日曜閑話7

今日のお題は「マイケル・ラインバック」。これも中途半端な表記で、球団登録名は「マイク・ラインバック」ですし、本名は「Michael "Wayne" Reinbach」で「ラインバック」ではなく「ラインバッハ」が正しい事になります。ただ私の中ではあくまでも「マイケル・ラインバック」です。

ラインバックは引退後も、阪神史上最高の助っ人と呼ばれていました。古くはジーン・バッキーもいますが、古すぎてラインバックこそが最高としていました。ところが阪神どころかプロ野球史上最高とまで言われる「神様」バースが登場し、ラインバックは「バースに継ぐ」なんて評価にされたりしますが、同列に並べて序列をつけるというより、バッキー同様に別格の最高峰にしたいと思っています。

ところで異名がつくプロ野球選手は案外少ないものです。最近のマスコミ報道はプロ野球選手に限らず異名を粗製濫造しますが、定着するのはごくわずかです。また異名の中でもそれが敬称となるものはまた少なくなります。ラインバックも現役時代に異名が定着していたかどうかに記憶に自信がないのですが、今ではこう呼ばれます。

    青い眼の猛虎魂
これは「神様」とまで呼ばれたバースと違う意味での深い敬意が込められています。これだけの敬意を込めて阪神ファンがラインバックを呼ぶのを理解するには、当時の阪神のチーム事情と何よりラインバックの生の活躍を知らない限り難しいかもしれません。バースに較べると残した成績は劣りますが、残した記憶は「神様」バースに匹敵する名選手であったという事です。
恩師山内一弘とラインバック
ラインバックが阪神に入団したのは1976年。当時の外国人選手枠は2人で、1975年の助っ人であるテーラー、アルトマンが解雇された入れ替わりです。当然と言うか1976年の助っ人も2人なんですが、もう1人がハル・ブリーデンになります。

ここで入団時に注目されたのがブリーデンで、シカゴ・カブスモントリオール・エクスポズなどでメジャー経験もあり、主砲として多大の期待が寄せられていました。それに較べるとラインバックは「オマケ」と言う感じで、せいぜい中距離バッターとして期待できるかも程度の扱いで、「ハズレ」の予想もさかんにされたと記憶しています。それぐらい期待されていなかった選手です。

ラインバックのアメリカでの成績もメジャーどころか、2A、3Aをウロウロする程度のマイナーリーガーで、メジャー経験と言ってもオリオールズでわずか12試合程度で、ブリーデンに金をかけすぎて数合わせに連れてこられたなんて評判もありました。これは実際のところもそうであったとも考えられ、他に適当なのがいないし「化ければ儲けもの」程度で呼んできたのが真相であっても何の不思議もありません。強いて取りえは26歳と言う若さぐらいであったかもしれません。

ラインバックとブリーデンの関係も同僚ではなく、メジャーとマイナーの関係そのものであったと言われています。ブリーデンはラインバックにスパイクを磨く事を命じ、黙々とそれを行なうラインバックの姿を記憶している人も少なくありません。

それで肝心の来日当時のラインバックの実力ですが、これが前評判と言うか周囲の評価通り「お粗末」だったとされています。打っても、打っても、内野にポップフライぐらいしか上らず、キャンプ中にも「ダメ外人」の烙印を押されそうになっていた、いや殆んど押されていたと言われます。当時のラインバック評価として、

バットではなく、趣味のギターを担いで飛行機を降り立ったのは76年2月。すぐに高知・安芸のキャンプに参加したが、あまりのひどさに吉田義男監督はあ然とした。控えとはいえ大リーグ、オリオールズに在籍していたとは到底思えず、当時のスカウトにつかみかかったという話さえあった。

そこに現れたのが打撃コーチの山内一弘です。山内は「カッパえびせん」と言われたぐらいの教え魔で、教え始めたら「やめられない、止まらない」の世界に突入し、そのウルサさから敬遠する選手も少なくなかったそうです。その山内がラインバックの指導に取り掛かります。当時もそうですし、今もそうかもしれませんが、アメリカ人選手は日本野球を見下しており、日本人コーチの助言など聞く耳を持たないとされますが、ラインバックは山内の指導を謙虚に受け入れます。

この辺は想像になりますが、ラインバック本人の性格、山内のとの相性、またプロと言っても2A、3Aクラスであったための謙虚さ、そして何より日本で成功しなければ後がない切迫感がそれを可能にしたと考えられます。

