2007-07-02 4周年謝恩特別企画
昨日はたくさんの祝辞ありがとうございます。感謝の気持ちを込めて、いつもと趣向を変えてエンタテーメントをお届けします。医療の話はカケラも出ません、プロ野球のお話です。関西人にとってプロ野球とは阪神であり、私も例外ではありません。阪神ファンである私にとって忘れられない年が2つあり、一つは昭和60年(1985)の優勝であり、もう一つは昭和48年(1973)の幻の優勝です。今日お届けするのは古い方の昭和48年のお話で、この話を知っているというだけで歳がバレるお話です。書いたのが2004年の冬なのでその点も御了承ください。
'04の優勝が18年ぶり、'85の優勝が21年ぶりと伊勢神宮の遷宮ぐらいのサイクルでしか優勝しない我らが阪神タイガースの立派な成績です。そのうえここ20年ばかりは優勝した年を除いてそのほとんどが下位低迷のシーズンばかりですから、よくファンが続いていると感心しています。なぜそこまで阪神なんてチームのファンが続いているか考えてみると'73(S.48)の幻の優勝の悔しさが、私の阪神ファンとしての原点として心の奥底に治療不能の傷跡を残しているからではないかと思います。31年前の死闘の足跡をここで巡礼してみようと思います。
昭和40年代のプロ野球風景
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| 村山実と江夏豊(昭和45年) |
当時のプロ野球はすべてが巨人中心に回っていました。巨人という太陽を中心としたセ・リーグと銀河系の彼方にリーグがあるのではないかと思われるほどのマイナーなパ・リーグ。セ・リーグに太陽があるといっても巨人戦以外のカードは今では考えられないぐらい閑散としたもので、巨人につぐ人気球団とされる阪神でも阪神巨人戦以外は寝そべっても見れる状態であったと言えます。
観客数を見るとじつに明らかで、巨人は1試合平均で42500人で後楽園球場をほぼ埋めていますが、たとえば阪神は平均で16000人。さらに13試合あった巨人戦が平均50000人(当時の甲子園の収容人数は6万人)とすると、他の球団との試合は8000人ぐらいしかいないことになります。8000人と言ってもウィークデイはさらに少なく、あくまでも主催者発表ですから実数はもっと少なかったはずです。巨人戦13試合だけの動員数が阪神観客動員数の6割以上を占めており、いかに巨人の人気だけに頼った球団経営だったかがわかります。
写真は昭和45年のとある試合終了直後の風景ですが、三塁側アルプスやレフトスタンド、三塁側内野席の様子が分かってもらえると思います。我が家でも昭和50年代になりサンテレビの阪神中継を見れるようになってからも、一塁側内野席はそこそこ観客がいましたが、三塁側はもちろんのこと一塁側のアルプススタンドもしばしば閉鎖されたままのことは珍しくもなく、レフトスタンドへのホームランボールが誰もいない観客席に転々と弾み、おもむろにそれを観客が拾いに来る光景はごく当たり前のものでした。応援風景も今から見ると地味なもので、笛や鉦太鼓を持ち込んでの三三七拍子や紙吹雪、応援旗を振るぐらいで、ジェット風船はもちろんのこと、トランペットや選手コール、各選手への応援ソング、オルガン演奏みたいなものもありませんでした。
当時子供の好きなものの例えとして「巨人、大鵬、玉子焼き」なんて言葉があり、TVアニメでは星飛雄馬が大リーグボール養成ギブスをつけ消える魔球を投げるのを日本中の野球少年が固唾を呑んで見守り、テレビの前に毎週釘付けになっていました。「オロナミンCは小さな巨人です」なんてCMを素直に信じて、これさえ飲めば巨人の選手になれると無邪気に信じていた純真な子供たちも少なからずいました。また野球帽といえばすなわち巨人の帽子であり、巨人以外の球団のファンであることを公言するのは「変わり者」のレッテルを貼られる覚悟が必要があり、現在「虎キチ」と自称している阪神ファンの多くも子供時代は巨人ファンであったのもやむをえない環境と言えます。
野球中継も当然巨人戦しかなく、他のカードは稀にNHKが中継するぐらいで、阪神ファンが阪神の結果を見たければ巨人戦中継の他球場の結果をひたすら待つか、ラジオで聞くしかありませんでした。まだそれでも阪神はラジオ中継がありましたが、パ・リーグになるとラジオ中継すら稀(今も余り変わりませんが)で、さらに夜のニュース番組も「プロ野球ニュース」みたいなものはなく、NHKのニュースの本日のプロ野球の結果を待つしか手が無い時代であり、プロ野球ファンの故老が「昔の熱気は凄かった」といくら力んでもプロ野球自体が現在よりマイナーな存在であったのは間違いありません。
それでもって当時のリーグの様子ですが、まずセ・リーグ
| セントラル・リーグ | ||||
| 球団名 | 監督 | S.48本拠地 | 現球団名 | 現本拠地 |
| 読売ジャイアンツ | 川上哲治 | 後楽園球場 | 読売ジャイアンツ | 東京ドーム |
| 阪神タイガース | 金田正泰 | 阪神甲子園球場 | 阪神タイガース | 阪神甲子園球場 |
| 中日ドラゴンズ | 与那嶺要 | 中日スタヂアム | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム |
| ヤクルトアトムズ | 三原脩 | 神宮球場 | ヤクルトスワローズ | 神宮球場 |
| 大洋ホエールズ | 青田昇 | 川崎球場 | 横浜ベイスターズ | 横浜スタジアム |
| 広島東洋カープ | 別当薫 | 広島市民球場 | 広島東洋カープ | 広島市民球場 |
大洋が横浜に変わったぐらいで、当時とくらべてもメンバーにそれほど違和感はありません。つづいてパ・リーグ、
| パシフィック・リーグ | ||||
| 球団名 | 監督 | S.48本拠地 | 現球団名 | 現本拠地 |
| 南海ホークス | 野村克也 | 大阪球場 | ダイエーホークス | 福岡ドーム |
| 阪急ブレーブス | 西本幸雄 | 西宮球場 | オリックスブルーウェーブ | グリーンスタジアム神戸 |
| ロッテオリオンズ | 金田正一 | 県営宮城球場 | 千葉ロッテマリーンズ | 千葉マリンスタジアム |
| 太平洋クラブライオンズ | 稲尾和久 | 平和台球場 | 西武ライオンズ | 西武ライオンズ球場 |
| 日拓ホームフライヤーズ | 田宮謙次郎 | 後楽園球場 | 日本ハムファイターズ | 札幌ドーム |
| 近鉄バファローズ | 岩本堯 | 藤井寺球場 | 近鉄バッファローズ | 大阪ドーム |
パ・リーグはこの年、西鉄、東映が身売りされ太平洋、日拓に変わっています。それにしても変動は激しく、親会社が変わっていないのは近鉄とロッテだけですし、名前も変わっていないのは近鉄のみです。セパあわせてですが、ドームに新築した後楽園や中日球場はともかくとして、大阪球場や西宮球場、川崎球場、平和台球場がもう取り壊されてなくなっているのは隔世の感があります。
現在の野球との相違
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| 「鉄腕」稲尾和久 |
