日曜閑話6

今日のお題は「鎌倉」。先にお断りしておきますが、鎌倉は一度しか訪れた事はありません。それも朝9時には到着予定だったのですが東名高速で大渋滞に巻き込まれ、到着したのはようやく昼頃となり、さらにその日の宿泊は箱根だったので実質4時間ぐらいしか滞在していません。バタバタと駆け足で何ヶ所か名所旧跡を訪ねておしまいの鎌倉見聞しか無いという事です。そのため関東地方の方々の鎌倉への思い入れに関しては、残念ながら「よくわからない」状態なのは白状しておきます。

とりあえず残っている鎌倉の印象は「狭苦しい」です。さして高くはないですが三方を山に囲まれ、南は海といいながら、市内にいるとさほど海を意識するような町ではなかったという感じです。京都も盆地で三方を山に囲まれていますが、鎌倉よりはまだ広々した感じがします。神戸も背後が六甲山で狭苦しい街ですが、南の海の開放感は鎌倉とはかなり印象が異なります。これは鎌倉と京都、神戸の比較論のためではなく、あくまでも鎌倉の地理上の特性をイメージとして抱いて欲しいためのものです。鎌倉幕府を開いた頼朝は鎌倉をなぜ根拠地として選んだんだろうが、今日の前半の主題のとしたいからです。

頼朝は源義朝の三男です。頼朝が生まれた頃の義朝は京都を活躍の場としております。保元の乱ではとにもかくにも勝者の位置にあり、頼朝も

    皇后宮権少進 → 上西門院蔵人 → 右近衛将監 → 二条天皇蔵人
こんな感じで出世しており、最終的に平治の乱のドサクサに右兵衛権佐に任じられています。どうも当時の官職の感覚が分かり難いのですが、おそらく最後の右兵衛権佐は完全にお手盛り人事なのでそこそこの地位と思われますが、それ以前はさほどじゃ無かったと考えています。ここで官職については実はそんなに注目しているわけではなく、おそらく頼朝は京都で育った人間であろうと言うことです。

京都は現代の京都ではありません。当時の京都は日本でダントツの大都市であるだけではなく、文化でもまたダントツの都市であったということです。とくに文化に関しては事実上京都にしか存在していない言ってもよいぐらいで、日本唯一の華やかな都市文化の中で頼朝は育ったと考えてよいことです。当時の人間が京都を憧れる感覚を現代に喩えるのが難しいのですが、明治時代に花のパリを憧れるぐらいとしても言い足りないかもしれません。少なくとも江戸時代の江戸とは比べ物になりません。

京都生まれの文化人でもある頼朝は平治の乱の後、伊豆の蛭が小島に流人となります。そこから石橋山の挙兵があり、源平合戦から鎌倉幕府創設に頼朝は進んでいくのですが、本拠地として選んだのが鎌倉です。鎌倉と源氏の所縁ですが、これはwikipediaからですが、

康平6年(1063年)源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した。この年は、源頼義陸奥安倍貞任を討ち、前九年の役終結した翌年である。源頼義は、氏神として信仰する八幡神に戦勝を祈願していた。そして、戦いの後、京都郊外の石清水八幡宮に勝利を感謝し、本拠地の河内国壷井に壷井八幡宮を勧請し、河内源氏の東国進出の拠点である鎌倉に八幡神の分霊を祀った。これが今も鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の起源である。

源氏の東国進出の前進基地として鎌倉が選ばれたのが分かります。頼朝の父義朝も鎌倉に住んでいたとされ、頼朝もごく自然に鎌倉を本拠地として選んだとする解釈が通説です。これでちっともおかしくないのですが、それにしても狭苦しいところだと思ってしまうのが正直なところです。

頼義が鎌倉を選んだ理由はなんとなく分かります。関東平野の中心は向背が定かでない他氏の豪族が群雄割拠状態であり、関東の南の隅っこに前進基地をまず築いたと考えています。地理的には要害の地ですから、まずここに足がかりを築いて関東に進出して行こうの発想です。ただ頼義、義家で前九年の役後三年の役で東国武者の棟梁の位置についてからもここから動いていません。

