新小児科医のつぶやき

2017-02-24 明智光秀ムック12

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)からの仮説の再整理です。


山岸光信

明智頼弘までの明智氏と山岸氏との関係です。

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明智頼弘は嘉吉元年(1441)生まれ、永正5年(1508)死亡と宮城系図ではなっています。この頼弘の妹と山岸光信は結婚するのですが、頼弘の妹は文安3年(1446)生まれとなっています。問題は山岸光信の生年で宝賀寿男氏によると道三から龍興時代に活躍した美濃十八人衆の一人となっています。そこで永禄10年(1567)の稲葉山落城を起点に考えて

  1. 稲葉山落城時に60歳なら1507年
  2. 稲葉山落城時に70歳なら1497年
  3. 頼弘の妹と同い年ぐらいであれば稲葉山落城時には121歳

山岸光信と頼弘の結婚はなかったと結論できます。では山岸光信と明智氏の娘の間に婚姻がなかったかといえば、やっぱりあったと見る方が妥当です。ここで宮城系図では光信の孫の進士信周に嫁ついだとなっている「女子」の経歴ですが、

永正元年甲子八月十七日生母同兄大永元年辛巳八月嫁信周 進士九郎太郎光賢明智光秀等之実母了是也
享禄二年己丑正月二十日卒去年二十六歳

大永元年に嫁いだのなら17歳になりますが、この時に光信が18歳であったと仮定すると稲葉山落城時に65歳になり1502年生れぐらいになります。これなら十分に可能性があります。この時代的にはやや長寿ですが、それほど違和感がなくなります。そうなると宮城系図に出てくる山岸氏の並びである

    長山頼基 − ???? − 山岸頼慶 − 山岸康慶 − 山岸光信 − 山岸信連 − 進士信周

長山頼基から山岸康慶までは実在していても長山氏のものであり、山岸康慶と山岸光信は赤の他人であると見れます。ここは山岸氏が進士氏の他に長江氏も名乗る事があり、故意に長山氏と混同させて強引に接続させたと見ます。また進士信周は堂洞城主であった岸勘解由信周であり、山岸氏とは無関係です。進士信周の父である信連については不明ですが、諱からして親子である可能性が高いと思われます。ここも岸氏と山岸氏を故意に混同させて強引に接続させたとして良いでしょう。

そこまでして山岸光信の位置を作った点に注目されます。


出生年から考えてみる

この辺はもう少し詰めたいのですが、

氏名 出生年 死亡年
年号 西暦 年号 西暦
山岸光信 文亀2年 1502
明智光継 応仁2年 1468 天文7年 1538
明智光綱 明応6年 1497 天文4年 1540
明智光安 明応9年 1500 弘治2年 1556
明智光秀 享禄元年 1528 天正10年 1582
小見の方 永正8年 1511 天文23年 1554

宮城系図の生没年を鵜呑みするのも危険かもしれませんが、山岸光信と明智光綱、小見の方はほぼ同世代と見れそうです。一方で明智光継は一世代上、光秀は一世代下ぐらいです。明智光継は一世代上と言うには少し離れているのですが、光継の子を見てみると、

名前 出生年 光継年齢
元号 西暦
光綱 明応6年 1497 29
光安 明応9年 1500 32
女子 永正元年 1504 36
光久 永正4年 1507 39
光広 40〜41
女子 永正7年 1510 42
小見の方 永正8年 1511 43
光廉 永正13年 1516 48
女子
女子

この時代に子どもが10人いても不思議はないのですが、長子である光綱の出生がちょっと遅い気がします。晩婚であったか、正室に子どもが生まれず側室を置き始めたのが20代の後半であったと見ても良いのですが、光継の出生年を10年ぐらい遅らせても良い気はします。


光信と光秀

ここで用語を定義しておきたいのですが、

    土岐明智氏・・・明智頼重以来の土岐氏の明智氏
    山岸明智氏・・・明智光継からの山岸氏の明智氏

これで話を進めます。さて宮城系図では進士信周に嫁いだとなっている光継の娘が光信の正室であれば、生まれた子供は光賢、光秀になります。ここまでの考察をまとめると、

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諱の続きにのみにこだわるのも危険かもしれませんが、こうであれば名前の続き柄は自然です。光信の父と光継は兄弟であり、おそらく光信の父が山岸氏を継ぎ、光継が明智氏の名跡を継いだと考えます。こうなった時に自然に出てくる疑問は、

    光秀は明智の子どもじゃないじゃん

まず土岐明智氏とは無関係であり、山岸明智氏であっても母系のみです。宮城系図では光綱に子がなかったので養子に迎えられたとなっていますが、光綱死亡時には光安35歳、光秀7歳です。あくまでも宮城系図になりますが、光綱、光安(ついでに小見の方)は正室の出です。嫡子が亡くなった時に弟が家督を継がずに変則的な事をする理由の一つに正室問題がありますが、これはなさそうです。人物問題も光安になさそうですし、もっと言えば光安の他に光広、光久、光廉と弟がいます。この状態で光秀が山岸氏から養子に迎えられる可能性はゼロと思います。

そうなると宮城系図に書いてある光秀を養子に迎える云々はすべて作り話であったとするのが妥当です。光秀は光信の子として産まれ、山岸光秀として育ったと見るのが正しそうです。それでも光秀は明智を名乗って活動しているのは揺るぎない史実です。ほいじゃいつ光秀が明智を名乗ったかですが、やはり弘治2年の道三崩れの後じゃないかと推測します。

道三崩れの時に山岸明智氏は最後まで義龍に抵抗し壊滅します。土岐明智氏も天文21年の時点で明智定明が戦死し、その忘れ形見の定政が三河に亡命し菅沼藤蔵として活動します。つまり明智氏は地上から姿を消してしまっています。山岸明智氏は山岸光信から見て叔父の起こした家であり、叔父の娘を正室にしてますから、次男である光秀に明智を名乗らせたんじゃないかと見ています。そうであれば光秀が明智姓を名乗り始めたのは28歳から30歳ぐらいの時になるかもしれません。

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