頼朝の富士川・訂正補足編

玉葉の武田軍と平家軍

玉葉を読みそこなっていましたので訂正を入れます。読み違ったところの読み下し分を書いてみます。

先去月十六日、駿河国高橋宿に着く、是より先に彼の国目代、及び有勢武勇の輩、三千余騎、甲斐武田城の寄せる間、皆悉く伐取られる。

10/16にそれより前にあった鉢田合戦の敗報を聞いたぐらいになります。鉢田合戦は吾妻鏡では10/14になっていますから、10/14の報告を10/16に高橋宿で受け取ったことになります。武田の使者が平家軍を訪れたのは10/17朝となっています。武田の使者の内容はあからさまな挑発です。つうか挑戦状を叩きつけたとして良いかと思います。でもって決戦の場所も指定しています。

    浮島原
実はここが難解で、現在の浮島原は沼津にあります。だから玉葉にある挑戦状を送ったのは頼朝ではないかの説が出て来る根拠だと思われます。浮島原に近いのは武田軍ではなく頼朝軍だからです。院宣をもらった云々の主張も頼朝はそう言っているのが平家物語にもあるからです。浮島原の場所について玉葉は、
    甲斐駿河与う間の廣野云々
これは玉葉の作者が浮島原の位置を知らなかったぐらいに見て良さそうです。たしかに浮島原は沼津にあるのですが、後の経過を考えると浮島原は特定の地名ではなく、地形描写であったんじゃないかと推測しています。つうのも平家軍は10/17朝に武田の挑戦状を受け取った後に10/18には富士川西岸に陣地を作っているからです。チト強引かもしれませんが、浮島原とは東海道富士川渡河地点を指していたんじゃないかと私は考えます。

武田軍ですが10/14に鉢田合戦の後にそのまま南下すれば10/17に富士川東岸に陣を敷いていても距離的に不思議とは言えません。現実にも武田軍が陣を敷いていたからこそ平家軍も10/18に西岸に陣を敷いています。つまりは平家軍も武田軍も浮島原が「そこである」と認識していたからじゃないかと思います。作り直した関連地図を出しておきます。

これぐらいで概観できると思います。


頼朝は平家との決戦の意図はあったんだろうか?

吾妻鏡の10/16に

また今日駿河の国に進発せしめ給う。平氏の大将軍小松少将惟盛朝臣、数万騎を率い、去る十三日、駿河の国手越の駅に到着するの由、その告げ有るに依ってなり。

平家軍が10/13に手越駅まで来ている情報を知っているのなら、その前の駿河勢の甲斐進攻情報も当然知っていないとおかしくなります。玉葉を信じれば駿河勢は三千余騎であり、10/14に鉢田合戦をやっているのですから、10/13以前に賀島あたりに来ていたと考えるのが自然です。頼朝相模征服事業は10/16の時点でも完成していません。未だに大庭景親・波多野忠常は反頼朝勢力として残っています。ただ相模国内では劣勢ですから大庭・波多野が駿河に援軍を求めるのは必至というところです。

当然ですが頼朝は駿河勢の動向に神経を尖らせたはずです。尖らせたと言うよりも、駿河勢の来襲は必至と見たんじゃないかと思い始めています。私は頼朝が動いたのは平家軍が手越駅に来たからではなく、駿河勢が賀島・吉原あたりに集結しているのに呼応したんじゃないかと思っています。駿河勢が集まっているの情報を入手したのが10/16で即座の出陣を決めたぐらいに考えるのが自然な気がします。だから目的地が黄瀬川ではなかったかです。

今回地図で確認して不思議だったのは富士川の戦いのために何故に頼朝が黄瀬川を目的地にしたかです。甲斐源氏との合流を考えたら賀島の方が良いとしか思えないからです。黄瀬川で甲斐源氏軍と合流するには鎌倉往還が考えられますし、この道自体は古くは甲斐路といい日本武尊が通ったの伝承がある道ですが、駿河勢を敵と見た時に甲斐源氏としては使い難そうな気がしています。駿河勢の集結を頼朝は相模進攻と見たかもしれませんが、甲斐源氏だって甲斐進攻と見る訳で、甲斐進攻なら中道往還を使うのは明らかです。そんな時に甲斐路を通って黄瀬川に進むとは到底思えません。

