新小児科医のつぶやき

2009-05-27 続平日閑話

ゴメンナサイ。今日も医療について書く気がしないので閑話です。昨日の続編と言う形でお題は「佐々木小次郎の燕返し」です。

日本剣術史上で最も有名な決闘が「巌流島」です。高田の馬場や鍵屋の辻も有名ではありますが、知名度では群を抜いているのが巌流島です。現代でもこれだけ有名なのは、やはり吉川英治の小説「宮本武蔵」のお蔭とも考えられ、映画やテレビにも何回もなりましたが、基本は吉川英治の小説であったと考えて良いかと思います。

巌流島と言えば宮本武蔵と佐々木小次郎なんですが、これがまた絵に描いた様(吉川英治がそうしたのですが)なコントラストをなす好敵手で、精進を重ねる努力型の武蔵と、天才肌の小次郎と言う図式になっています。あえて例えればベートーベン武蔵とモーツアルト小次郎みたいな対決です。武蔵の実像は小説にあるような人物像ではどうもなさそうですし、もっと狷介で奇矯な人物であったようですが、武蔵の話はとりあえず置いておきます。

武蔵は後年になりそれなりに実像が記録され、現代にも伝えられていますが、小次郎になるとほとんど分からない人物です。小説でもまるで格闘技系のマンガのライバルのように、いきなり説明無しで登場する雰囲気です。それぐらい経歴がよく分からない人物とされます。出身も「越前宇坂の庄浄教寺村」とされる事もありますが、これも小説が採用して有名になっただけで、他にも長府説、豊前説が説得力をもって存在します。

師匠がいたかどうかも不明です。小説では中条流の鐘巻自斎と言うのがありますが、これも鐘巻自斎の師匠の富田勢源とする研究もあります。鐘巻自斎や富田勢源を師匠筋にするのは、出身が越前説を取っているからとも考えられ、豊前説では小次郎山伏出身説ですから、鐘巻自斎も富田勢源も関係がなくなってきます。

巌流島の決闘自体が存在した事は細川藩の公式記録にありますから間違いないのですが、佐々木小次郎がどんな人物であったのか、さらに決闘時に何歳だったのかの記録はほとんど存在しないとされます。記録が混乱する一因として、佐々木小次郎のほかに佐々木巌流なる剣客がほぼ同時代に存在したからと言う説があります。

これもまた複雑なのですが、佐々木巌流なる剣客は確かに存在し、たぶん武蔵より長生きしています。これを小次郎と同一人物とする説と、まったくの別人とする説があります。あくまでも「どうも」なんですが、別人説の方が有力となっています。理由は単純で小次郎が巌流島で死亡したのはおおよそ確認できるからです。同一人物説は「実は小次郎は生きていた」に立脚しますから、別人説のほうがやや信憑性が高いと言えます。

師匠や出身地の伝承の混乱は、生存した佐々木巌流と小次郎がいたからだと考えます。巌流島の決闘は江戸時代でも有名な話になったみたいですが、そこで小次郎を調べようとすると佐々木巌流の記録しかほとんどなく、これを同一人物と考えてしまうと無理が沢山生じます。無理が出てきたところで、その無理を埋めるために新たな話が創作されて散りばめられ、その話がさらに混乱の輪をかけて、小次郎とは誰かがわからなくしたと考えています。

「わからない」と言うのは時代小説を書く上において不便ではありますが、一面では作者の創造力と言うか想像力をかきたてるところがあります。「わからない」から自由に創作できるという点です。武蔵もこの時期に何をしていたかよくわからない人物ではありますが、それでも断片的には記録はあり、「わからない」小次郎は作者が自由に配置創作できるというメリットです。

私も「わからない」メリットを使って小次郎をムックしてみます。


燕返し

小次郎といえばやはり燕返しです。ではどんな技であったかと言われれば、これもまた「よくわからない」です。これも有名な伝承では、岩国の錦帯橋の近くで燕を切って自得したとされますが、これもまた信憑性に乏しいものがあります。そもそも刀で本当に空飛ぶ燕が切れるのかの基本的な疑問があるからです。小次郎の技量はともかくとして、燕が小次郎の切れる範囲に近寄ってくれるのかの素朴な疑問です。伝承では工夫と精進を重ねた末に燕を切り落としたとされていますが、刀を振り回す人間に燕が何度も近づくかと言われれば大いに疑問です。

