新小児科医のつぶやき

2017-03-02 堀田道空ムック

斎藤道三が登場する時代劇には必ず登場するのが堀田道空です。設定は道三の重臣の一人ですが、単に並んでいるだけではなく少しはセリフもあるって役回りです。個人的にはそれなりの有名人だと思うのですが、かのwikipediaにさえ収載されていません。ちょっとムックしてみたくなりました。


マイナー武将列伝・織田家中編には堀田道空が信長公記に登場するのは、有名な正徳寺での道三と信長の会見シーンの3ヶ所ともう1ヶ所のみのようです。

  • 御堂へするすると御出あつて、縁の御上り候処に、春日丹後・堀田道空さし向かひ
  • 又是も知らぬかほにて御座候を、堀田道空さしより、是ぞ山城殿にて御座候と申す時
  • 去て道空御湯付を上げ申候

信長の案内役・接待役みてなところみたいですが、素直に読んで道空が道三の重臣である事が察せられます。問題は次の個所でマイナー武将列伝様より信長公記を長めに引用してみます。、

七月十八日おどりを御張行

一、赤鬼平手内膳衆
一、黒鬼浅井備中守衆
一、餓鬼滝川左近衆
一、地蔵織田太郎左衛門衆辨慶に成り候衆、勝れて器量たる仁躰なり。
一、前野但馬守辮慶
一、伊東夫兵兵衛辮慶
一、市橋伝左衛門辮慶
一、飯尾近江守辮慶
一、祝弥三郎鷺になられ侯。一段似相申し侯なり。
一、上総介殿は天人の御仕立に御成り侯て、小鼓を遊ぱし、女おどりをたされ侯。

津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊ぱし、それより清洲へ御帰りなり。

簡単には津島の盆踊りに信長が家来を引き連れて乗り込んだぐらいで良さそうです。やたら「弁慶」が多く、これが扮装なのか踊りなのかは不明ですが、信長が天人仕立ての「女おどり」であったのだけは確認できます。問題は踊った場所で、

    堀田道空庭

これを堀田道空の屋敷の庭と取って良いのかどうかです。津島は清州の西南部に位置するだけでなく、織田家の貴重な財源でもあります。道三の重臣である道空がこんなところに所領を持っていたとは到底思いにくいところです。可能性としてありうるのは・・・


美濃国諸家系譜:道空の父と道空

道空関連の資料が乏しいので困るのですが、美濃国諸家系譜には道空の家が載っています。そこから道空の父である堀田正道の系譜を引用してみます。

母祖父江駿河守頼徳女也 住尾州津島 明応九年庚申三月於津島戦織田大和守敏信同弾正忠信定等 打負美濃国落来 仕土岐美濃守政房 住厚見郡菅生村 後仕政房之子左京大夫頼芸 天承四年甲申七月 尾州津島之十一党大橋岡本山川等一所於濃州石津郡早尾村相戦織田備後守同彦五郎信友等 討死年五十一歳云々

或一伝曰 大永四年甲申七月 於早尾村正道戦死 後其子政兼初而美濃国落来 属土岐頼芸共云々

大意とすれば正道は尾張津島に住んでいたが、織田信定や信秀と戦って敗れ美濃に亡命したと取って良さそうです。美濃国諸家系譜にどれだけ信憑性が置けるかはさておいて、この記述を前提にすると道空の父の時代には津島に住んでいた事になり、信長が信長公記で踊ったとされる堀田道空庭とは、元堀田正道邸であったと解釈することは可能そうです。つうか屋敷は焼け落ちて庭だけ残っていたか、屋敷跡だったとする方が妥当な気がします。ちなみに尾州津島之十一党とは南北朝期に南朝方として戦った四家七氏のことでその中に堀田氏も入るとなっています。この四家七氏の協力を得て津島奪還を目指したものの堀田正道は敗れ討死したぐらいで良さそうな気がします。