黄瀬川が目的地であったなら、駿河勢をそれこそ沼津の「浮嶋原」で迎え撃つぐらいの算段になるかと思われます。頼朝の戦略として

  1. 波多野・大庭を駿河進攻の道すがら粉砕する
  2. 黄瀬川まで進出できたら駿河勢と決戦を行う
こういう見通しで黄瀬川を目指したと見たいところです。もちろん駿河勢が早く動けば、黄瀬川までに決戦を行うぐらいでしょうか。ところが10/18夜に黄瀬川まで進んでみれば、駿河勢は相模ではなく甲斐に向ったばかりか、10/16に鉢田で敗走している情報を舅の北条時政から聞く事になります。同時に武田軍はそのまま南下し、平家軍と決戦に向っている情報も合わせて聞いたと思います。頼朝は迷った気がしています。つうのも翌10/19の吾妻鏡の記述は、

10月19日 戊戌

伊東の次郎祐親法師、小松羽林に属かんが為、船を伊豆の国鯉名の泊に浮べ、海上を廻らんと擬すの間、天野の籐内遠景窺かにこれを得て、生虜らしむ。今日相具し黄瀬河の御旅亭に参る。

以下伊東祐親の事しか書いてありません。実際に伊東祐親が生け捕りにされて連行されたのは事実でしょうが、目前の平家軍に対してどうしたかの記述がありません。これは動くか動かないかの判断に迷ったと取りたいところです。まあ、目標の駿河勢がいなくなったので戦略の立て直しに迫られたぐらいでしょうか。迷った頼朝でしたが、平家は共通の敵であり、もし甲斐源氏が敗れたら独力で戦う不利を勘案して甲斐源氏との合流に動いたのが10/20であったと見ます。

10/20も夜に平家軍は退却してしまったのですが吾妻鏡

10月21日 庚子

小松羽林を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。これに依って宿を黄瀬河に遷せしめ給う。安田の三郎義定を以て、遠江の国を守護せんが為差し遣わさる。武田の太郎信義を以て駿河の国に置かるる所なり。

ここのところなんですが、頼朝が攻めたかったのは小松羽林(維盛)ではなく甲斐源氏であった気がしています。平家軍がいなくなったのなら代わりに甲斐源氏を征伐して、駿河・甲斐さらには遠江三河に勢力圏を広げようの構想です。この意見に「常胤・義澄・廣常等諫め申して」となっていますが、まず頼朝軍は武田軍に対して優勢と言えるほどの兵力がまずなかったと見ます。相模は平定したても良いところで、駿河進攻に際しても十分な留守部隊を配置しているはずだからです。

それと千葉常胤にしろ上総介広常にしろ本拠地を留守にして1ヶ月ぐらいになります。これだけ反平家を旗印にしているのですから、常陸の動向が気になって仕方なくとも当然です。留守を常陸の佐竹氏に荒らされては困るぐらいです。もう一つ挙げれば、千葉氏にしろ上総氏にしろ頼朝挙兵に加担はしたものの、これまで実質的にはタダ働きです。そろそろ自分たちの実利に直結する常陸の佐竹氏を倒してしまいたいぐらいでしょうか。

だから甲斐源氏と和睦と言うか友好の確認だけして駿河をあきらめて相模に戻ったと見ます。


頼朝への感想

頼朝は幸運児の側面は確実にありますが、いくさ運には恵まれなかった気がしています。石橋山も運があれば勝てた可能性のある戦いであったと思います。しかし結果は頼朝の拙い方に賽の目は転び惨敗。富士川も真相はともかく駿河に来ただけで実質的に勝者と言うほどの栄誉を受けられていません。源平合戦の華である宇治川、一の谷、屋島、壇ノ浦は鎌倉のデスクワークに終始しています。

唯一の快勝記録は奥州征伐ですが、その頃には奥州藤原氏と鎌倉の頼朝の力の差は歴然となりすぎ、頼朝指揮で圧勝したと言うより、大軍で押しつぶしたぐらいの評価で頼朝の戦績を後世に伝える程のものにはなっていないと思います。まあその分、義経が華々しく登場した訳で、役割分担としては機能的ですが、頼朝の武人としてのプライドは・・・複雑だったかもしれません。