新小児科医のつぶやき

2017-02-06 永禄六年諸役人附をもうちょっと詳しく見てみる

慌てて書いたら良くなかったみたいで、原本に近いものがあるので見直してみます。


構成の見直し

これがいつ書かれたかについては永禄10年2月から永禄11年5月の間とする説があるようで、義昭が金ヶ崎から信長の下に上洛のために転がり込んだのが永禄11年7月ですから、金ヶ崎時代に書かれたものとして良さそうです。でもって永禄6年と銘は打たれていますが、

20170206143316

光源院殿とは義輝の戒名ですから、義輝の死後に書かれたものであるのは確実です。全体の構成は

  • 前半部は義輝時代
  • 後半部は義昭の金ヶ崎時代

こうなっています。何故にこんな構成にしたのか不明ですが、強いて考えると義昭はこの時点で正式に将軍になっていないので、義輝時代の諸役人附をまず書き、これに引き続いて次期内閣ぐらいとして書いたぐらいが想像できます。役名が並んでいるのですが、義輝時代と義昭時代でちょっと比較してみます。

義輝時代 義昭時代
御伴衆 御伴衆
御部屋衆 御部屋衆
申次 申次
外様結衆以下 詰衆番衆(一番〜五番)
御小袖御番衆
奉行衆 奉行衆
同朋衆 足軽衆
御末之男 奈良御伴衆
足軽衆 御小者
* 諸大名御相伴衆以下
* 同朋衆
* 御末男
* 外様衆、大名在国衆
* 関東衆

曲がりなりにも二条御所で幕府を営んでいた義輝と金ヶ崎で亡命中の義輝では差があっても不思議ないのですが、少々違う点はあります。


役職名について

室町体制の職制の知識は怪しい部分が多いので粗いですが、筆頭は管領で細川・斯波・畠山の三家が受け持っていました。しかし管領の権威も三管の家も衰弱し永禄6年の細川氏綱の死で廃絶したとなっています。ですから抜けているぐらいでまず良さそうです。次は御相伴衆なのですがwikipediaより、

戦国時代に入ると、朝倉孝景北条氏康尼子晴久斎藤義龍毛利元就、毛利隆元、今川氏真、大友義鎮、伊東義祐、河野通直 (弾正少弼)など在京して将軍に随従する事もない地方の戦国大名が任じられる例も増えて、役職としての意味合いは希薄化して大名の格式を示す身分としてのみ存在するようになる

御相伴衆の次には国持衆、準国主衆、外様衆が来るのですが、御相伴衆と同様に在京している者がいなくなってる訳で、格式と身分だけが残っていたぐらいでしょうか。どうも実態がないので義昭時代でも末尾に並んでいる気がします。そうなると実質的に一番格式の高いのは本来6番目の御伴衆になります。以下は

    御伴衆 → 御部屋衆 → 申次衆 →(節朔衆)→(走衆)

ほいでもって足軽衆と御末男とはなんぞやですが、大辞林より

将軍に近侍して警衛にあたった上級武士は番衆と呼ばれ,雑役にあたる下級の侍は恪勤と呼ばれて区別されていた。室町中期以降になると恪勤侍は職掌によってさらに御末衆(御末(おすえ))と足軽衆の二つに分けられていたようである。このうちの御末衆は,主として殿中の宿直や配膳を務め,将軍に御膳を進める際には,御末衆が器を捧げて同朋へ渡し,同朋がこれを近侍の御供衆へ渡し,御供衆が将軍の御前に進めた。

えっとえっと、とりあえず将軍側近のうちで

    上級武士は番衆
    下級武士は恪勤

下級の恪勤武士は2つに分かれ

    御末衆・・・配膳関係かな?
    足軽衆・・・なにしてたんだろう?

足軽衆の職掌について具体的に書かれていなかったのですが、御末衆が室内の雑務が主体のようなので、室外の雑務が主体であったのかもしれません。たとえば門番とか、庭掃除とか、馬の世話とかです。同朋衆と御末衆の関係も

    将軍に御膳を進める際には,御末衆が器を捧げて同朋へ渡し,同朋がこれを近侍の御供衆へ渡し,御供衆が将軍の御前に進めた。

これを読む限り「同朋衆 > 御末衆」としても良さそうです。ただ序列は義輝時代と義昭時代では異なっています。

    義輝時代・・・同朋衆 > 御末衆 > 足軽衆
    義昭時代・・・足軽衆 > 同朋衆 > 御末衆

義昭時代になると戦力としての足軽衆の役割が重くなったのかもしれません。並びからすると下級武士の筆頭職みたいな感じでしょうか。永禄六年諸役人附のタイトルにも

当参衆並足軽以下衆覚

この意味は当参衆が上級武士を指し、足軽「以下」衆が下級武士である事を示し、下級武士の中でも筆頭が足軽衆であったと解釈できない事もありません。


藤孝と光秀

二人がどこにいるかですが、

藤孝は義輝時代から最重職の御伴衆にあり、光秀は足軽衆の末席で名字だけで名前なしという待遇です。私は素直に「明智」を光秀と解釈しますが、光秀の記載状況からして歴史小説によく書かれているような義昭と特別な関係はなさそうな気がします。一方で藤孝と光秀は信長時代になると個人的にも親密であったとしても良さそうです。光秀の才器は優れていたのは間違いありませんから、義昭時代は藤孝が光秀に目をかけていた関係だった気がします。その基本はあったと思いますが、光秀がいつから義昭の下にいたのかの資料は存在しません。それでも義昭が将軍後継に動き始めたのは永禄8年からであり、近江矢島から金ヶ崎に移ったのは永禄9年です。一方の光秀はwikipediaより、

『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の旅行記)に知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人だったが、越前国朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた」と記述

これが光秀の朝倉家仕官説の根拠だったのか。。。そうなると一番ありえそうなのは、金ヶ崎滞在中に藤孝が光秀を見出したとするのが自然そうです。藤孝が織田家工作の担当だったのも確からしいですから、美濃の土岐家の一族と言うのも魅力的だったのかもしれません。つか光秀が帰蝶との関係を売り込んだ可能性もないとは言えません。どっちにしても流浪の義昭に仕官するぐらいですから朝倉家時代の光秀は、余程不遇だったと歴史小説家が見るのは当然そうってところです。

朝倉家での光秀の不遇の傍証ですが、戦国期では能力のない主人を見限って致仕し他家に仕官するのはさほど珍しいものではなかったとされます。この転職の時に禄高とか与えられる地位は重要だったそうで、前より低いのはプライドとして許せなかったとも聞いた事があります。光秀の場合は転職先が将軍家ですから必ずしも同列にしにくいのですが、それでも採用された時は下級武士である足軽衆ですから、朝倉時代の待遇も下級武士であったのかもしれません。

う〜ん、ヒョットして金ヶ崎に来て足軽衆が足りなくなったので現地採用を行った時に光秀が応募したのも・・・可能性ぐらいはあるかもしれません。世襲が濃厚な将軍家であっても下級武士なら門戸は広かった、とくに金ヶ崎流浪中ですからあっても不思議とは言えないぐらいにしておきます。

minomino 2017/03/02 09:10 「永禄六年諸役人附」は二部構成
義輝期は永禄六年(1563)五月
義昭期は永禄十年(1567)二月から同十一年五月と推定(黒嶋敏氏の学説)
永禄六年には進士源十郎藤延が出名
義昭期にの足軽衆の項にある「明智」は光秀のことであるが後世の追記とみなされ意味をなさない。
本来は、「主馬頭」などの官途名を記すが任官前の場合は仮名の「源十郎」などの通称を使用。
また「藤延」などの実名も追記の疑いがある。
明智と同じく真木島なども追記の疑い。
(参照)黒嶋敏「光源院伝御代当参衆幷足軽以下衆覚」を読むー足利義昭の政権構想ー(東大史料編纂所研究紀要)十四、2004年

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2017-02-05 明智光秀ムック

ツヨシ様より、

小林正信氏の学説です。
明智光秀は進士氏」の経緯 織田信長が美濃で基盤作りの為に、室町幕府奉公衆の進士晴舎の長男である進士藤延に美濃の名族である明智氏(明智光秀)を名乗らせたのが真実だ。 室町幕府奉公衆の明智氏は当時、内紛によって菅沼氏と妻木氏に別れて明智氏は既に滅亡していた。 進士藤延は母方の妻木氏の前の本姓である明智氏を名乗り美濃の勢力を基盤に織田信長の信頼を得る事に成功したのだ。 進士氏は鎌倉幕府の頃より続く名門であり室町幕府の諸作法を伝える包丁式で有名な進士流の一族である。 室町幕府奉公衆の明智氏の代わりに進士氏の出身ならば充分な家柄だった筈だ。 実際に朝廷との交渉や公式な儀式は明智光秀が取り仕切り高く評価されている。 幕府直属でない織田の家臣とは当然に要求される職務が異質であったのは明白で歴史考察したならば明智光秀が進士藤延である事は自然な事だと思われる。
足利義輝の側室とその子供が応仁の乱で殺されずに生きて脱出。
それを隠す為に殉職した筈の進士藤延が明智光秀と名を変えて歴史に登場するしたのが真実だと。
ならば今ある家系図は偽系図ばかりな筈だ。
系図ばかりで考察しても真実には辿り着かないだろう。
明智光秀を調べてみるなら進士氏を隈なく調べた方が早道ではないのでしょうか?

