新小児科医のつぶやき

2016-05-23 和宮像を巡るムック

増上寺と日本女子会館

和宮親子内親王は幕末期の公武合体政策の犠牲になった悲劇の姫とされています。今日は和宮についてはこの程度に留め置かせて頂きますが、和宮像として有名なのは芝の増上寺にあるものです。有名と言っても増上寺自体に行ったことがありませんので気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録様から画像を引用します。

気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録様には、

安国殿に入り、正面左手に安置されています。銅像があることはだれでも気がつくとは思いますが、あまりPRされていないので、和宮の像だと気がつかない人も多いかもしれません。この和宮像は、鋳造師の慶寺丹長師により昭和3年に製作されたものです。

実は増上寺の和宮像の由来を知りたかったのですが、これまた殆ど不明で、ここに辛うじて「昭和3年」の記録と作者が「慶寺丹長」であることが確認できます。気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録様は続けて、

増上寺の説明では、和宮像は、日本に三体あるそうです。その一体が増上寺にあるわけです。

他の像は、一つは日本女子会館にあります。日本女子会館にあるものが下の写真です。日本女子会館は増上寺の近くにありますが、そこに和宮像があることはほとんど知られていません。これは、財団法人に本女性学習財団のT課長さんのご配慮で拝観させていただいた際に撮った写真です。さら、もう一つの和宮像は兵庫の高等学校にあるそうです。

日本女子会館の和宮像の写真も引用させて頂きます。

増上寺の和宮像の由来も曖昧ですが日本女子会館の和宮像となると、そこにあるのは判っているぐらいしか情報がありません。ではこの2つがまったく同じ像かといえば六人の和宮の謎を追って様が判りやすい比較画像を作られていますので引用します。

増上寺 日本女子会館

印象として同じモデル(つうか年代的に写真か絵から)作られた感じはあるのですが、出来上がりは微妙に違います。少なくとも同じ鋳型から製作されたものではない気がします。


須磨

増上寺の和宮像は普段は公開されておらず、日本女子会館に至っては公開さえしていないようなので実物を確認しようがないのですが、気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録様の

    もう一つの和宮像は兵庫の高等学校にあるそうです

これは正確に言うと、かつては高校(というより高等女学校)にあったになります。現在は安徳宮の傍らに平成13年に安置されたとなっており、ハイキングの途中にたまたま撮影しましたので見てもらいます。

20160522124218

須磨の和宮像の由来も波乱に富んでおり新選組&幕末 ばんざい!!が引用された「ひょうご幕末維新列伝」を引用させて頂くと、

一ノ谷中腹の土地を戦後購入した塩田富造氏が、一体の身元不明の銅像が放置されているのを見つけました。
銅像は高さ1.2m程で、十二単を着た女性でした。
その後、塩田氏は一ノ谷合戦を記念する碑を二基建立し、その横に銅像を並べて安置しました。
銅像はハイキングコースから少し脇道にそれた場所に、ひっそりと立っていました。

和宮の銅像(慶寺丹長 作)でした。

戦後に山中に放置されていたものを塩田富造氏が見つけたとなっています。この須磨の和宮像ですが「ひょうご幕末維新列伝」には

昭和9年、神戸米穀取引所理事長などを務めた中村直吉氏は、娘が通う神戸市立第二高等女学校(現:市立須磨高校)に寄贈しました。
中村は同時に県一(現:県立神戸高校)・県二(現:県立夢野台高校)の二女学校に、同11年には、東京の増上寺と日本女子会館に和宮像を寄贈しています。

中村直吉氏が神戸の3つの女学校に和宮像を寄贈した話は灘区制80周年記念事業協賛講座「灘区の学校の歴史」講演要旨にも、

昭和8年11月地鎮祭、9年4月除幕式。神戸市内の3高女に中村直吉が寄贈した。

こうなっていますし夢野台高校(旧県立第二高等女学校)のwikipediaにも、

1934年(昭和9年)4月21日、県二内に静寛院和宮像(皇女和宮像)が建立され、教職員と生徒は登下校時にその前で必ず最敬礼を行っていた。当像は青銅製で三代目慶寺丹長の作であり、その前年の1933年(昭和8年)11月20日に増上寺和宮奉賛会理事・桑原瑞龍による講演も開催された。同じ和宮像が当校のほかに、県一と神戸市立第二高等女学校(現・須磨高校、略称:市二)にも寄贈されており、当校と市二の像は東京・増上寺にある皇室下賜銅像と同一塑型を使用して特別に作られたものであった(但し、菊の紋章だけは葵のに変更)。そのため、当校と市二では非常に和宮像への崇拝が強かったと言われている。

