新小児科医のつぶやき

2017-02-12 明智光秀ムック7

本能寺は一応やったので、明智氏のルーツをたどってみます。


通説の明智氏のルーツ

明智氏は土岐氏の一族となっていますが、具体的には美濃守護の土岐頼貞(1271〜1339)の九男とされる九郎頼基の子の頼重から始まるとなっており、諸説でもこの辺は一致しています。以後は

    頼重 − 頼篤 − 国篤 − 頼秋 − 頼秀

官位として

    頼重:従五位下民部少輔
    頼篤:記載なし(氏王丸、十郎とのみ)
    国篤:従五位下刑部少輔
    頼秋:従五位下式部少輔・民部大輔

どうも頼篤は早世し、国篤が養子に迎えられた感じもしますが、頼秀ぐらいまでは「どうも」正しそうというか、それ以上は調べようがないぐらいでしょうか。ほいでもって頼秋について武鑑には

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つうか頼重の時に既に「住可児郡明智」となっており、明智に住んでいるから「号土岐明智」となっています。ただなんですが、可児郡の明智城には別の系譜が残されています。


土岐氏との絡みを見直す

wikipediaより、

美濃国緒旧記』には「明智城は可児郡明智庄長山城のことである。明智城は土岐美濃守光衡により五代目にあたる頼清(民部大輔頼宗)の次男、明智次郎頼兼が康永元年三月、美濃国可児郡明智庄長山に初めて明智城を築城し、光秀の代まで居城した」とあり

土岐美濃守光衡(1159〜1206)は実質的な土岐氏の祖ともされ、鎌倉御家人として頼朝の富士の巻狩りに参加したとされる人物です。この光衡からの系図を明智氏との関連で書き起こしてみると、

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青字が土岐家の当主なのですが、通説と美濃国緒旧記では先祖の系列が異なります。ほいじゃ明智次郎頼兼が誰かになりますが、(続・明智光秀の出自と系譜)が良く研究されてます、

 明智氏が南北朝期に起ったことは、『太平記』の明智氏関係記事からも分かる。

 同書の巻第二十五「住吉合戦事」に土岐周済房(土岐六郎頼清の弟)・明智兵庫助が楠正行と合戦したことが初見で、それ以降は巻二十六「四条縄手合戦事」に土岐周済房・同明智三郎〔三はママ〕、巻二十七「御所囲事」に土岐刑部大輔頼康・同明智次郎頼兼・同新蔵人頼雄、巻三十四「新将軍南方進発事」(延文四年〔1359〕)に土岐大膳大夫入道善忠〔頼康〕以下の土岐一族をあげ、同明智下野入道の名が見える。ここに見える明智氏は、「兵庫助、三郎〔三はママ〕、次郎頼兼、下野入道」と表記は変わっても、みな同人で頼兼のことと考えられる。しかも、次郎頼兼は、巻二十七の土岐刑部大輔頼康・同明智次郎頼兼・同新蔵人頼雄という並び方から考えて、土岐惣領頼康・頼雄の兄弟に位置づけられることも分かる。明智氏は、土岐頼康の弟・次郎頼兼から始まったということである。

 一方、土岐頼貞の子で六郎頼清の弟・九郎頼基については、同書巻三十二「山名右衛門佐為敵事」に長山遠江守と見える武士と推され、頼基のときには明智氏が名乗られなかったことになる。頼基が明智氏の祖とされるのは、甥の次郎頼兼を猶子(女婿)としてからであろう。長山頼基は、甥の土岐頼康(兄・土岐頼清の子)が侍所頭人のとき、所司代を務めている。長山氏については、土岐系図の末尾に「長山 号存孝〔頼貞のこと〕子孫非入一族云々但未系図見入一族之事」と記載される。

太平記に何度も登場していますから、頼清の子であり頼康の弟の明智次郎頼兼は時代のそれなりの有名人として実在していたのがまず確認できます。また土岐頼基も実在していますが、注目すべきは明智でも土岐でもなく長山氏を名乗っていたらしい事も確認できます。土岐頼基が長山氏を名乗っていた理由として考えられるのは、与えられた知行地が長山であったとするのが一番素直でしょう。つまりは美濃国可児郡明智庄長山の長山を姓として名乗ったってことです。では明智の姓の出どころになりますが、美濃国可児郡明智庄長山の明智とするのが自然そうです。

そう考えて良さそうな理由として頼基は九男であり、頼兼は次男です。九男の頼基には明智庄のうち長山が与えられ、次男の頼兼にはその他の明智庄が与えられたぐらいがありそうな気がします。(続・明智光秀の出自と系譜)では、

頼兼は長山頼基の猶子・女婿になって、初めて明智頼重と名乗り、長山頼基の子の頼隆(頼澄に同じで、澄は隆の誤記。下野守)・頼助(美濃守)を猶子にしたが、この事情で彼ら兄弟も明智を名乗った。

これを結論とされていますが、姓を考えると不可解で、むしろ逆じゃないかと思います。だって姓として残ったのが長山ではなく明智ですから、猶子ならともかく女婿はどうだってところです。単純に考えれば長山の家を頼兼は何らかの理由で吸収しちゃったんじゃないかと思えますし、そう考える方が無理がありません。頼兼の明智と頼基の長山氏との関係をそう考えた時に問題として残るのは通説の系図がなぜに頼基(の子の頼重)を先祖に置いているかになります。


系統の交替の可能性は?

