スペイン風邪とアスピリンのムック

 スペイン風邪とアスピリンの関係をサイトカイン・ストームと断定的に関連付けて主張されている医師(たぶん)がいるのですが、その主張を巡る議論で第一次大戦当時、もっと正確に言うと1918年の秋に日本にアスピリンはあったのか、あったとしてどれぐらいあり、またスペイン風邪の治療に実際にどれほど用いられたかの疑問が出ました。

 結論を先に言っておくとムックも虚しく「よくわからない」です。


第1部

 スペイン風邪での日本の被害は中外製薬のインフルエンザ情報サービス「20世紀のパンデミック(スペインかぜ)」によると、

 1918年(大正7年)の11月に全国的な流行となった。 1921年7月までの3年間で、人口の約半数(2,380万人)が罹患し、 38万8,727人が死亡したと報告されている。

 治療にアスピリンが使われたとすればかなりの量が必要であった事だけは理解できます。これはオマケですが、

 20代から30代の青壮年者に死亡率が高かった原因は不明で、謎として残っている。通常は小児や高齢者の死亡率が高い。死因の第一位は二次的細菌性肺炎であった。このとき、始めて剖検肺中に細菌が証明されないことから、ウイルス肺炎が疑われるようになった。

 フレミングによるペニシリンの発見は1929年であり、さらに製品化されるまで10年以上かかっているため、重症の細菌性肺炎が併発すれば手の施しようがなかったのではないかと推測されます。さて話はアスピリンに戻りますが、まずwikipediaより、

 アセチルサリチル酸は世界で初めて人工合成された医薬品である。1899年3月6日にバイエル社によって「アスピリン」の商標が登録され発売された。翌1900年には粉末を錠剤化。発売してからわずかな年月で鎮痛薬の一大ブランドに成長し、なかでも米国での台頭はめざましく、20世紀初頭には、全世界のバイエルの売り上げのうち3分の1を占めた。

 日本ではどうだです。


第2部

 松岡正剛の千夜千冊の第九百十五夜「超薬アスピリン」(平澤正夫著)に、

 日本にアスピリンが上陸したのも、早い。1899年にバイエル社が発売した翌年には、医学雑誌に紹介記事が載った。バイエルも1902年には邦文商標を取得、1907年には武田薬品が一手販売権をもって、発売に乗り出した。

 ところが、第1次世界大戦で日本はドイツを敵にまわしたので、アスピリンも入ってこなくなる。そこで自前で生産することになるのだが、この第1次世界大戦こそが日本の薬品工業の自立を促した。とくに大阪が儲けた。

 1907年には武田が販売権を握って独占販売していた事、さらに第一次大戦でドイツからの輸入が途絶えた事、そのために国産化が行われた事は確認できます。ただこれだけではどう使われたいたか、また1914年の大戦開始後から1918年のスペイン風邪流行までにどれだけ実際に作られているか不明です。そこでタカマサのきまぐれ時評2様の新型インフルエンザ騒動の怪30=豚インフルエンザ報道を検証する(第23回) スペインかぜの正体(2)から慎重に引用してみます。

 スペイン風邪の症状についてはアルフレッド・W・クロスビー「史上最悪のインフルエンザ・忘れられたパンデミック」(みすず書房2004)からの引用となっており、

(P29より引用)

 発症後ほどなく死亡した症例(ときに咳や痛みの訴えが始まって48時間以内で死に至っていた症例もあった)での肺の様子はウェルチにとっても初めて見るものだった。そうした肺組織にはまったくといいほど硬化は見られなかった。が、異常は明らかだった。ウェルチが切り出した肺の小片は、普通なら水に浮くはずのものが、水に沈んでしまった。所見として特に際立っているのは、水っぽい血液混じりの液体が大量に肺に詰まっていたことだった。

 これはアメリカの報告で中外の二次性の細菌性肺炎が死因の1位であったのとの整合性に悩むところですが、素直に読むと肺水腫による呼吸不全の症状を窺わせるものになっています。アスピリンとの関連性ですが、厚生労働省が今年2009年5月に出した「重篤副作用疾患別 対応マニュアル(肺水腫)」から引用があり、

