明智光秀ムック14

明智氏一族宮城家相系図書(宮城系図)の意図を見直してみます。宮城系図は歴史資料としては悪書の評価がありますが、理由としては正しい歴史を現していない点になります。とくに光秀関連部分について創作・捏造部分がかなり多く、肝心の光秀がどういう出自であったのかがサッパリわからないからです。ただ見方を変えればなんらかの意図をもって作られた系図であり、その意図を推測してみるのも一興かもしれません。


誰のために作られたか

宝賀寿男氏の分析を再掲します。

  1. 明智本宗の最後の当主が大永六年(1526)卒去の頼定であり、その暫く後の時期に一旦、同系図の基礎的部分本が成立したか、この基礎的部分に対して、次ぎに
  2. 光秀及びその一族・姻族(山岸氏)の系統の継ぎ合わせ、
  3. 明智左馬助光俊〔三宅弥平次秀満〕系の追加、
  4. 宮城氏系統の追加、等がなされたのではないか、

まず最終編集者である宮城氏は明智の一族であると称するにあたって、光秀の直系では都合が悪いので光安が正統とし、さらに明智嫡流を光春(秀満)の子孫と称したぐらいは可能性があります。ただしそんなに光秀が都合が悪ければ明智を名乗らなければ良い訳で、たまたま入手した宮城系図の原本に宮城氏を接続しただけと考えます。では原本を誰が作ったかですが、明智氏とはまったくの赤の他人が作ったとは思えません。理由は単純で光秀の出自をこんなにグチャグチャといじる必要性に乏しいからです。ここは素直に光秀ないし光秀関係者(まとめて光秀とします)がなんらかの意図をもって宝賀氏の指摘する2.の段階を作り上げたとします。


系図の特徴

手が入り過ぎてどこが真実かわかりにくいのですが宮城系図最大の特徴は、

ここだと感じます。そりゃ進士信周の子となっており光秀は「養甥」とも明記されているからです。ここは光秀が書いていたとしたら大きな謎の一つになります。創作捏造を大幅に行っている訳ですから、ごく素直に光綱の忘れ形見ぐらいにすれば良いはずです。考えられる理由としたら、
  1. 進士氏の出自であることが隠せないほど著名であった
  2. 進士氏とのつながりを強調する必要があった
どちらかを示す証拠としては、
    進士氏との婚姻関係を異様なぐらい強調してある
光秀が明智の嫡子である事より養子であった事を説明している系図に見えます。たとえば何度も再掲しますが、

いくらなんでも婚姻関係を作り上げています。そこから考えると進士氏とのつながりを強調するだけでなく、これだけ濃い明智の血が流れているから明智家の跡取りとして養子になったを説明しようとしたのが、宮城系図であると考えられます。


山岸氏は進士氏を名乗っていたのか?

宝賀氏の加賀国江沼郡起源の山岸氏について─併せて、『美濃国諸家系譜』の紹介─には、山岸の名が最初に見つかるのは

再起した新田義貞脇屋義助兄弟は越前で活動し斯波高経と戦っており、一時はこの地域でかなりの勢威を誇ったが、『太平記』には、このとき敷地・山岸・上木が義貞兄弟とともに活動した記事が見えている。山岸氏の武士が名前を表示されるのは、「山岸新左衛門」だけであり、その実名は記されない。

太平記の山岸新左衛門が確認できる最初の名前になるようです。藤島合戦で義貞が討死した後に脇屋義助が美濃に流れたのも史実なのですが、その時に山岸氏も美濃に流入したと宝賀氏は断じています。ただなんですが宝賀氏が参考にした美濃国諸家系譜に山岸氏は載せられていません。ついでに言うなら明智氏もありません。ですから他家の系譜から抜粋して再構成したような系図にならざるを得ないのですが、美濃国諸家系譜から宝賀氏が再構成した山岸氏を書き出し見ます。

代数 名前 根拠
初代 新左衛門(光義、光頼) 山岸 藤原姓林氏 正系図
二代 弥太郎光明 山岸、外山、長江 根尾氏之事
三代 加賀守満頼(頼行) 山岸 根尾氏之事、竹中家譜
四代 越前守頼慶(頼貞) 長江 日根野系図
五代 勘解由左衛門貞朝(加賀守光範) 山岸、長江 谷汲村
六代 作左衛門光貞 進士、山岸 記載なし
七代 加賀右衛門尉信連 進士 記載なし
八代 勘解由左衛門尉信周(美濃守・勘解由左衛門尉光信) 進士、山岸 記載なし
九代 作左衛門貞連(光重) 進士、山岸 記載なし
詳細はリンク先を参照にして頂きたいのですが、私の感触では二代・三代・四代あたりは長山遠江守頼基の家系ないし子孫との混同があるように感じます。それはともかく進士が出てくるのは六代光貞ぐらいからで、宝賀氏の研究では宮城系図の山岸光信に該当する人物とみられています。七代信連、八代信周については名前は宮城系図に依っている気配があり、宝賀氏も本当の山岸光信は八代の信周だとしています。どうもなんですが、宮城系図の影響で六代から進士の姓が出てきている感じはします。この美濃国諸家系譜の成立年は不明ですが、江戸期それも後半の感触が強いようで先に成立していた宮城系図があれば参考にしていても不思議ありません。

