した結果、高炉による大量生産を行っても作れば作るほど儲かり、さらに大きな産業に育っていったはあると思います。中国でも類似の現象が漢代には起こりかけたようですが、中国ではこれをすべて官営化することにより、大規模な投資が継続されたぐらいに見えます。

日本では産業基盤も、商資本の蓄積もないところに中国の大量生産技術を持ち込まれたので、律令期の初期ぐらいは準官営ぐらいで成立しても、以後の平安政府はそういう官営事業からは撤退してしまったので、製鉄事業は地元需要が中心の地場産業化してしまった側面はある気がします。遠距離輸送のための手段も時代が下る方がプアになってましたし。そこに技術だけは銑鉄製造・鋳造技術だけはある程度残ったので、たたら製鉄も銑鉄製造になったものの、量産技術を少量生産技術に縮小させてしまったぐらいはある気がします。

JSJJSJ 2017/05/12 12:28 >それぐらいの製鉄規模が古代日本にあったのかもしれません。
それはないんじゃないでしょうか。
軍団といっても各国に分散していたわけですから、その装備も各国で生産する方が理にかなっています。
原料も製品も重いですから。
平安時代に鉄年貢はありますが、瀬戸内海水運が利用できる地域に限られるようです。http://www.ranhaku.com/web04/c5/1_04tokusan_map.html
何十万という兵を動員して実戦に投入していた中国とは、そこは違うと思います。

日本の鉄製品というと、灯炉供御人の名にもなった灯炉、それから鍋・釜・鎌・鋤・鍬・刀・矢尻・鎧の札・兜・・・
大きなものは思いつかないんですよね。鐘が大きい部類に入るくらいですか(それも現存する鉄鐘は小振りな物のようです)。
で鋳物師というと廻船とか、鎌を背負って行商するとか、行った先でかけつぎしているイメージ。
少量生産で全然困らない印象。

軍とか都とか巨大な需要があればひとつひとつの製品は小さくても大量生産のメリットもあるかと思う一方、
銑鉄をどうしても一ヶ所で大量生産しなければならない場面というのは、やはり鉄獅子のような巨大な製品を作る時だと思うのです。
で、鉄像というのは日本人の美意識には合わないだろうな、と思います。
銅製品は錆びても美しいですが、鉄は錆びるときたないですから。

日本は鉄原料が砂鉄だから大量生産に向かなかったのでは、という仮説は面白いと思います。

YosyanYosyan 2017/05/12 13:16 JSJ様

なんとなく思っているだけですが、鉄の大量生産には社会的インフラみたいなものがある程度必要な気がします。西洋がわかりやすくて、段々に鉄需要が大きくなり、これに応えるために製鉄技術が進歩して高炉による銑鉄の量産にたどり着いたみたいな経緯です。ここで中国が非常に早期に銑鉄製造になったのが世界的にも特異な現象と結論しても良いと考えています。日本は当然ですが中国の銑鉄技術が入ってくるのですが、そんな先進技術を受け入れるには早すぎたぐらいです。

製鉄技術だけは銑鉄が作れましたが、製鉄規模は需要に応じたものに矮小化した感じです。さらに需要に対して供給が過剰になる事は起こらず、起こらなかったから鉄器でなくても良いものは鉄器以外の材料で補ったぐらいです。供給が過剰状態になって初めて、鉄器がたとえば陶器製のものと置き換わる現象が促進される気がします。鉄瓶より陶器製の瓶が廉ければ、あえて鉄製のものを使わず、使わないから需要も増えなかったぐらいでしょうか。これは結果論で語っているだけですが、最後のところはよくわかりません。

YosyanYosyan 2017/05/12 17:45  >日本は鉄原料が砂鉄だから大量生産に向かなかったのでは、という仮説

基本のwikipediaを見落としていました。

 >ただし、不純物のチタンのため高炉による製鉄には不向きである。かつて製鉄所などで、原料の国産化を図るため高炉で製鉄する実験が行われたが、出銑口に詰まりが多発し、近代製鉄原料には不向きなことが知られている。

