新小児科医のつぶやき

2017-02-27 明智光秀ムック14

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)の意図を見直してみます。宮城系図は歴史資料としては悪書の評価がありますが、理由としては正しい歴史を現していない点になります。とくに光秀関連部分について創作・捏造部分がかなり多く、肝心の光秀がどういう出自であったのかがサッパリわからないからです。ただ見方を変えればなんらかの意図をもって作られた系図であり、その意図を推測してみるのも一興かもしれません。


誰のために作られたか

宝賀寿男氏の分析を再掲します。

  1. 明智本宗の最後の当主が大永六年(1526)卒去の頼定であり、その暫く後の時期に一旦、同系図の基礎的部分本が成立したか、この基礎的部分に対して、次ぎに
  2. 光秀及びその一族・姻族(山岸氏)の系統の継ぎ合わせ、
  3. 明智左馬助光俊〔三宅弥平次秀満〕系の追加、
  4. 宮城氏系統の追加、等がなされたのではないか、

まず最終編集者である宮城氏は明智の一族であると称するにあたって、光秀の直系では都合が悪いので光安が正統とし、さらに明智の嫡流を光春(秀満)の子孫と称したぐらいは可能性があります。ただしそんなに光秀が都合が悪ければ明智を名乗らなければ良い訳で、たまたま入手した宮城系図の原本に宮城氏を接続しただけと考えます。では原本を誰が作ったかですが、明智氏とはまったくの赤の他人が作ったとは思えません。理由は単純で光秀の出自をこんなにグチャグチャといじる必要性に乏しいからです。ここは素直に光秀ないし光秀関係者(まとめて光秀とします)がなんらかの意図をもって宝賀氏の指摘する2.の段階を作り上げたとします。


系図の特徴

手が入り過ぎてどこが真実かわかりにくいのですが宮城系図最大の特徴は、

    光秀は明智氏の子ではない

ここだと感じます。そりゃ進士信周の子となっており光秀は「養甥」とも明記されているからです。ここは光秀が書いていたとしたら大きな謎の一つになります。創作捏造を大幅に行っている訳ですから、ごく素直に光綱の忘れ形見ぐらいにすれば良いはずです。考えられる理由としたら、

  1. 進士氏の出自であることが隠せないほど著名であった
  2. 進士氏とのつながりを強調する必要があった

どちらかを示す証拠としては、

    進士氏との婚姻関係を異様なぐらい強調してある

光秀が明智の嫡子である事より養子であった事を説明している系図に見えます。たとえば何度も再掲しますが、

いくらなんでも婚姻関係を作り上げています。そこから考えると進士氏とのつながりを強調するだけでなく、これだけ濃い明智の血が流れているから明智家の跡取りとして養子になったを説明しようとしたのが、宮城系図であると考えられます。


山岸氏は進士氏を名乗っていたのか?

宝賀氏の加賀国江沼郡起源の山岸氏について─併せて、『美濃国諸家系譜』の紹介─には、山岸の名が最初に見つかるのは

再起した新田義貞脇屋義助兄弟は越前で活動し斯波高経と戦っており、一時はこの地域でかなりの勢威を誇ったが、『太平記』には、このとき敷地・山岸・上木が義貞兄弟とともに活動した記事が見えている。山岸氏の武士が名前を表示されるのは、「山岸新左衛門」だけであり、その実名は記されない。

太平記の山岸新左衛門が確認できる最初の名前になるようです。藤島合戦で義貞が討死した後に脇屋義助が美濃に流れたのも史実なのですが、その時に山岸氏も美濃に流入したと宝賀氏は断じています。ただなんですが宝賀氏が参考にした美濃国諸家系譜に山岸氏は載せられていません。ついでに言うなら明智氏もありません。ですから他家の系譜から抜粋して再構成したような系図にならざるを得ないのですが、美濃国諸家系譜から宝賀氏が再構成した山岸氏を書き出し見ます。

代数 名前 根拠
初代 新左衛門(光義、光頼) 山岸 藤原姓林氏 正系図
二代 弥太郎光明 山岸、外山、長江 根尾氏之事
三代 加賀守満頼(頼行) 山岸 根尾氏之事、竹中家譜
四代 越前守頼慶(頼貞) 長江 日根野系図
五代 勘解由左衛門貞朝(加賀守光範) 山岸、長江 谷汲村史
六代 作左衛門光貞 進士、山岸 記載なし
七代 加賀右衛門尉信連 進士 記載なし
八代 勘解由左衛門尉信周(美濃守・勘解由左衛門尉光信) 進士、山岸 記載なし
九代 作左衛門貞連(光重) 進士、山岸 記載なし

詳細はリンク先を参照にして頂きたいのですが、私の感触では二代・三代・四代あたりは長山遠江守頼基の家系ないし子孫との混同があるように感じます。それはともかく進士が出てくるのは六代光貞ぐらいからで、宝賀氏の研究では宮城系図の山岸光信に該当する人物とみられています。七代信連、八代信周については名前は宮城系図に依っている気配があり、宝賀氏も本当の山岸光信は八代の信周だとしています。どうもなんですが、宮城系図の影響で六代から進士の姓が出てきている感じはします。この美濃国諸家系譜の成立年は不明ですが、江戸期それも後半の感触が強いようで先に成立していた宮城系図があれば参考にしていても不思議ありません。

宮城系図で進士光信の紹介のところも注目で、

進士者元来非氏職原之官名也 本苗称山岸氏也

わざわざ進士の由来を書いています。これだけの資料で断じるのは難しいのですが、山岸氏は進士氏を名乗っていなかった可能性もあります。もし山岸氏が進士氏を名乗っていなければ、これを名乗らせ強調したのが宮城系図になります。


進士の姓の価値

将軍家の奉公衆としての進士氏は実在し、義輝の申次衆として進士晴舎がおり、晴舎の娘(小侍従)が義輝の側室であったのは史実です。この京都の進士氏は永禄の変の後に消えてしまいます。これは三好・松永によって一族ごと抹殺されたぐらいで良いかもしれません。ここで光秀のもう一つの謎があります。永禄11年10月に信長は義昭を奉じて上洛を果たすのですが、永禄12年正月の六条合戦に早くも光秀の名前が信長公記に現れます。以後は京都担当外交官として活躍したで良いかと思っています。

案外わかりにくいのが信長と光秀の接点です。平凡には義昭の臣下に入り、信長への使者をやっている時に才能を評価され引き抜きされたぐらいを想像します。ただこの時期の京都外交は信長にとっても重要で、余程評価しないと抜擢されない気がします。もちろん光秀の才能は群を抜いており、信長がそれを見抜いて大抜擢も十分に可能性としてあり得るのですが、ここで京都担当外交官に求められるものはなんだろうです。パッと思いつくのは、

  1. 礼法に通じている
  2. 古典教養が十分に身についている
  3. 信長の意向を反映できる能力

本来は3.が一番重視され、信長もそこを一番買ったと想像しますが、

  1. 出自と家柄

なにせ相手は京都の貴顕紳士です。どこの馬の骨かわからない出自ではまともに相手にされない可能性があります。そこで光秀は京都でも通用する出自と家柄を作ったんじゃなかろうかです。具体的には、

  1. 実家の山岸氏に進士氏を名乗らせる
  2. この美濃の進士氏を京都の進士氏とダブらせる
  3. 姓は明智だが出身は将軍家奉公衆の進士氏の一族である

そのためには光秀は進士氏(山岸氏)の子でなくてはならず、さらに明智を名乗る理由として後継者として養子に迎えられた経緯も必要になります。それを創作したのが宮城系図だってところです。


話は振り出しに戻るのかしらん

全部仮説ではありますが、もしそうであるなら光秀の出自仮説は振り出しに戻ってしまいます。光秀の出自として、

  1. 明智の娘を母に持つ山岸氏の一族
  2. 明智光綱の子
  3. 明智氏とも山岸氏とも無関係

3.は少々無理がありますが、2.はありえます。少なくとも明智光安の子ではなさそうですから、年齢的にあり得るのは光綱の子です。本当に光綱が存在して、光秀が生まれていたのなら、今度は宮城系図のストーリーが真実味を帯びてきます。宮城系図のストーリーで無理があったのは、

    光綱に光安以下の弟がいるにも関わらず、甥の光秀を後継者とした養子にした

これが光綱が光秀を残して若死にしたのなら無理の少ないストーリーになります。

  1. 嫡々継承を守るため光秀が元服するまで叔父の光安が後見をした
  2. 家督は元服後に光秀のものになったかもしれないが、明智家の実権は光安が握っていた

どこにでもありそうなストーリーです。ではいつ作られたかになりますが、考えられるのは

  1. 信長への売り込みの時
  2. 京都担当外交官になった時

どっちも可能性がありますが、参考にしたいのは細川藤孝の存在です。藤孝は進士晴舎を知っている(晴舎が申次衆の時に藤孝は御伴衆 by 永禄名簿義輝版)ので、藤孝を丸め込むというか了解を取っていないと宜しくない気がします。根拠はその程度ですが2.の方が可能性が高いと思います。どっちも可能性は残りますけどね。