小林正信氏か・・・別に恨みはないですが、個人的な感触としてチト見方に偏りと言うか、自説の補強のために力業が目立つ気がしています。この辺は他人の事を言えた義理ではありませんが、歴史ムックを楽しむ素人と専門家の差ぐらいに御了承ください。


小林説に賛同する部分

光秀が織田家の京都外交を担っていたのは史実だと思います。織田家は出来星大名とよく評されますが、老舗大名との違いとして礼法を熟知した人材に乏しかった点はあると思います。戦国期であっても礼法は小さくない部分を占めており、老舗武家であるほど礼法に敏感と言うか気を使っていた「らしい」記録は散見されます。礼を欠くとは大失態で面目を失う恥しい行為ぐらいです。もっとも信長が礼法を尊重したかどうかとなると逆の気がしますが、信長とて京都外交となると礼法を重視せざるを得ないぐらいだろうです。

通説では光秀は田舎ではあっても名門老舗武家の生れであり、そのために礼法だけでなく古典教養にも通じていたとなっています。歴史小説では道三の薫陶を受けたとしているものが多いですが、道三と光秀の関係を示す資料は実際になく、明智光安との道三の交流、さらに光安の娘である小見の方が道三に嫁ぎ、信長の正室になる帰蝶を産んでいるあたりから「たぶん」光秀と道三も濃い目の交流があっただろうぐらいの想像として良さそうです。

道三とは無関係でも老舗武家なら室町礼法に通じ、古典教養を身につけていても不思議はないのですが、光秀が担当したのは京都外交です。武家だけではなく貴顕紳士と呼ばれる公家や寺社の僧や神官、さらには有力町人が古典教養と礼法を守っているというか、そこにプライドをかけて存在しているわけです。とくに田舎者に対しては重箱の隅をほじくり返すように失態を指摘して嘲笑する土地柄です。そんなところに田舎で礼法と古典教養を身につけた程度の人物で通用したんだろうかです。

礼法も教養も実戦の中で磨かれる部分は多分にあります。礼に対して非常に厳しい者を相手にすることにより洗練されるってところです。古典教養も知っていれば良いレベルでなく、古典を使っての掛け言葉、洒落、皮肉を駆使し、それへの当意即妙な対応も要求されます。この辺は想像になりますが、言葉は常に変化していますから古典の使い方もトレンドを把握している必要があります。こうやって考えていくと田舎のポッと出の教養人程度ではなかなかハードルが高そうな感触をもっています。これが小林氏の主張する通り、

    明智光秀 = 進士藤延

こうであれば礼法と古典教養の問題だけでなく人脈問題も解消します。その点で面白いと思ったのですが、問題はそんな簡単に結びつけることが出来るかどうかです。


進士晴舎

進士晴舎は実在の人物で、娘を義輝の側室にあげ寵愛を受けていたなっています。ソースはルイス・フロイスの日本史からで

  • 公方様の夫人は、実は正妻ではなかった。だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であったのみならず、彼から大いに愛されてもいた。したがって世間の人々は、公方様が他のいかなる婦人を妻とすることもなく、むしろ数日中には彼女にライーニャ(=王妃)の称を与えることは疑いなきことと思っていた。なぜならば、彼女はすでに呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように人々から奉仕され敬われていたからである
  • コジジュウドノ(小侍従殿)と称されたこのプリンセザは・・・(以下略)

進士晴舎は義輝の奉公衆であったとされますが、奉公衆とはwiipediaより、

  • 鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。
  • 成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、応仁の乱などでは共同して行動している。
  • 奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収や京済(守護を介さない京都への直接納入)などの特権を与えられていた。

進士氏も歴代の奉公衆であったとして良さそうで、晴舎は娘が義輝の寵愛を受けたことから有力な位置であったであろうぐらいは推測できます。奉公衆は義輝の側近であり、老舗武家との折衝はもちろんのこと、朝廷を始めとする京都の貴顕紳士との交際も遺漏なく行っていたでしょう。その息子であれば、晴舎の地位を継ぐべく礼法や古典教養を十分に身に付けていても当然で、京都外交でも「義輝の奉公衆であった晴舎の息子」として十分通用する顔を持っていたはずです。


永禄の変

これは義輝が三好氏の襲撃を受けて討死してしまう事件です。時代劇では義輝が足利重代の刀を次々に振り回して三好勢を切りまくるシーンがよく出ますが、この時に進士晴舎も死んだのは間違いないようです。問題は義輝の愛妾小侍従でwikipediaより、

多勢に無勢の中、昼頃には義輝主従全員が討死し、生母の慶寿院(近衛尚通の娘で12代将軍足利義晴の正室)も自害した。義輝正室(近衛稙家の娘)のほうは近衛家へ送り届けられたが、義輝の寵愛を受け懐妊していた側妾の小侍従(進士晴舎の娘)は殺害された。

小侍従は一旦は二条御所から逃げ出したそうですが、見つかって殺されたとするのが定説です。小林説はここから綾を広げます。小侍従は実は殺されておらず落ち延び進士藤延が保護しただけでなく、小侍従は男児を産んでいたとしています。後はこの仮定の補強が延々と400ページに渡って続くそうです。(ゴメンナサイ、読んでません)

小林説では光秀が織田家で有力な地位を得たのは、義輝の遺児を預かっているおり、光秀が幕臣の有力者として幕臣の武力を動員できる力を持っていたからだとしています。


義昭と光秀

義昭は義輝の弟で、義輝殺害後に将軍の座を目指したぐらいで良いかと思います。最初は六角承貞に頼りましたが、断られたために近江屋島から若狭の武田氏を頼ったものの、ここも弱小の上に内紛があったために朝倉氏のもとに逃げ込みます。たぶん朝倉氏にも頼ったんでしょうが、朝倉氏も庇護はしたものの上洛戦をやる気はサラサラなく、義昭は上杉と織田に助けを求めたとなっています。この時に織田氏との折衝役であったのが細川藤孝であったのはほぼ間違いないようです。

これはソースを確認できていないのですが、信長は永禄9年段階で一旦は上洛を了承し、斎藤家と4月には和睦し8月22日には上洛すると藤孝に約束したとなっています。どうも無理があるというか、この話が本当であっても信長の謀略の一環であった気がします。信長は永禄10年に稲葉山城を落とし斎藤氏を滅亡させますが、この間も義昭と信長は連絡を取り合っていたとなっています。ただ藤孝は永禄9年の失敗で織田家担当から外れたというか、一歩引いた形になり「どうも」光秀が織田家との折衝のメインになったんじゃなかいと推測されています。

さて光秀の名が初めて登場する古文書は永禄六年諸役人附とされているようです。これは幕府の役人衆の名前を整理したもののようで、前半は義輝時代のものであり、後半が義昭時代のものと考えられています。義昭時代の「いつか」になりますが、永禄10年2月から永禄11年5月の間とする説が有力なようです。信長の上洛戦が永禄11年9月で、義昭が信長の下に転がり込んだのが永禄11年7月ですから、金ヶ崎時代に作られたもので良さそうです。そこでの光秀の地位は

    足軽衆

ソースが見つかったので貼っておきますが、

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足軽衆といっても戦国用語の足軽ではなく、将軍側近つうか近習の地位の用語のようです。非常に大雑把に分類しておきますが、