もちろん前進基地としてから、それなりに投資して鎌倉を経営しているはずですし、地理的に天然の城塞みたいなところですから、東国武者の棟梁になっても動く必要は無いと言えばそれまでです。また棟梁になっても関東の諸豪族がいつ反旗を翻すか分かりませんから、守りの固い本拠地として引き続き使用してもとくに不思議はありません。

私はそういう合理的な理由のほかに人間の感覚として関東中心部への進出を躊躇ったのはあると考えています。関東平野は日本では例外的な広大な平野です。そんなだだっ広い平野の真ん中に拠点を築こうなんて勇気がと言うか感覚が出なかったと考えています。とくに西国人にとってです。源平時代当時にあまり要塞防御という考えが乏しかったとしても、武将の感覚として本拠地防衛はあります。

後世の大阪城江戸城みたいな大要塞を作るのならともかく、当時の防御はせいぜい掻揚げ城程度です。つまり居館の周囲に濠を掘り、掘った土で周囲に土塁を築く程度のものです。さらに戦国後期のように居館周囲に常備軍が屯しているわけではなく、居館の防衛人数は多寡が知れています。そこに反乱軍が押し寄せられたら一たまりもないという恐怖です。

もう少し分かりやすく喩えると、人間は大広間の真ん中で安眠できる人は少ないものです。大広間であってもその隅っこで寝てしまうような所があります。関東平野は言わば大広間になり、とてもその真ん中で寝ようと言う感覚にならなかったのだと考えています。頼朝の選択もまた同様かと考えています。

もう一つ、鎌倉を選んだ理由として考えるのが、拠点としての都市の選定に科学が働いた可能性も考えています。当時の科学としてはやはり風水かと考えますし、京都出身の文化素養のある頼朝も知識としてあったかもしれませんし、幕府創設時の頼朝ブレインにもあったとも考えます。風水による土地選定となれば、四神相応になります。正確な解釈は私もよく知らないのですが、単純には三方を山に囲まれ、南に海や大河、大きな湖沼がある地が良いとされます。鎌倉もそういう目で見れば、面積は別として条件をある程度満たしている様にも思えます。

つまり狭いながらも鎌倉を京都にも見立てているとの考え方です。都と言うか都市といえば京都しかなかった時代ですから、モデルを京都に求めても何の不思議もありません。関東の地理はさして詳しくありませんが、平坦な土地なだけに風水に適した地は少ないように思っています。またあったとしても既に他の土着豪族の長年の拠点でしょうから、右から左に没収できる力も無く、源氏所縁の地であるという理由からなんとか確保できたのが鎌倉だったのかもしれません。


ここから後半の主題ですが、リアリスト頼朝の夢の跡を考えてみます。鎌倉を京都に見たてているという有名な証拠に若宮大路が有名です。これは京都の朱雀大路を模したものとされていますが、これも私には非常に不思議な道に見えました。何が不思議かって言うと、狭い鎌倉に分不相応なぐらいデカイと言うことです。後に鎌倉も幕府の拠点としていろいろ整備されましたが、頼朝が鎌倉に行なった都市計画は二つだけであったとされます。

  1. 鶴岡八幡宮の建立
  2. 若宮大路の建設
創建当時の鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は神社と言っても純粋の宗教施設ではなく、ここで鎌倉幕府の政治を行なっていました。つまり神社と言うより政治施設であり、御所に当ると考えるのが良いと思われます。この御所である鶴岡八幡宮から南に海まで伸びる若宮大路朱雀大路と解釈するのがもっとも妥当なんですが、どうみてもデカ過ぎると言うのが正直な感想です。

鎌倉は地形でもって要塞となっている都市ですが、南は海のために弱点になります。鎌倉時代の関東の水軍は西国に較べると弱体だったかもしれませんが、それでも南の海から上陸される可能性はあり、そこに若宮大路みたいな真っ直ぐの広い道があれば、御所である鶴岡八幡宮まで一挙に攻め込まれます。よく説明で段葛に遠近法を用い、防御の役に立っているという説がありますが、これも進撃路と考えればどう役に立つかわからない代物です。私にはわざわざ弱点を大汗かいて作ったように見えてしかたないのです。その防御上の弱点建設を都市計画の基本に考えた頼朝の発想に興味があります。