砂鉄だから量産しにくいのも一因だったようです。

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2017-05-10 古代製鉄のムック3・中国の製鉄編

今日もまたまた基礎知識編です。先にお断りしておきますが、金属器の考古学的研究は詳しく行われていますが、一方でいくつか説もあるようでどれが定説なのか途中で私も混乱しています。今回のムックの目的は日本に先行していた鉄の歴史の概略を知りたいだけなので、私の判断で適当に説を拾っていますから御了解ください。


青銅器

青銅器の歴史は紀元前3500年前に遡るとよく書かれていますが、青銅器の前に銅器の時代があったとも書かれています。青銅器とは銅に錫を混ぜた合金なのですが、青銅器が誕生する前に銅器の時代があるのは順当ってところでしょうか。この銅器の時代から青銅器の時代への移行ですが、はっきりとは書かれていないのですが、どうも銅の採取法の変化によるものではないかと私は考えています。銅は自然銅としても存在します。原初の人類の銅利用は自然銅を拾ってきて叩いて銅器にしていたと考えるのが無理がないからです。

この自然銅を採り尽くすと銅鉱石の利用に進むのですが、自然銅とは違い精錬が必要になります。これも初めて知ったのですが、銅鉱石には錫が含まれることが多いそうで、銅鉱石を精錬したら銅より固い青銅が入手できたのが始まりの気がしています。この銅器と青銅器の違いが錫の含有によるものと気づくまでどれほどかかったかはさすがに置かせて頂きます。

中国の青銅器は他地域より遅れて紀元前20世紀頃とされています。中国に青銅器に先行する銅器の時代があったかは「議論がある」となってましたが、なんとなく先行していた西洋(含むオリエント)の青銅の精錬技術が伝わった気がします。この辺も定かではない点が多々あるようですが、中国の青銅器技術は短期間で長足の進歩を遂げることになります。西洋が鍛造で青銅器を作っていた時代に「あっ」と言う間に鋳造に移行しています。この鋳造技術も物凄いもので、1mm程度の線まで明瞭に浮き立たせ、容器の厚みも5mm以下で現在技術でも再現が容易でないものとなっています。国立故宮博物院より商時代の青銅器を紹介しておきます。


鉄器

中国の製鉄もヒッタイトの崩壊に連動していると見て良さそうな気がします。ヒッタイト崩壊は紀元前1190年頃となっていますが、その後に地中海沿岸に製鉄技術は広く伝播したようです。その技術がいわゆるシルクロードを越えて中国にもたらされたぐらいでしょうか。中国で確認されている最古の鉄器は紀元前10世紀ぐらいとされていますから、ヒッタイト崩壊からの時間差を考えると「そんなもん」ぐらいと言ったところです。

中国も春秋時代(紀元前770年〜紀元前404年)には低温で錬鉄を直接作る塊鉄炉による製鉄が行われていたとされますが、春秋時代末期には銑鉄の生産が行われています。銑鉄の生産は西洋では15世紀の高炉の出現まで待つ必要がありますが、中国では紀元前5世紀に高炉と類似の原理の爆風炉が成立していたと考えれています。つうか高温の製鉄炉がないと銑鉄が出来ないのはこれまでムックした知見です。これは17世紀の百科全書である天工開物に描かれている爆風炉の様子ですが、

この絵では手押しのふいごになっていますが、手押しでは十分な送風を行えないの意見もあり、中国における製鉄遺跡研究の現状と課題にある古栄鎮製鉄遺跡の復元図にあるように、

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水車を使って空気を送り込んでいたと考えられています。ほんでもってですが銑鉄は炭素量が多いので固い代わりに脆い欠点がありますが、銑鉄が出来た頃に早くも可鍛鋳鉄の技術も確立していたとなっています(もう少し遅めの説もあり)。可鍛鋳鉄とはキャスタロイ物語より、

