新小児科医のつぶやき

2016-07-15 桶狭間再び

前に散々やったのですが、これまでの知見も踏まえてもう一度やってみたいと思います。


これまでの知見

桶狭間の合戦の経緯がわかる重要資料として信長公記があります。信長公記は実際に桶狭間合戦に従軍した太田牛一が書いたもので、おそらくこれ以上正確な資料はないと思われます。もちろん信長公記とてどこにも間違いがないとは言えませんが、たとえば甲陽軍鑑が描く川中島よりよほど正確だろうぐらいです。この信長公記のお蔭で信長の動きはある程度把握するのは可能です。問題は義元の動きです。太田牛一は織田軍にいたので織田軍の動きには詳しく記述していますが、今川軍の動きについての記述は必然的に乏しくなります。

義元が5/17(新暦、以後同じ)に沓掛城に入り、5/18夜から作戦行動を起こし、5/19に桶狭間方面に進出していたのはおそらく間違いありません。そうじゃなきゃ討ち取られません。結果だけはわかっているので義元が桶狭間にいた理由として、緒戦の勝利に油断しきった義元が昼食のためにのんびり休憩しているところを信長が奇襲して勝利したの説明が行われ、これが長い間の定説となっていました。この延長線上で時代劇などで描かれる義元は怠惰な愚将のイメージで描かれ、これまた定着しています。

しかし義元は決してそんなバカ殿みたいな愚将ではありません。義元の前半生は苛烈なもので花倉の乱と呼ばれる継承紛争を勝ち抜き、この継承紛争に介入してきた北条氏綱のために富士川以東を奪われる(河東の乱)なんて試練が起こっています。義元の20代は北条氏に奪われた河東の地の奪還に費やされ、北条氏康を相手にこれを実現しています。また領国統治も万全で、今川氏といえば富強を謳われ、当時の感覚では「今川氏 >> 武田氏」ぐらいの力関係であったとしても良いと思っています。

義元が桶狭間に進出してきた理由も「天下が欲しくなったから」ではないと見ます。義元が最も警戒していたのは東の北条氏です。今川氏は伝統的に西に勢力を拡張していますが、西に延びる時に一番懸念されるのは背後を北条氏に衝かれることであったと見ています。そこに越後の謙信が台頭します。謙信が関東管領として関東に大規模介入する情報を義元はかなり正確に把握していたと考えています。謙信が関東に介入すれば北条氏は西に動く余裕はなくなるだけでなく、背後の今川氏を味方につけておく必要があります。

実際のところ謙信の越山と義元の桶狭間はほぼ同時に行われています。wikipediaには、

5月、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越える。

これは結果的にそうなったなっただけで、謙信の関東介入に合わせて尾張切り取りを狙った義元の計算尽くの行動と見る方が良いと思います。また後に上洛軍と評されるほどの大軍を動員できたのも北条氏が動けない状態があったこそのものであり、義元が入念に作戦を練り上げたものと私は思います。

桶狭間の謎のカギは義元がどう動いたか、いやどう動くつもりであったのかの気がしています。しかし残念ながら信長公記でも今川軍の動きは断片的であり、ましてや義元がどう動くつもりであったかとか、なぜに運命の時刻に桶狭間にいたかについての説明は皆無として良さそうです。わかっているのは中島砦まで進出した織田軍主力の近くに本陣を置いていたぐらいです。でいつもの事ですが、「わからない」からあれこれ考えを広められるムックを楽しみたいと思います。


地形

必要な部分だけの概略図を描いてみました。

当時の街道(道路一般)はプアだったとはいえ、軍勢の移動は基本的に道に従います。これは大軍になればなるほどそうなると考えています。義元は5/12に駿府を立ち5/17に沓掛城に入っています。これは基本的に東海道を進んできたとの理解で良いかと思います。この沓掛城と織田氏との最前線との間には桶狭間丘陵があるぐらいの理解で良いと思っています。沓掛城から尾張に進出するには

  • 鎌倉往還
  • 桶狭間道(仮称)

があります。現在というか江戸期でも混乱しそうな気がするのですが、どうやら桶狭間当時は鎌倉往還が主要街道であったようです。というのも桶狭間道は江戸期には東海道になるからです。しかし当時の桶狭間道は両側を深田に挟まれた畦道程度ではなかったかと推測されています。つまりは沓掛から鳴海への抜け道程度の位置づけです。一方で鎌倉往還は古代東海道由来じゃないかと思っています。この鎌倉往還ですが鎌倉街道と桶狭間の戦い の地図を見て欲しいのですが、

鎌倉往還(鎌倉街道)は丹下砦の北側ぐらいで上中下の3つに分かれ熱田に向かいます。なぜに北側に鎌倉往還が迂回しているかですが、当時の海岸線の状況で良さそうです。地形図の海岸線は豊明市HPの国指定史跡桶狭間古戦場伝説地を参考にしたのですが、私の海岸線の描きようにもなるのですが、当時の地形、とくに満潮時には大高城のある地域と鳴海城がある地域は分断されていた可能性がありそうに思います。この辺は桶狭間当時にどれほど堆積が進んでいたかになるのですが、古代東海道が敷かれた頃は鳴海さえ海だった可能性があり、桶狭間の時も波打ち際に近かったと推測します。

つまりは鳴海場周辺と大高城周辺は連続した地形と必ずしもいえず、むしろ海によって分断されていた可能性があると思っています。中島砦も扇川と手越川の合流部まで入江が入り込み、その中に出来た三角州に作られたものではなかったと考えています。


大高城

桶狭間の合戦の焦点の一つに大高城救援があります。大高城は織田軍の付城作戦によって兵糧補給が滞り、ここに兵糧を運び込むことが命題になっていたのは史実です。これに従事したのは松平元康・朝比奈泰能の2人で、5/18夜に沓掛城を出発したとなっています。この2人がどういうルートで大高城に向かったのかも不明なんですが、夜間行軍でもあり大高道(仮称)を通ったと推測しています。松平元康・朝比奈泰能は徹宵行軍で大高城に兵糧を輸送したのに引き続いて5/19の3時頃から鷲津・丸根砦の攻撃を行い、おそらく午前中、たぶん10時頃にはこれを陥落させたとぐらいで良さそうです。

この5/19の午前中なんですが鎌倉街道と桶狭間の戦いより

海上保安庁の潮汐推算で計算すると、信長が熱田神宮から移動した午前8時は満潮時で217センチメートル潮位であることがわかる。

これは大高城・鳴海城方面も同様として良いかと思いますから、善照寺砦方面にいた織田軍は救援に駆け付けたくとも無理だった可能性はありそうです。なんとなくですが、今川軍はそういう機会を狙って大高城救援作戦を展開したんじゃなかろうかと思い出しています。大高城救援部隊は徹宵行軍からの合戦ですから、合戦後には休養が必要です。鷲津・丸根砦を落としても、その草臥れきったところを織田軍に襲われたら、いくら軍勢が多くとも追い散らされる可能性があるからです。