鶴岡八幡宮も草深い関東にしては目一杯華麗な建築物であったとされます。これもリアリスト頼朝にしては派手な気がするのですが、華麗な鶴岡八幡宮の建立も過大な若宮大路の建設が頼朝にとって大至急必要なものであり、言ってしまえばこの二つだけで、頼朝にとって鎌倉の都市計画として必要なものをとりあえずすべて満たしていたと考えます。ここにリアリスト頼朝のロマンの後を感じます。

頼朝は幕府と言う革命政権を日本に樹立した政治の鬼才です。案外日本史での評価は低いですが、頼朝が幕府と言う革命政権を構想樹立したから、尊氏も、家康もその前例に従って幕府を開けたわけです。それでも頼朝のイメージはすこぶる地味で暗いものがあります。国民的人気者である義経を殺したのも原因ではあるでしょうが、何より武将として歴史に残る派手な活躍がないのが大きいところです。

頼朝が指揮して勝った合戦として一番有名なのは富士川の合戦ですが、あれは勝ったと言うより平家が勝手に逃げて終わりです。奥州征伐は政治的には大きな意味がありますが、実際の戦闘は兵力差がありすぎて、単に踏み潰しただけです。この二つの勝利ぐらいではあの陰気さを払拭できません。

歴史は頼朝に幕府樹立という使命を課し、頼朝はその役割を忠実に果たします。関東を抑えたとは言え、実態は豪族連合軍の源氏が空中崩壊しない様に鎌倉に居座り続け、ひたすらデスクワークをこなす事を続けます。地味な仕事ですが、これを氷のような冷静さで行なったからこそ東国の豪族の支持を強固なものとし、強豪平家を滅ぼし、幕府樹立を可能にしたかと思っています。

ただ頼朝もデスクワークだけで満足していたわけではないと思います。とくに平家討伐の仕上げは我が手にと考えていたとしても不思議ありません。富士川の勝利の後は自重して鎌倉に戻りましたが、木曽義仲が京都を抑えると、さっそく遠征軍を送ります。この時点でも頼朝と言う重石がなくなれば関東は不安だったので、範頼、義経の弟を大将にして京都に向わせます。もちろんこの時点で義経が稀世の戦術家であることなど知る由もありません。関東豪族連合軍のまとめ役に源氏の嫡流と言う貴種が必要であったからだけと考えられます。

範頼、義経が少々ボンクラであっても大軍に兵法無しの言葉どおり、多分勝つだろうと考えていたでしょうし、予想通り宇治川で圧勝します。ここまでは頼朝の計画通りであったと思います。義仲を蹴散らした後は、強豪平家です。頼朝の腹積もりとしては平家討伐は容易ではなかろうと考えていたと思われます。一の谷も様子も情報として知っていたと考えられますから、対平家戦は苦戦もするだろうし、長期化もすると考えていたと思います。それぐらい平家の実力はあったのは間違いありません。

歴史は御存知の通り、義経がその天才振りを存分に発揮し、一の谷、屋島、壇ノ浦と瞬く間に根こそぎ平家を滅ぼしてしまいます。これは頼朝にとって大きな計算違いであったかと思います。頼朝の計算はあくまでも、対平家戦に苦戦した源氏遠征軍からさらなる援軍の要請があり、それに応じて出馬する予定だったのではないかと考えています。この辺は微妙で奥州藤原氏への対策の問題もあり、シナリオはこんなに簡単ではないとも思われますが、頼朝としては奥州藤原氏にある程度譲歩した軍事同盟を作ってでも出馬するつもりであったと考えています。

頼朝も京都育ちの人間です。京都に帰りたいは立場上は不可能でも、もう一度京都に行きたいは絶対にあったと思っています。行くのも出来るだけ華やかに行きたいでしょうから、対平家戦勝利の凱旋将軍が一番理想的です。ここで義経に秀吉の程の気配りの才があったならば、適当なところで頼朝出馬を促したと思うのですが、そういう点では義経は秀吉の足許どころか1kmぐらい後ろの人物です。思うがままに勝ち進み、京都への凱旋は義経が行なってしまいます。