ただそうであっても光秀が光綱の嫡子であったかどうかは微妙な点が残ります。宮城系図では進士信周と光継の娘の間に2人子どもがおり兄が光賢、弟が光秀になっています。光秀が進士氏の人間なら明智氏が養子に取るのは次男の光秀でなくてはなりませんが、これが光綱の子であれば嫡子は光賢になり、光秀は次男となり嫡子ではありません。そういう状況であったと考えると宮城系図のお話はピッタリ来ます。

天下一定之望因辞退

光秀は元服しても家督を辞退したとしています。これは辞退したのではなく、そもそも家督相続者でなかったと見た方が自然です。もちろん明智落城時に光安も光賢も死んだのなら繰り上がって家督相続者にはなりますが、明智氏自体が滅亡状態ですから、嫡子と言うよりただの弟とした方が正しい気がします。この辺は少し飾ったのかもしれません。

しかし参ったな、話が振り出しに戻ってしまいました。でもこれだから歴史はおもしろい。

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2017-02-25 明智光秀ムック13

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)からの周辺ムックです。


明智頼弘

頼弘の系譜としては

  • 奉仕将軍義政義尚義稙三代公列外様衆八家之内也
  • 応仁文明乱土岐右大夫成頼倶与力山名左右衛門佐持豊入道宗全戦細川勝元然是覚近于犯上而帰国以全其嗣云々

年代的に義政から義稙の時代に生きていた人であるのは確認できますし、土岐成頼が西軍に属して応仁の乱で京都に出陣したのも史実です。ここで気になるのが、

    然是覚近于犯上而帰国以全其嗣

その前が「宗全戦細川勝元」なのですが、どうも何かの理由で帰国してしまったぐらいの意味じゃないかと推測します。早期に帰国した傍証として頼弘の子の出生年が

  • 頼典は応仁2年(1468)生
  • 頼定は文明2年(1470)生

応仁の乱は応仁元年(1467)に始まりますから、頼典はまだしも頼定を京都で作る時間がありません。これはどうもwikipediaより、

6月3日に細川勝元が要請を行うと、足利義政は将軍の牙旗を足利義視が率いる東軍に下し、東軍は官軍の体裁を整えた。足利義視率いる官軍は総攻撃を開始し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに義政の降伏勧告により斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもった。東軍は斯波義廉館も攻撃し、戦闘の巻き添えで南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。六角高頼、土岐成頼、さらに、斯波義廉(管領)は投降しようとしたが、東軍に対し激しく抗戦する重臣の朝倉孝景の首を持ってくるよういわれて投降を断念した。

応仁元年の話ですが、東軍に義政が参加したため官軍の体裁となり、義政からの降伏勧告も出て西軍が大いに動揺したとあります。頼弘は誇らしげに将軍家の外様衆であると書いてあるので、宗全と勝元の争いなら加担できても、義政に対しては弓を引くことが出来ずに帰国したって意味じゃないかと見れそうです。


斎藤妙椿

守護の土岐成頼が京都に出陣した後に美濃を守っていたのが斎藤妙椿になります。美濃でも応仁の乱の影響は大きくwikipediaより、

応仁の乱では成頼と共に山名宗全の西軍に属し、上洛中の成頼に代わり、東軍に属した富島氏・長江氏及び近江より来援に来た京極氏の軍勢と戦い、応仁2年(1468年)10月までにこれを駆逐し美濃国内を平定した。その一方で多くの荘園を押領して主家の土岐氏を凌駕する勢力を築いた。

文明元年(1469年)夏には近江国内へ進攻して西軍の六角高頼を援護するため、敵対する東軍の京極政経と守護代多賀高忠軍を文明3年(1471年)2月、文明4年(1472年)9月の2度に渡って撃破する。

文明5年(1473年)10月には長野氏を援護するため伊勢へ出兵、東軍の梅戸城を落城させ、さらに文明6年(1474年)6月、越前に赴いて朝倉孝景、甲斐敏光の両者を調定の末に和解させた。この頃、西軍諸将が和睦しようとしたが、妙椿の反対に遭い実現できなかったという。

美濃でも東軍派と西軍派の争いがあったようで、西軍に属した妙椿は美濃の東軍派を撃破しただけでなく、近江・伊勢・越前まで出兵しています。さらに

妙椿は富島氏・長江氏を破った上、東軍が幕府と朝廷を擁している以上敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園と国衙領を押領し国内を固めた。

東軍には義政が付いたのは上述しましたが、奉公衆は将軍の私兵みたいな性格があるので奉公衆の所領も押領したとなっています。ここで外様衆の明智頼弘はどういう立場であったのだろうかです。可能性としては、

  1. 土岐成頼とともに京都に出陣したので西軍派として安泰
  2. 京都に出陣したものの早期に帰国してしまったので東軍派として斎藤妙椿のターゲットになった

明智頼弘の系譜として気になるのは、土岐成頼と京都に行ったとは書いてありますが、その後について、たとえば妙椿とともに転戦した云々は書かれていません。その点を頭に置いてwikipediaの妙椿の記事です。

文明11年(1479年)2月に可児郡明智で隠退し、翌文明12年(1480年)2月21日に腫れ物を患い死去。

斎藤妙椿は守護でも守護代でもありませんが、それらを凌ぐ大実力者であったのは史実です。そんな妙椿が隠退の地に他人の領地を選ぶとは到底思えません。また妙椿は経歴を見ただけで敵も多そうな人物ですから、隠退後の安全も十分に配慮しているはずです。そうなると可児郡明智庄は斎藤妙椿の領地になっていたと判断せざるを得ません。外様衆であった頼弘も可児郡明智庄を押領されてしまった事になります。


美濃斎藤氏

とりあえず美濃斎藤氏の系図です。

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斎藤家は祐具の時代から勢力を広げ、宗円の時に守護代になります。以後、利永、利藤と世襲され守護代家と呼ばれるようになります。妙椿は利藤の後見として権勢を揮い、持是院家と呼ばれ守護代家さえしのいでいたぐらいで良さそうです。さて妙椿は妙純を養子としますが、妙椿の死後に守護代の利藤と争いが起こります。この争いに妙純は勝つのですが、その後の近江遠征の時に妙純とその子の利親ともども戦死してしまいます。

結局のところ斎藤氏は守護代家も、持是院家も衰えてしまうのですが、その後の事態を収拾したのが利安だったみたいです。利安も利永の息子で妙純の兄弟になりますが、妙純と利藤が争った時には妙純に味方し、妙純と利親が戦死した時には利親の息子の利良の後見みたいな役割を果たしていたと書かれています。ここで困るのが事態を収拾したと見られる利安が存在はしたのは確実そうですが、経歴が判然としない人物になります。これはwikipediaからですが、

『美濃明細記』(斎藤系の項)によると長井長弘と同一人物とされ、美濃池田郡白樫城から本巣郡文殊城に移り崇福寺 (岐阜市)を建立する。更に稲葉山山麓の長井洞に移り、家臣筋の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)に殺害されたとされる。法名は崇福寺桂岳宗昌。墓所は崇福寺。

長井長弘は享禄2年(1530)ないし天文2年(1533)の死亡となっていますから、年代的に不合理はありません。同一人物かどうかは疑問が残るとしても、同時代人であったとしても良さそうです。このエピソードを引用したのは利安の時代に既に先代道三(長井新左衛門尉)の影が見えたのが興味深かったからです。


斎藤氏と明智氏

斎藤氏の系図も諸説・異説があって困るのですが、利安の次の利賢が利安の子である説と利胤の子である説の2つがあるようです。利胤って誰だになるのですが、出どころはなんとなく宮城系図の気もしますが、利安の子どもも判然としないところがあり、養子として迎えられたとか改名があったのかもしれません。ここからが注目なんですが、利賢は明智氏と婚姻関係を結びます。

  1. 明智光継の娘を後室にする
  2. 利賢の娘を光安の正室にする

どこかで見たようなクロス縁組です。光安の婚姻は宮城系図には「大永年中」とボカした書き方になっていて困るのですが、大永年間は1521〜1528年で光安が21〜28歳の時になります。もっと困るのは明智光継の娘で、宮城系図には斎藤利賢(もしくは利胤)に嫁いだとは書かれている者がいません。それだけでなく光継の娘は、

    長女:進士信周の前室
    次女:進士信周の後室
    三女:小見の方
    四女:堀田道空の室
    五女:隠岐内膳正惟の室

四女と五女は生年不詳なのですが光廉の妹になりますから、永正13年(1516)以降の生れになります。とはいうものの、光廉が生まれた時点で光継は48歳になっており、そんなには遅くなりにくいところがあります。とにかく一番の壁は斎藤利三でして出生年は、

