新小児科医のつぶやき

2017-02-17 明智光秀ムック9

進士氏を少しムックしてみます。


進士氏の起こり

これがはっきりしないのですがwikipediaより、

鎌倉時代には、吾妻鏡御家人として進士基度・進士光政・進士隆邦などが現れる。

鎌倉御家人として進士氏がいた事だけはわかります。

室町期には、番帳類に進士氏一族の名がみえ、幕府の奉公衆であったことがわかる。広島大学文学部に進士文書が所蔵されており、これらによると南北朝・室町期の進士氏は足利将軍ゆかりの地に所領を有していたことがわかる。将軍の食膳の調理を進士氏が世襲しているのは、室町時代に、庖丁道の一つ畠山流の由来、その仕立て方、庖丁式、食事作法など膳部一切を旗本進士次郎左衛門尉へ伝えたことにより進士流という料理の流派が起こる。その後、進士氏が供御職を世襲していく。

私は武家よりも料理の進士流を先に知っていましたが、どうも南北朝の荒波を乗り越えて将軍家の側近である奉公衆になったようです。「南北朝・室町期の進士氏は足利将軍ゆかりの地に所領を有していたことがわかる」これについては進士文書のオリジナルが見つからない(たぶんあっても読めない)ので、二つほど関係していそうなのがあったので見てもらいます。まずは越前の話を角川古語辞典から、

南北朝期から見える地名射水【いみず】郡のうち貞治6年9月15日の「足利儀詮袖判下文」によると,「越中国三田社地頭職事」と見え,当地の地頭職が義詮より進士太郎左衛門尉為行に,為行の旧領加賀国(石川県)比楽村の替所として宛行われている(前田家文書/大日料6−28)そして応安4年5月3日の守護使某打渡状で,当地の地頭職のうち半分が進士太郎左衛門入道信性の代官に打ち渡され,同20日の同某打渡状では,当地地頭職の惣領庶子分のうち半分が信性の代官源阿に打ち渡されている(猪熊信男文書/大日料6−34)さらに永和元年5月6日の幕府執事奉書では,藤原忠光の言上を容れた幕府が守護斯波義将に対し,当地を進士太郎左衛門尉自成に安堵するよう命じている(徴古雑抄/県史中)これにより義将は,同年12月2日・12日の両度にわたる「守護代斯波義種遵行状」をもって当地地頭職のうち,大平中務入道・草部縫殿允の知行分を除く4分の1を自成の知行として安堵しているしかし,この後自成より訴えがあったため,義将は永和2年8月27日の書状で義種に対し,前年の沙汰では除かれていた知行分の自成への打ち渡しを命じている(猪熊信男文書/県史中・越中国田神社文書)現在の氷見【ひみ】士三田窪あたりに比定される

貞治6年(1367)から永和2年(1376)にかけての出来事を記したもののようで、進士太郎左衛門尉為行、進士太郎左衛門入道信性、進士太郎左衛門尉自成の3人が確認できます。次は三河のもので同じく角川古語辞典より、

南北朝期〜室町期に見える郷名三河国額田【ぬかた】郡のうち乙川は大矢川ともいうので,この流域の平地部にあった郷と考えられる永和4年10月23日の高階光春打渡状に「三河国額田郡内大矢原郷〈除別給〉事」とあり(広島大学所蔵猪熊文書),施行状の旨に任せて進士太郎左衛門入道代に打渡されている(進士文書/広島大学所蔵猪熊文書)進士氏は室町幕府の五番奉公衆当郷はのち進士氏の手から離れたが,宝徳3年12月26日管領畠山持国下知状により,進士国行に返付された(小川文書/岡崎市史6)乙川流域の現在の岡崎市大平町・美合町・岡町辺りに比定される

永和4年(1378)と宝徳3年(1451)のもので進士太郎左衛門入道代の名がみえるのと、進士氏は「室町幕府の五番奉公衆」と書かれています。越中と三河では離れていますが、出てくる進士の人間がすべて太郎左衛門を名乗っている点から、これは奉公衆である進士氏の当主が太郎左衛門(尉)を惣領名にしていたぐらいが推測できます。また年代的に近いので越中の太郎左衛門尉自成と三河の太郎左衛門入道代は同一人物の可能性が高そうです。ちなみに奉公衆はwikipediaより、

