新小児科医のつぶやき

2017-02-22 明智光秀ムック11

明智氏の系図の一つに明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)があります。宝賀寿男氏の明智光秀の出自と系譜−「宮城系図」等の検討を通じてみる−での評価は、

「宮城系図」については、多くの学究によってあまり信頼できない系図史料とみられてきたようである。たとえば、國學院大教授であった高柳光寿氏が著した吉川弘文館人物叢書明智光秀』(昭和33年〔1958〕刊行)は、光秀研究の原点ともいうべきものであるが、そこでは、「宮城系図」が悪書と評価されている。明智(三宅)弥平次秀満などの記事に誤りが多いことがその理由ではないかともみられるが、高柳教授は「宮城系図」の原典に実際に当たって詳細に検討されたのだろうかと疑問を感じざるをえない。世に伝わる系図史料で完璧なものはまず殆どないといってよいが、「宮城系図」もこの例にもれるわけではない。だからといって、同書を悪書と評価するのは極端であり、個々的に見ていくと、むしろかなりの参考になる系図だといいうるものである。

宝賀氏は系図に対する姿勢は、

いわゆる中世関係の歴史学者でも、系図自体の知識に乏しい人が多いのが実態である。系図検討に際しては、系図関係の基礎知識を踏まえて、多くの史料や歴史的事実と照らし合わせて具体的に研究していくことが重要である。

宝賀氏には遠く及びませんが、傍流であった光秀に属する家系が嫡流家になったような痕跡があるかに絞って見直してみます。


宮城系図の並び

他の系図と争いの少ない頼弘までは置いときます。頼弘は宝賀氏の研究では「頼弘 = 頼尚」としていますが経歴の中に

奉仕将軍義政義尚義稙三代公列外様衆八家之内也

義尚にも外様衆八家の一つとして仕えたとあるので「尚」の諱をもらった可能性はあります。ただ長享名簿(鈎の陣)の外様衆は、

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こうなっており宮城系図が間違っているのか、六角征伐で構成が変わっていたのかは私では判断が付きません。長享名簿も今日は置いておくとして、見てもらいたいのは

明応四年乙卯三月頼弘子息兵庫頭頼典同兵部少輔頼定兄弟依所領配分之事互令諍論各不服

頼弘の息子に頼典と頼定がおり所領争いをしたとの記述です。書かれている順番からして

    兄:兵庫頭頼典
    弟:兵部少輔頼定

こうであろうと考えられます。最後は将軍義澄の仲裁を仰いだとしていますから、宮城系図では実在の人物のはずです。でもって頼弘の子として書かれているのは、

  1. 光継(頼典)
  2. 頼定
  3. 頼敏
  4. 光鎮

だからどうしたって話なのですが、まず頼定の方の来歴を後半部分を引用します。

頼定有二子兄曰土岐上総介頼尚弟曰上野介頼明其子曰兵部大輔定明仕徳河家子孫繁昌

頼定の系列から菅沼藤蔵(土岐定政)が出てくる部分になります。つまり宮城系図では

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こうなっている事になります。


明智光継

明智家では家祖としている頼基から「頼」を諱として世襲しています。ところが頼典は突然に光継と改名し、以後は「光」が諱として世襲されるようになります。その点についての説明が来歴にはありません。もう少し珍妙なのは光継は本名を頼典とし、光綱も本名を光隆としています。改名はよくある事とはいえ、わざわざ本名と書くのはどういう訳なんだろうってところです。もっとも宮城系図でも光継、光綱以外にも本名として別の名前が書かれているところはあるので、気になる程度です。それと光継の来歴にもちょっと気になる事が書かれています。

拝明智惣領職住明智城領一万貫為嫡流家

あえて読み下せば

    明智惣領職を拝し明智城に住み一万貫を領す、これ嫡流家であるため。

ここだけ読めば違和感は少ないかもしれませんが、他の当主にはわざわざ「拝明智惣領職」とは殆ど書かれておらず、書かれていても兄の後を弟が継いだ時ぐらいです。当主が惣領職になるのは当然以前の話であって、家系図に書く必要がないからです。わざわざ書くということは、光継が初めて明智惣領職になった事を暗に示していると私は感じます。つまりは惣領家とは別系統の傍流家が明智家の惣領職になったんじゃなかろうかです。頼弘までの系図は受け継ぐとして、その子の代に惣領家の血流が変わった事を伏せようとした痕跡に見えます。ちょっと年表を作ってみました。