太平洋戦争末期の物資窮迫が強まった時代、金属の提出で小学校の二宮金次郎銅像がすべて陶製になる中、当校と市二の静寛院和宮像はこの時代による提供を免れられた数少ない像であった。しかし終戦後、GHQによる占領政策でこの像が没収されるのを恐れた有志が当校の静寛院和宮像を隠し、占領政策が終了するサンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)4月までその状態は続いた。

占領時代が終わり、源平合戦湊川の戦いに関わりのある須磨区「一ノ谷」の土地所有者が楠公精神に共感し、1954年(昭和29年)4月11日、「一ノ谷」に「寄手墳・味方墳」をハイキングコース脇道に建立。この時に静寛院和宮像は占領時代に隠匿していた有志の手によって、その寄手墳・味方墳の間に設置された(そこに置かれた経緯については不明)。その後、2000年12月に一ノ谷2丁目自治会によって須磨区一ノ谷町2丁目の一の谷公園内に場所を移して公開安置されている。

ちょっとずつ話がつながっていきますが、須磨の和宮像は中村直吉氏が寄贈した三体のうちの一つで、戦時中の金属供出は免れたものの、GHQ政策に抵触することを怖れて有志により隠されたようです。ほいでもってサンフランシスコ講和条約後の昭和29年に塩田富造氏が寄手墳・味方墳を作った時に傍らに設置された経緯のようです。


中村直吉氏

神戸の女学校に和宮像を寄贈した中村直吉氏ですが、NHKテレビ夕どきネットワーク「二宮金次郎像が全国に置かれるようになった背景」

中村直吉氏は、明治13年(1880)8月15日神戸市兵庫区に生れた。社会事業に非常な関心をもち、社会事業と名のつくところには必ず顔を出して、これを援助した。非常に深く二宮尊徳先生を尊崇し、その小銅像をつくって、神戸、明石の全小学校に寄贈した。また思想教化団体として、労働階級者をメンバーとする「養生会」を組織して指導に当り、また、兵庫実践少年団を組織し、毎日曜日には自らリーダーとなって山野を跋渉(ばっしょう)したり、社会見学を実践した。

こうした重なる徳行と、多年社会事業に尽した功労を表彰され、畏きあたりから御紋章入りの「硯箱」を下賜されている。

昭和14年(1939)1月14日逝去。

中村直吉氏が寄贈した二宮金次郎像の数は、

小田原の報徳二宮神社にある少年像は昭和3年、昭和天皇即位御大礼記念として神戸の実業家・中村直吉氏より寄進されたブロンズ像。製作者は三代目慶寺丹長。これと同じ像は、全国の小学校に向けて約一千体制作・寄贈されましたが、戦時中全て供出に遇い、現在残っているのは、この一体だけです。

作者は和宮像と同じ慶寺丹長となっています。銅像関連の中村直吉氏の記録として、

  1. 昭和3年に約1000体の二宮金次郎像を全国の小学校に寄贈した
  2. 昭和9年に3体の二宮金次郎像を神戸の3つの女学校に寄贈した

これはほぼ間違いないと見て良いようです。


5体の和宮像

和宮像は全部で5体あったと見て良さそうです。

  1. 増上寺
  2. 日本女子会館
  3. 神戸市立第二高等女学校(現須磨翔風高校)
  4. 兵庫県立第一高等女学校(現神戸高校)
  5. 兵庫県立第二高等女学校(現夢野台高校)

このうち神戸の3体は中村直吉氏が昭和9年に寄贈したものであり、須磨に残っているのは神戸の3体のうちのいずれかです。問題は増上寺と日本女子会館です。上記しましたように増上寺と日本女子会館の和宮像は同じとは言えません。さらに気になるのはwikipediaにある

    当校と市二の像は東京・増上寺にある皇室下賜銅像と同一塑型を使用して特別に作られたものであった(但し、菊の紋章だけは葵のに変更)。そのため、当校と市二では非常に和宮像への崇拝が強かったと言われている。

当校とは県立第二高等女学校(県二)なのですが、この記述を信じれば神戸の3体の和宮像は、

  1. 市二と県二は増上寺と同じもの
  2. 県一は別系統

こうなります。ここで確証はないのですが、5体とも作者は三代目慶寺丹長の可能性があります。でもってなんですが、須磨の和宮像は私の感想として日本女子会館に近いように見えます。写真の見え方によるのですが、

  1. 顔は増上寺がやや童顔なのに対し、日本女子会館はキリッとしている
  2. 手に持つ檜扇(だと思う)の角度が増上寺の方が深い
  3. 左袖の表現が増上寺と日本女子会館では違う

須磨の和宮像はいずれも日本女子会館に近い気がするからです。そうなると須磨の和宮像は県一のものになるのですが、根本的な疑問はなぜにわざわざ二系統の和宮像を中村直吉氏は作ったのだろうかになります。日本女子会館の和宮像はおそらく昭和11年に中村直吉氏から寄贈されたと考えて良さそうなので、私はこう考えます。

