新小児科医のつぶやき

2008-08-03 日曜閑話2

今日のお題は「大軍と兵站」です。歴史小説の楽しみ方はいろいろありますが、やはり合戦シーンは大きな山場です。パターンは幾つかあって、圧倒的な敵の大軍を少数の手勢で引っ掻き回して翻弄するのも痛快ですが、名将が大軍を両者が率いて雌雄を決するのもワクワクさせられます。前者の典型は楠木正成でしょうし、後者の典型は川中島の合戦でしょう。

この大軍の数がどれほどであったかです。合戦に臨む軍勢の数は基本的に最高機密です。軍記物には人数がしばしば書かれていますが、自ら呼称する時は出来る限り水増しして言い触らします。わざと自軍の数を少なく言い触らして戦い望む武将は極めて稀と言ってもよいと思います。そんな事をすれば通常は合戦どころでなくなってしまうからです。

軍勢に参加するのは武士です。武士と言っても指す範囲が時代によりかなり変るのですが、戦国前期ぐらいまでは最小の戦闘単位は小領主でした。小領主は一つの村ぐらいを支配する勢力で、自分の力だけでは領地を防衛しきれないので、地縁血縁により攻守同盟を結びます。攻守同盟のメンバーの中で比較的大きなところ、または有能な者、または家柄などによりリーダーすなわち旗頭とされるものが立てられます。同盟員は同盟者の防衛や利害について旗頭の命令に従う関係になります。

さらにその同盟は他の同盟との抗争に際し、さらに大きな同盟を結び、同盟間のさらに盟主を立てることになります。その繰り返しの関係でイザという時に軍勢が駆り集められるのが基本的なシステムです。ここで注意して欲しいのは最小単位の小領主と盟主の関係は主従ではありません。江戸期のように○○家の家来と言う関係ではないのです。あくまでも小領主は自律した存在であるのが特徴です。

たとえてみると江戸期の大名は大きな会社のようなもので、従業員は会社(大名)に忠誠を尽くします。ところが戦国期以前となればは商店連合会みたいなものと考えればよいと思います。どこかが一番違うかといえば、旗色が悪くなれば最小単位の小領主であっても容易に寝返ると言うことで、盟主たるもの自分の同盟者がどれぐらい裏切るかとか、相手の同盟からどれぐらい裏切りが出るかを常に計算しながら行動していたと言う事です。

先ほど合戦に臨む時にはできるだけ自分の軍勢を大きく宣伝するとしましたが、大きくしておかないと軍勢が集まらないからです。合戦に勝利する一番単純な要因は軍勢の多さです。「数が多いほうが勝つ」と言う極めて単純な法則は武士にとって常識以前の鉄則で、両軍の差がある程度以上開くと、雪崩を打って多いほうに集まります。これには裏切りも、日和見も含まれます。

もう一つの特徴は盟主の領地は必ずしも大きくない事です。比較的には他の同盟者より大きいにしろ、大同盟の盟主といえども自前の戦力はそんなに大きくありません。あうくまでも同盟や連合する勢力の長であるだけで、自分の領地のみを広げることに腐心すれば、味方の小領主の信望を失い離反されてしまう関係にあります。

そういう小領主の同盟や連合体の筆頭とされたのが「武家の棟梁」です。棟梁とは上手い表現で、有能な棟梁の下に自然に職人が集まる様子をよく表しています。武家の棟梁として有名なのは源氏と平家で、ほぼ全国を二分して武士の支持を集め、No.1決定戦をやったのが源平合戦であると言う見方も可能です。

源平合戦でも軍勢の数は随所に書かれています。源平合戦での軍勢の数え方は「騎」です。「騎」とは騎馬武者のことですが、軍勢を数える時には最小単位である小領主の軍勢であると考えると良いと思います。小領主は馬に乗り、徒歩の手勢を率いて合戦に参加します。つまり馬に乗った小領主と率いた手勢が「騎」であり、小領主の数を○○騎と数える事になります。イメージとしては小隊みたいな物でしょうか。では一騎に何人の従者と言うか家来がいたかは小領主の勢力によります。5〜30人とされる事が多いのですが、ここでは10人としておきます。そうなると人数の概算として10騎となれば100人ぐらい、100騎と言えば1000人ぐらいになってきます。

源平合戦でも兵力が書かれている個所が幾つかあります。源平に対して陸奥で第三勢力を堅持していた藤原氏は「奥州17万騎」と畏怖されていました。また富士川の合戦では源氏が5万騎とも18万騎とも書かれています。また一の谷の合戦では、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎とも書かれています。そうなると源氏の動員兵力は富士川で50万とか180万、一の谷でも60万以上の大軍を動員した事になります。関が原も真っ青の大軍です。