成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、応仁の乱などでは共同して行動している。

たぶん進士氏は有力御家人であったと推測されます。世襲に関しては

長享名簿(義尚時代) 永禄名簿(義輝時代)

義尚時代には進士九郎左衛門尉貞利、義輝時代には進士知法師が五番衆にいるのが確認できます。ちなみに永禄名簿(義輝時代)には申次衆に進士美濃守晴舎、外様結衆以下に進士源三郎藤延もいるのが確認できます。永和4年(1378)も五番衆ですから、途中は不明ですが五番衆として進士氏が世襲されていた可能性は十分にあります。


美濃の進士氏のルーツ

宝賀寿男氏の加賀国江沼郡起源の山岸氏について─併せて、『美濃国諸家系譜』の紹介─より、

 さて、美濃の山岸氏の初代は、加賀から美濃入りした山岸新左衛門とされるが、これは『美濃国諸家系譜』にも記事がある。新左衛門は、名は光義または光頼といい、清和源氏の出で、本国は加賀国江沼郡の住人であり、暦応二年(1339)十月に一族とともに初めて美濃国に入った。このとき、脇屋義助に随い、山岸は、一族の林、富樫、小林、井上、森本などの林氏庶流とともに、越前から美濃へ落居している(「藤原姓林氏 正系図」)。その二年前に、再起した新田義貞・脇屋義助兄弟は越前で活動し斯波高経と戦っており、一時はこの地域でかなりの勢威を誇ったが、『太平記』には、このとき敷地・山岸・上木が義貞兄弟とともに活動した記事が見えている。山岸氏の武士が名前を表示されるのは、「山岸新左衛門」だけであり、その実名は記されない。

ここには進士氏(山岸氏)が清和源氏の出であるとしていますが、宝賀氏の研究によると藤原氏も名乗っていた時期も多かったようです。年代を注意して欲しいのですが越中の記録では貞治6年(1367)に加賀の比楽村から越中に替地をもらったとなっていますが、比楽村が比楽島村の事であれば石川郡になり、江沼郡とは異なります。さらに加賀から美濃に移ったのは新田義貞に従って北朝方と戦い敗れたために「越前から美濃へ落居」となっています。どうも進士氏も南北朝期には2つに分かれていたようで、

  • 太郎左衛門尉系は幕府の御家人として存在(貞治6年は1367年)
  • 新左衛門系は南朝方として越前で戦い美濃に落去(歴応2年は1339年)

宝賀氏の研究をさらに続けます。

  新田義貞は越前藤島合戦で討死したのが暦応元年(1338)閏七月であり、その後に脇屋義助が新田一族や南朝に味方する諸氏とともに美濃入りして、本巣郡根尾に拠ったことは史実である。義貞討死以降にあって、山岸新左衛門がこれに同行ないし追いかけで移遷したことも自然である。地理的にも、美濃の根尾谷をさかのぼり、温見峠を越えれば越前国大野郡となるからである。

歴応元年に義貞が藤島で戦死した後に脇屋義助が敗兵を率いて美濃に流れ込み本巣郡根尾に根拠地を構えており、山岸氏もそれに従ったとしています。その後はどうなったかですが、

  山岸新左衛門の子孫は、その後も主に本巣郡根尾に居住して代々長峯城主(旧根尾村、現本巣市根尾長嶺)、ついで南方に遷って府内城主(旧谷汲村、現揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬)となり、嫡流は山岸のほか長江、進士とも家名を名乗り、あるいはそのいくつかを併用して史料に見える。庶流には根尾、長峯などの苗字が見える。

山岸家はその後も本巣郡根尾に住み着いたようです。宝賀氏の研究でも山岸氏は進士氏の一族ではありますが、進士よりも山岸を使う事が多かったようです。たぶん美濃の山岸氏は庶流と言うか、分家の進士氏であったと考えて良さそうです。