野球は野球で今も昔も変わりはないのですが、試合の様相はは今とはかなり違います。いろいろ違うところはありますが、最大の違いは投手酷使時代であったことです。酷使時代といってもシーズン78試合に登板し404イニングを投げ42勝をあげた稲尾和久が活躍した昭和30年代以前よりも、ローテーションと言う発想が導入されいくらか緩和されていますが、優勝がかかってくると監督は自分のチームのエースに稲尾並の働きを要求し、またそれに応えるのがエースの務めとして誰も疑わない時代でありました。
この登板イニング数の過酷さは素人には実感しにくいところですが、稲尾が42勝をあげた年の年間試合数が140。試合は9回までですので、1試合当たり9イニングあることになり、それが140試合だとすると1260イニングが年間のイニング数になります。もちろん負け試合で9回裏の守備が無かったり、雨天コールドゲームがあったり、逆に延長戦があったりしますが、おおよそこの程度が年間イニング数であり、稲尾は全試合の1/3を投げていたことになります。ちなみにS.48は130試合ですから、年間イニング数は約1170になります。
投手の常識として先発完投することが当たり前の前提であり、救援を仰ぐというのは例外的であるとの考えがありました。先発間隔も当時の常識は中4日もしくは中3日であり、これでも当時の野球評論家に言わせれば「中4日では休みすぎて調子を狂わせやすい、中3日の方が良いのではないか」なんて評論が真剣に論議されていたぐらいです。優勝が懸かってくると中2日、中1日なんて登板は当たり前ですし、完投した翌日のリリーフなんてのも誰も疑問を抱かない時代でもあります。そのため年間に登板する投手は2〜3人程度のエース級が大部分を占め、他の2線級の投手は本当の意味での敗戦処理としてごく少ない登板機会が与えられるのみと言う時代でもあります。
投手分業制でリリーフ・エースが脚光浴びるのはもう少し先の時代ですし、ましてや中継ぎの重要性が云々されるのも10年単位で後年の話です。村田兆児が晩年「サンデー兆児」と言われ中6日で投げていたのも、異例の長期間隔での登板であったため話題になったのも覚えていても良いでしょう。エースとは文字通りの大黒柱で先発すれば完投し、勝ち試合にはリリーフと、来る日も来る日も投げぬく酷使に耐え抜いたものに与えられる称号でした。
それだけ酷使されたヘロヘロの投手が投げれば打撃優位の野球になりそうなものですが、実際は投手優位の時代で、S.48のセ・リーグ打撃10傑は、
| 順 | 選手名 | チーム | 打率 | 打数 | 安打 | 本打 | 打点 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 王貞治 | 巨人 | 0.355 | 428 | 152 | 51 | 114 |
| 2 | 若松勉 | ヤクルト | 0.313 | 438 | 137 | 17 | 60 |
| 3 | 谷沢健一 | 中日 | 0.2951 | 454 | 134 | 10 | 45 |
| 4 | シピン | 大洋 | 0.2949 | 478 | 141 | 33 | 75 |
| 5 | 江尻亮 | 大洋 | 0.291 | 433 | 126 | 15 | 44 |
| 6 | 江藤慎一 | 大洋 | 0.282 | 365 | 103 | 15 | 44 |
| 7 | 藤田平 | 阪神 | 0.281 | 519 | 146 | 17 | 59 |
| 8 | 松原誠 | 大洋 | 0.278 | 507 | 141 | 24 | 78 |
| 9 | 柴田勲 | 巨人 | 0.277 | 495 | 137 | 6 | 34 |
| 10 | 高木守道 | 中日 | 0.273 | 480 | 131 | 5 | 31 |
首位打者になり三冠王に輝いている王貞治は別格としても3割打者はリーグで2人しかおらず、10位の高木守道はわずか2割7分3厘しかありません。ちなみに去年のセ・リーグの打撃成績は、3割打者だけで13人、昭和48年の10位の高木守道の成績では横浜のウッズなみの成績で23位ということになります。この辺は投手の質が落ちたのか、バッティングの技術が向上したのかは議論の尽きないところですが、現在のプロ野球に比べてはるかに点の入らない投手戦が主体の野球であったのは間違いなく、そんな投手優位の中での3割打者(リーグに2人しかいない)の価値は貴重であり、王貞治が量産する本塁打の価値は現在の本塁打の数倍の値打ちがあったと考えてよいと思います。
川上野球と王者の落日
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| 「ON砲」王と長嶋 |
9連覇もした川上野球の本質は管理野球です。後年に広岡達朗や森祇晶が西武でやって有名になったあの管理野球の先駆者です。ガチガチのチームプレーを強制し、主力打者でも必要あれば送りバントを行い、代打をおくり、常にチームバッティングを行わせる例のあれです。この手法がいかに効果的であるかは後年の西武が再び証明していますが、川上に幸運だったのは日本プロ野球史上で一、二を争う大打者が同時期に全盛期を迎えたことです。
この管理野球が見ているほうでは実におもしろくないのは西武の野球がつまらなかったのと同類項ですが、当時の巨人で救われたのは王貞治、長嶋茂雄というスーパースターが君臨しており、この二人の華やかさが川上野球の陰気さを覆い隠すのに大いに役立ちました。当時のプロ野球が投手優位の時代である書きましたが、それだけに強打者はいっそうのスポットライトを浴びました。それぐらい点が入りにくい野球だったわけで、王のホームランや長島のタイムリーへの価値と熱狂ぶりは現在のプロ野球からは想像するのが難しいかもしれません。
王、長嶋が華々しく挙げた得点をガッチリ守って勝ち抜く、そんな野球が川上野球です。脇役たちはそれをもり立てるために軍隊並みの統制のチームプレーに徹することが要求され、それが実行できたのが9連覇の原動力といえます。9連覇の初期にはいかにも巨人らしいあくのつよい補強も行い、それと名参謀牧野茂の存在もあって、他球団が歯噛みしても届かない強さを誇る巨人王国を築きあげたと言えます。
しかし無敵の王国にも落日が忍び寄ってきます。長嶋茂雄の衰えです。S.33入団以来、常にプロ野球だけではなく日本を代表するスターとして働き続けた長嶋も37歳、年齢からくる力の衰えは如実に成績に現れてきます。S.46に3割2分の打率と34本の本塁打を記録したのを最後の輝きにして確実に成績は下降線をたどります。長い長いスランプ、スランプは抜ける時が来るのでスランプと言うのですが、いつしかスランプがいつもの状態となり、大打者長嶋も普通の打者かそれ以下になってしまいます。川上管理野球の本質からすれば長嶋を切って新たな主力打者を発掘養成しなければならなかったのでしょうが、川上は長嶋を切ることができず、打てない長嶋をクリーンアップに据えて戦い続ける事になります。
国民的人気を誇る長嶋を追い出すことは川上でも困難であったことは間違いありませんが、川上自身も長嶋が衰えて優勝できなければ川上巨人の終幕であると考えていた節があります。川上の勝利への執着力も衰えを見せ始めていたと言ってよいでしょう。実際に川上はこのシーズン限りの引退を長嶋にほのめかせ、同時に長嶋の引退を勧めていた事実があります。現実は長嶋がそれを拒否して翌年まで現役生活をおくることになるのですが、結果としてどちらが良かったのかはなんとも評価の難しいところです。結局この年は川上巨人9連覇の絶対の勝利の方程式である王、長嶋が華々しく打ちまくるのうち、長嶋カードが色あせ、逆にチームとしての重荷になっていた9連覇の末期の真相でした。