信長も今川軍が鷲津・丸根砦を攻撃したと聞いて出陣するのですが、この時に信長がどういう戦術を思い描いていたのでしょうねぇ。


義元の意図を考える

桶狭間の合戦は沓掛城から大高城の別動隊が出て鷲津・丸根砦を攻略し、その翌日には義元が討ち取られてしまうので、私は大高城方面をどうしても注目していました。もう少し具体的には

    大高城 → 鳴海城 → 熱田

こういう今川軍の進撃コースを思い浮かべていたわけです。これも大間違いではないと思いますが、大高城救援は今川軍の尾張進攻に関してはオプションではなかったかと思い始めています。今川軍の主要進撃路は鎌倉往還を通って熱田方面に出るのが戦略の基本だったんじゃなかろうかです。大軍のメリットを一番活かせるのは広い平地であり、そのためには主力を熱田方面に進出させてしまうのが一番効果的と思うからです。そんな事をすれば今川軍の後方になってしまう鳴海城周辺の砦にいる織田軍が補給路を遮断するんじゃないかとの意見が出そうですが、後方は放置するのではなく、今川軍主力が織田の前線部隊の後方を遮断し、その状態で別動隊が砦を潰していく戦術です。織田の砦群も後方を今川主力に遮断されると動揺するでしょうし、清州からの援軍も期待できなくなるからです。

そういう戦術が取れるのはイチにもニにも今川軍が織田軍より兵力が多い点になります。もちろん今川軍(織田軍もそうですが・・・)が実際にどれほどであったのか確認しようがないのですが、たとえば織田軍3000に対し今川軍1万5000なら5倍になります。それぐらいの兵力差はあったんじゃないかと考えています。それを前提に考えると

  1. 5/18夜に沓掛城を出た大高城別動隊は、目的を果たした後は5/19は休養日。5/20から北上予定。
  2. 沓掛城の今川軍は5/19朝に出発し、

    • 義元率いる主力軍は鎌倉往還を通って熱田方面への進出を目指す
    • 別動隊を編成し、桶狭間道から鳴海方面を目指す

大高城別動隊は4000ぐらいじゃないかの見方がありますから、鳴海城別動隊もそれぐらいの気がしています。そうなると義元主力部隊は7000ぐらいだったかもしれません。


信長の動きへの反応

清州城内でも籠城派と出撃派に分かれていたとなっていますが、義元も信長が出てくるか籠城するかの判断に迷っていた部分はありそうです。おそらくというか「たぶん」ですが義元の基本的な判断は、

    信長は清州に籠城する

野戦になれば兵力差は圧倒的であり、勝負にならないのは誰が見ても明らかだからです。信長が出てきても熱田まで進出していれば負ける要素はないぐらいでしょうか。ところが信長は織田軍主力を率いて鳴海方面まで進出してきます。これが義元にとってやや意外な展開になった可能性はあると見ています。このまま鎌倉往還を熱田に進んだら、

  1. 桶狭間道を進む鳴海城別動隊だけでは織田軍主力とほぼ互角になってしまう
  2. 熱田に進出した段階で鳴海城方面に信長が率いる主力軍が頑張られると補給路の斜断、沓掛城への中入り戦術の懸念も出てくる

これに対応するために鎌倉往還を進んでいた義元主力は引き返して桶狭間道にいる鳴海城別動隊との合流を目指したんじゃないかと考えています。つまり信長が主力を率いて出てきたのなら、義元も主力決戦を鳴海城方面で行う目的です。まあ、わざわざ出て来てくれたのなら叩き潰してしまえば、尾張切り取りどころか尾張併呑も視野に入ってくるぐらいです。ただ予定外の戦術変更であったので、今川軍にやや混乱が生じた可能性はあると考えています。具体的には5/19に決戦の段取りまで進まなかったぐらいです。この辺は5/20になれば大高城別動隊の合流も期待できるので、義元も無理してまでの決戦を強行しなかったのかもしれません。


仮定の上での結果論

義元が鳴海城別動隊との合流地点も結果的に良くなかったと思っています。桶狭間丘陵は高いところで50〜60メートル程度ですが、間に手越川に沿って谷間があり、今川軍は分散して高地に布陣せざるを得なくなります。高地に布陣するのは戦術の基本ですが、軍勢としての連携があまり良くないものになったんじゃないかと見ています。つまりは各個撃破の危険性が高くなります。この辺は鳴海城の東側に軍勢を展開させる適当な場所がなかった、もしくは敵前で陣営を設置するリスクと天秤をかけたのかもしれません。つうかやっぱり万全を期すために大高城別動隊の合流を目指していたので、5/19は守りの姿勢だったのかもしれません。

史実は豪雨を衝いて信長は突撃するのですが、そこが義元本陣であったかどうかは信長も確信はなかった気がします。「いるらしい」の情報はあったとされますが、信長の本音としてはとにかく今川軍の一部隊を景気よく蹴散らしてやろうぐらいじゃなかった気がしています。豪雨は今川軍の連携をさらに悪くしますから、最終的には義元本陣勢と織田軍主力の決戦になり、今川軍を撃破しただけではなく義元の首まで取れたってところのように見えます。

信長には言行録みたいなものが殆どないとされています。また懐古趣味もなかったとされますが、とくに桶狭間については触れもしなかったとする説があります。これは信長にとっても怪我勝ちであったのを身に染みていたからの気がしています。

JSJJSJ 2016/07/17 22:28 いくつか違う考えを、私は持っています。

今回の義元の作戦は、一挙に清州を突くといったものではなく、
第一段階として大高城に対する織田方付城の排除、
第二段階として鳴海城に対する織田方付城の排除、という常識的なものだったと考えています。
(最終的には清州城攻めまで考えていたのかもしれませんが)
その過程で信長が後詰めとして出陣してくる可能性は考えていたのではないでしょうか。
信長が清州城に篭城するというのは、義元にとって一番楽な状況で、義元はそれを期待するほど甘い武将ではなかったと思います。

信長の立場で考えると、
他家から援助してもらえる(例えば岩村遠山家に今川の補給線を遮断してもらうとか、武田や北条に今川の背後を脅かしてもらうとか)
見込みが立てば清州篭城という策もあり得たかもしれませんが、
そうでなければ篭城策という選択肢はなかったと思います。
篭城しなかったという結果から考えて、援助してもらえる見込みはなかったのでしょう。

義元の作戦に戻りますが、
第一段階で大高城に対する付城群を排除すると同時に、鳴海城に対する付城群への南側の布陣が完了します。
第二段階に進むために、沓掛城に待機していた部隊(義元本陣含む)は鎌倉街道を通って鳴海城に対する付城群の東側の丘陵に布陣しようとしたのだと考えます。
そこに信長本陣が同じく鎌倉街道を通って強襲したため、今川方は南へ追い立てられ、結果として義元は桶狭間の低地で討ち取られたのだと考えます。