一説では燕返しは小太刀の技の一つである虎切であるというのがあります。だから小太刀の鐘巻自斎や富田勢源が師匠説に出てくるというところがありますが、小次郎が虎切を知っていたかどうかは不明です。ここでは小次郎があくまでも燕返しを自得したと言う説にしたいと思います。

燕返しと言うぐらいですから、小次郎も燕から何かヒントを得て技を思いついたと考えるのが自然です。燕の何にヒントを得たかが問題ですが、やはりその飛び方にヒントを得たと考えたいところです。燕の飛び方の特徴に急激に飛行コースを変えると言うのがあります。ヒューと飛んでいって、クルッと方向転換する様子に小次郎はヒントを得たのではないかと考えます。

ここからが時代なんですが、江戸初期は剣聖が輩出しましたが、剣術修行としては黎明期です。基本は木刀による組太刀ですし、この練習法は延々と幕末まで続く事になります。幕末に竹刀と防具による擬似真剣勝負が開発されるまでは、俊敏な二段打ち、三段打ちは存在しなかったとされます。現在では多段攻撃はごく普通の戦法ですが、これが可能になったのは竹刀と防具による擬似真剣勝負によるトレーニングの賜物とされています。

小次郎時代の剣術常識では攻撃はあくまでも一段であると言うのがあったと考えています。打ち込みはあくもでも一段が常識であり、これが成功しなければ再び対峙に戻るみたいな常識です。一段と言ってもバリエーションはあったでしょうが、当時の剣術常識として多段攻撃はありえないという常識です。そういう常識の中で燕を見た小次郎が何を思いついたかです。燕の飛行を剣の軌道として考え、当時の常識を破る二段攻撃を編み出したんじゃないかと考えます。

つまりまず剣術の常套手段である、上段からの縦の攻撃を行ないます。これで切れれば勝負は終わりですが、縦の攻撃は威力はありますが、相手も予想していますから、対応される事は多いと考えます。そこで小次郎は縦の攻撃にさらなる工夫を考えたと推測します。燕返しのためには最初の縦の攻撃は受け止められるのではなく、交わして欲しいところがあります。

ここで小次郎の愛剣「物干竿」が出てきます。物干竿の長さもよくわからないところがあるのですが、長かったのだけは間違いありません。小次郎の剣が長いのは見ればわかりますから、相手は自然にいつもより広い間合いをとります。その広さも必要以上に広くなるのも自然ですから、小次郎が縦の攻撃を行なっても、受け止めるというより交わす方が自然になります。

小次郎の縦の攻撃は終了後に、踏み込んで剣が地面に近づいている状態になります。相手にすれば、小次郎が空振りした上に、間合いに入り込んでくれ、さらには小次郎の防御体制が崩れた状態になっています。チャンスとばかりに相手も小次郎の頭上に縦の攻撃をしかけようと、剣を上段に振り上げようとします。そこに小次郎は素早く剣を展開させ、斜め上に切り上げる二段目の燕返しが炸裂する寸法です。

そんなにうまく行くのかの疑問は当然出てくると思いますが、上述の当時の剣術常識が出てきます。相手は攻撃が一段と信じ込んでおり、小次郎の一段目の攻撃が終われば、当然のように攻撃は終了し、小次郎は防御体制に入ると考えるわけです。もう少し単純には、小次郎の攻撃が終われば次は自分の番であると言う感じでしょうか。小次郎の二段目の攻撃をまったく予期していないのですから、私が想像した燕返しが成立する余地はそれなりにあると考えます。

つまりと言うほどではありませんが、小次郎の燕返しとは、

  1. 当時の剣術常識を破る予定された二段攻撃であった
  2. そのため長剣「物干竿」を用いた間合いの取り方に工夫があった
  3. 俊敏な二段攻撃のための修練を重ねた

あくまでも推測ですが、こんなものではなかったかと考えます。


巌流島

無敵であったはずの小次郎の燕返しは巌流島で武蔵に敗れるのですが、理由は不明です。また決闘の様子も実は詳細は不明です。わかっているのは、

  1. 小次郎が敗れたこと
  2. 小次郎への武蔵の一撃は頭部に加えられた事
  3. 武蔵は櫂を削ったの木刀を用いた事
  4. 武蔵も眉間に傷を受けた事

これぐらいが事実としても良さそうな事です。有名な「小次郎敗れたり」もどうも創作だとされます。武蔵が遅刻して小次郎をじらしたのも事実ではないとする説が有力です。

まずの武蔵の櫂の木刀ですが、巌流島で使った実物は残っていないとされます。ただ後に武蔵自身が複製したと伝えられるものが数本あり、いずれも長さは4尺5寸程だとされます。竹刀ではなく櫂の木刀ですから、怪力の武蔵といえども扱える限界のサイズであったと考えます。重量はわからないのですが、かなり太くて重たそうな木刀です。

