稚日女尊と活田長峡国

モトダネは福原会下山人氏の町名由来記からです。生田神社の由緒は日本書紀にある、

時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武内宿禰、懷皇子横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船廻於海中、以不能進、更還務古水門而卜之、於是天照大神誨之曰「我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國。」即以山背根子之女葉山媛、令祭。亦稚日女尊誨之曰「吾欲居活田長峽國。」因以海上五十狹茅、令祭。亦事代主尊誨之曰「祠吾于御心長田國。」則以葉山媛之弟長媛、令祭。亦表筒男・中筒男・底筒男三神誨之曰「吾和魂、宜居大津渟中倉之長峽。便因看往來船。」於是、隨神教以鎭坐焉。則平得度海。

神功皇后の船が進まなくなった時に

    稚日女尊誨之曰「吾欲居活田長峽國。」因以海上五十狹茅、令祭
意訳すれば稚日女尊が活田長峡国に住みたいと言ったので、海上五十狹茅に祭らせたぐらいで良いかと思います。


稚日女尊とは

お手軽にwikipediaより、

  1. 日本神話ではまず、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場する。高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。『古事記』では、特に名前は書かれず天の服織女(はたおりめ)が梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、同一の伝承と考えられる。
  2. 神名の「稚日女」は若く瑞々しい日の女神という意味である。天照大神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)、妹神や御子神であるとも言われる。丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしている。  兵庫県西宮市の越木岩神社には稚比売命の磐座がある。

少々話が矛盾するのですが1.の説を日本書紀で確認すると本文では

又見天照大神・方織神衣・居齋服殿、則剥天斑駒、穿殿甍而投納。是時、天照大神、驚動、以梭傷身、由此發慍、乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。

スサノオが機織りしているアマテラスのところに皮を剥いだ馬を放り込み、これにアマテラスが驚いて(そりゃ驚くだろう)「以梭傷身」すなわち梭で傷つき、怒って天岩戸に隠れてしまったぐらいの話で良いでしょうか。ここには稚日女尊は出てきません。出てくるのは異説の方で、

一書曰、是後、稚日女尊、坐于齋服殿而織神之御服也。素戔嗚尊見之、則逆剥斑駒、投入之於殿内。稚日女尊、乃驚而墮機、以所持梭傷體而神退矣。故、天照大神素戔嗚尊曰「汝猶有黒心。不欲與汝相見。」乃入于天石窟而閉著磐戸焉

スサノオが皮を剥いだ馬を放り込むのは同じでも、これに驚いて傷ついたのが稚日女尊(自信がないのですが而神退が死んだと解釈するみたいです)で、それを見ていて怒って天岩戸に隠れたのがアマテラスとなっています。ここでなんですが稚日女尊は異説を取れば死んでるわけですから神功皇后のエピソードに出てくるのはどうだろうになります。一方で本文を取れば神功皇后のエピソードにのみ突然登場してくる神になります。ちなみに稚日女尊はこの2ヶ所しか日本書紀に登場しません。たぶんそのせいでアマテラスの別名説とか、妹説が出てきているんだろうと思います。

こんなもの考えたところで答えが出るもんじゃありませんし、神話の矛盾を突いたところで詮無いのですが、感じとしてアマテラスに関連する神だろうぐらいは言っても良さそうな気がします。広田神社には天照の荒魂が祭られているので、バランスとして生田神社に和魂が祭られても良い気はしないでもありませんが、和魂も荒魂も祭ってしまったら天照がいなくなりますから、和魂は身代わりというか、分身というか、天照に非常に親しい神を祭ったぐらいの解釈は辛うじて可能かと思います。


もう少し別の角度で考えると、このエピソードは神功皇后三韓征伐の帰還途中に起こっています。この時の背景として忍熊王の反乱があり、務古の水門のエピソードは反乱の情報収集と抱き込み戦略に見えないこともありません。当時の神戸から西宮にかけては3つの国(長田国、活田長峡国、広田国)があり、これらの勢力の抱き込み工作を行ったぐらいの見方です。そりゃいかに海路と言っても、陸地の安全がないと危ないからです。というのも神を祭らせるように命じた面々がチト面白いからです。

神社 祭主
広田神社 天照の荒魂 山背根子之女葉山媛
生田神社 稚日女尊 海上五十狹茅
長田神社 事代主尊 葉山媛之弟長媛
力業の解釈が入るのですが、広田国には天照の荒魂ですから武力征服を行ったぐらいを考えます。一方で長田国、活田長峡国には婚姻戦略を行ったんじゃなかろうかです。とくに活田長峡国は入婿戦術を行ったぐらいの見方です。だって稚日女尊は字面からし若い女性ですし、海上五十狹茅はどうやら男性ですから婚姻戦略なら入婿戦術になりそうじゃないですか。そうやって三国の支配や支援が確実にできたので、忍熊王との決戦に臨んでいったぐらいの見方です。