宮城系図で進士光信の紹介のところも注目で、

進士者元来非氏職原之官名也 本苗称山岸氏也

わざわざ進士の由来を書いています。これだけの資料で断じるのは難しいのですが、山岸氏は進士氏を名乗っていなかった可能性もあります。もし山岸氏が進士氏を名乗っていなければ、これを名乗らせ強調したのが宮城系図になります。


進士の姓の価値

将軍家の奉公衆としての進士氏は実在し、義輝の申次衆として進士晴舎がおり、晴舎の娘(小侍従)が義輝の側室であったのは史実です。この京都の進士氏は永禄の変の後に消えてしまいます。これは三好・松永によって一族ごと抹殺されたぐらいで良いかもしれません。ここで光秀のもう一つの謎があります。永禄11年10月に信長は義昭を奉じて上洛を果たすのですが、永禄12年正月の六条合戦に早くも光秀の名前が信長公記に現れます。以後は京都担当外交官として活躍したで良いかと思っています。

案外わかりにくいのが信長と光秀の接点です。平凡には義昭の臣下に入り、信長への使者をやっている時に才能を評価され引き抜きされたぐらいを想像します。ただこの時期の京都外交は信長にとっても重要で、余程評価しないと抜擢されない気がします。もちろん光秀の才能は群を抜いており、信長がそれを見抜いて大抜擢も十分に可能性としてあり得るのですが、ここで京都担当外交官に求められるものはなんだろうです。パッと思いつくのは、

  1. 礼法に通じている
  2. 古典教養が十分に身についている
  3. 信長の意向を反映できる能力
本来は3.が一番重視され、信長もそこを一番買ったと想像しますが、
  1. 出自と家柄
なにせ相手は京都の貴顕紳士です。どこの馬の骨かわからない出自ではまともに相手にされない可能性があります。そこで光秀は京都でも通用する出自と家柄を作ったんじゃなかろうかです。具体的には、
  1. 実家の山岸氏に進士氏を名乗らせる
  2. この美濃の進士氏を京都の進士氏とダブらせる
  3. 姓は明智だが出身は将軍家奉公衆の進士氏の一族である
そのためには光秀は進士氏(山岸氏)の子でなくてはならず、さらに明智を名乗る理由として後継者として養子に迎えられた経緯も必要になります。それを創作したのが宮城系図だってところです。


話は振り出しに戻るのかしらん

全部仮説ではありますが、もしそうであるなら光秀の出自仮説は振り出しに戻ってしまいます。光秀の出自として、

  1. 明智の娘を母に持つ山岸氏の一族
  2. 明智光綱の子
  3. 明智氏とも山岸氏とも無関係
3.は少々無理がありますが、2.はありえます。少なくとも明智光安の子ではなさそうですから、年齢的にあり得るのは光綱の子です。本当に光綱が存在して、光秀が生まれていたのなら、今度は宮城系図のストーリーが真実味を帯びてきます。宮城系図のストーリーで無理があったのは、
    光綱に光安以下の弟がいるにも関わらず、甥の光秀を後継者とした養子にした
これが光綱が光秀を残して若死にしたのなら無理の少ないストーリーになります。
  1. 嫡々継承を守るため光秀が元服するまで叔父の光安が後見をした
  2. 家督元服後に光秀のものになったかもしれないが、明智家の実権は光安が握っていた
どこにでもありそうなストーリーです。ではいつ作られたかになりますが、考えられるのは
  1. 信長への売り込みの時
  2. 京都担当外交官になった時
どっちも可能性がありますが、参考にしたいのは細川藤孝の存在です。藤孝は進士晴舎を知っている(晴舎が申次衆の時に藤孝は御伴衆 by 永禄名簿義輝版)ので、藤孝を丸め込むというか了解を取っていないと宜しくない気がします。根拠はその程度ですが2.の方が可能性が高いと思います。どっちも可能性は残りますけどね。

ただそうであっても光秀が光綱の嫡子であったかどうかは微妙な点が残ります。宮城系図では進士信周と光継の娘の間に2人子どもがおり兄が光賢、弟が光秀になっています。光秀が進士氏の人間なら明智氏が養子に取るのは次男の光秀でなくてはなりませんが、これが光綱の子であれば嫡子は光賢になり、光秀は次男となり嫡子ではありません。そういう状況であったと考えると宮城系図のお話はピッタリ来ます。

天下一定之望因辞退

光秀は元服しても家督を辞退したとしています。これは辞退したのではなく、そもそも家督相続者でなかったと見た方が自然です。もちろん明智落城時に光安も光賢も死んだのなら繰り上がって家督相続者にはなりますが、明智氏自体が滅亡状態ですから、嫡子と言うよりただの弟とした方が正しい気がします。この辺は少し飾ったのかもしれません。

しかし参ったな、話が振り出しに戻ってしまいました。でもこれだから歴史はおもしろい。