新小児科医のつぶやき

2017-02-09 明智光秀ムック4

光秀の越前時代については「遊行三十一祖 京畿御修行記」から称念寺門前に10年間住んでいたのだけはわかりますが、その次に記録に現れるのは永禄六年諸役人付の足軽衆末席になります。この間がどうなっていたのかは推測するしかないのですが、JSJ様の指摘を参考に再構築してみます。


称念寺門前の10年間

とにかく10年間は長いのがまず問題です。称念寺の寺伝には寺子屋をやっていたとなっていますが、時代的に寺子屋なんて成立するかどうかは正直なところ疑問です。歴史小説や時代ドラマでは兵法指南としていますが、これも時代的にどうかと思うのと、やるのだったら顧客である武士が多い一乗谷でやるべきじゃないかってところです。ただ寺子屋や兵法指南説を否定してしまうと光秀が食べる手段がなくなってしまいます。前回は光秀の器量を称念寺住職が買って援助した説を立てましたが、それでも10年間は余りに長いのが実感です。

それでも光秀が称念寺の援助を受けていたのは「遊行三十一祖 京畿御修行記」から明らかなんですが、もっとストレートに考えるべきかもしれません。称念寺だって10年間も居候させるのは長すぎますから、光秀が時宗の僧侶になったとしてしまえば話の通りが良くなります。食べるために僧侶になるのは、この時代ならありふれた処世法です。具体的には、

  1. 時宗僧は遊行しますから、称念寺を根拠地に各地の時宗寺院を利用しながら全国各地を見て回れた(光秀の見識は広かったとするのが定説)
  2. ある時期まで光秀は本気で僧侶になるつもりだった(だから10年)
  3. 礼法や古典教養は僧侶時代に身につけたものもあったはず(寺は当時の学習機関の側面もあり)

称念寺に流れ着く以前の出自になんの記録もありませんが、美濃出身の武家だったのは肯定しても良い気はします。


朝倉家及び義昭との関係

光秀が朝倉家家臣であった記録は綿考輯録(細川家記)にもありますが、細川家記の光秀に関する記載のモトダネの少なからぬ部分は明智軍記からの転載ともされています。ほいじゃ明智軍記が信用できるかといえば、怪しいところがテンコモリあり、つまりは不明ってところです。実は光秀が朝倉家と言うステップがあるのを前提にすると、義昭の足軽衆になった理由の説明が非常に煩雑になります。逆に言えば無かった方が説明がスッキリする部分が多々あります。

永禄の変後に義昭は六角・浅井・斎藤・織田の四氏連合による上洛を企画しています。これは結局挫折し永禄9年に金ヶ崎に転がり込むのですが、その後も上洛企画の実現のために奔走を続けています。義昭が頼りたい本命は謙信だったようですが、謙信も対武田戦、対北条戦で手いっぱいで実現していません。一方で信長は美濃の稲葉山城をを永禄10年に手に入れ勢力を増大させています。義昭と信長の関係は永禄8年から9年の企画が挫折後も断続的に続いていたと見るのが自然です。そりゃ企画が挫折したのは信長のためではないですから、義昭もわざわざ敵に回す必要はありません。

この信長外交を担当していたのが藤孝、和田惟政、大草公広などとされていますが、義昭が書状を送る時に常にこのクラスが小牧山なり岐阜に行っていたとは思えません。このクラスが使者に立つのは、それなりに重大な外交上の問題が生じた時とする方が自然です。とくに金ヶ崎時代の前半は、書状を送るにしても時候の挨拶プラスアルファ的な軽めのものも少なくなかったと想像されます。その程度の書状であれば、もっと軽格の使者が立てられたと見たいところです。

そういう使者として時宗僧であった光秀が選ばれたんじゃなかろうかです。この辺は美濃出身である点も選ばれた理由であったかもしれません。ただなんですが腐っても次期将軍候補の使者ですから、名目上の身分を与えたと想像したいところで、それが足軽衆であったと。この辺の推測をもう少し広げれば、