ライバル阪神の内情
巨人9連覇の間、そのほとんどでライバルとして立ちはだかっているのが阪神です。下の表に示すように9連覇の初期には圧倒的に離されていましたが、年を追う毎に年々ゲーム差が縮まってきているのがわかります。なんと言っても打倒巨人の一番手であったことは間違いありません。
| 年度 | 試合数 | 勝 | 負 | 分 | 勝率 | 巨人とのゲーム差 | 順位 |
| '47 | 130 | 71 | 56 | 3 | 0.559 | 3.5 | 2 |
| '46 | 130 | 57 | 64 | 9 | 0.471 | 12.5 | 5 |
| '45 | 130 | 77 | 49 | 4 | 0.611 | 2.0 | 2 |
| '44 | 130 | 68 | 59 | 3 | 0.535 | 6.5 | 2 |
| '43 | 133 | 72 | 58 | 3 | 0.554 | 5.0 | 2 |
| '42 | 136 | 70 | 60 | 6 | 0.538 | 14.0 | 3 |
| '41 | 135 | 64 | 66 | 5 | 0.492 | 25.0 | 3 |
| '40 | 140 | 71 | 66 | 3 | 0.518 | 19.5 | 3 |
阪神の特徴は繰り返される「お家騒動」に象徴されるように結束力の無さです。主力選手にはすぐ派閥ができ、またそれにフロントまで加担してお家騒動が頻発します。これぐらいは程度の差こそあれどの球団でもあるものですが、阪神の場合は関西随一の人気球団としてマスコミの注目度が格段に高く、マスコミもマスコミで阪神のお家騒動ネタは読者のニーズが高いものだったので、もともと取るに足らない小さな感情の行き違い程度の事が、抜き差しならない重大事件にすぐに発展する性質をもっていました。川上管理野球の巨人でもある程度はあったはずですし、中日あたりでも決してニコニコなかよし軍団ではなかったはずなんですが、新聞社が親会社であると言う性質上、その辺の事実は新聞社同士の暗黙の紳士協定で伏せられていたようです。それにくらべて阪神はメディアに対しては完全にノーガードですので、まさに火に油、煙の無いところまで火をつけて回る放火魔に囲まれている状態です。
派閥を形成せず一匹狼として君臨していた江夏が中立の存在として好かれていたかと言えば全然そんなことはなく、あからさまに言えば残り全員から総スカンを食って嫌われています。
- 「あいつが投げるんだったら、今日は仕事せんとこ!」
なんて声が試合前のベンチから平気で聞こえ、江夏が降板すると急にベンチが活気つくなんてのも阪神ベンチのごく日常の風景です。
一匹狼江夏と監督の関係も歴代監督と衝突を繰り返し、S.48の監督の金田正泰との関係も最悪に近いものがありました。金田の前任の村山実とも必ずしも良好であったわけではありませんが、まだしも同じ投手として阪神を支えたきた連帯感があり、また先輩として村山を認めるところがあったようです。ところが金田は結果的に村山を追い出して後釜に座った経緯があり、金田の投手起用法が江夏を酷使することによってフロントに良い顔をする様に感じ取ったものですから、次第にふたりの反目は深刻さを増すことになります。
キャンプ中の話題もこのふたりがいつ口を利くかなんて事に注目が集まり、
- 金田:「ユタカ、どや?」
江夏:「ボチボチでっさ!」
ぐらいの会話が大事件としてスポーツ新聞のトップを飾ったぐらいです。
9連覇中の巨人が川上体制を堅固にしていったのに対し、阪神の監督は猫の目人事でクルクル変わっています。2度の優勝を飾り、昭和30年代後半から40年代の初期まで指揮を取った「伊予の古狸」藤本定義がいるうちは、その抜群の統率力でこの手の内紛騒ぎは表面化しなかったのですが、以後は派閥がらみのフロントのお手盛り人事が続き、この年の金田監督を含め監督には恵まれていません。
阪神フロントの特徴は親会社が12球団でも指折りに小さく、阪神球団の経営が直接阪神電鉄本社の経営に響く体質を持っています。他の多くの球団が経営が赤字であっても宣伝費として鷹揚に処理していたのにくらべ、なんとか球団で儲けよう、最低限赤字を出すのを避けようとしています。一方で電鉄本社首脳には野球好きが多く、スター選手を相撲取りのタニマチのように贔屓する体質も濃厚にあり、その延長線上で球団人事にも介入してきます。
阪神球団といってもしょせんは阪神電鉄の子会社であり、フロントも本社の意向に敏感と言うより、鼻息を常にうかがう存在で、本社の首脳が喜ぶ監督、コーチ人事を行い、経営に関しては
- 「ぎりぎりまで優勝を争って結局優勝しないのが一番儲かる。」
というファンにとっては許しがたい哲学を方針としています。この辺は今でも余り変わりが無いといって差し支えないでしょう。
主力選手同士の反目、優勝に関心の無い風見鶏フロント陣、恵まれない監督と三拍子そろった阪神が、鉄の統制でチームを掌握し無敵の巨人王国を誇る川上巨人に対し、史上稀に見る死闘を繰り広げることが出来たのは今から考えても不思議な光景です。
池田の落球
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| 「落球伝説」」池田純一 |
このシーズンを象徴するプレーとして長く語り伝えられた伝説のプレーに「池田の落球」があります。あまりに象徴的であったため「世紀の落球」としてこのプレーひとつで優勝を逃したとも曲解して伝えられ、さらにこのプレーにより池田の選手寿命が縮んだとも言われています。落球があったことは事実ですし、落球のためにゲームを落としたことも事実ですし、シーズン終了後の巨人とのゲーム差が0.5であったことも事実です。でもそれほど深刻な落球だったのでしょうか、私もどうしてもS.48と言えばこの落球を思い出してしまうのですが、好漢池田純一の名誉を守るためにもう一度振り返ってみます。
事件が起こったのは8月5日の甲子園での阪神巨人18回戦。先発は阪神が山本和行、巨人が新浦寿夫、試合は2-1で阪神リードで終盤に入り必勝体制の阪神はリリーフに江夏を送ります。9回表に2死一、三塁のチャンスをようやくつかんだ巨人でしたが、7番黒江がセンターに平凡な飛球を打ち上げてしまいました。
勝利を確信した江夏はマウンドを降り始め、球場内の誰もが阪神の勝利を確信しました。その時センターの池田は芝が流されて段差ができたところに左足を踏み込んで、無情の転倒、ボールは懸命に差し出す池田のグラブをあざ笑うかのようにセンター120Mの最深部に点々とすることになります。走者一掃の三塁打、巨人逆転勝ちです。
試合後の江夏は
- 「勝負ちゅうのはこんなもんや、誰も責めんし文句も言わんよ。」
と語っただけですし、よく注意して欲しいのですが、公式記録員も「エラー」ではなく「三塁打」として記録しています。当時の甲子園は雨が降ると芝生が剥がれている所の土が流れあちこちに段差ができ、これがプレーに影響することを公式記録員もよく知っていたようです。さらに「落球」として伝えられていますが、池田はボールに触ったわけではなく、池田のさらに奥に落下しています。