元号 西暦 光継年齢 道三の動き
応仁2年 1468 0
永正11 1517 49 長井新左衛門尉が美濃に登場か?
天文2 1533 65 道三、小守護代になる
天文7 1538 70 道三、守護代になる

長井新左衛門尉は道三の父とされる人物ですが、おそらく1510年代に美濃に現れたんじゃないかと推測しています。その長井新左衛門尉が死亡し、道三が小守護代になったとされるのは天文2年です。父の長井新左衛門が国盗りの野望をどれれだけ持っていたかは不明ですが、道三が国盗りに邁進したのは史実です。国盗りのためには美濃の豪族の支持を集める必要がありますから、明智傍流家を後援して惣領家を継がせた可能性はゼロとはいえません。これを系図上で弥縫するために、なんらかの理由(所領争いで討死とか、父頼弘の不興が凄かったとか、頼弘が弟の頼定を贔屓にしたとか)で家督を継げなかった頼典と光継をダブらせたぐらいの見方です。


明智頼定

頼定の来歴の

    頼明其子曰兵部大輔定明仕徳河家子孫繁昌

頼定系が嫡流家になるはずですが、孫の定明の時に既に徳川家に仕えているとしています。これは史実と反するで良いかと思います。定明の子である定政は菅沼藤蔵として家康に仕え、人生の晩期に土岐定政となっています。定政の父である定明が天文21年に討死し、この時に定政は母方の菅沼氏に逃げたのはまず固いところです。定明の時から仕えていたのなら菅沼藤蔵になる必要はありませんし、仮に父の定明が家康の不興を買って殺されていたのなら、今度は菅沼藤蔵が家康に仕える理由がなくなります。わざわざ定明の時から徳川家に仕えているとしているのは、天文21年にもともとの嫡流家を滅ぼした事を伏せたかったんじゃなかろうかと思います。

もう一つですが、頼定の子の頼明には兄として頼尚がいたとしています。いたかもしれませんが、頼尚は宝賀氏の研究では「頼弘 = 頼尚」です。宝賀氏の研究を鵜呑みする訳ではありませんが、なんとなく頼明の系統をさらに末流に位置づけた様にも感じます。わざわざ兄の存在を書けば頼定系は兄の頼尚系が正統になり、頼明はそこから始まる分家となるからです。


明智光綱

光綱の来歴も改めて読むと微妙なものがあります。

明応六年丁巳八月十七日生 童名千代寿丸 母進士美濃守光信女也 蓋光信明智頼弘妹婿也 先室武田大膳大夫源信時女也 其室没後再迎進士長江加賀右衛門尉信連娘以為当室 其名曰美佐保方 但信連光信子也 光綱受継家督住明智城領一万五千貫相当今七万五千石 光綱生得多病而日頃身心不健也 因不設家督之一子 故蒙父宗善之命養甥光秀以為家督 光秀光綱之妹婿進士勘解由左右門尉信周之次男也

再掲しますが明智氏と進士氏の婚姻関係は宮城系図では、

こうなっています。ここで気になるというか目につくのは進士光信です。進士家が本当に「光信 − 信連 − 信周」と続いていたのならその頃は「信」が世襲される諱と見えます。まず山岸光信ですが宝賀氏の研究より、

山岸勘解由左衛門光信は、斎藤道三〜龍興の時期の西美濃十八人衆の一人であった。

明智光継より一世代ぐらい下の人物になりそうです。そうなると出てくる疑問は光秀が光信の曾孫なんてあり得ないになります。では宮城系図に出てくる進士信周は誰なんだになりますが、これも宝賀氏の研究より、

次ぎに、系譜本文のほうでは、明智光綱・光安兄弟の妹にあたる女子の譜註を見ると、その夫・進士山岸勘解由左衛門尉信周について、加茂郡蜂屋堂洞(どうぼら)城主とされる。しかし、これは明らかに事実の歪曲である。その事情を説明すると、以下のとおり。