活田長峡国の地名からの推察

まず活田なんですが会下山人氏は、

日本書記の神功皇后摂政二年の項に(前略)亦稚日女尊誨之日、吾欲居活田長峡国云々とある、此生田長峡国というのが現在の神戸の地である、活田とは円き田という地形が円く見ゆるを其儘に呼んだのである、現今の敏馬から原田北へ青谷、春日野を西へ布引山、又西へ諏訪それから花隈を南へと丘阜が恰も半あ山円を画しているのが、活田の地域でる、此半円形の地の中へ六甲山脈摩耶山系が一つ熊内の所へ長い尾を曳いているのを長狭といったので、稚日女尊即ち生田神は此長狭に鎮座ましました、熊内の上の円山本名砂山が生田神の最初の鎮座地で、後世に或る事情の為現今の所へ遷座されたのである

えっと、えっと地図で確認します。

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会下山人氏の挙げた地名を明治期の地図で拾ってみたのですが、わかんなかったのは布引山です。布引山は砂子山とも呼ぶらしいのですが、砂子山は円山としています。つまり「布引山 = 円山」になるわけです。地元の人間の山の呼び名は微妙に変遷しますから、ひょっとしたら北野のあたりを布引山と呼んでいたのかもしれません。地名の並びからするとそんな感じですからね。ほいでもって地名を並べるとたしかに半円形に見えないこともありませんから、これを「活田とは円き田という地形が円く見ゆるを其儘に呼んだのである」と言われれば「そうかもしれない」ぐらいには感じます。とにかく現在の風景から推測するのはとにかく困難です。

それと花隈ですが、会下山人氏によると

花隈は鼻隈とも鼻熊ともある、熊内に対する鼻熊で、生田の地が半円形であった其圏内を出た所が鼻である今の花隈町は元は今の平野の浄水池の辺にあった

たぶん私が「花隈」と記した斜め左上ぐらいに山(宇治山)がありますが、おそらくその地形を花隈と呼び、最初の花隈町はその北側にあったぐらいと解釈します。この地形全体を半円形とみなして「円き田 = 活田」はホンマかいないと思わないでもありませんが、古代の活田長峡国の範囲が地形的にそんな感じとを言われたら「そんなものかもしれない」ぐらいにさせて頂きます。


ちょっと難解なのは長峡の方です。会下山人氏は

    此半円形の地の中へ六甲山脈摩耶山系が一つ熊内の所へ長い尾を曳いているのを長狭といったので、稚日女尊即ち生田神は此長狭に鎮座ましました、熊内の上の円山本名砂山が生田神の最初の鎮座地で、後世に或る事情の為現今の所へ遷座されたのである
「峡」とは谷間でしょうから、現在のフラワーロード、旧生田川のことを指すんだと思います。現在であれば新神戸駅の裏手の山が円山(= 砂山 = 砂子山)になり、そこに稚日女尊が祭られたとなっています。この引用部分でも会下山人氏は「長狭」と表記していますが一方で

北長狭通、長峡の誤りがいつまででも訂正の出願人がない為めに、馬鹿気た名称を襲踏しているのだ、折角古名を伝えん為めに命じておきながら誤った儘で末代まで之を伝うることは心外千万である、何か条令でもあれば正誤の申込をしたいものである、明治七年の六月に、北野町生田宮町を一丁目に大手町の一部分を二丁目に浜の町大手町を三丁目に、浜の町の一部と札場町松屋町の一部を四丁目に松屋町西の町中の町花隈町の一部を五丁目に、城下町東本町市場町を六丁目に、市場町の一部と八幡町とを七丁目としたのである、北長狭はあっても南長狭は鉄道の敷地内になって仕舞っている、いつその事正しく長峡通として置けばよいのに、キタナガハサミドホリなどと大に田舎人を困らせている。

北長狭通は現在も健在なんですが地域を地図で示せば、

20160403143759

恥ずかしながら私も正確には知らなかったのですが、三宮から元町の西端まで続く、JR北側にへばりつくように広がる細長い町です。これが古地名の長峡と関係しているかと言われると???です。たとえば中尾を会下山人氏は、