    天文3年(1534)

これが前室される蜷川親順の娘との間で生まれたとなっています。そうなると光継の娘は永正17年(1520)ぐらいに生まれて天文9年(1540)ぐらいに嫁ぐ必要が出てきますから、五女の隠岐内膳正惟の室ぐらいが候補になります。ほいでもって利賢は天正14年(1586)没ですから、天文9年時点で25歳なら享年71になりますから「まあまあ」許せる年齢になります。推測の積み重ねですが生年は永正12年(1515)ぐらいになる計算になります。なんとか辻褄は合いました。


明智光綱は不要やな

この時代の婚姻は政略要素が必ず付いて回りますが、平たく言えば友好の証みたいなものにもなります。ここで気になるのは、

  • 利賢は後室ではあるが正室を明智氏から迎えている
  • 光安は次男である

この辺は正室の子であるかどうかの差引勘定が加わって来たりもしますが、利賢の後室になった光継の娘も光継の年齢からして側室の可能性が高そうなところです。当時の利賢の美濃での地位とか、権勢はわかりませんが、利賢にとって不利なクロス婚姻に見えます。そりゃ嫡子と次子では価値が段違いだからです。ここで宮城系図の光綱の系譜を見てもらいます。

明応六年丁巳八月十七日生 童名千代寿丸 母進士美濃守光信女也 蓋光信頼弘妹聟也 先室武田大善大夫源信時女也 其室没後再迎進士長江加賀右衛門尉信連女以為当室 其名曰美佐保方 但信連光信子也 光綱受継家督 住明智城 領一万五千貫相当今七万五千石 光綱生得多病而日頃身心不健也 因不設家督之一子 故蒙父宗善之命 養甥光秀以為家督 光秀光綱之妹聟進士勘解由左右門尉信周之次男也

天文4年乙未八月五日於明智城卒去 年三十九歳

これも異様な系譜でして、光綱については病弱で子が出来なかったしか事実上書いてないのはまあ良いとしても、他は光秀の血筋の説明にほぼ費やされています。ここは前回も解説しましたが、光綱には弟がゴッソリおり、別に光綱の妹婿の子を養子にして家督をわざわざ継がせる必要性はゼロです。ここはゼロのところをゼロでないと言うか「当然そうなる」と思わせるための作文にしか思えません。よくよく考えてみると光綱はいなくとも家系図に問題は起こりません。そりゃ父が生きている間に死に、子もいない訳だからです。ここはさらに飛躍させて良いかと思います。

    光綱はそもそも存在しない人物であった!

最初から光安が嫡子であって、光継の後に波風なく家督を継いだと考える方が良さそうってところです。だからこそ利賢の妹を正室に迎えられたんだろうです。それだけでなく光綱が子を残さずに死んでなければ、光秀が養子になる理由さえ消滅します。創作でなくとももっと早い時期に亡くなっていて、嫡子とされる時期があっただけの存在の気がします。


明智頼典と頼定

少し話を戻しますが、頼弘は応仁の乱の影響で可児郡明智庄を失っています。これは文明12年(1480年)までは確実です。どうやって取り戻したかについては、まったく記録がないのですが、そもそも取り返す事が出来たんだろうかの疑念があります。美濃は斎藤妙椿の死後に妙純と利藤の争いに土岐本家の家督相続問題まで絡んで混乱しますが、それに乗じてと考えるのは一つです。もう一つは将軍家外様衆の立場を活かして、京都の将軍家を動かしたと見るのもありかもしれません。どうやったかは不明ですが、晩年になって可児郡明智庄を取り戻した気配だけはあります。宮城系図の頼弘のところに

明応四年乙卯三月 頼弘子息兵庫頭頼典同兵部少輔頼定兄弟依 所領配分之事互令諍論各不服

要するに兄弟で所領争いが起こり大変だっと記しています。余程大変だったようで将軍義澄の仲裁のための御教書まで出されたとしています。ここもよくよく考えてみると妙なお話です。当時の相続性はほぼ惣領の総取りです。これは鎌倉期の分家相続の反省に立ったものぐらいで良いかと思います。逆に言えば相続前の子どもは下手すりゃ部屋住みって事です。少なくとも父が家督を握っている間に息子に与えられる所領はあっても少ないだろうってところです。そんな所領を争って喧嘩になったとしても、これを家長である頼弘が抑えきれず、さらに将軍家まで出てくるのは不可解すぎるってところです。

頼弘が弟の頼定を溺愛してのパターンも考えられなくもありませんが、斎藤妙椿に奪われた明智庄奪還に頑張っていたはずの頼弘にそんな余裕が果たしてあっただろうかってところです。なにも情報が無いので推測をたくさん置きますが、まずまず明智氏の領地ですが宮城系図には、

  1. 明智頼兼が1万5000貫領有したとある
  2. 頼典(光継)が1万貫領有したとある
  3. 光綱が1万5000貫領有したとある

全部で1万5000貫であったようです。斎藤妙椿の押領にあいますが、それでも頼弘には5000貫が残っていたと考えます。宮城系図には頼典と頼定の争いに将軍義澄の御教書まで出たとなっていますが、これが喧嘩の仲裁状ではなく明智氏の旧領を戻せぐらいの内容であったと仮定してみます。ここでキーになるのは小見の方で道三に天文元年(1532)ぐらいには嫁いでいた考えられますから、花嫁への結納代わりに光継に斎藤家の明智庄1万貫を贈ったとみたいところです。ここまでの情報で家系図を再構築してみます。

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長幼の順は作図の都合で変えていますが、道三は明智の名の付く者に明智庄を支配させるだけに御教書の内容を変えてしまったぐらいです。具体的には

  1. 山岸光継を明智頼弘の猶子とし「頼典」の名を与えた上で明智の名跡を取らせ惣領家とした(1万貫)
  2. 頼弘は5000貫を嫡子の頼定に譲った

この名跡を与えるないしは得る手法は道三のよくやった政治技法です。美濃の権勢者の道三の指示に抗う事も出来ず頼弘はこの屈辱的な条件を受け入れたと見ます。つまりは、

  1. 「頼典 = 光継」である
  2. 頼典は頼弘の子ではなく、猶子になった山岸光継である
  3. 頼弘の嫡子の頼定は父がなんとか残した5000貫の当主となった

こういう前提を頭に置いて宮城系図の光継の系譜を読むと味わい深くなります。

拝明智惣領職 住明智城領一万貫 為嫡流家

明智氏はこの時点で土岐明智氏と山岸明智氏に分裂しますが、土岐明智氏は5000貫の領地を守る事も困難になったようです。宝賀寿男氏の研究では明智本宗の最後の当主を頼定とし、頼明や定明の時代はそうでなかったとしていますが、これを裏付けるように光綱の系譜には

住明智城 領一万五千貫相当今七万五千石

光綱は存在しないので、これは光継時代に土岐明智氏の5000貫も併呑してしまったと見て良さそうな気がします。だから頼明の子の名前は定明なのかもしれません。


宮城系図の意図

明智系図に改竄と言うか改変があるのは宝賀寿男氏も認めています。つうか家系図ってものがしょせん「そんなもんだ!」って明快に断言されています。家系図学とはその中から歴史の真実を読み取るものだってところでしょうか。ほいでもって宮城系図には2つの大きな改変点があると私は思います。

  1. 土岐明智氏と山岸明智氏のつなぎをスムーズにする
  2. 山岸光秀が明智光秀と名乗れる根拠造り

1.については割とシンプルで行われのは、

  1. 頼弘が斎藤妙椿に所領を押領された事実を伏せる
  2. 光継(頼典)を頼定の実兄にする
  3. 頼定の孫の定明から徳川家に仕えさせてしまう

これで継ぎ目がなくなります。


2.についての作業は非常に複雑なものになっています。そもそも光秀は母が光継の娘であるだけの山岸の人間だからで、叔父の当主であった光安には子もあり光秀が養子として家督相続候補者として乗り込む余地は皆無です。ここもシンプルに病弱であろうが、若死にしようが光綱の忘れ形見であるとすれば良さそうなものですが、なぜかそういう手法を取っていません。あえて考えれば存在しない光綱の子であるとするロジックに無理を感じたのかもしれません。そこで行ったのは山岸氏と明智氏の濃厚な姻戚関係作りです。意図としては山岸氏と明智氏は一族同様の血の濃さであるとのアピールでしょうか。これでもかの近親婚を三代にわたって展開させます。この近親婚のヒントは斎藤氏とのクロス縁組だと思われます。