道空の父の正道があれば道空の系譜も美濃国諸家系譜にあります。

文亀三年癸亥○月生於美濃国厚見郡菅生 母加賀守通利女也 或又日根野加賀守利就女共云々 室明智城主明智駿河守光継女也 仕斎藤山城守秀龍入道道三 始住厚見郡菅生城 後住同郡中島城蓋為斎藤道三長臣 所謂堀田正元入道道空 春日丹後守定藤 林駿河守通政入道道慶 河村備前守良迪 川島掃部頭唯重 道家助六郎定重 竹腰摂津守道陣等之右為家老職 天文十年 正兼為媒酌相談平手中務政秀以斎藤道三之息女嫁織田信長

弘治元年乙卯十二月八日死 年五十二歳 葬岐阜今泉常在寺

これによれば父の正道が津島から美濃に亡命してから生れたようです。道三の家老職であったと書いてあり、信長と帰蝶の婚姻にも深く関与したとなっています。ちょっとだけ目を引いたのは葬られたのが道三伝説に良く出てくる常在寺であるのと、死亡年を弘治2年としている点です。これが正しければ道三崩れの前年に道空は亡くなった事になります。


正徳寺

少し話を戻して道三と信長が会見した正徳寺ですが現在は名古屋市天白区にあります。もともとの創建は13世紀となっていますが、洪水の多いところで移転を繰り返しており、

    尾張国葉栗郡大浦 → 尾張国中島郡苅安賀 → 尾張国葉栗郡大浦 → 中島郡富田

こんな感じで動いています。信長公記には富田正徳寺になっていますから、中島郡富田の時だろうとの説が有力ですが、ただ寺伝では会見の時期の所在地は中島郡苅安賀となっており、そっちを推す説もあるようです。富田も苅安賀もそんなに離れている訳ではないので、その辺にしておきます。わかりにくかったのは道空が住んでいたとされる中島城ですが、調べると該当しそうな中島城は尾張国中島郡中島村にあるものぐらいになり、正徳寺にかなり近いところにあります。ただそこを比定して良いか悪いかはなんとも言えないところです。とりあえず中島城は中島郡中島村のものにしています。

それとこれも有名なシーンですが

途中、あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。

ここの「あかなべ」とは茜部と比定して良さそうです。ただ木曽川にしろ決壊を繰り返して何度も川筋を変更している訳で、地名の位置も変わっている可能性も残りますが一応明治期の地図に落としてみました。

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距離は稲葉山城から正徳寺まで直線距離で20kmぐらいですから、歩行距離にしたら22〜23kmぐらいでしょうか。清州城からは直線距離で30kmぐらいですから歩行距離にして35kmぐらいになりそうですが、道三はまだしも信長は日帰りできたんだろうかと思ったりしました。


美濃国諸家系譜:道空の兄弟

美濃国諸家系譜の紹介に過ぎないのですが道空の兄弟は

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次男の正貞は織田信秀に仕えたとされますが子孫無しとなっています。三男の十郎兵衛は46歳の時に道三崩れで明智城で討死なんですが、三男の子の次郎右衛門の娘が豊臣秀次の側室になったと書かれています。wikipediaより、

側室:尾張国住人堀田二郎右衛門・於輿免(およめ)の前

秀次の側室はwikipediaで確認できるだけで32人、さらに正室と継室がおりチョット驚いた次第です。ほいでもって次郎右衛門は佐々成政に仕えるとなっているのですが、どうも系図のつながりがわかりにくくて、

ループしている部分があるのがなんともです。


美濃国諸家系譜:道空の子

これまた美濃国諸家系譜からです。

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長男の市助は叔父の十郎兵衛と共に明智城で討死で子孫無しのようです。従って次男の正種の家系が嫡流になるのですが、道三死後に所領を押領され蟄居となっています。この点を考えると道空は道三崩れの前に亡くなっていたのかもしれません。尾張犬山あたりに蟄居していたようですが、

其後属明智日向守光秀 於丹波国三日市兼志賀郡大石三千石領

正種の母は明智光継の娘ですし、兄と叔父が明智城の攻防戦に参加し討死しているので、光秀が引き取ったって見ても良さそうです。それ以外の道空の子のエピソードは乏しいのですが、正喜の子の藤三郎が酒井忠次に仕えたと書いてあります。