  • 側近の上の方は番衆となり、奉公衆や奉行衆、申次衆などがいる
  • 側近の中でも地位が低く、宿直や雑務を行う者を足軽衆。御末衆と呼んだ

光秀は義昭側近ではありましたが、地位的には低そうです。もちろん足軽衆を経て番衆にステップアップする慣習があったかもしれませんが、この頃も世襲が強力ですから光秀の家柄は足軽衆程度ではなかったかの見方も有力のようです。この辺は小林説への疑問となっており、歴代番衆の進士家の跡取り息子であり、義輝時代には番衆の筆頭であったとも見られる進士晴舎の息子の扱いにしては軽すぎるの見方です。小林説では足軽衆の明智ではなく詰衆番衆五番(組)の進士知法師こそ光秀としていますが、どんなものだろうです。ちなみに藤孝はどんな地位にいたかですが、

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見れば歴然ですが将軍の側近中の側近の地位として良いのが確認できます。藤孝が織田担当の外交官であったとしたら、足軽衆の光秀は従者ぐらいの関係でもおかしくなさそうです。おそらく歴史小説で膨らませている部分はこの辺りで、光秀は義昭の実質的な有力側近であったが、地位としては低く扱われたぐらいの出どころのような気がしないでもありません。


信長と光秀

永楽9年から11年にかけての義昭と信長との折衝で個人的に一番ありえそうなのは、

  1. 永禄9年段階で藤孝は信長が義昭の上洛を助けるとの約束は取り付けたものの、結局反故になった。
  2. 藤孝は金ヶ崎の義昭の下に帰ったが、光秀は連絡役として織田家に残った
  3. 美濃を征した信長は時が来たとばかりに光秀に義昭上洛援助の実行を約束した

信長の上洛は永禄11年ですから、上洛後の京都での織田外交を任せられる人物として光秀を高く評価して雇い入れたぐらいのストーリーです。光秀が優秀であったのは史実して良いからです。ここで光秀の所属問題が出てきます。足軽衆といえども幕臣なので信長にも仕える事が可能かどうかです。ここは簡便にwikipediaから、

奉公衆は守護から自立した存在であったために守護大名の領国形成の障害になる存在であったが、在国の奉公衆の中には現地の守護とも従属関係を有して家中の親幕府派として行動する事例もあった

奉公衆でもそうであるなら、足軽衆ならなおさらの見方を取っても良い気はします。光秀の心中はわかりませんが、小林説とまったく逆の可能性もあり得ると思っています。小林説は流れとして光秀を室町幕府の守護者的な位置づけにしていますが、そうではなく信長から義昭側近に打ち込んだ楔みたいなものです。小林説では信長上洛後に義昭側近の筆頭に光秀が躍り出たのは不可解としていますが、光秀のバックに信長がいたのならさほど難しい話ではなさそうな気がします。

義昭は上洛して将軍宣下を受けた後に、信長にあれこれ重職を褒美として与えようとしますが悉く断られています。そういう時期に信長から足軽衆であった光秀の功績に報いるために奉公衆への格上げを要請されたら、さして断る理由はないような気もします。おそらく上洛直後の義昭と信長の関係は非常に良好だったはずですからね。


義輝の遺児

小林説では義輝側室の小侍従には3人の娘と1人の息子がおり、これをすべて光秀が自分の子どもとして引き取ったとしています。その上で光秀の位置づけを義輝の遺言執行人であったとしていますが、遺言の執行人であれば義輝の息子を将軍にするのも入りそうな気がします。もちろん現将軍は義昭なのですが、義昭と信長の関係は日を追う毎に険悪化していったのは史実です。信長が義昭を将軍職として不適格とした時に、後継候補として義昭の息子の義尋もいますが、義輝の息子も有力候補になっても不思議ありません。

義輝の遺児については尾池義辰が半公認みたいな形で細川家に迎え入れられ、小林説もその存在を重く取っていますが、あまりにも知る人ぞ知るの話の気がしないでもありません。それと小林説では義輝の遺児は明智光慶であり、この人物が天王山の後の坂本落城の時に実は生き延びていたになっています。生き延びることはないとは言えませんが、小侍従の時と言い力業2回目の気が私にはします。小林説では光秀は義輝の遺児を擁していた点で信長からも幕臣からも一目置かれる地位にいたとしていますが、ここでの素朴な疑問は、

  1. 信長にとって義輝の遺児にどういう価値を認めていたか
  2. 小林説に言う幕臣の武力って、どれほどのものがあったのか

信長が義昭を持て余した後に、将軍の権威を借りての天下統一方式を変更したとする見方に賛成しています。一時は朝廷の権威を借りる方法も模索したようですが、どうも最終的には自分の権威で天下統一をしようぐらいになったと見ています。義輝の遺児の扱いは微妙で、たとえば義昭から他の人物に将軍を代えるのなら大事な人物ですが、それを光秀が抱えているのは信長にとって嬉しくない気がします。そりゃ、義輝の遺児が将軍になれば光秀が力を増すに決まっているからです。

幕臣の力が強力ならばなぜに永禄の変が起こったかを聞くのは可哀想として、光秀が幕臣の求心力として義輝の遺児を利用した可能性はあるとは思います。小林説では室町体制はまだまだしっかりしていたとしていますが、私はそうでなく、残存勢力が義輝遺児に集まって結束していたぐらいでしょうか。

書きながら義輝遺児の存在に無理があるなぁ。。。と感じた次第です。


否定はしないが・・・ちょっと

「明智光秀 = 進士藤延」説は発想の出発点として面白いところがあります。光秀も謎の多い人物で、不明のピースを仮説にそって埋めていけば説得力のあるものになっているとは思います。ただ埋め方に少々力業と飛躍が多い気がしないでもありません。少なくとも、このピースをこう埋めたら他の話がスルスルと連動する様には私には感じられませんでした。小林教授の論の立て方はしばしばそんな感じになるので、そういう説もあるぐらいにしたいところです。

個人的には光秀がやはり足軽衆であったとなっている点は気になります。小林説では永禄六年諸役人附の「明智」は光秀でなく、進士知法師としていますが、ほいじゃ明智は誰なんじゃいにまずなります。それと進士藤延から明智光秀の名前の変更は戦国期なら良くある事としていますが、なぜに進士氏から明智氏に変更する必然性があったんだろうです。光秀は後年に惟任に信長の命により姓変更をしていますが、これは中国攻略後の九州侵攻を考えた布石とする説に賛成します。

では進士から明智の意味はなんなんだろうです。どちらも美濃の豪族であり、強いて言えば進士氏は中央系の一族の末族、明智氏は土着の土岐氏の末族ぐらいです。前にやった明智系図であれば濃厚な姻戚関係ありとなっていますが、進士から明智に変えることにより幕臣より織田家の方に強く属している意思表示ぐらいなんでしょうか。滅亡状態の正室帰蝶の明智の名跡を継がせたはあるかもしれません。ただ京都外交を担当させるのであれば進士の方が良い気がします。京都では明智と進士の値打ちはかなり違う気がするからです。

やはり素直に永禄六年諸役人附の「明智」は光秀で良い気がします。そうでないと頑張るより、そうであったと解釈する方が自然だからです。つうか信長が光秀に京都外交を担当させるために姓名変更を命じたのならまったく逆で、明智光秀を進士藤延とする方が有用とどうしても思えます。京都では無名に近い明智にわざわざ変更する意味を見つけるのが大変ぐらいです。

ツヨシツヨシ 2017/02/16 02:19 丁寧な返信有難うございます。
同感してしまいます。
信長の立場なら進士氏から明智氏に姓を替える理由が無いとの事ですが私も思いました。
信長が改姓させたのではなく進士藤延自らが小侍従や子ども達を匿う為に自分は死んだ事にして改姓をしたのではと自分は考えています。
進士氏は中央(京都府と本貫地の静岡県)では武士としては消滅(帰農)して次男の進士作左衛門系が明智光秀の家臣となり武家進士氏が伊勢国で勢力を増して存続したのが実情だと思っています。
三重県の進士氏は明智光秀の死後に進士作左衛門の傍系が帰農していると考えています。
福井県の進士氏は進士作左衛門の直系子孫だろうと考えています。
進士氏の現在の分布を調べたら小林氏の学説が正しいと思えた次第です。
一般論では小侍従や子どもは死んだと足軽の明智が明智光秀だが正論だと私も思いますが小侍従と子どもが生きていたとの少しの可能性があるのかなと感じ調べてみる価値があると感じた次第です。