次に光綱の創作です。他家から養子になって家督を継ぐには、とにもかくにも当主が後継者を残さず死んでくれないと始まりません。ここも無理な工夫だと思うのですが、

  1. 光綱が後継者を残さずに死にそうだ
  2. 光継が当主の光綱の後継者に光秀を養子として迎えると決断

一見すると嫡子の養子ですから嫡々が守るために見えますが、光秀は光安の妹の子ですから嫡々でもなんでもありません。誰が考えたって弟とされている光安が家督を継ぐのが正統です。家を守るという観点からすれば、嫡子以外の弟はスペアですから、こういう時に使わなければ存在意義がなくなります。おそらく、そのための説明として進士氏(山岸氏)の人間ではあるが、血の正統性は光秀にあるぐらいにしたのでしょうか。

ここも強いて考えれば光安の存在があっても嫡子として養子に迎えられるぐらい優秀であったのアピールかもしれませんが、家系図なんて本にして売るものでもありませんから、なんのためにここまで捻ったのかの意図は不明としか言いようがありません。なんか困るような伝承が残っていたんでしょうかねぇ。

ただ宮城系図をムックしたことで光秀の謎の一端だけ解けた気はしています。光秀は織田家で出世した時に、その軍団には美濃出身者が多くいます。当然と言えば当然なんですが、あれってこうやって見れば土岐明智氏の一族が集まったのではなく、山岸氏の一族が集まったと見た方が良さそうな気がします。そうであれば説明できる点は多々ある気がします。光秀が明智の血も引く山岸氏の人間であることは山岸一族なら自明のことですから、明智と名乗っても誰も気にならず出自の詮索なんて事もされなかたってところです。

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2017-02-24 明智光秀ムック12

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)からの仮説の再整理です。


山岸光信

明智頼弘までの明智氏と山岸氏との関係です。

20170223140440

明智頼弘は嘉吉元年(1441)生まれ、永正5年(1508)死亡と宮城系図ではなっています。この頼弘の妹と山岸光信は結婚するのですが、頼弘の妹は文安3年(1446)生まれとなっています。問題は山岸光信の生年で宝賀寿男氏によると道三から龍興時代に活躍した美濃十八人衆の一人となっています。そこで永禄10年(1567)の稲葉山落城を起点に考えて

  1. 稲葉山落城時に60歳なら1507年
  2. 稲葉山落城時に70歳なら1497年
  3. 頼弘の妹と同い年ぐらいであれば稲葉山落城時には121歳

山岸光信と頼弘の結婚はなかったと結論できます。では山岸光信と明智氏の娘の間に婚姻がなかったかといえば、やっぱりあったと見る方が妥当です。ここで宮城系図では光信の孫の進士信周に嫁ついだとなっている「女子」の経歴ですが、

永正元年甲子八月十七日生母同兄大永元年辛巳八月嫁信周 進士九郎太郎光賢明智光秀等之実母了是也
享禄二年己丑正月二十日卒去年二十六歳

大永元年に嫁いだのなら17歳になりますが、この時に光信が18歳であったと仮定すると稲葉山落城時に65歳になり1502年生れぐらいになります。これなら十分に可能性があります。この時代的にはやや長寿ですが、それほど違和感がなくなります。そうなると宮城系図に出てくる山岸氏の並びである

    長山頼基 − ???? − 山岸頼慶 − 山岸康慶 − 山岸光信 − 山岸信連 − 進士信周

長山頼基から山岸康慶までは実在していても長山氏のものであり、山岸康慶と山岸光信は赤の他人であると見れます。ここは山岸氏が進士氏の他に長江氏も名乗る事があり、故意に長山氏と混同させて強引に接続させたと見ます。また進士信周は堂洞城主であった岸勘解由信周であり、山岸氏とは無関係です。進士信周の父である信連については不明ですが、諱からして親子である可能性が高いと思われます。ここも岸氏と山岸氏を故意に混同させて強引に接続させたとして良いでしょう。

そこまでして山岸光信の位置を作った点に注目されます。


出生年から考えてみる

この辺はもう少し詰めたいのですが、

氏名 出生年 死亡年
年号 西暦 年号 西暦
山岸光信 文亀2年 1502
明智光継 応仁2年 1468 天文7年 1538
明智光綱 明応6年 1497 天文4年 1540
明智光安 明応9年 1500 弘治2年 1556
明智光秀 享禄元年 1528 天正10年 1582
小見の方 永正8年 1511 天文23年 1554

宮城系図の生没年を鵜呑みするのも危険かもしれませんが、山岸光信と明智光綱、小見の方はほぼ同世代と見れそうです。一方で明智光継は一世代上、光秀は一世代下ぐらいです。明智光継は一世代上と言うには少し離れているのですが、光継の子を見てみると、

名前 出生年 光継年齢
元号 西暦
光綱 明応6年 1497 29
光安 明応9年 1500 32
女子 永正元年 1504 36
光久 永正4年 1507 39
光広 40〜41
女子 永正7年 1510 42
小見の方 永正8年 1511 43
光廉 永正13年 1516 48
女子
女子

この時代に子どもが10人いても不思議はないのですが、長子である光綱の出生がちょっと遅い気がします。晩婚であったか、正室に子どもが生まれず側室を置き始めたのが20代の後半であったと見ても良いのですが、光継の出生年を10年ぐらい遅らせても良い気はします。


光信と光秀

ここで用語を定義しておきたいのですが、

    土岐明智氏・・・明智頼重以来の土岐氏の明智氏
    山岸明智氏・・・明智光継からの山岸氏の明智氏

これで話を進めます。さて宮城系図では進士信周に嫁いだとなっている光継の娘が光信の正室であれば、生まれた子供は光賢、光秀になります。ここまでの考察をまとめると、

20170223180708

諱の続きにのみにこだわるのも危険かもしれませんが、こうであれば名前の続き柄は自然です。光信の父と光継は兄弟であり、おそらく光信の父が山岸氏を継ぎ、光継が明智氏の名跡を継いだと考えます。こうなった時に自然に出てくる疑問は、

    光秀は明智の子どもじゃないじゃん

まず土岐明智氏とは無関係であり、山岸明智氏であっても母系のみです。宮城系図では光綱に子がなかったので養子に迎えられたとなっていますが、光綱死亡時には光安35歳、光秀7歳です。あくまでも宮城系図になりますが、光綱、光安(ついでに小見の方)は正室の出です。嫡子が亡くなった時に弟が家督を継がずに変則的な事をする理由の一つに正室問題がありますが、これはなさそうです。人物問題も光安になさそうですし、もっと言えば光安の他に光広、光久、光廉と弟がいます。この状態で光秀が山岸氏から養子に迎えられる可能性はゼロと思います。

そうなると宮城系図に書いてある光秀を養子に迎える云々はすべて作り話であったとするのが妥当です。光秀は光信の子として産まれ、山岸光秀として育ったと見るのが正しそうです。それでも光秀は明智を名乗って活動しているのは揺るぎない史実です。ほいじゃいつ光秀が明智を名乗ったかですが、やはり弘治2年の道三崩れの後じゃないかと推測します。

道三崩れの時に山岸明智氏は最後まで義龍に抵抗し壊滅します。土岐明智氏も天文21年の時点で明智定明が戦死し、その忘れ形見の定政が三河に亡命し菅沼藤蔵として活動します。つまり明智氏は地上から姿を消してしまっています。山岸明智氏は山岸光信から見て叔父の起こした家であり、叔父の娘を正室にしてますから、次男である光秀に明智を名乗らせたんじゃないかと見ています。そうであれば光秀が明智姓を名乗り始めたのは28歳から30歳ぐらいの時になるかもしれません。

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2017-02-22 明智光秀ムック11

明智氏の系図の一つに明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)があります。宝賀寿男氏の明智光秀の出自と系譜−「宮城系図」等の検討を通じてみる−での評価は、

「宮城系図」については、多くの学究によってあまり信頼できない系図史料とみられてきたようである。たとえば、國學院大教授であった高柳光寿氏が著した吉川弘文館人物叢書明智光秀』(昭和33年〔1958〕刊行)は、光秀研究の原点ともいうべきものであるが、そこでは、「宮城系図」が悪書と評価されている。明智(三宅)弥平次秀満などの記事に誤りが多いことがその理由ではないかともみられるが、高柳教授は「宮城系図」の原典に実際に当たって詳細に検討されたのだろうかと疑問を感じざるをえない。世に伝わる系図史料で完璧なものはまず殆どないといってよいが、「宮城系図」もこの例にもれるわけではない。だからといって、同書を悪書と評価するのは極端であり、個々的に見ていくと、むしろかなりの参考になる系図だといいうるものである。

宝賀氏は系図に対する姿勢は、

いわゆる中世関係の歴史学者でも、系図自体の知識に乏しい人が多いのが実態である。系図検討に際しては、系図関係の基礎知識を踏まえて、多くの史料や歴史的事実と照らし合わせて具体的に研究していくことが重要である。