美濃国諸家系譜:正種の子孫

これまたまた美濃国諸家系譜からです。

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長子の正久にはなんにも書いてありませんから若死にしたのかもしれません。次男正利と三男頼勝は小早川秀秋に仕えていましたが改易のために牢人となっています。ほいでもって頼勝は小早川家時代に平岡頼俊の養子になっています。牢人後は、

    正利・・・浅野幸長に仕えたが病死
    頼勝・・・徳川家に仕え慶長7年に美濃国徳野村で1万石

この正利の子が正盛なんですが、

慶長十三年戊申三月生 実ハ稲葉佐渡守正成之次男也 母は斎藤内蔵助利三ノ娘之号春日ノ局 或又一本ニ曰正盛ハ勘左衛門正利之実子ニ而正盛ノ妻ハ乃ち稲葉正成之長女也云々 乍然此説誤ナルベシ 正盛実ハ稲葉正成之次男也 依実母春日ノ局之由緒時召出将軍秀忠公 元和九年癸亥正月年十六而元服 直ニ叙従五位下 任加賀守授 (以下略)

正盛が正利の実子であるとの説は嘘であり、稲葉正成の次男だと言い切っています。そうなると道空からの嫡流は正利で途絶することになり、ここまで紹介したように美濃国諸家系譜では他の道空の血縁者は野に埋もれたぐらいになります。


美濃国諸家系譜の検証

固いところからいきます。稲葉正成と堀田氏の関わりはさすがにわかっていて、

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美濃国諸家系譜の「乍然此説誤ナルベシ 正盛実ハ稲葉正成之次男也」は誤りです。また美濃国諸家系譜での堀田正利は小早川隆景・秀秋に仕え牢人後に浅野幸長に仕えたとなっていますが、堀田正吉の経歴をwikipediaより、

当初、織田信長、そして浅野長政に仕え、文禄元年(1592年)より、小早川隆景、次代の養子小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦いののち、慶長7年(1602年)に秀秋が没すると、慶長10年(1605年)に江戸幕府に出仕し500石を給される。寛永元年(1624年)、福島正則が没するとその検視役として赴く。寛永6年(1629年)に59歳で没する。身分の低い自分が、子・正盛の出世の足手まといになると考えたことによる自害とされる。

堀田正吉は勘左衛門・正利とも名乗ったとされているので、美濃国諸家系譜が投影している正利は正吉として良さそうです。また堀田頼勝は小早川秀秋に仕えている間に平岡頼俊の養子になり平岡頼勝となったと美濃国諸家系譜ではしていますが、これもwikipediaより、

永禄3年(1560年)、平岡頼俊の子として誕生。はじめ諸国を流浪する浪人であったが、豊臣秀吉に才能を認められ、その家臣となった。秀吉の甥・小早川秀秋が小早川氏の養子として入った時、稲葉正成と共に秀秋付の家老となった。また、正室の従兄弟である黒田長政とは懇意であり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて長政と通じ、正成と共に主君・秀秋に東軍に寝返ることを勧めた。戦後は秀秋とは別に備前児島郡2万石を与えられ家老に任じられた。秀秋の乱心に家臣の多くが出奔する中で、最後まで秀秋に忠義を尽くした。秀秋死後は浪人を経て徳川家康に仕え、美濃徳野に1万石の所領を与えられた。

小早川秀秋の付家老として秀吉から送り込まれたのは平岡頼勝であり、この時期に父である平岡頼俊が生きているかどうかも疑問です。美濃国諸家系譜の堀田頼勝が平岡頼勝であるのは間違いありませんが、堀田家の人間ではないとして良いかと存じます。


堀田正吉

美濃国諸家系譜は堀田正信で終っているのですが、終盤部分にかなり誤りがあるのは確認できます。では美濃国諸家系譜の堀田系図がすべて誤っているとするのも行き過ぎです。家系図を製作する時には、既にあった家系図に自分の家系を接続することが多く、さらに飾ったり伏せたりしている部分もたくさんあります。嘘と真実がカオス状態なのが家系図と思ってもらったらよいでしょう。