開幕時にはベンチウォーマーでしたが5月にはレギュラーとして3番に定着し、シュアな打棒を振るうことになります。ラインバックの全成績を示します。

年度 チーム

試合 打数 得点 安打 二塁
三塁
本塁
塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四死
三振 打率(順位)
1976年 阪神 40 118 450 76 135 23 1 22 226 81 11 3 2 41 67 .300(14)
1977年 109 381 58 124 23 2 14 193 62 14 1 5 54 54 .325(7)
1978年 102 372 42 94 12 1 16 156 53 2 0 3 42 59 .253(35)
1979年 130 472 79 146 23 1 27 252 84 0 0 2 61 86 .309(6)
1980年 106 348 42 99 16 0 15 160 44 1 1 1 50 47 .284
通算成績 565 2023 297 598 97 5 94 987 324 28 5 13 248 313 .296


1年目の成績はジャストながら3割をキープし、本塁打22本、打点81をあげる立派な成績です。中軸打者として十分な成績を残したラインバックは2年目以降へのキップを手にする事になります。キャンプの時の低評価を見事に覆した1年目になります。2年目は捻挫による故障もありましたが、1年目を上回る.325の成績を上げ、阪神の助っ人として不動の地位を築く事になります。

と、ラインバックの成績を褒めていますが、冷静に見ればそれほど突出した成績ではありません。当時も今も助っ人の外国人打者に一番期待したのは長打力であり、少々打率が悪くとも「ここで一発、ホームラン」てな感じです。大雑把な目安として打率.270、本塁打30本ぐらいが合格ラインで、打率よりも本塁打重視が傾向としてあり、ラインバックぐらいの本塁打数なら打率.300でなんとか埋め合わせで合格ラインと言う感じでしょうか。

バースは長打力がある上に打率も良かったから「神様」と呼ばれたのですが、ラインバックはあくまでも中距離打者です。球団の助っ人としての評価は、本塁打は物足りないが3割打っているから来年もキープにしておこうかぐらいでなかったかと思われます。それとこれも多分ですが、1年目の契約金はかなり割安だったとも推測され、コストパフォーマンスからしても「あえて解雇にしない」ぐらいの位置づけであったようにも考えられます。

助っ人には守備は期待しないのが当時の原則ですが、下手より上手の方が評価は高くなります。では守備が優れていたかと言えばこれも問題があります。一部の評価に華麗な守備であったともありますが、実態はかなり辛辣な評価が残っています。ラインバックは打球への反応が鈍く、そのため普通のフライを捕球するのもファインプレーに見えてしまうと江本は語っています。そのうえ肩が弱いので、ライトに打球が上るたびにヒヤヒヤものであったとされます。足はそれなりに早くキャッチングには問題なかったので、ファンの眼には華麗なプレーとして記憶に残っていますが、プロの目からすると非常に評価が低く、守備力でチームに貢献したとはとても言えない選手です。

守備も拙く、長打力も乏しい助っ人にファンが熱狂したのは、やはりラインバックの野球に対する姿勢であったと考えています。常に全力で闘志溢れるプレーと言うのを体で見せたのがラインバックであり、そのプレースタイルにファンは熱い歓声を送ったのです。一塁へのヘッドスライディングもそうですし、プロの目から見ると評価の低い守備でも、ファンから見ると懸命に打球を追いかけ、ファインプレーを行なっているようにしか見えなくなるほどの闘志がラインバックにはあったということです。

これは今から思えばですが、当時の阪神の成績にもファンがラインバックを高く評価した原因があると考えています。ラインバックが来日した1976年こそ優勝した巨人に2ゲーム差の2位と優勝争いに参加していましたが以後は、

年度 順位 首位との
ゲーム差
1977 55 63 12 4 21.0
1978 41 80 9 6 30.5
1979 61 60 9 4 8.0
1980 54 66 10 5 20.5


Bクラスにひたすら低迷する事になります。この低迷する成績のチームを応援するファン心理は一種独特のものがあります。私もこの当時のファンでしたから分かるのですが、阪神ファンとして優勝は願うが「絶対無理」とのあきらめと同居の応援です。絶対無理は目に見える数字で誰にも分かりますから、ファンは見ている試合だけの勝利、今見ているプレーに熱狂を送ることになります。

チームが低迷しているので必然的に選手個人の成績も全体的に低迷します。また負けが込めばチームの雰囲気は暗くなり、活気がなくなるのですが、そんな中でのラインバックの闘志溢れるプレーはファンの眼を自然に引き付けます。大げさに言えば、沈滞するチームの中で一人輝いている印象と言えば良いかと思います。どちらかと言うと真面目で暗いタイプのレギュラーが多かったので余計だった様な気がします。