信長にしてみれば、
鎌倉街道に向かったのは、そこが道であり、敵もそこを進軍してくるはずだからだし
強襲をかけたのは他に選択肢がなかったからで、
義元本陣を捉えることができたのは幸運に恵まれたからだと思います。

JSJJSJ 2016/07/18 07:32 説明不足の点がありましたので、補足します。
今川方が第二段階で、中嶋砦・善照寺砦・丹下砦を南から順につぶしていく予定だったのか、三つの砦を同時に攻撃する予定だったのかは分かりません。

19日午前に、中嶋砦に現れた信長を察知していれば、扇川を渡河する前に信長本陣もろとも中嶋砦を押し潰すべく砦の東に布陣。
義元本陣が南=手越川の対岸の味方との合流を考えたのは信長の強襲を受けてからだと考えます。
その場に踏みとどまらずに移動を企図したから崩れたのか、崩れたから味方のいる南を目指したのかは、わかりません。

中嶋砦の信長を察知していなければ、鎌倉街道を行軍中に襲撃を受けた可能性も考えられます。
この時に街道を東へ退却していれば無事沓掛城に逃げ込めたかもしれません。
後陣に塞がれて街道上を逃走することができなかったのか、とっさの判断で最寄りの味方との合流を考えたのか、
いずれにせよ南へ逃げたのが運の尽きとなったのではないでしょうか。

信長が中嶋砦から鎌倉街道に「迂回」したのは、繰り返しになりますが、
通行しやすかったからであり、当然今川方もそこを通って進攻してくると考えたからだと思います。

YosyanYosyan 2016/07/18 09:26 JSJ様

信長公記至上主義者って訳ではありませんが、義元本陣は「おけはざま山」すなわち丘の上に陣を取っていた可能性が高いと考えています。これは戦術の常識です。もう一つなんですが、扇川上流(善照寺砦の東側)の地形がどうであったかです。地形図ではそれなりに平坦地ですが、足元はどうだったんだろうかです。はたして軍勢を展開できたんだろうかです。この辺りは織田・今川の前線地帯でたくさんの城砦が存在しますが、扇川上流地域はポッカリと空いています。これはよほど足場が悪かった可能性もあるんじゃないかと思っています。

信長が最終段階で中島砦から鎌倉往還を走った可能性は十分にあると思っています。信長公記と別の記録で、桶狭間の合戦の時には「やたらと登ったり、下りたりした」てな経験談があったはずです。これは中島砦から桶狭間丘陵を直接強襲したので起こりえない話で、鎌倉往還を動いたのなら辻褄が合うってところです。鎌倉往還から桶狭間丘陵の義元本陣を強襲したのなら、義元本陣が崩れた時に鎌倉往還を使う選択枝はなくなります。必然的に桶狭間道方面に追い落とされる結果になり、伝承の桶狭間合戦地域が主戦場になります。

こうやって詰めていっても残るのは、

 >なぜに義元本陣があっさり総崩れになったのか?

この謎だけは残ります。やっぱり信長の迂回強襲戦術を撤退と見誤り油断していたのでしょうか。それぐらいしか思いつきません。

JSJJSJ 2016/07/18 17:06 もう一点。
信長が手越川沿いの道=後の東海道を通ったとは思えない理由です。
手越川の南岸の丘陵上には、大高城方面に向かった今川方の先鋒部隊の陣が並んでいたはずです。
信長が中嶋砦を発った時点では雨はまだ降っていません。
信長が手越川に沿って東進すると、南岸の今川陣に側面を晒すことになります。
いくらなんでも無謀だと思います。
それを押して敢行するとなると、義元本陣の位置を正確に掴んでいたという前提が必要です。

思うに、義元が討ち取られた場所が後の東海道のすぐ脇だったことが、江戸時代の考証家を誤らせたのではないでしょうか。
いろいろな謎や伝説が生まれるのは、東海道の存在に引きずられて主戦場をその付近に想定してしまうからのように思われます。

桶狭間合戦時点の主要通路を大高道と鎌倉街道だけだと想定すれば、双方の動きはすっきりと理解しやすいものになると思います。

>なぜに義元本陣があっさり総崩れになったのか?
Yosyanさんが最初に書かれています。「これは信長にとっても怪我勝ちであったのを身に染みていたからの気がしています。」
信長自身にとっても「運」以外の理由は分からなかったのではないでしょうか。

YosyanYosyan 2016/07/18 18:18 手越川沿いの道(= 桶狭間道 = 江戸期東海道)に向かって突撃したのはそれこそ佐々政次、千秋四郎であった気がします。この突撃の解釈も様々にあるのですが、佐々・千秋は中島砦の前方に布陣していたとなっています。中島砦は桶狭間道の抑え的な位置にあり佐々々・千秋はそこに今川軍を肉眼で認めたので突撃したと解釈したいところです。つまりはそこまで今川軍が既に進出したいたということです。信長は佐々・千秋の敗戦を下手するとその目で見ていますから「この道は無理」の判断をした可能性は十分にあります。

ちょっとだけ妄想を膨らましますが、桶狭間道方面に今川軍が充満した時に中島砦の信長が思い至った戦術は今川軍の中入りだったかもしれません。鎌倉往還を通って熱田方面に中入りされると信長は退路を断たれ包囲網に落ちます。そこで先手を打って中入りしてくる今川軍を叩く戦術の決断です。とにかく中島砦にいたところで時間とともに不利になるので何か動いてみようだったかもしれません。ところが通ってみると今川軍はおらず、ちょうど扇川に出たぐらいの時に手越川の北岸丘陵に義元本陣があるらしいの情報が梁田政綱からもたらされ、遮二無二突撃したぐらいのストーリーです。

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2016-07-02 神戸の善光寺

通勤途中に立派なお寺があり気になっていたのですが、先日ようやく確認すると、

20160701124113

こうなっていました。「へぇ」と感心して職員に話すと全員知っており、知らぬは私ばかりなりってところです。善光寺との関係は、

20160701124114

ちゃんと信州善光寺の分身如来って書かれています。それにしても神社で分祀はいくらでもありますが、お寺でも似たようなケースはあるんですねぇ。ただこれを見ながら不思議に思ったのは善光寺分身如来があり、善光寺と名乗っているのに御本尊は不動明王となっています。それより何より善光寺って天台宗だっけとムック心が湧いてきた次第です。


善光寺の宗派

お手軽にwikipediaより、

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている

私もそう聞いた覚えがあります。ただですが、

山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。

山内の塔頭は天台宗と浄土宗によって構成されているのがわかります。天台宗と浄土宗が共存しているのも驚かされますが、無宗派とは言いながら実質的に天台宗と浄土宗の寺と見て良さそうで、さらに浄土宗側は尼寺なので天台宗が塔頭の数からしても「やや優勢」ぐらいに思えないこともありません。であれば「善光寺」と名乗る寺が天台宗であってもそんなに無理はなさそうです。。ほんじゃ神戸の善光寺が信州善光寺の天台宗大勧進25院の系列かといえば、どうもそうではなさそうです。