美濃の進士氏と明智氏

宝賀氏より、

  山岸新左衛門の子孫は、『美濃国諸家系譜』第三冊掲載の「根尾氏之事」及び「竹中家譜」に見える。これらでは、山岸新左衛門ないしその子・光明が別人の長山遠江守頼基と混同されて同人にされるが、これは明らかに誤りである。長山遠江守頼基は、土岐頼遠の末弟の土岐九郎頼基のことであり、『太平記』の巻三二に土岐の土岐の桔梗一揆のなかに見えて、南朝方の赤松氏範と戦ったことが記される。長山頼基は、一時期、山県郡に拠ったものの、子孫はのちに可児郡明智に遷り明智氏の祖となった。山岸新左衛門の子孫の山岸加賀守満頼が長山頼基の猶子になった可能性もないではないが、山岸氏は土岐一族ではないことに留意される。ただ、山岸氏と明智など土岐一族は代々縁組みを重ねたことは史実とみてよく、頼基の子の明智頼重の女婿に山岸越前守頼慶(山岸新左衛門の孫)がなっている。

宝賀氏は長山遠江守頼基(土岐頼貞の九男)との混同を明確に誤りとしていますが、どうもこの辺に綾がありそうな感触はあります。明智家の家祖は通説では長山遠江守頼基となっていますが、一方で明智の名が初めて出てくるのは土岐頼康の弟の明智次郎頼兼です。ここは馴染みの少ない名前が並んで混乱しやすいので土岐氏の系図を再掲します。

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長山遠江守頼基が長山の姓を名乗ったのは可児郡明智庄「長山」を領していたからであり、明智次郎頼兼が明智の姓を名乗ったのは可児郡「明智」庄長山の「明智庄」を領していたからと考えるのが自然です。もうすこし突っ込めばまず頼基が長山を領して長山氏を名乗り、次に頼兼が来て明智氏を名乗ったと見るのが順当でしょう。この2つの土岐支族の家が果たして並立していた時代があったかどうかも疑問ですが「どうも」合流して明智氏に一本化されたぐらいとしか言いようがありません。つうか頼基の長山氏がどうなったかがサッパリわからないってところです。わからないといえば次郎頼兼の子孫もはっきりしません。そりゃ明智系図では頼基系の当主が光秀まで続くわけです。

ある解釈では次郎頼兼が長山氏の婿養子ないし猶子となって系図にある頼重となったとしていますが、これも考えれば妙なお話で、二つの家が合わせって残っている苗字が明智なら、次郎頼兼の明智が残っているとするのが自然です。どうにも不可解なのですが、進士氏が微妙に絡んだお話の可能性はあります。進士氏(山岸氏)は美濃に土着後に土岐氏から厚遇を受けたようで宝賀氏より、

山岸新左衛門(生没が1295〜1379という)を初代として、その子は弥太郎光明(同生没が1319〜1396)といったとされる(「根尾氏之事」)。光明は、美濃守護の土岐弾正少弼頼遠の婿猶子となり、土岐氏連枝に准じて家名を外山家とも北山の豪家長江殿ともいったと同書に記される。

宝賀氏もこの記録を全面的には信用できないとしていますが、ここはシンプルに土岐家と関わりが深くなっていたぐらいにさせて頂きます。明智氏と進士氏の婚姻関係も宮城系図にある

ここまで凄まじいものであったかどうかは疑問ですが、それなりにあったと見ても良さそうです。でもってそれだけ明智氏と進士氏が婚姻関係を濃厚に結ぶほど近づいた理由が、長山氏と明智氏の合併の時の関与の可能性です。なんらかの理由で長山氏も明智氏も直系子孫が当主になれない事情が生じ、猶子なり、養子なり、女婿で進士氏の男性が当主になった可能性です。この人物が通常の系図で明智を初めて名乗ったとする頼基の子の頼重じゃなかろうかです。出身が進士氏ですから、結びつきを深めようとその後の明智の当主は務めたぐらいです。かなり怪しい推測ですが、そういう考え方も成立するぐらいです。