それと小次郎の頭部に加えられた一撃ですが、小説では天空高く舞い上がった武蔵が櫂の木刀を振り下ろすシーンがポピュラーですが、いかに武蔵が超人でも重い櫂の木刀を持って、ほとんど助走なしで行なうのは不可能かと考えます。少しぐらいは飛び上がった可能性は否定できませんが、やはり踏ん張って振り下ろしたと考えるのが妥当です。

ここでなぜ武蔵が櫂の木刀を用いたかになります。あくまでも推測ですが、武蔵は何らかの方法で小次郎の燕返しの秘密を知ったと考えます。武蔵と違い小次郎は細川藩の指南役(これも自信が無いのですが・・・)ですから、ある程度の範囲で燕返しを見せる事があったと考えます。巌流島の決闘の背景は複雑ですが、細川藩にも武蔵応援派はいたようですから、情報収集は不可能でなかったかと考ええます。

武蔵が櫂の木刀を使用したのは当然ですが、小次郎の燕返し対策でしょう。小次郎の物干竿の長さは正確には不明ですが、当時でも有名な長剣だったようですから、3尺5寸ぐらいあったんじゃないかと推測します。この剣の長さが燕返しの成立要素の一つである間合いに重要なのですが、小次郎から間合いの主導権を奪うために、物干竿をさらに上回る4尺5寸の櫂の木刀を使用したと考えます。

間合いの主導権を奪うのには有用な櫂の木刀ですが、一方で武蔵といえどもこれを軽々と振り回すのには無理があったとも考えます。そのため武蔵の戦術は、小次郎に燕返しを発動させ、これをかわしきったところで返し業として必殺の一撃を加える作戦ではなかったかと考えます。武蔵の剣法の特徴の一つに「見切り」があります。武蔵の計算では、長剣物干竿により生み出される小次郎の本来の間合いが5寸、これに対して櫂の木刀が作った武蔵の間合いが1尺、差し引きすると5寸の間合いが武蔵に生まれるはずで、これで小次郎の燕返しは十分に見切れるとしたと考えます。

実戦の様子は断片的にしか伝えられていませんが、小次郎は武蔵の櫂の木刀の長さにまず驚かされたと考えます。燕返しのための間合いが取り難いからです。そのため、二人の対決は間合いの奪い合いであったと考えます。少しでも詰めたい小次郎と、そうはさせたくない武蔵です。武蔵にしても間合いの主導権は握れても、攻撃手段が限定されます。無闇に攻撃すれば、長重武器の欠点が露呈し、そこを小次郎に付け込まれます。あくまでも小次郎に燕返しを発動させての返し業が勝負です。

小次郎も武蔵に先に攻撃させるオプションを考慮しての、熾烈な駆け引きが展開されたと考えますが、結局仕掛けたのは小次郎のようです。裂帛の気合と共に燕返しが発動されます。小次郎の燕返しは武蔵の鉢巻まで及び、眉間に傷をつけるところまで届きましたが、残念ながらそこまでに留まり、武蔵の返し業の頭部への一撃が炸裂し勝負は終わります。

後1寸深ければ勝負は逆転したかも知れません。しかし勝利の女神は武蔵に微笑み、小次郎は巌流島に沈む事になります。


その後の武蔵

武蔵は巌流島の一戦の後、真剣勝負は行なわなかったとされます。これには様々な理由が付けられていますが、私は武蔵が真剣勝負を怖くなったからではないかと考えています。武蔵の剣術の特徴は上述したとおり「見切り」ですが、対小次郎戦は、燕返しの二段攻撃の情報入手、間合いを制するための櫂の木刀の準備と完全に見切ったはずでしたが、結果としては紙一重の勝利です。この恐るべき小次郎の手腕に、武蔵は自分の見切り能力に「見切り」をつけたんじゃないかと思うのです。

現代に至るまで無双の達人、剣聖とまで称えられる武蔵を、紙一重まで追い込んだ小次郎と燕返しの残像は武蔵は終生脳裡から消え去らなかったと考えています。剣聖宮本武蔵を恐怖させた、佐々木小次郎の手腕の凄まじさを思います。