明智頼兼が長山氏を吸収したんじゃないかも仮説を立てましたが、別に長山氏を皆殺しにしての吸収でなかったはずで、長山氏の子孫も明智の親族として続いていたとまず考えます。太平記の時代から光秀の時代までは長いですから、途中で頼兼流の子孫が絶えた、ないし当主に相応しい人物がいなくなった、なにか問題を起こして当主につけない事情が生じた可能性はあります。そのために頼基流(長山氏系)が当主として復活したってのがあっても良さそうなところです。頼兼流の系図なら頼兼を始祖とするでしょうが、頼基流になれば頼基ないし頼重を始祖に持ってくるってところです。

そんな系統の変化が本当に起こったか、起こったならいつかは不明ですが通説の系図では

    頼重 − 頼篤 − 国篤 − 頼秋 − 頼秀 − 頼広 − 光継 − 光綱 − 光秀

光秀の2代前から片諱が「頼」から「光」に代わっています。この辺がとりあえず怪しいというところです。明智氏研究も諸説があって取捨選択が厄介なのですが、一説によると明智氏は可児郡明智庄を領有していなかった、もしくはかなり早い時期に失っていたとするものもあります。この辺の研究の詳細はわからないんですが、1級資料としてこんなものがあります。

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ここには

    九月十日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到

こう書かれていますが、なんの事かというとwikipediaより、

長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。そのため、鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど華やかな儀礼も行われた。

ちなみに義尚は長享3年3月26日に鈎の陣で病没しますが、つまりは義尚が六角征伐に近江に出陣した時の名簿ってところです。ほいでもってここには、

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四番衆として土岐明智兵庫助、同左馬助政宜の名前が記されています。年代的には光秀の祖父世代あたりじゃないかと推測されますが、わざわざ近江まで出陣しています。もしこの時点で明智氏が落魄しきっていたのなら参加は難しい気がしますから、可児郡明智庄でそれなりの勢力を保っていたとした方が良さそうな気がします。


ほんじゃ光秀は?

だいぶ飛躍させて頂きます。

光秀の越前時代は不遇であったとして良いかと思います。ここでポイントは朝倉氏が光秀を亡命貴族としてまったく扱った形跡がなさそうな点です。美濃明智氏は長享名簿の時点でも奉公衆の一員ですから、そんな明智の嫡子が亡命してきたら、もうちょっとマシな扱いをしそうなものです。言い換えれば朝倉氏から見て光秀はそういう待遇を行う必要が無い人物としていたと考えても良い気がします。

ほんじゃ光秀は明智氏と無関係かといえば微妙です。明智氏はどうも2系統あると上記し、光秀の祖父ぐらいから長山氏系が嫡流に戻った可能性を考察しましたが、これが戻ってなかったと考えたらどうなるかです。長山氏は明智頼兼の時代に明智氏に吸収されたらしいとしていますが、吸収された長山氏自体は続いていた可能性はあります。ただし良くて御一門、たぶん家来筋に組み込まれていたとするのが自然な気がします。光秀はそんな長山氏の流れを汲む人物なら話が通り始めます。

武家でも嫡子以外なら仏門に入る事があるのはよくある事です。美濃では誰かが仏門に入れば一族幸せなんて慣習があったとどこかに書いてありました。それ以前に明智氏の中の長山氏はどう考えても小さく、子どもが多ければ養いきれない状況ぐらいはあっても良いかもしれません。つまり光秀は美濃時代から既に仏門に入っていた可能性があります。美濃から越前に逃げたのは道三崩れが原因であったと見ていますが、この時に美濃明智氏は滅んだのも史実としてして良いかと思います。仏門であっても身の危険を感じた光秀は越前に逃亡したぐらいで、その程度の明智の縁者なら朝倉氏が相手にしなくともおかしいとは言えない気がします。