この軍勢の数に関しては水増しももちろんありますが、後世にドンドンかさ上げされたのはほぼ間違いありません。源平合戦を伝えたのは琵琶法師や講釈師ですが、彼らも話をする上で軍勢の数が多いほうが話が盛り上がりますし、語る時の時代で大軍の概念自体が変ります。江戸期の大軍の概念は関が原や大坂の陣で、その時には実際に10万以上の大軍が動員されています。そうばれば源平時代だって、それぐらいの大軍が戦ってもおかしくはなかろうの発想です。

ところで軍勢のと言うのはどれぐらい動員できるんだろうかの問題があります。これもまた答えが出難い問題ですが、参考になるデータはあります。明治の日本は徴兵制を敷き、日露戦争を戦い抜きました。奉天会戦の頃には40歳以上の予備役まで動員されていますが、この時の総動員兵力が108万とされています。日露戦争が始まったのが1905年で当時の人口が4400万人ほどです。そうなると全人口約2.5%になります。

では源平時代の人口がどれぐらいになりますが、平安時代末期で約680万人とされます。男女同数として、男性が340万人。富士川でもし18万騎(180万人)も源氏が集めたのなら、当時の成人男子の約半分が源氏方にいた事になり、水鳥の音が無くても平家は逃げ出します。奥州17万騎も同様で、170万人もの軍勢を藤原氏が抱えていたら、源氏と平家が束になっても勝負になりません。

では富士川の源氏勢を18万騎ではなく5万騎とし、なおかつ「一騎」を「一人」としたらどうでしょう。つまり源氏は富士川に5万の大軍を集められるかです。源氏側の兵力動員地域はもちろん関東です。東北は藤原氏ががっちり抑えていますから当てに出来ません。当時の関東にどれほどの人口があったかですが、これもデータはあり約160万人とされます。日露戦争方式で動員数を考えれば4万人は動員可能ですから、根こそぎ動員すれば5万人に近い数は不可能ではありません。5万騎を5万人とし、さらに5万が2倍の水増しをしていると仮定すれば2.5万人、関東の動員能力の62.5%を富士川に集めれば数字上は可能です。

問題は2.5万と言え、これの兵站をどうしたかです。日本の合戦の一つの特徴は占領地の略奪を基本的に行わなかった事です。もちろんゼロではありませんし、そこそこはしていましたが、原則は自前で食料を調達し戦うです。現地調達を行なうにしても、それなりの代価を支払って求めていたと言うことです。これについては、日本の合戦の根本原則は領地の奪い合いであり、奪って取った領地は自前の領地になるので、略奪を行なって反感を買ったり、疲弊させると損だと考えていたからだとあります。

そうなると地盤の関東から富士川まで自前で食糧を運ばなければなりません。さらに現地調達と言っても2.5万人の調達は当時の生産能力らして容易でありません。富士川での勝利後、頼朝がそのまま京都を目指さなかったのは諸説ありますが、一つには集まりすぎた大軍を食わせながら京都まで進軍する目途が立たなかったのも一因かと考えています。富士川の頃の農業事情もある程度分かっており、西国は飢饉だったとされます。頼朝が富士川の勢いで西上しても、遠征の源氏軍は食糧調達に困り、引き返さざるを得なくなるとリアリストとして知られる頼朝が判断してもおかしくありません。

兵站と大軍を考えると一の谷の合戦時の源氏軍も謎です。源氏軍は総勢7万6000騎、これが7万6000人のさらに半分の3万程度であったにしても兵站面からすれば、途轍もない大軍です。宇治川の合戦で義仲を破って近畿の覇権を握っていたにしろ、主力は関東軍であり根拠地は関東です。そこから考えると平家の戦略は兵站面からは優れているとも考えます。一の谷の平家軍の兵力は分かりませんが、源氏に近い勢力でなかったかと考えられています。

しかし平家軍の兵糧輸送は源氏に較べると遥かに容易です。一の谷は南が海であり、制海権は平家がガッチリ握っていました。当時であっても船による海上輸送と、荷駄による陸上輸送では、輸送量で比べ物になりません。おそらく平家の大戦略は一の谷に源氏の大軍を引き寄せて持久戦を行い、源氏側の食糧補給の不足を待つ戦略であったと考えています。一の谷の陣地は堅固であり、兵站面の不安が無ければ長期戦は容易です。

一の谷の事は前にも調べた事はあるのですが、戦略面では絶対平家優勢です。源平合戦では常に間抜けな役回りに書かれている平家ですが、一の谷の戦略はまさにどこを突いても穴がない完璧なものであると感じてします。しかし歴史は平家に微笑みませんでした。戦略的には平家の罠にかかり必敗状態の源氏ですが、ここに世界史的に見ても稀有な天才戦術家を源氏に登場させます。言うまでも無く義経です。