神戸の善光寺の由来

神戸善光寺HPより、

当寺は、もとは江戸寛永年間より宝乗院と称し、天台宗総本山 比叡山延暦寺 東塔北谷の一院でした。

江戸初期に比叡山に建てられた宝乗院が始まりのようです。比叡山の宝乗院がなぜに神戸に移ったかですが、

明治2年に火災で御堂を焼失。幸いにも本尊不動明王、脇士二童子(県重要文化財)は前日に移動していたため、被災を免れました。明治時代に、兵庫湊川に移転再興後、信州善光寺の御分身一光三尊善光寺如来を請来し、大正8年に宝乗山善光寺と改称。昭和15年には六甲山麓の現在地に移転しました。

自院のHPですから一番信憑性が置けるとみたいところですが、どうも話がスッキリしません。火災があって本尊が難を逃れたのは事実として、なぜにわざわざ神戸の湊川に移転再興したんだろうです。気になったので現在の比叡山に宝乗院があるかどうかを確認したら、神殿大観の比叡山のところに北谷の虚空蔵尾に宝乗院があるのがわかります。どうも比叡山の宝乗院も火災後の「いつか」は不明ですが再建された可能性があります。

比叡山の宝乗院についての情報はこれぐらいしかないのですが、神戸の善光寺についてもう一つ情報があります。神戸市HPにも神戸善光寺の由来が紹介されています。

もともと、比叡山北谷の宝乗院にあったものが明治2年に寺が焼失し、坂本の里坊に安置された後、昭和50年に現在の善光寺に移されたものです。

神戸市もHPで紹介するにあたり神戸善光寺に由来を確認したと思うのですが、ストーリーが若干違います。神戸市のニュアンスでは、

  1. 神戸に善光寺の分身如来を祀っていた善光寺があった
  2. ここに比叡山の宝乗院火災後に坂本の里坊にあった不動明王を昭和50年に移した

なんかこう取れそうな気もしないでもありません。神戸市もHPに紹介するにあたって神戸善光寺に確認したと思うのですが、どうも微妙に内容が違う感じがします。もうちょっと情報がないかとググっていたら、天台宗兵庫教区寺院大図鑑にかなり詳しい経緯が記されていました。

当山はもと宝乗院と号し、比叡山延暦寺東塔北谷の一院であった。地圓和尚(寛永二年寂)を第一世と為し、その世譜は江戸年間に連綿と続いたが、明治二年十二月朔日の火災で堂宇を焼失した。本尊不動明王・脇士二童子は火災の前日幸いにも隣の安禅院に移されていた為被災を免れたが、誠に奇瑞というべきで、この間の事情は不動明王台座裏に墨書された宝乗院第二十五世慈常和尚による明治三年の銘文に明らかである。明治三十八年恵玄和尚、宝乗院住職拝命、兵庫湊川に移転再興、信州善光寺御分身一光三尊阿弥陀如来を請来し、大正八年寺号を宝乗山善光寺と改称した。昭和十五年に恵能和尚が現在地に移転、昭和五十一年宝乗院再興七十周年を期に、比叡山麓坂本町の旧宝乗院里坊跡に安置されていた本尊不動明王(藤原時代)脇士二童子(鎌倉時代)尊像を奉迎遷座した。

明治2年の火災時に不動明王が生き残ったのは「なぜか」前日に隣の安禅院に移されていたからとなっています。この時の宝乗院住職は「宝乗院第二十五世慈常和尚」で良さそうです。その後の宝乗院住職がどうなっていたかは不明ですが、火災から36年後の明治38年に恵玄和尚が住職に命じられたとなっています。恵玄和尚は善光寺分身如来を迎え入れて本尊とし、大正8年に宝乗山善光寺と改称したで良さそうです。さらに後継の住職と考えられる恵能和尚が現在地に移転したのも事実のようですし、昭和51年に不動明王が移されたののも事実のようです。


どうもなんですが・・・

あんまり寺院組織については詳しくないのですが、宝乗院を比叡山ではなく湊川に再建したあたりにカギがありそうな気がしています。再建といっても比叡山が資金提供するわけではないでしょうから、恵玄和尚が自力でというより、恵玄和尚のパトロンがいたと考える方が妥当そうな気がします。パトロンといえば聞こえが悪いですが寺を寄進するような有力者・後援者が湊川にいたんじゃなかろうかです。でもってその寺の住職に恵玄和尚が任命されたぐらいです。この辺はパトロン主導なのか、恵玄和尚主導なのか、共同作業なのかは確かめようがありません。

寺を建てるとなると本山の許可が必要なはずですが、その時になんらかの理由で明治2年に焼失した宝乗院の名を本山が与えたぐらいの経緯がありそうです。つうかそう名乗っているのは事実です。一方でなんですが旧宝乗院の不動明王は坂本の里坊におられた事になります。おられたといっても倉庫にしまっていたのではなく、里坊が寺となって管理する住職もいたとおもいます。なんといっても火事から36年経ってますから里坊も不動明王を本尊として独立の寺として運営されていたぐらいの想像です。

結局のところ恵玄和尚は比叡山から宝乗院の名跡を受け継いだものの御本尊は坂本の里坊に定着し、御本尊無しの状態になっていたと考えて良さそうです。御本尊なんて適当に祀り上げても良さそうな気がしないでもありませんが、恵玄和尚は由緒ある御本尊にこだわりを見せたぐらいには思えます。まあ御本尊の有難さは寺院の重要項目ですし、湊川では新たな寺ですから「売り出しの目玉」を重要視されたんじゃないかと想像します。そのために選ばれたのが善光寺分身如来であり、この御本尊がおられることをよりアピールするために宝乗山善光寺と改称したと考えるのはアリと思っています。

ここでどうしても分かりにくいのが坂本の里坊にあった不動明王を移したことです。表向きの理由としては里坊の維持が何らかの理由で困難になり、元をたどれば比叡山の宝乗院の後継寺院である神戸善光寺に戻したぐらいでしょうか。それはそれで良いのですが、どうしても違和感があるのが今度は御本尊を不動明王にされていることです。寺の御本尊は一つですから、こういう時には御本尊とは別になんとか堂を建ててお祀りするなんて手法は多いと思っていますが、今回のケースでは従来の善光寺分身如来がそういう待遇を受けたのでしょうか。


住職ワールドみたいなお話

うちの職員にお寺関係に相当詳しい方がおられまして、その辺の関係を聞いてみたのですが、

  1. 末寺を作るには本山の許可が必要
  2. 御本尊を変えるなんて考えたこともないから手続きは知らない
  3. 寺の名称を変えるなんて考えたこともないから手続きは知らない