伝説ではこのプレーを気に病む余り、池田はプレーが萎縮しノイローゼ状態となり選手寿命を縮めたとなっていますが、決してそんな事はありません。数試合後には江夏を助ける決勝のホームランも放ち、またシーズン成績は落球前と落球後では落球後のほうが成績がよくなっています。池田は「落球」のため萎縮したのではなくむしろそれを糧にして奮起し、より多くの勝利を阪神にもたらしているのです。
ただし池田の選手としてのピークは前年のS.47であったらしく、この年の打率2割8分3厘をピークとして徐々に成績を下げています。S.51にラインバックや東田が加入し外野のポジション争いに敗れた池田は、今度こそ本当にノイローゼ気味になりS.53に引退しています。
池田の落球を責めるならその一つ前のプレーであるセカンドの野田のプレーも責められるべきだと考えます。1死一塁、二塁の場面で六番末次の平凡なセカンドゴロを緩慢なプレーでダブルプレーをしくじって一塁、三塁にしています。これがなければ池田の落球も無く、単なる阪神勝利の1戦として誰の記憶にも残らない試合になっていたと考えます。
さらにこの試合の時点ではまだまだ乱セと呼ばれたシーズンの優勝の行方は混沌としており、この後も8月下旬から9月にかけ3ゲーム差の中に6チームがひしめきあう空前の団子レースを行うことになります。たしかに阪神としては手痛い1敗でしたが、本人も含めて誰もこの落球が優勝を左右する象徴的なプレーになるとは考えておらず、よくある好プレー、珍プレーのひとつとしか思ってなかった事は間違いありません。
江夏の神話
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| 「黄金のサウスポー」江夏豊 |
当時の阪神は伝統的に投手力のチームです。S.37の優勝以来、小山正明、村山実、ジーン・バッキー、江夏豊と好投手を輩出しています。各球団は過去の記録をまとめて、チーム成績や個人成績をまとめた年鑑をだしていますが、12球団でただひとつ投手部門の成績が打撃部門より先に収録されています。
もちろんこの年のエースは「黄金のサウスポー」江夏豊で、登板数53回、先発は39回、合計307イニングス、24勝13敗、防御率2.58とまさにフル稼働しています。当時はセーブポイントなんてものはなく記録されていませんが、記録を検証すると江夏の阪神時代のセーブ記録は100と言われておりこの年もかなりのセーブ記録を上げていたのは間違いありません。先発以外の14回の登板は当然リリーフであり、ここも3回、4回、5回と言ったロングリリーフも何度もあり、さらに勝ちゲームだけではなく同点もしくは僅差でリードされている試合にもしばしば登板しています。
江夏には4つの伝説があるとされています。そのどれもが球史に不滅の記録として残り、おそらく並ぶ事は奇跡的にあるかもしれませんが、おそらく破られることはない想像を絶するものです。
その1 S.43シーズン最多奪三振401個
2位が稲尾和久の353個でダントツの成績です。この年江夏は329イニングを投げて達成していますが、H.15の最多奪三振の松坂大輔が194イニングで215個ですから、松坂がならぼうとすれば1イニング平均2個の三振、すなわち完投すれば1試合18個の三振を1年を通してとり続ける必要があります。投手酷使時代が再び来ない限り2度と破られることはないまさに不滅の記録です。
その2 S.46オールスター連続9奪三振
オールスターでは3イニングが登板の上限であるためこれ以上は無い完璧の記録であり、永久に破られるとはない大記録です。最後の9人目の打者がキャッチャーファールフライを打ち上げた時、ものすごい形相でマウンドを駆け下りた江夏は捕手の田淵に「捕るな!」と怒鳴りつけたのもまた伝説なっています。それとこの記録にはさらにすごいおまけがあって、江夏はその前年のオールスターで5連続奪三振、翌年にも1個三振を奪い、3年越しで15連続奪三振というもう誰も近づくことさえできないであろう記録も樹立しています。
その3 S.54日本シリーズでの「江夏の21球」
晩年の江夏の名を不朽にした力投で、詳細はあまりにも有名なので割愛します。これに匹敵するような名場面は他にもありますが、この偉業が永久に語り継がれることだけは間違いありません。
そしてこの年にもうひとつの伝説が作られます。これも再び達成する選手が現れる可能性はゼロではありませんが、限りなくゼロに近いもので、伝説を越えて神話に近いものになっています。
8月30日の中日戦、まだまだ残暑が厳しい甲子園でした。先発は阪神キラーとして活躍していた松本幸行。両先発投手とも好調で4回まで両軍無安打、江夏は四球こそ出したものの安打は許さず9回まで進行します。中日の松本も好調で阪神打線は打ち崩せず、やがて試合は延長戦にもつれこむことになります。
ノーヒットノーランで延長に入った投手は勝てないと言うジンクスがあり、延長に入ると記録のプレッシャーから崩れるケースが多いのですが、江夏は10回、11回と踏ん張り、11回の裏にゲームは進みます。ここで信じられないことに江夏は自らのバットでボールを外野席に叩き込むサヨナラホームランを放ちゲームの決着をつけることになります。この時の江夏の試合後のインタビューはこれもまた有名なもので、実際はもう少し違ったニュアンスであったはずなんですが後世にはこう伝えられています。
- 「野球はひとりでも勝てる。」
団子レースの展開はともすれば阪神も優勝争いから脱落しそうになります。しかし酷使に耐えた江夏と同じく、287イニング、22勝14敗、防御率2.23と江夏とふたりでシーズンの半分以上を投げぬいたアンダースローの上田二朗の活躍で、まず抜け出した巨人を9月下旬から10勝1敗のハイペースで阪神が猛追する頃からシーズンは異様な様相を呈してきます。
土壇場の後楽園決戦
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| 「伝説の長距離砲」田淵幸一 |
8連覇中の巨人は10月のゲームでは早々と優勝を決めた後の消化ゲームになることが多く、ここまでシーズンが押し迫った時期になっても未だ優勝が決まらないのはそれだけで事件と当時の人間は感じていたようです。王者巨人を無邪気に信じる巨人ファンたちは阪神の健闘に苦笑いはしていたものの、「例年」のとおり最後は阪神を叩き潰して強さを見せつけて予定通り9連覇を確定すると信じていました。
阪神のここ一番の勝負弱さはこれもまた伝統と言ってよく、泣いて悔しがる阪神ファンを尻目に勝利の美酒を味わうのは常に巨人ファンであるというのも、積み重ねられた実績の前にどうにも言い返せない事実でした。首位攻防となった10月10日の決戦もそんな巨人ファンの思惑通り進んでいきます。
先発の高橋一三は阪神打線を1点に抑え込み、打線は阪神投手陣を打ち込み5回までG5-1Tと楽勝ペース。6回に阪神は後藤のソロで1点を加えたところで、巨人は必勝リレーで倉田に交代します。「万全の試合運び」であるとの巨人ファンの余裕も、やがて満塁となり4番の田淵を迎える頃には雲行きが怪しいぞと感じ始めます。もちろん後年のがんばれタブチ君として笑われた頃の田淵ではなく、阪神の主砲としてバリバリの活躍していた田淵です。ただし田淵は打者としてやや勝負弱いところがあり、ここぞと言う時にしばしば凡打を繰り返すことが多く、私もショートに打ちあがるポップフライに全身の気力が抜けそうになった経験が数え切れないぐらいあります。巨人ファンも結局最後に笑うのは巨人と思い直したところに快打が生れます。
- 逆転満塁ホームラン!