  1. 書状を義昭が書く
  2. 書状の趣旨を藤孝に説明して信長に送るよう命じる
  3. 藤孝が光秀に趣旨を伝える
  4. 光秀が信長に持っていく

義昭の使者ですから足軽衆の軽格であっても引見する可能性は十分にあり、その時に書状の内容についての質問や、義昭の近況などを信長が尋ねていても不思議ないってところです。当初は単なる臨時雇いぐらいであったかもしれませんが、使者として使えば有用であることがわかり、書状の内容がかなり重めのものまで光秀に託すようになったぐらいを想像します。この辺で藤孝が光秀の才能を見出したぐらいのストーリーです。信長もまたそうであったとしても不思議ありません。外交では使者がどれだけ見聞できるかが大きなポイントになるからです。


永禄六年諸役人付

永禄六年諸役人付が義昭により作成された時期の推測には幅はありますが、私は金ヶ崎から岐阜に付いてくるメンバーの整理の意味もあった気がします。上級職の奉公衆はほぼ全部来るにしても、足軽衆以下は臨時雇いが多かったぐらいの想像です。その時に光秀は正式に足軽衆として武家に復帰する決断をした可能性はあります。元が武家なら最初からその気であったかもしれませんが、岐阜に付いていくことで名目上の足軽衆から、公式の足軽衆になったぐらいです。

この辺は藤孝の推挙もあったかもしれませんが、おそらく義昭からすれば顔さえロクロク見たことがない程度の存在で、付いてくるというのなら名簿に書き加えさせたぐらいの存在ぐらいだったかもしれません。その辺が永禄六年諸役人付に「明智」とだけしか書かれなかった原因の気がします。まあ、想像を広げれば時宗僧としての光秀は「○阿弥」であった可能性が高く、名簿に書くときに「誰だっけ」になり、だれかが「たしか元は武家で明智と言っていたはず」ぐらいはあるかもしれません。


信長と光秀

永禄六年諸役人付の時点では義昭の足軽衆ですが、信長公記より

六条合戦の事永禄十二己巳正月四日三好三人衆並に斎藤右兵衛大輔龍興、長井隼人等、南方の諸牢人を相催し、先懸の大将、薬師寺九郎左衛門、公方様六条に御座侯を取詰め、門前を焼き払ひ、既に寺中へ乗り入るべきの行なり。爾処、六条に楯籠る御人数、細川典厩、織田左近、野村越中、赤座七郎右衛門、赤座助六、津田左馬丞、渡辺勝左衛門、坂井与右衛門、明智十兵衛、森弥五八、内藤備中、山県源内、宇野弥七。

これは永禄12年に三好側からの反撃を受けた六条合戦の様子を書いたもので、ここに出てくる光秀が信長公記の初出になります。義昭が岐阜に移ったのが永禄11年7月、上洛戦が同9月ですから、六条合戦は義昭が上洛してから4ヶ月後に起こった事になります。太田牛一は織田方(幕臣も含んでいるはず)の大将を列挙していますが、この中に光秀が入っています。そうであればまさか光秀は足軽衆ではないはずです。小さくとも一手の兵を率いる大将ぐらいに昇進していると見るのが妥当です。そうであれば光秀が信長に仕えたのは、義昭が岐阜に着いてかなり早い時期であったとするのが自然です。

細川家記では光秀は信長から5000貫与えられたとしていますが、5000貫を無理やり石数に換算すれば1万石ぐらいになり200人程度の部下を持っていた可能性はあります。もっと少なくて100人以下だったかもしれませんが、下級武士の足軽衆クラスから、上級武士の士官になっていたと見て良さそうです。いつ信長が光秀を仕官させたかの信憑性の高い記録はないと思いますが、永禄11年7月時点では義昭の足軽衆であったはずですから、大抜擢に近い感じもします。

信長の能力主義は徹底していたそうですから、それぐらいはやっても不思議ないのですが、六条合戦の時期で光秀の軍事的才能を認めていたかどうかはチト疑問です。光秀が軍事的才能を示す機会としては六角攻めがありますが、それよりは他の才能に着目して信長は光秀を抜擢したとした方が良い気がします。光秀が時宗僧であり、義昭の使者の役割を担っていたとするのは仮説に過ぎませんが、この仮説が当たっていたら、光秀の外交能力を信長は買い、京都外交の責任者として抜擢したとしたいところです。