まあ常識的にはそうでしょうが、あえて聞いてみると

    「住職が変わったからじゃない?」

末寺の住職の人事権は原則として本山が持っているとのことです。これも大きな寺ならわかりやすいのですが、町寺でも基本は同じだそうです。ただ町寺では容易に世襲は可能だそうです。息子なりが跡継ぎを希望すれば所定の手続きさえ踏めば次期住職になれるぐらいです。そのために何代にも渡って同じ家族が住職になるのは珍しくもなく、これを外から見ると住職家族の寺みたいに見えるってわけです。そういう町寺を私も幾つか知っています。しかし跡継ぎがいなければ新たな住職が本山から任命され、元の住職家族は寺から出ていかなければならなくなるそうです。

住職が変わっても同じ宗派の僧侶ですから基本は変わらないのですが、やはり同じ宗派の僧侶であってもやりたい宗教活動の方向性は違ってきます。たとえばこれも宗派で異なりますが、天台宗や真言宗では僧侶ごとに念持仏があるそうです。住職が変わった時に自分の念持仏を御本尊にするのは「あるかもしれない」とされていました。これも必ずではなく、僧侶によってはそうする者もいるぐらいのお話です。

神戸善光寺の住職も湊川に再建されたときの恵玄和尚の家系が続いているかどうかは不明とされていましたし、それ以前に現在の神戸善光寺の住職家族もいつから住職かは不明とされていました。つまりは住職家族が何回か変わった可能性があるというところです。あくまでも想像ですが再建70周年を記念して坂本から旧宝乗院の不動明王を迎え入れた住職は不動明王信仰が強く、さらに旧宝乗院からの歴史に強い関心を抱いていた人物であったかもしれないぐらいです。

そんなに関心があるのなら紹介するから今の住職さんに話を聞いてみたらと言われましたが、たかがこれだけの事でそこまでするのはチョットと遠慮させて頂きました。

JSJJSJ 2016/07/02 11:21 >それにしても神社で分祀はいくらでもありますが、お寺でも似たようなケースはあるんですねぇ。
「信州善光寺の御分身一光三尊善光寺如来」というのは、外形的には「善光寺式阿弥陀三尊像」(https://ja.wikipedia.org/wiki/善光寺式阿弥陀三尊)
のことだと思います。

以下は日本中世宗教史家の佐藤弘夫氏の説に私なりの解釈を混ぜた話になりますが、
中世、仏像は単なる像ではなく人格(仏格?)を持った存在であり、仏の分身であると同時にそれ自体が験力を持つ存在で、具体的には仏本体と参拝者の縁を取り結んだり、あるいは起請に違反した者に罰を与える存在だと考えられていたのだそうです。
(たとえば阿弥陀様なら、極楽往生を遂げさせてくれる主体は浄土におわす阿弥陀如来ですが、浄土まで連れていってくれるのは○○寺の阿弥陀仏像であり、起請文に列記され違反者に罰を与えるのも浄土におわす阿弥陀如来本体ではなく○○寺の阿弥陀仏像、といった具合)
仏像は仏の分身ですが、その分身も更に分身を生む力があると観じられていたのではないでしょうか。

俗人には『「善光寺式阿弥陀三尊像」を新たに造立して本尊としました』と見える行為が、宗教的には『信州善光寺御分身一光三尊阿弥陀如来を請来』と表現されるのだろうと思います。

YosyanYosyan 2016/07/02 13:36 JSJ様

仏像を分身させる事自体は違和感はありませんが、仏像の位置づけが面白い見方です。仏像が広義の神性を帯びるのもわかりますが、神性を帯びた仏像は阿弥陀如来へのメッセンジャーというか、仲介役みたいに考えられていたのは初耳でした。まあ平たく言えば子分みたいなものですね。ここでなんですが、子分同士が同格なら単に仏像を作って拝めば新たな自分用の子分が出来上がりますが、おそらく子分の中にも序列があるという思想もある気がします。そういう考え方になるのもまた理解できますし、私たちが寺社に参拝する時も「ここは霊験あらたか」として有名社寺を参拝する方が御利益が多い気がなんとなくします。

神戸善光寺の場合、再建といっても新店とあんまり変わらないわけで、そこに新造の仏像を御本尊として拝んだところで、一般信者から見れば「下っ端の子分」ぐらいに見られるぐらいはありそうです。そこで上位の子分を分身させたとすれば、一遍に有難い御本尊になるってところでしょうか。

 >その分身も更に分身を生む力がある

仏教も長い間神仏習合として崇められていましたから、神道の分霊の手法がしっかりと染み込んでいた思います。仏教では分祀とか分霊といわずに勧請と呼んだそうですが、明治の神仏分離の後もしっかり残っていた気がします。こうやって現実に行なわれている例があるからです。ここで神道でさえそうですが、分祀とか勧請があまり行われなくなったのは、交通の発達の気がしています。いくら分霊で同格といっても、感覚的に大元の方がよりありがたいぐらいです。もちろん実際に参拝すれば本家の方が建物も立派ですし「その他」も充実しています。

まあどうせなら支店より本店の方がエエの素直な感覚と思っています。

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2016-06-30 近況です

正月の散歩中に膝が痛みだし、1月後半になっても良くなるどころか悪化。ピークの頃には10mどころが5mでも悲鳴が上がってました。さすがに整形受診したところ、

    半月板でしょう♪

治療法の基本は「自然に治るのを待つ」なんですが、補助療法として下半身、とくに大腿部の筋肉強化を勧められました。ここの筋肉が強化されると膝への負担が緩和されるのは理屈として明快でしたので、筋トレをスタートした訳です。最初は緩いのをやってましたが、2月の後半から膝の痛みが少しマシになってきたのでスクワットにチェンジです。スクワットもやり方を間違えると、かえって膝を痛めるとされていますので、何度もYouTubeを見直しながらたぶん間違っていないスクワットになっていると思います。

スクワットの負荷はさすがに強烈で、初回に調子に乗って断続的に70回ほどやったら3日ほど猛烈な筋肉痛に見舞われるほどでした。今はだいぶこなせるようになってはいますが、どうにこうにも陰気な運動です。私は膝の治療というモチベーションがあったので続けられましたが、殆どの人が挫折するのはよくわかります。そいでもって膝自体は5月に入る頃にはほぼ痛みがおさまり、山にハイキングにいっても大丈夫なくらいになってくれました。


さてスクワットの効果として腹回りも引き締めてくれるとあちこちのサイトに書かれています。嘘ではなくて私もベルト1穴分ぐらいは締まっています。ただし感想として

    あんだけやって、これだけ?

