新小児科医のつぶやき

2017-05-16 摩耶花壇ふたたび

摩耶花壇については何度かムックしているのですが、最近また摩耶山に登ったのでまずは近況です。

わずかに残っている壁の部分も崩壊しそうなので補強工事が行われているようです。ここも補足しておくと摩耶山観光はかつては天上寺参拝がメインでした。天上寺参拝のために今もある摩耶ケーブルが敷設されています。戦後は掬星台に奥摩耶遊園が建設され摩耶ケーブル摩耶駅(現在は虹の駅)からロープーウェイも作られています。ところが奥摩耶遊園も廃園になり、天上寺も1976年に火災で失われ移転してしまいます。そのために摩耶山にあった観光施設は廃業していかざるを得なくなります。

そんなかつての摩耶山繁栄を偲ぶ廃墟を摩耶遺跡として観光地化しようとしているのが最近の動きです。摩耶遺跡と言っても建物として存在するのはマヤカン、旧天上寺山門、高尾大明神、摩耶ケーブル駅、摩耶ロープーウェイ駅ぐらいですから、摩耶花壇の残骸も壊れてしまったらマズイぐらいの判断でしょうか。たしかにいつ最後の壁が崩壊してもおかしくない状況ですから、観光地化するなら出来れば残したいのでしょう。余談ついでですが、天上寺も奥摩耶遊園もなくなっても運行しているケーブルとロープーウェイこそが最大の摩耶遺跡じゃないかと感じた次第です。

摩耶花壇の調査については摩耶花壇様が熱心に取り組まれています。時々見に行くのですが、段々に情報が充実しています。とにかく摩耶花壇については情報が乏しいのですが、新たな画像情報を上げられていたので紹介しておきます。既にご紹介したものと合わせて3つ並べて見ます。

1925年(大正14年) 1927年(昭和2年) 1930年(昭和5年)

大正14年のものは開業を伝える神戸又新日報のものですが、写真を見る限り屋号も何も書いてありません。この辺は写真の精度と修正が入った可能性も残りますが、次の昭和2年のものは玄関の渡り廊下のところに「摩耶花壇」の屋号が入っています。さらに昭和5年になるとアサヒビールリボンシトロンが出てきます。だからどうしたって話ではないのですが、注目したいのは摩耶花壇の向かいの建物です。ここについては

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これぐらいしか情報がなかったのですが、こうやってみっると屋根には看板らしきものがあり、微妙な点は多々残りますが屋根の形状が摩耶花壇によく似ています。現在はどうなっているかというと、

妙に立派なコンクリート基礎だけが残されています。今回の画像でわかるのは昭和2年段階で確実に存在するだけなんですが、断片的な情報から判断するとこの平屋の建物もやはり摩耶花壇の一部であった可能性が高そうに思えます。ただですが摩耶花壇とは違い木造の感触があります。摩耶花壇は戦後の混乱期に解体され、その廃材を使ってバンガロー村を作ったとなっています。バンガロー村はゼンリン地図からも確認できますが、取り壊した摩耶花壇跡には、

こういう建物がありました。現在はこの画像の左側部分が崩れ右の壁だけ残っているのですが、ひょっとしたらこれって向かいの建物を移築改造したものじゃないかと思い出しています。傍証としては屋根の形態で、摩耶花壇及びその向かいの建物に似ている気がします。推理推測に過ぎないのですが、摩耶花壇の向かいの建物は職員宿舎的なものであった可能性もあると考えています。摩耶ケーブルは開通していますが、宿泊施設でもあるので職員が泊まり込む必要があります。

摩耶花壇本体の中に職員の宿泊設備があった可能性も否定しませんが、残された画像からするとあんまりスペースに余裕はなさそうな気がします。だから本体とは別に職員宿舎とか事務部門の建物があったぐらいの想像です。画像だけの判断ですから怪しい部分は多々ありますが、本体が鉄筋コンクリート造りに見えるのに対して、道向かいの建物が木造ぽく見えるのは営業用の建物でなかったからかもしれません。それと戦後の一時期に経営者の家族が摩耶花壇に住んでいた情報もありますが、住んでいたのは本体ではなく向かいの建物だったかもしれません。

言い出せばキリがないのですが、摩耶花壇が解体されたのは事実で、一時バンガロー村が立てられたのも事実として良いでしょうが、摩耶花壇の本体は壊してもバンガロー村の資材にできる部分は少ない気がしています。木造ならともかくコンクリート造りなら転用できる部分が限定されてしまうからです。むしろ向かいの建物の資材を転用した可能性も残る気がします。ただそれならば残る謎として、コンクリート造りの本体を何故に手間かけて壊したんだろうです。修復するのが無理なぐらい傷んでいたぐらいの説明でエエのかなぁ? 壊し方もかなり雑な感じがあって、

柱と言うか壁の部分の残骸が結構残っています。まあ本体も基礎部分はコンクリートでも、建物部分は木造であった可能性は残るのでなんとも言えないところです。それとこの部分は摩耶花壇の玄関部分にあたると推測しています。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、地下室に入る階段も確認できるのですが、これはどうも摩耶花壇の外側にある感じがします。地下施設は厨房ぐらいを考えていますが、ここ以外に出入口があったのかどうかは不明です。最後にもう一枚、現在の摩耶花壇の写真なんですが、

摩耶花壇と書かれた看板の左右に2つのロゴが見えます。左側はアサヒビールなんですが、右側は三ツ矢サイダーに見えます。かつてはアサヒビールとリボンシトロンだったのですが、大日本麦酒が1949年に朝日麦酒と日本麦酒(現サッポロビール)に分割された時にリボンシトロンは日本麦酒のものになっています。そのため朝日麦酒はソフト飲料の主力をバヤリースにしています。wikipediaより、

1951年(昭和26年)には朝日麦酒がゼネラル・フーズとバャリース・オレンヂの一手販売契約を締結した。

そうなるとこの看板が作られたのは1951年より前の可能性が出てきます。絞れば1949年から1951年の2年ほどの間に旧摩耶花壇本体は解体され、現在の木造の店舗に変わったんじゃなかろうかです。謎は残りますが、今日はこの辺で。

BugsyBugsy 2017/05/17 14:15 友人のカメラ付きは夜の廃墟を思い切り露出時間を長くして撮影しています。出来上がりはものすごく幻想的なんです。そんな使い方のできる場所であってくれれば 彼は喜んで馳せ参じるでしょう。

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