日曜閑話69 - 3

光秀の出自の続きです。蛇足編ぐらいと思ってください。


明智氏一族宮城家相系図書(宮城系図)のタネ本部分と加筆部分

研究者の宝賀寿夫氏の説に私も賛成するのですが、

  1. タネ本として明智家系図があった(タネ本部分)
  2. 宮城家が明智左馬助光春(秀満)の子孫にするための創作部分(加筆部分)
この2つのパートがあるだろうと見ています。タネ本部分は宮城系図の前半部分にあたりますが、宝賀氏の研究によると他の資料と照らし合わせても興味深い記述は少なくないそうです。明智家と言うローカルな家の来歴ですから、純創作で作ったにしてはレベルが高すぎるぐらいでしょうか。一方で加筆部分、とくに鉄板の加筆部分である光春以降は史実と違う点が多すぎて、その部分だけで悪書・偽書のレッテルを貼られれている部分になります。史実を考えると言うか、テーマは光秀の出自ですから、タネ本と加筆部分の境目はどの辺りになるんだろうかです。

史実で言うと美濃明智家は道三崩れの時に滅亡しています。この時の当主は明智光安であるのは間違いありません。光安は弟の光久と共に明智城で死んでいるのは間違いないとして良いでしょう。その光安の記述は宮城系図ではテンコモリあります。これを誰が書いたかになりますが、

  1. 光秀
  2. 宮城家
光秀は後に信長に仕え頭角を表し明智家を再興したと人物ですから、持っていた明智系図に加筆しても不思議とは言えません。ただなんですが内容的にはクビを捻る部分があります。光安の来歴のところに光秀の事が書かれているのですが、

光秀元来其生質勝常人自幼稚ノ頃 而自然ト大器 而逞有天下一定之望 因テ辞退之不受継城主態 成部屋住 唯専鍛錬軍監武術

あくまでも一般論ですが家系図はプライベートな歴史書みたいなもので、基本は自分の子孫が来歴を書くものだと思っています。自画自賛した例がないとは言いませんが、光秀が自分で書いたにしてはちょっと書きすぎの気がします。光秀は本能寺さえなければ明智家でもっとも成功した人物であり、自分で書かなくとも家が続いていれば子孫が「中興の祖」として礼賛してくれるのは確実だからです。ですから光安来歴に宮城家の加筆があるのは確実だと考えています。ここはシンプルに光安来歴も加筆部分と良いかと見ています。まあ光秀自筆ののタネ部分があってそれを膨らましたぐらいは絶対あると見ます。


光秀来歴の再見

それと光秀が加筆したにしては光秀自身の来歴が異様にシンプルです。ここも考えようのところなんですが、光秀の来歴部分を改めて紹介しておきます。

明智十兵衛尉 惟任日向守 山陰道追捕使 西海道藩鎮 丹波侍従 後昇殿 従三位左近中将 惟任将軍宣下

光秀

享禄元年戌子八月十七日生於石津郡多羅云云 多羅ハ進士家ノ居城也 或ハ生於明智城共云云 母ハ進士長江加賀右衛門尉信連ノ女也 名ヲ美佐保ト云 傳曰光秀実ハ妹聟進士山岸勘解由左右門尉信周之次男也 信周ハ長江信連之子也 光秀実母ハ光綱之妹 進士家ハ於濃州号長江家依領郡上郡長江ノ庄也 称北山之豪家云云 明智光綱家督相承 而取結妻縁后既経八年之春秋 然共生得病身而不設一子 齢及四十 因テ為其父光継之賢慮 光秀誕生之時 其侭取迎之為養子相譲家督 因光秀成光綱之子 然而以叔父兵庫頭光安入道宗寂為後見住其本城 弘治二年丙辰九月明智落城後暫浪人 仕足利義昭公 後仕織田信長 天正十年壬午六月十三日夜於城伏見小栗栖生害 年五十五歳

ちょっと解説しておくと光秀の出生地は2説上げています。

でもって詳細に書かれているのは「石津郡多羅云云」です。これも変なお話で戦国期に里帰り分娩なんてなかろうになります。ほいで実はと言うほどではありませんが、宮城系図の光秀の来歴部分を読んだ時に出てくる人物が、殆ど(まったく)わからなかったので日曜閑話を書いた契機になります。たとえば
    進士家ハ於濃州号長江家依領郡上郡長江ノ庄也 称北山之豪家云云
ここにしても進士氏のおそらく支族の加賀の山岸家が南北朝の争乱の時に美濃に流れて土着し、美濃での二代目の山岸弥太郎光明が