僻地の産科医僻地の産科医 2009/05/27 11:35 そういえば、小次郎の話ですが、前田家に伝わる話として、
「小次郎がしばらくして“うっ”とかなんとか、意識を戻した。前田家の人々はめったくそに殴りかかり暴行を加えて殺してしまった」説を読んだことがあります。
なんとなく、面白いなぁと思いましたo(^-^)o ..。*♡
というのは、木刀使用なので必ずしも一発でしとめられるかしら?という疑問に答えてくれる説だったので。物語としては大勢に影響ない挿話ですので、真実かどうかの検証は要らないし、エちょっとお笑い芸人さんのネタっぽい話ではあります。

YosyanYosyan 2009/05/27 12:04 僻地の産科医様

小次郎が決闘後に息があった説はどこかで読んだことがあります。そこから波及して、その後も健在説もありましたし、止めをさしたのは武蔵門人説もあったかと思います。武蔵にそんな門人が当時いたかどうか、藩の公式試合ですから、広くもない巌流島にそんなに部外者がたくさんいたかは少々疑問には思っています。当時は今より大きかったとはされますけどね。

まあ櫂とは言え殴っただけですから、即死ではなく、意識はともかくしばらくは息があっても不思議ないですね。

通りすがり通りすがり 2009/05/27 13:19 今までずっと佐々木小次郎は宮本武蔵の一撃必殺の技で瞬時に息の根を止められたのだと
思っていました。しかし、撲殺のような形で即死ではなかったとするとかなり印象が違ってきますね。
後年島原の乱では武芸者として参軍したものの、ものの役には立たず戦場から逃げたとも
言われた武蔵ですが、佐々木小次郎との真剣勝負の末に命のやり取りに恐怖を覚えたとしたら、それも理解できる事です。

omizoomizo 2009/05/27 14:00 タケゾウさんの目的は、就職する事の様にもわれるのですし、傭兵とし名を売る年齢に陰りが出てきたのかもしれません、履歴証明?で就職口を探す時期に入って来たのかも。最終目的は生き延びる事の様にも思えます。

藩の公式試合?で。記録が無いと言うのも、藩主の命令でも。誰かの日記ぐらい有りそうなのですが?。小次郎先生はお年を召されていた様な事も?。

 船頭さんへの聞き取り調査のような話では?、タケゾウさん、和紙の短冊で、撚紐作って、タスキ掛けにしたそうですが?。 これって、防刃能力の役に立ちますでしょうか?(和紙の撚り紐て、丈夫なのですが)。タスキ掛けの部分ってよくあたる部分でしょうか?。 これも創作の部類なのかな。

BugsyBugsy 2009/05/27 15:31 剣道の武芸者も多くは 各藩の剣術指南役をめざしていたのでしょう。

ただ流派としては二天一流は 後世あまり流行らず、後継者にはめぐまれませんでしたね。結局名選手 名監督にあらずとはプロ野球だけではないでしょう。宮本武蔵が身体能力に優れ、剣術の天才であったことは間違いないと思いますが、剣道の指導者としてはどうだったのでしょうか。

強い兵隊がそのまま優秀な軍事教官には必ずしもなれないように 医師にも云えることですが、優秀な医師が後輩に必ずしも適切な指導ができるわけでもありません。

結局 本人の才能があるということと 指導してあげようという熱意、あるいはお人柄とは別個であると思います。

禅画というそうですが 宮本武蔵の肉筆をガラス越しに拝見したことがあります。
禅の境地なぞオイラにわかるわけもないのですが その時ふっと感じたのは 「ひょっとしたら宮本武蔵は とても孤独な人間だったのかな。」という印象でした。あの細長い竹の上に置かれたモズの寂寞とした風景と すっと竹が一本伸びていたのが思い出されます。ま これは自分の先入観からの思い込みなんでしょうけど。ただ絵画もお上手だったのは確かでしょう。

YosyanYosyan 2009/05/27 16:00 Bugsy様

武蔵の二天一流が繁栄しなかったのは、武蔵でないと使えない剣であったからとするのが定説です。これに対し伊藤一刀斎の一刀流は、剣理が平明であったため、幕末レベルと較べるとお話になりませんが、誰でもそれなりに学べたのは大きな差であったようです。だから一刀流は江戸期から幕末を通じても栄え、現在の剣道も広い意味でこの系譜を引いているとして良いかと思います。

優れた技能を持つ者が必ずしも優秀な指導者にならないことは「名選手、必ずしも名監督ならず」の言葉として表されています。もちろん剣術でも千葉周作の様に剣技でも卓越し、指導者、教育者としても卓越した人物はいます。しかし武蔵は剣技は卓越し、また五輪書のように論理性も高い頭脳を持っていましたが、指導者・教育者としては秀でてなかったとしても良いとは思います。