  1. 昭和3年に増上寺の和宮像がまず作られる
  2. 昭和9年に中村直吉氏が和宮像を神戸の3つの女学校に寄贈
  3. 昭和11年に中村直吉氏が日本女子会館に和宮像を寄贈

もう少し補足すると

  1. 「ひょうご幕末維新列伝」にある中村直吉氏による昭和3年の増上寺への和宮像寄贈は、二宮金次郎像寄贈の話と混同されたものである
  2. 中村氏は和宮像の寄贈を思いついた時に、既に皇室下賜銅像として増上寺に和宮像があるため公室の特別の許可をもらった(これが同一塑型を使ったと誤伝した)
  3. 中村氏は新たな和宮像を神戸の女学校と日本女子会館に寄贈した

結論として

  1. 5体の和宮像の作者はいずれも三代目慶寺丹長
  2. 増上寺タイプが1体と日本女子会館タイプが4体つくられた
  3. 須磨に現存するものは和宮崇拝が強かったとされる県二(現夢野台高校)か市二(現須磨翔風高校)のいずれかの可能性が強い

大切に保管されている増上寺や日本女子会館の和宮像に較べると、数奇な運命をたどった須磨の和宮像ですが、これからは安置となってほしいところです。

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2016-05-20 医療閑話・鶏肉と食中毒

5/19付yomiDr「イベントで起こった食中毒…鶏肉とカンピロバクター」より、

 まず最初に、今回の事例に関するニュースをご紹介しましょう。日本中の肉料理を堪能できる大きなイベントが、ゴールデンウィークに開催されました。東京都で開催されたイベントでは49人が、福岡での同じイベントからは108人が、食中毒の症状を起こしたということが報道されました。

 これらのニュースのもとになった、行政からの報道発表資料はこちらです。発症した人に共通していた料理は「鶏肉の握りずし」で、一部の人たちの便からカンピロバクター菌が検出されています。

鶏肉の握りずしか・・・私は牛であっても生肉は好みませんから鶏肉はなおさらってところです。それは個人の嗜好の問題ですが、どれぐらい鶏肉に食中毒菌が含まれているかの調査があります。厚労省の公式定期調査でその名も

    食中毒菌汚染実態調査

もちろん鶏肉だけをしらべているのではなく食中毒菌汚染実態調査実施要項より

20160520123350

これだけ調べているのですが、

    生食用の鶏肉等(鶏刺中心部まで十分加熱されない鶏たたき、馬刺等)

生食用の鶏肉も含まれているのが確認できます。でもって検出結果(平成27年度食品の食中毒菌汚染実態調査の結果について)です。

20160520123349

ちょっと見にくいと思いますから、鶏肉の項目だけ抜き出してみます。

検体 検査結果(陽性率(%))
E.coli サルモネラ カンピロバクター
H.25 H.26 H.27 H.25 H.26 H.27 H.25 H.26 H.27
ミンチ肉(鶏) 47.4 66.7 - 48.4 54.5 62.9 62.5 0.0 20.0
鶏たたき 80.0 77.4 62.5 0.0 3.1 0.0 10.3 17.1 15.6

検体数は

20160520125442

これぐらいなので時にブレが大きくなりますが、鶏肉を「たたき」として炙った消毒効果はサルモネラでは減少が見られますが、E.coli、カンピロバクターについては殆ど見られないぐらいとして良いかと思います。消毒効果の見られるサルモネラでもゼロにはなっていません。「そんなもんゼロになるもんか?」の回答として、

検体 検査結果(陽性率(%))
E.coli サルモネラ カンピロバクター
H.25 H.26 H.27 H.25 H.26 H.27 H.25 H.26 H.27
馬刺し 14.5 17.5 17.2 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0
ローストビーフ 0.0 25.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0

ローストビーフと比べるのはともかく、馬刺しと鶏たたきでは食中毒菌の存在率が「段違い」であるのがわかります。ましてや今回は鶏の生肉です。YomiDrではイベント会場が普段とは違う点を注意事項としてあげていますが、それ以前の鶏の生食問題の気が私にはします。まあ、南九州(鹿児島だったっけ)では鶏のたたきが郷土料理として定着しているようなので、これだけのデータで全面禁止の主張はしませんが、食べられる人はそれだけのリスクがあることを肝に銘じて食べられることをお勧めします。

physicianphysician 2016/05/20 13:42 鶏のたたきのデータが怖いですね。
カンピロバクターは腸炎(食中毒)だけじゃなくて、ギラン・バレーのことを周知させるといいと思うのですけどね…。

JSJJSJ 2016/05/20 17:05 私、生肉大好きでして、昔は焼肉屋に行けば必ず牛レバ刺しを注文してましたし、馬刺しはあまり機会がありませんが目の前に出されれば必ず食べます。
そんな私でも鶏と豚は手を出す気にならないです。