翌11日は10日とは逆の展開となり、阪神が10日の勢いのまま序盤7点の大量リードを奪い、一気にリーグ制覇に王手をかけるかと思わせる展開でしたが、巨人も執念を見せ、結局大乱戦の末10-10のドロー。この時点で残りゲーム数は阪神が4試合、巨人が3試合。残りゲームは阪神は広島が2試合と、中日、巨人に1試合づつ、一方の巨人は大洋、ヤクルトと1試合づつと最終戦に阪神との日程になり、ペナントの行方は最終戦までの残り試合をどう戦うかで大きく左右される展開となります。
そして中日戦
シーズンも大詰めに来てこれほどの激しい首位争いは滅多に無いのですが、こういう展開に無類に強いのが巨人であり、逆に情けないほど弱いのが阪神です。ところが巨人にはもう往年の王者の力は確実に失われていました。これまでなら絶対に取りこぼすことなど想像もできなかった大洋、ヤクルト戦にあっさりと連敗、落日の王者巨人は絶体絶命の崖っぷちに立たされることになります。阪神も連勝を期して乗り込んだ広島2連戦が1勝1敗でしたが、巨人の連敗のおかげで待望のマジック1が点灯します。
中日球場でのシーズン129試合目。この試合に勝つか引き分けるかで巨人の9連覇の野望は絶たれ、阪神の9年ぶりの優勝は決まります。観測として中日は巨人より阪神に優勝して欲しいはずで(報知新聞と中日スポーツはライバル関係)、もう阪神の優勝は決まったようなものだと誰しも考えました。優勝を見越した江夏はパ・リーグのプレーオフ(当時は2シーズン制)に偵察に出かけ、阪神球団では日本シリーズのチケット印刷や優勝記念品の発注製造にとりかかっていました。中日球場の外野スタンドのすぐそばを新幹線が通っていましたが、絶体絶命の川上はわざわざこの阪神中日戦の試合中に走る新幹線を手配し、最後のプレッシャーをかけようとします。
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| 「右のエース」上田二朗 |
この中日戦も微妙な綾がいくつか取り巻いています。中日新聞社の意向とは別に監督の与那嶺は大洋との3位争いが気になっていました。AクラスになるのとBクラスでは全く監督の評価が変わります。そこで悩んだ末、先発にエースの星野仙一を送り込みます。一方の阪神も微妙な選択を迫られます。この年最後まで阪神を引っ張った左右のエース江夏と上田ですが、上田は中日戦に強く7勝をあげていました。ところがシーズンも終盤にきて上田の調子自体は下り坂で、金田監督も悩んだ末、先発に江夏を指名します。この采配は後々まで中日には上田をぶつけ、もしそれに負けても最終戦の巨人にエース江夏で必勝を期す2段構えのほうが良かったのではないかと非難されることになります。
さらにアングラ情報として試合前にある阪神首脳が江夏にこう話をしたという伝説が残っています。
- 「どや江夏、もうこの辺でええんちゃうか。」
ようするに阪神首脳の意向として、阪神球団としては目一杯優勝争いをしてくれたら客が入って球団は儲かる。ただし優勝してしまうと選手の年棒を上げなければならないので、この辺で手を抜いてくれないかと言う話です。これ聞いて腐った江夏は中日戦で気合が入らなかったという伝説ですが事の真相は未だに闇です。ただし阪神ならいかにもありそうな話です。
結果は優勝へのプレッシャーにコチコチになった阪神が「打たしてやろう」の星野の球に凡打を繰り返し、江夏もまた調子が上がらず失点を許し、手の中に抱え込んでいたペナントを逃すことになります。最終戦はあまりにも無残なもので阪神ファンとして書くのに忍び難いものがありますので割愛します。阪神のシーズンは129試合目の中日戦で終わったのです。
その後・・・
このシーズン、阪神は優勝していました。阪神が128試合目に広島に勝ち、巨人が129試合目にヤクルトに敗れた時点でシーズンは終了し、中日戦は優勝へのセレモニーゲームに過ぎなかったはずなんです。そういう雰囲気は中日でも監督の与那嶺以外は濃厚に感じており、阪神に勝たせて長かった巨人の連覇に終止符を打とうとし、実際にそうであったと星野は後に語っています。
それでも阪神は優勝できませんでした。阪神の戦力もこの年をひとつのピークとして下降線をたどることになります。江夏豊は長年の酷使と心臓に不整脈をおこしたため、あのサウスポーの黄金の輝きは急速に消えうせ、錆びた左腕となりS.51には追われるように南海にトレードされます。もうひとりのスター田淵幸一も不摂生から肥え太り、阪神部屋の部屋頭と陰口を叩かれ、これもまたS.54に西武にトレードされます。
江夏、田淵なきあとは、奇しくもこの年入団した掛布が阪神ファンの期待を一身に背負って孤軍奮闘することになります。藤田平、中村勝、ブリーデン、ラインバック、テーラー、アルトマン、若菜、竹之内、古沢、池内、江本、小林・・・らとともに傾きかけた屋台骨を支え続けましたが、次の優勝までには12年の歳月を要することになります。
もう語る人も少なくなったS.48の幻の優勝。しかし私の心の中では今でも黄金の左腕がうなり続け、ペナントが甲子園のメインポールに高々と翻っています。








9回裏ノーアウト満塁からのピンチを脱して優勝した、ということですけど、ノーアウト満塁にしてしまったのも江夏選手であることはスルーされることが多いですよね・・・
思い出しました。巨人のV9の年ですね。最終戦で巨人が阪神を下し、試合終了後、阪神ファンがベンチに押しよせて、阪神や巨人の選手、報道陣に詰め寄ったことを記憶しています。オイらは九州の炭坑町でTV見てましたかねえ。あの年は西鉄も身売りされ大人達ががっくり来ていました。阪神や巨人ファンも周りには皆無で たまに東京から来た転校生が、東京弁を話してしきりに王や長島の話しをしてました。「つやばつけよって(格好つけやがって)」とみんなでいじめてやりました。標準語という言葉も嫌でした。大坂弁も特殊な業界を連想させ 恐かった。(TVでやっていた吉本新喜劇が強烈で 関西とはあんな人だらけだと未だに思い込んでます)