可鍛鋳鉄では炭素や珪素成分を低く調整し、鋳造時点では黒鉛は生成させず、鉄と炭素の化合物であるセメンタイト組織とします。その後、熱処理することでセメンタイトから鉄と炭素を分離し、黒鉛を生成させます。

なんのことやらですが、たぶん鋳鉄に展性(しなやかさ)を持たせ脆さを補う手法ぐらいの良いかと思います。ちなみに日本に可鍛鋳鉄が伝わったのは明治末期となっています。紀元前4世紀までにこういう焼き鈍し技術が広がったため、農具や工具に広く使用されています。さらにですが前漢時代(紀元前202年〜西暦8年)には炒鋼法と呼ばれる脱炭素技術も確立したとなっています。これは銑鉄を溶解して空気と攪拌する手法だそうですが、銑鉄から鋼鉄・錬鉄が出来るようになったぐらいです。。

9世紀になると鉄は量産されるようになったため巨大な鉄建造物も作られています。西暦953年に作られた河北省滄州の鉄獅子は高さ5.14m、長さ5.3m、幅3.30m、重さ40tもあるそうです。見もの・読みもの日記様より、

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9世紀って日本じゃ平安時代初期ですからねぇ。


中国製鉄の特徴

西洋の鉄の歴史は、

  1. 直接製鋼法で得られた錬鉄を鋼鉄にしようとした時代
  2. 鉄の量産を可能にした高炉による銑鉄から炭素を抜き出そうとした時代

この2つがあると考えています。もうちょっと単純化すれば鋼鉄をいかに効率的に手に入れるかの方向性で発達したぐらいです。これに対し中国では

  1. かなり早い時期に間接製鋼法を編み出し銑鉄を得た
  2. 銑鉄の特性を活かして鋳造技術が進化した

ここも単純化すれば鋼鉄に強い興味を示さず、鉄を鋳造するのに熱意を傾け、鋳鉄の弱点を解消する方向で発達していたぐらいでしょうか。

JSJJSJ 2017/05/10 13:50 中世ヨーロッパのアイアンワークのことを思い出しました。
「金属というよりは植物を思わせるような質感」というような評言をどこかで読んだ記憶があります。
これって錬鉄なればこそですよねぇ。

対して、(953年ということは後周でしょうか)鉄獅子は青銅彝器の伝統を感じます。
そしてそれは、鋳造技術があればこそなんだなぁ。

ありきたりな感想ですが、技術と芸術の関係みたいなことに思いを馳せました。

BugsyBugsy 2017/05/10 15:45 古代中国ではざっと南北で成分が違うそうです。ですから中原とは異なる王朝があったとされる根拠とされたそうです。後代になって同じになったようです。遊牧民族は人口が少なく移動するから隣接した民族に文化が伝わりにくく時間がかかるそうですが 人口稠密な地域だと伝播しやすく発達しやすいでしょうね。
オリハルコンが残ってなかったのは 周辺から孤立した文明だったのでしょう。

JSJJSJ 2017/05/10 16:54 春頃に読んだ、「スキタイと匈奴 遊牧の文明(林俊雄)」に、
ロシアのトゥヴァ共和国のアルジャン古墳は紀元前8〜9世紀の初期スキタイの遺跡として紹介されていますが、
(ちなみにスキタイが黒海北岸に現れるのは紀元前7世紀)
出土した金属製品は青銅製品だけだったようです(金銀製品は盗掘されたのだろうとのこと)
つまり紀元前8〜9世紀に中央アジアの北にいたスキタイはいまだ青銅器時代だったようなのです。
とすると、紀元前10世紀に製鉄が草原の道を通って西から東に伝わったわけではなさそうです。
南の砂漠の道は、その時代では人の往来は更に期待し難いのではないでしょうか。