ここで堀田正吉も出自がはっきりしない人で父はwikipediaでは堀田正秀となっていますが、これも調べてもよくわからない、いやまったく情報がない人物です。ただ美濃国諸家系譜には気になる人物が存在します。道空の父とされる正道の兄弟には、

    正道・・・道空の父
    喜左衛門・・・降参信秀 住尾州中島郡
    滝川三郎
    女子

美濃国諸家系譜で堀田氏の家祖とされるのは政安ですが系譜には

尾張国中島郡中野市枝堀田賜荘園 住堀田ノ郷 因テ初テ氏ヲ称堀田ト云々

将軍実朝に仕える云々の話もありましたから、そこ頃のお話のようです。この後も尾張国中島郡に住んでいるの系譜が断続的に出てきます。他の資料でも堀田氏が尾張国中島郡に勢力を持っていたとなっていますから、家祖伝説の真否はともかく、堀田氏の本拠地は尾張中島郡で良いかと思います。さらに道空の弟の正貞の系譜には、

仕織田備後守信秀 一説ニ実ハ喜左衛門某ノ子云々

堀田正吉のwikipediaの経歴を信じれば最初に仕えたのが信長となっており、道三との由縁は書かれていません。美濃国諸家系譜をベースに堀田氏の家系図を再構成すれば、

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美濃に移り住んだ道空と別系統の堀田氏と見た方が良さそうな気がします。ここも正貞の子が正吉であるかどうかは不明ですが、確実に尾張中島郡に堀田氏の一族が住んでおり、その一族は織田家に仕えていたぐらいは言っても良さそうです。


堀田道空庭

美濃国諸家系譜を読んでいると代々堀田氏が尾張中島郡に住んでいたのは判るのですが、道空の父の代に突然って感じで津島に住んでいる感じがします。ひょとっしたら道空の祖父の正純が関係しているのかもしれません。

たぶん「尾州佐屋台尻」と読むんじゃないかと思うのですが、船軍の大将であったとしています。水軍として行動していたのなら、尾張の南部地域が活動範囲であった可能性が出てきます。つまりは津島と関係が出てくるってところです。それと水軍大将であればタダの軍隊ではなく交易商人でもあります。尾張の交易の大拠点は当時は津島であったとして良いかと思いますから、道空の先祖にあたる堀田氏の一族が津島に住んでいたとしてもおかしくはありません。

そいでもって系図ではよくある事なのですが、道空の父とされる正道と道空は同一人じゃないかとも考えています。道空が道三の家臣であったのは史実ですから、津島に住んでいた道空がなんらかの理由で美濃に行き道三に仕える理由が必要です。これが津島を欲しがった織田信定・信秀に追い出されたすると考えるのが一番筋が通ります。道空が道三の重臣になれた理由なんてどこにも書いていないのですが、この仮説が当たっているのなら、

  1. 水軍(交易商人)出身なので見聞が広い
  2. 美濃尾張国境線に勢力を持つ堀田氏の一族である

道三の尾張方面担当大臣みたいな地位ではなかったかと想像します。そう考えると信長と帰蝶の婚姻に関係しても当然ですし、正徳寺会見でも重要な役割を果たしていたと見て良さそうです。富田の正徳寺は信長と道三の勢力の接点地域で守護不入の中立地帯であったとされますが、正徳寺の周囲は堀田氏の勢力圏です。正徳寺会見にあたって堀田氏の了解も必要であったというか、

  1. 道三側から見れば道空が堀田氏を抑えてくれる
  2. 信長側から見れば堀田氏は臣下である

こういう条件もあったから会見が実現したのかもしれません。


信長公記の津嶋の堀田道空邸ですが、本当にあった可能性はあります。「水軍大将 = 交易商人」として軍事と言うか領主としての堀田家は津島から追い出されたとしても、商業部門の堀田家が残っていた可能性がまず一つです。また道空が尾張方面担当大臣あれば織田家からも所領を与えられていた可能性があります。さすがに津島を与えないでしょうが、道空の故地である津島に道空邸を建てるのを許したぐらいはあるかもしれないぐらいです。津島おどりで信長がわざわざ道空邸を使ったのは、道三とのつながりの政治的アピールぐらいでしょうか。


堀田道空とその子孫は?