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2016-05-17 明石城巽櫓の不思議

城郭マニアの方なら理由を知っておられるかもしれませんが、以前から不思議だったことです。櫓の起こりは矢倉のはずで、城砦に高い建築物を作り、高所から矢を射下すために作られたものぐらいに理解しています。もちろん見張り台の役目も兼用です。初期の櫓は丸太を組んだ上に望楼風の物見台がついている形であったはずです。これが近世城郭に発展すると土壁に囲まれた二重・三重の堂々たる建築物に変わっていきますが、求められる機能は基本的に同じぐらいに考えています。

明石城の巽櫓も元和年間に作られたものが今に残されている貴重なものですが、どうにも違和感があります。明石城は天守台まで作られましたが天守閣は作られず、代わりに本丸の四方に三重櫓を配したとなっています。それは良いのですが、巽櫓がどうにも不思議な気がしてならないというところです。とりあえず見てもらいます。

南側 東側
北側 西側

私が抱く違和感は学生時代、いや子ども時代に見た時からあって、

    どうもヘンだ!

この感覚がずっとあります。GWに確認のために訪れた時にもやはり同じ感触を抱きました。比較のために坤櫓を見てもらいます。

南東側 北東側 西側

較べるとわかってもらえると思いますが、巽櫓は本丸方向にはまったく窓が設けられていないことが確認できます。西側の窓も土塀の外側になります。窓が無いのも1階や2階なら合理主義としても良いと思いますが、3階部分にも無いのはどうにも不思議なんです。これでは巽櫓からは南側や東側は見えても、西側や北側は見えないことになります。そりゃ北側や西側は見る必要はないと言っても、もし合戦となれば本営は本丸(巽櫓の北側)にあった三階建の御殿と坤櫓あたりになると思いますが、物見情報を窓から合図したり、逆に本営からの合図を直接見ることができず、いちいち伝令を出す必要があります。近いといえば近いので、伝令を出しても間に合うと言えばそれまでですが、別に作って置いても良さそうなものです。

元和の築城ですから戦闘の実用性より美観に重きを置いたとしても、城外から城を見るときはともかく、本丸から櫓を見た時にはどうにも見栄えが悪い気がします。まるで映画のセットみたいで、撮影しないところに無駄なものは作らないって感じすら受けます。他の城の櫓まで調べる気力がないのですが、少なくとも伏見城から移築されたとされる坤櫓の3階部分は四方に窓が付いています。理由をググってみたのですが、残念ながらこれを解説しているものを見つけられませんでした。単純に元和の頃の築城思想がそうだったぐらいに理解して良いのでしょうか。

誰かご存知の方がおられれば教えて頂ければ幸いです。

BugsyBugsy 2016/05/18 18:28 自分もお城は好きですが Yosyan様ほど隅々までは見ていませんね。最初は外郭の石垣の見事さに感心し、まっすぐ入場して天守閣を愛でた後に一角にある歴史博物館を拝観してさっさと帰っています。鶴丸城 山形城 福井城がそうでした。縄張りとお濠の見事さが好きなんです。

勝手ながら 今回の明石城の巽櫓の意義は分かるような気がしました。櫓は城壁沿いに攻めてくる敵に対しては 防御側としての拠点で兵員がこもり、櫓の壁で防御され守備が可能になります。さらに天守閣のある本丸のスペースまで攻め込まれても、後ろになるそちら側の窓がなければ防御側は 攻撃側に防御は出来ない代わりに兵員は温存できます。もちろんこういった櫓では火力や弓矢のストックも可能だったでしょう。櫓は矢倉ですが この時代になると結構規模と構築はしっかりしています。

ただし他の城郭ではどうだったか 存じ上げす申し訳ありません。

以前から感心していることですが こういった陣屋跡や城めぐりはご家族の理解のもとに 御一緒されているのかなと羨ましく感じています。うちの家族は美術館や公園は喜んで付き合ってくれますが 関東地方ゆえに城は遠いですから、あまり良い顔をしてくれません。自分は出不精で一人で車では出かけませんから。

自分は時折地方の学会出張の折にさらっとお城めぐりか美術館を楽しんでいます。以前からご自宅から出かけるとなると どんな服装をされているんでしょうね。自分はスーツで行くしかないのですが 自宅からのお出かけでお城を散策するとなると 何を着ればよいのでしょう?5月の春と言われて真夏日が続いている関東地方です。クールビズでもなさそうですが これ以上の発想が出来ません。

本当は素晴らしい趣味なのは理解できて自分もやってみたいのですが 写真を拝見する限り、自分は出来ないでしょうねえとため息をついています。

YosyanYosyan 2016/05/19 10:00 Bugsy様

こんなマイナーな趣味に家族は誰も付き合ってくれません。ですから服装も実用オンリーで、ジーンズにキャップ、これにウェストバックで出かけています。誰に見られて恥しいわけではありませんし。。。

