19歳誕生日に葬儀=自動車学校で被災の女性―祭壇前にはケーキ・宮城
東日本大震災で、生徒と教職員計37人が亡くなった宮城県山元町の自動車学校に通っていた早坂薫さん=当時(18)=の葬儀が21日、自宅がある亘理町でしめやかに行われた。この日は薫さんの誕生日。親友の菅田彩乃さん(18)は「今までありがとう。そして19歳のお誕生日おめでとう」と涙ながらに語り掛けた。
生まれて来た日にまな娘を見送ることになった父満さん(49)は、祭壇に置かれたケーキを前に「まだ夢を見ているよう。こんな形で娘を失い、悔しい」と声を震わせた。
薫さんが乗るはずだった車は、母由里子さん(47)が譲り受け、大切にするという。
同じ教習所で、早坂さんとは別のバスで避難中に津波にのまれたものの、屋上にはい上がり無事だった交際相手の斎藤瞭さん(18)も参列。他の人たちを助けられなかったことを今でも悔やみ、「学校がもっと早く避難させてくれていれば」と涙を拭った。
常磐山元自動車学校では地震発生から約1時間後に生徒を帰したが、7台の送迎バスのうち、5台が津波に巻き込まれた。保護者側の「なぜもっと早く避難させなかったのか」との指摘に対し、学校側は「教習を再開できないか検討していた」と返答。双方が弁護士を立てて協議を続けている。
今回の震災で数多く起こった悲劇の一つのなのですが、ちょっと検証してみます。今回の舞台は「宮城県山元町の自動車学校」となっています。正確には常磐山元自動車学校なんですが、どの辺に位置していたかです。Google mapから拾ってみると、
時刻 | 動き |
14時46分 | 地震発生 |
14時47分 | 災害対策本部設置(2号配備) |
14時49分 | 大津波警報発令 |
14時52分 | 避難指示確認 |
15時50分 | 大津波襲来 |
地震発生から3分後に大津波警報が発令され、その1時間後に津波が押し寄せた事が確認できます。犠牲者は現在のところ、
- 死者 661人
- 行方不明者 92人(町外者を除く、所在未確認者1人含む)
海岸線からの範囲 | 被害状況 |
海岸線〜1kmの範囲 | 建物は新築の建物が一部残る程度で概ね流出 |
1.0km〜1.5kmの範囲 | 新築の建物等が残存する程度で、ほとんどの建物が流出 |
1.5km〜国道6号の範囲 | 建物床上2m程度水没 |
上で示した国道6号線までの範囲は水没しています。では国道6号線の西側は無事だったかと言うとそうではなく、これも山元町のHPの被災状況写真(3月23日撮影)からキャプションとともに引用しておくと。
町民にはおなじみの「松村クリニック」「にいの歯科」の建物が、流されてきたゴミに埋もれている。この地区の誰もが「どんな津波も6号線を越えることはない」と思っていた。 |
手前に見えるガードレールが国道6号線の西側のもので、津波は国道6号線を越えて到達している事が確認できます。ちなみに国道6号線の東側は、
被災地外の人間としては絶句して声をかけるのも憚られるような被害です。何が怖ろしいって、御存知の通り、山元町の被害がとくに甚大であったわけではなく、この程度の大きな被害地域が広範囲に存在すると言う事です。ごく簡単ですが山元町の被害状況でした。
さて記事は自動車教習所での被害状況を伝えています。実際どれぐらいの被害を受けたかの画像ですが、
津波前 | 津波後 |
クリーム色の本館(かな?)の横にあった建物は跡形もなくなり、自動車学校の後ろに存在していた林は綺麗に消滅しています。ただ津波の高さは2階程度の高さであったようで、
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屋上にはい上がり無事だった
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7台の送迎バスのうち、5台が津波に巻き込まれた
問題はこれが天災であったか人災であったかになっているようです。
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双方が弁護士を立てて協議を続けている
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学校側は「教習を再開できないか検討していた」と返答
- 電気
- 3月11日 全域6,098戸(停電)
- 3月15日 八手庭、大平、山下地域の一部が復旧
- 一般電話
- 3月11日 地震発生直後から町内全区域で不通となる
- 3月16日 北部の一部の地域で復旧するも、つながりにくい状態
地震とともに停電となり電話も不通となっています。ラジオ情報とか、携帯がどうであったかは実情を知らないのでなんとも言え無いのですが、なんとなく大津波警報が十分に伝わっていなかった可能性がありそうに思います。山元町での震度は5強となっていますから、地震自体による被害はさほどのものではなく、さほどのものでは無かったので「教習を再開できないか検討していた」になっていたとも考えられるからです。
停電に加えて電話も不通ですから、全体の状況がどうなっているかも良くわからず、また目に見える被害がさほどではなかったので、地震による一時的な停電によるものと考え、情報収集にさほど熱心ではなかったとも考えられます。1時間後に生徒を帰宅させようと判断したのは津波を警戒してと言うより、停電が長引きそうで「今日は教習になりそうにない」の判断とも受け取れます。
地震といえば余震をどう考えたかはあります。これはwikipediaから3/11の余震の発生具合ですが、
- 自家用車の使用は自粛
家庭や職場で車両の使用は控えましょう。
- 電車、バス、タクシーなどは運行
減速運転を行いながら、可能な限り運行します。
- そのほか
危険物を運搬中の車両は、あらかじめ定められた安全対策を速やかにとりましょう。
この場合のバスは公共交通機関としてのバスと考えるのが妥当で、自動車学校の送迎バスをこれに準じて考えられるかは何とも言えません。どちらかと言うと自家用車に近い分類になりそうな気がします。ですから余震の影響で事故でも起したら問題の判断もあっても不思議ありません。そういう事を教えるのも自動車学校の役割だからです。
津波の被害をどの程度に想定していたのかも大きな要素です。東北は地震被害が多いところですが、津波被害は三陸海岸を除くとさして大きいとは言い難いところがあります。一般に津波は湾状の入り組んだところの被害は大きいですが、フラットな海岸線では小さくなります。この地域でも大きな津波被害が歴史的にはあったとされているようですが、取り上げられているのは貞観地震(896年)による津波被害です。
1000年以上前のお話ですから、少々の先祖代々では伝承されるお話ではありません。津波は一般に地震発生後の20〜30分後に押し寄せるというのがありますから、1時間も経てば「今回も津波はなかった」と判断するのはあり得てもおかしおくありません。またたとえあったとしても、目一杯想像力を働かせて自動車学校の2階に避難すれば必要にして十分の考え方です。
地震発生時の震度が5強で、周囲の情報が十分に入手できない状態で今回のような超弩級に襲われるとは、自動車学校の職員だけではなく、住民の誰もが考えもしなかったとしたら言い過ぎでしょうか。いやたとえ周囲の情報がある程度入手できていても、ここまでの大津波を予想できた人は限定的の様な気がします。
遺族の心情もよく判るのでなんとも言えないところですし、当時の自動車学校に入っていた情報がどうなものであったかを確認する術はありません。ただ津波避難の判断はギリギリのものであったと言うのは各所に語られています。今回のケースが天災であったのか、それとも人災であったのかは話し合いなり、悪くすれば訴訟になるのでしょうが、これからも少なからず出てきそうな感じはしています。
これも厳しい現実と言えそうです。