美濃国諸家系譜はどうも道空の子孫に尾張の堀田氏を接続した気配が濃厚です。なぜそうしたかは不明ですが、考えようによっては本当の道空の子孫は武家としては殆ど残らなかった可能性があります。美濃国諸家系譜では道空の死は道三崩れの前年となっていますが、どちらにしろ道三崩れで道空の一族は壊滅状態になったと考えた方が順当そうです。一説には道空は後に秀吉に仕え、さらに大坂夏の陣まで健在であったとしていますが、いくらなんでも長生きし過ぎの感じがします。

もし大坂夏の陣に道空がいたとしても、これは道空の子孫であったと見る方が自然です。また、もし居たとしても今度は大坂で死んだんじゃないかなぁ、それとも野に隠れたのかは不明です。それでも美濃国諸家系譜にあんな系図が残るぐらいですから、家臣クラスで生き残っていたのはいたかもしれません。とにかく江戸期の堀田氏は枝葉が多すぎて、ここから先のムックは困難でした。


オマケ・菊女奇譚

美濃国諸家系譜では道空の嫡流は正種に流れ、正種は光秀に仕えたとなっています。この正種の姉に菊女がいるのですが、

浅野内蔵助

天正十年壬午 月生於江州志賀郡 実ハ明智日向守光秀之子也 母ハ正種娘菊女也 天承0年六月十三日山崎合戦之時 前日堀田正種ハ兼テ蒙君命相伴我娘出幼君落行志賀郡大石村爰ニ蟄居 而密ニ養育之一説ニ蟄居於美濃国不破郡大石村共云々 或ハ又曰乳父大石卒左衛門ナル者是ヲ介抱而落行古郷江州大石村養育ス共云々 正種嫡子孫太郎正久ハ受父之命 出陣於山崎表忠死ス 次男正利ハ移西国 仍正種後ニ此外孫為吾子譲家督 ○○○堀田十郎兵衛ト成長之後 仕甲州府中城主浅野左京大夫源幸長 ○有武功且依正シキ父母之由緒賜主家之名字 入一門之列 後浅野内蔵助領壱万石 慶長六年卒

要約すれば、正種の姉の菊女は光秀の寵愛を受け、山崎の合戦の年に光秀の忘れ形見を産んだとまずなっています。ほいでもって山崎の合戦の前日に堀田正種は光秀の密命を受けて、乳呑児を抱えて落ちていったとし、正種は光秀の遺児を嫡子として堀田十郎兵衛として密かに育てたしています。堀田十郎兵衛は浅野幸長に仕え武功があり、父母の由緒も正しいことから浅野の名字を賜り浅野一門に列し、浅野内蔵助として1万石を領したってお話です。ちなみに浅野内蔵助の息子が浅野伊織で、浅野長晟に仕え、同じく1万石としています。

忘れ形見伝説の一つぐらいなのですが、この伝説にはオチがあって、浅野伊織が大石内蔵助の祖父に当たるって話で終ってます。まさかこの伝説のために美濃国諸家系譜の堀田氏系図が書かれていないと思うのですが・・・