YosyanYosyan 2017/02/16 08:16 ツヨシ様

面白いムックネタの提供ありがとうございました。読めばお分かりの通り、光秀ムックは延々と「8」まで続いています。光秀のとくに信長仕官前の記録は非常に乏しく、一般に知られている話の殆どは明智軍記などのかなり後世に書かれたものがネタモトになっているようです。細川家記でさえそうです。つまりは「わからない」です。逆に言えばわからないので色々想像を膨らませることが出来ます。小林説もその一つと思っていますし、完全否定はできません。

小侍従とその子どもが生き残っていて進士藤延が保護していた可能性はゼロではありませんが、小林説よりもうちょっとスケールが小さかった可能性はありそうに感じています。光秀の下に旧幕臣が集まっていたのは史実ですが、進士氏もまたそうであっただけです。これじゃわかりにくいですが、義輝の遺児の保護を光秀に頼ったんじゃなかろうかです。既に義昭時代になっており、義輝の遺児の存在は好ましいと言うより、危険であった可能性もあるからです。だから幕臣が集まっている光秀(つうか藤孝経由かもしれません)を頼って保護を求めたぐらいです。そういう経緯は進士氏と光秀の間に特殊な関係となったと。そう信長と光秀ではなく、光秀と進士氏の関係が特殊であったとの見方です。小林説の延長で言えば、進士に頼まれて義輝遺児を保護しているので光秀の下に旧幕臣が集まりやすくなったぐらいでしょうか。

そういう見方の傍証として義輝遺児の存在はあくまでも知る人ぞ知るレベルのお話で、当時の政治ではまったくと言ってよいほど出てきません。小林説で引っかかるのは進士藤延を光秀にしてしまう点で、そうじゃなく義輝遺児の生存の可能性の探求とすれば説得力がありそうな気はします。もちろんこれは私の見方であって、歴史の真相は誰もわかりません。

小林説への反論を一つだけ。進士藤延を進士知法師としていますが、永禄名簿に明智はあっても進士はありません。もうちょっと言えば進士知法師は義輝時代の奉公衆で義昭の名簿にはありません。何が言いたいかですが、足軽衆の明智が光秀でなかったのなら、奉公衆に進士藤延の該当者がいない点が少々不自然です。義昭の奉公衆に進士藤延が存在しないのなら、金ヶ崎時代の義昭の家臣でなかった事になり信長への接触は義昭経由ではなく別筋になります。ありえるのは永禄の変で美濃に落ち延びて信長に仕官したになりますが、その辺の説明はどうされてはるか・・・本まで買って読まなきゃあかんのかなぁ?

ツヨシツヨシ 2017/02/25 20:07 回答有難うございます。
本を読んでますが、進士知法師は進士藤延が還俗した名前で義昭の家臣です。
進士藤延は義輝の家臣です。
経緯は簡単で、本を読めば書いてあるので疑問も解決します。
足軽衆の明智は誰なんだの疑問は読んでも疑問が残ります。
私はこれが正しいとの思いではなく可能性が高いのかと思うだけであります。
小林説で真相は解明された訳ではなく検証する事が山程あると思います。
美濃進士は恐らく偽りです。
進士は伊豆国が本拠地で6割の進士さんが現在も住んでいます。
奉公衆となり京都に本流が移り義輝失脚で本流は南丹市に集落有り、一部が菊川市と掛川市に移る。
明智光秀の家臣で進士氏の支流である進士作左衛門系が伊勢国に移住して現在は2番目に進士さんが多く住んでいる。
山崎の合戦で進士作左衛門の本流が加賀国に移住後に福井県に定住し十数家規模の集落があります。
現在美濃に進士は一人といませんし所領も得た事実さえありません。
進士氏を明智氏に変えた根拠がはっきりしました。
美濃衆をまとめる為に進士から明智に変えたのだと思われます。

ツヨシツヨシ 2017/02/26 05:12 進士氏について根拠とされる宮城家系図に書いてある内容で明智氏の部分は妻木氏を基に書かれているのだと思われます。そもそも進士氏は美濃に存在する筈がなく当然に美濃山岸氏となんら関係が無いのですが美濃衆との関係で無理矢理山岸氏を繋げたのだと思われます。一番重要な点が明智光秀は進士氏であると後世に伝える為に作成された系図だと言わざるを得ません。
宮城家系図が本物の妻木氏と本物の山岸氏と本物の進士氏を偽物の明智氏に繋ぎ合わせたので内容そのものは貴重な資料だが嘘も沢山書かれている悪書となり現在一般的な評価が良くないのだと思われます。

YosyanYosyan 2017/02/26 10:36 ツヨシ様

 >一番重要な点が明智光秀は進士氏であると後世に伝える為に作成された系図だと言わざるを得ません

なるほど鋭い。

山岸氏が本当に進士氏を名乗った事があるのかどうかの確認は私の手では無理です。歴史研究家の宝賀寿男氏の調査では「名乗った事もある」とはなっていますが、これから先は不明です。それでも日常的には山岸氏であったと見て良さそうです。

実は宮城系図で残っている謎の一つに、なぜにあれほど濃い血縁関係を進士氏(山岸氏)と明智氏の間に創作したのだろうかです。これが光秀が進士氏の血が濃い人間であることの強調と考えれば少し納得がいきます。宮城系図でも最初は山岸氏であったのが、途中から進士氏を強調しています。これは狙いが、

 1.山岸氏とは進士氏である
 2.進士氏とは京都のあの進士氏の一族である

熊本の土岐系図なんてもっとモロで、進士晴舎の子どもが光秀としていたはずです。これはそれほど光秀と進士氏を接続したいという意図があったとしか思えません。問題はそういう意図があったとして、何故に系図製作者は光秀と進士氏をそれほど結び付けたがったのかになります。小林説の通り、元が進士藤延であった光秀が明智を名乗り、旧明智の一族の求心力になるためであったは一つのストーリーかと思います。

ただなんですが基本的な謎は進士藤延のままでエエじゃないかはあります。名前を変えたところで京都では奉公衆の進士藤延の顔も出自も知れており、美濃に行けば最近の話ですから「お前は誰だ?」の世界になります。どこまで行っても謎が残るので歴史は面白いですねぇ。

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2017-02-04 ピラミッドテキスト・ムック その4:218章を読む

たった第1〜第7章を読んだだけの知識でピラミッドテキストの内容をあれこれ考えるのは無理があるのですが、あえて今日は218章を読んでみます。218章を読もうと思ったのは最初にググった時に筑摩世界文学大系1古代オリエント集(杉勇・三笠宮祟仁 編訳)が見つかったのと、塚本明広氏のピラミッド・テキスト:翻訳と注解(4)にもあったからです。とりあえず見てもらいます。