光明は、美濃守護の土岐弾正少弼頼遠の婿猶子となり、土岐氏連枝に准じて家名を外山家とも北山の豪家長江殿ともいったと同書に記される。

ここにある「同書」は美濃国諸家系譜だそうです。つう事は光秀の来歴を書いた人物は美濃国諸家系譜の進士氏のエピソードを知っている必要があるだろうぐらいになります。ただし私には「称北山之豪家云云」が進士氏のニックネーム的に美濃の武家なら常識的なお話なのか、美濃国諸家系譜に残る知る人ぞ知るクラスなのかは判断しようがないぐらいのところです。後は宮城系図を遡って拾い出すと、

「なんじゃこれ!」って言う姻戚関係が出てきて訳です。それはともかく、その結果として宮城系図に出てくる明智家と進士氏の姻戚関係は系図上には存在する事が確認できた訳です。確認は出来たのですが、すごく引っかかるところがあります。光秀が進士信周の次男であるお話は光秀の来歴のかなりの部分を占めるのは読めばわかりますが、その説はあくまでも
    傳曰
通常こういう時の傳曰とは「そういう言い伝えもある」ぐらいで使うと私は解釈しています。ところが傳曰のはずなのに光秀の先祖の来歴は傳曰にピッタリ合っている点です。そりゃ、おかしいだろうと言うところです。それだったら傳曰なんて付ける必要性がありません。そのまま進士信周の次男を養子に迎えたでエエじゃないかです。私の解釈は光秀の来歴を創作して、傳曰に合わせて先祖の婚姻関係を作ったんじゃなかろうかの可能性を考えます。傍証ってわけではありませんが、光秀は明智落城の後に牢人となっていますが、とりあえず若狭武田家を頼ったらしいは良く言われています。(ここから若狭の刀鍛冶の息子説が出ていると見ます)

若狭武田家と明智家の関係は宮城系図によると光秀の父の光綱の先妻が若狭武田家の娘であるとなっています。しかし宮城系図では妻は26歳で亡くなり後妻に進士信連の娘を娶ったとなっています。当然ですが光綱に子はなかったとなっていますから、光秀は若狭武田家の血は引いていない事になります。それどころか光秀が生まれるかなり前のお話ですから、光秀にしてもそんな人が父の奥さんにいたぐらいしか知らない関係と考えます。宮城系図を全部調べたわけではありませんが、明智家と進士氏の様に何代にも渡って縁組を繰り返した形跡は見えないからです。その程度の関係でも急場ですから頼る事もあるでしょうが、どうせ頼るなら尾張織田氏を頼る方がマシの気もします。これも宮城系図上ですが尾張やさらに三河にも縁族はいるからです。尾張と美濃は対立関係ですが、対立は「道三+信長 vs 義龍」であり道三派として明智城で一族を滅亡させた明智の血筋の者なら余裕で保護してくれるはずです。

わざわざ若狭武田氏を頼ったのは、やはり光秀の実母が若狭武田氏の娘だったからではないでしょうか。そう考えるのがこういう場合、一番合理的な気が私はします。もし光秀が若狭武田氏の娘の子であるなら、後妻の進士信周の娘はどうなるかです。いたかもしれないし、いないかもしれないぐらいしか言いようがありません。結論と言うほどではありませんが、光秀は光綱の晩年の子であったのだけは間違いないと見ます。また可能性として実母は若狭武田氏の娘じゃなかろうかです。ただ光秀が生まれて間もなくぐらいに母は亡くなったぐらいです。進士信周の娘が光綱の後妻になったのなら光秀にとっては継母になるぐらいです。


他の解釈

ここも言いだすとキリがないのですが、他にありそうなお話としては光秀は光綱の側室(非公式のものです)の子かもしれません。そういう時に正室との関係を慮って自分の妹の嫁ぎ先の進士信周の子として預けたぐらいです。ところが光綱には他に子が出来ず唯一の実子である進士信周に預けた子を嫡子として迎え入れたぐらいのエピソードは可能性として存在します。このエピソードは基本的に伏せられていて、光綱が死病の床に就いたぐらいの時に光秀の祖父である光継に打ち明けたぐらいです。そこが光秀の来歴にある、

    因テ為其父光継之賢慮 光秀誕生之時 其侭取迎之為養子相譲家督 因光秀成光綱之子
まあもっとドロドロのストーリーを言えば、光綱は自分の妹に手をだし孕ませた挙句に進士信周の妻に送り出したなんてのもあります。荒唐無稽ぽいですが、進士信周は明智家から2人の嫁を取っています。どちらも光綱の妹ですが、姉の方が正月に亡くなった後に妹はその年の11月に輿入れしています。チト早い気がします。これはヒョットして姉の方が光秀だけ産んでそのまま亡くなったからではなかろうかの推測も出来るからです。産み月から進士信周の子でない事を疑われ、その時に光秀も引き取ったぐらいのストーリーです。でもって妹が急遽嫁いだのは両家の関係修復のためぐらいです。

もちろん何の証拠もありません。とりあえず宮城系図は光秀とその関連部分はかなり加筆や創作が加えられているんじゃなかろうかの宝賀寿夫氏の意見に同意するとだけしておきます。