光秀はなぜ越前に

道三崩れの時になぜ光秀が越前に向かったのかが私の謎の一つです。以前は母が若狭武田氏であったから(若狭 → 越前ルート)と考えていましたが、小さくとも守護大名である若狭武田氏が果たして美濃の土豪の明智氏に嫁を出すのかの疑問が出され「それもそうだ」ぐらいにしか返答できませんでした。道三崩れの時に光秀が逃亡先に選びそうなのは、尾張にも明智氏の所領があったとされ、信長の正室である帰蝶は明智氏の血を引くとなってますからまず尾張の織田です。しかし光秀は尾張を選んでいません。

まあ逃げる途中の必然性にもよりますが、とりあえず光秀は進士氏が根拠地を構える本巣郡に落ちたんじゃなかろうかです。本巣郡に一旦逃げ込んだものの、そこも危ないと判断し山岸氏が美濃に来たのと逆ルートで越前に逃げたぐらいです。光秀の母が進士氏の出身の可能性もありますし、母でなくとも祖母とか、叔母とかで進士氏の係累はいたとする方が自然です。いやいた可能性があるんじゃないかと思って今日は調べてみました。結論はなんとも言えませんが、否定はできないぐらいです。

それとムックしてみて京都の進士氏と美濃の進士は同族でしょうが、南北朝期の初期に袂を分けた感触があります。まあ南北朝期も、室町期も長いですから修復はしたかもしれませんが、もともとが京都の進士氏が本家筋であり、美濃の進士氏はかなり末流みたいな感じです。戦国期に交流があったかどうかは・・・不明です。


進士氏の名前考

進士美濃守晴舎は永禄名簿で義輝の申次衆として記録され、その娘(小侍従)は義輝の側室になり、永禄の変の時に死んだのは史実です。ただ残念なことに晴舎の父が誰であったのか、子孫がどうであったのかがサッパリわかりません。永禄名簿に進士氏は申次衆の晴舎の他に外様結衆以下に源三郎藤延、五番衆に知法師がいますが晴舎と親子であったのか、兄弟であったのか、はたまた親族関係であったのかも諸説があるようです。小林説はともかく、通説では晴舎だけでなく藤延も知法師も以後の歴史に出てきませんから永禄の変に連なって死んだのではないかと見られていますし、その前提で私も考えてみます。なんちゅうか永禄の変後に進士氏の名は将軍側近から消滅するからです。

ここでちょっと考えたいのですが、永禄の変後に残る進士氏の名前としては光秀の家来に進士作左衛門貞連がいます。宝賀氏より、

譜代衆で、山崎の合戦後は光秀と共に勝竜寺城を出て最後まで光秀に従った七騎のうちの一人であり、後に細川家に仕え忠興嫡子の忠隆付きになった。関ヶ原後の忠隆廃嫡時にも忠隆に従い加賀まで行くが、後に前田家預かりの身となった。元和から寛文にかけて金沢藩の侍帳に載る同名の人物は当人もしくはその嫡系と思われるとされる。

本能寺の後も生き延び子孫を江戸期に伝えた人物ぐらいの理解で良いようですが、一応は晴舎の子となっています。点しか資料がないので判断が難しいというか、想像の翼が広がるのですが、ここで晴舎と言う名にちょっとひっかかります。晴舎の前に確認できる進士氏の人物としては長享名簿の進士九郎左衛門尉貞利がいます。長享名簿は永禄名簿の76年前のものになりますから、晴舎との関係はどうなんだってところです。

当時の諱とかの命名法は世襲によるものが多かったのは間違いありません。たとえば織田氏なら「信」の片諱が世襲ですし、江戸期の将軍家なら「家」が片諱です。これも例外が出ることもあって、江戸期の将軍家なら吉宗や慶喜がいたりしますし、家系の途中で中興の祖が出たりすると変わったりもあります。また臣下であるなら主君から何かの褒美で片諱を頂戴して以後子々孫々に伝えるなんて事もあります。そういう目で見ると南北朝期から室町初期の進士氏は諱に世襲はなさそうで、その代わりに太郎左衛門(尉)の名乗りが世襲であった気配があります。

ではでは長享名簿の九郎左衛門はどうなるんだになりますが、どこか途中で太郎左衛門から変わったぐらいしか言いようがありません。「九郎」っていうぐらいですから、考えられるシチュエーションは