一方阪神ファンとは自分にとってはからかうのが最高に面白い可愛い人が多いようです。
>伊勢神宮の遷宮ぐらいのサイクル
うっぷっぷ。式年遷宮はおろか優勝はハレー彗星なみと言ってましたよ。まあ千葉県にあるのに東京ディズニーランドというくらいだから、兵庫県にあっても阪神タイガースといっても良いのでしょうね。(いかん 阪神ファンに炎上させられそう)
東京に住んでいても巨人ファンに馴染まず、阪神に夢中な友人をみてもどこか醒めています。熱中できるプロ野球のチームがある人を内心うらやましく思ってます。
子供心に西鉄が身売りされた時の喪失感をまだ引きずっていますね。
鋭い。
江夏の21球は御指摘の通り、無死満塁から江夏が快刀乱麻のピッチングをしたのではなく、江夏が自ら無死満塁の大ピンチを招き、自分で処理した話です。あの時は近鉄サイド、とくに西本監督に日本一になって欲しくて、「石渡のバカヤロー」とテレビに叫んだ記憶があります。その前の佐々木恭介の三振も愛想無かったですけどね。
晩年の姿しか知らない者にとっては、江夏はすごかったすごかったと事あるごとに父に聞かされても?だったのですが、この間たまたま古い映像を見る機会があって認識を改めました。
ストレートの切れと速さもすばらしいですが、あまり曲がらずにスッと少し沈む感じのカーブ?(今ならカットボールと言われそうですね)に背筋が震えました。ちょうどヤンキースのクローザーのマリアーノ・リベラが似たような球を投げますが、あれは打てないです。球の出所も意外に見づらそうです。今の日本の投手で言えばソフトバンクの和田投手(彼も切れのいい直球とほとんど球速に差のないスライダーを投げ、球の出所がわかりにくいサウスポーです。ただ球速はmax=145km/hくらいです)をもう2ランクアップさせたような感じかな、と思いました。
>shy1221様
「江夏の21球」はテレビで見ていました。そうですよね。確かヒット→盗塁時の悪送球で無死三塁→四球→盗塁→敬遠で無死満塁になったんでしたっけ。盗塁も2回決められているんですね。でもついでに言うならこのとき江夏は確か3イニング目だったんですよね。これも今のリリーフ制(1イニングが基本)では考えられないことです
私の友人に東京生まれの熊本育ちの近鉄ファンと言う変り種がいます。この話を書いたときには近鉄はまだ健在だったのですが、近鉄がオリックスに吸収されたときの嘆きは壮絶で、一時は「プロ野球とは縁を切る」とまで言ってました。喪失感の大きさが良く分かります。
江夏に関しては21球も固唾を飲んで見ていましたし、球宴での9連続三振も見ていました。もちろん甲子園での勇姿は生で見ています。当時の阪神は貧打で選手層も薄く、晩年しか知らない人には想像が出来ないでしょうが、打撃を期待されて代打江夏もあったものです。日本最高峰の左腕であったと思います。
しかし江夏といえば阪神でしょう。広島にいた頃は豪速球というより 打者の心理を読んだ非常にクレバーな投手だったという印象があります。桑田や工藤といった投手も今ではいますが。あの頃としては希有な息の長い、現役生活が長かった投手でした。
あのノッシノッシとマウンドに向かう姿はそれだけで威風堂々でしたし、そこで繰り広げられるピッチングは阪神時代の全盛期であれば文字通りの快刀乱麻であり、球速が失われたリリーフエース時代でも芸術的なものであったと思います。
江夏が出てくれば安心だ、江夏ならなんとかしてくれるだろうのファンの期待に見事に応えたので、今ですら江夏を語り継ぐ人間が絶えないのだと思います。同時代に巨人のエースとして江夏と張り合った堀内は、203勝139敗6Sの立派な記録を残し、V9の立役者として常にスポットライトを浴びる立場にいましたが、今では語られる事も少ないのと対照的です。
阪神のお家騒動は、今の親会社に通ずる情報管理能力の甘さが、そのまま出ていましたね。阪急との統合とか、村上ファンドの動きとか、阪神って情報に関してノーガードですもん。
そういえば1985年といえばすごく売れた商品はYosyan先生ご存知ですか? そう、あの「8次元パワー」ですよ。たいていの阪神ファン(トラキチ・・・差別用語でなく、尊敬語です)が、あのテープを再生しながら、優勝直前の対広島戦を見てたそうです。北別府との白熱した1点を争う緊迫したゲーム、あれでAMIになった人が多数でたとか。あそこで広島に連勝してゲーム差6で、ヤクルト戦は病人はなかったそうで。ただしヤクルトの売り上げ急増だそうです。トラキチが集団でヤクルトを飲み干したそうで。全部坂東英二の情報ですから、信用度は・・・ですが。
やっぱりたまには、こういう楽しい話題もお願いします。
優勝の日の騒ぎは今でも鮮明に覚えています。飲み屋が軒並み飲み放題で、四斗樽があちこちで抜かれて振舞い酒をやってました。もっとも飲み放題と言っても入れなかったですけどね。
変な話、マジックが減っていくと猛烈なプレッシャーがかかってきて、ファンの方が緊張し、一桁になると意識的に野球の話題を避けていました。’73を知っている世代ですから、最後の最後にドンデン返しが待っているんじゃないかと疑心暗鬼で、優勝の瞬間は放心状態だったと記憶しています。
あれほどの熱狂は二度とできないですね。歳を取った証拠だと寂しく思っています。
ところで、江夏の21級を含めた、名監督の人物像や知略に関しては、「監督たちの戦い」上下 浜田昭八 著 日系ビジネス人文庫 に非常に詳しいです。上下間合わせて800P近いですが、読む価値は十分あります。特に川上監督の項は必見です。阪神は吉田義男しかないのが悲しいですよね、Yosyan先生。でも、吉田監督のファンでも知らない一面が描かれています。今の古田の様な印象です。
阪神にも何人も永久欠番尾選手がいますが 私は子供心に 稲尾様 中西様!