義経の天才が生み出した鵯越の逆落としの奇襲により平家の必勝戦略は脆くも崩れ去ります。これは「戦略の失敗は戦術では取り戻せない」の鉄則を覆した非常に珍しい例ではないかと考えています。

もう一つまとまりの悪いお話でしたが、今日はこれで休題にさせて頂きます。

BigHopeClasicBigHopeClasic 2008/08/03 15:26 前に『歴史読本』で頼朝の奥州藤原氏征討の記事を読んだのですが、このとき源氏側が呼称した「28万騎」を輜重輸卒(とは言わないでしょうね、人足ですか)まで含めた数とすれば当時の軍制や人口と比してつじつまが合うのではないかと書かれていました。
今手元に元記事がないのですが、おおむね首肯できる論だったと記憶しています。
千早城を囲んだ鎌倉方80万騎も、そう理解すればわからないでもない数字かなと。

BugsyBugsy 2008/08/03 16:30 たまさかの御縁で関東地方に居住していますと 面白い地名が耳に入ります。
駒込、駒場は古くは平安時代の官営の馬場や牧場に由来するそうです。渡来人が開墾したという 高麗から由来したとされる狛江という地名も今に残っています

平安時代ですが、鎮守府将軍や征夷大将軍が東北や関東地方の乱に出征するには 時の中央政府の許可があるので、官許によって兵站の現地調達は地方の地元官僚を動員すればあるいは可能だったかもしれません。
しかし源頼朝の場合は京都とは別個の独立政権ですからね、地頭制度を置く前にはどういう法的根拠で 武士階級という名の関東地方の開墾小領主を召集し兵站をまかなったのでしょう。ご本尊は流刑人です。何の役職にはついていません。将軍になっていないので 御教書も発給できなかったはずです。

興味深いお話です。自作開墾領主が家之子郎党を引き連れて自弁で参加といっても 長期は無理でしょう。農閑期じゃないと 農作業に差し支えます。
騎という言葉が出ましたが、馬を連れて行くにせよ替え馬も必要でしょうし、秣の調達も簡単じゃないはずです。なんせ当時は京都周辺はいざしらず貨幣経済といっても関東近辺では微々たる物だったはずです。

戦闘の参加人数は割合正確に把握されていたんじゃないでしょうか。
着到状という言葉が残っています。軍勢催促に応じて参陣した際に提出する書類で大将に報告したはずですよ。
同時に軍忠状もあり、合戦での戦功を列記し、指揮者に提出する書類ですが 自分の手柄を記録してもらって後で報奨にあづかる仕組みです。まこれが目的でやせ馬にまたがって「殿の馬前で」アピールして 少しでも「一所懸命」に土地を増やしてもらいたかったんでしょう。

YosyanYosyan 2008/08/03 16:41 BigHopeClasic様

あくまでも歴史ムックはお遊びなのでそのつもりで。

奥州征伐に動員した兵力の28万騎=28万人としてですが、その殆んどは関東からのものと考えて良いかと思われます。奥州征伐の頃は鎌倉政権は出来上がっていましたが、その有効勢力範囲は関東一円から東海北陸のいわゆる東国に留まっていたとの説があります。とても西国から大軍勢を奥州まで引っ張っていく力はなかったとしても良いと思われます。

人口推計自体が諸説あるのですが、仮に関東が160万人とすれば、男性が80万人となり、そのうち25万人、すなわち3割以上を動員する必要があります。人口比からすれば根こそぎの印象が私にはします。ここで25万人を関東の留守に残った予備軍も含めたものとし、さらに奥州遠征により鎌倉側に寝返ったものを人足も含めたものとするぐらいであれば、辛うじてソロバンがあうかもしれません。

それともう一つの問題点は、奥州遠征の時期です。7/19に鎌倉を出発し、鎌倉に帰ったのは9月に入ってからです。この時期に成人人口の3割も合戦に従事させれば農業生産に大きな影響を及ぼします。田植えは済んでいるかも知れませんが、米作りはオール手作業であり、草抜きだけでも、女性だけでは当時の収入のすべてと言って良い米の収穫に影響します。そんな暴挙を果たして頼朝が行なうかです。

一つだけ可能性があるのは、当時の人間は奥州17万騎をかなり真剣に信じていたようです。17万騎に対抗するには25万騎ぐらいは必要ですから、すべてを犠牲にして乾坤一擲の大動員を行なったという考え方です。それでもどんなものかと思ってしまいます。

千早城の80万騎となると眩暈がします。これも当時の推定人口が900万人ぐらいですから、80万人としても人口の約一割、男性人口の18%が集まっていた事になります。千早包囲戦は100日に及んだと言いますから、仮に毎食1合の米を食べたとして、1人あたり1日3合、80万人で1日240万合つまり2400石の米が必要となり、100日となれば24万石が必要となります。一石は十斗ですが、米一俵が五斗になりますから、4800俵、千早は山奥ですから、集めた米を馬一頭に2俵載せて運んでも、馬だけで2400頭毎日必要です。