ローマ字翻訳 塚本氏 筑摩版
wsjr オシリスよ おお、オシリスよ。
jj rf (W) | pn wwr r psD.t 九神を渇望するこの王はきっと来る このウナスは来る。神々を悩ますもの、不滅の魂を持つ者は。
;x jxm_sk 不滅の霊は
jp.f jb.w 彼は心を求め かれ、心臓を要求し
nHm.f k;.w 彼は力を奪い 力を奪い去り
nHb.f k;.w 彼は力を与える 力を賦与す
mtn.t.f nbt 全ての彼に従う者 かれの許すもの
Snj.t 取り巻き ことごとくをかたわらに呼び寄せ
rmnj.f n.f 彼が彼のために傍らにいる者
spr n.f 彼に訴える者 かれに訴えしものを強制す。
N Hmw.t.f nb 誰も彼から逃れ得る者はいない これを逃れうるものなし。
N t.f 彼のパンはない かれ、パンを食わず
N t k;.f 彼のカーのパンはない かれがカーもパンを食わず
Dr t.f r.f 彼には彼のパンが尽きる されど、かれのパン、かれのために果てん。
Dd=n gb pr m r; n psD.t ゲブが語り、九神の口から出る ゲブは神々の決定を述べり。
bjk m_x.t jT.f 鷹は彼が受取る時 神々は言う、「汝は獲物をとらえるときのハヤブサ、見よ、汝(オシリス)は魂を所有し、強力なり。」と。
jn.sn と彼らは言う
m kw b;.tj sxm.tj 見よ、汝は霊力を持ち力を得た
jj r.f (. ) | pn xwr r psD.t 九神を渇望するこの王はきっと来る このウナスは来る。
;x jxm_sk 不滅の魂は 神々を悩ますもの、不滅の魂を持つ者は。
zn jr.k 汝より優れる者は 汝を凌ぎ
znn jr.k 汝に似る者は 汝に似
nnj jr.k 汝より劣る者は 汝より疲れ
wrr jr.k 汝より偉大な者は 汝より大いなる者にして
w;D jr.k 汝より健やかな者は 汝より健やか
nhmhm jr.k 汝より叫ぶ者は 汝より声高く咆哮するもの
N tr.k 汝の時ではない 汝にもはや時はなし
jgr jm そこで止まる
m.k jr.t n stX Hnc DHwtj 見よセトとトトの有様を セトとトトの成せしこと(オシリス殺害)を見よ。
sn.wj.k jxm.w rmj Tw 汝の二人の兄弟は御身を嘆く術を知らない 汝の二人の弟、汝を悼むすべを知らざりしもの。
;s.t Hnc nb.t Hw.t イシスとネフチェスよ おお、イシスよ、ネフティスよ
jnq jr.Tn 汝ら集まれ 我とともに来たれ
jnq jr.Tn 汝ら集まれ 共に来たれ
jcb jr.Tn 汝ら集え 合一せよ
jcb jr.Tn 汝ら集え 合一せよ
jj r.f (. ) | pn xwr r psD.t 九神を渇望するこの王はきっと来る 神々を悩ますもの、
;x jxm_sk 不滅の魂は 不滅の魂を持つ者は
jmntj.w jmj.w t; n (. ) | pn 地上にいる東方者達はこの王に(属す) 地上にある西の民は、このウナスがものなり
jj r.f (. ) | pn xwr r psD.t 九神を渇望するこの王はきっと来る このウナスは来たる。神々を悩ますもの、不滅の魂をもつ者は
;x jxm_sk 不滅の魂は
rs.w jmj.w t; n (. ) | pn 地上にいる南方者達はこの王に(属す) この地上にある東の民は、このウナスがものなり
jj r.f (. ) | pn xwr r psD.t 九神を渇望するこの王はきっと来る このウナスは来たる。神々を悩ますもの、不滅の魂をもつ者は
;x jxm_sk 不滅の魂は
mHtj.w jmj.W t; n (. ) | pn 地上にいる北方者達はこの王に(属す) 地上にある北の民は、このウナスがものなり
jj r.f (. ) | pn xwr r psD.t 九神を渇望するこの王はきっと来る このウナスは来たる。神々を悩ますもの、不滅の魂をもつ者は
;x jxm_sk 不滅の魂は
jmj.w nn.t n (. ) | pn 冥界にある者はこの王に(属す) 下天(冥界にある、もう一つの天)の下にあるものどもは、このウナスがものなり
jj r.f (. ) | pn xwr r psD.t 九神を渇望するこの王はきっと来る このウナスは来たる。神々を悩ますもの、不滅の魂をもつ者は
;x jxm_sk 不滅の魂は

塚本版も筑摩版も内容的にはよく似ています。おそらく逐語訳としては塚本版の方が厳格なのでしょうが、素直な感想として

    日本語として大変読みにくい

さらっと読んでも何が書かれているかピンと来ないってところです。ただローマ字翻訳を解読する能力は無に等しいので、邦訳から解読法を考えてみます。まずまず全体から浮いていると感じるのは文頭です。「wsjr」はオシリスの事で間違いではないのですが、塚本版も筑摩版もここをオシリスへの呼びかけととらえています。一方でオシリスが出てくるのは文頭だけです。それと章全体の内容からして文頭にオシリスが出てくる意味が非常にわかりにくいところがあります。

オシリスは前回のムックで死者からの復活をピラミッドテキストでは司っている気配がありそうとしましたが、218章ではウナスは生者への復活を語られているとは思いにくいところがあります。具体的にはカーにパンを食べさせる云々のところで、カーは食べることにより生を維持される考え方があり、そのパンが不要になったということはウナスの死後の事を語っていると見るのが自然です。文頭はオシリスと「jj rf (W) | pn wwr r psD.t」がありますが、ここはオシリスへの単なる呼びかけではなくオシリスである「wsjr」が「jj rf (W) | pn wwr r psD.t」にかかっていると考える方が読みやすくなる気がします。具体的には

    「wsjr」たる「jj rf (W) | pn wwr r psD.t」

「jj rf (W) | pn wwr r psD.t」の翻訳も筑摩版では(W)から素直にウナス王とし、塚本版では「九神を渇望するこの王」としています。塚本版でもウナス王であることは否定しないと思いますが、逐語訳に厳格な塚本版であえてウナス王の言葉を省略したのは少し気になります。もう一つの相違点ですがウナス王の表現が、

    塚本版:九神を渇望する者
    筑摩版:神々を悩ますもの

微妙に違います。邦語訳を合わせ技で読むとウナスは九神になろうとし、九神になろうとするウナスは九神にとって悩ましい存在ぐらいに受け取れない事もありません。ここはもうちょっと広く考えたいところで、古代エジプトではファラオは神の子です。第1〜第7章のテティ王の話を読む限り、神の子であるファラオはオシリスの分身または化身として現世に存在しており、死後にオシリスと同一化して復活できるのも神の子であるファラオに限られるとなっています。

218章ではウナス王がとにかく来るのですが、どうもなんですがオシリスの化身であるファラオでもオシリスと同一化するには最終審判が必要ぐらいであったとみたいところです。ファラオは一人ですが、死者となったファラオを何年に1回審判するのはメンドクサイぐらいのニュアンスがありそうと感じた次第です。メンドクサイは言い過ぎとしても、九神にとっても「悩む」ぐらい大変な作業であったぐらいじゃないかと感じた次第です。


もちろんウナスは神になるのですが、意味が微妙な個所があります。ここは塚本版にしますが、

見よセトとトトの有様を
汝の二人の兄弟は御身を嘆く術を知らない

汝はウナス王のはずですが、二人の兄弟としてセトとトトが挙げられており、つまりは「オシリス = ウナス」になります。さてオシリス神話ではセトが兄のオシリスを暗殺するのですが、ピラミッドテキストではトトもまたオシリスの兄弟であり、なおかつセトとともにオシリス暗殺に加担したとなっているようです。トト神も複雑な性格をもつ神なのですが、ピラミッドテキストではオシリスの兄弟、即ちゲブとヌトの息子になっています。

ただそうなった時に九神は誰になるのだろうの疑問が出てきます。オシリス兄弟の父母であるゲブとヌト、さらにゲブとヌトを産んだシュウとテフネトの4神は入りそうです。オシリスは当然ですし、イシスもネフティスも入ればこれで7神です。ここにセトとトトが入れば9神ですが、そうすればアトゥムが入らなくなります。この点を考える時に、これ筑摩版にしますが、

おお、イシスよ、ネフティスよ
我とともに来たれ
共に来たれ
合一せよ
合一せよ

塚本版では「集え」になっていたのでわかりにくかったのですが、オシリスと同一化したウナスはイシスとネフチェスとも同一化するようになっています。類似の表現は第1から第9章のテティ王のところにもありましたが、オシリス神話自体がピラミッドテキストでは通説と少し違うのかもしれません。オシリス神話自体は古代ギリシャで成立したとされ、通説ではオシリスの妻はイシスであり、ネフチェスはセトの妻となっています。ただオシリス神話自体はエジプトにはないようで、あるのはオシリスを暗殺したのはセトであるだけと見れる気がします。もう少しいえばネフチェスはセトの妻ではなく、オシリスの妻ないし愛人だったんじゃなかろうかです。

そっか、そっかこう考えれば筋は通ります。

  1. オシリス、イシス、セト、ネフチェス、トトは兄弟であった
  2. オシリスはセトとトトにより暗殺された
  3. セトとネフチェスは夫婦ではなく、ネフチェスはオシリスの妻もしくは愛人であった
  4. 九神を数える時にはオシリスを暗殺したセトとトトは除外され、その代わりにホルス(オシリスとイシスの子、もしくはオシリスの兄弟という伝承もある)が入る

ピラミッドテキストの世界ではオシリスと結ばれるのはイシスとネフチェスが当然であるぐらいの神話であった気がします。


後段で地平と冥界を「ウナス = オシリス」が支配する話もテティ王のところと類似しています。たぶんですが、こういう表現は全世界と同義語の表現であって、日本なら北は北海道から南は沖縄までと同じぐらいに考えています。218章ではホルスが出てきませんが、神話上はオシリスが殺害された後に地上と冥界を支配したのはホルスであったはずですから、ホルスとも同一化しているのかもしれません。いや・・・違うかもしれません。ウナスが来て神々が悩んだのは何故かを考えるべきなのかもしれません。

