新小児科医のつぶやき

2017-02-28 明智光秀ムック15

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)のムックの続きです。


熊本安国寺の土岐系図

津々堂のたわごと日録が文字を起こしてくれてますので引用します。

信周子多クアリ嫡子進士美作守晴舎ト云部屋住ニテ将軍家ニ直勤ス 次男岸勘解由信舎ト云 三男進士九郎三郎賢光ト云ウ 四男乃チ明智光秀也 以下ノ子略之 右各母ハ明智光隆ノ姉也 又信周ノ嫡子進士晴舎是ヲ山岸ノ総領トス 始終在洛セリ 数子アリ嫡子ヲ進士主女首輝舎ト云 次男を進士作左衛門貞連ト云 三ツ同六郎大夫貞則ト云 四ハ養子ト成テ安田作兵衛国継ト云ナリ 右各母ハ伊勢兵庫頭貞教女也

系図として書き起こしておくと

20170228080525

宮城系図も凄いですが安国寺の土岐系図はこれに負けず劣らずの感じがします。でもここに宮城系図の謎を解くヒントがありそうな気がします。とりあえずですが進士晴舎は実在の人物で義輝の申次衆であり、娘は義輝側室の小侍従であるのは確実です。この京都の進士氏は室町幕府の初期から存在していたのは確実ですが、その系譜は断片的にしか不明です。どうにも永禄の変で木端微塵に吹っ飛んだぐらいとしか言いようがありません。

この京都の進士氏が消滅してしまったというのが私の考えるポイントです。京都の進士氏は永禄8年の永禄の変で消滅しましたが、永禄10年に信長が上洛した時に進士の姓は京都の人々には十分に残っていたはずです。当時も出自と家柄が問われる時代ですが、進士の姓は京都で十分すぎるほど通用したと見て良いかと思われます。

光秀の謎の一つに信長の上洛に当たっていきなり京都外交担当官への大抜擢を受けた点があります。それだけの才能が光秀にあったのは間違いありませんが、京都の貴顕紳士はとにかく底意地が悪そうなのは正直なところです。織田家自体が出来星で出自もエエ加減なところがありますから、その外交官も頭からバカにしていたとしてもおかしくありません。そうですねぇ「どこの馬の骨が出てくるんだ」ってところでしょうか。こういうものは最初の「入り」が重要なので光秀も苦心した点と推測します。

光秀の明智も美濃では名門で、将軍家に対しても外様衆・奉公衆として出仕していた記録もありますからソコソコかもしれませんが、明智氏自体が弘治2年の道三崩れで滅亡していますし、京都から見れば美濃の田舎土豪ぐらいにしか思われない可能性も十分にあります。そこで光秀は京都の進士氏の姓を出自と家柄として利用したんじゃなかろうかです。安国寺の土岐系図は光秀の初期の自称の残骸で、永禄8年に亡くなった進士晴舎の一族であり、故あって美濃の明智の家の養子になっていたぐらいです。晴舎の父が進士信周になっているのは、それこそ宮城系図の影響と考えますが光秀の初期の出自の自称はシンプルに

    実は進士晴舎の一族で美濃の明智の養子になっていた

これで京都外交官としてのデビューを飾ったんじゃないかと推測します。ただ最初はこれだけで良いかもしれませんが、時間が長くなれば枝葉が必要になり、これが膨らんでいった一つの最終形が宮城系図じゃないかと感じる次第です。


光秀の自称説

光秀の自称は方便ではありますが、一度使ったら京都外交を続ける上で継続させる必要があります。家柄や出自の詮索の好きな人間はいつの時代にもいますから、その場、その場で話を紡いでいたと思いますがポイントになるのは、

  1. 進士氏と明智氏の関係
  2. なぜに進士氏から明智氏の養子になったか

そういう観点から見ると安国寺の土岐系図は興味深くて

  1. 山岸氏を進士氏に見立てた上で山岸氏を進士氏の本家にしている
  2. 光秀は晴舎の弟にし、明智氏の養子になったとしている

ただ晴舎を実際に知っている人も京都では少なからずいるわけで、下手すりゃ晴舎の父を直接知っている人間もいる訳です。晴舎を知らない人間ならこれでも良いですが、知っている人間には違うバージョンを用意していたのかもしれません。そっちは宮城系図型で、

  1. 美濃の進士氏(= 山岸氏)は京都の進士氏の一族
  2. 光秀は美濃の進士氏から明智氏の養子になった

この2つのバージョンが途中から変化したのか、会う人で使い分けたのかは不明ですが、家柄や出自の説明は継続的に必要とはいうものの、家柄や出自ではなく光秀の実力で京都担当外交官の地位を獲得してしまえば、そんなに繰り返す必要はなくなります。もっとも後からあえて否定する必要もないので、2つの説が光秀の家系として伝えられたとんじゃないかと考えています。もっとあったかもしれませんが、2つは確実にあったぐらいです。


系図の成立

安国寺の土岐系図も宮城系図も、おそらく光秀の死後に編集された可能性が強いと見ます。それも本当の光秀の出自を知らない者です。逆に本当の出自を知っていると考えられるのは、

  1. 光秀の血族
  2. 美濃出身の家臣

血族としては細川ガラシャが有名ですが、ガラシャが細川家記の編集に関与していないのは確実です。生き残った美濃出身の家臣でも字が書けるかの問題があり、光秀死後に積極的に光秀関連の記録を残したものはゼロだった可能性があります。つうかそんなものが残っていないのが実情だからです。そうなると編集に当たったのは京都時代に光秀と交流のあった人物が候補に挙がってきます。具体的に誰かはわかりませんが、聞かされているのは光秀の自称ですから、それをベースに書かれたのが安国寺の土岐系図であり、宮城系図の気がしています。

光秀の本当の出自は?