mino阿弥mino阿弥 2017/03/03 15:22 「美濃明細記」には、斎藤道三の執権として堀田道空入道、日根野備中守、春日丹後守、武井肥後守助直、林駿河守入道道慶とあります。
津島の四家七名字は、佐屋村の台尻大隅守を討ったとされますから七名字の一つ堀田氏のことだと思います。
「美濃国諸家系譜」には、正兼或は正元堀田孫太郎又は孫左衛門佐渡守入道道空とされ母は加賀守通利女或は日根野加賀守利就女と書かれています。
林駿河守通政入道道慶の室は高須城主で四家七名字の筆頭大橋重一女とあり
美濃との関わりが窺われます。
津島は、木曽川などの水運の発展していた流域であったため堀田氏も水運に深く関わっていたのではないかと思います。
正兼の母は加賀守通利女或は日根野加賀守利就女とされていますが、最初の妻は「美濃国諸家系譜」にも出名する林加賀守通利女であったのではないかと推測しています。年代的に精査できず少し苦しいところもありますが。
そう考えると伊予河野水軍の末裔を標榜する稲葉、林氏と水運といった点で関わりができ、一種の閨閥関係があったのではないかと思われ、のちの春日局云々ということもありうることではないかと思います。
群書類従巻第百六十七河野氏系図の1本は、巻末に尾州海邊郡津島大橋角之丞源貞信花押があり大橋氏が書いたものと考えられます。
その理由を推測すると、信長によって追放された林佐渡守通勝(秀貞が実名か?)の養子に稲葉佐渡守正成の父で林駿河守通政の子正三が大橋家お預かりとなっていて、林佐渡守が改易になったあと正三が母の実家である大橋家に身をよせていたとする伝承があるためです。
のちに大橋家が、稲葉家や春日局などとの関わりを主張するために河野氏系図を作成したのではないかと思います。
確実な史料は見当たらず、全て推測となりますが。

mino阿弥mino阿弥 2017/03/03 17:11 四家七名字については、「浪合記」がどの程度信頼のおけるものかということにも関わってくると思います。宝賀寿男氏の小論もあり、現実に菩提寺や位牌などもあるようですから、信用したいのはやまやまですが。
美濃の椿洞には後醍醐天皇の第十一皇子無文元選禅師開山の了義寺があり、河野伊予守通村建立という伝承があります。のちに浜松市引佐町の方広寺開山として美濃から移っていますが美濃の了義寺には宗良親王が来訪したという伝承もあります。
無文元選禅師の近辺には津島四家七名字との関わりについての伝承もなく少し疑問です。
時代が違うため接触がなかったのか、しかし方広寺には宗良親王や無文元選禅師の位牌もあり、良王親王など津島に関わる何らかの伝承が残っていても良さそうですが?

YosyanYosyan 2017/03/03 19:07 mino阿弥様

堀田道空は歴史小説や時代劇の影響で名前だけは有名なのですが、実像は殆どわかっていない人物です。たぶん1級資料で出てくるのは信長公記ぐらいじゃないかと思っています。正徳寺の会見にいたのは確実として、問題は津島で信長が堀田道空邸の庭で踊ったとの記録です。これを誤りとしてしてしまうのもアリですが、当時の今川氏との状況を考えると頭から否定できないと考えていますす。つうか数少ない1級資料を無視すると道空への手がかりが無くなってしまいます。

道空は中島郡の堀田氏の一族ではあるとまず見ています。堀田氏が津島に拠点を置くとなると陸続きではまず無理として良いかと思います。キチンと境界線が引きにくい時代とはいえ、中島郡と津島の間には距離と障害が多すぎるってところです。そうなると線で結ぶのが一番合理的な見方と考えています。津島と言う当時の尾張の大交易地点は水路は南は海からですが、北は河川舟運と見るのは無理が少ないところです。さらに舟運と言う視点から見ると、尾張国内だけではなく美濃まで通じています。堀田氏と津島を結ぶのは河川という線であると見るのが一番無理がないと考えています。

それと中島郡の北隣は川を越えると美濃ぐらいであったと見ています。国境線沿いの豪族は隣国とも関係を結んでいるのは良くあることで、とくに美濃尾張の国境は険しい山ではなく川ですから、往来が便利な分だけ関係も多いと見るのが自然だと思います。とくに舟運による商売も重視していたら、美濃の豪族は顧客でもありますから大事にすると思います。

出来得れば当時の河川交通の研究があれば良かったのですが、そこまでは手が回っていません。