塚本版では「ウナス = オシリス」は九神を渇望する者となっています。これはもっとダイレクトな意味で、九神のうちの誰と誰がウナスと同一化するかで神々は悩んだんじゃなかろうかです。神々の下した判断は

  1. 元からウナスはオシリスの化身だからオシリス
  2. オシリスの妻であったイシスとネフチェス
  3. 地平と冥界の支配者であったホルス

こういう決定を下したんじゃなかろうかです。つまり「九神を渇望する」とは、多くの神との同一化を望むことを意味している気がします。ほいでもって、これも慣例と言うか教義としてファラオが同一化するのは4神であったぐらいをピラミッドテキストは記している気がします。

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2017-02-03 ピラミッドテキスト・ムック その3:とりあえず読んでいく

塚本明広氏のピラミッド・テキスト:翻訳と注解(1)からのすべて引用です。

ゼーテの章分類 ローマ字翻訳 邦訳
第1章 Dd_mdw jn nw.t ;x.t wr.t 恵み深く大いなるヌトによる呪文
z; pw smsw (ttj) | wp X.t テティ王こそは長子、(我が)胎を開いた者
mrj.j pw Htp.n.j Hr.f 彼は私の愛する者
第2章 Dd_mdw jn gb ゲブによる呪文
z; pw (ttj) | n X.t テティ王こそは(我が)身の子
第3章 Dd_mdw jn nw.t c; Hr.t_jb Hw.t Xr.t 下宮の中央の偉大なるヌトによる呪文
z; pw (ttj) | mrj.j テティこそは私の愛する子
wtjw Hr nz.t gb ゲブの(玉)座の上の長子
Htp.n.f Hr.f 彼(ゲブ)は彼(テティ)を喜び
Dj.n.f n.f wc.t.f m_b;H psD.t c;t 大いなる九神の前で彼に相続権を与えた
nTr.w ng.w m Hccw.t Ds.sn 歓喜の中にある全ての神々は言う
nfr.wj (ttj) | 素晴らしきかなテティ
Htp jt gb Hr.f 父ゲブは彼を喜ぶ

塚本氏の論文は「翻訳と注解」としてあるだけあって注解部分に単語や読み方の説明が加えられており、これはこれで興味深いのですが、レベルが当たり前ですがヒエログラフの基礎ぐらいは知っている人を対象にしているものなので、ド素人にはほんの部分的にしか原文は読めません。そのために塚本氏の邦語訳を頼りにしたいのですが、これがまた難物。おそらく逐語訳としては厳格なのでしょうが、日本語として読むのが手強すぎるってところです。そこで私なりの解釈を加えてみたいと思います。

まず「Dd_mdw」はピラミッドテキストでは呪文だそうで、「jn」は唱えるになるそうです。ここでは「wr.t」と「;x.t」は大いなるぐらいの副詞にも形容詞にもなるのだそうです。たとえば

    Dd_mdw jn nw.t ;x.t wr.t

「nw.t」がヌト女神になるのですが、その後の「;x.t」「wr.t」は形容詞もしくは副詞的なものでとにかく大仰に褒め称える言葉のようでヌトにかかるものみたいです。塚本氏は「ヌトによる呪文」と訳されていますが、全体の文意からいうと祝福とした方が相応しい気がします。呪文と言う言葉のニュアンスが難しいのですが、何もないところに呪文をかけて無から有を発生させるというより、既にある状態を描写している感じがするからです。ただ問題なのは古代エジプトの宗教観です。

ファラオは神ぐらいは私も知っていますが、問題なのは何故にファラオは神であるかです。王が神であるという思想は天皇家が現存する日本人なら、さして抵抗なく受け入れられるものではありますが、天皇が神である理由は遥か高天原の神の直系の子孫が天皇である点に基づいているぐらいで良いかと思います。言い換えれば天皇は神の血を受け継いだ末裔だから神であるです。ファラオもそうかというと少し違う感じがします。

    z; pw smsw (ttj) | wp X.t

ttjとはテティ王の事でカルトーシュで囲まれる事で王である事を示しています。「pw」は長子を表し、「z;」もしくは「z; smsw」は男子を意味するそうで、「z;.t」になると女性形になりなり娘を意味するそうです。「X.t」は胎とか身内を意味するようで、「wp」はどうやら開いた者ぐらいみたいです。この「wp」なんですが産むは「ms」ないし「msj」のようなので、ヌトが産んだという意味ではなく、テティがヌトの胎内から産み出たぐらいに取る方が良さそうです。

神が人間の女性と結ばれ神との合いの子を産む神話はギリシャ神話であったと思います。そんなゼウスの浮気を嫉妬したヘラが怒って、神との合いの子であるにもかかわらず数奇な運命をたどるパターンです。日本神話にあったかどうかは思い出せませんが、スサノオ櫛名田比売を妻にしたのがある意味該当するのかもしれません。しかしピラミッドテキストの世界はかなり様相が違うようです。テティはヌト女神から産まれ出たと書かれています。これが第1章なんですが第2章では

    Dd_mdw jn gb

「gb」がゲブ神であり、大地の神であり、天空の神であるヌト女神の夫になります。第1章をヌト女神による祝福とするならば、第2章はゲブ神による祝福と読むのが素直だと思われます。

    z; pw (ttj) | n X.t

この構文は直訳するとテティは我が肉親になると塚本氏はしています。まあヌトは女神ですから直接産んでの肉親ですが、ゲブは男神ですから表現が違うぐらいで良いでしょう。ゲブは男親としての祝福として

  • ゲブの(玉)座の上の長子
  • 大いなる九神の前で彼に相続権を与えた

原文は歯が立たないので塚本氏の邦訳のみにしますが、テティをゲブの長子と認め九神の前で相続権を与えたとしています。私が気になるのはテティがヌトとゲブの実子であるのは良いとして、現実にテティが生まれたのは母親からになります。これだけ読んだだけでは言い切れない部分があるのですが、シチュエーションとして、

  1. ゲブとヌトの子どもが母親に受胎した
  2. ゲブが人間の男親に、ヌトが人間の女親に同一化して子供を産んだ

あくまでも私の感触ですが1.の感じがします。理屈っぽく言えばヌトの胎からテティは抜け出て人間の胎に移動したぐらいの解釈です。さて大いなる九神ですが

ここに書いた神々のうち

    アトゥム、シュウ、テフネト、ゲブ、ヌト、オシリス、イシス、セト、ネフティス

これらを九神とするようですが、ここについては次回に考察を加えます。テティはゲブとヌトの長子であるとしていますが、神話上のゲブとヌトの長子はオシリスになります。ゲブとヌトの長子の座になるということは、テティがオシリスの上座に着くとも見えますが、たぶんそうではなさそうで、テティがオシリスに与えられた地位に就くでもおかしいなぁ、もっとダイレクトにテティがオシリスになるぐらいが正しそうな気がします。たぶん一番わかりにくいのが同一化って概念で、これが古代エジプト宗教の一つの特徴の様に感じます。

無理やり解釈すれば、オシリスは冥界にいるのでその分身であるテティが現世にいるというか、テティがオシリスの分身(ないし化身の方がエエかも)であることを神々が認めているというぐらいです。というのもそうでも解釈しないと次の文章の解釈が難しくなります。

ゼーテの章分類 ローマ字翻訳 邦訳
第4章 Dd_mdw jn nw.t ヌトによる呪文
(ttj) | rDj.n.j n.k sn/t.k ;s.t テティよ私は汝に汝の妹のイシスを与えた
nDr.w.s jm.k 彼女が汝を抱え
Dj.s n.k jb.k n D..t.k 彼女が汝自身の心臓を汝に与える(ように)
第5章 Dd_mdw jn nw.t ヌトによる呪文
(ttj) | rDj.n.j n.k sn/t.k mb.t_Hw.t テティよ私は汝に汝の妹のネフチェスを与えた
nDr.w.s jm.k 彼女が汝を抱え
Dj.s n.k jb.k n D..t.k 彼女が汝自身の心臓を汝に与える(ように)
第6章 Dd_mdw jn nw.t nxb.t wr.t 多産にして大いなるヌトによる呪文
mrj.j pw (ttj) | z;.j テティは我が愛する者、我が子
rDj.n.j n.f ;x.tj sxm.f jm.sn 私は彼に彼が(そこで)支配する地平を与えた
Hrw ;x.tj js 地平のホルスのように
nTr.w nb.w Dd.sn 全ての神々は言う
bw m;c pw これは真実である
mrj.T pw (ttj) | m_m ms.w.T テティこそは汝の子らの中で汝の最愛の者
stp_z; Hr.f D.t 永久に彼を守れ
第7章 Dd_mdw jn nw.t Hrt_jb Hw.t Snj.t シェニト宮中央の偉大なヌートによる呪文
z; pw (ttj) | n jb.j テティは我が心の子
rDj.n.j n.f dw;.t xht.f jm.s 私は彼に彼が(そこを)司るべき冥界を与えた
Hrw js xntj dw;t 冥界を司るホルスのように
nTr.w nb.w Dd.sn 全ての神々が言う
jw jt.T Sw rx 汝の父シューは知る
mrr.T (ttj) | r mw.t.T tfnt 汝がテティを汝の母テフヌトよりも愛することを

