非常時にのみ強い人が出てくる状況

非常時に便乗する人の話のある意味続きです。

「非常時にのみ強い人」は「非常時に強い人」とは似ているがやや違います。「非常時に強い人」は平時にも有用な可能性を多分に残しますが、「非常時にのみ強い人」は平時では役立たずに近いとすれば良いでしょうか。また「非常時にのみ強い人」はそんじゃそこらの非常時では役に立たず、トンデモナイ非常時になってようやく頭角を現すみたいに考えてもらって良いと思います。例としてあげるのなら幕末の高杉晋作です。

そういう人物の特徴は、非常時になっても困惑するのではなくて「オレの出番だ」とワクワクするような人物です。必ずしも非常時に冷静になれると言う意味ではなく、非常時と言う状態が自分の性格に馴染むような人物とすれば良い様な気がします。もう少し言えば、他の人物が非常時と言う事で浮き足立ってしまうのに対し、そういう状況こそ「オレの平時」とすれば良い様に思います。

そういう人物にとっては非常時こそ平時ですから、平時の感覚から抜け出せない人物から見ると突飛な発想を次々と繰り出し、それを時に蛮勇とも言えるような行動力で実行させます。時代小説でも見せ場で、周囲を煙に巻くような奇策や奇手を行い、あっと言わせるような鮮やかな対処を見せてくれることになります。これは小説の中で膨らましている部分はあるにせよ、ある程度は事実でもあると言えます。


こういう人物が活躍するのはその特異な才能があるのはもちろんですが、やはり非常時と言う特殊環境が重要なポイントであると考えています。人は非常時になっても平時の感覚・秩序がどうしても抜け切りません。火急な事態に直面しても、手続きとか、承認とか、前例とかの手続きに拘ろうとします。

思うのですが、平時と言うのは突飛な行動を抑制する様に出来ているんじゃないかと考えています。平時で疎まれるのは秩序を乱すものです。少々の不便より、波風が立たない様に平穏さを保つ事に重きを置いて構築されている社会と言うわけです。そういう感覚下では「べからず集」が大きな意味を持ち、失敗も伴う危険性がある大成果よりも、失敗がない乏しい成果の方が歓迎されるみたいな状況です。

これが非常時になれば、価値観が転換します。平時では大前提として母体は絶対に潰れないですが、非常時では母体ごとぶっ潰れるかどうかの瀬戸際になるわけです。そういう状況で失敗のない乏しい成果では全滅します。取るべき選択は生き残れる可能性がある方策になります。この可能性があると言うのは、失敗して壊滅する可能性もあるというのも含む選択です。

この失敗の可能性がある選択と言うのは、平時の感覚を残す人間では選択できず、そもそも発想できないと思っています。平時の失敗は提案した個人の破滅に連動しますから、提案した自分が責任を負うアイデアは無意識のうちに封じ込めていると言えば良いでしょうか。これに対し非常時は、失敗は個人だけでなく母体(組織)の破滅になり、破滅の度合いが大きすぎてもはや個人の責任など問える状態でなくなっていると言う事です。


ウダウダ書きましたが、「非常時にのみ強い人」は失敗が既に問題にされない状況になって初めて、その能力が発揮できる様に考えています。平時感覚の人間では危機をどうする事も出来ず、「非常時にのみ強い人」の特異な才能にすべてを委ねざるを得なくなり、一蓮托生状態になってその真価が現れるです。

これが口では非常時と言いながら、平時感覚の責任問題が幅を利かしている状態では「非常時にのみ強い人」の出番はまだないとして良いかと思います。たとえ出てきても、失敗の責任を負わされてトットと退場を余儀なくされます。少し考え方を広げると

  • 平時に強い人


      減点主義の世界でコツコツ成果を挙げられる人。ないし減点主義でボロを出さない様に立ち回れる人


  • 非常時に強い人


      非常時の程度によって許されるリスクを見切り、それなりのリスクを背負いながら動ける人


  • 非常時にのみ強い人


      リスク感覚の次元が違い、生き残るためのイチバチ勝負が出来る人
「平時に強い人」と「非常時に強い人」は能力的にダブル事はありそうと思っています。つうか併せ持つ人がいわゆる有能な人であると思います。減点主義の中であえてリスクを冒せるだけで十分な大物と言えるかと思います。ただし「非常時に強い人」が冒せるリスクの範囲は広くないと見ます。平時感覚でのリスクぐらいまでが精一杯のように考えます。

「非常時にのみ強い人」が扱うリスクは身代賭けての一発勝負みたいなものになります。これだけのリスクは「非常時に強い人」程度では無理です。そういうリスクを平時の事務作業のように扱える感覚の人でないと扱いきれるものではありません。逆にそんな感覚で平時の仕事をされたら、周囲は大迷惑で忌み嫌われる存在になるとしても良いと思います。ですから平時にはうだつが上らない存在にしかならないわけです。


歴史の転換期クラスの非常時になって初めて「非常にのみ強い人」の活躍の場が広がると考えています。これも「非常時にのみ強い人」だけが活躍するのではなく、「非常時にのみ強い人」が駆け回った後を「非常時に強い人」が整備して回り、さらに圧倒的多数派の「平時に強い人」が活躍できる様に新たな体制を作り上げていくと考えています。

それでもって時代の荒波が静まり、「非常時にのみ強い人」の用がなくなると、これを「非常時に強い人」と「平時に強い人」が排斥してしてしまうのも歴史と思っています。その後は「平時に強い人」が濶歩する安定期につながっていきます。


一つのポイントは「非常時にのみ強い人」がどの程度の危機の段階で出現するかはありそうに思います。それまでの秩序が粉微塵になるような大転換期になれば時代が求めると考えますが、もう少し小規模な混乱期であっても出てくる国は活力に溢れているような気がします。その時点での現体制の復興が行えるぐらいの生命力がその国にあると見れるからです。

これが動脈硬化の果てみたいな国になると、「非常時にのみ強い人」は出る余地がなくなります。「非常時にのみ強い人」は「平時に強い人」にとっては邪魔以外の何者ではなく、常に排除の理論が絶え間なく働き続けると考えるからです。「平時に強い人」の排斥運動が究極にまで高まると、その国がどんな危機になっても従来の体制側に「非常時にのみ強い人」が出現しないと言う事になります。

そうなると「非常時にのみ強い人」は反体制派にのみ湧き出て、現体制を打ち倒す革命にまで至るのかもしれません。最後はかなり飛躍しましたが、今日は歴史閑話風に収まってしまいました。そういう日もあると言う事でヨシとします。


実はこの話を医療に力技で結び付けようと構想していたのですが、少々本業が忙しくてまとまらず割愛にさせて頂きます。