これだけ千早周辺で食糧を消費されたら、住民は耐えられたかどうかが少々疑問です。戦国末期でも今の大阪府である摂津、河内、和泉を含めて80万石ぐらいしか生産量がないですからね。

YosyanYosyan 2008/08/03 17:04 Bugsy様

 >着到状という言葉が残っています。軍勢催促に応じて参陣した際に提出する書類で大将に報告したはずですよ。

御指摘は正しいと思いますし、総大将の頼朝は何人の軍勢がいるかは正確に把握していたはずです。また鎌倉幕府も誰が参加したかまで記録し、手柄により褒賞を分配していたはずで、何を与えたかも記録していたかと思います。ただし、そういう記録はある意味軍事機密です。一部の関係者しか閲覧できなかったと考えるのが妥当です。あくまでも公式には「○○万騎」で戦ったです。

ではその記録がどうなったかですが、やはり新田義貞の鎌倉攻めの時に燃えたと考えるのが妥当です。燃やさなくとも字が読める人なんて限られていますから、捨てられたと考えても良い様な気がします。そんな記録は戦乱の中では一文の値打ちもないですからね。

BugsyBugsy 2008/08/03 19:58 楽しいお話を有難うございます。

瀬戸内海に大三島という島があります。そこに大山祇神社というのがあって 国宝の8割を収めているとされています。行ったことがありますが まあ大したものです。
ご主人様にも是非お勧めしたいです。行かれた経験があるのなら 是非もう一度。

鎌倉初期から戦国時代の甲冑が収蔵されています。源義経奉納とされる鎧、兜 装飾からしてそうですが、奉納品とあり同時に美術品です。日本工芸の粋です。

そこで以前から疑問点があります。
1)こんな美術品みたいな高価な鎧は鎌倉武士は買えないでしょう。いつもはどんな鎧を着ていたんでしょうか?
2)少なくとも甲冑、大鎧は40kg以上あるそうです。こんなものを纏った武士を乗せて農耕馬がよくも突撃できましたなあ。降りて戦闘したんじゃない?真夏はどうしたんだろ。暑くって。後世になりますが 多分武田騎馬軍団なんて嘘だろ。木曾駒みたいなポニーじゃ無理でしょ。10分馬の早足でもちますかい?
3)なんで日本の武士だけ相手の首を切りたがるんだろ?日本騎馬民族渡来説というけど 大陸の騎馬民族で首を取りたがる民族っていましたっけ?

最後に鎌倉時代の武士って馬上で刀は振り回してないはずです。馬から落ちてしまいます。結局 鎌倉武士って弓騎兵だと思うなあ。弓矢の道っていいますが、刀の道とは云わないですよ。

YosyanYosyan 2008/08/04 08:09 Bugsy様

鎧は買えたそうです。もちろん大山祇神社に展示されているものは総大将クラスの最高級品ですが、武士(小領主)はそれなりの鎧を所有していています。蒙古来襲絵詞でもそれは確認できまし、鉢の木の話を思い出していただいても良いかと思います。

それと騎馬武者は長距離移動を実際に行なっています。賤ヶ岳の時に秀吉軍団は大垣から70kmを9時間で走破していますし、中国大返しのときも騎馬武者は天王山に急行しています。三方が原の家康の逃走を思い出してもらっても良いかと思います。ただ移動速度は徒歩武者とあまり変らないと見ても良さそうです。それと騎馬突撃と言っても、とくに鉄砲伝来以前は敵陣までの距離は短く、敵と遭遇すればさして駆け回る必要はないので、全力疾走時間は短いものと考えられます。

刀と弓の話は長くなるので簡略にしますが、江戸期になるまで刀は武器として重視されていませんでした。刀では鎧は切れないという単純な理由です。一方で弓は近距離なら鎧を貫く貫通力があり、距離が少し開いても真庇を貫けば打ち取る事は可能です。どれぐらい近距離なら有効かといえば、流鏑馬を見れば参考になるかと思います。

戦国期以前の武者の武勇譚は殆んどが弓矢のものであり、これが武士の主武器であり表芸であったと考えて良いかと思います。これは後世になっても残り「弓取り」は最高の敬称の一つになっています。たとえば家康も「東海道一の弓取り」と言われたりしていますからね。

刀に重きが置かれだしたのは元和偃武の後で、武士が鎧を着用しなくなり、さらに刀より絶対有利な槍も日用の武器として携帯されなくなってからです。それまでの刀の武器としての地位は極めて低かったのは間違いありません。

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