神話上ではオシリスとイシス、セトとネフティスは夫婦です。このうちオシリスとイシスはおしどり夫婦みたいですが、ネフティスはセトの子を欲しがりますがセトに拒否されます(神話上の理由は知りません)。そこでネフティスはオシリスと不倫してアヌビスを産む関係になります。ここは考えようですが、本音的にネフティスもオシリスを愛していたぐらいに解釈できますから、ヌトはオシリスと同一化したテティにイシスだけでなく、セトとの結婚を心配したネフティスも妻として与える寵愛を表現しているような気がします。

ここも次回で考察を加えますが、とにかくピラミッドテキストの世界ではオシリス・イシス・ネフティスはある意味セットになります。ほいでもって地平とは現世世界であり、冥界はあの世ですが、オシリスの子であるホルスは父であるオシリスを暗殺したセトを倒し地上の王となり、さらに死後は冥界にも君臨するのが神話だったはずです。エジプト神話はその時々に崇拝される神によって神話での役割が変遷する気配がありますが、ここまで読んだピラミッドテキストでは「どうも」なんですが、

  • ホルスは冥界の支配者
  • オシリスは復活の神

これぐらいになっている気がします。ヌト女神はテティに地上と冥界の支配権をホルスと同様(つうか同一化でしょうねぇ)に与えたぐらいに解釈しても良い気がします。さてさてテティがオシリスの化身であるのは、オシリスと同一化することにより現世への復活を意味していると思いますが、そうなればファラオは必ずゲブとヌトの息子である必要が生じます。少なくともピラミッドテキストの世界ではそうなっている必要があると推測するのですが、これは次回以降に出てくるかどうかで検証する予定です。


ここまでの感想

たった7章読んだだけ(相当へばりました)で何か言うのは無理がアリアリなのですが、漠然と思い浮かべたのはイエスです。まず受胎ですがギリシャ神話系の神が人と交わるではなく、神が直接イエスをマリアの胎内に宿らせたとなっています。ここはチト強引ですが、ユダヤ教は一神教ですから夫婦神の存在がないので単為生殖になっていますが、古代エジプトは多神教であり夫婦神もその子どもの神も普通にいますから、有性生殖になっているだけと見れない事もありません。。

受胎のエピソードの類似性は強引かもしれませんが、死から復活のエピソード、さらには死後の神とイエスの関係はピラミッドテキストに似ている気がしています。まずまずイエスが復活できたのは神の子であったからで良いと思います。これは古代エジプトで復活できるのは神の分身であるファラオに限られていたのと類似しています。もっと気になるのは復活後で、イエスと神(と聖霊)の関係は三位一体説で定義されるとなっていますが、簡便にwikipediaより、

  • 三位一体論が難解であることはキリスト教会においても前提となっている。
  • 正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。
  • カトリック教会においても、神は自身が三位一体である事を啓示・暗示してきたが、神自身が三位一体であることは理性のみでは知り得ないだけでなく、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰でも知り得なかった神秘であるとされる。

三位一体説は高校ぐらいの歴史教科書にも出てくるぐらい有名なものではありますが、その実態の説明は相当でないレベルで難しいとなっています。なにしろ

上述の諸教会において、三位一体は、「三神」(三つの神々)ではない。また「父と子と聖霊は、神の三つの様式でしかない」「神が三役をしている」といった考え(様態論)も否定される。

私のような多神教徒では神学的真意は永久に理解できないにしろ、姿形は違えどもすべては同じ神であるの考え方自体はそれほど抵抗なく受け入れられます。これは古代エジプトにおいても、ファラオはオシリスであり、オシリスは冥界に住み、ファラオは死後にオシリスと同一化すると説明されても「そんなもんだ」であんまり無理なく受け入れられた気がします。つうか三位一体説は唯一神は分割されない絶対の前提が神学としてあるため、単純に説明できる分身や化身を完全否定しているので話が難解になっている気がしないでもありません。

前にも書きましたが、聖書に出エジプト記が残されているぐらいユダヤ民族はエジプトに長期間住んでいたわけで、古代エジプトの宗教観に影響を受けなかったとする方が不自然です。完全な外野からすると、古代エジプトではファラオにのみ許されていたオシリスとの同一化、さらにはそこからの復活の宗教観を反映させていた気がどうしてもします。まあ宗教論を書くともめ事の火種になるので与太話はこの辺にしておきます。

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2017-02-02 ピラミッドテキスト・ムック その2:テキストの基礎知識

私はピラミッドテキスト自体も、ごくごく最近その存在を知った程度のものですのでピラミッドテキスト自体の基礎編です。


何が書いてあるか?

ピラミッド・テキストはヒエログラフで書かれており、ヒエログラフ自体はシャンポリオンの成果もあり、現在ではかなりのレベルで解読可能のはずです。ですからピラミッドテキスト自体の翻訳文はあります。もちろん私はヒエログラフなんて読めもしませんので、さらにこれを邦訳したものを読んでいるのに過ぎないのですが、相当どころではない難解さです。ピラミッドテキストに書かれている内容は研究者によると

  1. 葬祭儀礼と墓前での供養物に関する祭儀
  2. 呪文
  3. 古祭式
  4. 最古の宗教讃歌
  5. 古神話の断片
  6. 故王のための祈祷と誓願

これらがビッシリ書かれているのは間違いないのですが、これが前後左右の文章に素直につながらないので研究者は悪戦苦闘しているぐらいでしょうか。それでも現在は研究の成果として、

  1. 仮死状態の王がヌト女神の胎内を意味する棺から抜け出し、冥界を意味する玄室を徘徊し、地平を意味する前室を通り、日の出を意味する通廊を抜け天に昇るために書かれている
  2. 1.の説とはまったく逆で葬儀用に書かれている

真逆の説が有力とは大したものですが、ピラミッドテキストの配置はある種の呪文空間を出現させているぐらいの見解が有力で、それこそ壁の対面の文章の関係とか、書かれている場所による意味、また部屋の宗教的意義で解いていこうとするのが主流らしいです。この考え方は判りやすい部分があって、無理やりたとえれば耳なし芳一の話や、陰陽師が悪霊の侵入を防ぐために家屋敷の随所に結界を張るみたいな状態でも想像すれば良さそうですが、その代りに後世の人間が読み解くのは非常な困難を極めているぐらいです。


さて古代エジプト人の死後世界を語るには知識が乏しすぎるのですが、まず死とはカー(精神)が体から離れることによって起こると信じられていたようです。ここら辺がややこしいのですが、カーは精神であって魂ではなく魂はバーになります。カーが身体から離れると死を意味するのですが、この時に葬祭儀礼によりバーも体から離すことが重要であったようです。体から離れたカーとバーは再結合してアクを復活させるとされています。アクってなんじゃらホイになるのですが、いくつか解釈はあるようですが復活後のアクは正しい死者みたいな感じでそんなに間違っていないようです。wikipediaより、

エジプト人たちは来世を通常の身体的な存在とかなり似たものと想像していたが、そこには違いもあった。この新しい存在のモデルは太陽の行程であった。夜には太陽はドゥアト(冥界)へと下る。そこで太陽はミイラとなったオシリスの体に会う。オシリスと太陽は互いによって再びエネルギーを得て、次の日の新しい生へと立ち上がる。死者にとっては、その体と墓は自分にとってのオシリスとドゥアトなのであった。この理由から、これらはしばしば「オシリス」と呼ばれた。