光秀が美濃時代から僧侶であったと仮定すると、光秀の謎の幾つかが説明可能になります。

  1. 道三崩れの時に嫡子で30歳ぐらいであったはずなのに記録に残っていない
  2. 信長に仕官していきなり発揮できた礼法や古典教養

光秀が仏門にいたのなら美濃時代の嫡子としての活動記録などありようもなく、一方で礼法や古典教養を身に付ける時間は十分にあります。つうか寺で腰を据えて勉強でもしていないと、美濃の明智の地で京都の貴顕紳士と渡り合える程の教養が身に付けられるとは思いにくいところがあります。美濃時代も時宗僧であったかどうかに「?」を付けたのもその点で、なんとなく他の宗派であった気がしています。

越前に流れ着いてから時宗僧で良さそうです。いや時宗僧でないともう一つの光秀の謎が解けません。謎とは非常に見聞が広かったとする通説です。見聞も伝聞を集めたレベルではなく、実地で会得したものだから伝説になったとする方が自然で、そういう実地見聞を行うのなら時宗僧はうってつけです。戦国期では旅の僧から諸国の情報を得るという手段はポピュラーで、光秀ほどの才能のあるものから聞いたら感心されたと想像します。情報は光秀からもたらすものもありますが、光秀も領主や有力家来筋と話をすることによって得られた知識も多かったと思います。

光秀ほどの才器であれば、時宗僧の中で頭角を現すのは自然の事です。称念寺住職と親しかった「らしい」も、タダの平僧侶を越えた教養が光秀にあったためで、当時の知識人が同じレベルで古典教養に基づいて話が出来るというだけで高い評価をされるのは良く聞く話の気がします。ここで永禄6年諸役人付の義昭の同朋衆を見てもらいます。

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すべて「○阿」になっており、時宗僧が占めていたことがわかります。ちなみに義輝時代も同様です。同朋衆は御末衆から食膳を受け取り、御伴衆が将軍に進める役割となっていますが、戦国期では違う役割も割り振られていたと想像します。つまりは使僧の役割と、情報収集の役割です。時宗僧が廻国するのに誰も奇異な目を向けない点の活用です。同朋衆の全員が使僧・諜報員であったとまで言いませんが、そういう役割で雇われていた時宗僧もいたはずだぐらいです。

戦国期でなくともそうですが、使者の役割は重要です。書状だけ運ぶ子どもの使いでは話になりません。書状の内容に付け加えること、さらに相手からの質問、書状の返答に付け加えられること、返信を持って帰っても聞かれるのは、書状を受け取った相手がどんな反応であったかを根掘り葉折り聞かれるわけです。いや書状を渡した相手自体の人物評価も当然のように聞かれます。もちろん途中の見聞も重要です。そんな使者の役割を的確に行える人材を常に探していたとしても不思議ありません。

光秀が短期間でも朝倉家にいたのか、それともダイレクトに義昭の同朋衆になったのかは不明ですが、朝倉家の同朋衆のステップがあると、朝倉家から義昭へ移すステップの考察が必要ですから、私はダイレクトに義昭の同朋衆になったと考えています。義昭の求めに応じて称念寺住職が光秀を同朋衆に推挙したぐらいです。


金ヶ崎から岐阜に移る時に光秀は同朋衆でなく足軽衆になっていますが、これは光秀の意向だったかもしれません。義昭の同朋衆として使僧をやっているうちに、武家への復帰を希望したぐらいです。僧としての同朋衆から、武家としての横滑りなら御末衆か足軽衆ですが、気持ち昇進の足軽衆にしたぐらいでしょうか。この辺は信長の意向も反映されていた可能性はあります。信長も光秀の能力を欲しましたが、義昭から移籍させるのに前職が同朋衆じゃ拙いだろうぐらいの配慮です。将軍家の足軽衆は普通の大名の足軽大将に匹敵するとかぐらいの理由付けをしてです。光秀が時宗僧であり同朋衆であった証拠は一つの残っていませんが、そう考えると光秀の謎が説明できる部分が多々あるのは間違いありません。

明智氏の系図の謎もその一つで、光秀がとくに織田家に来てからは土岐明智の一族であるのを強調したのは史実として良いかと思っています。光秀には名乗る資格はあったでしょうが、もう一つ工夫をしたんじゃないかと思ってもいます。本来の明智氏は頼兼流ですが道三崩れで滅んでいます。そこで明智氏を長山氏流で復活させようとしたぐらいです。長山氏流なら始祖は頼基になり明智を名乗った初代は頼重としたってところです。これはたぶ未満の推測ですが、長山氏はいつからか「光」を片諱にしており、これを正統化するために親の代、祖父の代まで系図に手をいれたぐらいはありそうな気がします。

後は道三崩れで生き残った明智家の生き残りが光秀の下に集まっていますが、これは傍流で復活したとはいえ明智の名跡が復活しており、光秀が日の出の勢いで織田家で出世すればどうせ本家筋は滅亡している訳ですから、光秀を頼っても戦国期ですから差しさわりはなかったぐらいにさせて頂きます。

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