宝賀氏には遠く及びませんが、傍流であった光秀に属する家系が嫡流家になったような痕跡があるかに絞って見直してみます。


宮城系図の並び

他の系図と争いの少ない頼弘までは置いときます。頼弘は宝賀氏の研究では「頼弘 = 頼尚」としていますが経歴の中に

奉仕将軍義政義尚義稙三代公列外様衆八家之内也

義尚にも外様衆八家の一つとして仕えたとあるので「尚」の諱をもらった可能性はあります。ただ長享名簿(鈎の陣)の外様衆は、

20170221130452

こうなっており宮城系図が間違っているのか、六角征伐で構成が変わっていたのかは私では判断が付きません。長享名簿も今日は置いておくとして、見てもらいたいのは

明応四年乙卯三月頼弘子息兵庫頭頼典同兵部少輔頼定兄弟依所領配分之事互令諍論各不服

頼弘の息子に頼典と頼定がおり所領争いをしたとの記述です。書かれている順番からして

    兄:兵庫頭頼典
    弟:兵部少輔頼定

こうであろうと考えられます。最後は将軍義澄の仲裁を仰いだとしていますから、宮城系図では実在の人物のはずです。でもって頼弘の子として書かれているのは、

  1. 光継(頼典)
  2. 頼定
  3. 頼敏
  4. 光鎮

だからどうしたって話なのですが、まず頼定の方の来歴を後半部分を引用します。

頼定有二子兄曰土岐上総介頼尚弟曰上野介頼明其子曰兵部大輔定明仕徳河家子孫繁昌

頼定の系列から菅沼藤蔵(土岐定政)が出てくる部分になります。つまり宮城系図では

20170221134941

こうなっている事になります。


明智光継

明智家では家祖としている頼基から「頼」を諱として世襲しています。ところが頼典は突然に光継と改名し、以後は「光」が諱として世襲されるようになります。その点についての説明が来歴にはありません。もう少し珍妙なのは光継は本名を頼典とし、光綱も本名を光隆としています。改名はよくある事とはいえ、わざわざ本名と書くのはどういう訳なんだろうってところです。もっとも宮城系図でも光継、光綱以外にも本名として別の名前が書かれているところはあるので、気になる程度です。それと光継の来歴にもちょっと気になる事が書かれています。

拝明智惣領職住明智城領一万貫為嫡流家

あえて読み下せば

    明智惣領職を拝し明智城に住み一万貫を領す、これ嫡流家であるため。

ここだけ読めば違和感は少ないかもしれませんが、他の当主にはわざわざ「拝明智惣領職」とは殆ど書かれておらず、書かれていても兄の後を弟が継いだ時ぐらいです。当主が惣領職になるのは当然以前の話であって、家系図に書く必要がないからです。わざわざ書くということは、光継が初めて明智惣領職になった事を暗に示していると私は感じます。つまりは惣領家とは別系統の傍流家が明智家の惣領職になったんじゃなかろうかです。頼弘までの系図は受け継ぐとして、その子の代に惣領家の血流が変わった事を伏せようとした痕跡に見えます。ちょっと年表を作ってみました。

元号 西暦 光継年齢 道三の動き
応仁2年 1468 0
永正11 1517 49 長井新左衛門尉が美濃に登場か?
天文2 1533 65 道三、小守護代になる
天文7 1538 70 道三、守護代になる

長井新左衛門尉は道三の父とされる人物ですが、おそらく1510年代に美濃に現れたんじゃないかと推測しています。その長井新左衛門尉が死亡し、道三が小守護代になったとされるのは天文2年です。父の長井新左衛門が国盗りの野望をどれれだけ持っていたかは不明ですが、道三が国盗りに邁進したのは史実です。国盗りのためには美濃の豪族の支持を集める必要がありますから、明智傍流家を後援して惣領家を継がせた可能性はゼロとはいえません。これを系図上で弥縫するために、なんらかの理由(所領争いで討死とか、父頼弘の不興が凄かったとか、頼弘が弟の頼定を贔屓にしたとか)で家督を継げなかった頼典と光継をダブらせたぐらいの見方です。


明智頼定

頼定の来歴の

    頼明其子曰兵部大輔定明仕徳河家子孫繁昌

頼定系が嫡流家になるはずですが、孫の定明の時に既に徳川家に仕えているとしています。これは史実と反するで良いかと思います。定明の子である定政は菅沼藤蔵として家康に仕え、人生の晩期に土岐定政となっています。定政の父である定明が天文21年に討死し、この時に定政は母方の菅沼氏に逃げたのはまず固いところです。定明の時から仕えていたのなら菅沼藤蔵になる必要はありませんし、仮に父の定明が家康の不興を買って殺されていたのなら、今度は菅沼藤蔵が家康に仕える理由がなくなります。わざわざ定明の時から徳川家に仕えているとしているのは、天文21年にもともとの嫡流家を滅ぼした事を伏せたかったんじゃなかろうかと思います。

もう一つですが、頼定の子の頼明には兄として頼尚がいたとしています。いたかもしれませんが、頼尚は宝賀氏の研究では「頼弘 = 頼尚」です。宝賀氏の研究を鵜呑みする訳ではありませんが、なんとなく頼明の系統をさらに末流に位置づけた様にも感じます。わざわざ兄の存在を書けば頼定系は兄の頼尚系が正統になり、頼明はそこから始まる分家となるからです。


明智光綱

光綱の来歴も改めて読むと微妙なものがあります。

明応六年丁巳八月十七日生 童名千代寿丸 母進士美濃守光信女也 蓋光信明智頼弘妹婿也 先室武田大膳大夫源信時女也 其室没後再迎進士長江加賀右衛門尉信連娘以為当室 其名曰美佐保方 但信連光信子也 光綱受継家督住明智城領一万五千貫相当今七万五千石 光綱生得多病而日頃身心不健也 因不設家督之一子 故蒙父宗善之命養甥光秀以為家督 光秀光綱之妹婿進士勘解由左右門尉信周之次男

再掲しますが明智氏と進士氏の婚姻関係は宮城系図では、

こうなっています。ここで気になるというか目につくのは進士光信です。進士家が本当に「光信 − 信連 − 信周」と続いていたのならその頃は「信」が世襲される諱と見えます。まず山岸光信ですが宝賀氏の研究より、

山岸勘解由左衛門光信は、斎藤道三〜龍興の時期の西美濃十八人衆の一人であった。

明智光継より一世代ぐらい下の人物になりそうです。そうなると出てくる疑問は光秀が光信の曾孫なんてあり得ないになります。では宮城系図に出てくる進士信周は誰なんだになりますが、これも宝賀氏の研究より、

次ぎに、系譜本文のほうでは、明智光綱・光安兄弟の妹にあたる女子の譜註を見ると、その夫・進士山岸勘解由左衛門尉信周について、加茂郡蜂屋堂洞(どうぼら)城主とされる。しかし、これは明らかに事実の歪曲である。その事情を説明すると、以下のとおり。

 現在の岐阜県美濃加茂市蜂屋町にあった堂洞城は、稲葉山城斎藤龍興攻略の前哨として永禄八年(1565)八月に織田信長が攻め、羽生野などで激しい戦いの末に攻略に成功した。反信長の堂洞城主・岸勘解由信周(のぶちか)・孫四郎信氏(一に信房)親子は信長の密使・金森長近の説得を拒絶し、戦い敗れて義に殉じた岸勘解由は自決した。このように、堂洞城主は山岸ではなく、「岸」であり、この苗字は古代の岸臣(阿倍臣の一族で、敢臣族岸臣)に由来するとみられる。

堂洞城主は岸勘解由信周であり、この岸姓は山岸姓と明らかに異なるとしています。ここより宝賀氏は進士信周なる人物は存在しないとしています。宝賀氏は進士信周の存在だけを慎重に否定されていますが、信周の父とされる信連も怪しい気がします。


宮城系図での山岸氏

まず宮城系図では明智次郎頼兼が家祖になっていて頼重は二代目になっています。

康永元年壬午月生於池田郡童名多宝丸 母尾張民部少輔源高国女也 室山県郡伊志良住人長山遠江守源頼基女也 伝曰頼重実頼兼叔父土岐九郎頼基之子也云々 右頼基伯耆守頼貞九男而頼宗弟也 有故観応二年辛卯二月為頼兼之猶子相続家督賜