1979年の雄姿
ただそれだけの注目を集めた選手の割には目ぼしいエピソードは余りありません。ご覧のようなチーム成績ですから、優勝争いを決定付けた劇的な一発など出ようがないのは確かなんですが、私も記憶をたどっても出てきません。唯一と思われるのが、1979.6.2の後楽園での巨人戦の本塁打かと思われます。

1979年はBクラスとは言え勝ち越していますし、低迷期とは言え頑張った年ではあります。ただそれだけの年ではありません。プロ野球界を揺るがした大事件が起こった年です。事件は前年のドラフト前日に起こります。ドラフトを翌日に控えた11/21未明に、巨人が「空白の一日」を主張し江川と契約を結ぶという大騒動を起こします。

巨人はこの年のドラフトを欠席し、江川を指名したのはなんと阪神。この阪神−巨人の場外戦に世間は騒然となりましたが、当時の金子コミッショナーは「強い要望」として江川を阪神に入団させ、たしか即日(7時間だったかな)で小林との電撃トレードを行なわせて事態の収拾を行ないます。とばっちりを食らったのが小林で、電撃トレードが行なわれたのが1/31、つまりキャンプインの前日だったので、宮崎から引き返してドタバタの阪神入団を余儀なくされます。

ちょっとこぼれ話なんですが、江川の阪神入団会見もあったはずで、そのときに記者から「背番号は」との質問があり、ブラックジョークとされていましたが、阪神での江川の背番号は「3」であったそうです。これは阪神時代と同じ背番号を絶対につけさせないの思惑であったそうです。ただこれだけ大騒ぎを起した巨人の背番号選択も珍妙で、最初に江川に提示したのが小林が抜けて空き番となった「19」だったそうですから、巨人と言う球団も得体の知れないところがあります。

当然のように阪神ファンは「江川は許せん」とカッカとしたわけですが、この江川の初登板がこれまた後楽園での阪神戦です。さすがに小林との直接対決ではありませんでしたが、今から考えれば巨人も「よ〜やる」と思いますし、江川も「よ〜やる」と思います。

初登板の緊張はあったとは言え江川です。若菜、スタントンに一発をもらったとは言え、7回まで阪神打線を2点に抑え、1点リードの二死、一、二塁でラインバックを迎えます。ラインバックも江川に闘志を燃やしていたものの、ここまで三振二つとセンターフライで手玉に取られています。「なんとか江川を」との阪神ファンの願いはラインバックのバットに乗り移り見事逆転スリーランを放ちます。球場は興奮の坩堝になり、次打者竹之内がしばらく打席に立てなかった程だったと伝えられます。私もテレビの前で大興奮した事を覚えています。

この年のラインバックは130試合にフル出場して.309の成績残しただけでなく、ベスト9、オールスターにも選出され、阪神時代でもっとも輝けるシーズンであったと思われます。翌1980年も打率こそ.284とやや揮いませんでしたが、再びオールスターに選出されています。「若虎」から「ミスタータイガース」に成長しつつあった掛布とともに、人気実力とも阪神の打を支えるスターと思われていました。


ところがオフに解雇されます。本人はもちろんの事、ファンにとっても意外であり、「なぜ」の声が渦巻きましたが、ラインバックは惜しまれつつも阪神のユニフォームを脱ぐ事になります。もう下り坂であるとの判断だったのでしょうが、今でもせめてもう1年の思いは私にはあります。まだ31歳の若さでした。

その後のラインバックの行方は噂の部分が多くなります。一説では阪神ファンの呉服屋の主人に見込まれ、ロサンジェルスの総支配人をした時期もあったと言う話も有りますし、靴のセールスマンをしていた時期もあったと言われています。ただ、どうもこの辺の話も信憑性はどうかと思われるのですが、コンピュターソフトのセールスマンをしていたのはほぼ間違いないようです。

と言うのも、ラインバックは39歳の若さで事故死します。これが小さく日本に伝えられた後、探偵ナイトスクープがラインバックの死についての取材を行っています。この番組を私は残念ながら見ていないのですが、まとめてくれている方がおられます。Mr.REINBACH FOR EVERと題されていますが、まず取っ掛かりは、