それと本丸方向に窓のない櫓ですが、御指摘の防御効果はチト薄そうな気がします。本丸内に相手方が乱入した状態で櫓に立て籠もったところで、櫓への入り口の扉は本丸内に向いているわけですから、壁はすぐには破壊できなくとも、扉の破壊は容易というところです。梯子をかければ2階にもすぐ登れますし。

まあ、開き直って考えれば曲輪内に敵方が乱入した時に、櫓に籠って抵抗するというより、その曲輪の城兵は櫓担当も含めて健在な曲輪に撤収するのが常識的な戦術と思います。これが本丸曲輪を突破されたら落城同様ですから、櫓から本丸内への攻撃機能なんて不要と考えたのかもしれません。つうか、つうかなんですが、元和の築城ですから西国への抑えとといっても、城という存在があれば政治的に十分で、窓の建設費を節約しただけの気がしています。「どうせ使うことはないだろう」ぐらいです。

JSJJSJ 2016/05/19 16:36 単なる思いつきですが、私は防火のためじゃないかと思いました。
戦時よりもむしろ平時に、本丸内の建物が火災に遭った時の用心ではないかと。
特に火の気を避けたい物、たとえば火薬を貯蔵していたのではないでしょうか。
外側面には窓があることへの言い訳は、戦時にはやはり窓が必要だということと、外の郭とは高低差がかなりあるので貰い火の可能性に目をつぶることができた、としておきます。

明日・明後日神戸へ行きます。
暑いくらいに天候には恵まれそうで、予定通り和田岬辺りを訪れてみようと考えています。
運河の周辺はキャナルプロムナードとして整備されているようですね。
むしろ明治期の産業遺産が多そうな予感。

YosyanYosyan 2016/05/19 20:23 JSJs様

明日と明後日ですか。神戸まで来られのなら「一杯」と言いたいところですが、それはいつか機会があったらというところで。

明治期の産業遺産は運河がそうですし、立派な石橋も現役で残ってます。その中でも最大のものは・・・造船所になるんですが、これは陸地からでは見えにくくなっています。JSJ様には何が見えるか楽しみにしています。人が変われば見えるものが変わるのがフィールドワークの楽しいところと思っています。

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2016-05-16 平井山合戦雑感

三木本城攻防戦で大規模な合戦が行われたのは平井山合戦と大村合戦と見て良さそうです。そのうち平井山合戦を少し考えてみます。


合戦前の状況

秀吉の足跡(播州三木合戦)に良い地図があったので引用します。

三木合戦は「干殺し」と呼ばれる通り秀吉の兵糧攻めが行われたのですが、合戦当初の三木城の補給ルートは三木城の南方の瀬戸内ルートがメインだったようです。瀬戸内海の制海権は毛利の手にあり、兵糧攻めを行うには三木城南方の支城群をまず制圧する必要があったと見て良さそうです。この制圧には信忠が援軍を率いて行ったようで、細かな経緯まで追いませんが、平井山合戦までには神吉・志方・高砂・魚住の支城は落とされています。これによって瀬戸内経由の補給ルートが遮断されたぐらいの理解で良いかと思います。別所方に残された補給ルートは荒木村重離反によって新たに生じた花隈から丹生山を経由したものにみになったぐらいに考えて良さそうです。

この丹生山ルートですが、平成27年3月三木市教育委員会「史跡三木城跡及び付城跡・土塁保存管理計画書」(市教委資料)にある天正6年7月頃の秀吉方付城の配置を見てもらいます。

20160417120953

丹生山経由の補給ルートは後の湯の山街道(有馬道)ないしは兵庫道を利用したはずです。ところが初期の付城のうち和田村四合谷村ノ口付城は丹生山経由ルートの障壁になると見えます。もちろんこの付城だけで兵糧輸送ルートを完全遮断出来なかったので、後に明要寺焼き討ち、淡河合戦が行われますが、とにもかくにも三木城に残された丹生山経由ルートは籠城を支えるほどの補給量は賄えない状況が出現したと見て良さそうです。つまりは時間の問題で三木城は飢えるのが籠城方にも計算出来たぐらいでしょうか。別所方だけでなく荒木村重も、播磨で毛利に味方した諸豪族も戦略目標は、

    大毛利が大軍を送ってきて織田軍を蹴散らす!