どうにもこんがらがるのですが、

  1. 頼重の正室は長山遠江守頼基女としています
  2. 一方で「伝曰」ですが頼重は土岐伯耆九郎頼基の子としています

「長山遠江守頼基 = 土岐伯耆九郎頼基」のはずですが「???」てなところです。そこはさておいて、頼重の女子のところに、

山岸越前頼慶室
同濱豊後守康慶母
頼慶者長山遠江守頼基之孫也

つまり頼重の娘と長山遠江守頼基の孫が結婚したことになります。でもって頼弘の妹のところに

進士美濃守源光信
同加賀右衛門尉信連母

文安三年丙子生 進士光信者明智頼重之聟 長山越前守頼慶之孫也 明智進士両家之間代々成重縁 進士者元来非氏職原之官名也 本苗称山岸氏也

長山越前守頼慶の孫の山岸光信が頼弘の娘を正室にしたとなっています。この後の重縁は上の図で示したので、それ以前を整理すると

20170223140440

とりあえず頼重と頼兼が別人であり、なおかつ頼重が頼基の子であるのなら明智家の家祖を長山遠江守頼基に置く理由がわかります。問題は山岸氏で、頼基の孫といっても正室を迎えてのものなら理解できます。ただなんですが光信の前と後では諱の受け継ぎ方に無理がある気がします。まず康慶の子が光信とはなんじゃらホイってところです。そういう事もあるのですが、ごくごく素直に光信の名前が家系から浮いている気がします。


「光」のルーツ

宮城系図で気になるのは南北朝期に美濃守護になった土岐頼貞以来、土岐本家にも明智家にも世襲されてきた「頼」の諱が光継の代から消え、代わりに「光」の諱が使われます。この突然の光の諱のルーツが不明だったのですが、山岸光信の「光」じゃないかと思い始めています。つうか当時の山岸氏は光を諱として世襲しており、宮城系図で光信の上の代も、下の代にも光が消えているのはなんらかの操作じゃなかろうかです。山岸光信は美濃十八人衆の一人だったので光信の光は消せなかったのですが、光信以外の山岸氏の光を消してしまった可能性がありそうに感じます。

山岸光信は宝賀氏の研究でも光秀の親世代から祖父世代ぐらいに該当しそうですから、あくまでも仮説ですが実際の系図は

20170222094601

これなら諱の世襲がスッキリします。宮城系図上で光継とされている人物に山岸光信を当てはめたぐらいの見方です。光秀は系図上で光信の孫と仮定しましたが、子どもの可能性も残るとは考えています。ほいで光綱(光隆)は光信の嫡子ではなかった可能性が高そうに思います。嫡子でなかったのでそれこそ道三の近習として仕えていたぐらいです。光綱の転機は姉が道三に見初められて室に入ったからじゃないかぐらいを想像します。ただの近習から親族になるからです。

ここで当時の明智家は頼弘の二人の子供(頼典、頼定)が対立して分裂状態であったと見たいところです。つまりはどっちも「本家だ!」状態ぐらいでしょうか。兄のはずの頼典ですが宝賀氏の研究でも家督は外されたようだとはしていますが、その子孫がどうなったかについては言及されていません。明智家の惣領自体は頼定に流れたとする宝賀氏の説に賛成しますが、頼典系がどうなったかです。推測の上に推測を重ねますが道三(あるいは長井新左衛門尉)の後援を頼んだんじゃないかと考えます。

ところが頼典系はどこかで子孫が途絶えたぐらいを考えます。道三の庇護の家ですから、そこに道三の側近であった山岸光綱が送り込まれたぐらいです。同様の手法を長井新左衛門尉も道三も用いています。ところが光綱には嫡子がまたもやいなかった。そこで小さな対立が起こったぐらいです。

  1. 光信は孫の光秀を光綱の養子にしようとした
  2. 道三は光綱の弟の光安を当主にしようとした

光安もまた道三の側近になっていたぐらいの設定です。ここは光綱が生きている間に光信に養子を頼み成立していたとした方が良いかもしれません。ほいでどうなったかですが、宮城系図通りであれば、

  1. 光秀がまだ幼いの理由で光安が家督を継いだ
  2. 光信の顔も立てて、光秀を光安の嫡子とした

ただこれじゃ光安が善人過ぎるので、道三の威光を借りて光安が家督を継いで光秀は後継者から外され仏門入りだったと私は取りたいところです。全部仮説ですが、もしそうであれば宮城系図の進士氏(山岸氏)との濃厚すぎる姻戚関係を構築する理由が理解できます。どこかで山岸氏と明智氏は婚姻関係を結んでいて、明智の血が山岸氏に入っていたかもしれませんが、光秀は明智氏との血縁関係はかなり薄くなります。それこそ幼少の時に明智の養子になっただけで、血筋的にはほぼ山岸氏の人間だからです。そのうえトットと仏門に入れられていたらなおさらです。だからこそ光信の後に信連、信周と三代にわたる姻戚関係を創作し、明智の血が「これでもか!」て流れている話が必要だったぐらいです。

この説明が便利なのは、光信が光継として光継の娘が小見の方であれば、山岸氏も道三シンパになってしまいます。ただ光綱の後継問題で対立が起きていれば、山岸本家は道三シンパから外れる事になります。山岸家も光信の後がどうなったかは不明なのですが、どうも道三崩れの後も生き残っていたようなので、これぐらいの説明を置いておきます。


宮城系図の製作時期

宝賀氏より

  1. 明智本宗の最後の当主が大永六年(1526)卒去の頼定であり、その暫く後の時期に一旦、同系図の基礎的部分本が成立したか、この基礎的部分に対して、次ぎに
  2. 光秀及びその一族・姻族(山岸氏)の系統の継ぎ合わせ、
  3. 明智左馬助光俊〔三宅弥平次秀満〕系の追加、
  4. 宮城氏系統の追加、等がなされたのではないか、

ほぼ同意です。そうなると、やっぱり興味があるのは2段階目で、いつ継ぎ足されたんだろうです。ここもあえて推測すれば、明智家の惣領家が光秀の属する系統に変わった時に書き換えられたぐらいはありえます。もうちょっと絞ると、頼定の系統が家康に仕えた記録の存在は注目しておいて良いかもしれません。これは早くとも永禄7年に菅沼藤蔵が家康に仕えてからになります。問題は藤蔵がいつから明智氏の忘れ形見であると広言していたかです。いつかの時点からかは口にしていたはずで、口にしていたから晩年に土岐定政になったのだけは間違いないでしょう。

案外早かった可能性だけはあります。大した理由ではありませんが明智の評価が変わるのは天正10年の本能寺からで、永禄7年に藤蔵が家康に仕官してから、永禄10年に光秀が信長に仕官するまで明智の家というか名は滅亡状態であった訳です。だから別に明智の出身である事をあえて伏せる必要はありません。一方で光秀ないし光秀の関係者が菅沼藤蔵が明智定明の忘れ形見である情報を入手したんだと思います。その時に嫡流家の菅沼藤蔵との関係を懸念したのかもしれません。つまり菅沼藤蔵こそが明智の名跡の正統の後継者であるって見方も出てくるからです。

そこで光秀こそが明智の正統後継者であるの証明のために家系図を作ったぐらいの想像です。時期としては永禄年間の終わりから天正年間の初めぐらいが推測されますが、どんなものかというところです。

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2017-02-19 明智光秀ムック10

光秀出自と明智家の家系について宝賀寿男氏の明智光秀の出自と系譜 −「宮城系図」等の検討を通じてみる−をもう一度ご紹介します。宝賀氏は歴史研究家ですが、歴史研究の中でも家系図を重視して研究されているぐらいに理解してもらったら良さそうです。


宝賀氏による明智系図の推測

考察についてはリンク先を御参照いただくとして,。

青地が美濃守護で赤字が宝賀氏が比定した明智家当主です。まず土岐頼貞は建武の新政で功績があり美濃守護に任じられ、美濃土岐の実質的初代みたいな人物と思えば宜しいかと思います。明智系図では遠祖を土岐頼貞の九男(九郎)とされる長山頼基(長山遠江守として太平記に登場)に置いており、長山姓の起こりは可児郡明智庄「長山」に在所を持っていたぐらいと推測しています。土岐頼貞の孫の土岐頼康も美濃守護になるのですが、頼康の弟の次郎頼兼が文献上(太平記)での明智姓の初出とされます。明智姓の起こりは可児郡「明智」庄長山に在所を有していたためと推測しています。


頼基と頼兼

長幼の順からして頼基による長山氏がまずあって、後から頼兼の明智氏が出来たはずですが、宝賀氏の研究でも「頼兼 = 頼重」と見なさざるを得ないとしています。傍証として宮城系図での頼重の正室の出自について、

室ハ山県郡伊志良住人長山遠江守源頼基女也

頼重が頼基の娘を正室にしているのなら実子で無いことになります。それと宝賀氏はこれ以上は触れていませんが、頼基は山県郡伊志良の住人となっており可児郡明智庄に住んでいません。そうなると考えられそうなのは、

  1. 頼基は当初可児郡明智庄長山に住んでいたので長山姓を名乗った
  2. 太平記の時代ですから手柄か何かで山県郡伊志良に引っ越しした
  3. 頼基に代わって頼兼が明智庄住人となり明智姓を名乗った
  4. 頼兼は頼基の娘を正室にし、頼重と名を変えた