というわけで、中国における製鉄が紀元前10世紀に始まったのなら、それは独自の発明だったのではないかと私は思います。

YosyanYosyan 2017/05/10 19:28 JSJ様

鋭い御指摘ですが、これは私の手抜かり部分です。ヒッタイトの製鉄技術はヒッタイト崩壊後に地中海沿岸に広がったとなっています。そこからなんですが、インド方面に広がり、さらに東南アジアから中国南部から伝わったとするのが通説のようです。つまりは海のシルクロードみたいなものです。もちろん独自発達説を主張する学者もおられるようですが、定説としては南方からの技術伝播となっています。

YosyanYosyan 2017/05/10 20:48 Bugsy様

アトランティスもオリハルコンもロマンが尽きないところですが、仮に実在したとすれば青銅の可能性はありそうに思っています。青銅の出現は銅鉱石を溶解した時に混入した錫によるものと推測していますが、もしそうであれば銅鉱石も産地によって違う青銅が出来た事になります。

おおよそで言うと錫が多いほど白く固くなるらしいですが、当時の人間からすれば銅とは違う金属として扱った可能性があります。あくまでも想像に過ぎませんけどね。

JSJJSJ 2017/05/10 21:36 >定説としては南方からの技術伝播となっています。
まったく想像もしていませんでした。
製鉄が南方から伝播してきたのなら、何故中原が覇者となることができたのでしょう?
できればいずれかの機会に、南方伝播説の論拠を紹介してください。

ただ、よく考えてみると私は鉄器=優秀な武器という思い込みが強すぎたのかもしれません。
実はヒッタイトの歴史をみると、周辺の大国に対して圧倒的な軍事力を誇ったという印象は薄いのですね。

もしかすると(少なくとも初期の)鉄器のアドバンテージは原料の入手のしやすさだけで、製品の鉄器が青銅器に比べて特段優れていたわけではないのかもしれませんね。
青銅器から鉄器に移行した理由としては、鉄器の品質が向上したか、あるいは青銅器に比べて(原料を入手しやすい分)大量に生産することができたから、というのを考えてみました。

YosyanYosyan 2017/05/11 08:14 JSJ様

南方伝播説の論拠と言われても困る部分があるのですが、既に「そうである」が定説として扱われている感じです。これも言われてみればインドにはウーツ鋼(ダマスカス鋼として有名)があり、これは紀元前6世紀頃(紀元前3世紀説もあり)から産出されていたとなっています。

古代中国史についても注意が必要で、春秋時代までは基本的に中原が中国のすべてであったぐらいに考えた方が良いとも見ています。南部に統一勢力が登場するのは春秋時代の楚までなかったか、記録されなかったぐらいの見方です。南部の方が鉄器の伝来が早かった事にはなりますが、国としてまとまるのが遅れたのかもしれません。でもって中国南部の勢力は積極的に北部を併呑する動きに乏しいところがあります。典型は項羽で、秦は滅ぼしましたが北部に留まるより南部に帰りたがった感じがしています。それでも覇者と言うなら楚の荘王は覇者となっています。中原勢力が秦漢で中国の南北統一を果たせたのは、鉄の大量生産技術で南部を圧倒したかもしれません。

 >鉄器=優秀な武器という思い込みが強すぎたのかもしれません

これは御意で、古代の製鉄法では鋼鉄になるのは鉄鉱石の産地に左右され、普通に作れば錬鉄になるだけでなく硫黄やリンなどの不純物が多いものになります。青銅に較べて必ずしも絶対優位とは言えない気がします。そのために青銅を凌ぐ鋼鉄が求められ、古代ローマでは鋼鉄が出来る鉄鉱石産地の確保に努めています。ガリヤでも鉄剣はありますが、鎌鉄製が多かったそうで、そのために戦闘中によく曲がったなんて話も残されています。中国の鋳鉄もそうで、固いのですが脆く、銑鉄が春秋時代に広まっているのに武器として使われ始めたのは戦国期になってからの調査もあるようです。