これへの熱い期待です。村重や播磨の諸豪族だけではなく本願寺でさえそうだったと思っています。兵糧の枯渇が時間の問題となった時点で取れる戦術は2つで、

  1. 兵糧がある限り食いつないで、あくまでも毛利の援軍を待つ
  2. 体力のあるうちに現有戦力で決戦

この2つの方針で別所方は揺れ動いたぐらいで良さそうです。当時の三木城内の空気は後世の資料で読み取るしかないのですが、別所方が手にしていた情報では三木城を包囲している秀吉軍自体の兵数は「互角らしい」というのはあったようです。互角なら現状打破のために決戦の空気が過熱していったぐらいが流れのようです。これも後世の資料でしか判断しようがないのですが、城内の穏健派は毛利来援期待であり、急進派は決戦ぐらいの色分けぐらいで良さそうです。


合戦経過

決戦に投入された別所方の兵力は2500騎とするものが多いようです。もちろん「2500騎 = 2500人」なんですが、大手門を出た別所軍はまず東条道を北上したようです。そのまま現在の長久橋あたりを渡河し、久留美村大家内田谷上付城を攻める姿勢を示したとされます。伝承ではこの付城を守っていたのは中村一氏であったとされます。しかしこれは擬勢で一転して東に向かい、再び渡河して平井山本陣に迫ったと言われています。たぶんこんな感じだと推測されます

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平井山本陣からは別所方の動き、兵数は十分に観察されるわけであり、秀吉は別所方が付城なんて攻撃するはずもないと判断(竹中半兵衛の進言との伝承もあります)し、平井山本陣で待ち受けて決戦に挑むことになります。平井山本陣は野戦陣地とはいえ恒久陣地の要素を盛り込んだものであり、実質的に別所方による城攻めの様相となったぐらいを想像します。そうやって正面突破(つうか搦手攻撃)が無理と判断した時点で別所方はある種の「中入り」戦術を取ったようです。別所治定率いる700が平井山本陣の大手側に回り込んで攻めかかったぐらいです。

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この別所軍の動きも平井山本陣からは丸見えであり、秀吉は的確に対応し逆襲を行ったとなっています。もっともこの平井山合戦については行われた時期から異説があり、本当に別所軍がどう動いたのかも判然としませんが、結果として別所治定(長治の弟)以下、戦死800の大惨敗になったと記録されています。


戦略・戦術評価

三木合戦の別所方の基本戦略は

    最終的に毛利の大軍が織田軍を蹴散らす

つまり毛利の大軍が来るまでひたすら戦力温存で籠城で頑張るぐらいでしょうか。城に籠って出てこない別所方に対し、秀吉が行ったのは補給ルート遮断による兵糧攻めです。三木合戦で秀吉は兵糧攻めを行っていますし、最終的にその効果による城兵の戦力ダウンで落としていますが、ある時期までは違う戦略構想を描いていたんじゃないかと考えだしています。この時期に秀吉が毛利の援軍が来襲する可能性をどこまで計算していたかは不明ですが、もし毛利の大軍が来ればどう考えても厄介ですから、出来るものなら早期の落城を狙っていたはずです。

そのためには毛利の援軍をひたすら期待して城に籠る別所軍を城外に誘い出し、そこでの野外決戦で粉砕し、一挙に落城までもっていこうの戦略です。つまり兵糧攻めは城兵を決戦に誘い出すための戦術というわけです。兵糧が乏しくなれば活路打開のために城兵は決戦を挑まざるを得なくなるだろうぐらいでしょうか。決戦となって城兵が目指すのは平井山本陣しかないわけで、秀吉は城兵の突出に備えて十分な迎撃準備を整えていたぐらいは想像できます。たとえば平井山本陣は城から見えない側の斜面に多くの階段状の曲輪を設けていますが、これは本陣兵力を別所方に悟られないようにする戦術の一つだとも受け取れます。

もちろんこの戦略も「決め打ち」みたいなものではなく、兵糧が乏しくなれば局面打開のために城方が動くのは普通に想定されることで、動いた時に「あわよくば」ぐらいとした方が相応しいでしょう。秀吉の迎撃準備が万端であった事は史実が証明しており、別所方は平井山合戦で惨敗を喫しています。証明はしているのですが、勝った秀吉軍も出撃してきた城兵を粉砕して合戦は終わっています。この結果をどう考えるかなんですが、

  1. 秀吉の迎撃計画はもともと出撃してきた城兵を粉砕するだけのプランであった
  2. 惨敗した別所軍であったが、退却が見事で付入りまで行えなかった

まあ、1.の可能性もあるのですが、それだけではもったいないと私は感じます。そこで播州太平記や別所軍記では2.の説を取っているようです。合戦の実相が不明なので最後のところは推測するしかありませんが、当時の秀吉軍の泣き所は兵力不足であったと考えています。諸説ありますが、平井山合戦時点では双方の兵力は五分五分であったの見方があります。五分五分なんですが、秀吉軍は包囲戦の関係で三木本城だけで7つの付城に分散しています。平井山合戦の後には明要寺の焼き討ち、淡河合戦が起こりますが、淡河城にも3つぐらい付城を築いています。