効果が薄いのは歳のせいも確実にあるでしょうが、もうちょっと締まってくれへんもんかというところです。まあシェープアップのためには筋トレだけでなく有酸素運動との組み合わせが効果的と書かれていて、この有酸素運動が出来ない状態だったので致し方ありませんが、筋トレと有酸素運動の併用の理屈が面白かったので、私の理解した範囲で解説してみます。目的は腹を引き締めるです。

腹を引き締めるために筋トレとして腹筋運動は誰でも思いつきますが、腹筋運動だけで腹を引き締めるのはなかなか難しいとなっているようです。腹を引き締めるカギは腹筋を付ける事よりも、腹に溜まった脂肪を燃焼させることがより重要みたいな理解で良いようです。腹筋運動はたしかに腹筋を太くします。一方で筋トレ全汎に言えることですが、筋トレはしんどい割にカロリー消費量が少ないものです。つまりは減らない腹の脂肪の下の筋肉が太くなり、見た目としてなかなか腹が締まらないってところでしょうか。

脂肪を燃焼させるには有酸素運動(ランニングとかウォーキング)が効果的になります。ほいじゃ筋トレは無駄かといえば違います。役割が違うぐらいと考えれば良いようです。有酸素運動も筋肉を使って行われますが、この筋肉が太いほどカロリー消費量が多くなる関係にあります。ちょっと的外れかもしれませんが、クルマのエンジンにたとえるとわかりやすくなります。

人体 クルマ
筋トレ 筋力をアップし基礎代謝を増やす エンジンのボアアップ
有酸素運動 基礎代謝が高いほどカロリー消費量が増大 排気量が大きいほど燃費が悪化

クルマのエンジンでは排気量の増大は燃費の悪化に連動しますが、人体ではカロリー消費効率のアップになり目的の腹の脂肪の燃焼につながっていくぐらいです。もちろん有酸素運動だけでも筋力がアップし基礎代謝が増えますが、筋トレはより効率よく基礎代謝を増やす効果があるのと、筋力がある方がより長く有酸素運動が行えるともいえます。ここはもっとシンプルに

    基礎代謝(筋力強化)が多いほど有酸素運動による脂肪消費の効率が高まる

そうなると筋トレの目的として腹筋運動だけを行うよりも、下半身から躯幹部の筋肉をトレーニングしつつ、これに有酸素運動を行うのが一番効率的となります。スクワットは下半身への効果が一番強いと思いますが、同時に躯幹部の腹筋・背筋にも効果は及びます。そりゃ腹筋運動を行うより腹筋の筋肉増大効果は落ちますが、その代わりに有酸素運動時のカロリー消費量を確実に増加させ、回りまわって腹の余分の脂肪を落としてくれる効果が期待できるってところです。


理屈はわかったので実践していますが、これがまた相当辛いものがあります。有酸素運動としてランニングが出来れば効果的なのでしょうが、これはさすがに無理がありウォーキングにしています。ちょうど家と診療所の間は80mほどの高低差があり、徒歩通勤にすれば有酸素運動になるって寸法です。で、なんですがウォーキングは何分ぐらい続ければ良いかですが、このハードルが非常に高いのです。

    30分以上♪

最短距離で帰れば1.2kmぐらいで15〜17分少々で終ってしまいます。そこでグルッと遠回りして3kmぐらいにすると35分ぐらいになります。ハードルはなんとか超えるのですが、診療が終わってからそんだけの時間を連日歩くのはかなりのモチベーションが必要です。今は梅雨の季節ですから雨の日はショート・コースにするのは妥協のうちですが、最大の関門は夏の暑さです。今でも相当蒸し暑いですが、これからもっともっと暑くなります。たぶん7月と8月を歩き抜いたら、腹を引き締める効果は必ずあると思っていますが、あのクソ暑い中を歩けるかは考えるだけで嫌です。別に真夏を歩かなくても良いようなものですが、ヘタレですから2か月(下手すりゃ3か月)も休んだら再開なんて出来るかどうかの自信がありません。どうなることやらです。

つうことで

    この歳になって腹を引き締めるのは並大抵のモチベーションでは難しい

これぐらいを結論にさせて頂きます。

JSJJSJ 2016/06/30 21:04 我が家から3kmの距離を地図の上で確かめましたが、毎日歩くのはしんどいですねぇ。
散歩自体は好きですし、特に他所様の庭や玄関先の花など愛でながら住宅街をブラブラするのは好いものですが、
それとて毎日3kmとなると苦行になりそう。

そういえば、先日学会で行った神戸ポートピアホテルから本土側のみなとのもり公園までがちょうど3kmくらいですね。
ジョギングコースとして整備されていて、島の中は木陰も多く、なかなか良い道でしたが(ただしいまいち華はない)、結局三宮まで歩いたので3.5kmくらいになったかとは思いますが、かなり疲れました。

ちっとも応援にならないコメントで相済みませぬ。

YosyanYosyan 2016/07/01 08:33 JSJ様

3kmもたまに歩くのなら散歩として楽しいですが、連日の帰宅路となるとちょっとした苦行で、最初に3kmコースを歩いた時に「毎日は無理だぁ」ってのが実感でした。これぐらいの距離を走っている人はゴロゴロいるのですが、長年の運動不足のツケが如実に表れたぐらいでしょうか。

筋トレにしろ有酸素運動にしろ単発でやるのは容易ですが、継続するのは至難の業を痛感しています。なにしろ成果が少しでも出てくるのは短くて1か月で、やはり3か月ぐらいは必要そうです。3か月ぐらい続けば実感が出てきて、ようやくそれが「励み」になるぐらいです。始める人は多いですが、続く人が殆どいないのは良くわかります。私の筋トレが続いたのは膝の痛みがあったからで、これがなければ絶対にやってなかったと思っています。筋トレは続きそうですが、有酸素運動が夏の暑さに勝てるかどうかは・・・思いっきり不安です。

BugsyBugsy 2016/07/01 14:40 私の近況ですし、今後何やろうかと楽しんでいます。私はそんな話が好きで、話が弾み笑いあっています。医者になって良かったと思える瞬間です。

私はしばらく前に昇進審査に僅差で敗れました。あの折は落ち込んでやめることばかり考えていましたが、仕事の質は格段に上がりました。勝った主任教授と対等です。彼は元々私のことを格上に思っていたし、志向として国内向けで手術のみですが 私は外国の研究で雑誌に名前を残すのが本筋なので競争にならず お互いに好きなことが出来ています。いつも枯れた雰囲気のスーツと誰もしなくなったボウタイとカフスで院内を闊歩していますが 時折腕を組んで立ち止まると皆が目を伏せてそそくさと立ち去ります。なにやら偉い学者さんと思われているのが可笑しく思っています。私はまだまだ子供なんですね。

そろそろ退官ですが、教授と違って院長職には興味がなく、いくつかの財団理事を兼任するでしょう。黒塗りのハイヤーで送迎されるのはいささか気恥ずかしいのですが 家族は大層喜んでいます。やはり今のまま外国と仕事を続けますが、教授のタイトルはもらえるので不満はありません。年頃の娘はやせっぽちですが 私以上に潔癖で派手な生活を軽蔑しています。ですから質の良い友人ばかりで、良い伴侶と巡り合うことに親として自信があります。また場末を嫌う以上馬鹿な目には合わないでしょう。あの子もまた今住んでる町が好きで引越ししたくないといってくれます。有り難いことに この町は非常に人気が高いので伴侶になる男性は喜んで住んでくれるでしょう。男の子がいない我々には 家族が増えるのが楽しみです。