 >(少なくとも初期の)鉄器のアドバンテージは原料の入手のしやすさだけ

これも御意です。青銅は原初の錬鉄より優れていましたが、銅は鉄と較べるとはるかに少なく、概算で鉄に対して0.002%ぐらいしかありません。産地も偏在していますから、青銅器を広く普及させるのは難しいと思います。武器としても大軍にフル装備となると大変だったと考えられます。ですから青銅器の時代であっても、すべての兵士が必ずしも青銅製の武器で武装していなかった可能性もあると思います。青銅製でなければ石製になるのですが、石製よりも鉄製の方が有利だとは思います。

人類は青銅で初めて量産の金属器を手に入れたかもしれませんが、青銅器時代にこれを手にできたものは限定され、鉄を手に入れることによって初めて誰でも金属製品を入手できるようになったぐらいは言えそうな気がしています。

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2017-05-06 古代製鉄のムック2・欧州の鋼鉄史編

今日も基礎知識編です。基礎知識と言うより私の誤った先入観の訂正と理解のために書いています。


鋼鉄の生産法

製鉄法自体は紀元前15世紀のヒッタイト時代には遅くとも出来ているのですが、古代の製鉄法では鉄鉱石の産地によって出来上がった鉄が鋼鉄になるか、錬鉄になるかが決まっていたようです。そのため欧州ではかつて鋼鉄と錬鉄は別の鉄だとまで認識されています。鋼鉄は刃物やバネなどに有用な金属であり、そのために鋼を作れる鉄鉱石は珍重されたぐらいです。錬鉄にならずに鋼鉄になる鉄鉱石の条件は、どうも低リン・低硫黄だけでなくマンガンが大量に含まれていたためとされます。

鋼鉄が出来る鉄鉱石が限られていたため、錬鉄を鋼鉄に変える方法も考案されています。これも長い間「秘伝」だったようですが18世紀のフランスで科学的に解明され滲炭法として確立され普及します。しかし滲炭法で錬鉄を鋼鉄に変えるのは当時としては大変な手間がかかり、鋼鉄は貴重品として扱われていたようです。

古代の製鉄法は低温での製鉄であったので、直接錬鉄や鋼鉄が得られましたが、この方式では生産量が少なく、さらに出来上がった鉄を取り出すのに炉を壊す必要がありました。そこに登場したのが高炉方式です。14〜15世紀に登場したとなっていますが、高炉の基本原理は、

  1. 炉内を1500℃以上にする
  2. 上から鉄鉱石を投入する
  3. 下に落ちる間に酸化還元反応が起こり、銑鉄と鉄滓になる
  4. 溶けた銑鉄と鉄滓が下から流れ出す

鉄より鉄滓の方が軽いので分離は容易だそうです。この方式なら鉄を取り出すのに炉を壊す必要がなく連続製鉄が可能になります。現在の製鉄もこの方式が基本の理解で宜しいかと思います。高炉方式の生産効率は桁外れで、古代製鉄法がキログラム・オーダーであったのがトン・レベルに増えることになります。

ただ高炉方式で得られる鉄は銑鉄です。高炉は炉内の温度が現在では2000℃以上、当初でも1500℃以上になっていたそうですが、これは鉄の融点を越える一方で炭素を取り込みやすくなるそうです。古代製鉄では炭素の少ない錬鉄に炭素を加える方法が求められましたが、高炉方式で銑鉄の大量入手が可能になると、今度は銑鉄から炭素を抜いて鋼鉄や錬鉄を作る方法が求められることになります。そういう脱炭素の手法の一つとして誕生したのが反射炉の理解で良いようです。