  1. 嫡子であった太郎左衛門が嫡子を残さず死んだので、弟の九郎左衛門が家を継いだ
  2. 本家の太郎左衛門家が何かの事情で潰れ、分家の九郎左衛門家が本家となった

これぐらいがありえそうなところです。ここで76年の歳月があるとはいうものの九郎左衛門貞利と晴舎は直系の血縁関係があると見たいところです。ただ名前がかなり違います。「晴」と言う字に注目すれば、これは義晴から片諱をもらったと考えるのが妥当で、確認したら義晴から片諱を受けたとwikipediaに書いてありました。であれば元々は貞舎であった可能性が高そうです。作左衛門貞連の存在も合わせて考えると少なくとも長享年間からは進士氏では「貞」が片諱として世襲されていた可能性があります。

ほんじゃ源三郎藤延はどうなんだになりますが、これは義輝が天文15年(1546)に将軍になったときの諱が義藤で天文23年(1554)に義輝に改名しています。つまり1546〜1554年の間に義藤時代の義輝から片諱を受けたと見るのが妥当じゃないかと考えられます。つまりは藤延の元々の諱は貞延じゃなかったかと。ここも推測に推測を重ねることになりますが、貞延から藤延への改名があったとすれば元服後になります。永禄8年(1565)を基準に考えると11〜19年前に義藤から元服後に片諱を受けてる事になり、年齢は40歳前後が推測できそうな気がします。

藤延が永禄の変当時に40歳前後であったとすると、父であり、藤延が長子であるなら晴舎は55〜60歳ぐらいに推測できます。だからどうだってところですが、ここで進士作左衛門貞連は「九郎左衛門」でなく作左衛門の名乗りですからまず進士氏の惣領でなかったんだろうと推測できます。つまりは次男以下です。ただもう一つ可能性はある気がします。進士氏本家(九郎左衛門家)が永禄の変で全滅し、分家の作左衛門家が残っていた状態です。進士氏は代々の奉公衆であったようで、義輝時代にはかなり勢力をもっていたのはわかります。

永禄の変で当主の晴舎と嫡子の藤延が死んだとしても、次男なり本家筋の分家が生き残っていれば名跡は復活しそうなものです。それがしなかったのは史実ですし、作左衛門貞連が光秀の家臣になっているのはどう考えるかです。ちょっと飛躍ですが美濃の進士氏の出身の可能性はどうだろうです。滅んだ京都の進士氏本家を名目として継がせたぐらいです。だからどうしたって程の話ではありませんが、進士氏の点を結べばそんな可能性もあるかもしれないぐいです。こんなもの証拠でもなんでもありませんが、仮に作左衛門貞連が美濃の進士氏出身で京都の本家の名跡を継いだとし、その時に京都の本家の名前風に改名したとしたら、

  1. 名乗りに新たに「作」った左衛門を使った
  2. 「貞」の片諱を使った
  3. 「連」は関連している人間ですよの遠慮

顔を真っ赤にしての渾身の力業でそうとも解釈できるぐらいです。

進士の末裔進士の末裔 2017/11/25 14:43 進士の末裔です。
「光秀はなぜ越前に」についてですが、進士氏であるなら当然だと思います。
現在の進士氏の分布集落の一つに福井県丹生郡越前町田中が有ります。
元東京農業大学の学長で有名な進士五十八氏も福井県で育ちました。
越前町田中地区の寺院には、薬王寺/天台政盛宗が有ります。
偶然かもしれませんが、明智光秀に関わりの強い西教寺も天台正盛宗です。
因みに京都と静岡の進士は曹洞宗で臨済宗もいますが元来は曹洞宗です。
現在、進士の集落は、京都と静岡と福井と三重に有ります。
伝承や宗派等から、おそらく京都と静岡は近親だと思います。
福井と三重には伝承で進士作左衛門の子孫らしい様です。
私は生憎、静岡県掛川市大渕(藤塚村)の人間で、福井と三重の知識が少ないです。
現在、岐阜県に集中集落がないのですが岐阜に関係する進士氏はおそらく福井と三重の進士だと思われます。
ヒントになるのでは、参考にしてみて頂ければ嬉しいです。

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