 アスピリンによる肺水腫は血中濃度がある一定の値(30 mg/dL)を超えると発生しやすくなるとのことです。

 厚労省のマニュアルには発症のメカニズムが次のように説明されています。

 (アスピリンを)誤飲や意図的に大量内服した場合に、肺水腫発生の 報告がある。血清濃度が 30mg/dL 以上で、数時間以内に 発症するとされている。アスピリンによるシクロオキシゲナーゼの抑制からプロスタグランジン産生が減少し、血管透過性が亢進すると考えられている。

 血中濃度30mg/dlか・・・これも一応抑えておいて、内務省衛生局編「流行性感冒『スペイン風邪』大流行の記録」(東洋文庫 778平凡社2008)から引用されている当時の日本の治療方針です。

 初期において解熱剤を用ふれば筋痛軽快するとともに、気管支加答児に好影響あるが如し。汗腺の分泌増すが如く、呼吸器粘膜よりも分泌を増すためか喀痰の喀出容易となるがごとき観あり。(稲田)
 
 普通に「アスピリン」、「アンチピリン」、「ピラミドン」、撒曹「フエナセチン」等用いられたり。解熱剤は心臓を害するものとしてこれを用ふることを厭う人あり(佐藤「医学中央雑誌」17巻4号)またこのために「コフェイン」と併用することをすすむる人あり。

 (稲田)ってワイル氏病の稲田竜吉博士なんでしょうか。よくわかりません。とりあえずアスピリンも用いられた事だけはわかります。アメリカはクロスビーより、

 (1918年)9月13日、連邦公衆衛生局長官ルバート・ブルーは記者団を集め、インフルエンザとはどういったものかといったことや、ベッドでの安静、栄養価の高い食事、キニン塩、アスピリンといった薬の服用など、インフルエンザにかかった場合の対処について、勧告を発表した。

 アメリカはアスピリン使用を勧告していたようです。そいでもってやっと日本のアスピリン使用量になるのですが、

 当時の日本でのアスピリン輸入量が 年間約40トン(国産はナシ)(中外商業新報 1916.8.20)

 ここは微妙な記述で日本の内情についてはもうちょっと煩雑で、

 1907年から大阪の武田商店(後の武田薬品)が独占販売権を獲得。明治44から大正2年(1911-1913)までのアスピリン年間平均輸入量は8.9万ポンド(約40トン)にも達していました。(中外商業新報 1916.8.20)ところが、日本も第一次世界大戦に参戦、ドイツとは敵対関係になったため、ドイツからの医薬品の輸入は途絶えました。そこで、武田商店がアスピリン工場を建設し、1915年から生産を開始(平澤正夫「超薬アスピリン スーパードラッグへの道」平凡社新書2001)

 1916.8.20付中外商業新報のアスピリン輸入量の記述は「明治44から大正2年(1911-1913)」のデータではないかと見られます。1914年7月28日に大戦が勃発していますから、以後はドイツからの輸入は途絶える事になります。これに対し武田が工場を建設し生産を始めたのが1915年となっています。1915年のいつからかが不明なのですが武田の大阪工場のご案内には、

 タケダの薬づくりは、大正4年(1915年)にこの大阪工場から始まりました。

 その出発は、大正3年(1914年)に勃発した第一世界大戦によって西洋医薬品の輸入が困難となり、国内での自家生産が必要となったためでした。5代目武田長兵衞はこれに応えて大阪・十三(じゅうそう)の地に製造工場を建設したのです。

 はじめは、14,000?の土地にアスピリンの製造からスタートしましたが、今では、敷地面積は160,000?あり、固形製剤、注射剤および治験薬の工場としての役割を担っています。

 wikipediaの武田薬品工業は傑作で武田の創業日は「1781年(天明元年)6月12日」と妙に詳しいのですが大阪工場については年しか書いてありません。ここら辺の情報がもう少し欲しいところです。


第3部

 参考になったのはくすりの社会誌: 人物と時事で読む33話 著者: 西川隆です。まず大戦開戦当時の様相です。

 わが国も日英同盟の関係から8月23日ドイツに宣戦布告した。当時、わが国の製薬技術は未発達であり、医薬品の多くは欧州、とくにドイツからの輸入が総輸入薬の70%近くを占めていた。ドイツ政府は開戦と同時に輸出を全面禁止した。