ここら辺まではあり得そうなお話なのですが、この後にわかっている事は、

  1. 明智氏は長山頼基を家祖に置いている
  2. 頼基の長山姓は受け継がれていない

宝賀氏は頼兼が頼基の猶子女婿となったと推測していますし、それも説得力はあるのですが、太平記での頼兼の活躍(記載量)から考えると何故に猶子女婿にならにゃならんのかってところがあります。とにかく情報は限られていますから、大局的には頼兼が長山の家を吸収してしまったぐらいしか言いようがありません。それも頼基の顔を立てながらです。

それとなんですが、宝賀氏の研究では頼基の家系も姓を明智に変えて続いています。頼基にも子はおり、頼隆・頼助は確認できるようですが、頼兼が明智を継いでからどうなったかははっきりしないようです。宝賀氏は明智氏の尾張の地所で行動したんじゃないかと推測していますが、残念ながら裏付ける資料もないようです。資料はないのですが頼助の家系は美濃に残ったとし、この家系の末に光秀が位置づけられるとしています。光秀が嫡流でないとの仮説はここまで積み上げてきたムックの一つの結論ですから、これを宝賀氏の研究は裏付けてくれているぐらいに思います。


菅沼藤蔵

簡便にwikipediaより、

天文21年(1552年)6月に、父定明が惣領家の美濃守護土岐頼芸と斎藤道三の間の内紛に巻き込まれて殺害された[1]ため、外祖父の菅沼定広を頼って落ち延びる。やがて、近隣の奥平貞勝への母の再嫁により離別させられて、母の弟・菅沼定仙の養嗣子とされた。そのため、菅沼藤蔵として生涯の大半を過ごす事となる。永禄7年(1564年)に徳川家康に招聘されてその家臣となり、永禄8年(1565年)の初陣を皮切りにして姉川の戦いをはじめ、徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、家康から武勇に優れた武将として賞賛された。それらの功績から天正10年(1582年)、甲斐巨摩郡切石に1万石を与えられて大名となる。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐でも軍功を挙げたため、征伐後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に1万石を与えられた。豊臣秀吉からもその武勇を賞賛されて文禄2年(1593年)、従五位下、山城守に叙任された上、没落した土岐の家名を大名として再興することが許された。慶長2年(1597年)3月3日に47歳で死去し、後を嫡男の定義が継いだ。

菅沼藤蔵は家康に仕えた三河武士の典型のような剛直の士であったらしく、面白そうなエピソードがありますが今日は割愛します。菅沼藤蔵は戦国時代を生き抜き大名にまで出世を果たしていますが、晩年に土岐家の名跡を継ぎ土岐定政となっています。定政の家は江戸期も続くのですが、この定政の父が明智定明となっています。宝賀氏の研究で明智嫡流家の最後の当主になります。

さて土岐氏の名跡が復活したのは家康の名家懐古趣味の一環で良いと思うのですが、名跡を復活させる時にやはり血縁の者が選ばれると思います。菅沼藤蔵は定明の子ですから土岐氏の流れを汲む明智氏の忘れ形見たいなものですし、なにより家康にとって忠実な部下ですから資格としては十分です。十分なのですが、問題は光秀との関係になります。家康や秀吉が光秀をどう考えていたかの本音は別として、光秀の縁者となれば扱いはチト微妙な点が出てくるんじゃないかってところです。

宝賀氏の光秀庶流説の出どころは菅沼藤蔵の子孫が続いた土岐沼田藩の沼田家譜からのようですが、上に示したように光秀は明智であっても傍流で嫡流の菅沼藤蔵とは別系列の明智といえます。これがホンマかどうかになってしまうのですが、状況証拠的にホンマじゃないかと感じる次第です。

  1. 藤蔵の母は菅沼氏であり、菅沼氏も家康の忠臣として生き残っている(当時の明智氏の状況を伝承している可能性が高い)
  2. 藤蔵は「菅沼藤蔵」としての手柄で既に大名になっており、大名になるために土岐氏との関連を強調する動機がない
  3. 土岐氏の名跡を継ぐにあたって、格式は上がったかもしれませんが、所領が増えた形跡はなさそう
  4. 伝えられる藤蔵のキャラからして、家系を捏造してまで土岐氏を名乗りたがったかは疑問

少なくとも藤蔵に伝えられた明智氏と光秀の関係は上で示した家系図のようなものであったと考えられます。


道三崩れと明智氏

道三崩れによる明智氏の滅亡について宝賀氏が面白い資料を掘り起こしてくれています。

  • この家の滅亡時期については、定明の二歳の幼児・藤蔵定政(土岐愛茶丸)の三河亡命が天文二一年(1552)とされるから、土岐頼芸の美濃からの再度追放に際してその父定明が殉じたのかもしれない
  • あるいは弘治二年(1556)に斎藤道三を討った斎藤義龍軍による明智城攻めと同じだったのかは確かめられない。
  • 鈴木真年翁『華族諸家伝』土岐頼知条では、「明智九郎頼基十一世土岐兵部大輔定明天文廿一年濃州没落時討死」と記される。

宝賀氏は慎重に明智氏が滅亡したのが天文21年なのか弘治2年なのかは判断がつかないとしていますが、私は素人ですから両方あった可能性はあると見ます。そのためには前提がいるのですが、当時の明智氏は2系統になっていたと考えます。用語をわかりやすくしますが、

  • 頼重を家祖とする嫡流家(菅沼藤蔵につながります)
  • 頼基を家祖とする庶流家(光秀につながります)

当時の美濃も同姓の家が土岐本家の後継争いに関連して2つに分かれているのは珍しくもないお話です。ここで道三との関係として、

  • 嫡流家は土岐本家支持で反道三派
  • 庶流家は道三支持派

こうであったとします。天文21年は天文11年(1542)に尾張に追放されていた頼芸が、信秀と道三の政治的妥協により一時的に美濃に戻り、再び追放された年にあたります。この時に嫡流家は頼芸支持であったので道三に滅ぼされてしまったとまず考えます。次の弘治2年は、義龍による道三へのクーデターでこの時に親道三派であった庶流家が滅ぼされたとの見方です。わりやすく単純化すれば、

  1. 天文21年(1552)に頼芸に加担した明智嫡流家は滅亡(菅沼藤蔵は亡命)
  2. 嫡流家に代わって明智庶流家(光秀所属)が完全に明智本家になる
  3. 弘治2年(1556)の道三崩れで庶流家も滅亡

短期間で2つの明智家が本家を入れ替わり、なおかつ似たような経過で滅亡したぐらいのストーリーです。


道三と明智氏

道三も最近は二代説が有力なので、私もそうしていますが、初代の道三が美濃に登場した年代は不明です。不明ですがこれは前にやりましたが、初代道三とされる長井新左衛門尉の没年が1533年頃に比定できますから、1517年ぐらいに美濃に松波庄九郎として登場したんじゃないかと見ています。道三は巧みな手腕で美濃の国盗りを行っていくのですが、国盗りのためには美濃国内で味方を集める必要があります。完全に推測になりますが、初代道三の活動初期から庶流家は道三に加担していたんじゃないかと考えています。この辺は嫡流家への反発とか、家系伝説として「うちこそホンマの嫡流家」みたいな自負があり、そこに道三が付け入ったぐらいの見方は可能です。

道三が本当に国盗りに動いたのは二代目ですが、道三親子と庶流家は二代続きの既に交流になっていたとまず見ます。道三の国盗りは天文11年(1542)の頼芸追放により一応の完成を見ますが、この時までに25年ぐらいの歳月が流れていることになります。庶流家は道三勢力の伸長とともに大きくなったと見るのが自然ですが、道三が国主になった時点ぐらいに庶流家を本家としたんじゃなかろうかです。本家とした明智家からなら正室を迎えても問題ないですし、先に正室を庶流家から迎えていたのなら庶流家を本家に格上げしたって見方も出来ます。

本家になった庶流家は系図にも手を加えた可能性は十分にあります。宮城系図や熊本の土岐系図にあるように嫡流家に強引に庶流家の系図を接続し、代々の嫡流家に仕立てたぐらいです。これは道三時代の庶流家ではなくもっと後かもしれません。でもって天文21年(1552)には頼芸に加担した嫡流家を道三が滅ぼしてくれたので完全な明智本家になったぐらいでしょうか。弘治2年(1556)に義龍によるクーデターが起こった時に明智氏が滅亡するまで戦ったのは、ここまで道三に深入りしてしまったら、今さら土岐本家に戻れなかったぐらいと見ても良さそうな気がします。たとえ降伏しても稲葉山城で自害させられるのがオチぐらいのところです。既に道三派になって40年ぐらいは経っているからです。