中尾、これは町名ではないが昔は一村の名であった、中尾は長狭の転じたもので、所謂生田長峡国の伝えである

これも現在も中尾町として存在し、

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中尾が「長狭の転じたもの」としていますが、長狭は「ながさ」と読みますから「なかお」に転じる可能性はありますが、長峡は・・・なんと読むのかな? 「峡」の読みをウィクショナリーで確認すると、

音読み

  • 呉音 : ギョウ(ゲフ)(表外)
  • 漢音 : コウ(カフ)(表外)
  • 慣用音 : キョウ(ケフ)
訓読み

なんとなく長峡は美称であって、地元では「ながさ」と呼び当て字は「長狭」も使っていた可能性はある気もします。峡が表す地形は狭くなっているところであり、そういう地形が長く続いているので長峡と呼んでも自然なのですが、同時に長くて狭い地形も指すからです。ちなみに北長狭通が古代の長峡に因む意図があったとしても、町の形からして長狭の方が合ってる気がしまい。素直に見て横にむやみに細長い町ですからねぇ。


活田長峡国想像

円山に稚日女尊が鎮座していたってことは、円山を神に見立てて崇拝する住民が一つの部族を形成していた可能性はあります。ここで古代の国とは開墾地の側面がありますが、条件としてはあんまり良くなかった気がしないでもありません。見ようによっては旧生田川の谷間を開墾地にしたと言えなくもありませんが、この旧生田川も暴れ川です。有名なもので言えば阪神大風水害の時に大きな被害をもたらしています。つうか神戸の河川は当たり前ですが六甲山を源流にするのですが、必然的に短くて急な川になります。普段は殆ど水量がなくて、一雨降ればドカンって感じです。近年でも都賀川の水害が有名です。

そんな川の近くを開墾しても大雨が降れば開墾地はオジャンてな感じでしょうか。円山に稚日女尊を祀っているのは、やはりどうしようもない旧生田川をなんとか鎮めてくれの願いの表れかもしれません。ですから開墾地で稲作もやっていたでしょうが、もう少し高台で畑作も盛んだった気がします。たとえば熊内町ですがwikipediaより、

この一帯は斜面で水の便が悪く、畑作が盛んで、ここに産した「熊内大根」は風味がよく重宝がられたという

畑作は稲作より生産性において劣るのですが、畑作をあえてやっていたのは稲作が常に水害のリスクにさらされていたとも見えなくもありません。もう一つ別の側面もあります。生田の森のムックを前にやりましたが、古代の生田の森は広大で旧生田川の西側にデンと広がっていたとしても良さそうです。それと上に提示した活田長峡国由来の地名の地図のうち、原田は森でした。ここには初期の関西学院がありましたが、今でもそこにある美術館を原田の森美術館といいます。

つまり旧生田川の西側に生田の森が広がっており、東側には原田の森が広がっていた可能性は十分あるだろうです。それだけの規模の森があれば、採取も可能ですし狩猟も可能であったかもしれません。もちろん浜では漁業はあったと思います。それでも狭隘の地であるのは間違いありませんから、国と言っても数百人も住んでいたのでしょうか。数百人でも・・・ちょっと多すぎるかなぁ。人口に関してはヒントはあります。会下山人氏より、

大同元年生田の神に神戸四十四戸を封充されたことが地名となったのである

大同元年とは806年ですが、この時の神戸の規模程度を神功皇后神話当時の活田長峡国の人口と強引に仮定します。この時の「戸」は家1軒の意味とは違います。律令制度の租税単位である「戸」が44個分の意味になります。高島正憲氏の日本古代における農業生産と経済成長:耕地面積,土地生産性,農業生産量の数量的分析に、

当時の農民戸数については,当時の1戸あたりの人口は,鎌田(1984)で推計された1郷あたりの良民(農民)人口1,052人に対して,1郷あたり50戸の規程から除して平均21人と考える

21人(21.03人)の構成は前に推測しましたが、

  1. 男性が10人弱(9.57人)、女性が11人強(11.47人)
  2. 6歳以上(班田支給年齢)が17.96人
  3. 戸あたりの支給田が2.93町
計算根拠を書くと長くなるので端折りますが、現在の石換算で17.31石の収穫が見込まれます。そうなると生田神社の神戸の規模はその44倍ですから、
人口 925.32人 男性421.08人
女性504.68人
口分田 128.92町
米収穫 761.64石
1000人弱ぐらいはいたことになります。大同元年(806年)と神功皇后の時代とは500年ぐらい間がありますが、これなら活田長峡国は数百人はいたと考える方が妥当そうです。