韮山の反射炉

反射炉の基本原理は石炭と銑鉄を直接接触させずに熱する点の理解で良いようです。石炭の燃焼室と溶解室は分離されており、燃焼室からの焔が溶解室を熱する手法ぐらいでしょうか。反射炉と言えばパドル法が出てくるのですが製鉄の歴史より、

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銑鉄(融点は1200℃)を熱して炭素が減っていくと融点が高くなり粘りが出てきて均一の脱炭素が出来なくなるので、小窓から棒(paddle)を突っ込んで攪拌し、最終的には球状の鉄に仕上げる方法のようです。反射炉では銑鉄を溶かす1200℃は得られましたが、錬鉄の1400℃までは得られなかったのでこういう手法が必要であったとなっています。後は取り出した鉄を高温下で圧伸・圧延して滓を除けば銑鉄が錬鉄になります。ただこの方法では10数時間を必要とするため大量生産に向かなかったのと「どうも」普通にやると錬鉄になってしまうので、鋼鉄の大量生産のためには19世紀のベッセマーの転炉の誕生を待つ必要があったようです。


ベッセマー転炉

ヘンリー・ベッセマーは銑鉄に直接空気を起こりこめば炭素や珪素を除去できることを発見します。これも製鉄の歴史より

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具体的な手法としては、高炉から取りだれた銑鉄は取り鍋に注がれ転炉に運ばれます。転炉を傾けて取り鍋から銑鉄を注入し、空気を送り込みます。そうすると最初は珪素が静かに燃え始め、続いて炭素が爆発して燃えます。この燃焼熱は1500℃を越え、わずか20分程度で炭素を1%程度に減らす事ができます。後は再び転炉を傾けて取り鍋に注ぎ、取り鍋から鋳塊台に注げば鋼鉄が出来上がります。ベッセマー転炉が革新的なのは空気を送り込むだけで、新たな熱源が不要なのと、炭素の除去時間が非常に短いことです。ベッセマー転炉は改良は行われていますが、現在でもベッセマーが考案したスタイルで使われています。

ベッセマー転炉は鋼鉄の生産量を飛躍的に増やしましたが、欠点もありました。反射炉では低温であるため燃えてしまうリンや硫黄分が、高温であるが故に鋼鉄に取り込まれてしまう点です。そのために良質の鋼鉄を得るには低硫黄の鉄鉱石が必要で、それは北欧やロシア、アメリカから輸入する必要がありました。脱リンはトーマス転炉で成功しましたが、脱硫黄は「どうも」平炉の発明まで待つ必要があったようです。平炉は脱リン・脱硫黄も容易であり、1950年代には鋼鉄生産の9割を占めるほどになっています。

ベッセマー転炉の欠点は他にもあり、鋼鉄中に窒素も多く取り込まれてしまう点もあったようです。これについては戦後になり純酸素が容易に入手できるようになった事で解決したようです。空気の代わりに純酸素を送り込むことで低窒素鋼の生産が容易になり、硫黄もリンも少なくなり平炉より鋼鉄の品質が良くなったそうです。改良されたベッセマー転炉は平炉を圧倒し、現在の鋼鉄の殆どはベッセマー転炉が作っているとして良さそうです。


雑感

古代製鉄法は量産に難はありましたが、低温での製鉄のため不純物の少ない錬鉄、良質の鉄鉱石が得られれば鋼鉄を作る事も可能でした。大量生産のために高炉が発明されたのは画期的でしたが、その代わりに得られるのは銑鉄になっただけでなく、硅酸やリン、硫黄の不純物が多く含まれることになり、これの除去技術が求められます。

欧州の鉄の歴史を調べていて、なかなか理解できなかったのは銑鉄・鋼鉄・錬鉄のうち最後に出来たのが銑鉄であった点です。先にたたら製鉄をある程度調べていたのですが、たたら製鉄はまずズク押し法と呼ばれる銑鉄を作る手法が先行しています。そこから大鍛冶場で再び加熱し鋼鉄や錬鉄に作り替える作業工程です。欧州と違い、直接錬鉄や鋼鉄を作るケラ押し法が普及したのは天文年間以降で大規模に作られ始めたのは19世紀になってからとなっています。