西鉄の永久欠番の選手たちよ。球団が身売りされたら欠番からはずされちゃった。
近鉄の鈴木啓示はどうよ?これまた同様。300勝はおろか200勝投手なんて絶滅危惧種になっちゃいましたけど。今更ながらあの頃の投手はすごかった。
パリーグの球団で身売りされると新しい球団では省みられないんでしょうなあ。私の喪失感という大元はそんな部分にもあります。選手の記録も記憶もかきけされちゃう。おまけに名前もユニホームも変わっちゃう。九州にいたころのライオンズといっても東尾でおわりですよ。
しかし落合や江夏が永久欠番にならないのも不思議ですねえ。トレードにだされたからですかねえ。それぐらいインパクトのあった選手でしたが。
そういうわけで 数年前の阪神の合併話は他人事に感じられませんでした。まあセリーグだったら身売りはないでしょう。
西鉄の永久欠番は稲尾和久の24、中西太の6とこれは返上ですが大下弘の3もあります。これらと鈴木啓示の1がパ・リーグの全永久欠番ですが、いずれも買収時に歴史を受け継がずに消滅しています。福本豊の7も内定していたそうですが、これも阪急が滅んで立ち消えになっています。
永久欠番の選定は微妙で、例に上げられた江夏や落合もそうですが、他には張本勲もいます。トレードは永久欠番に影響はしますが、金田正一もトレードですし、永久欠番1号として沢村英治と並ぶ黒澤俊夫もトレードで、実働3年足らず、166試合、623打席、打率.300、打点82、本塁打3、盗塁32で永久欠番に認定されています。
絶滅種である300勝以上の投手で永久欠番になっているのは金田と消滅した鈴木だけです。他の4投手、ビクトル・スタルヒン、別所毅、小山正明、米田哲也は永久欠番の名誉に浴していません。300勝には届いていませんが、阪急一筋の大エース、山田久志もまた永久欠番になっていません。
大雑把ですが、日本の球団はオーナー(会社)の個人所有物の観念が強いですね。だから買収したら自分のもので、球団の歴史はまったく尊重せず、買収してから歴史が始まるとしか考えていないようです。
典型的なのはオリックスで、完全に前身球団を無視しています。オリックスの歴史からは阪急は完全に抹殺され、近鉄球団史もオリックス発足時からしか認めず、そこに鈴木はもちろんの事、江夏の21球でのエピソードも無く、10.19の歴史的な死闘も抹殺されています。
阪急の勇者の伝説も、近鉄の10.19まで抹殺した事への怒りはアリアリと私にはあり、とくに10.19は今回の阪神の話の倍ぐらいの分量で書き綴ったものがあります。これもまた何かの折りにこのブログで紹介したいと思っています。
オリックスも51は事実上の欠番扱いですな。まあ何というか…。
個人的にはホークスの90が準欠番扱いになっているのが粋に感じますね。
イチローや田口も福本の7を打診されたそうですが、重すぎて逃げたの話が残っています。今は使ってますけどね。イチローの51も当面は誰も背負いたがらないとは思いますが、オリックスですから、どこかで宣伝のために使う事は十分ありえると考えています。
4周年、おめでとうございまーす。
パリーグは唯一残っていた近鉄までなくなって、結局全部変わっちゃったんですねー。
私は当時の事は全然わかりませんが。
そのデーターを見て、王選手の偉大さを思い知りました。
その近鉄球団を消滅させた張本人と、今の医療崩壊の一翼を担っている輩が同一人物だということを知り、親の敵に近い感情を持っております。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%A4%8F%E3%81%AE21%E7%90%83
Wikipediaに詳しいです。
ラインバック、ブリーデン、、、懐かしい響きです
子供の頃、まだリモコンのないテレビで夏の夜、ヤクルト戦8対10とかいう、なんだかやる気のない締まらない試合をだらだら見るのが好きでした。
田淵が放出されたのはショックだったなぁ。。。。
85年は、大学生だったら道頓堀に飛び込んで死んでいたかもしれません(笑)
村山、小山、バッキーは、斉藤、桑田、槙原みたいなもんだったんだろうな。小山と山内のトレードは野茂とイチローのトレードのようなものか。村山、遠井のとき江夏・田淵が出てきたのは、奇跡か。いや、井川・矢野もそれに匹敵するぞ。星野SD(SDガンダムをどうしても想像してしまう)が常に主張している、大先輩を崇拝する事が球界の発達に大事という事は、医学にも通じますね。昔の知識だよといわずに先輩、偉人を崇拝する事で、医師の権威が保てます。最近の若い衆は平気で腰麻中でも、「そのやり方は古いです」とかいうからなあ(私は目が悪いので見てるだけ)。成長しているのはある意味嬉しいが、術中のsudden surprise,talk,speak,abuseは禁忌だからね。怒鳴ってでも教え込まないといけないなあ。もう科長はやだよ、早く医療崩壊して、札束で院長のほっぺたをペンペン・ピシパシする立場になりたい。なお、先ほどの本の川上、吉田は必見です、ぜひ見て下さい。野球を見る目が全く変わるほどの衝撃ですよ。特に川上は敵将ながら、天晴れです。
今日から暗いエントリーが続くんだろうな・・・私は嬉しいんだけど
>親会社が変わっていないのは近鉄とロッテだけですし、名前も変わっていないのは近鉄のみです。
存在を忘れられた楽天ゴールデンイーグルスが可哀想(笑)。
近鉄は3年前に消滅(オリックスとの合併ですが、実質消滅ですよね)してるのに。
>ドームに新築した後楽園や中日球場
ナゴヤ球場はまだ残ってます。ナゴヤドームとは場所も違いますし。
重箱の隅つつき、申し訳ありません。以下は純粋に感想です。
>投手の質が落ちたのか、バッティングの技術が向上したのか
投手の質は上がっていて、むしろバッティングの技術と言うよりは打者の筋力体格が
向上したことに原因があるのではないかと考えます。
たまに80年代の試合をスカパーで見直すことがありますが、今のプロ野球に見慣れていると
打者の線の細さに驚かされます。球場が当時に比べてずっと大きくなっているのに、
本塁打数が大きく減っていないことからも裏付けられるように思います。
それと人工芝が打撃成績の向上につながっていると考えるべきでしょうか。
>江夏は捕手の田淵に「捕るな!」と怒鳴りつけた
江夏本人は「追うなと言った」と証言していますが、私が本などで見た江夏の性格からすると
「追うな」の方がやはり相応しいように思えます。
この点は、「当時の江夏」を知る立場としてどのようにお考えでしょうか。
>「打たしてやろう」の星野の球に凡打を繰り返し
この試合、星野は途中であまりの阪神のふがいなさにかえって腹が立って、巨人に