推測というか憶測にすぎませんが、合戦時に平井山本陣の秀吉軍は別所出撃軍とチョボチョボ、下手すると劣勢であった可能性も出てきます。見事な采配で押し寄せた別所出撃軍を破りはしましたが、追撃する余力が残っていなかったの見方も不可能ではありません。憶測を越えて妄想に近くなりますが、秀吉の迎撃プランはもっと少数の別所軍を想定していたんじゃないかと考え始めています。そうですねぇ、1000人ぐらいの兵力での夜討ち・朝駆けクラスです。

これを本陣であしらいつつ、付城の軍勢を呼び寄せ、最後は総崩れになった別所軍とともに城門に付け入ってしまおうぐらいでしょうか。ところが別所出撃軍は想定以上に多くて「あしらう」余裕はなくなり、全力で反撃を行う事態に変わったぐらいを思っています。勝ちはしましたが、戦い疲れた本陣兵に追撃の余力はなく、むしろ城に残っている軍勢の二次出撃を懸念したぐらいです。

私の妄想が正しければ、平井山合戦は別所方にとって局所戦での勝利チャンスだった気がしてきています。それこそ城を空にする5000以上で押し出せばどうだったんだろうです。2500なら快勝した秀吉軍ですが、これが倍以上になれば勝敗の帰趨は変わった可能性があります。本陣が敗退すれば付城の軍勢も撤退を余儀なくされ、さらに三木南方の瀬戸内補給路の諸城の奪還も可能になり、十分な兵糧を城内に積み上げることが可能になったかもしれません。

そうなったところで「やりなおし」に過ぎないの見方もありますが、秀吉が敗れると織田軍に微妙な変化が出る可能性があります。たとえば敗戦の責任を問われて秀吉が更迭されるとかです。更迭されて光秀なりが後任となっても「やりなおし」に過ぎないのですが、戦国史最大の事件の本能寺の日時が迫ってきます。果たして本能寺が起こったのか、また本能寺の実行犯が光秀ではなく秀吉になったとか・・・・

それぐらいは故郷ですから妄想を膨らませても良いとしておきます。

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2016-05-12 続竹中半兵衛の墓

前回のムック竹中半兵衛の墓は、

  • 天正7年(1579年)の死亡時に秀吉が平井山に作った
  • 天正15年(1587年)に半兵衛の子の重門が岐阜の垂井の禅幢寺に移葬した

この禅幢寺ですが三木平井山観光ぶどう園HPより、

竹中重門は当時7歳。8年後、天正15年(1579年)には、重門は半兵衛の遺領・美濃国岩手に禅幢寺を興し、墓も設けて、郷里で亡き父の菩提を弔いました(禅幢寺は旧領主岩手氏の菩提寺で、このころは衰微。重門の再興後、代々竹中家の菩提所となりました)。

ここまでは史実して良いかと思います。今日の問題はそこからで、これまた三木平井山観光ぶどう園HPより、

その後、徳川の世に移り、半兵衛の子孫は、大名並の高禄旗本として、家を保っていきます。そのなかで「終焉の地にある墓」を、竹中家がかえりみることはなかったようです。

竹中家の使者が三木の平井山を訪れたのは半兵衛の死後、実に226年後の文化2年(1805年)と考えて良さそうです。まあ、墓は移葬してあるので半兵衛の供養は菩提寺である禅幢寺で済みますから、わざわざ三木の前墓所に参詣する必要性を認めなかったぐらいで良いかと思います。竹中家が平井山を放置していた証拠として文化3年2月の手紙の中に、

往昔ヨリ是迄、打捨置候得者

こうなっています。これがなぜに竹中家10代(半兵衛から数えて9代目)の重寛が三木平井山の前墓所がどうなっているかを確認したくなったかについては、なにか偉大な先祖である半兵衛をアピールする「政治的」必要性が竹中家に生じたんじゃないかの説もありましたが、平井山墓所の整備に関与した重寛と、その子の重英も事績がネットでは見つからずこの点についてはお手上げです。


平井山の墓石は誰が立てたものか?

半兵衛が三木合戦の陣中で病没した時に秀吉が半兵衛のために墓所を作ったのは間違いないと考えています。当然ですが墓石もあったと思いますが、竹中家が半兵衛の墓を移葬した天正15年(1579年)は聚楽第が完成した年です。秀吉の権勢は頂点に上り詰めようとした時期ぐらいに考えて良いでしょう。当たり前ですが竹中家も秀吉には気を十二分に使ったはずです。そりゃ秀吉が半兵衛のために作った墓ですから、それこそ秀吉にお伺いをたて、秀吉が当時作った墓は根こそぎ岐阜の禅幢寺に運んだとするのが自然かと思います。

つまり、竹中家が天正15年(1579年)に移葬した直後は三木の平井山にはなんにも残っていなかったと推測します。その後に墓石は建てられますが、これは地元民が移葬後に建てた可能性が高そうに考えています。竹中家が移葬時に供養塔として新たに建てた可能性も否定できませんが、それなら226年も放置していたのはチト不自然ぐらいです。地元民が建てたと思う最大の理由は、