京都外交のための外交官としての抜擢なら、細川家記の5000貫は説得力が出てきます。いくら才能があっても、格が低ければ京都外交は難しくなります。信長の判断として5000貫ぐらいの重みを付ける必要があると判断してもおかしくないところです。重臣クラスではないにしろ、中堅の有力家臣ぐらいの位置づけでしょうか。

それと光秀は信長に仕えた後もしばらくは義昭との両属状態であったとするのが定説です。これも本当はどうであったかを確認できる1級資料が見当たらないのですが、信長が光秀を中堅士官クラスにしたのなら、将軍家も足軽衆のままではバランスが悪いの判断ぐらいはまず出てきそうなものです。さらに光秀が織田家の京都外交担当官になれば、将軍家といっても信長の武力・財力に完全におんぶに抱っこ状態ですから、信長とのパイプとして光秀の存在が大きくなり、将軍家としても光秀の格を上げてぐらいは考えられます。

そりゃ、光秀が足軽衆のままでは、織田家の代表として義昭を訪れてもまともに口さえ利けないでしょうからねぇ。

JSJJSJ 2017/02/09 22:20 想像の域を出ないとはいえ、私は光秀=時衆説は推しだと思っています。
時宗に関わるキーワードを探すと、陣僧とか同朋衆とか、武家権力の近くで活動していた様子が窺われるように思うのです。
しかも時衆自体が廻国遊行しているうえ、当時は京からの疎開者によって日本各地に小京都が出現していた時代です。
光秀が称念寺で都人と交際するための教養を磨いたと推測しても許されると思います。

YosyanYosyan 2017/02/10 08:02 JSJ様

室町幕府と時宗の関係もたしか義持の時代に御教書を出して保護していた関係になっています。その関係もあるかもしれませんが、当時の歴代時宗教主には武家出身が多くなっています。これは教主だけではなく上級職もそうであったとするのが妥当で、光秀が時宗僧であったとしても下っ端ではなく上級職待遇であった可能性もあります。

金ヶ崎、いや近江時代からそうだったかもしれませんが義昭が時宗教団に協力を要請しても不思議なく、その協力僧の一人が光秀であったとしても許される想像かと思います。ほいでも光秀が参加したのは金ヶ崎時代になってからだと思います。近江時代はさすがに永禄の変からの時間と越前からの距離がありますからね。

 >陣僧とか同朋衆とか、武家権力の近くで活動していた様子が窺われる

たぶん時宗は使いやすかったんじゃないかと推測します。延暦寺や禅宗は陣僧とか同朋衆に気軽に使いにくそうな感じがしますし、本願寺となると武家にとっては敵対勢力になります。時宗はこれに対して権力欲を表に出すことの少なそうな教団のうえ、遊行によって見識も広いので使いやすいってところでしょうか。

光秀が越前10年間の間に何度か遊行(廻国)をしたとして、廻国先で領主に招かれる事は確実にあったと思われます。出来る領主ほど他国の情報を常に欲しがり、時宗僧は情報源として貴重として扱われていたはずです。領主は時宗僧から情報を得ると同時に、時宗僧も領主から情報を得られます。光秀が諸国の事情に通じていたとするのが通説ですが、これも時宗僧なら説明がつきます。

YosyanYosyan 2017/02/11 10:05 光秀の越前10年が時宗僧であったとして、義昭とのつながりとして

 1.将軍家は時宗を保護したいた経緯がある
 2.金ヶ崎でも義昭は使僧を時宗に求めた
 3.称念寺が光秀を推挙した

この時にエントリーでは足軽衆格としましたが、時宗僧ですから同朋衆格であったとする方が自然そうです。光秀が担当したのは織田家で、織田家担当であった藤孝とも、使い先の信長ともここで接点ができます。足軽衆になったのは、岐阜に義昭が移る頃で、僧侶から武士に戻る決断をしたので、同朋衆から横滑り、気持ち上ぐらいの足軽衆になったぐらいでFAとします。