 現在の岐阜県美濃加茂市蜂屋町にあった堂洞城は、稲葉山城斎藤龍興攻略の前哨として永禄八年(1565)八月に織田信長が攻め、羽生野などで激しい戦いの末に攻略に成功した。反信長の堂洞城主・岸勘解由信周(のぶちか)・孫四郎信氏(一に信房)親子は信長の密使・金森長近の説得を拒絶し、戦い敗れて義に殉じた岸勘解由は自決した。このように、堂洞城主は山岸ではなく、「岸」であり、この苗字は古代の岸臣(阿倍臣の一族で、敢臣族岸臣)に由来するとみられる。

堂洞城主は岸勘解由信周であり、この岸姓は山岸姓と明らかに異なるとしています。ここより宝賀氏は進士信周なる人物は存在しないとしています。宝賀氏は進士信周の存在だけを慎重に否定されていますが、信周の父とされる信連も怪しい気がします。


宮城系図での山岸氏

まず宮城系図では明智次郎頼兼が家祖になっていて頼重は二代目になっています。

康永元年壬午月生於池田郡童名多宝丸 母尾張民部少輔源高国女也 室山県郡伊志良住人長山遠江守源頼基女也 伝曰頼重実頼兼叔父土岐九郎頼基之子也云々 右頼基伯耆守頼貞九男而頼宗弟也 有故観応二年辛卯二月為頼兼之猶子相続家督賜

どうにもこんがらがるのですが、

  1. 頼重の正室は長山遠江守頼基女としています
  2. 一方で「伝曰」ですが頼重は土岐伯耆九郎頼基の子としています

「長山遠江守頼基 = 土岐伯耆九郎頼基」のはずですが「???」てなところです。そこはさておいて、頼重の女子のところに、

山岸越前頼慶室
同濱豊後守康慶母
頼慶者長山遠江守頼基之孫也

つまり頼重の娘と長山遠江守頼基の孫が結婚したことになります。でもって頼弘の妹のところに

進士美濃守源光信
同加賀右衛門尉信連母

文安三年丙子生 進士光信者明智頼重之聟 長山越前守頼慶之孫也 明智進士両家之間代々成重縁 進士者元来非氏職原之官名也 本苗称山岸氏也

長山越前守頼慶の孫の山岸光信が頼弘の娘を正室にしたとなっています。この後の重縁は上の図で示したので、それ以前を整理すると

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とりあえず頼重と頼兼が別人であり、なおかつ頼重が頼基の子であるのなら明智家の家祖を長山遠江守頼基に置く理由がわかります。問題は山岸氏で、頼基の孫といっても正室を迎えてのものなら理解できます。ただなんですが光信の前と後では諱の受け継ぎ方に無理がある気がします。まず康慶の子が光信とはなんじゃらホイってところです。そういう事もあるのですが、ごくごく素直に光信の名前が家系から浮いている気がします。


「光」のルーツ

宮城系図で気になるのは南北朝期に美濃守護になった土岐頼貞以来、土岐本家にも明智家にも世襲されてきた「頼」の諱が光継の代から消え、代わりに「光」の諱が使われます。この突然の光の諱のルーツが不明だったのですが、山岸光信の「光」じゃないかと思い始めています。つうか当時の山岸氏は光を諱として世襲しており、宮城系図で光信の上の代も、下の代にも光が消えているのはなんらかの操作じゃなかろうかです。山岸光信は美濃十八人衆の一人だったので光信の光は消せなかったのですが、光信以外の山岸氏の光を消してしまった可能性がありそうに感じます。

山岸光信は宝賀氏の研究でも光秀の親世代から祖父世代ぐらいに該当しそうですから、あくまでも仮説ですが実際の系図は

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これなら諱の世襲がスッキリします。宮城系図上で光継とされている人物に山岸光信を当てはめたぐらいの見方です。光秀は系図上で光信の孫と仮定しましたが、子どもの可能性も残るとは考えています。ほいで光綱(光隆)は光信の嫡子ではなかった可能性が高そうに思います。嫡子でなかったのでそれこそ道三の近習として仕えていたぐらいです。光綱の転機は姉が道三に見初められて室に入ったからじゃないかぐらいを想像します。ただの近習から親族になるからです。

ここで当時の明智家は頼弘の二人の子供(頼典、頼定)が対立して分裂状態であったと見たいところです。つまりはどっちも「本家だ!」状態ぐらいでしょうか。兄のはずの頼典ですが宝賀氏の研究でも家督は外されたようだとはしていますが、その子孫がどうなったかについては言及されていません。明智家の惣領自体は頼定に流れたとする宝賀氏の説に賛成しますが、頼典系がどうなったかです。推測の上に推測を重ねますが道三(あるいは長井新左衛門尉)の後援を頼んだんじゃないかと考えます。