自分よりは家族のほうが年金が気になっているようですが 随分安いようですね。もう生活必需品はあるし買い替える必要はなく せいぜい光熱費と食事くらいです。趣味といっても苗一本で百円で植えっぱなし。好きな本や音楽もダウンロードはタダですから 安い年金でおつりは十分あります。ですからいつ病気になっても平穏に受け止められます。

こんな私ですから売春婦ややくざが大嫌いです。こういった向上心がみじんもないので10年たっても良くなりません。病気というより、ふしだらな生活から来た疲労程度で生活習慣病ですらありません。投薬をしたところで仲間内で売って小遣い稼ぎをしているので意味がありません。彼らこそ医療費の無駄使い以外の何物ではないのです。
私は昔から感染症が苦手で汚いものには鳥肌が立つくらい嫌っています。奴らはどう見ても性病のキャリアーで身辺をうろつかれるのは苦痛で 少なからず身の危険を覚えています。おまじないのつもりでエタノールをスプレーしますが効果はありません。こういった軽蔑されても嫌われても平気な連中は宿曜もない連中は社会の害悪でしかないでしょう。自分の悩みはそれだけです。

年を取って肩の力が抜けたせいか 気持ちはいつも清々しくさわやかで何を見ても楽しいことだらけです。平凡な生活を送っているだけで良き家庭と友に囲まれていて大満足です。

BugsyBugsy 2016/07/01 14:43 少しデリートしてしまいました。最初は患者といつも笑いが絶えないといった内容でした。

ひなぎくひなぎく 2016/07/01 18:48 Yosyanさま

はじめまして(かな?)
実はかなり何年も前からROMしてます。
いつもありがとうございます。

ほどほどの有酸素運動についてなんですが、ここ2週間ほどラジオ体操をしています。
その前は踏み台昇降をやってみたのですが、膝が痛くなってしまい続けられませんでした。

ラジオ体操は1回3分余りですが、ダイエットの記事で女性なら3回、男性なら5回で一日の最低運動量を賄えるのだそうです。
それで、第一と第二を交えてなるべく一日三回以上するようにしてたら、少し効果が現れました。
第一と第二で約7分。
朝、昼、夕とするとトータル30分くらいにはなります。

youTubeで出てくる動画を使ってしていたのですが、幻のラジオ体操第三というのも見つけました。
ネットの動画ではフルバージョンの分かりやすいものはないのですが、第一第二よりさらに運動量は多いです。(時間はやはり3分少し)
それでとうとうラジオ体操第三のDVDも買ってしまいました。

何を言いたいかといいますと、ウォーキングの時間が取れないようならば、その前後にラジオ体操を組み合わせて見てはいかがでしょうか?

YosyanYosyan 2016/07/02 07:31 ひなぎく様

ラジオ体操は良さそうですねぇ。ストレッチと有酸素運動が同時に行える効果があると私も聞いたことがあります。外に出るだけでウンザリする季節になったらやってみようかな。

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2016-06-14 モノクロ画像のカラー化2

reservoir様からオンラインで無料で自動着色してくれるサイト(siggraph2016_colorization)があるとの情報を頂きました。さっそくやってみると、

かなり優秀なソフトだと感心しました。そこで第3作に予定してた画像も試してみたのですが、

20160614120316

全自動着色にも向き不向きがあるようです。そこで前2回の経験を活かして手作業でトライしてみました。とくに2回目の経験として境界線処理がうまくいかなかったので、その点でもリベンジです。

これぐらい塗れれば個人的には上出来です。摩耶花壇ネタなんですが、乏しい情報の中に「三階建」となっていましたが、これは地上3階ではなく地上2階・地下1階であったようです。それと画面の左側にあるアーチ状の構造物は釜風呂に向かう橋じゃないかと推測されます。宿泊客は1階のレストランを通らずに風呂の向かえる設計の見方です。それにしても電気は通っていたようですが、水はどうしていたんだろうと思います。飲料水ぐらいならケーブルカーでも運べるとは思いますが、釜風呂用の水はどうしていたんだろうです。もちろん炊事・洗濯もあります。同じ問題はマヤカンにもあったはずですから、水道設備は摩耶ケーブルが設置されたときに敷設されていたのでしょうか。


もうひとつですが、マヤカンの客室は13室の情報がありました。摩耶花壇は2階が客室部分で良いと思うのですが、北側の方は階段室があり部屋はあったと思えませんから、摩耶花壇の客室はすべて南向きであった可能性が強そうだと考えられます。具体的には2階は北側に階段室があり、あがったところは釜風呂に向かう廊下があり、その廊下沿いに客室が並んでいた可能性です。次の画像を見て欲しいのですが、

20160614122714

この角度から見るとオープンデッキの柱間は4つです。柱の間を1間と考えると4間(7.2m)になります。部屋の幅を1間とすれば4部屋取れますが、シングルならともかくダブルでは狭い気もします。では1.5間にすれば端数が出ます。この先は確認しようがないのですが、

  1. 1間幅で4室
  2. 1.5間のダブル2室と1間のシングル1室の計3室
  3. 2間のダブル1室と1間のシングル2室の計3室
  4. 2間ずつの2室

2〜4室と考えて良さそうな気がします。マヤカンも客室数がそんなに多くないのが気になっていましたが、当時であっても摩耶山で宿泊までする客層は多くなかったとも考えられます。と言うよりもマヤカンも摩耶花壇もかなりの富裕層を対象にしていた面がありそうですから、マヤカンや摩耶花壇に宿泊する客層を考えると客室規模はそれぐらいになったと考える方が妥当なのかもしれません。つうのも戦後の話で良いと思っていますが摩耶花壇もバンガロー村を作り、摩耶山株式会社もバンガロー村を作っています。さらに奥摩耶にも神戸市がバンガロー村を作っています。これは摩耶山に宿泊したい客層がかなりあったと見ることも可能です。

ここは想像になりますが、摩耶ケーブルから天上寺に至る道筋に戦前は大衆向けの宿泊施設が存在していた可能性はあると考えだしています。摩耶花壇が摩耶ケーブルの開通に合わせるように開業したのは、そういう宿泊施設の繁盛があったからで、大衆向けとは差をつける意味で高級路線を取ったぐらいの見方です。戦中から戦後の10年間はケーブルも撤去され、記録も非常に乏しい時代になりますが、この時期に大衆向けの宿泊施設は消滅してしまった可能性は十分にあります。

ケーブルカー再開により摩耶山観光は再び栄えることになりますが、消滅した大衆向け施設の代替にバンガロー村が設置され、戦後のマヤカン復活は富裕層向け施設への需要に応えたものだったぐらいに思えてきました。ホントに現地に行っても今でも健在なのはケーブルカーとロープーウェイしかないので想像するのが大変なんですが、戦後に繁栄した奥摩耶遊園さえ私の世代で辛うじて知っているかどうかの時代になっていますから、遥かなる昭和の薄れゆく記憶といったところのようです。