 ドイツに宣戦布告しなくてもドイツからの輸入が物理的に難しくなるのはわかっていたので、日本は対策を立てる事になります。結構泥縄式ですが仕方ないでしょう。衛生試験所長であった田原良純は臨時製薬所を設置する事を提言し、これが了承されています。1914年10月には東京と大阪の両衛生試験所に臨時製薬部を設置したとなっています。目的は、

 ドイツへの宣戦布告による特許権の解除を前提に臨時製薬部で「欠乏医薬品」の製造法を研究するほか、「必須医薬品」の試製を行い、その成績を官報に公表して積極的に国内生産の指導と奨励に乗り出すものであった。

 わかる事は第一次大戦まで日本で自給できる薬剤はゼロに近く、大戦による欠乏を機に国内生産に官民挙げて爆走したぐらいに理解しても良さそうです。臨時製薬部は同年12月に医薬品製造試験部に発展したとなっていますが、この時に活躍したのが村山義温(後の東京薬大学長)となっています。1915年からの勤務で、この村山の「薬学50年」に注目すべき記述があります。

 この時代の重要医薬品に数えられたものには、アルカイド類のモルヒネ、コカイン、アトロピン、キニーネをはじめ石炭酸、サリチル酸、クレオソート、グアヤコールなどであった。これらは皆輸入品であったから、その途絶は医薬界の脅威であった。私は青山新次郎氏、板垣武喜氏の協力で塩酸コカインやサッカリン、バルビタールの製造を引き受け純製することができた。大正3〜4年頃は石炭酸でさえ輸入品であったが、我々は純石炭酸を製し、次いでサリチル酸、アスピリンができるようになった。はじめは初歩的な失敗もあったが、両3年の間に大部分の医薬品は曲がりなりにも日本製として市場に現れピンチを脱した。

 年月を確認しておきますが大正3年に大戦勃発です。同年の10月ないし12月頃から途絶した輸入品の試製を始め、「両3年」の間にアスピリン製造から市場への登場まで漕ぎ着けたとなっています。「両3年」と言う表現が古めかしいところです。私の知っている例として、古代中国で「3年の喪に服す」との記述があります。この3年は「両3年」の事であり、実際には14ヶ月です。

 スタート時を基準として3年に跨ったぐらいの表現です。1914年12月から村山は開発に従事したとなっていますから、1916年中ぐらいに「両3年」が達成できたと考えても大きな間違いではないとなかろうと考えます。早いのは早いですが、特許により製法の基本はわかっていたのですから、主に大量生産技術の研究であったようで、

 これらの医薬品は試製が終って官報に登載した時期には、わが国で初めて多量の生産が技術的に可能になったことを意味し、それを企業に譲渡あるいは製造して大きく製薬の振興に役立ったと記録されている。

    大きく製薬の振興に役立った
 そりゃ役立ったと思います。宣戦布告で特許がタダで入手でき、その特許からの大量生産技術を国が開発し、その技術をタダで入手して作っています。さらに市場は輸入途絶で飢餓状態、さらにさらに引用はしませんが、事業に失敗した時の補償も国から得ています。国策として国内製薬メーカーに「お願いだから作ってくれ」状態だったと言うわけです。

 長い寄り道でしたが、武田が1915年に工場を稼動させていれば、1918年のスペイン風邪大流行時に国産アスピリンを製造供給していてもおかしくないと考えても良さそうな気がします。これも確認は出来ませんが、アスピリンは武田だけでなく他のメーカーも作っていた気配もあり、私としては間に合ったと考えます。


第4部

 なんとかかんとか国産アスピリンは1918年のスペイン風邪流行に間に合いました。ではスペイン風邪流行時にどれだけ使われていたかです。これがよくわかりません。当時のアスピリン使用法は、

 当時のアスピリンの用途は解熱剤ではありませんでした。「発売時(1899年6月)からアスピリンは消炎 解熱鎮痛剤だったが、関節炎やリウマチ治療のための消炎剤として用いるときは大量に使用し、解熱鎮痛の場合は少量を用いた」「医者は頭痛や発熱よりも関節炎やリウマチ患者に用いた」(平澤正夫「超薬アスピリン スーパードラッグへの道」平凡社新書2001)

 あくまでも「たぶん」レベルのお話ですが、スペイン風邪に対するアスピリンの使用は解熱鎮痛剤として用いられたと考えられます。この辺のスペイン風邪とアスピリンの関係について信頼できそうな情報として岩田健太郎氏の楽園はこちら側のスペイン風邪とアスピリン CIDを引用してみます。タイトルに「CID」と書いてあるので、CIDレポートからの抜粋ではないかと考えます。