全部推測なのですが傍証は幾つかあります。

  1. 後に嫡流家最後の当主定明の忘れ形見であった菅沼藤蔵が土岐家の名跡を継いでいる
  2. 義昭に仕官した光秀の身分が足軽衆である

1.は上述しました。2.については宝賀氏との説と異なりますが、室町期に奉公衆や外様衆として活躍したとされる土岐明智氏は嫡流家であり庶流家ではなかったと考えると納得できる部分があります。嫡流家のましてや嫡子であるなら、足軽衆にはしないだろうってところです。また真否が微妙ですが、朝倉氏に仕官した時も大した待遇でなかったのも説明が可能になります。庶流家も道三時代には明智本家になったとはいえ、期間的には長くて10年、嫡流家滅亡からなら4年程度であり、美濃以外から見ると蝮の尻馬に乗った成り上がりであり、真の土岐明智は嫡流家であると見なされていたぐらいです。朝倉家や義昭から見ると光秀の出自はその程度であったってところでしょうか。


光秀と光春

状況証拠を結び合わせた仮説に過ぎませんが、こう考えると色んな点の筋が通ってきます。道三時代は庶流家が本家となっており、そのうえ嫡流家は滅んでいます。明智城には庶流家が君臨していて当然になります。明智光安が道三に正室を提供し、道三に最後まで加担し滅亡まで突っ走ったのは、二代にわたる道三との交流と、道三に引き立てられて明智本家にまでなった点で良いかと思います。そこまで道三派に深入りしてしまったので、既に和睦して義龍派に戻るのは不可能な状況であったぐらいでしょうか。

最後の謎は光安が庶流家最後の当主であったとして、光秀は何者であろうかです。通説では上に示した家系図のように光秀は光安の甥にあたります。それもタダの甥ではなく、嫡子であった光隆が早世したので光隆の弟である光安が家督を継いでいる関係です。こういう場合は

  1. 光久の後に嫡孫の光秀に家督を戻す
  2. 光久の子孫が嫡流になり家督を継承する

どちらもあり得るのですが、カギの一つは光安の子がどうかになります。家督相続も基本は長子相続ですが、時に能力主義の側面が現れ、それがお家騒動のモトになるのはよくあるパターンです。光安の子も有名で左馬助光春(秀満)とされています。実はここも異論があれこれあり宝賀氏は、

明智秀満は、光秀の女婿で、俗称は左馬助光春としてしられるが、実父は不明であり、光秀叔父の光安の子という系譜は疑問が大きい。その本名が三宅弥平次という事情からして、実際は三宅氏の出とみられる

三宅氏もどうもはっきりしない一族のようですが、宝賀氏は明智の一族ではないかと見ています。宝賀氏が注目したのは光春の子孫と称する人間が三宅氏を名乗って江戸期に生き残っている点のようです。つまりもともとが三宅弥平次であって、光秀に気に入られて女婿になり明智の姓を名乗っただけではないかの見方です。仮にそうであれば

  1. 光春は光安の子ではない
  2. 光春は光秀の単なる家臣であったかもしれない
  3. 光安には子がいなかったかもしれない

光安に子がいなければ明智家の家督は嫡孫の光秀って事になるのですが、そんなシンプルなものだったかどうかです。光安と明智一族の多くは道三崩れで亡くなりますが、この時の明智攻めは明智家滅亡を目指したもののはずで、一族のなかでもとくに嫡流につながるものは可能な限り殺したはずです。つまり光安に子がいても一緒に死んでいる可能性がかなり高いってところです。なにが言いたいかですが、明智氏の嫡流家は天文21年に滅び、代わりに本家となった庶流家も道三崩れで滅んだんじゃなかろうかです。ここは言葉足らずで、庶流家が道三崩れで滅んだ時に、庶流家の家督相続資格者も亡くなるか、それとも菅沼藤蔵のように他家の人間として活躍するような状況です。

光秀が明智の一族である事自体は疑っていませんが、道三崩れで生き残ったのは史実ですから可能性としてありうるのは、

  1. 嫡流家、庶流家に次ぐ第三以下の明智の一族(上が無くなったので繰り上がった)
  2. 庶流家の子であったが、子どもの時から仏門に入っており、道三崩れの時にそもそも美濃にいなかった

家系図と照らし合わせて構築し直すと、光隆が亡くなった時に光秀は子としていたかもしれませんが、未だ幼少であったので家督は叔父の光安が継いだとまず考えます。そうなった時に将来の家督相続の障害にならないように光秀を仏門に入れるはありそうなお話です。武家として育つと嫡孫ですから、光安の子と家督を争う火種になりかねないからです。この時に光秀は時宗僧となり、時宗僧は諸国遊行を行いますから、道三崩れの時に明智どころか美濃にいなくとも不思議ありません。結果として生き残ったぐらいです。


時宗僧と過所

ちょっと余談になりますが、時宗僧は将軍義持から過所を得ています。私もウッカリしていたのですが、これはかなり重要な権利になります。室町期の一つの風景として各地の領主が関所を設け、その通行料を財源としていたのは事実です。このため、旅をしようと思っても数多い関所で通行料を支払う必要があり、たとえばwikipediaより

15世紀末の伊勢神宮の近辺の例では、松阪市から内宮までの50kmに満たない距離の間に、100文以上の支出を要したとする分析例がある。

とにかく旅をしようと思えばゼニがたくさん必要であった時代ぐらいで良いかと思います。これに対する過所の権利は、時宗僧であれば通行料を免除するぐらいと思えば宜しいかと思います。そのため諸国を回る必要があった遊芸者は時宗僧になる、もしくは時宗僧の法名を名乗って過所の権利を得ようとしたなっています。そのためある時期までは遊芸者とは時宗の法名を名乗る者ぐらい時期があったそうです。ここはシンプルに時宗僧になれば諸国遊行がしやすかったぐらいで良いかもしれません。もう一つ時宗僧であれば諸国遊行に便利であったのは、時宗寺院のネットワークを宿所として利用しやすいのもあったと思います。

時宗、とくに当時の時宗僧が一般的にどれぐらいの期間、諸国遊行を行うものかはわかりませんが、宗派の趣旨として遊行があるわけですから、当人がその気であればかなり長期間の諸国遊行も可能だったと思います。ここで光秀の見聞は非常に広かったとするのが定説です。広かった理由として信長に仕えるまでの間に、武者修行で全国を回っていたらとする設定が歴史小説では良く用いられます。

ただここで過所の問題が出てきます。過所の権利は時宗僧のみの特権ではなかったとおもいます。たとえば寺の修理の勧進とか、そもそもある程度身分以上なら通行料は免除されていたとするのが妥当でしょう。ある程度の身分のうちに武家も入っていてもおかしくありません。ただ武家は入っていても、牢人が入っていたかとなると疑問が出てきます。光秀が牢人として武者修行を行えば関所の通行料問題が出てくるわけです。つうか、世は戦国ですから牢人が領内をウロウロされただけで目障りとされた気も私はします。

時宗に与えられた過所の権利の大きさは、

  1. 時宗僧すべてに網羅的に与えられた
  2. 時宗僧には誰でもなれた
  3. 法名を名乗り、時宗僧として最低限の証さえ認められれば過所の権利を行使できた

諸国を遊行するにあたって、時宗寺院のネットワークも時宗僧は利用できますが、それでも旅費は必要です。遊芸者が諸国を回るために時宗の法名を使った例も多かったようですが、諸国を長期で遊行する時宗僧も生活費を稼ぐために遊芸を身につけたとも考えられます。時宗僧は遊行してますから、他国の見聞を話すだけでも一宿一飯に与れるとは思いますが、当時の僧侶は知識人とも思われていたはずで、たとえば連歌の会なんかにも呼ばれたんじゃないかと思ってます。田舎じゃ連歌をしようと思っても、連歌が読める頭数を集めるのも大変だったぐらいが想像されるからです。そういう能力が優れている方がより優遇されるだろうってところです。

そうやって考え直すと「遊行三十一祖 京畿御修行記」にある

惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申。

ここは違った見方も出来そうな気がします。美濃の実家の明智家が道三崩れで滅亡したので、光秀は武家に復帰し、明智家の再興を目指した可能性はあります。武家になったので称念寺ではなくその門前に住居をもったぐらいの見方です。ただそこからストレートに朝倉家に仕官はできなかったのは事実と見て良さそうです。それでも10年間は長いのですが、ずっと称念寺門前で燻っていた訳じゃなく、この間も時宗僧に化けて諸国遊行ならぬ武者修行をしていた期間があったと見る方が良いかもしれません。

この時宗僧に化けるのに称念寺住職から便宜をはかってもらったり、留守中の家族の生計の援助をしてもらったのが「旧情」ぐらいの表現になっているぐらいです。なんというか、明智家再興の志を称念寺住職が強力に後押ししてくれたぐらいの読み取り方です。真相はわかんないですけどね。

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