頼朝にしても早期に対平家戦が終わるのは政治的には嬉しいでしょうが、自分の見せ場を義経に持っていかれた恨みは深く心の中に残ったかと思います。頼朝と義経の確執は様々に解釈があり、どれも説得力があり、正しいとは思うのですが、私はここで頼朝が絶対に義経を鎌倉に凱旋将軍として迎えたくなかったとの理由も加えたいと思います。

若宮大路に作られた段葛
ここでやっと鶴岡八幡宮若宮大路の役割に戻るのですが、頼朝の夢と言うか目的は、対平家戦で京都に凱旋した後、さらに鎌倉で凱旋式をするつもりであったと考えています。関東の豪族が見守る中での大凱旋式です。これを行う事により、東国中に頼朝の武名は響き渡りますし、頼朝にとっても一世一代の晴れ姿です。その舞台装置が鎌倉に建設を急がせた二つの建造物です。

凱旋式の舞台と考えれば鎌倉にはデカ過ぎる若宮大路も納得できます。若宮大路には段葛と呼ばれるさらに一段高い道もありますが、そこを頼朝が先頭を切って進み、遠征軍の諸将を後続、または一段下の左右に従えての堂々の行進です。ゴールは言うまでも無く鶴岡八幡宮です。この一大イベントの主役を務めるためにわざわざ作り上げたのに、歴史はその役を義経に割り振ってしまいます。

このままでは自分のための演出装置が義経のためのものになり、自分は鶴岡八幡宮で出迎え、義経の功績を称える脇役に甘んじなければなりません。「そんな事は絶対許せん」とばかりに頼朝が義経排斥に異常に熱中したのも理解できます。幸い、義経は政治的センスはゼロに近い人物だったので、義経自らがポロポロとボロを出してくれます。これ幸いと責め立てて義経を罪に落として鎌倉凱旋式は消えてなくなります。

頼朝は政治の鬼才ですから義経の死を最大限に利用します。私怨を晴らしただけで使い捨てるような勿体ない事をせず、骨の髄までしゃぶりつくすように利用します。これにより鎌倉幕府の基礎はより強固になったのは間違いありません。ただここでも頼朝にとって計算外だったのは義経の人気が後世ここまで高くなるとは思わなかったことでしょう。義経の人気が高まる分だけ、頼朝の陰気さが際立つ事になり最終的に敵役とされてしまいます。

きっとなんですが、あの世の頼朝は後世の義経人気を聞いて「あいつは何者だったのだろう」と思いにふけっているんじゃないかと思います。対平家戦のために源氏に与えられた救世主と言う見方も出来ますが、頼朝にとっては「あいつがいなくとも平家に勝てた」と思っているかもしれませんし、頼朝に対する政治的配慮の無さを考えると「そもそも不要であった」とまで考えているかもしれません。

そう考えると義経は歴史の奇形児であったかもしれません。頼朝指揮下の源氏軍でも時間はかかっても平家に勝っていたと思われます。時間をかけて平家に勝ち、武家政権を開いていたなら頼朝は文句無しの英雄です。そこに義経と言う稀世の天才が現れ、異常に手早く勝ってしまったのですが、手早く勝ったことで歴史がそんなに影響を受けたと考え難いところがあります。むしろ頼朝にとっては後世の印象を悪くするためのみに存在したとも見れます。

義経抜きの源平合戦の帰趨はどうであったかは単なるロマンですが、歴史の流れからすると頼朝が構想した自作農の武士による政権樹立がありますから、最終的な勝利は源氏であったと考えます。もちろん源平合戦が長引くのは間違いありませんし、場合によっては平家は完全に滅びずに西国の一勢力として鎌倉時代を生き抜いたかもしれません。でもその事が後世の歴史に大きな影響を与えたかと言うと疑問です。

そうそう、これはあくまでも私が若宮大路を見て思った感想と言うか推測にすぎません。そういう事でこの辺で休題にさせて頂きます。