現存するこの墓石です。秀吉が建てたにしても、竹中家が供養塔として立て直したにしろ、これじゃ簡素過ぎるってところです。これが地元民が移葬後に供養塔として立てたのなら「それぐらい」って納得できそうだからです。建てた時期なんてなんにも記録に残っていませんが、強いて考えれば竹中家が墓を禅幢寺に移葬し、塚の上の木がある程度大きくなってからじゃないかぐらいに考えています。まあ20年もすれば結構な大木に育つんじゃないでしょうか。

もちろん地元民が建てたとする記録は残っていませんが、226年後に訪れた竹中家の使者が平井山の前墓所の様子を見て感動したというか、竹中家として整備する必要性を強く感じたんじゃないかと考えています。これも三木平井山観光ぶどう園HPより、

 村人が戦国の世から営々と守り続けてきた半兵衛の墓。大きな土盛りの上には、三樹が根をはり「竹中半兵衛重治墓」と刻まれた墓標がたっていました。庄屋太右衛門と年寄新右衛門に出会った神田弥五兵衛は、これまでの供養の礼をのべた後、竹中家として墓所の整備を申し出ました。

 このとき、まず石灯籠の建設ほか諸用の費えに一両一分を差し出し、その後、あらためて十両を送ることを約束して、帰りました。

この最初の1両1分については書面でやり取りした記録が残っており、金額としては間違いないものと判断できますが、

  1. 金額が中途半端である
  2. 使者の神田弥五兵衛は墓所をみてから整備の規模を判断したとも受け取れる

あくまでも想像ですが、竹中家の使者である神田弥五兵衛の当初の構想は、おそらくなんにも残っていないだろうから、墓所を探し当ててせめて供養塔でも建立しようぐらいだったんじゃないでしょうか。そのための予算が1両程度です。ところが墓所はそれなりに整備され、墓石までたてられて供養されていたので、

    こりゃ、竹中家の名誉のためにもキチンと整備しないといけない

こういう判断を使者の神田弥五兵衛は下したぐらいを考えます。墓石はそのまま利用するにして、三木平井山観光ぶどう園HPより、

竹中家より送られた計11両1分の使途は石灯籠の建設、地所三畝を購入しての墓域拡張、供養継続のための収入源となる地所・山林の購入、等でした。

この時に墓所の周囲の塀も作られたと記録されています。それと全部で11両1分の整備費用ですが、この捻出に竹中家はちょっと苦労した節が窺えます。文化2年(1805年)閏8月に最初の使者が訪れ追加の10両の約束をしているのですが、三木平井山観光ぶどう園HPより、

文化3年(寅年)に届いた、約束金10両のうち最初の5両の受領書。この受領書は、文化5年4月9日付の手紙に同封され、弥五兵衛から返却されました。

書面は、

20160512163921

こんな感じで、最初の訪問の翌年の文化3年12月にまず半分の5両です。残りの5両は文化4年12月となっています。書面は長くなるのでリンク先を見て欲しいのですが、支払いが遅れていることを詫びている個所が随所に見られます。推測にすぎないのですが、最初から墓所の整備をするつもりであれば、ここまで費用の捻出に時間はかからなかったと思うわけです。2年半も10両の支払いにかかったのは、竹中家としても想定外の大出費になったと考えています。

もちろんこの間に重寛が亡くなり、重英が継ぐという費用のかかる代替わりが起こったのも支払いが遅れた原因と思いますが、竹中家としては最初の使者の墓所整備構想は認めたものの、想定外の出費に苦慮した傍証ぐらいになると考えています。当時の武家は貧乏でしたからねぇ。


平井山墓所の位置?

文化3年2月の手紙が気になるところで、

20160512170507

候文は読みにくいのですが、墓所は庄兵衛が所有しており、これを買い取った上で整備拡張する案だったようです。ところが庄兵衛に拒否されてしまったようです。そこでやむなく西に10間(約18m)ずらして灯籠を設置する代案の承認が書かれています。でもって現在の墓所の様子ですが、

20160505105038

どう見たって灯籠と墓石の距離は10間(18m)も離れていません。つうか墓所自体が縦に9間(約16.2m)ですから絶対に10間も離れていません。現在の墓所の灯籠位置は、おそらく買収を前提にした墓所整備案の灯籠位置(墓石との相対関係で)にあると見て良さそうです。この手紙のやり取りから考えると

  1. 拒否していた地主の庄兵衛は後日に売却を承知した
  2. 灯籠だけではなく墓所ごと西に10間ずらした

このどちらかになります。1.であると思いたいのですが、2.の可能性もゼロではないってところです。おそらく、この後も地主の庄兵衛との交渉についての手紙のやり取りがあったと想像しますが、残念ながら残されていないようなので、これ以上のムックは不可能のようです。

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