JSJJSJ 2017/02/11 14:13 推測に推測を重ねるのはちと気が引けるところもありますが、
太田牛一の「(朝倉家では)一僕の身上」の情報源は恐らく光秀自身でしょう。
他家の、しかも大したつきあいもない家の軽輩のことなど知るよしもなく、逆に言えば嘘を言ってもバレる心配はまずないわけです。
可能性としては朝倉家の同朋衆→義昭の同朋衆という経歴もありえますが、
いずれにしても「一僕の身上」と自己紹介したときに光秀が隠したかったのは時宗僧あるいは同朋衆という過去ではなかったでしょうか。
その理由として、織田譜代衆のなかに時宗僧あるいは同朋衆に対する差別感情があったのではないかと想像します。
状況証拠は前田利家による同朋衆斬殺です。
更に想像を膨らませるならば、羽柴秀吉が家中で軽んじられたのも、光明寺で過ごした時期があるということも理由の一つになっていたのではないでしょうか。
こちらは同じ尾張国内のこととて事実であれば隠しようがないわけです。

以上、一笑のたねまで。

YosyanYosyan 2017/02/11 14:53 JSJ様

基本で言えば当時は武家が出家するのも、出家していた武家が還俗すること自体は普遍的なお話です。義元もそうですし、義昭だってそうです。ただ出家すると言っても僧侶になれば皆同じって訳ではなく、どんな階級の僧侶であるかどうかは問われた可能性は十分にあります。光秀時宗僧説自体が完全な仮説なので、時宗僧時代の光秀がどれほどの身分であったかは不明ですし、これからも資料が出てくると思いにくいところですが、光秀は僧侶上がりであったが僧侶としても他人に誇れるほどの階級にはいなかった可能性があります。だからこそ同朋衆に推挙してくれた称念寺に感謝していたぐらいの関係になります。

もうひとつは御指摘の宗派の関係です。なんらかの理由で時宗僧あがりは出自として低く見られる傾向があったのかもしれません。さらに時宗内でも階級が低いのがミックスすれば、さらに低く見られるぐらいでしょうか。ここら辺も裏付けがないのですが、秀吉の方が織田家では先輩であり、その秀吉が時宗がらみで陰口(いや面と向かって)を叩かれているのを知って、光秀が時宗僧時代を伏せまくったのは十分にありえます。まあ、織田家なら足軽上がりであっても、他家に較べると遥かに妬みの少ない環境であっただろうぐらいは想像しても良さそうな気がします。少なくとも織田家仕官時には、足軽と言っても将軍家の足軽衆ですから、そこら辺のタダの足軽とはチト違うぐらいは言えそうな気がします。

YosyanYosyan 2017/02/11 16:04 太田牛一の「一僕の身上」の記録の出どころですが、光秀自身であるのは同意です。直接聞いたかどうかについては疑問ですが、光秀が語ったものが回りまわって太田牛一の耳に入ったぐらいでしょうか。それと光秀が時宗僧であったとしたら、これを伏せようとしたのも間違いありません。つうか、ここで立てた仮説以外に光秀が時宗僧であった記録などどこにもありません。そう見れば完璧に伏せられています。

こんなもの想像の上の推測にしか過ぎませんが、光秀が織田家で表明している履歴は義昭の足軽衆であったになると思います。ただ光秀は織田家仕官時には40歳を越えています。履歴として「ずっと」足軽衆であったとするのも宜しくない判断もあったと思います。そうなると足軽衆の前の履歴が必要になり、軽格ではあったが朝倉家の家臣であったとした可能性ぐらいはあるかもしれません。将軍家に仕官するにあたって足軽衆になったぐらいでしょうか。

問題は本当に朝倉家臣時代があったかどうかですが、あってもなくても良いぐらいの価値しかなかったのだけは確かそうです。だから武士ではなく歌才を買われての同朋衆であったなんて想像も許されるとは思います。これ以上は不明のピース部分が長すぎて、どうにでも色を塗れてしまう部分であり、織田家時代であってもさほどの問題にならない部分であったぐらいしか言いようがなさそうな気がします。

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