これを読んですぐ理解出来たらたいしたものですが、太陽(神ではなく太陽そのもなのかなな?)は日が沈むと冥界に入ると考えられていたようです。そこで太陽はオシリス神(ミイラの外見)に出会ってパワーを再充填し、翌朝には昇ってくるというのが基本のようです。これと同様に死者もアクとして存在するのですが、夜になれば墓所に戻り、自分のミイラからパワーを再充填してもらうぐらいでしょうか。墓所が冥界であり、自分のミイラがオシリス神ぐらいってところ良さそうなのですが、アクのうち王族のアクは墓所でエネルギー充填をするのではなくwikipediaより

完全なアクは星辰として現れるとも考えられていた。末期時代になるまでは、太陽神との一体化は王族のみのもので、王族以外のエジプト人は太陽神と一体化するとは考えられていなかった。

王族のアクは神になると考えられていたようです。泥縄式なんで怪しいところが満載なのですが、どうも古代エジプトの宗教観に「同一化」が結構なポイントの様な気がします。ピラミッド・テキストはファラオが死後に完全なアクになり、神と同一化するために必要な呪文や儀式を散りばめてあるぐらいの見方が今は有力みたいです。


ゼーテの分類

塚本明広氏のピラミッド・テキスト:翻訳と注解(1)より、

PTは、彼以前の研究を集大成したゼーテにより、内容に基づく並行本文一覧という観点から編集し直されたされた際、章t(Spruch/chapitre/utterance,spell等)と節(Abschnitt,Paragraph/paragraphe/chapter,section)に分けられ、昨はさらに行(Stuck/verset等)に分けられた。その結果、章数にして714章、節数にして2217節に達した。これは壁面の縦書き刻文の行立てを反映しない。要するに全く無関係である。

PTとはpyramid textの事なのですが、ゼーテはウナス王以外にピラミッド・テキストは見つからないと考えていたようですが、その後に4人の王と3人の王妃から見つかったために比較検討が可能になっています。そのためゼーテの章分類は何人もの研究者によって改訂が試みられたようですが、結局のところ現在でも標準とされる決定版はないそうで、ゼーテの章分類を基礎に分類が行われているのが実情だそうです。つまりは第1章が始まりというわけでもなく、第2章が第1章の続きとも必ずしも言えないだけでなく、

    壁面の縦出き刻文の行立てを反映しない。要するに全く無関係である。

素直に受け取ると壁面のあちこちに書かれているヒエログラフを内容でかき集めて章にしたのがゼーテの分類になります。なんか無理がありそうな気がしますが、いまなおピラミッドテキストの研究者がゼーテの分類を高く評価している点からすると、こうでもしないとピラミッドテキストは手も付けられないぐらい難解であると理解して良さそうです。こんな難しい部分は私では手も付けようがないので、ゼーテの分類で私もピラミッド・テキストを読んでいくことにします。

JSJJSJ 2017/02/02 12:57 昔、「ピラミッドはなぜつくられたか」(高津 道昭 著)という本を読んで感銘を受けました。
その本で主張されていたのは、古代エジプトのピラミッド(群)の本来の目的はナイルの洪水は妨げずにその流路を砂漠の東部に安定させるための壮大な治水工事だった、というものでした。
その説を受け入れるならば、ピラミッドテキストの配置が難解なのは、そもそも配置の仕方には意味がないから、というのもありかと思いました。

YosyanYosyan 2017/02/02 17:43 JSJ様

高津道昭氏という人の説だったんですか。他の人がピラミッドは山の暗喩であり、山でもってナイルの氾濫を制御する装置であるとの説を挙げていたのですが、モトダネは高津氏っぽいですねぇ。ピラミッド、とくに大ピラミッドががなんのために建てられたかは様々に説が挙げられていますが、私はごく素直に墓と考えています。古代の方がこの手のものが信じられないぐらい巨大化するのは日本でも伝仁徳天皇稜や伝応神天皇稜がそうですし、奈良の大仏も該当しそうな気がします。

ただ墓の概念が少し変わっているとは思っています。現在の日本では墓とは埋葬地なのですが、古代エジプトの死生観では死とは死後の世界(冥界)で次なる人生を送るぐらいの意味になりそうです。これも地獄極楽と類似していますが、地獄や極楽に行くのは霊とか魂であって死体自体にはそんなに重きを置いていない気がします。

まだまだ浅い理解ですが、古代エジプトではミイラとなった死体にも大きな意味を持たせています。死後の世界の暮らしはミイラとセットで考えられ、ミイラを安置する墓も死後の世界の家みたいなニュアンスがありそうに感じています。この辺はエジプトのミイラは秘術によって出来上がったものではなく、普通に埋葬すればミイラになりやすい環境だと聞いたことがあります。古代エジプト人は死体がミイラになる事を知り、そこになんらかの神秘を感じたのが死生観とか宗教の始まりの様に考えています。

ほいじゃなぜにピラミッドが四角錐になったかですが、古代エジプト人の好みにあっていたぐらいしか言いようがありません。何故に日本の古墳が前方後円墳なのかを明快に説明できないのと似たようなものぐらいです。どこかで一度出来上がった形は「形式」として延々と受け継がれる事例はいくらでもあります。ピラミッドが作られた理由に関しては、今回のムックの目的ではありませんから、これぐらいで。

 >そもそも配置の仕方には意味がない

それも説ですが、私はカンニングペーパーじゃないかとも考えています。正しくファラオが神と同一化するためには複雑な呪文が時に応じて必要ぐらいがあって、それを正しく使えないと神になれない事があるぐらいです。この手のものは複雑化する傾向がありますから、ウナス王がそれを覚えるのに悲鳴をあげたぐらいです。覚えきれないというか、忘れないようにするために、必要な個所に必要な呪文を刻み付けたぐらいです。

ほいでもって必要な呪文だけであれば後世でも理解しやすかったんでしょうが、必要な呪文以外に呪文を強化する呪文や「その他」を隙間にビッシリ刻み込んだので解読にてこずっているぐらいです。とにかく邦語訳を読むだけでも悲鳴を上げています。

BugsyBugsy 2017/02/02 23:42 ピラミッド の工事は公共工事ではありませんかね。王室に溜め込んだ内部留保を国民に還元するといってピラミッドの工事に当てるのです。タダじゃ労務人口が削られるだけで良質な納税人口減るだけで、社会不安になるでしょう。

YosyanYosyan 2017/02/03 08:08 Bugsy様

公共工事というか国家事業であるのは確実と思います。現在の見方では第4王朝でギザの三大ピラミッドを作ったために中央政府の財政が疲弊し、第5王朝からは日干し煉瓦主体になったと見られています。また古王国が第6王朝で終焉したのは地方豪族が力を付け、中央政府の統制が利かなくなったからとも見られています。無理やりたとえれば、室町幕府の終りみたいな状況になっていたぐらいを想像しています。

 >タダじゃ労務人口が削られるだけで良質な納税人口減るだけで、社会不安になるでしょう。

タダじゃなかったらしいと最近の研究ではなっていますが、当時は通貨がなかったのですべて現物支給であったと見て良さそうです。それこそパンとビールと玉ねぎと肉でしょうか。衣服の支給もあったかもしれません。それと工事は基本的に農閑期に行われていたとなっています。そこで農閑期のための公共工事という見方もあるぐらいです。今でいう出稼ぎみたいなものでしょうか。

日本でも古代に大工事が行われています。言うまでもなく大古墳の築造です。古代日本の経済規模からして古代エジプト以上の大負担になったはずです。しかしそれで大和王権が経済的に困窮した話をあまり聞いたことがありません。これは当時的には労働者の優遇であっても、食べさせて、衣服を支給する程度ですから、後世に較べると話にならないほど安価だったんじゃないかと想像しています。古代エジプトの税まで調べていませんが、通貨が無ければ農作物になり、農作物は貯めこんでいたら劣化しますからピラミッド工事に費消してもさして問題にならかった可能性です。つうか他に使い道が少なかったとも見れるんじゃなかろうかです。

労働者への給金が極端に安くてもOKだった時代は、日本なら安土桃山時代ぐらいまであった気がしています。信長は安土城を築き、秀吉は大坂城や聚楽第を築いていますが、信長も秀吉も財政に苦しんだ話をあまり聞きません。人件費に苦しみだしたのは江戸期に入ってからで、大坂城天守閣だけではなく、江戸城天守閣も再建されていません。これは幕府の財政事情の悪化で説明されますが、その悪化の背景に人件費の高騰もある気がします。信長や秀吉時代の規模の工事を江戸期にやろうとすれば何倍どころか、何十倍も人件費が必要になっていたぐらいです。

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