土岐系図も宮城系図も京都外交担当官の必要性から称した自称としても、とくに宮城系図は無から有を作り出した訳じゃないと考えます。実話をベースに創作を加えたとする方が自然です。そういう目で宮城系図を見た時に、光秀がこだわっていた部分が見える気がします。宮城系図では光秀にいかに進士氏の血が濃いことを強調する一方で、自分が明智の人間であることは譲っていません。何が言いたいかですが、京都担当外交官を行うにあたって自称するなら「進士氏出身の明智光秀」より「進士氏の一族である進士光秀」の方が手っ取り早いと感じて仕方がないからです。進士光秀とせずにあくまでも明智光秀としたところに光秀のこだわりが見える気がしてなりません。つまりこの点から光秀は明智の人間であり、進士の人間でないとまず考えます。

不自然な養子問題については、この点が不自然であるからこそ操作である可能性は大と見るのが自然です。光秀には進士氏の一族出身であるとの自称が必要であった訳で、そのためには進士氏から養子になる段取りが必要になります。この段取りがそもそも無かったとすれば話は単純になります。病弱で子が無いと強調された光綱(光隆)に子がいれば良いだけのお話です。光綱がなんらかの理由で若死にしたのは事実であって、その時に嫡流の孫であった光秀が元服するまで叔父の光安が後見したのが事実であったと見れそうな気がします。祖父の光継が光綱より長生きしたのも事実で、家督の継承を光綱の弟の光安系に移すのではなく、あくまでも光綱の子に戻す決定を行ったのも光継であり、これも事実の可能性が高いと考えます。

母については光綱の先室とされている武田大膳大夫源信時女で良いと考えます。わざわざそうしなかったのは、光綱に子がなかったとしなければならかったからです。ここで腐っても守護大名が明智氏に嫁を出すかの問題がありますが、まず武田信豊の娘とは書かれていません。武田信時って人物が不明ですが、これを若狭武田の一族としたら、信豊が信時の娘を養女にして嫁にした可能性があり、もっとシンプルに当主の信豊でない若狭武田の一族の信時の娘が嫁になったってのありえる事です。それと美濃の豪族に守護クラスの家から嫁が来ている先例としては稲葉一鉄の姉の深芳野の母がいます。この深芳野の母が一色氏出身となっており、義龍が道三に反旗を翻した時に一色氏を称したのはこれも理由だったはずです。

光秀の母が若狭武田氏出身であれば、光秀が越前にいた理由も説明しやすくなります。若狭武田氏は家督相続問題で弘治2年(1556)から内紛を繰り返しています。一度は母の実家に亡命したものの内紛に巻き込まれたのか、危険を感じて隣国の越前に逃げたは十分にありえます。ここは少しだけ想像を膨らませれば、内紛で母の実家も滅ぼされ、命からがら越前に逃げた可能性はあると見ています。だから越前では牢人をせざるを得なくなったぐらいでしょうか。母の実家が健在状態で越前に行けば、あれほどの冷遇はなかったと思うからです。


エエ加減光秀ムックも煮詰まった(飽きた)ので上記した仮説をまとめると、

  1. 京都外交担当官として進士氏の出自と家柄を借りる必要が生じた
  2. そのために美濃の山岸氏を進士氏一族に見立て、進士氏からの養子であるとした

そのために

  1. 父の光綱に子が無いことにした
  2. 光綱に子が無いから自分が進士氏から養子になった事にした

これぐらいで私のFAにしたい。。。

miino阿弥miino阿弥 2017/03/01 16:03 平成27年に「明智一族三宅家の史料」(三宅家史料刊行会)が出版されました。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」と「熊本安国寺系図」、「明智一族三宅家の史料」でのみ、進士氏と山岸氏に言及した史料は見当たらないように思います。
進士氏は、姓氏家系大辞典にも記述されている加賀藩士となった進士作左衛門の系統が見聞諸家紋に見える「丸に頭合わせ三つ五三桐紋」を使用しているようで進士美作守晴舎の後裔ではないかと思います。
進士家は鎌倉以来の幕府奉公衆であり、美濃の進士山岸家は、美濃国諸家系譜の根尾系図にあるように脇屋義助を慕って美濃に落ち延びた加賀の武士団の一員であると考えられ、進士家と山岸家は本来家の成り立ちが違うのではないかと思います。
ただ、明智氏と山岸氏は重縁関係であったようですから明智氏と山岸氏はつながりますが、進士氏との関係は不明です。
美濃に進士家の所領があったのか、家紋はあまり取り上げられないのかも知れませんが美濃山岸氏の家紋は梅鉢紋などで進士氏の家紋とは違います。
美濃山岸氏と進士氏の関わりを示す史料が見当たりません。
また、明智氏は斎藤義龍に攻められ完全に滅亡したのではないかと思います。
小説のように一人だけ生き残って明智家を再興したなどということはなかったのではないでしょうか?
美濃の武士団を統率するために滅亡した明智名字を誰かが名乗ったのではないかと考えれば、進士美作守晴舎の子藤延が明智光秀であるとされる「明智光秀の乱」の著者小林正信氏の説もありうることではないかと思われます。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20170228