ラインバックさんが亡くなったと言うニュースは、安芸キャンプの最中だったそうです。その前年11月に亡くなったと。当時の日刊スポーツの記者もアメリカの知人から聞いただけで、確実な記事ではなかったと証言していました。

どうもラインバックの死の情報は日本には伝聞情報でしか伝わらなかったようです。それとこれはおそらくですが、ラインバックがアメリカに帰った後の数少ないインタビュー情報と思われますが、

タイガース退団後、コンピュータのソフト会社の営業にに就職された後も、「別の仕事に変わってもタイガースの事が気になる。」と逐一情報を求められていたそうです。

「退団後、奥さんと離婚、実父の死などの不幸に見回れ、僕は悪いことはしていないし、僕は一生懸命仕事している、なぜ僕はついていないんだ」と話されたそうです。

どうも帰国後のラインバックは不遇だったようです。それもそうで阪神を解雇されるまで野球一筋で人生を過ごしてきたでしょうし、アメリカで「日本のプロ野球のスターだった」と語ってみても誰も知らない事です。妻との離婚は帰国後の事のようですが、日本にいる時からかなり悪かったらしく、

ラインバックさんが現役時代、当時監督だった吉田義男氏にパリへ国際電話で消息を尋ねるが詳しいことがわからずでした。当時を振り返って、吉田元監督は「一人息子がいたけれど、家庭的に不幸な面があったから、私も気がかりでした。ユニホームを着ているときはそうでもないんですが、ユニホームを脱いでスーツに着替えたときに、さみしそうだったというのが私の印象ですね。」と少しさみしそうに話されました。

当時のラインバックの家庭事情は私などには知る由もありませんが、夫婦が不仲から離婚に至った理由の一つに、ラインバックの日本行きがあったのかもしれません。奥様はもともと日本に行くのに賛成しなかった、または日本に来てみてカルチャーショックで不仲になったとかです。そういう夫婦の不仲を抱えながら、ラインバックは異国の地である日本で野球に情熱を燃やしていた事がわかります。

ただ離婚後にもう一度人生をやり直せる可能性が出ていたようです。

奥さんのと離婚後、婚約していたという女性とコンタクトが取れて、彼女から会いに来て欲しいと申し出があった。ラインバックさんの親友も来てくださって、当時の彼の言葉を話してくれました。「解雇の理由が納得いかない。タイガースをやめたくないと言ってたよ。」

ちょっと前後しますがラインバックの死の確認は、

真偽を確かめるために、レポーターと依頼者は唯一の手でかかりが、ラインバックさんが勤めていたという会社の写真を元にアメリカ・ロスへと向かう。しかし、アメリカは広い。電話帳で会社を探すが見あたらない。必死の捜査の結果、勤めていた会社は見つかるが数年前に別の会社に移ったことを知りその会社を尋ねるが、そこで衝撃的な事実を知ることになる。「彼は1年半前に事故死した。」1988年5月20日、車ごと崖から墜落。即死。享年39歳。当時の新聞にも載っていました。

ラインバックの旧居を実際に訪ねたかどうかはわかりませんが、

前妻との離婚後も一人息子は彼の家に遊びに来ていたそうです。その息子と遊んだバスケットのミニゴールはそのまま...。部屋は、当時のタイガースのユニホームと同じ白と黒で統一されたインテリア。ラインバックさんのタイガースへの思いがずっと残っていたみたいです。

ハリスの話を思い出させるようなエピソードです。ラインバックの墓参りには実際に出かけ、その様子は、

ラインバックさんの墓石には、バッターボックスに立つ勇姿が刻み込まれていました。依頼者は涙を堪えて、甲子園の1塁の土を墓石にかけながら、「ヘッドスライディングした1塁の土です。思い出しますか?」とラインバックさんの思いを土に託しました。でも、堪えきれない涙はラインバックさんの墓石を濡らします。

好漢ラインバックはこの世にもういません。家庭内の不和、チームの低迷の中で、ひたすら野球に情熱を燃やし、その闘志をグランドで爆発させ、阪神ファンを魅了した男マイケル・ラインバック。アメリカでは無名の元プロ野球選手に過ぎないかも知れませんが、太平洋の向こう側では伝説のプレーヤーとして数千万人の記憶の中で今も鮮烈に残っています。「神様」の敬称を与えられる選手はこれからも現れるかもしれません。しかしラインバックへの

    青い目をした猛虎魂
これを引き継げる選手は二度と現れません。阪神の助っ人史上最高のスピリッツを持った名選手ラインバックの冥福を祈ります。

ラインバックの墓