優勝させたくないつもりだったのが、阪神なんかに優勝させてたまるかに気持ちが
切り替わったという話を読んだことがあります。
だとすると、本当にもったいないことをしたなと思います。
4周年を迎えられたこと、おめでとうございます。
今後とも影ながら、ご活動の盛んなることをお祈り致しております。
医師なので医療の事を中心に書いていますが、それしか楽しみが無いわけではなく、連日ブログで医療を書く反動か、たまに飲みに行くとほとんど医療の事は話しません。医療の事以外をはなせる折角のチャンスですからね。
>存在を忘れられた楽天ゴールデンイーグルスが可哀想(笑)。
>近鉄は3年前に消滅(オリックスとの合併ですが、実質消滅ですよね)してるのに。
これは冒頭部に書きましたように、2004年のシーズンオフに書いたものなので御了解ください。
>江夏本人は「追うなと言った」と証言
本人の証言も含めて諸説あるのですが、江夏のイメージとして「捕るな」を使わせていただきました。
もうひとつ129試合目の星野の心境もまた諸説あります。星野は元来阪神ファンであり、アンチ巨人であるのは有名です。気持ちとしては巨人には優勝させたくないと思ったでしょうが、中日のエースとしてのプライドもあり、言うほど甘いピッチングでなかったように考えています。
これはおそらくですが、変化球で交わすピッチングをせずに、ストレート中心の勝負を行なったと想像しています。球速で勝負した分、コースがやや甘くなり、その辺を「打たしてやろう」と遥か後年に語った様な気がしています。阪神の打者にすればいつもと組み立てが違う投球に戸惑い、余計に打てなかったのではないかとも考えています。
いずれにしろ30年以上も前の事ですし、当事者たちも本当の真相を必ずしも語っているとは思えません。だからロマンかなと思っています。
申し訳ありません。
私のHPを読まれている方にはお恥ずかしい限りです。御存知の通りこのエントリーはリサイクルですからね。まあたまには許してください。たぶん読んだことが無い人の方が多いでしょうから、年に1回や2回はあっても良いでしょう。
星野投手の話しですが、以前、山本浩二(星野、山田とは確か同期ですよね)がラジオで実は甘いストレートほど打ちにくい、普段から厳しい球を打つ練習をしているからと言っているのを聞いた事があります。だから当然打てんだろうと。
あと江夏の「追うな」ですが、田淵がトラトラタイガース(関西オンリー)で「あいつ格好つけとうけどな、ほんとは「追っても追いつかん、無駄や」って言っただけやで」と漏らしていました。あの2人、ノーサインであれだけの速球やシュートを投げとったんですから、すさまじいですね。なお、上記の紹介した本に、川上監督の冷静な江夏攻略法が載っています。指揮官たるもの、鬼にならねばならない事を学び取りました。
なお、またまた上記の本ですが、長嶋茂雄の野性の感の秘密も載っています。実は当時では珍しい、データ野球の元祖だそうです。韓国プロ野球発足時に本人がいろいろ語ったそうです。だから落合に自分を感じたんではないでしょうか。野球ファンには絶対読んでもらいたい本です。別に私が書いたわけではありませんので、印税は私には入って来ませんよ、念のため。私は3回読み直したかな。
今の子供は、野球よりサッカーですね。学校教育にしてもそうですもん。このままでは、野球は廃れていくのかもしれませんと、心配していますが、プロ野球OBが少年のために活動してくれているので、何とかなるのではないかと、甘い期待をよせています。
田淵の話ですが彼は「天才は練習しない」と語った事があるそうです。プロ野球でスターになるような連中はそもそも練習しなくてもスターなんだと言うことです。もし天才が普通に練習したらどうなるかですが、超天才になってしまうと語ってました。
プロに入るような連中でも素質の差は歴然とあり、凡才はいくら練習しても、練習しない天才に絶対追いつけないと言う事だようです。おそらく実感の本音では無いかと思います。それでもそんな本音は指導者になる上で絶対話してはいけない事で、それをつい話してしまう田淵の人の好さを感じてしまいます。
しかし長島と王が練習の鬼だったのは有名で、川上監督が反省会をした後、長島、王が淡々と練習していたため、全員しなければいけない雰囲気になっていたとか。落合も練習しない選手として知られていますが、無駄な練習をしないだけで、その日のタイミングをつかむのにはかなり時間をかけたとか。田淵は・・・マジで練習していなかったのでしょう。タイトルとってませんもんね。だから腹が出るんですよ。江夏もそうですね。そこを川上に突かれて勝てなくなり、広岡に指摘されても直さず、なんじゃいとアメリカにわたって撃沈ですから。天才<連取する非天才と私は思います。長島、王、野村級の超天才があれだけ練習しているわけですから。あの本を読んでくださいませ。野球好きの先生方・・・絶対損はしませんよ。野球だけじゃなくて応用が利きますから。
今日のブログは絶不調ですね。私、高校時代は野球関係の本を読み漁っていました。もちろん主流は坂東英二と江本武則という反則選手ですが、何事も努力という精神はきっちり学び取りました。特に坂東のフォークボールは「そんなん、こんな小さな手じゃ無理です」に対し、杉下コーチの「やったらできる」は、真剣にとらえました。
あくまでも田淵談ですが、田淵に言わせれば王、長嶋の練習量は「並」だと言う事です。王の一本足打法への練習は有名ですが、これも田淵に言わせれば「素振りだけは多かったかもしれない」程度の評価です。
どちらが本当かは部外者にはわかりませんが、個人的には内部にいた田淵の言葉にある程度の評価を置いています。もちろんそう受け取ったほうが話として面白いと言うのもあります。
ひとつだけ傍証を挙げれば、例外はもちろんありますが、現役時代に二流以下の成績の監督の練習は壮絶に厳しいとされます。例を挙げれば仰木もそうですし、仰木の師匠の一人に当たる西本なんてもっともっと壮絶に厳しい練習を選手に課しています。
ところがスター選手が監督になれば練習は甘くなる傾向があります。スター選手はなぜあれほど練習しなければならないか理解できないためとも言われています。スター選手は天才であり、天才は凡才が10の努力を要することを、1の努力でできてしまうのです。だから天才に必要な練習量しか選手に課さなくなり甘くなると言う理屈です。
川上はある意味例外ですし、例外であるが故に大監督足りえたと思います。悔しいですが、実績だけなら他の監督はどうやっても及ばないですからね。
子供は阪神ファンにはさせません。勝っても負けても喜ぶはいいんですが、負けた時の喜び方が歪なんです。野球を見るのに満足するのではなく・・・関西では禁句ですので止めます