これは武蔵の剣術が武蔵の超人的な体力、運動神経によってのみ成立するものであったかもしれませんし、それを凡人に合わす工夫が出来なかっただけかもしれません。天才は得てして、凡人が長年苦労して会得する技術を一瞬にして苦労なく覚えてしまう事があります。自分が苦もなく会得できましたから、他人が苦労するのが最後のところで理解できないからだとも言われています。だからこそ天才なんですけどね・・・

ばあばばあば 2009/05/27 18:00 >武蔵の二天一流が繁栄しなかったのは、武蔵でないと使えない剣であったからとするのが定説

これに関して私が師匠から聴いたのは、武蔵が晩年に弟子を採ったからだそうです。つまり、よく判らないままに武蔵のスローな動きが正しいと勘違いしてまねていたからモノにならなかったのだとか。傍目にはゆっくりの動作が、直面すると速かったってのはよくある話ですしね。

五輪書(現代語訳付きの奴)読んでみると、どの項目も結局は自力で武蔵のレベルまで上がればわかるってなふうになってますです。どんな技術も奥に入れば入るほど技術の伝達はそんな形にしかならないんだろうなぁって思いましたです。

ばあばばあば 2009/05/27 18:06 五輪書には「よくよく修練すべし」「よくよく鍛錬すべし」という言葉で各項目が締めくくられて居るんですよね。

元外科医元外科医 2009/05/27 19:43 外科の教科書が「よくよく修練すべし」「よくよく鍛錬すべし」という書き方だったらw

ばあばばあば 2009/05/27 21:28 >外科の教科書が「よくよく修練すべし」「よくよく鍛錬すべし」という書き方だったらw

想像すると ちとおっかないような…

五輪書を読んで思うのは、手取り足取り教えて身につけるよりも、自力で工夫して獲得することの方が上位にあると武蔵は思っていたのかしらん ということでした。

omizoomizo 2009/05/27 21:58 http://www1.bbiq.jp/web416/mizunomaki.htm
こちらに現代語?が有るのですが。自己で研究せよ、鍛錬せよ。仰られる事は、その通りかと存じますが。 武蔵様は、素質も実践で培われた技量をお持ちでした。
しかし、あの時代、真剣で勝負は、一回限りの様な、失敗を反省して次に生かす事が難しいそうです。
ご進言胸に刻み、細々と生きて行く事といたします。
小心者のたわごとにて。

haohao_xhaohao_x 2009/05/27 23:05 竹刀(スポーツとしての剣道)の発案者は上泉信綱だった、と どこかで読んだ気がするのですが。

ばあばばあば 2009/05/27 23:40 柳生新影流には袋竹刀がありますよね。
見たことがありますが、あれでぶたれるとずいぶんと痛そうです。

YosyanYosyan 2009/05/28 08:11 ばあば様

武蔵の流儀が広まらなかった理由は単純ではないと思いますが、おおまかに剣術の流れを考えると、江戸初期にあった流派の内、伊藤一刀斎の流れの一刀流以外の流派は基本的に衰微したと考えています。もちろん例外はありますが、柳生新陰流さえも衰微していったと考えてよいかと思っています。

なぜかと言う理由も難しいのですが、一刀流の剣理は後進が受け継ぎ改良・改善しやすかったのに較べて、他の流儀は始祖の絶対性を墨守して変わらなかったための説は説得性があるように感じています。一刀流の剣理がどうであったかなんて良く分からないのですが、どうやら凡人でも一定の訓練を行なえば、一定の水準に達するのが基本で、訓練法の解釈に柔軟性があったんじゃないかと考えています。

武蔵は言うまでもなく抜群の資質をもつ天才であり、その剣法はほぼすべて独学で身につけています。江戸初期の訓練法は型稽古になりますが、武蔵に言わせれば型なんてものに囚われる事自体が噴飯物だったかもしれません。

 >「よくよく修練すべし」「よくよく鍛錬すべし」

この言葉は型ではなくて、型を越えた感覚を身につけなければならない言葉と私は解釈しますが、型を超えた感覚は武蔵でないと到達できない境地となり、弟子として型に固執した門人では発展のしようがなかったのかもしれません。

nyamajunyamaju 2009/05/29 11:24 二段、三段打ちは、竹刀の軽さと弾力があってこそ
成り立つ技だと思います。