BugsyBugsy 2016/06/16 15:22 古いモノクロ写真をカラー処理すると昔風のくすんだ色になってしまうのでしょうか。

当時のカラー写真は、実はモノクロの画面に色をつけていたようで手彩色と呼ぶそうでエッチングにもあるようですね。

YosyanYosyan 2016/06/16 17:28 Bugsy様

言ってはならぬことを・・・

くすんだ色になったのは昔の写真だからではなく、色を塗った者の技術が劣っているからです。細かいことをいえば、元の写真の壁の部分はかなり傷んでいる写り方をしています。おそらく新築当時の写真ですから、もっと染みのないものだったはずです。壁を綺麗にするには原画の染みを除去する必要があります。ただ、染みと影を区別してクリーニングしなければなりません。これが正直なところおっそろしく面倒です。

私は手を抜いて原画のままで色を被せています。しかしそれだけでは汚い壁にしかなりません。仕方がないのでコントラストで誤魔化したのですが、壁だけ誤魔化すと全体のバランスが悪くなるので、全部が「くすんだ色」になってしまった次第です。

BugsyBugsy 2016/06/29 19:02 良いですね。
人生を楽しんでらっしゃる。人生の目的って幸せに生活の質を上げることに尽きるし、政治も一緒でしょう。世間の流れに身を任すだけで、我々は家族と一緒に人生の日の当たる坂道をゆっくりと登っています。
診療も同じことを繰り返しては日々の充足感を感じています。しかし今日も来ましたが、それを一切拒む患者もいますねえ。決まってヤクザだったり売春婦です。なんとも仕方が見つかりません。
自分は普通の世間話で診療できますが、こういった連中に皆様はどうされているんでしょうか。人生を楽しむだけの自分は対処法が分からず途方に暮れています。

YosyanYosyan 2016/06/30 14:12 Bugsy様

最近思っているのは人生の残り時間です。若いころは無限と思えるほどあった時間も、この歳になってくると目に見えて数えれるようになっています。たとえばリニア新幹線が建設されるそうですが、これが大阪まで延伸される頃には寿命勝負になってしまいます。また医師としての寿命も考えるところで、開業していますから定年は無いとはいえ、内心では70歳ぐらいを一つの目途と考えています。後はその時になって考えるぐらいです。

そんなことを考えていると、そろそろ先憂後楽の後半部分をやってもエエんじゃないかと思っています。もういつ体調を崩してしまうかわからない歳に確実になっているからです。開業医も70歳目途としていますが、これだって70歳まで元気でいるのが前提であって、そうでなくなっているどころか、この世にいない可能性も年と共に確実に大きくなっていきます。人間は元気なうちが華ですから、楽しめることは「今」楽しんでおきたいと思っています。今年楽しめそうなものは今年に楽しんでおかないと、来年はどうなっているのか、もうわかんないですからねぇ。

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2016-06-12 モノクロ画像のカラー化

純粋に「出来心」なんですが、モノクロ画像のカラー化は出来たはずです。モノクロ映画のカラー化もしていたわけで、そういう話を聞いてからそれなりに年数が経っていますから、今ならお手軽に出来るかもしれないとググってみました。結論的にはさすがに全自動着色をやってくれるフリーソフトは見つかりませんでした。それでもググっていくとモノクロ画像への着色を紹介しているサイトはわりとありますし、見てるだけなら簡単そうに思いました。

ほんじゃ、と手を付けたらこれがさすがに手強い代物でした。まずどうやってというか、基本的にどういうメカニズムで塗っていくのか理解するのに一苦労ってところです。わかってみれば基本原理はシンプルで、

  • 原画に透明レイヤーを重ねる
  • レイヤーの上に色を塗る
  • さらにレイヤーを重ねて別の色を塗る

レイヤーはIllustraterでもお馴染みのシステムなんですが、アナログ風に言えば原画の上に透明セルを重ねて色を塗っていくぐらいの感じです。PCが手書きよりお利口なところは、一度塗った色を後から自在に変えられる点です。機能的にはPhotoshopで出来るはずなんですが、実際にやってみるとレイアー毎に色を調節する設定が上手く動いてくれません。ネットに対策を求めてもversionが相当古くて「???」ってところで、もう少しやりやすいソフトに変更したらうまく動いてくれました。つうことで習作の第1作です。

原画 着色後

さて技法的にレイアーだけでも色を塗れるのですが、サイトにはマスク技法を紹介したものが多くあります。マスクを理解するのにこれまた一苦労だったのですが、私が理解した範囲では

  1. 原画を複製コピーする
  2. 原画全体を塗りたい色に変更
  3. 原画の上を黒く塗りつぶすマスクをつける
  4. マスクの上を白抜きすると、元の原画のその部分だけ色が反映される

アナログ的に解釈すると、黒い紙に色を塗りたい部分だけ穴を空け、そこに色を塗りつけるぐらいか、原画自体の色を変えて必要な部分を切り取り、原画の上に貼り付けているぐらいです。どうにも最後のところの理解がイマイチなんですが、手法だけはわかったのでマスク技法を中心に第2作です。

原画 着色後

やってみた感想ですが、とにかく陰気な作業の連続です。出したい色がなかなか出てこないのは「慣れ」の問題なんですが、とにかく塗るのが異常に細かい作業になります。とくに今回は原画のサイズが小さくて、しかも拡大すれば境界は限りなく不鮮明になります。現実的には8倍に拡大して、ピクセルの1点、1点に色を塗りこむって感じで、1枚につき作業時間にして4時間から5時間ぐらいでしょうか。プロに頼むと1枚につき数万円って話が転がっていましたが、なんとなくわかる気はします。私も基本技法はなんとか出来るようになりましたが、自発的ならともかく、頼まれてやりたい作業とは思えませんでした。

それでも在りし日の摩耶花壇の様子が少しだけでも再現できたので「自己満足」的にはOKとしておきます。そうそうとくに第2作は着色後に直線がギザギザになってしましたが、これを解消するには境界線処理の知識と経験が必要なんですが、そこまで頑張るには気力が尽きた・・・

reservoirreservoir 2016/06/12 17:39
最近流行りの自動化だとこんな感じで。。。。
http://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/result/d2d34b58-88d5-4481-a634-ba2cfead153e
http://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/result/d37c4647-1d96-4cef-a384-c4a7eb2c2797

Webサービス入口
http://colorize.dev.kaisou.misosi.ru/

プレスリリース
https://www.waseda.jp/top/news/41520

YosyanYosyan 2016/06/13 15:34 reservoir様

自動でも結構きれいに塗ってくれるみたいでチト悔しいです。まあレタッチの基礎を学習したぐらいに思っておきます。

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