 投与量

  • 1977年のFDAはアスピリンの投与最大量は4000mgとしている。
  • 1918年には、だいたい1000-1300mgくらいのアスピリンが処方されていた。投与間隔や投与期間の記載はなく、あるロンドンの医師は1300mgを毎時間、12時間もノンストップで処方していた(Lancet 1918;2:742-4)。別の医師は390mg/日を数日処方していた。
  • アスピリンは肺水腫に推奨されていた。
  • 他では、1gを3時間おきに症状が無くなるまで投与するよう推奨されていた(JAMA 1918;71:1136-7)。メジャーな雑誌もでたらめばかりだったというわけだ。
  • アスピリンの血中濃度が測定できるようになったのは1940年代になってから。
  • 1960年代には、アスピリンは蓄積されやすいことが判明する。投与量によって、半減期が5時間から40時間以上と変化するのだった。また、排除率にも個人差がある。

 う〜ん、かなりバンバン使われていた事を窺わせます。とくに注目したいのは、

    アスピリンは肺水腫に推奨されていた
 肺水腫様の症状がもし現れれば、さらに投与量が増やされた可能性も十分に考えられます。そりゃ肺水腫治療に「推奨」されていたら、症状改善のためと言うより救命のためにさらに増量を考えてもおかしくありません。

 サリチル酸による肺毒性

  • サリチル酸は肺水腫を起こしやすい。
  • 粘膜線毛輸送システムを低下させる作用もある。
  • スペイン風邪の剖検では、肺水腫と肺出血がよく認められた。
  • 脳浮腫や脳出血も多かった。
  • これらは、成人のアスピリン中毒に合致する所見だった。

 スペイン風邪で目に見える主訴は、高熱とそれに伴う強烈な不快症状であったとして良いかと思います。これに対して当時最も有効な鎮痛解熱剤であったと考えられるアスピリンを対症療法として投与された考えて良さそうです。高熱と言っても成人の39℃とか40℃ですから、これを改善するために大量投与が行われたと見ても良さそうです。

 確証はないのですが、現在の様にアスピリンの持つ各種の副作用についての知見は乏しかったはずで、効果が乏しければ効果が出るまで増量に次ぐ増量が基本として行われた可能性があります。上述した様にアスピリンによる肺水腫が起こってもこれに対する治療薬はアスピリンだったわけです。

  • 1918年9月に、米国公衆衛生局長官(surgeon general)が正式にアスピリンを推奨した。米国海軍、JAMA、そしてOslerも同じ推奨をした。
  • 1918年から1920年までにアスピリンの処方は倍増した。
  • 米国では海軍で9月に、陸軍で10月上旬に、そして一般市民に10月に死亡者が激増した。
  • 1918年11月のランセットで、Horderがアスピリンを処方から外すよう訴えた。
  • 小児科の教科書にはアスピリンの使用についての記載が無く、使われにくかった。スペイン風邪では小児の死亡が少なかった。

 意味深な関連性で、1918年の秋にスペイン風邪は世界的大流行を起します。その年の9月に米国公衆衛生局長官がアスピリン推奨を打ち出しています。そこから死亡者が急増したとなっています。スペイン風邪の謎の一つに子供の死亡者が少なかったとなっていますが、小児へのアスピリン使用は当時は概念として低かったとあります。



 かなりムックできたのですが、最初の目標である日本はどうであったかが結局わかりませんでした。アメリカ同様にアスピリンを積極使用したのか、それともそうでなかったのかです。国産アスピリンの生産はどうやら間に合った気配はありますが、大量使用に耐えるほどの供給量があったかどうかは不明です。また当時の日本の医療事情から、どれほどの範囲の人間にアスピリンが投与できたかもハッキリしません。

 都市部はまだしも、当時の地方と言うか田舎は大正時代であっても、まだまだ江戸時代の雰囲気を濃厚に残していたと考えるのが妥当だからです。日本の人口の半分が罹患するような規模に間に合うアスピリンの供給量、またその投与法の存在、そもそも近代医療自体がどれだけ普及していたかは調べ切れませんでした。ちょっと心残りですが、個人での趣味の調査の限界を感じつつ、このあたりで話を終らせて頂きます。