ところが頼典系はどこかで子孫が途絶えたぐらいを考えます。道三の庇護の家ですから、そこに道三の側近であった山岸光綱が送り込まれたぐらいです。同様の手法を長井新左衛門尉も道三も用いています。ところが光綱には嫡子がまたもやいなかった。そこで小さな対立が起こったぐらいです。

  1. 光信は孫の光秀を光綱の養子にしようとした
  2. 道三は光綱の弟の光安を当主にしようとした

光安もまた道三の側近になっていたぐらいの設定です。ここは光綱が生きている間に光信に養子を頼み成立していたとした方が良いかもしれません。ほいでどうなったかですが、宮城系図通りであれば、

  1. 光秀がまだ幼いの理由で光安が家督を継いだ
  2. 光信の顔も立てて、光秀を光安の嫡子とした

ただこれじゃ光安が善人過ぎるので、道三の威光を借りて光安が家督を継いで光秀は後継者から外され仏門入りだったと私は取りたいところです。全部仮説ですが、もしそうであれば宮城系図の進士氏(山岸氏)との濃厚すぎる姻戚関係を構築する理由が理解できます。どこかで山岸氏と明智氏は婚姻関係を結んでいて、明智の血が山岸氏に入っていたかもしれませんが、光秀は明智氏との血縁関係はかなり薄くなります。それこそ幼少の時に明智の養子になっただけで、血筋的にはほぼ山岸氏の人間だからです。そのうえトットと仏門に入れられていたらなおさらです。だからこそ光信の後に信連、信周と三代にわたる姻戚関係を創作し、明智の血が「これでもか!」て流れている話が必要だったぐらいです。

この説明が便利なのは、光信が光継として光継の娘が小見の方であれば、山岸氏も道三シンパになってしまいます。ただ光綱の後継問題で対立が起きていれば、山岸本家は道三シンパから外れる事になります。山岸家も光信の後がどうなったかは不明なのですが、どうも道三崩れの後も生き残っていたようなので、これぐらいの説明を置いておきます。


宮城系図の製作時期

宝賀氏より

  1. 明智本宗の最後の当主が大永六年(1526)卒去の頼定であり、その暫く後の時期に一旦、同系図の基礎的部分本が成立したか、この基礎的部分に対して、次ぎに
  2. 光秀及びその一族・姻族(山岸氏)の系統の継ぎ合わせ、
  3. 明智左馬助光俊〔三宅弥平次秀満〕系の追加、
  4. 宮城氏系統の追加、等がなされたのではないか、

ほぼ同意です。そうなると、やっぱり興味があるのは2段階目で、いつ継ぎ足されたんだろうです。ここもあえて推測すれば、明智家の惣領家が光秀の属する系統に変わった時に書き換えられたぐらいはありえます。もうちょっと絞ると、頼定の系統が家康に仕えた記録の存在は注目しておいて良いかもしれません。これは早くとも永禄7年に菅沼藤蔵が家康に仕えてからになります。問題は藤蔵がいつから明智氏の忘れ形見であると広言していたかです。いつかの時点からかは口にしていたはずで、口にしていたから晩年に土岐定政になったのだけは間違いないでしょう。

案外早かった可能性だけはあります。大した理由ではありませんが明智の評価が変わるのは天正10年の本能寺からで、永禄7年に藤蔵が家康に仕官してから、永禄10年に光秀が信長に仕官するまで明智の家というか名は滅亡状態であった訳です。だから別に明智の出身である事をあえて伏せる必要はありません。一方で光秀ないし光秀の関係者が菅沼藤蔵が明智定明の忘れ形見である情報を入手したんだと思います。その時に嫡流家の菅沼藤蔵との関係を懸念したのかもしれません。つまり菅沼藤蔵こそが明智の名跡の正統の後継者であるって見方も出てくるからです。

そこで光秀こそが明智の正統後継者であるの証明のために家系図を作ったぐらいの想像です。時期としては永禄年間の終わりから天正年間の初めぐらいが推測されますが、どんなものかというところです。

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