たたら製鉄の歴史を読んでいて先入観として、まず製鉄は炭素の多い銑鉄が作られ、そこから技術改良で鋼鉄、錬鉄と進んだと思っていたので、欧州の鉄の歴史を調べていると「あれれ」となったってところです。古代の製鉄法の原理自体はたたら製鉄でも、欧州古代のレン炉も中世のシュトゥック炉も大差はないぐらいに思っていますが、たたら製鉄ではわざわざ銑鉄を作っていたのだろうの疑問です。

ほいでもって、ここから先は準備中です。

JSJJSJ 2017/05/06 21:28 >古代の製鉄法では鉄鉱石の産地によって出来上がった鉄が鋼鉄になるか、錬鉄になるかが決まっていたようです。

上記が今一つ分からないのですが、以下のような理解でよいでしょうか?
Yosyanさんの解説を私なりに理解しようとして推理した結果なのですが。

古代の製鉄は低温での還元=融点に達することなく、直接固体の鉄を生産→炭素含有量の少ない錬鉄が生成。
原料の鉄鉱石によっては不純物によって鋼鉄ができる。この鋼鉄は性質として鋼鉄と呼ばれたのであって炭素の含有量とは無関係。
というか、炭素含有量によって錬鉄・鋼鉄・銑鉄が区別されるようになったのは後の話であって、
13〜14世紀以前にあっては柔らかい鉄を錬鉄、硬い鉄を鋼鉄と呼び、高炉法によって鋼鉄より更に固い鉄ができたので銑鉄と名付けた。
その後、錬鉄・鋼鉄・銑鉄の違いが炭素含有量の違いであることが分かった。

YosyanYosyan 2017/05/06 21:59 JSJ様

私も冶金学を泥縄式に辿っているに過ぎないのですが、低温で製鉄すると炭素は燃えやすく炭素量の少ない錬鉄が出来るようです。硫黄とリンについては、欧州の鉄鉱石の多くはこれを含むものが多く、鉄にこれが多いほど鉄の品質は落ちるそうです。

ここで特定の鉄鉱石では硫黄もリンも殆ど含まず、さらに硫黄やリンの含有を押さえ、炭素を残しやすくするマンガン含有の多い産地があるそうです。そういう鉄鉱石から製鉄すると不純物である硫黄やリンの含有量が少なく、炭素が適当に残る良質の鋼鉄が得られたなっています。

欧州の一般的な鉄鉱石から製鉄すると炭素が少ない錬鉄になってしまうだけでなく、硫黄やリンなどの不純物を多く含む鉄になり、鋼鉄とは別物の鉄と当時の人間は考えたぐらいでしょうか。これは錬鉄から鋼鉄を作る浸炭方が開発されても、質の悪い錬鉄では、良質の鉄鉱石から作った鋼鉄(自然鋼とも呼ぶそうです)には及ばなかったとの話が残っています。

JSjJSj 2017/05/07 21:23 追加の説明ありがとうございました。
今度こそちゃんと理解できたと思います。

BugsyBugsy 2017/05/09 16:56 鉄の成分分析だけで産地が特定出来るということでしょうか。

川崎市の公園ではお示しあった製鉄の炉が記念として展示してあります。ジブリの映画みたいで面白かったです。

YosyanYosyan 2017/05/09 18:30 Bugsy様

 >鉄の成分分析だけで産地が特定出来る

いわゆる不純物の含有成分を分析するとある程度は出来るそうです。時代時代の製鉄法で残りやすくなる不純物があり、鉄鉱石も産地によって他の成分の含有にクセがありますから、その辺からの推測ぐらいじゃないかと考えています。

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